学校生活子どもにとって学校は まず、病気や障害の有無に関係なく、普通日本の子どもは、一番短くて9年間、多くの人は12年間、学校に通います。大人になるまでの20年のうち、半分は学校に行くんですね。そう考えると、 学校生活って、子どもの成長にとって大きな影響を与えるということが、ハッキリしますね。 とりわけ、今、学校という場所がずいぶんと問題にされがちだなので、ひいては教育ということもすごく関心を呼ぶ分野になってきた感じがします。 病気や障害がある子どもの場合、まず小学校に入る際にある問題が起きます。それは、普通の学校に通えるかどうか? ということ。また、病気の重さによっては、入学を1年遅らせるという場合もあります。 私の小学校入学は、かれこれ20年も前のことですから、これから書く様々な問題は、必ずしも現在の心臓病の子どもの問題とはつながらないかもしれません。 私が小学校に入学するときも就学指導委員会で、「この子はどういう学校教育を受けさせるのが良いのか?」という話し合いの場が持たれたようです。 体が弱いので、入学を1年遅らせるということも考えたようですが、おじいちゃんが、「体が弱いからこそ、早いうちから学校に通わせた方が良い。この先いつ周りの子どもから遅れるか分からないのだから、 学校に行ける時に行った方がよい」と母にアドバイスしてくれたそうです。そこで、みんなと同じくめでたく、校区の普通学校に入学しました。 (荷物)小さく、(心)軽く、(いつも)楽しく 〜小学校低学年の頃 ちいちゃい小学生のSNOWは、自分で歩いて学校へ通います。大きなランドセルを背負って。今は、軽い素材のかばんだったりするのですが、25年ほど前は、堅い皮の立派なランドセルです。6年間ランドセルを背負ったのですが、それ以外の荷物を持っていくことも多い。 たとえば、絵の具セット。これは既製の箱から出して布の袋で。お裁縫セットもそう。画板にいたっては、母が特性の袋を作ってくれて、画板をまるごと袋に入れ、肩からかけられるように工夫。お習字セットは学校に置きっぱなし。考えてみると、小学校っていろいろなセットが必要なんですね。今でもそうなのか?は、わからないけれども。みんなと同じ既製のものは大きいし邪魔だしほんと困る。他の子とは違う入れ物だったりすることに、私はあまり抵抗しなかったし、自分だけ違うことには小さいころから、ある種、優越感さえ感じていたかもしれません。それはたいてい母が手作りで工夫してくれたものだったから、嫌じゃなかったし。 持ち物1つをとってみても、そういう違いを感じていたのでした。 小学校1、2年生は、担任が女の先生でした。後に修論を書く際に、この先生にお世話になるのですが、そのとき思い出お話しをした中で「男の子達がとても世話好きでやさしい子が多かった。PTAのお母さん方も気持ちの良い人ばかりで頼りになる人たちが多かった」とのこと。思い返せば、一緒に下校するのはクラスメイトの男の子でした。荷物を持ってくれたりしました。 帰宅すると疲れて、昼寝をしていたことも、当時書いていた(母に書きなさいと言われて書かされていた)日記に書かれています。 小学校を通して苦痛だったことはあまりないのですが、給食がきらいでした。牛乳を飲んだだけでおなかいっぱいになってしまうからほとんど他のものは残します。おしゃべりばっかりしてて食べるのが遅く、いつも給食が終わる時間になっても、食べていた。でも、先生は残したからといって怒るようなこともありませんでしたから、その点は感謝です。先生は、後年、「体が弱くても、引け目を感じず、何事も楽しく取り組んでくれれば良いなぁと思ってたのよ」とおっしゃってくれました。素晴らしい先生に出会えて本当に良かったと、今思い返しても感謝の涙があふれ出てきます。 先生は、私がクラスで一番背が低かったのですが、「列になって一番前を歩くのは気分的にも大変だろう」と思ったそうで、2番目にしてくれました。それに大きな意味があったかどうかは分かりませんが、ことほど左様に、さりげなく負担の軽減に心配りをしてくれていたそうです。 先生が思ってくださったとおり、初めての集団生活の中で、私は私なりに毎日楽しかったと思います。心臓疾患児がにどんなふうに過ごしたか具体的な行事を例に挙げて私の経験を書いてみます。ただし、私の場合は低学年の頃は教室が1階だったので階段の昇り降りについてはあまり問題になりませんでした。 ●体育の授業 準備運動だけいっしょにやって、あとは見学。みんな、私が心臓病であることは知っていたので、見学についてどうこうということはありませんでした。夏のプールは教室で待機。冬のスキーも教室で待機。これにもぼ〜っとしていた私は、特に悔しいとか残念と感じず、教室でたまたま待機になってしまった風邪ひきさんたちとおしゃべりしたり、本を読んだりして過ごしていました。 ●避難訓練 見落とされがちですが、私にとってはいやな行事でした。みんなと一緒になって急いでグラウンドに移動するというだけなのですが、それが一番辛い。「みんなと一緒」「急ぐ」というのが私にはとてもプレッシャー。で、先生があみ出したのは、訓練なので、私はあらかじめ保健室に待機する。そして保健の先生と一緒に早めに歩いて外に出るというものでした。これで気分的には軽くなるのですが、また一人行動が増えるので、いいような悪いような。実際に避難しなくてはいけない状況になったら、どうだったのか? たぶん次のようなことになったと思います。 ●遠足 母が自転車に私(と小さい弟)を乗せてみんなが到着するころに現地に行くか、みんなとちょっとだけ一緒にあるいて、母の自転車に乗って、遠足の団体と並走するかたちをとりました。ですから、いつも弟と母親つきの遠足で、クラスのみんなの中で弟も遊んでいたような記憶があります。ある年のこと、遠足へ行くときには母が自転車で並走して、現地に到着したら、近所だったので母は家に帰り、帰る時に迎えに来ることにしました。ですが、天気がくずれ、予定より早く帰ってくることになります。雨が近づいているからみんな急ぎ足で出発。私は到底ついていけません。そこで、担任の先生が(小柄な方だったのに)私を背負って、荷物は男の子に持ってもらって、帰ってきたことがありました。そのことも、先生は覚えていて「あの時は驚いたよね。私もあなたを負ぶって帰ったの、若かったからできたのかも(笑) 周りの子(クラスのみんな)もガンバッて帰ろうという感じだった」と。 ●運動会 お遊戯(?)だけ出ました。それもみんな駆け足で退場するところを、「無理しないで歩いてもどるように」と言われていたので、みんなが、ザーッと駆け出した後をとぼとぼ歩いて席に戻りました。クラスの子のお母さんは手を振ってくれたり声をかけてくれたりしていてそれは良いのですが、知らない父兄は「ほら、急いで!」などと掛け声をかけてくるのには、「チェッ。何にも知らないくせに」と思ったものです(^-^; 本当にサポーティブな雰囲気のクラスの中で、楽しく過ごしたというのが、小学校低学年の頃のこと。子どもが意識する最初の集団活動場面で、良い経験、楽しい雰囲気で過ごせたことは、とてもプラスになりました。しかも、それが押し付けの手助けではなく、先生は本当にさりげなく気を配ってくれたと思うし、周りの子ども達はそういう先生の姿を見て、私に対しては「みんなとおんなじで時々特別」という絶妙の接し方をしてくれたのだと思います。学級崩壊も、いじめもない、良い時代だったといえばそれまでなのかもしれませんが。今の子ども達もこのようにあって欲しいと願います。 これから先は未完成。またのお越しを…。 |