祝「佐渡島(さど)の金山」世界文化遺産登録
佐渡奉行所址にあった旧相川町立相川中学校
上の3枚の写真は、色あせた50数年前のプリントをスキャナで取り込み色補正したものです。
1枚目と2枚目は昭和30年頃に建てられた旧相川町立相川中学校の木造校舎とグランド、3枚目の右側の建物は旧鉱山病院で昭和27年(1952年)の佐渡鉱山大縮小により当時の相川町に払い下げられた町立相川病院です。 平成の大合併で佐渡市になってからは佐渡市立相川病院に、そして現在は医師の退職で病院の基準を満たせなくなり、佐渡市立相川診療所という名称に変わりました。 「佐渡のラピュタ」北沢浮遊選鉱場跡からの廃墟の右上に見える煙突のある白い建物が改築された現在の相川診療所の建物です。
佐渡奉行所は何度も火災による焼失と再建が繰り返されました。 安政6年(1859年)に再建され国史跡にも指定されていた奉行所の建物は、写真の相川中学校のグランドにありましたが、昭和17年(1942年)に焼失しました。 現在の佐渡奉行所は、相川中学校を移転し発掘調査の後、今世紀に入って復元されたものです。
恩賜金記念碑
判りにくいのですが3枚目の写真左端の木陰に、今は相川栄町(埋立地)の相川公園に移設されている恩賜金記念碑*1がありました。 恩賜金は、上野恩賜公園、井の頭恩賜公園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、恩賜の煙草などと同様に皇室から下賜されたお金です。
相川の金銀山は慶長6年(1601年)に発見され、江戸時代(1603~1867年)にわたって幕府の財政を支えてきました。 江戸時代の佐渡は天領(幕府の直轄地)でした。明治維新によって佐渡金山は一旦官営となりましたが、明治22年宮内省御料局*2 管轄の皇室財産に移されたのち、明治29年三菱合資会社に払い下げられることになりました。 当時地元相川では民間に払い下げられることに対し、かなりの抵抗があったようで、その見返りとして旧相川町に7万円が下賜されました。
毎年7月鉱山祭の前に、相川では恩賜金記念式典が開催されているようです。下記の恩賜金記念の歌は恩賜金記念式典で歌われていました。
恩賜金記念の歌 作詞 : 上月 喬 作曲 : 荒井 悌吾
- こがねの花よ しろがねの
花咲く山に ふもとして
その花のかに 酔(え)いきたる
わが一万(いちまん)の 里人(さとびと)よ
うたえや君の みめぐみを - 御料(ごりょう)の御山(みやま) 民(たみ)の手に
移したもうや 相川の
里にぎわしく 千代かけて
かざせとたもう みなさけの
こがねの花こそ とうとけれ
この恩賜金記念碑が建てられたのは、安政の奉行所がまだ焼失する以前の昭和5年5月だったようです。明治29年からかなりの年月を経ての建立には何か理由があったのでしょうか、今となっては知る由もありません。