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居合道探求

居合道探求シリーズ⑭


「居合道真諦」表紙
(平井阿字齋名人蔵書)


「居合道真諦」内表紙
(「河野名人より」平井阿字齋書)

無雙直傳英信流第二十代宗家河野稔百錬先生著
「居合道真諦」に居合道の真髄を学ぶ


一、「居合道真諦」は、無雙直傳英信流正統第二十代宗家である河野稔百錬先生が、「正統の正流を学ぶ者の中に、多々当流に悖るものある嘆ずべき現状に鑑み、斯道の眼目と考えられる最も基本的な問題について、先師の面授に基づき之を記述し、其の異を正さんとして、昭和三十三年二月『無双直伝英信流嘆異録』の小著を刊行」されたものが大本であります。
二、その後、昭和三十七年二月十九日付にて「同志多数の要望に依り(中略)林崎甚助源重信公の伝記の一端を記し、併せて平素信ずる斯道の小見断片をも掲げ、茲に『居合道真諦』と名付けてこの一刊を刊行せり。(居合道真諦 自序より)」との経緯で、昭和三十七年四月三日に【非売品】として発行されました。
三、「居合道真諦」発行後 既に五十八年、河野先生没後からも既に四十六年を経過しております。今斯界の状況を見るに、河野先生ご指摘の通りの「歎ずべき現状」に驚きを禁じ得ない次第であります。ここに改めて「居合道の基本」と「斯道の眼目と考えられる最も基本的な問題」とを抜粋し、礼式と基本動作の確認ならびに「当流に悖る異を正す」契機とし、河野先生と同様の危機感を持って「正統正流」を再認識する一助とすべく、この稿にて一部を紹介し、河野百錬先生に居合道の真髄を学ぶ契機としたく存 じます。
四、また、この間の時代変化は激しく、言葉使いも大きく変わり、原文のままでは読み難い向きもあり、極力文意を損なわないよう配慮しつつ、抜粋部分は現代語訳としました。
五、「居合道真諦」は、この二編以外にも、「居合の本義と眼目」から「歴史」「先賢の遺教」「初心集」「全日本居合道刀法」まで、河野先生の居合道にかける真面目が満載された、我々居合道を学ぶ者にとって必携の珠玉の名著であります。元々非売品ではありますが、願わくば、この稿を手引として原本を探索入手され、居合道の真生命を追究していただくことを期待するものであります。
六、現代における居合の稽古・鍛錬は、「形」稽古が主体であります。人は精神のみならず、体格、体力、運動神経、年齢、性別において千差万別であります。如何に先達・先輩・指導者に「形」を似せようとも、根本が違うものは同様とはなりません。
七、そうした意味で、基本は変わらないにも拘わらず、諸々の所作の違いが生じるのは当然であります。それは全く流儀の違いという程のものではないのです。また、人はそれぞれの能力の中で工夫・研究する生き物ですので、長い修行の年月の内に、容姿・気魄・気位まで違って当然と言えます。
八、文中、※印また青字で 記載した注書きは、先達・指導者の間でも、こうした違いはありますよという注意心で記載しました。
九、願わくば、こうした枝葉末節に拘らず、本質を踏まえた上での自由な工夫や研究を重ねていただきたいものです。
十、紙幅に限りがありますので、数回に分けてお届けする予定です。

   抄訳 目次   
第一章 居合道の基本
 第一節 礼式
 第二節 抜きつけ(斬りつけ)
 第三節 上段に振りかぶる
 第四節 斬下し(打下し)
 第五節 血振い
 第六節 納刀
第二章無雙直傳英信流を学ぶ上で気をつけたいこと
 一、業の理合のこと
 二、抜きつけのこと
 三、斬下しのこと
 四、右手のかかりのこと
 五、納刀のこと
 六、血振いのこと
 七、目付のこと
 八、生気のない居合のこと
 九、鞘手のこと
 十、抜きかけの柄のこと
 十一、半身の構えのこと
 十二、早抜きのこと
 十三、片手抜打ちのこと
 十四、当流の正統と傍系のこと
   無双直伝英信流系譜抄
 十五、居合道の回顧
 十六、居合道所感
 十七、我が修養の目安
 ◎柄手の参考

第一章 居合道の基本
第一節 礼式
 礼は武道の基本である。礼を疎かにしては武道は成立しない。居合道に取り組む者は、敬虔な心持ちで誠意をもって礼を研究しなければならない。
(演武をする際の「始礼」の例)
一、神前の礼(立礼)
 道場の末座に進み、右手に刀を(刃を後方、柄も後方に、刀を四十五度ぐらいに)持ちかえて最敬礼をする。左腰に刀を戻し、道場中央寄りの下座に進み出て正座する。
二、刀に対する礼(座礼)
 左腰につけて着座した刀を、鞘のまゝ右斜前四十五度の方向に抜き取るように抜き、柄を左斜前に傾けつゝ鐺を右斜前の床につけ、柄を左に刃を手前に、膝より一尺ぐらい隔てて前に一文字に、静かに刀が動かないように置く(刀の中程が体の中央にあること)。左手右手と順に両手をつき(両手の人差指と親指で三角形を作るように)腰を浮かさず最敬礼をする。
三、帯刀
 座礼の後、右手人差指の先を鍔にかけ、鞘を握って刀を起こし、膝の線の前方約三寸のところ、体の中央に刃を手前にして静かに立てる。鞘の下方三分の一のところに左手を添えて下に運びながら、鐺を左手にて持ち上げ帯に差す。袴の下方の紐二本を残して、帯の一番上に差す。
※袴の下方の紐一本を残して、帯の二枚目に差すとの教えもあり。
◎演武の終りの「終礼」は、凡そ「始礼」に準ずる。
◎これらの動作中、刀を前に置いた時、また立てた時は、必ず目の高さの前方を一旦正視してから次の動作に移ること。
第二節 抜きつけ(斬りつけ)
(正座「前」の例)
 抜きつけは、敵に対する「先」の第一刀であり居合の「真生命」とする最も重要な刀法である。
一、打ち向かう敵をしっかりと見定める心持ちで、充分「気」の満ちた時に左手を鞘口に運び(※左右同時との教えも)、鞘を握りながら(※前に送り出しながら)親指で鯉口を切る(鯉口を切るのは抜刀の準備であり、鯉口を緩めなければ刀はスムーズに抜けないものである)。右手をやわらかに柄にかけ(右手が柄にかかる頃、腰を上げつゝ直ちに両足の爪先を立てる)、刀刃を(鞘を)次第に外に傾けながら抜きかけ、物打部が左四十五度に傾くやいなや、左手を(鞘手を)後方に充分に引くと同時に、右足を踏み出し、鞘を真横水平(刀刃の運動方向)に返しながら横一文字に抜きつける(刀刃の方向は真右に)。
※右足の踏み出しは、鞘引きと同時ではなく、足体剣の法則にて、足が先行するとの教えあり。
二、左肩を上げることなく、右肩も肩を落として左後方に(※反作用として)引くことが重要である。左右両肘も浮かさないこと。
三、抜きつけた刀身の位置は、右拳から正面に引いた直線上に切先があることを、初心者指導の原則とする。
◎熟練すれば、切先を以って敵を制する心持ちとすべく、幾分切先が内方となる。
◎この場合、切先が外方になると迫力不充分となる。
四、抜きつけた刀の高さは、肩を落とした状態で両肩をつなぐ水平線より上がらないこと。
五、右拳は、踏み出した右膝の横線上にあるぐらい前に出すこと。
六、刀は水平を原則とするが、切先部が上がるよりも幾分下がる心持ちである。
七、上体は、下腹部を前に押し、腰部に(丹田に)充分な気力を注いで真っ直ぐに、また踏み出した右足の膝の内方角度は九十度を超えないこと。
八、後脚の膝と上体は、ほゞ一直線であること。
九、抜きつけた時、上体はあくまで敵に正対し、右拳は強く握り締め (小指と薬指の中程で強く引き、親指の付け根で強く押す)左手は鞘を握ったまゝ肘とともに後方に(※真後ろでなく背骨方向に)引く心持ちである。
◎抜きつけは、腹を決して後ろに退かず、前を責める心持ちで行うことが大切である。
◎抜きかけより抜きつけるまでは、気を以って敵を圧倒し、柄頭で敵を牽制する心持ちでなければならない。
◎錬磨を重ねた後は、柄にかける手も抜く手も、その動きを覚らせず、抜く速度も腹部に気を籠める速度も、序破急の法則に則り、すべて気振りを見せず、スラリと滞りなくやわらかく円く極めて自然に、内には充分な気迫を籠めて抜刀し斬りつけることが重要である。
◎抜きつけた時、気剣体一致の方便として、初心の間は、足音を立てることは自由であるが、足音を立てずに気剣体の一致を体得することが大切である。
◎居合の本旨は、抜刀の瞬間すなわち片手抜打ちの一刀で勝負決するもので、極言すれば、抜きつけた後の両手を使って行う刀法は、いわゆる剣道となるものである。
◎抜刀、運剣、体の運用の場合に足音を立てることは、武道の本旨ではない。足音を立てるのは、初心者が鍛錬する際の方便である。

(文責 田口阿勢齋 : 「阿号之会だより」第28号(新年号)より転載。 前文の十、に、「数回に分けてお届けする予定」と記しましたが、善意の紹介記事でも「引用部分」が多くなりますと、「改正著作権法」に抵触する恐れがあります。「抜きつけ(斬りつけ)」のみの紹介とさせていただきますことをお赦しください)

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居合道探求シリーズ⑬



「居合兵法無雙直傳英信流概説」
(阿号之会発行)


「Musou Jikiden Eishin-
Ryu Gaisetsu」
(Agou-no Kai)

無雙直傳英信流修業者の心得三十五則
(「居合兵法無雙直傳英信流概説」より)


 
居合道探求シリーズ⑬に引き続き、「居合兵法無雙直傳英信流概説」から、「無雙直傳英信流修業者の心得三十五則」を紹介します。
 礼法に準じる項目から、基本的な心構え、基本動作の要諦まで懇切に教示されております。無双直傳英信流を修業されていると自認されている剣士であるならば、充分熟読玩味いただいて、先達の思いを汲み取っていただきますようお願いします。


(刀の取り扱い・服装の 心得〉
一、刀を大切に取り扱うこと。

二、刀の取り扱いは、礼法通り正しく行うこと。

三、目釘の弛み、折損等、常々、都度、良く確認すること。

四、提刀の時、また帯刀して動作を行う時は、必ず左親指を鍔にかけて、刀が鞘走ることのないように注意すること。

五、稽古に際しては、常に清潔で折り目正しい服装で行うこと。

〈道場での心得〉
六、稽古に際しては、率先道場の清掃に努めること。

七、道場内の座位、序列は段位順(昇段順)、入門順を基本とする。

八、神座・上座に向かい、または神座・上座を右にして抜刀せず、神座・上座を左にして演武を行うこと。

九、演武の位置は、道場の中央に近い下座であること。

〈業の心得〉
十、居合の動作は、全て対敵動作であることを忘れないこと。敵を忘れた居合は居合ではない。

十一、着眼は、一定の箇所に固着せず、八方正面を見通す心持ちで、「遠山の霞」の目付であること。動作中は仮想の敵に着眼し、表情を変えず瞬きも気取られないよう努める。目付の正しくない居合は居合ではない。

十二、膝を床につくのも手をつくのも左右同時にすることなく、左より先にし、上げる時は右から先にする。(左右同時にするのは、変に応じる時、瞬時に対応できないとの先達の心得である。)

十三、帯刀した時は柄頭が身体の中心に、納刀の時は鍔が身体の中心にあること。

十四、正座した姿勢は、胸を張らずに肚を出し、臍下丹田に充分の気力を込める。顎を引いて首筋を伸ばし、天空を突き上げるように颯爽と、威風堂々の気魄が籠もることが大切である。

十五、立業に於いても正座と同様の心持ちであり、重心は、常に両足の中間に置き、前足膝は幾分屈め、後足膝は伸ばし気味に、後足膝で前足膝を押すように、常に両脚膝を内側に絞り腰を締めることが肝要である。

十六、業の始まりに古来三呼吸の教えあり。着座し緩やかに二度呼吸して三度目の息を吸い終わるところから抜きかけ、気を臍下丹田に籠めるにしたがい、その籠める速度と同速度で抜きつけること。

十七、呼気の時の心身は「実」、吸気の時の心身は「虚」である。動作中に於ける「虚・実」、業と業の呼吸の間を良く研究すること。

十八、抜きつけ(片手抜 きつけの第一刀)は、居合の生命である。必殺の刀法であることを忘れず、真に敵を斬る意識でなければならない。

十九、刀を抜く速度に「序・破・急」の教えあり。抜きかけてより次第に早く、剣先が鯉口を離れるところを最高速度とする。臍下丹田に気を籠める速度も同様である。

二十、古来より、『居合の勝負は鞘の中にあり』との教えの通り、抜刀の瞬間に敵を両断する気魄が最も大切である。

二十一、抜刀納刀共に鞘手(左手)を充分に働かすこと。とくに抜刀時の鞘手の活動が不充分であれば、居合とは言えない。

二十二、すべからく右手の活動は左手に、前方への動作は後方に、右側への動きは左側にと、それぞれその裏に活動の根源がある。その裏側の働きに注意し、裏が空虚にならないよう注意することが必要である。

二十三、柄への手のかかりは殊更に大きくせず、極めて自然に、一切敵に気配を感じさせないことが大切である。

二十四、柄の握り方は、縁金を避けて右手をかけ(拳が鍔に密着する程握っては運剣に支障を来たす)、右手小指から指二本空けて左手をかける。(両手の間隔が広過ぎるのも狭過ぎるのも作用不充分となる)

二十五、柄を握る手(これを手の中と言う)は、力を入れて強く握ることなく、両手の小指、薬指、中指の順に両手の力を等しく、両拳を内側に柔かく絞り込む心持ちにて、手で握るのではなく臍下丹田で握る心持ちであること。

二十六、刀を真向に斬り下ろす時は、臍下丹田に充分な気力を注ぎ、手も身体も柔らかに、肩を充分落し、初心の間は先ず肩を中心として剣先で空中に円を画くように物打部に充分の気魄が籠もるようにし、次第に錬磨を重ねれば、肩の中心を肚に移し、臍下丹田を中心として刀を操作するよう留意すること。

二十七、諸手で斬り下ろす時は、左手は斬り手、右手は添え手の意識で、左手を主、右手を従として斬り下ろすこと。

二十八、斬る時は、斬り下ろすにつれて必殺の気と力を籠めて柄を握る。人差し指は、殊更に伸ばすことなく軽く屈め、必要に応じて直ちに握る心持ちであること。

二十九、初心の間は充分に落ち着いて業を大きく伸び伸びとゆっくり行い、業と業との間に区切りを作って、決して素早く行わないこと。

三十、動作中は、奥歯を軽く合わせ、舌は軽く上顎につけ、敵を逃がさぬよう自分の前額部を敵中に割り込んで行く位の前進の気勢と体勢が大切である。但し、如何なる動作も、腰を屈めず、腹を前に出し臍下丹田に充分な気力を籠めることは必要であるが、腹を出すことに捉われて反身になっては気も身体も充分とはならない。殊更に腹を出さずに上体を真直ぐに臍下丹田に気力を籠めた自然な体勢を良しとする。初心者に於いては、往々にして刀を抜きつけた時、上段に振りかぶる時および 切上げた時に、上体を後方に反らす傾向があるが、充分注意すべきである。

三十一、また、初心者が、刀を斬り下ろす時に頭を動かしたり上体で拍子をつけて前後に揺り動かすのは、両腕と肩に「凝り」があるのが原因である。「凝り」は自分の「虚」であり、「虚」は敵に乗じられることとなり、自分の死命を制せられるところとなる。それ故、臍下丹田の充実を図り、手も身体も少しも「凝り」のないよう注意して修業することが大切である。「両腕を充分伸ばして斬り下ろせ」との初心者への注意にいつ までも捉われて(意識の「凝り」)、殊更に引き斬りの動作をし、両腕を伸ばし過ぎるために悪癖となることも多いので注意を要する。

三十二、刀に使われてはいけない。自分の体を元として刀を使うこと。斬り下ろす瞬間には既に両足共に地につき確固たる体勢であるべきこと。いわゆる足至り体至り刀至るの順序でなければならない。

三十三、立っている時も歩行する時も上体と足は、一歩踏み出さんとする体勢であること。業により一歩退く場合も気と重心は後ろに退いてはならない。

三十四、両足の爪先に力を入れず軽く浮かすように、後ろ足の踵は少し上げて、常に両脚の足心で柔かく踏むようにすべきである。

三十五、全ての業は、その一動ごとに充分な気魄を必要とする。一動の終りに確かな気力の締りがあることが大切で、次の動作は新たな気力と力によって行う。熟錬するに従い、烈々たる気魄の中に業の間を詰めるよう心掛ける。
                     以上、三十五則

(文責 田口阿勢齋:「居合兵法無雙直傳英信流阿号之会概説」から転載)

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居合道探求シリーズ
(特別編)


「居合兵法無雙直傳英信流概説」
(阿号之会発行)
 
礼法について
(「居合兵法無雙直傳英信流概説」より)


 
大会や稽古会に於いて、礼法を身につけていない剣士が散見されます。礼法は「流派の姿・形」であり「作法」です。「作法」ができなければ「無作法」となります。弟子の「無作法」は、指導者の責任です。また、永年惰性でやって来て「自己流」になっている熟練剣士もいます。
 一度正しく身につけてしまえば空気のようなものですから、折角の「無雙直傳英信流概説」を開いて、おさらいをされては如何でしょうか。


一、堤刀
 刀を左手に持ち、刃を上に棟を下にして親指で鍔を押さえる。下緒の下端から三分の一のところを右人差し指と中指の間に挟んで持ち、その下緒を左手の人差し指と中指の間に挟む。左腰に提げ、力を抜いた自然体が提刀の姿勢となる。

二、神前の礼
 提げた刀を前に出し、下緒を前記の反対に右手に取る。下緒を挟んだまま右手人差し指を鞘の棟の方に伸ばして栗形下部にて右手に持ち替え、刃を後ろ棟を前に向けて背筋を伸ばして立ち、神座に向かい礼をする。立礼はこれに倣う。

三、着座
 着座は、神座または上座を左にして着座する。提刀の姿勢から左足をわずかに引き、袴の左右内側を順次外側に捌き、左膝を前に進めてつき、次に右膝を左膝に揃えて着座する。両足裏は重ねず(重ねても親指、左右親指がつく程度で良い)、両膝の間隔は拳一つ程にして静かに着座する。
 右人差し指と中指の間に下緒の下端から三分の一のところを挟み、右手親指で鍔、他の指で鞘を握り、左手は指を揃えて伸ばして左腰にあて、軽く鞘を押さえながら右手で鞘ごと抜き取るように鐺を右後ろに運ぶ。刀を床に置く際は、音を立てないよう鐺からつけ、前に倒すようにし、刃を内側に棟を外側に、鍔が膝の線にあるように体側より三寸程離れたところに置く。
 肩の力を抜き、両手は脇腹を打たれないよう自然に垂らし、手は股(もも)の付け根に指を揃えて置く。肘を張らないよう気をつける。目は、半眼にして水平線上遠くの山にたなびく霞を望むが如く(この目を「遠山(とおやま)の霞」と言う)、顎を引いて臍下丹田に力を入れる。上体が屹立し、八方ならびに正面の敵に対し、何時でも如何ようにも応じられる心と身体の構え、態度でなければならない。

四、座礼
 左手を、指先を伸ばして五寸程前につく。次に右手をついて両手の人差し指と親指で三角になるようにして頭を下げる。礼をする際、頭を身体の線より下げ過ぎると襟が離れるので注意する。頭を下げ、右手、左手の順に元の姿勢に戻る。

五、刀礼
 右手で下緒、刀を取って鐺を右斜め前一尺二、三寸程に出し、刃を手前にして置き、下緒を鞘の棟側から鐺に回す。刀が身体の中央となるように置く。正対した後、座礼と同様に礼を行う。

六、帯刀
 下緒の下端から三分の一のところを右人差し指と中指の間に挟んで(摘まむのではなく中指で掬うように)取り、そのまま右手で鯉口を握り、人差し指を鍔の耳にかける。終礼の時は親指をかける。刀を身体の前四、五寸のところに立てる。左手を指ごと伸ばし、刀の物打部の鞘に添える。そのまま鐺まで滑らせ左腰に運ぶ。終礼の時は左手で持つ。帯の身体から一重のところに鐺から差して、袴の下紐の上に出るように帯刀する。
 脇差は、刀の内側、帯と着物の間に差す。下緒を左手で後ろの鞘上にかけ回す。あるいは鞘にかけ回して袴の左下紐に一重に結ぶ。下緒捌き等、刀を差しての所作は、鐺を床に当てることのないよう右手で柄を握るか、柄を左右の手で抱くように行う。柄頭が身体の中心になるよう一度で決めて差す。柄を何度も揺すったりするのは良くない。帯刀して正座した姿勢、心構え、態度は前項と同様であり、威風堂々の気魄が籠もり、即応の構えでなければならない。

七、起立しての刀礼ならびに帯刀
 場所の制約等により起立して刀礼ならびに帯刀を行う時は、堤刀の姿勢から下げた刀を前に出し、下緒を右手にとって棟の方から回して物打部に添え、刃を手前に刀が身体の中央となるように肘を伸ばして目の高さに水平に掲げ、正対した後、刀をやや捧げる心持ちで礼を行う。刀を身体の前に立てて持ち、前記と同様に帯刀する。

(文責 田口阿勢齋:「居合兵法無雙直傳英信流阿号之会概説」から転載)

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居合道探求シリーズ
(特別編)


福嶋阿正齋宗家



平成31年3月2日
阿号之会関東地区第9回
指導者講習会開会式




同上講習会冒頭の説示



同上直接ご指導(両詰)



同上講習中のご教示
 
無雙直傳英信流第二十四代 福嶋阿正齋 宗家」   (阿号之会々長)の至言・助言・箴言

 
いつも高山先生(阿号之会理事長)に歌を詠んでいただいておりますけれども、その中で、
 新人に 禮を説く君 日頃より
        範を示して 納得の禮
 居業とは 業の流れに 留めなく
        よどみなくして 大河の流れ

というふうで、先生がお詠みになりました。この中の意味を、良く酌んでいただいて、自分で詠めと言われた場合に詠めるかということです。
 居合というのは、居合だけではありません。(指導者である)皆さんに、どういう要望をしているかということは、この(プログラムの)内側ページに書いてありますけれども、“指導者はあなただ!”ということです。“とくに先生・先輩と名のつく人は、後輩の模範となるように普段から心懸け、居合の技のみでなく、礼儀作法、生活指導に至るまで指導するのが指導者・先輩たる者の役目なのである。”「役目」ですよ、皆さん!“指導者はあなただ!”ということですね。習うだけじゃない、今度は、教えなければいけないんです。そのためには、ここで習ってください。
 昔は、“居合術”ということで、“術”と言ってたんです。で、私の任務は何かと言うと、昔の“古流”ですね、“古流”を皆さんに伝えるのが、私の任務であります。
 勝手に、この「形」を変えるもんじゃありません。変えてはいけません。“古流”というのは、非常に長い間、この四百数十年も伝わって来ましたけれども、そんなもの、簡単に変えてはいけないんです。
 だから、各流派によって、流派で以って、「形」は違う、やり方も違うという独特の居合のやり方です。自分で勝手に業を変えてはいけない。
 何百年も続いた、この“古流”というものを、大切にして行くのが、我々の任務であります。
 皆さんが変なことをやると、お弟子さんは、また変なことをやる。そうすると、一番困るのは、そのお弟子さんです。
 だから、先程も言いましたように、「初発刀・初伝・中伝・奥伝」、解っていても言っちゃいけません。それは、言ってる指導者が悪いということです。我々の無雙直傳英信流に、この文言は一切ありません。
 立膝之部と居業之部の場合は、いずれも立膝ですから、皆さんやりたがらない。痛いからやりたがらない。だから、先生の先生は、殆どやれないというような状況ですので、教えるのは皆さんですよ。皆さん、本当に、五段・六段・七段という人が教えて行かんことには、アレッ何やってんだろうというふうになります。
 後輩から「先生、ここはどうなってますか?」と(聞かれて)、「俺は分からん」ということがないように。ここはこうだよということで、自信を持って教える皆さんになっていただきたいと思います。
 そのためには、こういう講習会にですね、参加して、そしてビデオを先生から何がしかで買って、そして研究して、あゝこうだったのかということを、思い出して貰えるようにしていただきたい。
 あるところに行くと、「俺の言う通りにやれ!」と言う先生はダメよ!というのは、その上の先生、その上の先生がおかしいんじゃないかということです。
 無雙直傳英信流には、英信流の「形」がありますので、だから、あるところまでは統一して、そしてそれを競技会の基準(資)として、やって貰わねばならん。
 もう、審査するあなた達がですね、中心になって貰わんと、このまゝ行ったら、皆チリジリになってしまいます。
 だからですね、ここに、講習会に出て来ていただいたことには、本当に敬服します。俺は習うんだ、恥を掻いても習うんだというふうな気持ちで今日見えたと思います。
 恥かいて良いんです。恥掻けと言ってんだから!
 皆さん、今度、道場に帰られましたらですね、支部長、また先輩に喰らいついてください。
 業については、私が責任を持ちます。皆さん、「俺はこう習った」ということを主張していただければ、こう思います。
 皆さんの意欲には、敬意を表します。
 怪我をしないよう、病気をしないように、用心して励んでいただきたいと思います。(福嶋宗家説示)
(文責 田口阿勢齋:3月2日(土)指導者講習会でのご指導から抜粋)

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居合道探求シリーズ⑪






















































































































「年表で見る林崎甚助源重信公の足跡」 高山阿蓉齋

  -林崎明神・居合明神 居合関係略年表-
明徳元年(1390年)最上満国(最上家第三代満直の四男)楯岡入部。本城氏没落。
大永7年(1527年)楯岡城主、楯岡(最上)因幡守満英、六代目家督相続。
天文6年(1537年)豊臣秀吉生誕。
天文7年(1538年)浅野数馬重治、楯岡城主、楯岡因幡守満英に仕官す。
天文9年(1540年)浅野数馬、楯岡在高森某の娘菅野と結婚す。
天文11年(1542年)林崎甚助重信生誕、幼名民治丸。この年、徳川家康生誕。
天文15年(1546年)最上義光(よしあき)山形城に生まれる。
天文16年(1547年)浅野数馬、坂上主膳(坂一雲斎)に暗殺さる。
天文18年(1549年)浅野民治丸8歳の時、楯岡城の武術師範東根刑部太夫について武術修業。
天文23年(1554年)浅野民治丸、剣法の上達を林崎明神に祈願し剣の修業に励む。
弘治2年(1556年)浅野民治丸、林崎明神に「百日参籠」し、抜刀の神伝を授かる。
永禄2年(1559年)浅野民治丸、抜刀の妙を悟り、元服して林崎流と称し、「林崎甚助重信」と改め、仇討(仇は坂一雲斎)の旅に出る。
永禄3年(1560年)織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼす。
永禄4年(1561年)林崎甚助重信、京で仇を討ち帰郷、林崎明神に『信国』の刀を奉納す。
永禄4年(1461年)この秋上杉謙信、武田信玄と川中島にて決戦す。
永禄5年(1562年)重信、母に孝養を尽くせども母病に死す。重信、飄然孤剣を抱いて剣の旅に赴く。時に21歳。
永禄6年(1563年)重信、米沢・会津に滞在し、若松在赤井村で門弟を養育したという。
永禄8年(1565年)重信、鹿島に行き、天真正神道流の修練に励む。
天正元年(1573年)武田信玄病没。
天正6年(1578年)上杉謙信没す。
天正10年(1582年)5月、最上義光、天童城を攻略。6月、本能寺の変、織田信長自決す。
天正14年(1586年)豊臣秀吉、太政大臣となる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉、小田原城に北条氏を攻める。
文禄4年(1595年)重信、一宮(今の大宮)の社地に住し、陰陽開合の理に基づいて工夫を凝らす。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉没す。重信、9月、一宮を去り諸国歴遊の途につく。
慶長5年(1600年)徳川家康の下知により、最上氏応援のため奥羽の諸藩山形に集まる。この年9月、関ヶ原の決戦。東軍勝利す。
慶長6年(1601年)上杉景勝、会津百万石を没収され、米沢三十万石となる。
慶長19年(1614年)正月、最上義光、山形城で病没す。
元和2年(1616年)重信、廻国修業より武州川越の門人高松勘兵衛の許を訪れる。
元和3年(1617年)林崎甚助重信、高松勘兵衛の許より奥羽へ旅立ち、再び帰らず。
 ※年表は「林崎明神と林崎甚助重信」
発行 平成 3年2月15日
復刻 平成18年6月20日
編著 林崎甚助源重信公資料研究委員会
発行 財団法人居合振武会

 この年表から何が解るのだろうか。重信公の生きた時代は〝元禄〟と「居合道秘傳」や「居合道概説」にも記載されている。
 もう少し日本史を上って見ることにする。

文治元年(1185年)平氏滅亡。
建久3年(1192年)源頼朝、征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開く。
文永11年(1274年)文永の役
弘安4年(1281年)弘安の役
建武元年(1334年)建武の中興、天皇親政。
延元元年(1336年)後醍醐天皇、吉野に遷幸。
暦応元年(1338年)足利尊氏、征夷大将軍となり室町幕府を開く。
元中9年(1392年)南北朝の合一。
応仁元年(1467年)応仁の乱起こる。
文明9年(1477年)応仁の乱終わる。
天正元年(1573年)織田信長、将軍義昭を追放し室町幕府滅亡。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変、信長自決。
天正14年(1586年)豊臣秀吉、太政大臣となる。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉没す。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
慶長8年(1603年)徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府開く。
元和元年(1615年)大阪夏の陣、豊臣氏滅ぶ。
慶応3年(1867年)徳川慶喜、大政奉還を乞う。王政復古の大号令。
明治元年(1868年)明治維新


と変わって行くのである。

 さて、この辺りで、「年表」に見る重信公についてまとめてみよう。
 重信公の生年については諸説あるが、楯岡城主因幡守満英に仕えた父浅野数馬と母菅野の間に、
天文11年(1542年)1月12日、または5月5日誕生。家康もこの年誕生。
天文16年(1547年)父数馬が、祠官との碁の帰り道に暗殺されたとある。仇の名は坂上主膳(別名〝坂一雲斎〟)。出生して5歳で父を亡くすことにより、母菅野は、幼名民治丸に剣術修業として楯岡城剣術師範東根刑部太夫に手ほどきを受けさせた。8歳の剣掌であった。
天文23年(1554年)民治丸、剣法の上達を林崎明神に祈願し剣の修業に励む(12歳)。
弘治2年(1556年)民治丸、14歳で林崎明神に百日参籠し、抜刀の神伝を授かる。剣術修業の厳しさが伺える。
永禄2年(1559年)17歳で元服。林崎流と称し、村名を姓として「林崎甚助重信」と改名、父数馬の仇討の旅に出る。
永禄4年(1561年)京で仇(坂上主膳)を討ち帰郷、林崎明神に「信国」の刀を奉納す。この仇討について一説では、京で仇を発見し、一時帰郷し再び京に上り、清水寺の近くかその付近で本懐を遂げたとの説もある。
永禄5年(1562年)母菅野は、重信仇討の翌年に病死。重信、飄然として剣の旅に赴く。
永禄8年(1565年)鹿島で天真正神道流の修練。
文禄4年(1595年)5月より一宮(今の大宮)の社地に住し、陰陽開合の理に基づいて工夫を凝らす。
慶長3年(1598年)9月一宮を去り、諸国歴遊の途につく。
元和2年(1616年)重信、廻国修業より戻り、武州川越の門人高松勘兵衛を訪ねる。この廻国修業は18年間に及び、その間、多くの門人を育成したのではなかろうかと推察する。
元和3年(1617年)7月、高松勘兵衛の許より奥羽へ旅立ち、再び帰らず。出生から数えて見ると既に75歳の旅立ちとなる。奥羽歴訪の途についた重信公の足跡は想像の域を出ないが、江戸時代の伝書に残されている通り、門人達によって引き継がれて行ったのではないだろうか。


一、林崎新夢想流  津軽藩(元禄4年・正徳元年)
二、林崎流      三春藩(元禄7年)
三、林崎新夢想流  新庄藩(元禄14年)
四、林崎田宮流    庄内藩(宝永3年)
五、真景流(今井景流)会津藩(宝暦8年)
六、林崎夢想流    藩不明(宝暦8年)
七、林崎流居合   秋田藩(天明8年)
八、林崎夢想流   秋田・仙台藩(寛政2年)
九、林崎新夢想流  新庄藩(寛政3年)
十、林崎新夢想流  新庄藩(寛政12年)
十一、林崎神流    二本松藩(文化10年)
十二、林崎流     秋田藩角館(弘化3年)
十四、林崎新夢想流新庄藩(明治44年)


 居合中興の祖林崎甚助重信の功績は、現在の居合道の隆盛を見る時、偉大と言うべきである。最後に、この年表に、林崎村・櫛山村の地名がある。当主は、前者第21代、後者第25代も続いているとの記述を見ると、当時としては安定した村々であったと思われる。楯岡城主も6代も続いている。慶長5年(1600年)山野辺右衛門義忠、楯岡城に入郡。正保元年(1644年)松平大和守直基、山形城に入部十五万石。楯岡領・櫛山村等五万石余は幕領となる。当時としては、豊かな地方の一つではなかったかと思われるし、現在山形の米所として繁栄の源となったのではないだろうか。

(文責 高山 阿蓉齋:無雙直傳英信流範士九段 平成30年1月1日「阿号之会だより」第21号より転載。)

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居合道探求シリーズ⑩








「中山博道 剣道口述集」堂本昭彦編著
(スキージャーナル社)





「夢想神伝流 中山博道先生」研究 山中阿義齋

 
これまでの居合道探求シリーズでは、主に無雙直傳英信流に関わる研究がなされてきました。本稿では同流異派の夢想神伝流を確立した中山博道先生(以下敬称略)について研究を試みます。
 
 中山博道は明治・大正・昭和の三世代に亘り我が国剣道界で活躍し、修道学院の高野佐三郎と共に昭和の剣聖と評され、近代剣道の発展に大きく貢献した。
 博道は剣道のみならず居合術、杖術、柔術、槍術、薙刀術、手裏剣術などにも堪能で、中でも剣道、居合術、杖術では大日本武徳会から範士号を授与されている。史上初めて三つの範士号を与えられた稀有の人物であり、最後の武芸者とも称されている。
◎剣道の事
 博道は、明治五年、金沢藩祐筆役中山源之丞の八男として、現在の石川県金沢市に生まれる(幼名乙吉)。
 五歳のとき一家で富山市に移住。
 十一歳で市内の山口一刀流斎藤道場に入門、後に目録を許される。
 十七歳の時上京、十八歳で東京神田西小川町の神道無念流根岸信五郎・有信館道場に入門、内弟子となる。
 身長五尺三寸五分、体重十三貫という貧弱な体格でありながら、睡眠時間を四時間に切り詰め、猛稽古に明け暮れる。
 二十三歳で準免許、二十七歳で免許、二十八歳で師範代、三十歳で免許皆伝を得る。
 三十三歳で本郷真砂町に道場を建て、有信館の名跡を継ぐ。 爾来、岩崎小弥太、渋沢栄一など各界の名士をはじめ多くの門人を育成し、剣道界に優位の人材を送り出す。
 自身は、軍、警察、大学などの師範を兼任しながら、剣の道を究め続けた。
 晩年は、戦後の混乱から有信館も人手に渡ってしまい、形式的に武道団体の名誉職に就くにとどまった。
 昭和三十三年八十六歳で永眠。師根岸信五郎と同じ寺院に眠る。
◎居合道の事
 博道が居合を志した時期は定かではないが、剣道修業に合わせ、神道無念流の居合も修業していたのではないかと推察される。
 明治末期に博道は、高知県(旧土佐国)に英信流という県外不出の居合が伝わっていると聞き、高知に渡ったが、門外不出の掟に阻まれ、学ぶことは叶わなかった。
 その後、土佐藩出身の政治家・板垣退助の口利きで、細川義昌(英信流下村派)に入門、大正五年に大森流並びに長谷川英信流の免許を允可された。また後に森本兎久身(英信流谷村派)に就き大森流及び英信流を学び、大正十一年免許皆伝を允可された。
 英信流下村派と谷村派を学んだ博道は、後に独自の工夫を加えて無双神伝流(後年の夢想神伝流)を確立したが、当時は長谷川英信流、大森流とも名乗っており、流名は統一されていなかった。
 博道が初めて「無双神伝流」を名のって演武を公開したのは、昭和八年五月「大日本武徳祭大演武会」においてであった。 この時の流名は夢想神伝流ではなく、無双神伝流であったことが注目される。
 「夢想神伝流」の流名は、博道の没後、門人が呼称を統一したものであり、中山博道自身が夢想神伝流を名乗ったことはない。
 また、博道は、高弟や地位の高い人に限って居合を教えたため、全伝を授かった門人は少ないと言われている。
 しかし夢想神伝流は、全日本剣道連盟居合道部の創立に強い影響力を与えたため、現在では無雙直伝英信流と並び全剣連居合の母体となっている。
 
 今回のシリーズでは、昭和の剣聖中山博道について研究を試みましたが、文献調査の段階で幾つか関心を覚えるところもありました。
 例えば、高知における短期間の修業でよく免許や皆伝を授かることができたこと。
 勿論このことの背景には、博道に居合道修業の下地があり、非凡な剣才の持ち主であったこと等によるものと推察されるところではあります。
 また博道は、口述集の中で「流祖の形はそれ自体十分考慮して定められたもの故、形自体を変更すること、または後世の者の自我が入ることは絶対に許されない。」と、師より厳しく教えを受けたと述べています。
 では何故、博道自身が師から伝授された技を独自の形に変え、夢想神伝流を創るに至ったのか、特に関心を抱いたところでありますが、今回はそこまでの解明は出来ませんでした。
 その顛末は、今後の研究に託したいと思います。
 本研究では、種々の参考文献の整合性の問題や調査不足もあり、正確性を欠くところがあることは否めません。
 今後、これらのことも含め、さらに諸兄による中山博道研究が進められることを期待しております。
(文責 山中 阿義齋:無雙直傳英信流八段 平成29年8月
15日「阿号之会だより」第20号より転載。)
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居合道道探求シリーズⅨ















「壬生義士伝」
浅田次郎著(文春文庫))








「一刀斎夢録」
浅田次郎著(文春文庫)







「時代小説」に探る居合の妙 塚﨑 阿頌齋


 時代小説が好きで、作中に居合を遣う場面があると、おっと!という感じで身を乗り出してしまいます。
 居合が表現される場面は多々ありますが、どうしても捉え方が一面的で、〝電光石火、目にも留まらぬ早業でバッサリ〟となり、作者の居合の認識の浅いことにがっかりすることが度々です。
 小説の中に居合を取り入れた作家の内、居合の道理を最も良く理解している私の好きな作家は浅田次郎です。
 居合の要諦、身体を総合的に遣って敵よりも素早い破壊的な一撃を与える(抜きながら放つ初太刀)鞘離れの絶妙、これを剣術上の利点として捉えて小説に取り入れており、その具体的な人物を、「新撰組三番隊組長の斎藤一」として、二度長編小説に登場させております。
 最初は【壬生義士伝】で、主人公「吉村貫一郎」の武士の義と家族への愛を貫く姿とは対照的な、冷徹非情で研ぎ澄まされた刃のような男「斎藤一」を準主人公として描いています。
 新撰組には、剣の熟達者で、沖田総司、永倉新八、斎藤一、そして主人公と居並びますが、群を抜いた沖田以外、剣技は拮抗するも、呼吸も整えずいきなり繰り出して来る斎藤の抜き打ち、この居合の一撃の有無で彼の隊内における存在を特異なものにしているという内容です。
 この作者は、居合の本質である〝鞘放れ〟即ち〝初太刀の抜きつけ〟〝抜き打ちの一撃に全身の気を一気に投入して敵を倒す〟〝居合に二刀目は無い〟〝二刀目からは、それは立ち合いですよ〟ということを良く理解して、この【壬生義士伝】を書き上げています。
 作者は、この冷徹で隙の無い、常に呼吸も表情も乱さず激烈な居合を遣う「斎藤一」が余程気に入ってのことか、後年、彼を実質主人公として、これも長編の【一刀斎夢録】を上梓しています。
 この作品の中で、勿論作者の推論でありますが、「坂本竜馬」暗殺の遂行者を「斎藤一」としています。史実的には実行者が誰か諸説ある中で、作者は、「竜馬」が座して額を横薙ぎに払われて脳漿が溢れ出、これが致命傷になったと推測しています。
 客として応対していたので、当然実行者は作法通り大刀を右脇に置いていた。そして決定的なのは、「斎藤一」は生来の左利きだった。
 「竜馬」と「中岡慎太郎」は、それぞれ二太刀振るわれていて、作中では一太刀で仕留められなかったことに、「斎藤一」が自身に憤慨している。
 小説の仔細は措くとして、平常心を保ちつつ初対面の相手に警戒心を与えず、二名の間合を測り部屋の中で座した状態から、一の敵の額を一撃し、脇差を抜かんとした二の敵の右腕を断ってしまう居合の描写に、剣の凄味と作者の居合の知見、さらには、激動期を生きた人々の人情と哀愁まで描き切る作者の筆力の高さを感じます。
 「斎藤一」は維新後も存命し、名を「藤田五郎」と名乗り警視庁に在籍していました。この物語は、その事実に基づき書かれたもので、題名にある「一刀斎」とは、当時警視庁内で「斎藤一」を表す隠語で、逆さまから読んで捩ったものです。
 小説は、作者の豊富な発想力で色々な場面を提供してくれます。その理合で自分だったらどうするか、その時代その場面に自分が生きていたらどうしていたのか、様々に想像力を掻き立てられるのは本当に楽しいことです。
 熱帯夜の寝むれぬ夜長に是非ご一読下さい。
 但し、翌朝の睡眠不足は自己責任でお願いします。
(文責 塚﨑 阿頌齋:無雙直傳英信流八段 平成26年8月
15日「阿号之会だより」第13号より転載。)

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居合道探求シリーズⅧ


平成25年7月21日
阿号之会関東地区
第二回合同稽古会


















座礼

帯刀













抜き付け





















「前」
(池田阿中齋範士八段)


































「颪」(林阿良齋八段)








7月20日指導者講習会


居業之部






















「惣捲」(金子光彦六段)
































 
「福嶋宗家ご指導事項」金子 光彦


 (今回は、〝文献による探究〟ではなく、出光支部長の金子光彦六段が、平成25年7月20日・21日の両日に亘る阿号之会関東地区第二回指導者講習会並びに合同稽古会を通じて、無雙直傳英信流第二十四代宗家福嶋阿正齋先生に直接ご指導いただいた体験と記憶の中から、支部員への教材として作成したメモを引用させていただきました。)

1.訓示(居合修業者としての心の持ち様)
 居合の稽古を長年積み、多少上達して行っても、初心の時から身についてしまった「古癖」が出るものである。一人稽古ではその「古癖」に気付くことが出来ない。必ず、二人以上で稽古するようにし、お互いに気付いたところは直し合うことが上達する道である。
 人から指摘されて気分を害するようでは、居合の修業者としては話しにならない。自分が気付かない間違った所、悪いところを教えてくれる人は、その人が同僚や後輩であっても、自らの「先生」と思うべし。
2.基本-礼法
(1)提刀
は、刀を左手に持ち、刃を上に棟を下にして親指で鍔を押える。下緒の先端から三分の一のところを右手人差し指と中指の間に挟む。左腰に下げ、力を抜いた自然体が提刀の姿勢となる。
(2)着座の時の裾捌きは、左足を少し引いて右手で左裾を払い、素早く手を返して右裾を捌いて座る。袴の裾は扇形に広がるを可とし、着座した後に手で修正するは不可。
(3)座礼は、左手を左膝前五寸程前に着き、次に右手を同様に着いて両手の人差し指と親指で「お結び(三角形)」になるようにして頭を下げる。礼をする際、頭を身体の線より下げ過ぎず、襟と首の間が見えないように注意する。礼をした後は、頭を上げ、右手、左手の順に手を床から上げて鼠径部(足の付け根の位置)に戻す。
(4)帯刀する時は、下緒の三分の一のところを右手人差し指と中指の間に挟んでとり、そのまま右手で鯉口を握り、人差し指を鍔の耳にかける(終礼の時は親指にかける)。刀を身体の前四、五寸のところに立てる。左右の膝頭と鐺が三角形の形になるようにする。左手を指ごと伸ばし、刀の物打部の鞘に添える。そのまま鐺まで滑らせ左腰に運ぶ。帯を刀に差す時は、身体から一重のところに鐺から差して、袴の下紐の上に出るように帯刀する。二重では途中で緩む。
(5)下緒の扱い方については、下緒が短ければ、鞘の上部(刃側)を跨いで渡し、後ろへそのまま下げる。(最近の下緒は長めに作られているので、一旦、鞘を跨いで後ろに下げた後、結び目を揃えて鞘の下側から下緒を前に出し、袴の紐の内側に挟んで固定するようにする。)
※下緒は、昔は敵と戦う時、袖を絡げる襷(たすき)として使った。その人の品格も示すものでもあり、上等かつ上品なものを選ぶよう心掛けて貰いたい。
3.基本-目付
(1)目付は、1間(約1.8m)畳2枚程先を、焦点を定めず半眼で全体を観ずる。決して一点を凝視するのではない。
(2)業の最中は、必ず相手がいるところへ目を付けること。(あらぬ方を見ない)
4.基本-抜き付け
(1)抜き付けの際は、切先が鯉口の僅か手前まで来た瞬間に勢いよく抜くこと。
(2)その際、鞘手(左手)を強く引くが、「手で引く」のではなく、「肘で引く」「脇を締める」ことを心掛けること。
5.基本-斬下し
(1)斬り下しは、右足を前に出し、左右の足はしっかりと腰幅分を開くこと。(安定のため)
(2)刀を振りかぶった時は、あまり刀を下に向けて下げない。剣先が背中から1尺8寸(約55㎝)程度離れていること。
(3)刃音がするように、刃筋正しく斬り下すこと。
(4)刀を丁度相手の頭部辺りで最大のスピードが出るよう、左手を手前に引き、右手を前に出す(右手を前に押すと同時に左手を顔側へ引く)ようにする。
(5)右利きの人は、勢い刀が頭の中心線から右側にずれて来る。自分では分からないから他の人に観て貰って確認し、修正すべし。
6.基本-納刀
(1)左手の親指・人差し指で鯉口を蓋するように持ち、鞘を右前方へ少しばかり出すと同時に、右手首のスナップを効かせて刀身を左手の上部に乗せるように動かす。
(2)また、その刀身が左手の親指・人差し指の上部に乗ろうとする直前から、左手で鞘を後ろへ引き始め、右手は右前方に真直ぐに伸ばして、真直ぐに帰って来るようにする。(決して、柄頭が大きく上下左右にぶれないようにすること)
(3)座ったままでの納刀は、鐺が床にコツンと当たるようでは駄目。左の鞘手を放す瞬間に、鞘を少し連れて引き出すようにすること。
7.正座之部
(1)最初の抜き付け
は、敵の目を斬るつもりで行う。(共通)
(2)前の敵へ抜き付ける時は、左手をしっかりと引くこと。(共通)
(3)抜き付けた時は、臍が前を向いていること。(胸が前に正対していること)(共通)
(4)血振いして立ち上がる時は、膝を全部伸ばして立たない。膝を屈し、居合腰のままで立つこと。(共通)
(5)「受流」の血振いは、右手の力を抜いて、刀を前方へ大きく回して行う。(こじんまりとならぬように)
(6)「介錯」は、敵の首を斬るのではない。大事な友人、身内の名誉ある死を静かに迎えさせる業。その心を業に表すこと。また「首の皮を一枚残す」のは誤りで、「全て斬り落とす」のが正しい。
(7)「附込」は、右足・右手を前に出して相手の刀を受け止めたら、即座に右足を一歩進めて、上段を決め、そのままの流れでさらに右足を一歩前へ進めて中段まで斬り下して止めをさす。リズムを途中で切らないこと。
(8)「月影」は、右足を肩幅分とって前へ出し、正面から上段で斬りかかって来る敵の諸手を斬り付ける業。諸手を過ぎて、右の方まで大きく抜き付けないこと。また、立ち上がる時には、左足を後ろへ下げない。
(9)「追風」は、第一刀目の横の抜き付けが大事。鋭く力強く抜き付けなければ駄目。
(10)「抜打」は、敵が先手をとってこちらに斬りつけようとする害意を察するや、瞬時に前へ刀を抜いて、振りかぶって敵を斬り下す。但し、斬り下しの時に鐺が床にコツンと当たらないように、左の鞘手を放す寸前に、鞘を少し引き上げること。また、納刀の時には、左手で鞘を倒し、腰に水平に回すように寝かせて納刀を行うと鐺が床に当たらない。
(11)正座の業四本は全ての業の「基本中の基本」である。これらの業がしっかり出来るようになれば、他の業の修業も難しくない。それ程難しく重要な業であるから、良く修業すること。
八、立膝之部
※「横雲」
記述省略、以下同様。
(1)「虎一足」は、立ち上がりながら刀を右足の前に弾くようにして抜き放つが、決して、刀が鞘から抜けた後に、それを右足前に打ち下ろすようにしてはいけない。鞘手を後ろへ引くことによって、刀が右前方へ弾き出るように抜き放つこと。
(2)「浮雲」では、立ち上がって左に開く時も、柄を右胸前に引き付けた時も、両脇をしっかり締めて、決して肘を上げないようにしなければ力を充分に発揮することは出来ない。
(3)「颪」の最初の当ては、脇を締めて敵の顔面を捉えるように行うこと。決して脇を開けたり、高過ぎる位置まで当てを入れる必要はない。
(4)「鱗返」「浪返」で、回転して抜き付ける時、昔は、左足を引き過ぎず、二足長の位置に左爪先を置き、左膝を床に着ける寸前でピタ
リと止めた。それが出来るようになって欲しい。
(5)「瀧落」の最後の右手での突きは、突手で掌を下に向けてしっかりと突くこと。先生によっては、掌を上に向けて突く指導をしているところもあるようだが、それではしっかりと突けない。少なくとも英信流の突きは、掌を下に向けた突手で行うこと。
(6)「真向」は、「抜打」とほぼ同じような業だが、「抜打」の場合よりも相手がこちらを斬ろうとする仕掛けが早いという理合であり、それだけに刀を受け流しするように早く抜きながら瞬時に振りかぶって、正面の敵に斬り下す。
九、居業之部
(1)「霞」
の最初の抜き付けと斬り返しは、「1」「2」という別々の動作ではなく、「1」と連続的に動作するものと心得て行うこと。先ず、右膝を立てて抜き付けると同時に、左膝が右足の踵に寄る。そして、さらに右足を出して斬り返すと同時に左膝が右足の踵に寄るようにすること。
(2)「戸詰」は、右の敵を袈裟斬りする時に、しっかり左手を引くこと。そして、次に左側の敵に斬り下す時は、臍をしっかり敵の方へ向け切ってから斬り下すこと。斬った後、血振いをして立ち上がる方向は、左側の敵が倒れている方向へ立ち上がる。
(3)「戸脇」「四方切」は、間が大切。とくに左後ろの敵を突き、右斜めの敵を斬り下した後、一瞬ここで間をとり、次の左前と正面(「四方切」の場合)は連続して斬るという流れで行うこと。
(4)「両詰」は、左右の壁が迫った狭い場所を想定した業であるため、血振いは小さく右下へ振り下ろす。また、納刀は、先ず左手で鞘をやや高く前へ引き上げ、そこへ刀を肩に絡げるように上げて回して、刀の棟が鯉口を持った左手に触れる瞬間に鞘を引き下ろして納刀する。
(5)「虎走」は、前に進む時は右足から出る。抜き付けは、左膝を床に着けずに行う。また、次の斬り下しは、左膝を床に接地して足場をしっかり固めると同時に斬り下す。後ろへ下がる時は、左足から下がること。(居合は、前へ進む時は右足から、後ろへ下がる時は左足からが基本)尚、流派、地区によっては、腰高の状態で前後に移動し、二足長で左膝を伸ばしたまま抜き付けるところもあることを知っておいて貰いたい。
10.立業之部
(1)「行連」は、自分を真ん中にして左右に並んで歩く敵を想定する。普通に歩いている右足を、斬ろうと思った瞬間、一歩ではなく半歩だけ出して左右の敵との距離を空け、先に右前の敵を袈裟斬りにした後、瞬時に左前の敵の頭部に斬り下す。
(2)「連達」で後ろへ突きを入れる時には、左脇をしっかり締めて突くこと。これによって、突きの刃筋がぶれなくなる。
(3)「惣捲」は、右足半歩出して右手で抜きざまに敵の上段を受けたら、瞬時に右足を前に進めて敵の左頭部に斬り込む。敵が後ずさる瞬間に左足を右足に付けて振りかぶり、右足を踏み込んで敵の右肩口に袈裟に斬り込む。さらに敵が後ずさる瞬間に左足を右足につけて振りかぶり、右足を踏み込んで左脇下から胴に斜めに斬り込む。さらに敵が後ずさる瞬間に左足を右足につけ振りかぶり、突然、刀を左横に倒し右足を半歩(やや少な目)踏み出して横車で水平に斬り、右足をあと僅か前に出して振りかぶって真っ向から斬り下す。コツは、横車で水平に斬る時に、あまり大きく右足を出し過ぎないこと。出し過ぎると最後の斬り下しがうまく行かない足使いとなってしまう。
(4)「惣留」は、細い橋の上で次々に襲って来る敵を一人ずつ倒す業であり、並んだ囚人の首を刎ねる業ではない。武士がそのような事をする筈がない。右袈裟を決めた後、納刀と同時に左足を右足の前まで移動させ、前に倒れた敵を蹴飛ばすようにすること。二本目の袈裟切りの後も同様にする。
(5)「行違」は、最初の右前方の敵への突きは、しっかり脇を締めて突くこと。また、左後方へ反転する際、鞘引きをしながら向き直ること。臍はしっかり相手に向かせること。
(6)「袖摺返」は、前に刀を抜いて腕を交差させた時、左手は拳を作ること。
(7)「門入」で刀を抜いて前の敵を突き刺す態勢をとった時、必ず臍が正面の敵へ向いていること。
(8)「壁添」の納刀は、「両詰」と同じ要領で行うこと。
(9)昔の「受流」は、右足を右前方へ出してスクと立ち上がり、その姿勢でしっかりと受流した。左右の足の位置はそのままで、向きだけ左へ流れる敵の方へ向け直し、中段まで斬り下す。(この時、左右の足は揃えない。)
(10)「暇乞」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは、次の点が違う。「Ⅰ」は、正面の敵に対して、頭を下げながら左手を軽く床に着けた瞬間に、素早く刀を抜いて振りかぶって斬り下す。「Ⅱ」は、頭を下げながら左手を床に着き、次に右手を床に接地させる瞬間に、素早く刀を抜いて振りかぶって斬り下す。「Ⅲ」は、左手を床に着き、次に右手も床に着いて頭を下げて礼をした瞬間に、素早く刀を抜いて振りかぶって斬り下す。「抜打」「真向」と同様、振りかぶりの瞬間に左手で鞘を引き上げ、納刀の時に鐺が床にコツンと当たらないように注意すること。
(文責 金子 光彦:無雙直傳英信流六段 平成26年1月1日「阿号之会だより」第11号、平成26年3月1日「阿号之会だより」第12号より転載。)

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居合道探求シリーズⅦ



河野稔百錬先生
(大日本居合道図譜より)


「無雙直傳英信流居合道」内表紙


「大日本居合道図譜」
内表紙


「大日本居合道図譜」
紙面の一部



「居合道真諦」表紙




 
「河野百錬先生」研究 鈴木 阿陵齋


 居合道探究シリーズⅥ・片山先生の「無雙直傳英信流居合道」
研究に続き今回も、昭和の居合道名人と称される第二十代宗家、河野百錬先生を取り上げさせていただきます。
 先ずは河野先生の足跡を辿ってみたいと思います。

 本名、河野稔。
 明治31年、大分県生まれ。
 明治45年、日田農林学校入学、剣道を始める。
 昭和 2年、無雙直傳英信流第十八代宗家穂岐山波雄に入門。
 昭和 6年、大阪に「大日本居合道八重垣会」を結成、高知の宗
 家に大阪出張を願い直接指導を受ける。
 昭和10年、穂岐山波雄宗家急逝。第十九代宗家福井春政となる。
 穂岐山宗家は高知商業剣道教師、福井宗家は同校柔道教師だ
 った由である。
 昭和13年、「無雙直傳英信流居合道」を出版。
 昭和14年、「大日本抜刀流」を発表。
 昭和18年、「大日本居合道図譜」を刊行。これは自らがモデルと
 なり業の動きを写真に写した日本初の居合道教本である。
 この頃「大日本居合道八重垣会」会員数、4百数十名。
 昭和24年頃、敗戦後の国民の生活が最も苦しい時代に、福井宗
 家は、「こんな時代に如何に土佐英信流を残せるか。かつての大
 江先生門下生や剣友を訪ねるが、皆それどころではないという時
 代であった。」と慨嘆されている。
 河野先生に、流派の第二十代宗家を受ける様再三の依頼。
 英信流は土佐のお留流、二百五十数年以前に林六太夫守政公
 が土佐の山内家に伝え、以来正統の系譜は土佐を出ていない。
 また、第十七代大江正路子敬宗家は、近代に伝えるべく口伝の
 英信流を整理統合した。
 「直傳の命脈を後世に残すことが自分のなすべき事。」福井宗家
 は、必死に「大阪八重垣会創設者の河野なら、理も、業も、非の
 打ちどころはない。」として説得したが河野先生は固辞。
 九州出身の大阪人が道統を継承することは、後に種々問題が起
 きることが予測されたのである。
 が遂に、昭和24年4月、第二十代宗家継承。
 「新時代に伝来の居合道を広める時が来た。」との河野宗家の呼
 びかけに応える賛同者は多かった。
 昭和29年、全日本居合道連盟が結成され、河野宗家は理事長
 に推された。
 同年、「無雙直傳英信流居合兵法叢書」出版。
 昭和31年、「全日本居合道刀法」を制定。
 全日本居合道連盟にも剣道人多く、昭和31年頃より全日本剣道
 連盟より居合道組織の一本化要請があり、もめにもめる内紛が続
 く。
 同年、「居合道真諦」を刊行。
 昭和49年5月、大阪日赤病院にて没。
 河野先生没後の全日本居合道連盟も、後継者問題にて分裂。
 この件については、第二十一代平井一蓮阿字齋先生が、「大日本
 居合道新聞」第25号より30号に詳細に書かれています。
 
 第十九代福井宗家より第二十代宗家を託され、多数の名著を残
し、英信流を全国に普及させる礎を築き上げ、後世に道を示され
た大恩人、第二十代河野百錬先生の経歴を概略述べてまいりまし
たが、第二十代より現第二十四代福嶋阿正齋宗家へと連綿と伝わ
る正統英信流を学ばせていただけることに、この上ない喜びを感じ
只々感謝し、微力ながら阿号之会の発展に尽力致したいと思いま
す。今後共ご指導の程宜しくお願い申し上げます。
(文責 鈴木 阿陵齋:無雙直傳英信流八段 平成25年8月
15日「阿号之会だより」第10号より転載。)


居合道探求シリーズⅥ


河野稔著
「無雙直傳英信流居合道」


同上・内表紙

※印は田口注

※1木村泰嘉先生は、平成11年(1999年)1月に逝去される。

※2頭山満翁は安政2年(1855年)4月生、昭和19年(1944年)10月没。行年90歳。
 中山博道先生は、明治5年(1872年)2月生、昭和33年(1956年)没。行年87歳。

※3平井一蓮阿字齋先生蔵書中の同箇所には傍線が書き込まれ、「居合は剣道の一分派に非ず」との注書きあり。



























































































 
「無雙直傳英信流居合道」研究 片山 浩司


 平成2年2月1日に日本武道としての居合を学びたく明心館に入門し、暫く後に先輩のKさんからいただいた本『無雙直傳英信流居合道 河野稔著 頭山満先生推奨 中山博道先生校閲』について取り上げさせていただきます。
 その前に「明心館」について少し述べさせていただきます。
 館長の木村泰嘉先生は、昭和14年武徳殿に入門、無雙直傳英信流第20代宗家河野百錬先生に師事。昭和30年居合道教士七段を允可される。昭和35年明心館道場を設立。昭和43年居合道八段を允可される。昭和47年静岡県居合道八重垣会の顧問師範として指導に当たる。昭和49年熊本県居合道無双会の顧問師範として指導に当たる。昭和54年居合道範士の称号を拝受。昭和63年2月28日関西在住居合同好人の参集を得、大日本居合道連盟に入会すべく大阪支部を結成、以後本連盟にて居合道発展の為に尽くす。※1
 今回ご紹介したいこの本の発行年月日は不明なれど、先述のように頭山満先生※2推奨とあるように、戦前に書かれているものではと推察する次第です。
 又、附録と称して153頁から188頁にかけて27項目の記述があり、それぞれに記述の日付が昭和8年等とあります。
 日本の歴史を30㎝の物差し(皇紀2673年)で喩えると、29.2㎝まで(皇紀2605年まで)が本来の日本の武家文化伝統が国民生活全体にごく普通に存在した時代です。
 残りの0.8㎝(68年)の現在に、私達が修行している無雙直傳英信流居合道について戦前に書かれたものを見てみるのも一興かと存じます。
 内容は次の通りです。一部抜粋して紹介させていただきます。
第Ⅰ章 総論
第1節 居合の意義
 居合は、我が日本の象徴たる、霊器日本刀の威徳に依りて、心を修むる道にして、剣道の立合いに対する所謂居合の意なり。
 而して古来より居合の勝負は鞘の中にありと講せられし如く抜刀の前、既に心意気を以って敵を閃光一瞬にして勝つの術にして、元来敵の不意なる襲撃に際し、能く直ちに之に応じ、先又は後の先の一刀を以って電光石火の勝ちを制せんがため、剣道の一分派として※3武士の間に創案されたる刀法にして、座居の時、又は歩行する時、其の他あらゆる時と場所に於ける、正しき刀法と身体の運用を修得し、精神を錬磨する大道なり。
第2節 居合の精神及目的
第3節 居合の沿革
第4節 居合の伝統
第5節 居合の名称
第6節 居合の種目
第7節 居合の作法並に心得
 其1  禮式
 其2  着眼
 其3  態度
 其4  鯉口の切り方
 其5  刀の握り方
 其6  刀の抜き方
 其7  懸声
 其8  用語の解
 其9  手首の格
 其10 手首の病
 其11 納刀法
 其12 刀の名称
 其13 居合修行の心得
(前略)古人は「術に終期なし、死を以って終わりとす」と曰へり。故に其の道は、終生全霊傾注の心術なれば、同好の士はいささかも怠慢することなく生涯不退の意気に燃え精進すべきものなり。
第Ⅱ章 各論
第1節 正座之部
第2節 立膝之部
第3節 奥居合之部
 其1  居業之部
 其2  立業之部
第4節 早抜之部(当流第17代宗家範士大江正路先生述)
第5節 居合形之部
 第1  無雙直傳英信流居合之形
 第2  太刀打之位
 第3  詰合之位(当流古伝の略述として11本)
 第4  大小詰     (同8本)
 第5  大小立詰   (同7本)
 第6  小具足割   (同9本)
 第7  本手之段   (同11本)
 第8  大剣      (同8本)
 第9  寝間之大事  (同6本)
 第10 外之物之大事(同6本)
 第11 上意之大事  (同14本)
 第12 極意之大事  (同22本)
 第13 極意軍馬組打(同4本)
第6節 居合の流派と始祖
第7節 居合の質疑応答
第8節 居合初心者心得
附録
 其1  随想録1~27
 其2  参考記録抜粋
(上記参考記録抜粋の中の一文に「刀の差し方」土佐藩士秋山久作翁閑話中より、として)
一、藩公が平日江戸城に出仕の時は、武士が10人位追従し、城の玄関から上がれる者は2、3人であった。そして刀を扱う者をお坊主と云って之が万般の世話をしたものである。
 明治元年の伏見の戦の3日ばかり前、(山内)容堂公に追従して参内した時、容堂公は刀も脇差も上り口で抜いて私に渡され、私はそれを紫の袱紗に包んで持って主人をお待ちしたことがあった。
一、私達が藩のお城へ登城の時は裃で、刀は玄関に刀架があって自分のものを定まった場所に架けておく。刀架は何百振りも並んでいて各自佩刀の置場所は定まっていて別にこの番人はいない。
一、他家を訪問した時は、刀を先ず玄関の側で抜いて、大抵玄関の次の間に客用の刀掛けが置いてあるからそれに掛ける。脇差は差したままで、目上の人の場合は脇差は抜いて左側に置くのが普通である。
一、私の若い時、浅草の観音様へ御祭りの時などに行ったことを覚えているが、どんなに雑踏した所でも人に突き当たるなど云うことは無く、今日のように(註 秋山翁は昭和11年1月21日93歳を以って永眠される。本閑話は其健在なりし昭和10年6月11日の閑話なり。)左側通行なぞと宣伝しなくとも、自然に左側通行が実施されていて整然たるものであった。
 それは、武士が刀を左に差しているので所謂鞘当など起こらない様、街を通る人々は左へ左へと避けて通る習慣から、自然厳然たる交通整理が行われた訳である。
一、人混みの中を歩く時、刀はぐっと上に差し、刃は常に上を向けて、人に依ってはやたらにぬけぬ様、紐などで柄を縛っておく人もあり、又バネで鍔に留め金を付けて置く人もあった。
 それ程武士は間違いの無い様に刀については細心の注意を払ったもので、やたらに鯉口を切るものではない。
 附録の中に『日本刀の斬れ味』というページで「本項は昭和7年上海事変に於ける、日本刀使用の実例を剣友の米谷奈良一氏より寄贈されしものなるが、珍重すべき尊き資料と信じ左に掲載す」とあり、一覧表の項目に、刀銘・長さ・反り・斬りし数・斬所・刀の斬味・刀身の故障及其原因・所見及記事があり、戦闘中(白兵戦)の日本刀使用の状況が表になっていますが、内容の記載は又の機会に致したく存じます。
 第5節居合形之部には第1から第13まで様々な業が書かれていますが、中には体術のようなものもあり、大変興味深く、物凄く奥の深い、汲んでも汲んでも汲みきれないのが当流であると、当流の先達に感謝する次第です。
 全てに於いて未熟者の私ですが、今やっと無雙直傳英信流の入り口に立つことが出来たかな、と思う今日この頃です。
 もっともっと学ばなければならない、また所属する阿号之会、大日本居合道連盟に対し会員としての責任を果たして行こうと決意を新たにしている次第です。
 今後共、ご指導ご鞭撻を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
(文責 片山 浩司:無雙直傳英信流八段 平成25年4月1日
「阿号之会だより」第9号より転載。)

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居合道探求シリーズⅤ





















































































 
「林六太夫守政公研究」 林 阿良齋
 

 居合道探求シリーズⅠ・「居合の初祖林崎甚助源重信公について」、Ⅱ・「無雙直傳英信流流祖長谷川英信公について」、Ⅲ・「大江正路公について」に続き、英信流居合にとっての恩人、林六太夫守政公を取り上げさせていただきます。
 そこで、文を進めて行く前に、もう一度ざっと我々が修行している“無雙直傳英信流”の流れ(歴史)を整理してみます。
 居合道探求シリーズⅠ・林崎甚助源重信公は云うまでもなく居合道の初祖であり、以来、正統の中から多くの名人・達人を輩出している。正統第二代田宮平兵衛業正は、田宮流の開祖ともなった名人であり、正統第三代長野無楽入道槿路齋は、井伊家に仕え五百石を賜ったと云われ、正統第四代百々軍兵衛光重は、金吾中納言に仕え、正統第五代蟻川正左衛門宗続は、秀吉公に仕えたと云われ、また、正統第六代萬野団右衛門尉信定も秀吉公に仕え、それぞれ秀れた大家であったと伝えられている。更に重信公の門下からは、伯耆流の始祖片山伯耆守藤原久安、関口流の始祖関口弥六右衛門氏心等も出ている。
 特に、当流をして今日あらしめた、居合道探求シリーズⅡ・正統第七代長谷川主税助英信公は、初祖以来の達人で、享保年間徳川吉宗の時代、江戸で武名を天下に鳴り響かせた剣豪で、名古屋の徳川氏に仕え、千石を領し、居合は元より武芸百般にも通じ、軍学に於いても傑出していたと伝えられている。英信公は、従来の太刀の居合から現在我々が行っている刃を上に向けた打刀の居合に改めるなど、当流の技法に大きく創意工夫を加えられ、当流発展の基礎を確立された。江戸末期に至り、当流を無雙直傳英信流と称するに至ったのはこの故である。
 正統第八代荒井勢哲清信は、英信公の道統を継ぎ、居合術を大成し(和、棒を含む)、江戸で道場を開いて多くの優れた門人を養成していたが、正統第九代林六太夫守政(土佐山内家御料理人頭、のち故実礼節方専門となる。)は、江戸勤番の時にこの門人のうちの一人で、更には大森六郎左衛門(真陰流の人、長谷川英信下で居合を学び、古流の形と英信流を組み合わせて正座の技を工夫した。)から正座の居合11本(現在、我々が学んでいる、正座の部11本・大森流とも云う。)を学び、併せて両流を土佐に伝えた。以来、土佐では長谷川英信流と大森流が一つのものとして行われるようになり、土佐山内家の御家芸と定められ、代々藩士の中から家元を継ぎ、特に、門外不出を以って、居合道探求シリーズⅢ・正統第十七代大江正路子敬公に至るまで、土佐藩にのみ伝わったのである。
 土佐・英信流は、明治維新による武士階級の崩壊によって、その土台が大きく揺らいだ。250年余りも守り伝えられて来た命脈が消えようとした。そのような状況下、当流を担うことになった正路公は、大森流、長谷川流を再編成し、名称も無雙直傳英信流と変えられ、現代に伝えられたのである。
 以上、このような流れの中での正統第九代林六太夫守政公の位置付けがご理解出来たものと思います。
 その人となりは、「よろず才能に秀でて、本職の包丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末技に至るまで諸芸十八般を極め、いずれも人の師になるに足りたと云う。
 中でも、故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、その奥を極め、様々な典礼に於ける功労により、元禄10年(1697年)には加増20石、同16年(1703年)には更に50石を加増され、都合150石を賜り、宝永3年(1706年)には御料理人頭より故実礼節方を兼ねた要職に抜擢された。
 正徳3年(1713年)病の為、要職を辞し、礼節指南はそのまま、御馬廻りとなり、享保17年(1732年)7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にてその生涯を終えた。
 この間、第四代藩主豊昌公、第五代豊房公、第六代豊隆公と三代の藩主に歴任し、君寵の衰えなかったのを見ても、いかにその人格が円熟していたかを察すべきであろうと評されている。
 先生の居合は、要職兼務の為、表芸としてではなかった為、特別に子弟を養うようなことはしていなかったが、当時、水野流、田宮流等の居合があったにもかかわらず、藩中弟子の礼を執って学ぶ者が門前列をなしたと伝えられていることからも、いかにその居合が素晴らしいものであったかが想像される。
 以上、居合道初祖林崎甚助源重信公より、居合四百数十年の歴史を辿りましたが、申すまでもなく、現在、各流派もそれぞれ伝統の上に立つ貴重な文化財であります。これらの一切を、失うことなく後世に伝えて行くことは、極めて大事なことであろうと思われます。
 また、居合道とは、文化的側面以外にも、稽古を通じて個々人の人格的側面と身体操作の技法を習得するところに、その本質と魅力があると思います。
 居合の稽古によって、自分にはまだまだ至らぬところがあると思い知り反省努力すること、頭で考えた通りに身体を動かしている積りでも身体にはまだまだ手つかずの領域があることを自覚すること、これらのことを加味しますと、現代人の我々にとっても無限の魅力があります。
 昨今の混迷の時代に、このような素晴らしい伝統文化と精神を受け継ぐ「無雙直傳英信流阿号之会」にご縁をいただき居合道に精進出来ることは無上の喜びであります。
 まだまだ未熟者ではありますが、今後一層、技を磨き心を鍛え、阿号之会、大日本居合道連盟の発展に尽力させていただきたいと念じております。
(文責 林阿良齋:無雙直傳英信流八段 平成25年1月1日
「阿号之会だより」新年号(第8号)より転載。)

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居合道探求シリーズⅣ


千葉周作公肖像




























































「千葉周作遺稿」
千葉栄一郎編
体育とスポーツ出版社

















「千葉周作公研究」 橘 阿銕齋
 

 北辰一刀流の開祖、千葉周作(1793年~1855年)について考察します。
 千葉周作の名を私が初めて知ったのは、幼少の頃読んだ漫画で、赤胴鈴之助の師匠が千葉周作であったことです。

一、千葉周作の生涯
 江戸幕末の剣豪・千葉周作は、松戸や江戸の一刀流道場で修行し、家の流派「北辰夢想流」を発展させて、「北辰一刀流」を創設した。
 北辰一刀流からは、坂本竜馬や伊東甲子太郎(新撰組)、千葉重太郎一胤など幕末の名士たちが輩出された。
 「北辰」とは、北斗七星のことで、いつの頃からか北極星とも同一視され、千葉氏の守護神「妙見菩薩」は北辰を神格化したものと言われている。
 千葉周作は、先祖を辿れば千葉常胤に辿りつく。気仙沼出身の奥州千葉氏の一族、家紋は「月星」。この「月星」というのも、月と北極星を重ねたものとも言われている。
 幼名は乙兎松・寅松。諱は成政。号は屠龍。陸前国(岩手県)気仙沼郡気仙村出身で、父は千葉忠左衛門成胤。
 忠左衛門は周作らを連れて、故あって陸奥国栗原郡荒谷村に亡命し、千葉幸右衛門のもとを頼った。その後、忠左衛門とともに江戸に出て、小浜藩剣術指南の一刀流・浅利又七郎に剣術を学んだ。さらに、下総の国松戸宿の又七郎の道場に入り、又七郎の娘婿となって浅利家を相続した。また、父・忠左衛門は「浦山寿貞」と称して開業医となる。
 浅利道場で腕を磨いた周作は、浅利又七郎の師匠である江戸の中西忠太の道場でも一刀流を学ぶが、その後、千葉家の家伝である北辰夢想流と一刀流とを併せた「北辰一刀流」を編み出したため、浅利又七郎と意見が対立し、又七郎は周作を義絶し、周作は浅利家から籍を抜き、妻(浅利の養女)を連れて独立した。(実は又七郎とは円満な離縁だったと言われている。)
 周作の兄成道(又右衛門)は、岡部範士塚越家の婿養子となり、岡部藩剣術指南に就任している。
 周作はその後、弟子とともに諸国武者修行で武蔵・上野などで他流試合を重ね、武蔵国生抜きの馬庭念流との試合に勝利して大いに名声を上げる。
 江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を開き、その後、神田お玉が池に移転した。
 彼の道場は、懇切丁寧な指導と、巧みな剣業に定評があり、「力」の斎藤弥九郎・「格」の桃井春蔵(可堂)と並んで、「業の千葉」と称され著名。「幕末の三剣士」と呼ばれた。
 弟の千葉定吉は京橋桶町に道場を持って「桶町千葉」と呼ばれた。
 周作の噂を聞いた水戸藩隠居・徳川斉昭は、彼を招いて剣術師範として迎え、天保12年(1841年)、馬廻役として百石を給される。斉昭の面前で大筒を軽々と扱ったことで、列座の面々の度肝を抜いたという。
 安政2年(1855年)12月13日に永眠した。

 周作の門弟には、有村冶左衛門、海保帆平、森要蔵ら、桶町・定吉の門弟には伊東甲子太郎・坂本竜馬らが輩出されている。
 定吉の娘・佐那(さな子)は「小千葉の小町娘」と呼ばれた。佐那によれば、坂本竜馬の許婚という。
 千葉周作の子・千葉栄次郎成之と千葉道三郎光胤の兄弟は、水戸藩御馬廻五番組に名を連ねている。

二、北辰一刀流の特徴
 北辰一刀流の稽古は、主に竹刀・防具を用いての技術中心の修行を行うが、特に「切り返し」、「掛かり稽古」の訓練をやらせた。
 木刀を用いて行う「組太刀(形稽古)」も軽視していた訳ではなく、ある程度竹刀での訓練に慣れて来ると、組太刀の伝授も行った。
 また、竹刀稽古で使う「剣術六拾八手」のその内訳は、「面業弐拾手」、「突業拾八手」、「籠手業拾弐手」、「胴業七手」、「續業拾壱手」を編み出し纏めた。
 この中には現在の剣道で使われる業はほぼ出揃っており、現在の剣道では使われない業も多数含まれている。このように、周作の剣術指導は、現代剣道に多大な影響を与えた。それは、優れた合理性に依って裏付けられた剣術である。
 他の一刀流系の流派と同じく基本の構えは星眼(正眼)。

 『千葉周作遺稿一刀流秘事』によれば、小野派一刀流の段位伝授は八段階であったが、これを「初目録」、「中目録免許」、「大目録皆伝」の三段階にし、剣術に限らす当時の武術・諸芸道では、段位が上がる度に師匠・先輩・同輩に礼物を贈る慣習があり費用がかさみ、貧乏な人間は実力があっても昇段しにくい弊害があったと言われ、このため、この簡略な目録制度は門弟に大いに喜ばれた。
 また、『北辰一刀流玄武館』によれば、抜刀術については以下のように記されている。
 『[初伝] 初伝は抜刀術の根幹をなすものである。
       座業:1本目 敵の起きる所を察し、切先でこめかみ又
                は喉に抜き付けて勝つ。
       立業:1本目 前の敵の殺気を感じるや、向うの出鼻を
                制 し小手の程合いを抜き付ける。
       この座業、立業に抜き付け、抜き打ち、受け流し、抜き突
       きがあり、廻り業、右廻り、左廻りがある。
  [中伝] 初伝の形に基づき、より実践的にしたもの。
       座業:11本  (千葉道三郎光胤派4本、小林誠次郎定
                之派7本)。
       立業:11本 (千葉道三郎光胤派4本、小林誠次郎定
                之派7本)。
  [奥伝] 強さと格(気韻)を併せ持つ北辰一刀流の奥義。
       座業:5本。
       立業:5本。
       以上10本からなる。』

 歴史上の千葉周作の一端を紹介したが、浅学菲才故、未だ理解
し難いところ多数あって、益々研鑽の意欲に駆られているところで
ある。
(文責 橘阿銕齋:無雙直傳英信流範士八段 平成24年
11月1日「阿号之会だより」第7号より転載。)

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居合道探求シリーズⅢ








































「第十七代宗家大江正路子敬公について」 村田 阿円
 

 居合道探求をテーマに、林崎甚助源重信公、長谷川主税助英信公と、中興の祖、英信流の開祖と取り上げた次のテーマとして、近代居合の業を整理された第十七代宗家・大江正路子敬公を取り上げてみることに致しました。

 大江宗家の活躍された明治から昭和初期にかけては、剣聖として称えられた中山博道先生がいらっしゃって、中山先生も充分魅力的な先生であると思いますが、我々が、日頃稽古している業を、正座・立膝・奥居合と整理されたのが第十七代・大江正路宗家であり、その足跡を辿ってみます。

 略歴は、嘉永5年(1852年)土佐旭村に生まれ、幼名浜田十馬、のち子敬と字し、盧洲と号する。幼少より藩校文武館にて剣道、柔道、居合道、軍太鼓を学び、山内容堂公に仕え、旗本隊として京都で会津・一橋挙兵に出陣(慶応3年~明治元年、17歳)。
 明治維新後は、高知県にて撃剣教授を経て高知武術会長となる(44歳)。大正13年、大日本武徳会居合道範士(73歳)となり(大正時代では中山博道先生に次ぎ二人目)、昭和2年76歳にて永眠。

 元々英信流は、土佐で長谷川流、長谷川英信流、無雙直傳流、無雙神傅流など様々な流派名が名乗られ、藩校その他で指導されていた。 第十一代宗家・大黒元右衛門清勝公の後、林益之丞政誠公と松吉貞助久盛公のお二人が第十二代宗家を名乗り、明治以降残った二派の前者が谷村派(第十五代・谷村亀之丞自雄公)と下村派(傍系第十四代・下村茂市定政公)と呼ばれ、谷村派は無雙直傳英信流、下村派は夢想神傳流と称している。

 第十七代・大江宗家は、初めは下村派を学び、後に谷村派を継ぎ、統一性の無かった業を、旧来の大森流を正座と改め、長谷川英信流を立膝と改称、また旧形11本を7本に改定、番外3本、連続早抜、連続片手早抜などを制定された。

 大江宗家の門下生が第十八代・穂岐山波雄宗家、第十九代・福井春政宗家に繋がり、第十八代・穂岐山宗家に師事した第二十代・河野百錬宗家、さらに我らが第二十一代・平井阿字齋宗家から第二十四代・福嶋阿正齋宗家と、正統居合が継承されている訳です。

 昨年のNHK大河ドラマでの「龍馬伝」で、武市半平大が土佐勤皇党の道場で居合の稽古をするシーンがあり、大江正路宗家は正しくこの時期に山内容堂公に仕えた人物であり、土佐勤皇党のこのシーンは、正座前の抜きつけであったように様に思います。

 土佐における英信流が、門外不出のお家芸であったことも研究のテーマとしては興味深いもので、次回の探究シリーズに期待したいものです。
(文責 村田阿円:無雙直傳英信流八段 平成24年1月1日
「阿号之会だより」第6号より転載。)


居合道探求シリーズⅡ


「武芸流派大事典」
発行所:東京コピイ出版部
発売元:高山本店


同上挿絵1


同上挿絵2


同上挿絵3


同上挿絵4と目次



「極意相傳」第二巻
愛隆堂













































「無雙直傳英信流々祖長谷川英信公について」 池田 裕治

 
林崎甚助公は、居合を修業する者にとって「居合道中興の祖」として尊崇されています。
 しかし、長谷川英信公(以下、英信公)は、修業する者の最も多い流派である無雙直傳英信流の流祖でありながら、その生い立ち、人となりは元より、その事績についてもよく知られておりません。
 以前よりそのことが気になっておりましたので、今回、英信公探求をテーマに調査を思い立ち、新たな資料を探して見ましたが結局見当たらず、以前読んだ「武芸流派大事典」(東京コピー出版)を繙くこととしました。
 この本は、今から30年以上前に発刊された(初版は、新人物往来社から1969年に出版された。)ものですが、居合のみならず、剣・柔術・空手・薙刀等、多くの武術、武道及び流派のことが記載されております。

 この中で、英信公については、幾つもの流派に名を見つけることが出来ます。以下、要約します。

 文禄7年(一説には慶長3年)に讃岐(土佐との説もあり)に生まれ、紀州家に仕える。後に浪人となり江戸に住む。享保4年12月死去、享年118歳。実子は無く、甥の官兵衛英政を養子として家督を継がせる。
 居合は、享保頃に、江戸の萬野団右衛門尉信貞に林崎流居合を学び、さらに古伝の技に工夫を加え、始祖・林崎甚助公以来の達人と称される。流名を無雙直傳英信流と改める。正保年中、竹川無敵との真剣勝負に勝って名を上げる。
 居合の他、長谷川流(棒・捕縛)、大島流槍術、法蔵院流長谷川派槍術、戸田長門流棒術、無究玉心流柔術、無雙直傳流兵術(柔)等、数多くの武術を修行する。
 
「始祖・林崎甚助公以来の達人」と称されることが充分頷ける経歴です。
 しかし、ここで第一の疑問が生じます。英信公は、「文禄7年生まれ(一説には慶長3年)」となっていますが、「文禄(1592年から1595年)」は、4年までで、「慶長3年(1598年)」と同年となります。そして「享保4年(1719年)12月死去、118歳」と長命です。しかし、慶長3年(1598年)から享保4年(1719年)では、121歳になってしまいます。死去の年が正しいならば、慶長6年に生まれたことになります。数え年のこともあり年代が不詳なのは、昔のこと故仕方の無いことと思われますが、さらに第二の疑問、「居合を学んだのが享保頃」とあります。この「享保(1716年から1735年)」と言えば、英信公にとって、115歳から死去までの間です。
 如何に多くの武芸を通じて鍛錬したとは言え、100歳を過ぎて新たな武芸を学ぶというのは大いに疑問です。単に年号の間違いか、他に事由があるのでしょうか。
 
 「無雙直傳流兵術(柔)」というのは、居合の流名と酷似しています。この武術を詳しく見てみましょう。
 
祖は、大和国大林山泥河の住僧、意慶房長遍。天真正より伝を受け「日本組討」の太祖となる。7代目飯篠山城守家直が後に改名し、従前の「組討」を改めて「無雙直傳和儀」と号する。
 長谷川蔵之助の時に「和百手」を以て名を高め、
(中略)現在、信州埴科郡に25世寺沢儀衛門宗因がいる。
天真正-意慶坊長遍-大江金麿勝貞-大江七郎勝長-大江大膳太夫勝晴-楠美三齋入道晴朝-楠美右京太夫晴蓮-飯篠山城守家直-日名智誓齋清正-日名太郎左清成-井上勘蔵信光-伴長門守高美-伴助九朗実行-成田亦兵衛吉伯-須田勘齋入道朝久-分辺三衛門国房-百々軍兵衛尉光重-萬野団右衛門尉信貞-大加賀意信齋幸次-長谷川蔵之助(19代)-長谷川官兵衛英政-小菅清誓齋正継-荒井方堪-石原亦兵衛一益
(以下、略)
 一方、林崎甚助公以来の居合道統の系譜は、
林崎甚助源重信-田宮平兵衛業正-長野無楽入道槿露齋-百々軍兵衛尉光重-蟻川正左衛門宗続-萬野団右衛門尉信貞-長谷川主税助英信-荒井勢哲清信-林六太夫守政(以下略)
 19代長谷川蔵之助(=英信公)の2代前と3代前には、居合道統4代目の百々軍兵衛尉光重と6代目萬野団右衛門尉信貞の名前を見ることが出来ます。
 英信公にとって、柔と居合の師は同じです。さらに英信公の甥・官兵衛英政の後の21代目小菅清誓齋正継は、居合道統8代目荒井勢哲清信と同一人物説もあります。小菅の後の荒井方堪となると名字も同じです。これは偶然の一致でしょうか。
 いずれにしてもある時期、居合と柔術が共に修行されていたことが分かります。一方、土佐に伝わった柔術は、何時の頃からか伝承されなくなったようです。「武芸流派大事典」によれば、別系が信州に伝承されているとのことです。
 英信公が、柔を学んだ時期が何時なのかははっきりしませんが、柔術の修行、打突や投げ技は、高齢になってから始めたのでは、如何に若い頃鍛えたとしても無理ではないでしょうか。若い頃から柔術を学んでいたのであれば、多少の時間のずれはあったとしても、居合も早い時期に修行したと考えるのが自然ではないでしょうか。「始祖・林崎甚助公以来の達人」と称された英信公が、高齢で居合を始めたというのは奇妙な話です。

 英信公の年齢118歳が、二人分の年齢ということはないでしょうか。武道に限らず、名前を継ぐというのはどの世界でもありました。現在でも歌舞伎をはじめ芸能などではよく見られる通りです。2人=2代の英信公によって居合を大成して行った、初代英信公と2代目英信公が、118歳を生きて作り上げたものと考えるのは、奇妙なことでしょうか。柔術の宗家に甥の名が見られるのに、居合道統にはその名が見られないのも不思議な気が致します。

 少ない資料から勝手な推測となりました。これを読まれた方で、資料を持っている、また独自の見解があるという方は、是非ご教示いただきますことを、切にお願い申しあげます。
(文責 池田裕治:無雙直傳英信流八段 平成23年1月1日
「阿号之会だより」第4号より転載。)

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居合道探求シリーズⅠ



山形県村山市林崎
国道13号山形バイパス
林崎居合神社入口



林崎居合神社本殿


林崎居合神社本殿内
源重信公像と、奉納した
とされる愛刀「信国」



中山義秀「新剣豪伝」
新潮文庫


童門冬二他
「人物日本剣豪伝二」
学陽書房人物文庫


牧英彦
「剣豪その流派と名刀」
光文社新書


牧英彦「抜刀秘伝抄」
学研M文庫


牧英彦「抜刀復讐剣」
学研M文庫
 
「居合の初祖 林崎甚助源重信公について」 田口 阿勢齋


 居合の初祖と言われる林崎甚助源重信公について、かつて無雙直傳英信流居合兵法正統第二十一代宗家 平井阿字齋先生からいただいた「居合道概説」には、「居合の初祖(通常中興の祖といふ)は、永禄年間の人、羽州(山形県村山市大字林崎)最上家の臣、林崎甚助源重信公にして其の流名を林崎夢想流、又の名を重信流と唱えた。」と僅か2行の説明しかなく、昇段審査の学科試験の丸暗記には大変好都合であったように記憶しておりますが、一体、林崎甚助源重信公(以下重信公)とは、どのような人物であったのでしょうか。

 重信公の実父浅野数馬源重治は、室町幕府第十四代将軍足利義晴に仕え、将軍家礼法であった伊勢流(足利礼法)の指南役であったそうでありますが、将軍家没落とともに流浪の身となり、羽州楯岡の最上豊前守に仕えていたそうであります。実母は、高森某の娘菅野との説があります。

 重信公は、天文(てんぶん)11年(1542年)、出羽の国村山郡楯岡在林崎村に生まれました。幼名を民治丸(たみじまる、浅野民治丸)、名字は林崎、通称は甚助、本姓は源、諱は重信。

 天文17年、民治丸6歳の折、父浅野数馬が、同じ最上家の家臣である坂上主膳一雲斎に、主家行事での礼法の採用を巡って諍いとなり、夜更けに碁打ちの帰宅途中闇討ちをされてしまいました。坂上主膳は小太刀の達人であったそうでありますが、母菅野は、幼い民治丸に仇を討たせるべく、楯岡城の武芸師範東根刑部太夫につけて剣術の修業に精進させ、弘治2年(1556年)林崎明神に百日参籠した折、抜刀の神伝を授かったとのことであります。

 永禄2年(1559年)には神夢想林崎流を創始し、元服して名を林崎甚助源重信と改め、仇討の旅に出立します。早くも永禄4年(1561年)には京で仇を討ち、帰郷して母に孝養を尽したそうであります。帰郷した折、林崎明神に三尺二寸三分の愛刀「信国」を奉納したと言われています。翌永禄5年、母菅野が病死してしまい、重信公は飄然として剣の旅に出ます。時に21歳。

 永禄8年(1565年)には鹿島に赴き、天真正神道流の修練に励んだそうであります。文禄4年(1595年)から一宮(埼玉県大宮市)に住まいし、慶長3年(1598年)より廻国修行の旅に出ます。元和元年(1615年)、武州川越に門弟の高松勘兵衛を訪ねますが、翌年奥州に旅立ち、再び帰ることは無かったとのことであり、没年は不詳であります。

 この間、近隣の米沢、会津での門弟育成をはじめ、北条軍加勢説から加藤清正公からの招待説、或いは田宮重正(田宮流開祖)、関口氏心(関口流開祖)、片山久安(片山伯耆流開祖)等々の門弟育成説まで伝承されております。

 尾花沢市歴史文化専門員の梅津保一先生によれば、「江戸時代、重信公の直門や孫弟子によって居合は全国に広まった。その後、新庄・庄内・秋田・仙台はじめ遠く江戸・伊勢から重信公を崇敬し林崎明神に参拝、神前で居合を奉納する武士が多くなった。かくて重信公の偉業を知った村人によって、重信公が神として林崎明神の境内に祭られたのが居合大明神で、文化12年(1815年)以前のことと言われている。明治7年(1874年)、林崎大明神が村社熊野神社となった時に合祀され、村社熊野居合両神社として今日に至っている。」と著わされております。

 重信公の生年、事績については確証が乏しく異論が多い訳ですが、居合道人に於かれましては、無雙直傳英信流第二十代宗家河野百錬先生の著書「居合道真諦」に掲載されております「第三編 林崎甚助源重信公伝」をご参照いただくのが最適かと存じます。また一般には、吉川英治、小松多門、中山義秀、童門冬二、牧英彦らの作家による作品を通じて身近に感じることが出来ますのは、現代に生きる我々にとって誠に有り難いことであります。
(文責 田口阿勢齋:無雙直傳英信流範士八段 平成22年
5月1日「阿号之会だより」第3号より転載。一部追補。)


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