居合道探求シリーズ⑮
2009.06.28「居合兵法無雙直傳英信流第二十四代宗家継承披露式並びに祝賀会」
2009.09.19「居合無窮」碑(平井一蓮阿字齋名人揮毫・建立)の前で、福嶋宗家ご夫妻
2010.02.26福嶋宗家、聰武支部訪問
2012.07.07阿号之会関東地区第1回指導者講習会
2023.08.20阿号之会関東地区第12回合同稽古会
林崎居合神社(山形県村山市)林崎甚助源重信公 |
「流派紹介」無雙直傳英信流阿号之会
居合兵法無雙直傳英信流阿号之会 事務局 田口阿勢齋
一、 阿号之会の設立
正式名称は、居合兵法無雙直傳英信流阿号之会(以下、阿号之会)と言い、設立は、平成21年4月1日です。
設立に先立つ1月、福嶋阿正齋範士十段が、賀陽宗憲殿下(以下、宗憲殿下)より、正流正統無雙直傳英信流第二十四代宗家に認証されました。6月には「居合兵法無雙直傳英信流第二十四代宗家継承披露式並びに祝賀会」が、東京會舘に於いて、宗憲殿下はじめ北辰神櫻流居合兵法菅沼延之第三代宗家、範士十段故小山阿光齋先生以下、阿号之会と大日本居合道連盟(以下、大日居)の高段者が参集し、厳粛かつ盛大に執り行われました。
阿号之会は、前年の晩秋に不慮の事故により亡くなった第二十三代故清宮芳郎阿陽齋宗家(以下、清宮宗家)が主宰されていた陽集会を引き継ぎました。名称を新たに阿号之会としたのは、第二十一代宗家故平井一蓮阿字齋名人(以下、平井宗家)が創立された阿字会以来、百数十名を数える剣号“阿号”を允可された高段者が中心となって、正流正統の無雙直傳英信流(以下、英信流)居合を維持し発展させて行きたいとの強い思いからでありました。
二、阿号之会の活動
発足後、直ちに開始した活動は、福嶋阿正齋宗家(以下。福嶋宗家)直々の支部訪問稽古会でありました。この活動は、平成27年まで6年間に亘って行われました。またこの間、平成24年からは、五段以上の高段者を対象にした指導者講習会、四段までの初・中級者を対象とした合同稽古会と仕訳して、先ず関東地区から開始し、次いで九州地区、平成25年には関西地区へと展開しました。現在までに、関東地区ではそれぞれ12回、九州や関西地区では、それぞれ合同稽古会として4回、3回開催しております。
この講習稽古会を開始した当初の指導内容は、礼法であり基本動作でありました。正しい用具と服装、日本刀の正しい持ち方や礼の仕方、座り方など、本来、居合道を学ぶ初心者が最初に身につけなければならない必須事項が、長年なおざりにされて来ていた実状が如実に明らかになったところでありました。
この講習稽古会の中では、会が進むにつれて、福嶋宗家の気合の籠った叱咤激励の大きな声が会場に響き渡ります。既に32号となる「阿号之会だより」や、頒布した多数の「講習稽古会ビデオ」をご覧いただければ一目瞭然でありますが、福嶋宗家の“正流正統の居合を皆さんに伝え残したい”という熱い思いがリアルに伝わってまいります。誰言うともなく、福嶋宗家の“渾身熱血愛情指導”と称されているところであります。最近では、無作法を叱咤されるケースは激減しました。しかし、“正流正統の居合”に直ったかと問われれば、まだまだ憂慮すべき状況にあると言っても過言ではないように思われます。以って瞑すべしであります。
三、居合道(無雙直傳英信流)の道統略史
ここで、居合道の道統について振り返ります。居合の初祖は、林崎甚助源重信公(以下、重信公)であります。まさに戦国時代が生んだ不世出の剣神であり、その後の居合道の道統で重信公の影響を受けていないものはないと言われています。流名を林崎夢想流またの名を重信流と唱えました。
それでは、なぜ英信流なのかと言えば、江戸時代に第六代萬野団右衛門信定に学んだ第七代長谷川英信(以下、英信)が、目録に英信流と記したことから、英信流、長谷川英信流の開祖と称されたことに由来すると言われています。英信は、剣術、槍術、棒術、柔術など武芸全般に優れ、幾つかの武芸の開祖となるなど、初祖以来の名人と謳われました。また、英信の時に、土佐藩江戸詰めの料理人頭であった林五左衛門政良に英信流を伝授したと言われています。
さらに第八代荒井勢哲は、宗家を土佐藩江戸屋敷料理人頭取の林六太夫守政に禅譲し、これにより英信流は本格的に土佐に伝わることとなりました。英信流は、土佐藩の芸家制度や藩校での教授などにより庇護されますが、御留流として藩外不出となり、これ以降、土佐藩のみにて継承されるところとなりました。
時代は下り昭和2年、第十八代穂岐山波雄宗家の時に、大阪の河野稔師に招聘されたことを機に、御留流であった英信流が初めて大阪に伝わることとなりました。また、第十九代福井春政鉄骨宗家は、戦後間もない昭和25年、第二十代宗家を河野稔百錬範士(以下、河野宗家)に継承しました。
河野宗家は、昭和29年、全国に散在していた居合道同好の士に呼びかけ、全日本居合道連盟(以下、全日居)を結成し、会長に池田勇人首相を迎え、居合道の振興に尽力しました。
第二十一代となる平井宗家は、当初神道無念流、大森流を学びますが飽き足らず、全日居結成を機に、河野宗家に師事しました。昭和38年に阿字会を創立、全国に支部を設けて後進の育成に努めました。昭和49年、河野宗家死去の際には全日居の副理事長を務めていました。昭和50年、賀陽邦壽殿下(以下、邦壽殿下)認証の下、第二十一代宗家を継承するとともに、大日本居合道連盟(以下、大日居)を結成し、会長に邦壽殿下を迎えました。昭和61年、邦壽殿下薨去に伴い、阿字会、大日居とも、第二代会長に賀陽宗憲殿下を迎えました。
平井宗家は平成4年に死去され、子息の平井明阿字齋範士が第二十二代、阿字会会長を継承しましたが、平成18年、体調不良により辞退し、冒頭記載の通り、清宮宗家が陽集会を創立し、賀陽宗憲殿下認証の下、第二十三代を継承しました。
平成29年末には宗憲殿下が薨去されたため、阿号之会、大日居とも、一旦会長席が空席となりましたが、令和4年、現賀陽家ご当主の賀陽正憲様に名誉会長にご就任いただき現在に至っております。
以上、英信流の道統を振り返りましたが、重信公以来、凡そ450年に亘り、先達の命懸けの修業と艱難辛苦を乗り越えて来た努力と幸運により道統は維持されて今日に至っております。これまで先達・先輩から懇切な指導を受けて正流正統の英信流を学ぶ機会を得た我々は、これを当然とせず、この道統に深く感謝し、謙虚な気持ちで正しい居合の研鑽と鍛錬、後輩への継承に努めなければならないと思料する次第であります。 以上
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居合道探求シリーズ⑭
「居合道真諦」表紙
(平井阿字齋名人蔵書)
「居合道真諦」内表紙
(「河野名人より」平井阿字齋書)
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無雙直傳英信流第二十代宗家河野稔百錬先生著
「居合道真諦」に居合道の真髄を学ぶ
一、「居合道真諦」は、無雙直傳英信流正統第二十代宗家である河野稔百錬先生が、「正統の正流を学ぶ者の中に、多々当流に悖るものある嘆ずべき現状に鑑み、斯道の眼目と考えられる最も基本的な問題について、先師の面授に基づき之を記述し、其の異を正さんとして、昭和三十三年二月『無双直伝英信流嘆異録』の小著を刊行」されたものが大本であります。
二、その後、昭和三十七年二月十九日付にて「同志多数の要望に依り(中略)林崎甚助源重信公の伝記の一端を記し、併せて平素信ずる斯道の小見断片をも掲げ、茲に『居合道真諦』と名付けてこの一刊を刊行せり。(居合道真諦
自序より)」との経緯で、昭和三十七年四月三日に【非売品】として発行されました。
三、「居合道真諦」発行後 既に五十八年、河野先生没後からも既に四十六年を経過しております。今斯界の状況を見るに、河野先生ご指摘の通りの「歎ずべき現状」に驚きを禁じ得ない次第であります。ここに改めて「居合道の基本」と「斯道の眼目と考えられる最も基本的な問題」とを抜粋し、礼式と基本動作の確認ならびに「当流に悖る異を正す」契機とし、河野先生と同様の危機感を持って「正統正流」を再認識する一助とすべく、この稿にて一部を紹介し、河野百錬先生に居合道の真髄を学ぶ契機としたく存 じます。
四、また、この間の時代変化は激しく、言葉使いも大きく変わり、原文のままでは読み難い向きもあり、極力文意を損なわないよう配慮しつつ、抜粋部分は現代語訳としました。
五、「居合道真諦」は、この二編以外にも、「居合の本義と眼目」から「歴史」「先賢の遺教」「初心集」「全日本居合道刀法」まで、河野先生の居合道にかける真面目が満載された、我々居合道を学ぶ者にとって必携の珠玉の名著であります。元々非売品ではありますが、願わくば、この稿を手引として原本を探索入手され、居合道の真生命を追究していただくことを期待するものであります。
六、現代における居合の稽古・鍛錬は、「形」稽古が主体であります。人は精神のみならず、体格、体力、運動神経、年齢、性別において千差万別であります。如何に先達・先輩・指導者に「形」を似せようとも、根本が違うものは同様とはなりません。
七、そうした意味で、基本は変わらないにも拘わらず、諸々の所作の違いが生じるのは当然であります。それは全く流儀の違いという程のものではないのです。また、人はそれぞれの能力の中で工夫・研究する生き物ですので、長い修行の年月の内に、容姿・気魄・気位まで違って当然と言えます。
八、文中、※印また青字で 記載した注書きは、先達・指導者の間でも、こうした違いはありますよという注意心で記載しました。
九、願わくば、こうした枝葉末節に拘らず、本質を踏まえた上での自由な工夫や研究を重ねていただきたいものです。
十、紙幅に限りがありますので、数回に分けてお届けする予定です。
抄訳 目次
第一章 居合道の基本
第一節 礼式
第二節 抜きつけ(斬りつけ)
第三節 上段に振りかぶる
第四節 斬下し(打下し)
第五節 血振い
第六節 納刀
第二章無雙直傳英信流を学ぶ上で気をつけたいこと
一、業の理合のこと
二、抜きつけのこと
三、斬下しのこと
四、右手のかかりのこと
五、納刀のこと
六、血振いのこと
七、目付のこと
八、生気のない居合のこと
九、鞘手のこと
十、抜きかけの柄のこと
十一、半身の構えのこと
十二、早抜きのこと
十三、片手抜打ちのこと
十四、当流の正統と傍系のこと
無双直伝英信流系譜抄
十五、居合道の回顧
十六、居合道所感
十七、我が修養の目安
◎柄手の参考
第一章 居合道の基本
第一節 礼式
礼は武道の基本である。礼を疎かにしては武道は成立しない。居合道に取り組む者は、敬虔な心持ちで誠意をもって礼を研究しなければならない。
(演武をする際の「始礼」の例)
一、神前の礼(立礼)
道場の末座に進み、右手に刀を(刃を後方、柄も後方に、刀を四十五度ぐらいに)持ちかえて最敬礼をする。左腰に刀を戻し、道場中央寄りの下座に進み出て正座する。
二、刀に対する礼(座礼)
左腰につけて着座した刀を、鞘のまゝ右斜前四十五度の方向に抜き取るように抜き、柄を左斜前に傾けつゝ鐺を右斜前の床につけ、柄を左に刃を手前に、膝より一尺ぐらい隔てて前に一文字に、静かに刀が動かないように置く(刀の中程が体の中央にあること)。左手右手と順に両手をつき(両手の人差指と親指で三角形を作るように)腰を浮かさず最敬礼をする。
三、帯刀
座礼の後、右手人差指の先を鍔にかけ、鞘を握って刀を起こし、膝の線の前方約三寸のところ、体の中央に刃を手前にして静かに立てる。鞘の下方三分の一のところに左手を添えて下に運びながら、鐺を左手にて持ち上げ帯に差す。袴の下方の紐二本を残して、帯の一番上に差す。
※袴の下方の紐一本を残して、帯の二枚目に差すとの教えもあり。
◎演武の終りの「終礼」は、凡そ「始礼」に準ずる。
◎これらの動作中、刀を前に置いた時、また立てた時は、必ず目の高さの前方を一旦正視してから次の動作に移ること。
第二節 抜きつけ(斬りつけ)
(正座「前」の例)
抜きつけは、敵に対する「先」の第一刀であり居合の「真生命」とする最も重要な刀法である。
一、打ち向かう敵をしっかりと見定める心持ちで、充分「気」の満ちた時に左手を鞘口に運び(※左右同時との教えも)、鞘を握りながら(※前に送り出しながら)親指で鯉口を切る(鯉口を切るのは抜刀の準備であり、鯉口を緩めなければ刀はスムーズに抜けないものである)。右手をやわらかに柄にかけ(右手が柄にかかる頃、腰を上げつゝ直ちに両足の爪先を立てる)、刀刃を(鞘を)次第に外に傾けながら抜きかけ、物打部が左四十五度に傾くやいなや、左手を(鞘手を)後方に充分に引くと同時に、右足を踏み出し、鞘を真横水平(刀刃の運動方向)に返しながら横一文字に抜きつける(刀刃の方向は真右に)。
※右足の踏み出しは、鞘引きと同時ではなく、足体剣の法則にて、足が先行するとの教えあり。
二、左肩を上げることなく、右肩も肩を落として左後方に(※反作用として)引くことが重要である。左右両肘も浮かさないこと。
三、抜きつけた刀身の位置は、右拳から正面に引いた直線上に切先があることを、初心者指導の原則とする。
◎熟練すれば、切先を以って敵を制する心持ちとすべく、幾分切先が内方となる。
◎この場合、切先が外方になると迫力不充分となる。
四、抜きつけた刀の高さは、肩を落とした状態で両肩をつなぐ水平線より上がらないこと。
五、右拳は、踏み出した右膝の横線上にあるぐらい前に出すこと。
六、刀は水平を原則とするが、切先部が上がるよりも幾分下がる心持ちである。
七、上体は、下腹部を前に押し、腰部に(丹田に)充分な気力を注いで真っ直ぐに、また踏み出した右足の膝の内方角度は九十度を超えないこと。
八、後脚の膝と上体は、ほゞ一直線であること。
九、抜きつけた時、上体はあくまで敵に正対し、右拳は強く握り締め (小指と薬指の中程で強く引き、親指の付け根で強く押す)左手は鞘を握ったまゝ肘とともに後方に(※真後ろでなく背骨方向に)引く心持ちである。
◎抜きつけは、腹を決して後ろに退かず、前を責める心持ちで行うことが大切である。
◎抜きかけより抜きつけるまでは、気を以って敵を圧倒し、柄頭で敵を牽制する心持ちでなければならない。
◎錬磨を重ねた後は、柄にかける手も抜く手も、その動きを覚らせず、抜く速度も腹部に気を籠める速度も、序破急の法則に則り、すべて気振りを見せず、スラリと滞りなくやわらかく円く極めて自然に、内には充分な気迫を籠めて抜刀し斬りつけることが重要である。
◎抜きつけた時、気剣体一致の方便として、初心の間は、足音を立てることは自由であるが、足音を立てずに気剣体の一致を体得することが大切である。
◎居合の本旨は、抜刀の瞬間すなわち片手抜打ちの一刀で勝負決するもので、極言すれば、抜きつけた後の両手を使って行う刀法は、いわゆる剣道となるものである。
◎抜刀、運剣、体の運用の場合に足音を立てることは、武道の本旨ではない。足音を立てるのは、初心者が鍛錬する際の方便である。
(文責 田口阿勢齋 : 「阿号之会だより」第28号(新年号)より転載。 前文の十、に、「数回に分けてお届けする予定」と記しましたが、善意の紹介記事でも「引用部分」が多くなりますと、「改正著作権法」に抵触する恐れがあります。「抜きつけ(斬りつけ)」のみの紹介とさせていただきますことをお赦しください)
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居合道探求シリーズ⑬
「居合兵法無雙直傳英信流概説」
(阿号之会発行)
「Musou Jikiden Eishin-
Ryu Gaisetsu」
(Agou-no Kai)
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無雙直傳英信流修業者の心得三十五則
(「居合兵法無雙直傳英信流概説」より)
居合道探求シリーズ⑬に引き続き、「居合兵法無雙直傳英信流概説」から、「無雙直傳英信流修業者の心得三十五則」を紹介します。
礼法に準じる項目から、基本的な心構え、基本動作の要諦まで懇切に教示されております。無双直傳英信流を修業されていると自認されている剣士であるならば、充分熟読玩味いただいて、先達の思いを汲み取っていただきますようお願いします。
(刀の取り扱い・服装の 心得〉
一、刀を大切に取り扱うこと。
二、刀の取り扱いは、礼法通り正しく行うこと。
三、目釘の弛み、折損等、常々、都度、良く確認すること。
四、提刀の時、また帯刀して動作を行う時は、必ず左親指を鍔にかけて、刀が鞘走ることのないように注意すること。
五、稽古に際しては、常に清潔で折り目正しい服装で行うこと。
〈道場での心得〉
六、稽古に際しては、率先道場の清掃に努めること。
七、道場内の座位、序列は段位順(昇段順)、入門順を基本とする。
八、神座・上座に向かい、または神座・上座を右にして抜刀せず、神座・上座を左にして演武を行うこと。
九、演武の位置は、道場の中央に近い下座であること。
〈業の心得〉
十、居合の動作は、全て対敵動作であることを忘れないこと。敵を忘れた居合は居合ではない。
十一、着眼は、一定の箇所に固着せず、八方正面を見通す心持ちで、「遠山の霞」の目付であること。動作中は仮想の敵に着眼し、表情を変えず瞬きも気取られないよう努める。目付の正しくない居合は居合ではない。
十二、膝を床につくのも手をつくのも左右同時にすることなく、左より先にし、上げる時は右から先にする。(左右同時にするのは、変に応じる時、瞬時に対応できないとの先達の心得である。)
十三、帯刀した時は柄頭が身体の中心に、納刀の時は鍔が身体の中心にあること。
十四、正座した姿勢は、胸を張らずに肚を出し、臍下丹田に充分の気力を込める。顎を引いて首筋を伸ばし、天空を突き上げるように颯爽と、威風堂々の気魄が籠もることが大切である。
十五、立業に於いても正座と同様の心持ちであり、重心は、常に両足の中間に置き、前足膝は幾分屈め、後足膝は伸ばし気味に、後足膝で前足膝を押すように、常に両脚膝を内側に絞り腰を締めることが肝要である。
十六、業の始まりに古来三呼吸の教えあり。着座し緩やかに二度呼吸して三度目の息を吸い終わるところから抜きかけ、気を臍下丹田に籠めるにしたがい、その籠める速度と同速度で抜きつけること。
十七、呼気の時の心身は「実」、吸気の時の心身は「虚」である。動作中に於ける「虚・実」、業と業の呼吸の間を良く研究すること。
十八、抜きつけ(片手抜 きつけの第一刀)は、居合の生命である。必殺の刀法であることを忘れず、真に敵を斬る意識でなければならない。
十九、刀を抜く速度に「序・破・急」の教えあり。抜きかけてより次第に早く、剣先が鯉口を離れるところを最高速度とする。臍下丹田に気を籠める速度も同様である。
二十、古来より、『居合の勝負は鞘の中にあり』との教えの通り、抜刀の瞬間に敵を両断する気魄が最も大切である。
二十一、抜刀納刀共に鞘手(左手)を充分に働かすこと。とくに抜刀時の鞘手の活動が不充分であれば、居合とは言えない。
二十二、すべからく右手の活動は左手に、前方への動作は後方に、右側への動きは左側にと、それぞれその裏に活動の根源がある。その裏側の働きに注意し、裏が空虚にならないよう注意することが必要である。
二十三、柄への手のかかりは殊更に大きくせず、極めて自然に、一切敵に気配を感じさせないことが大切である。
二十四、柄の握り方は、縁金を避けて右手をかけ(拳が鍔に密着する程握っては運剣に支障を来たす)、右手小指から指二本空けて左手をかける。(両手の間隔が広過ぎるのも狭過ぎるのも作用不充分となる)
二十五、柄を握る手(これを手の中と言う)は、力を入れて強く握ることなく、両手の小指、薬指、中指の順に両手の力を等しく、両拳を内側に柔かく絞り込む心持ちにて、手で握るのではなく臍下丹田で握る心持ちであること。
二十六、刀を真向に斬り下ろす時は、臍下丹田に充分な気力を注ぎ、手も身体も柔らかに、肩を充分落し、初心の間は先ず肩を中心として剣先で空中に円を画くように物打部に充分の気魄が籠もるようにし、次第に錬磨を重ねれば、肩の中心を肚に移し、臍下丹田を中心として刀を操作するよう留意すること。
二十七、諸手で斬り下ろす時は、左手は斬り手、右手は添え手の意識で、左手を主、右手を従として斬り下ろすこと。
二十八、斬る時は、斬り下ろすにつれて必殺の気と力を籠めて柄を握る。人差し指は、殊更に伸ばすことなく軽く屈め、必要に応じて直ちに握る心持ちであること。
二十九、初心の間は充分に落ち着いて業を大きく伸び伸びとゆっくり行い、業と業との間に区切りを作って、決して素早く行わないこと。
三十、動作中は、奥歯を軽く合わせ、舌は軽く上顎につけ、敵を逃がさぬよう自分の前額部を敵中に割り込んで行く位の前進の気勢と体勢が大切である。但し、如何なる動作も、腰を屈めず、腹を前に出し臍下丹田に充分な気力を籠めることは必要であるが、腹を出すことに捉われて反身になっては気も身体も充分とはならない。殊更に腹を出さずに上体を真直ぐに臍下丹田に気力を籠めた自然な体勢を良しとする。初心者に於いては、往々にして刀を抜きつけた時、上段に振りかぶる時および 切上げた時に、上体を後方に反らす傾向があるが、充分注意すべきである。
三十一、また、初心者が、刀を斬り下ろす時に頭を動かしたり上体で拍子をつけて前後に揺り動かすのは、両腕と肩に「凝り」があるのが原因である。「凝り」は自分の「虚」であり、「虚」は敵に乗じられることとなり、自分の死命を制せられるところとなる。それ故、臍下丹田の充実を図り、手も身体も少しも「凝り」のないよう注意して修業することが大切である。「両腕を充分伸ばして斬り下ろせ」との初心者への注意にいつ までも捉われて(意識の「凝り」)、殊更に引き斬りの動作をし、両腕を伸ばし過ぎるために悪癖となることも多いので注意を要する。
三十二、刀に使われてはいけない。自分の体を元として刀を使うこと。斬り下ろす瞬間には既に両足共に地につき確固たる体勢であるべきこと。いわゆる足至り体至り刀至るの順序でなければならない。
三十三、立っている時も歩行する時も上体と足は、一歩踏み出さんとする体勢であること。業により一歩退く場合も気と重心は後ろに退いてはならない。
三十四、両足の爪先に力を入れず軽く浮かすように、後ろ足の踵は少し上げて、常に両脚の足心で柔かく踏むようにすべきである。
三十五、全ての業は、その一動ごとに充分な気魄を必要とする。一動の終りに確かな気力の締りがあることが大切で、次の動作は新たな気力と力によって行う。熟錬するに従い、烈々たる気魄の中に業の間を詰めるよう心掛ける。
以上、三十五則
(文責 田口阿勢齋:「居合兵法無雙直傳英信流阿号之会概説」から転載)
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居合道探求シリーズ
(特別編)
「居合兵法無雙直傳英信流概説」
(阿号之会発行)
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礼法について
(「居合兵法無雙直傳英信流概説」より)
大会や稽古会に於いて、礼法を身につけていない剣士が散見されます。礼法は「流派の姿・形」であり「作法」です。「作法」ができなければ「無作法」となります。弟子の「無作法」は、指導者の責任です。また、永年惰性でやって来て「自己流」になっている熟練剣士もいます。
一度正しく身につけてしまえば空気のようなものですから、折角の「無雙直傳英信流概説」を開いて、おさらいをされては如何でしょうか。
一、堤刀
刀を左手に持ち、刃を上に棟を下にして親指で鍔を押さえる。下緒の下端から三分の一のところを右人差し指と中指の間に挟んで持ち、その下緒を左手の人差し指と中指の間に挟む。左腰に提げ、力を抜いた自然体が提刀の姿勢となる。
二、神前の礼
提げた刀を前に出し、下緒を前記の反対に右手に取る。下緒を挟んだまま右手人差し指を鞘の棟の方に伸ばして栗形下部にて右手に持ち替え、刃を後ろ棟を前に向けて背筋を伸ばして立ち、神座に向かい礼をする。立礼はこれに倣う。
三、着座
着座は、神座または上座を左にして着座する。提刀の姿勢から左足をわずかに引き、袴の左右内側を順次外側に捌き、左膝を前に進めてつき、次に右膝を左膝に揃えて着座する。両足裏は重ねず(重ねても親指、左右親指がつく程度で良い)、両膝の間隔は拳一つ程にして静かに着座する。
右人差し指と中指の間に下緒の下端から三分の一のところを挟み、右手親指で鍔、他の指で鞘を握り、左手は指を揃えて伸ばして左腰にあて、軽く鞘を押さえながら右手で鞘ごと抜き取るように鐺を右後ろに運ぶ。刀を床に置く際は、音を立てないよう鐺からつけ、前に倒すようにし、刃を内側に棟を外側に、鍔が膝の線にあるように体側より三寸程離れたところに置く。
肩の力を抜き、両手は脇腹を打たれないよう自然に垂らし、手は股(もも)の付け根に指を揃えて置く。肘を張らないよう気をつける。目は、半眼にして水平線上遠くの山にたなびく霞を望むが如く(この目を「遠山(とおやま)の霞」と言う)、顎を引いて臍下丹田に力を入れる。上体が屹立し、八方ならびに正面の敵に対し、何時でも如何ようにも応じられる心と身体の構え、態度でなければならない。
四、座礼
左手を、指先を伸ばして五寸程前につく。次に右手をついて両手の人差し指と親指で三角になるようにして頭を下げる。礼をする際、頭を身体の線より下げ過ぎると襟が離れるので注意する。頭を下げ、右手、左手の順に元の姿勢に戻る。
五、刀礼
右手で下緒、刀を取って鐺を右斜め前一尺二、三寸程に出し、刃を手前にして置き、下緒を鞘の棟側から鐺に回す。刀が身体の中央となるように置く。正対した後、座礼と同様に礼を行う。
六、帯刀
下緒の下端から三分の一のところを右人差し指と中指の間に挟んで(摘まむのではなく中指で掬うように)取り、そのまま右手で鯉口を握り、人差し指を鍔の耳にかける。終礼の時は親指をかける。刀を身体の前四、五寸のところに立てる。左手を指ごと伸ばし、刀の物打部の鞘に添える。そのまま鐺まで滑らせ左腰に運ぶ。終礼の時は左手で持つ。帯の身体から一重のところに鐺から差して、袴の下紐の上に出るように帯刀する。
脇差は、刀の内側、帯と着物の間に差す。下緒を左手で後ろの鞘上にかけ回す。あるいは鞘にかけ回して袴の左下紐に一重に結ぶ。下緒捌き等、刀を差しての所作は、鐺を床に当てることのないよう右手で柄を握るか、柄を左右の手で抱くように行う。柄頭が身体の中心になるよう一度で決めて差す。柄を何度も揺すったりするのは良くない。帯刀して正座した姿勢、心構え、態度は前項と同様であり、威風堂々の気魄が籠もり、即応の構えでなければならない。
七、起立しての刀礼ならびに帯刀
場所の制約等により起立して刀礼ならびに帯刀を行う時は、堤刀の姿勢から下げた刀を前に出し、下緒を右手にとって棟の方から回して物打部に添え、刃を手前に刀が身体の中央となるように肘を伸ばして目の高さに水平に掲げ、正対した後、刀をやや捧げる心持ちで礼を行う。刀を身体の前に立てて持ち、前記と同様に帯刀する。
(文責 田口阿勢齋:「居合兵法無雙直傳英信流阿号之会概説」から転載)
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居合道探求シリーズ
(特別編)
福嶋阿正齋宗家
平成31年3月2日
阿号之会関東地区第9回
指導者講習会開会式
同上講習会冒頭の説示
同上直接ご指導(両詰)
同上講習中のご教示
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「無雙直傳英信流第二十四代 福嶋阿正齋 宗家」 (阿号之会々長)の至言・助言・箴言
いつも高山先生(阿号之会理事長)に歌を詠んでいただいておりますけれども、その中で、
新人に 禮を説く君 日頃より
範を示して 納得の禮
居業とは 業の流れに 留めなく
よどみなくして 大河の流れ
というふうで、先生がお詠みになりました。この中の意味を、良く酌んでいただいて、自分で詠めと言われた場合に詠めるかということです。
居合というのは、居合だけではありません。(指導者である)皆さんに、どういう要望をしているかということは、この(プログラムの)内側ページに書いてありますけれども、“指導者はあなただ!”ということです。“とくに先生・先輩と名のつく人は、後輩の模範となるように普段から心懸け、居合の技のみでなく、礼儀作法、生活指導に至るまで指導するのが指導者・先輩たる者の役目なのである。”「役目」ですよ、皆さん!“指導者はあなただ!”ということですね。習うだけじゃない、今度は、教えなければいけないんです。そのためには、ここで習ってください。
昔は、“居合術”ということで、“術”と言ってたんです。で、私の任務は何かと言うと、昔の“古流”ですね、“古流”を皆さんに伝えるのが、私の任務であります。
勝手に、この「形」を変えるもんじゃありません。変えてはいけません。“古流”というのは、非常に長い間、この四百数十年も伝わって来ましたけれども、そんなもの、簡単に変えてはいけないんです。
だから、各流派によって、流派で以って、「形」は違う、やり方も違うという独特の居合のやり方です。自分で勝手に業を変えてはいけない。
何百年も続いた、この“古流”というものを、大切にして行くのが、我々の任務であります。
皆さんが変なことをやると、お弟子さんは、また変なことをやる。そうすると、一番困るのは、そのお弟子さんです。
だから、先程も言いましたように、「初発刀・初伝・中伝・奥伝」、解っていても言っちゃいけません。それは、言ってる指導者が悪いということです。我々の無雙直傳英信流に、この文言は一切ありません。
立膝之部と居業之部の場合は、いずれも立膝ですから、皆さんやりたがらない。痛いからやりたがらない。だから、先生の先生は、殆どやれないというような状況ですので、教えるのは皆さんですよ。皆さん、本当に、五段・六段・七段という人が教えて行かんことには、アレッ何やってんだろうというふうになります。
後輩から「先生、ここはどうなってますか?」と(聞かれて)、「俺は分からん」ということがないように。ここはこうだよということで、自信を持って教える皆さんになっていただきたいと思います。
そのためには、こういう講習会にですね、参加して、そしてビデオを先生から何がしかで買って、そして研究して、あゝこうだったのかということを、思い出して貰えるようにしていただきたい。
あるところに行くと、「俺の言う通りにやれ!」と言う先生はダメよ!というのは、その上の先生、その上の先生がおかしいんじゃないかということです。
無雙直傳英信流には、英信流の「形」がありますので、だから、あるところまでは統一して、そしてそれを競技会の基準(資)として、やって貰わねばならん。
もう、審査するあなた達がですね、中心になって貰わんと、このまゝ行ったら、皆チリジリになってしまいます。
だからですね、ここに、講習会に出て来ていただいたことには、本当に敬服します。俺は習うんだ、恥を掻いても習うんだというふうな気持ちで今日見えたと思います。
恥かいて良いんです。恥掻けと言ってんだから!
皆さん、今度、道場に帰られましたらですね、支部長、また先輩に喰らいついてください。
業については、私が責任を持ちます。皆さん、「俺はこう習った」ということを主張していただければ、こう思います。
皆さんの意欲には、敬意を表します。
怪我をしないよう、病気をしないように、用心して励んでいただきたいと思います。(福嶋宗家説示)
(文責 田口阿勢齋:3月2日(土)指導者講習会でのご指導から抜粋)
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居合道探求シリーズ⑪
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「年表で見る林崎甚助源重信公の足跡」 高山阿蓉齋
-林崎明神・居合明神 居合関係略年表-
明徳元年(1390年)最上満国(最上家第三代満直の四男)楯岡入部。本城氏没落。
大永7年(1527年)楯岡城主、楯岡(最上)因幡守満英、六代目家督相続。
天文6年(1537年)豊臣秀吉生誕。
天文7年(1538年)浅野数馬重治、楯岡城主、楯岡因幡守満英に仕官す。
天文9年(1540年)浅野数馬、楯岡在高森某の娘菅野と結婚す。
天文11年(1542年)林崎甚助重信生誕、幼名民治丸。この年、徳川家康生誕。
天文15年(1546年)最上義光(よしあき)山形城に生まれる。
天文16年(1547年)浅野数馬、坂上主膳(坂一雲斎)に暗殺さる。
天文18年(1549年)浅野民治丸8歳の時、楯岡城の武術師範東根刑部太夫について武術修業。
天文23年(1554年)浅野民治丸、剣法の上達を林崎明神に祈願し剣の修業に励む。
弘治2年(1556年)浅野民治丸、林崎明神に「百日参籠」し、抜刀の神伝を授かる。
永禄2年(1559年)浅野民治丸、抜刀の妙を悟り、元服して林崎流と称し、「林崎甚助重信」と改め、仇討(仇は坂一雲斎)の旅に出る。
永禄3年(1560年)織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼす。
永禄4年(1561年)林崎甚助重信、京で仇を討ち帰郷、林崎明神に『信国』の刀を奉納す。
永禄4年(1461年)この秋上杉謙信、武田信玄と川中島にて決戦す。
永禄5年(1562年)重信、母に孝養を尽くせども母病に死す。重信、飄然孤剣を抱いて剣の旅に赴く。時に21歳。
永禄6年(1563年)重信、米沢・会津に滞在し、若松在赤井村で門弟を養育したという。
永禄8年(1565年)重信、鹿島に行き、天真正神道流の修練に励む。
天正元年(1573年)武田信玄病没。
天正6年(1578年)上杉謙信没す。
天正10年(1582年)5月、最上義光、天童城を攻略。6月、本能寺の変、織田信長自決す。
天正14年(1586年)豊臣秀吉、太政大臣となる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉、小田原城に北条氏を攻める。
文禄4年(1595年)重信、一宮(今の大宮)の社地に住し、陰陽開合の理に基づいて工夫を凝らす。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉没す。重信、9月、一宮を去り諸国歴遊の途につく。
慶長5年(1600年)徳川家康の下知により、最上氏応援のため奥羽の諸藩山形に集まる。この年9月、関ヶ原の決戦。東軍勝利す。
慶長6年(1601年)上杉景勝、会津百万石を没収され、米沢三十万石となる。
慶長19年(1614年)正月、最上義光、山形城で病没す。
元和2年(1616年)重信、廻国修業より武州川越の門人高松勘兵衛の許を訪れる。
元和3年(1617年)林崎甚助重信、高松勘兵衛の許より奥羽へ旅立ち、再び帰らず。
※年表は「林崎明神と林崎甚助重信」
発行 平成 3年2月15日
復刻 平成18年6月20日
編著 林崎甚助源重信公資料研究委員会
発行 財団法人居合振武会
この年表から何が解るのだろうか。重信公の生きた時代は〝元禄〟と「居合道秘傳」や「居合道概説」にも記載されている。
もう少し日本史を上って見ることにする。
文治元年(1185年)平氏滅亡。
建久3年(1192年)源頼朝、征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開く。
文永11年(1274年)文永の役
弘安4年(1281年)弘安の役
建武元年(1334年)建武の中興、天皇親政。
延元元年(1336年)後醍醐天皇、吉野に遷幸。
暦応元年(1338年)足利尊氏、征夷大将軍となり室町幕府を開く。
元中9年(1392年)南北朝の合一。
応仁元年(1467年)応仁の乱起こる。
文明9年(1477年)応仁の乱終わる。
天正元年(1573年)織田信長、将軍義昭を追放し室町幕府滅亡。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変、信長自決。
天正14年(1586年)豊臣秀吉、太政大臣となる。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉没す。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
慶長8年(1603年)徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府開く。
元和元年(1615年)大阪夏の陣、豊臣氏滅ぶ。
慶応3年(1867年)徳川慶喜、大政奉還を乞う。王政復古の大号令。
明治元年(1868年)明治維新
と変わって行くのである。
さて、この辺りで、「年表」に見る重信公についてまとめてみよう。
重信公の生年については諸説あるが、楯岡城主因幡守満英に仕えた父浅野数馬と母菅野の間に、
天文11年(1542年)1月12日、または5月5日誕生。家康もこの年誕生。
天文16年(1547年)父数馬が、祠官との碁の帰り道に暗殺されたとある。仇の名は坂上主膳(別名〝坂一雲斎〟)。出生して5歳で父を亡くすことにより、母菅野は、幼名民治丸に剣術修業として楯岡城剣術師範東根刑部太夫に手ほどきを受けさせた。8歳の剣掌であった。
天文23年(1554年)民治丸、剣法の上達を林崎明神に祈願し剣の修業に励む(12歳)。
弘治2年(1556年)民治丸、14歳で林崎明神に百日参籠し、抜刀の神伝を授かる。剣術修業の厳しさが伺える。
永禄2年(1559年)17歳で元服。林崎流と称し、村名を姓として「林崎甚助重信」と改名、父数馬の仇討の旅に出る。
永禄4年(1561年)京で仇(坂上主膳)を討ち帰郷、林崎明神に「信国」の刀を奉納す。この仇討について一説では、京で仇を発見し、一時帰郷し再び京に上り、清水寺の近くかその付近で本懐を遂げたとの説もある。
永禄5年(1562年)母菅野は、重信仇討の翌年に病死。重信、飄然として剣の旅に赴く。
永禄8年(1565年)鹿島で天真正神道流の修練。
文禄4年(1595年)5月より一宮(今の大宮)の社地に住し、陰陽開合の理に基づいて工夫を凝らす。
慶長3年(1598年)9月一宮を去り、諸国歴遊の途につく。
元和2年(1616年)重信、廻国修業より戻り、武州川越の門人高松勘兵衛を訪ねる。この廻国修業は18年間に及び、その間、多くの門人を育成したのではなかろうかと推察する。
元和3年(1617年)7月、高松勘兵衛の許より奥羽へ旅立ち、再び帰らず。出生から数えて見ると既に75歳の旅立ちとなる。奥羽歴訪の途についた重信公の足跡は想像の域を出ないが、江戸時代の伝書に残されている通り、門人達によって引き継がれて行ったのではないだろうか。
一、林崎新夢想流 津軽藩(元禄4年・正徳元年)
二、林崎流 三春藩(元禄7年)
三、林崎新夢想流 新庄藩(元禄14年)
四、林崎田宮流 庄内藩(宝永3年)
五、真景流(今井景流)会津藩(宝暦8年)
六、林崎夢想流 藩不明(宝暦8年)
七、林崎流居合 秋田藩(天明8年)
八、林崎夢想流 秋田・仙台藩(寛政2年)
九、林崎新夢想流 新庄藩(寛政3年)
十、林崎新夢想流 新庄藩(寛政12年)
十一、林崎神流 二本松藩(文化10年)
十二、林崎流 秋田藩角館(弘化3年)
十四、林崎新夢想流新庄藩(明治44年)
居合中興の祖林崎甚助重信の功績は、現在の居合道の隆盛を見る時、偉大と言うべきである。最後に、この年表に、林崎村・櫛山村の地名がある。当主は、前者第21代、後者第25代も続いているとの記述を見ると、当時としては安定した村々であったと思われる。楯岡城主も6代も続いている。慶長5年(1600年)山野辺右衛門義忠、楯岡城に入郡。正保元年(1644年)松平大和守直基、山形城に入部十五万石。楯岡領・櫛山村等五万石余は幕領となる。当時としては、豊かな地方の一つではなかったかと思われるし、現在山形の米所として繁栄の源となったのではないだろうか。
(文責 高山 阿蓉齋:無雙直傳英信流範士九段 平成30年1月1日「阿号之会だより」第21号より転載。)
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