アンクルKの他愛もない話

人形劇・影絵劇の台本 BGMを操作しながらナレーター気分になってお楽しみ下さい。

『幸福(しあわせ)』 島崎藤村

 

dddd 「しあわせ」がいろいろな(いえ)へたずねていきました。だれでもしあわせのほしくない(ひと)はありませんから、どこの(いえ)をたずねましても、みんな大よろこびでむかえてくれるにちがいありません。けれども、それでは人の(こころ)がよくわかりません。

そこで「しあわせ」は(まず)しい(まず)しい、こじきのようななりをしました。だれか()いたら、じぶんは「しあわせ」といわずに「びんぼう」だというつもりでした。そんな(まず)しいなりをしていても、それでもじぶんをよくむかえてくれる(ひと)がありましたら、そのひとのところへしあわせを()けておいてくるつもりでした。

この「しあわせ」が、いろいろな(いえ)へたずねていきますと、(いぬ)()ってある(いえ)がありました。その家のまえへいって「しあわせ」が()ちました。そこの(いえ)の人は、「しあわせ」がきたとは()りませんから、(まず)しい(まず)しい、こじきのようなものが(いえ)のまえにいるのを()

「おまえさんはだれですか。」とたずねました。

「わたしは『びんぼう』でございます。」

「ああ、『びんぼう』か。『びんぼう』は、うちじゃおことわりだ。」と、そこの(いえ)の人は、

戸をぴしゃんとしめてしまいました。おまけに、そこの(いえ)に飼ってある(いぬ)が、おそろしい(こえ)でおいたてるようになきました。

「しあわせ」は、さっそくごめんをこうむりまして、こんどは、にわとりの()ってある(いえ)のまえへいって()ちました。

そこの(いえ)のひとも「しあわせ」がきたとは()らなかったとみえて、いやなものでも(いえ)のまえに()ったように顔をしかめて」、

「おまえさんはだれですか。」とたずねました。

「わたしは『びんぼう』でございます。」

「ああ、『びんぼう』か。『びんぼう』は、うちじゃたくさんだ。」と、そこの(いえ)のひとはふか

いためいきをつきました。それから飼ってあるにわとりに()をつけました。(まず)しい(まず)しい、こじきのようなものがきて、にわとりをぬすんでいきはしないかと(おも)ったのでしょう。

「コッ、コッ、コッ、コッ。」と、そこの(いえ)のにわとりは用心(ようじん)ぶかい(こえ)をだしてなきました。

「しあわせ」は、またそこの(いえ)でもごめんをこうむりまして、こんどはうさぎの()ってある(いえ)のまえへいって()ちました。

「おまえさんはだれですか。」

「わたしは『びんぼう』でございます。」

「ああ、『びんぼう』か。」といいましたが、そこの(いえ)の人がでて()ると、(まず)しい(まず)しい、こじきのようなものがおもてに()っていました。

そこの家の人も「しあわせ」がきたとは()らないようでしたが、なさけというものがあるとみえて、台所のほうから、おむすびを一つにぎってきて、

「さあ、これをおあがり。」といって、くれました

そこの(いえ)の人は、黄色(きいろ)いたくあんのおこうこうまでおむすびにそえてくれました。

「グウ、グウ、グウ、グウ。」と、うさぎは(たか)いいびきをかいて、さもたのしそうにひるねをしていました。

「しあわせ」には、そこの(いえ)の人のこころがよくわかりました。おむすび一つ、たくあん一()れにも、(ひと)の心の(おく)は知れるものです。それをうれしく(おも)いまして、そのうさぎの()ってある(いえ)へしあわせを()けておいてきました。

 挿絵:市川 禎男 

 

dfdddアンクルKのつぶやき

明治時代の新聞にはフリガナがふられていたそうな。

新聞を読むということが、一家の主人のステータスだったのだ。

識字率という点では世界でも突出していたのではないかと思う。

浮世絵の画像を集めている時に知ったのだが、江戸時代の寺子屋はかなりレベルが高かかったらしい。

各町ごとに競い合って優秀な人材を揃えたのだそうな。TVドラマにあるいような、素浪人が片手間にするようなものではなかったらしい。 

 

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