延享・寛延・宝暦リンク⇒ | 東北 | 関八州・江戸 | 東海・北陸・甲信 | 近畿 | 中国 | 四国 | 九州 | 洋上 | 前ページへ |
●延享2年(1745)
●延享4年(1747)
●宝暦元年(1751)
●寛延2年(1749)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦6年(1756)
●宝暦8年(1758)
●宝暦9年(1759)
●宝暦10年(1760)
会見郡の百姓、手間の御建山(おたてやま)に一揆をおこす。
輸出伊平貝への課税を規定する。
11月29日−鳥取藩が農民の一揆計画にたいし,役人を現地へ派遣する。12月、会見(あいみ)郡
壺甕(つぼかめ)山に農民が多数集まるが、ほどなく解散する。
幕府の目付、来藩。町方人口は、鳥取1万3,125、米子5,677、倉吉2,928人。
倉吉町で大火。
8月−鳥取藩が、日野郡の鉄山の売買にたいして10分の1銀の税徴収を決める。
勘定頭安田七左衛門の改革始まる。会見郡を東・西に二分する。
3月24日−鳥取藩が,藩公用の用紙を黄色紙と定め、領内での黄色紙売買を禁止する。
米価が高騰し、藩は窮民に粥米を施す。
伯耆浜の目で大敷網漁法始まる。
在方政治刷新の27カ条々目(安田条目)を発布する。
筆頭庄屋制をしく。
2月15日−鳥取藩が、備中の者を米子での偽札使用の罪により備中三原村で捕らえ、鳥取へ連行。
8月26日、その者が自殺したため、伯耆と備中の国境に首をさらす。
米川(よねがわ)用水が境海峡まで貫通する(第四期工事)。
宝暦8年以来設置の領内目安箱15カ所となる。