居合道探求シリーズⅥ
河野稔著
「無雙直傳英信流居合道」
同上・内表紙
※印は田口注
※1木村泰嘉先生は、平成11年(1999年)1月に逝去される。
※2頭山満翁は安政2年(1855年)4月生、昭和19年(1944年)10月没。行年90歳。
中山博道先生は、明治5年(1872年)2月生、昭和33年(1956年)没。行年87歳。
※3平井一蓮阿字齋先生蔵書中の同箇所には傍線が書き込まれ、「居合は剣道の一分派に非ず」との注書きあり。
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「無雙直傳英信流居合道」研究 片山 浩司
平成2年2月1日に日本武道としての居合を学びたく明心館に入門し、暫く後に先輩のKさんからいただいた本『無雙直傳英信流居合道 河野稔著 頭山満先生推奨 中山博道先生校閲』について取り上げさせていただきます。
その前に「明心館」について少し述べさせていただきます。
館長の木村泰嘉先生は、昭和14年武徳殿に入門、無雙直傳英信流第20代宗家河野百錬先生に師事。昭和30年居合道教士七段を允可される。昭和35年明心館道場を設立。昭和43年居合道八段を允可される。昭和47年静岡県居合道八重垣会の顧問師範として指導に当たる。昭和49年熊本県居合道無双会の顧問師範として指導に当たる。昭和54年居合道範士の称号を拝受。昭和63年2月28日関西在住居合同好人の参集を得、大日本居合道連盟に入会すべく大阪支部を結成、以後本連盟にて居合道発展の為に尽くす。※1
今回ご紹介したいこの本の発行年月日は不明なれど、先述のように頭山満先生※2推奨とあるように、戦前に書かれているものではと推察する次第です。
又、附録と称して153頁から188頁にかけて27項目の記述があり、それぞれに記述の日付が昭和8年等とあります。
日本の歴史を30㎝の物差し(皇紀2673年)で喩えると、29.2㎝まで(皇紀2605年まで)が本来の日本の武家文化伝統が国民生活全体にごく普通に存在した時代です。
残りの0.8㎝(68年)の現在に、私達が修行している無雙直傳英信流居合道について戦前に書かれたものを見てみるのも一興かと存じます。
内容は次の通りです。一部抜粋して紹介させていただきます。
第Ⅰ章 総論
第1節 居合の意義
居合は、我が日本の象徴たる、霊器日本刀の威徳に依りて、心を修むる道にして、剣道の立合いに対する所謂居合の意なり。
而して古来より居合の勝負は鞘の中にありと講せられし如く抜刀の前、既に心意気を以って敵を閃光一瞬にして勝つの術にして、元来敵の不意なる襲撃に際し、能く直ちに之に応じ、先又は後の先の一刀を以って電光石火の勝ちを制せんがため、剣道の一分派として※3武士の間に創案されたる刀法にして、座居の時、又は歩行する時、其の他あらゆる時と場所に於ける、正しき刀法と身体の運用を修得し、精神を錬磨する大道なり。
第2節 居合の精神及目的
第3節 居合の沿革
第4節 居合の伝統
第5節 居合の名称
第6節 居合の種目
第7節 居合の作法並に心得
其1 禮式
其2 着眼
其3 態度
其4 鯉口の切り方
其5 刀の握り方
其6 刀の抜き方
其7 懸声
其8 用語の解
其9 手首の格
其10 手首の病
其11 納刀法
其12 刀の名称
其13 居合修行の心得
(前略)古人は「術に終期なし、死を以って終わりとす」と曰へり。故に其の道は、終生全霊傾注の心術なれば、同好の士はいささかも怠慢することなく生涯不退の意気に燃え精進すべきものなり。
第Ⅱ章 各論
第1節 正座之部
第2節 立膝之部
第3節 奥居合之部
其1 居業之部
其2 立業之部
第4節 早抜之部(当流第17代宗家範士大江正路先生述)
第5節 居合形之部
第1 無雙直傳英信流居合之形
第2 太刀打之位
第3 詰合之位(当流古伝の略述として11本)
第4 大小詰 (同8本)
第5 大小立詰 (同7本)
第6 小具足割 (同9本)
第7 本手之段 (同11本)
第8 大剣 (同8本)
第9 寝間之大事 (同6本)
第10 外之物之大事(同6本)
第11 上意之大事 (同14本)
第12 極意之大事 (同22本)
第13 極意軍馬組打(同4本)
第6節 居合の流派と始祖
第7節 居合の質疑応答
第8節 居合初心者心得
附録
其1 随想録1~27
其2 参考記録抜粋
(上記参考記録抜粋の中の一文に「刀の差し方」土佐藩士秋山久作翁閑話中より、として)
一、藩公が平日江戸城に出仕の時は、武士が10人位追従し、城の玄関から上がれる者は2、3人であった。そして刀を扱う者をお坊主と云って之が万般の世話をしたものである。
明治元年の伏見の戦の3日ばかり前、(山内)容堂公に追従して参内した時、容堂公は刀も脇差も上り口で抜いて私に渡され、私はそれを紫の袱紗に包んで持って主人をお待ちしたことがあった。
一、私達が藩のお城へ登城の時は裃で、刀は玄関に刀架があって自分のものを定まった場所に架けておく。刀架は何百振りも並んでいて各自佩刀の置場所は定まっていて別にこの番人はいない。
一、他家を訪問した時は、刀を先ず玄関の側で抜いて、大抵玄関の次の間に客用の刀掛けが置いてあるからそれに掛ける。脇差は差したままで、目上の人の場合は脇差は抜いて左側に置くのが普通である。
一、私の若い時、浅草の観音様へ御祭りの時などに行ったことを覚えているが、どんなに雑踏した所でも人に突き当たるなど云うことは無く、今日のように(註 秋山翁は昭和11年1月21日93歳を以って永眠される。本閑話は其健在なりし昭和10年6月11日の閑話なり。)左側通行なぞと宣伝しなくとも、自然に左側通行が実施されていて整然たるものであった。
それは、武士が刀を左に差しているので所謂鞘当など起こらない様、街を通る人々は左へ左へと避けて通る習慣から、自然厳然たる交通整理が行われた訳である。
一、人混みの中を歩く時、刀はぐっと上に差し、刃は常に上を向けて、人に依ってはやたらにぬけぬ様、紐などで柄を縛っておく人もあり、又バネで鍔に留め金を付けて置く人もあった。
それ程武士は間違いの無い様に刀については細心の注意を払ったもので、やたらに鯉口を切るものではない。
附録の中に『日本刀の斬れ味』というページで「本項は昭和7年上海事変に於ける、日本刀使用の実例を剣友の米谷奈良一氏より寄贈されしものなるが、珍重すべき尊き資料と信じ左に掲載す」とあり、一覧表の項目に、刀銘・長さ・反り・斬りし数・斬所・刀の斬味・刀身の故障及其原因・所見及記事があり、戦闘中(白兵戦)の日本刀使用の状況が表になっていますが、内容の記載は又の機会に致したく存じます。
第5節居合形之部には第1から第13まで様々な業が書かれていますが、中には体術のようなものもあり、大変興味深く、物凄く奥の深い、汲んでも汲んでも汲みきれないのが当流であると、当流の先達に感謝する次第です。
全てに於いて未熟者の私ですが、今やっと無雙直傳英信流の入り口に立つことが出来たかな、と思う今日この頃です。
もっともっと学ばなければならない、また所属する阿号之会、大日本居合道連盟に対し会員としての責任を果たして行こうと決意を新たにしている次第です。
今後共、ご指導ご鞭撻を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
(文責 片山 浩司:無雙直傳英信流八段 平成25年4月1日
「阿号之会だより」第9号より転載。)
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