2011/06/17作成:
★讃岐出釈迦寺奥之院現況
我拝師山出釈迦寺奥之院に「弘法大師建立大塔跡」の表示があり、古には何らかの塔婆があったと推測される。
※しかし弘法大師建立の真偽は勿論、その姿形についても明確ではない。
2011/05/22「X」氏撮影画像:
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出釈迦寺奥之院根本御堂:左図拡大図
向かって右に「弘法大師建立大塔の跡」の石碑がある。
出釈迦寺奥の院根本御堂2:「大塔の跡」石碑、捨身ヶ嶽「禅定」、
釈迦「如来御出現之霊場」などとある。
「大塔の跡」石碑裏面銘文:仁安2年(1167)この地を参拝した西行の「山家集」
からの引用を刻す。
即ち
「・・・・師にあはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり
高野の大塔などばかりなりける塔の跡と見ゆ
苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ・・・」 |
出釈迦寺奥之院(捨身ヶ嶽禅定):出釈迦寺の故地であり、また曼荼羅寺の奥之院であったとも云う。
現在は根本御堂と山門がある。根本御堂の前に「大塔の跡」石碑がある。
2011/06/17作成:
★西行「山家集」に見る出釈迦寺:曼荼羅寺行道所(出釈迦寺奥之院)
上記については、サイト「お遍路紀行」に「『新潮日本古典集成・山家集』後藤重郎校注・新潮社」の掲載があるので
それを転載する。
※西行[元永元年(1118) - 文治6年(1190)]は仁安2年(1167)秋、讃岐国を訪れる。
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曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて
めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも
(その昔弘法大師は、ここで修行をされた折、雲に乗って来られた釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思うことだ。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師の誓願の跡に立ち、大師の昔を偲ぶにつけても)
やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて
筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を
(筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだよ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎の様子を)
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※西行の時代、弘法大師の建立と云う大塔の礎石があったことが知れる。
現在の出釈迦寺奥之院の「大塔の跡」石碑は上記の紀行文からの引用を記す。
※行道所は修行所の意で、現在の出釈迦寺奥之院を指す。西行の時代は出釈迦寺奥之院は曼荼羅寺奥之院であった。
※我拝師山と筆の山とが入り混じるが、西行の誤解なのか当時の混用なのかは判然としない。
現在では我拝師山と筆の山とは別々の山とする。
2011/06/17作成:
★「四国徧礼霊場記」に見る出釈迦寺
「四国徧礼霊場記」に出釈迦寺絵図及び由緒の記載がある。
昔は塔が建っており、西行の時代までは礎石が残っていたという。
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「四国徧礼霊場記」元禄2年(1689)
江戸中期には「塔跡」の認識が示され、かつ西行の訪れたころは礎石が残っていたことの認識も示される。
出釈迦寺絵図:左図拡大図
右から筆ノ山、我拝師山(捨身岳)、中山の峯が並び、我拝師山(捨身岳)の山頂近くの中腹に塔跡が描かれる。麓の堂宇が曼荼羅寺であろうか。
出釈迦寺由緒:口語訳については直下に掲載。
我拝師山地図(1/25000):国土地理院
上記の「出釈迦寺絵図」を平面に落とした姿あるいは現実の地形はこの地図の通りである。 |
「四国徧礼霊場記」の「出釈迦寺」由緒の口語訳
サイト「口語訳_四国遍礼霊場記1」伊井暇幻/久作 にあり。
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▼我拝師山出釈迦寺(七十三番)
曼荼羅寺の奥の院という。
西行は、この寺について次のように書いている。「曼荼羅寺の行道所/奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる(この世の大事)。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。俗に、この坂を、世坂と呼んでいる。険しいため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。南も北も視界を遮るものがなく、一望に見渡せる。空海が観想修行をしていると、白い雲の中に釈迦如来が現れた。空海は釈迦を拝み、我拝師山と名付けた。
山家集に拠ると、この辺りの人は「わかはし」と言い習わしている。「わがはいし山」の「山」も捨てて読まない。昔は塔が建っており、西行の時代までは礎石が残っていたという。
この山は、善通寺五岳の一つだ。西行の時代には既に堂もなかったらしいが、近世、宗善という人が志を立て、麓に寺を建立した。また、この山の一際険しい場所を、捨身の嶽と呼んでいる。幼い頃の空海が、己の修行が成って人々を救うことが出来るか否か試すため、仏に祈って飛び降りた。天人が下ってきて、空海を受け止めた。西行の歌に、「巡り会はん事の契りと頼もしき 厳しき山の誓いみるにも」。
西行の旧跡・水茎の岡は、曼荼羅寺の縁起に載せられているが、出釈迦寺にある。
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※「四国徧礼霊場記」では筆ノ山と我拝師山との混同が見られることに留意が必要である。
※当時は我拝師山(捨身嶽)は曼荼羅寺の奥の院の認識で、近世に至り山麓に寺院が建立され、これが出釈迦寺となると云う見解に立つように見受けられる。
2011/06/17作成:
★「四国遍路日記」に見る出釈迦寺
「四国遍路日記」:承応2年(1653)澄禅の作、この日記は石巻塩竃神社で近藤喜博(博士)が発見。これを宮崎師が訳すと云う。
上述のサイト「お遍路紀行」にその記録及び「解説」があるので連載する。・・・「四国徧礼霊場記」より少し時代が先である。
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出釈迦山、先ず五町ばかり野中の細道を往きて坂にかゝる。小さき谷あひの誠に屏風を立てたる様なるに、焼け石の如くに細く成るが崩れかゝりたる上を踏みては上り踏みては上り恐き事云ふばかり無し。漸く峯に上り付き、馬の頭の楊成る所を十間ばかり往きて小さき平成る所在り、是昔の堂の跡なり。釈迦如来石像、文殊、弥勒の石像など在り。近年堂を造立したれば、一夜の中に魔風起こりて吹き崩したると也。今見に板のわれたると瓦など多し、ここ只曼荼羅寺の奥院と云ふべき山也。夫れより元の坂を下りて曼荼羅寺に至る。
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「解説」
澄禅のころは、現在の捨身ヶ嶽禅定が札所だったと思われる。真念の『四国遍路道指南』には、「この寺の札打ち所は十八町登った山頂にある。しかし由緒あって堂社はない。ために近年になって麓に堂ならびに寺を建て、ここで札を納める」と記されている。また澄禅の記録では、出釈迦山であって出釈迦寺ではない。このことから類推するに、澄禅が巡拝した承応2年(1653)以降、3、40年の間に、真念のいう「近年になって麓に堂ならびに寺が建て」られ、これを七十三番札所としたものであろうか。
との「解説」がある。
2011/06/17作成:
★「金毘羅参詣名所図會」に見る出釈迦寺
サイト:「香川県善通寺市吉原町-ふるさとの史跡-」の江戸時代「出釈迦寺」から転載する。
※「金毘羅参詣名所図會」暁鐘成、弘化4年(1847)
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・我拝師山出釈迦寺:
曼荼羅寺の奥院といふ。三丁計り奥にあり。七十三番の霊場の前札所なり。近世宗善といへる入道ありて、ここに寺を建立すと云ふ。
本尊 釈迦牟尼仏 弘法大師の作、秘仏なり
大師堂 本堂に並ぶ。 茶堂 門内の左にあり。 鐘楼 門内の右にあり、僧坊にならぶ。
原(もと)の札所と言へるは十八丁上の絶頂にあり。然るに此所に堂舎なく其の道嶮岨にして諸人登る事を得ず。故に後世、此所に寺を建てこヽに札を納しむとぞ。
・捨身が嶽:
山上の嶮しき所をいふ。大師いとけなき時、求法利生の御試みに三宝に誓ひをたて、捨身し玉ふを天人下りて取上げるといふ。ゆへにかく号(なづ)くるとぞ。
・世坂(よさか):
峰に登る嶮路をいふ。詣人杖をなげ岩を取りて登臨すといふ。
・出釈迦山:
我拝師山のことなり。大師は此の山に修行し玉ひし時、雲中に釈迦如来出現ましましけるを大師拝し玉ふゆへに号すとぞ。
・大塔旧趾:
山中にあり。今は其の趾のみなり。西行のころは其の趾に礎石ありしとなり。
・護摩壇古趾:
大師が護摩供修行し玉ひし跡とぞ。五穀の灰ありといふ。
・中山(ちゅうざん):
我拝師山にならぶ五岳の其の一なり。
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※大塔旧趾の言及があり、現状と西行の頃の旧状が述べられる。
2011/06/17作成:2011/06/17更新:ホームページ、日本の塔婆
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