三  河  鳳  来  寺  三  重  塔

三河鳳来寺三重塔

東海道名所圖會・巻の三」:
記事:源頼朝公の建立。梶原景時奉行のよしと伝へり。常行堂とこの塔は、むかしの姿にて、造替なしという。

三重塔部分図:下図拡大図

鳳来山伽藍図:下部拡大図

三洲鳳来寺絵図(江戸前期)に見る鳳来寺

三州鳳来寺絵図:左図拡大図

三州鳳来寺絵図:左図主要伽藍部分図

2005/12/06追加;「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図 下」より
 参州鳳来寺絵図:江戸後期:
この図で、三重塔は阿弥陀堂東にある、あるいは本堂北西にある石垣で造成された平坦地にあり、さらに弁天堂西であったことが明瞭に読み取れ る。

2005/07/22撮影:
鳳来寺山容

鳳来寺峯薬師如来跡:左図及び下図の「大仏」
 あるいは「東海道名所圖會」(三重塔図)の左端中央下
 寄りに描かれている露座の薬師の台座が残る。

 

2007/06/13追加:
鳳来寺参詣曼荼羅;江戸初期、兵庫青山会蔵・・・部分図

2009/02/17追加:
三州鳳来寺絵図:「三河国名所めぐり展」豊橋市二川宿本陣資料館、2005 より
 

三州鳳来寺絵図・1:江戸末期:左図拡大図

三州鳳来寺絵図・2:江戸末期

三州鳳来寺絵図・3:江戸末期

以上の3絵図はいずれも
本堂下にある宝篋印塔(弘化2年・1845建立)、峯薬師如来<丈六薬師>像(嘉永7年・1854再興)や三重塔(元治元年焼失)が描かれる。
そのため以上の3絵図は江戸末期の作(景観を描く)と推定される。

秋葉山鳳来寺一九之記行
 秋葉山鳳来寺一九之記行:十返舎一九、文化12年(1815)刊

鳳来寺沿革

開山は白鳳期で利修上人と云う。鳳来寺は鳳来寺山の山頂近くにあり、表参道の石段は1425段と云う。
本堂は大宝3年(703)の創建と伝え、文治年中源頼朝が伽藍諸堂宇を新築したとされる。
近世には寺領は1千数百石を安堵される。元和6年(1620)の火災で坊舎などを焼失。寛永2年(1625)再興。
慶安元年(1648)徳川家光が諸堂宇造替を発願し、同4年に竣工。同時に東照宮も完成した。
宝暦13年(1763)の鳳来寺略縁起の景観では、東照大権現、別当松高院、薬師堂(本堂)、鎮守権現、六所護法神、常行堂、利修仙人堂、三重塔、鏡堂、天神社、奥院、大神宮、弁天堂、毘沙門堂、弘法大師堂、元三大師堂、鐘楼、楼門などを有した。
享和元年(1801)の鳳来寺...由来では鎮守、奥院、十一面観音、仙人堂、天神社、八幡社、護摩堂、弁財天、牛王堂、阿弥陀堂、鏡堂、三重塔、・・・弘法大師堂、元三大師堂などを有した。
山麓から本堂までに21の坊舎があった。天台方は学頭松高院(明治22年焼失し、増通院跡に移転し現存)、岩本院(明治18年鳳来寺に合併)、等覚院、不動院、観性院、寿命院、般若院、吉祥坊、杉本坊、円蔵坊、円竜坊、真言方は学頭医王院(現存)、藤本院(明治19年鳳来寺に合併)、法華院、円琳院、日輪院、一乗院、月蔵院、尊教坊、中谷坊、善智坊であった。
<明治4年坊舎は14院5坊と云い、明治17年までに類焼・棄却で4院となる。>
文久3年(1863)日輪院から出火、三重塔、本堂、鎮守3社、常行堂など10余宇を焼失。

鳳来寺三重塔跡

鳳来寺三重塔跡地は不明、遺構も不明であるが、圖會及び地形から、凡その推定は可能と思われる。
 ※寺院側に聞くも、かっての三重塔の存在さえあやふやで、ましてやその位置など、全く知らぬという。(信じがたいが)

本堂右裏手から、常行堂跡(阿弥陀堂跡・現鐘楼)に至る道があり、その道の北側に平坦地がある。ここが三重塔および護摩堂のあった場所と思われ る。
この推定が正しいとして、現状は平坦地には堂塔を偲ぶ遺跡は何もない。

鳳来寺三重塔推定地1:(左図拡大図)
  同         2

写真の橋を渡り、石段がありますが、その上が護摩堂跡、その左(西)に三重塔があったものと思われる。

鳳来寺本堂:再興

現大師堂   現開山堂

◆「鳳来寺開山千三百年」所収、「鳳来寺・鏡岩下遺跡の出土遺物について」柴垣勇夫(静岡大学教授)より:

下記の図、中央やや右の籠堂跡とある平坦地の西に三重塔があり、東に護摩堂があったと思われる。
上記「鳳来寺三重塔推定地」の写真は本堂から大師堂に至る石階から撮影。
籠堂とは不明であるが、単に参籠所があったのかあるいは家康生母の参籠に関係する伝承の堂宇跡とも推測される。

常行堂跡(鐘楼)1  常行堂跡(鐘楼)2:上図で鐘楼の場所が常行堂(阿弥陀堂)跡

「古老の鳳来寺案内」より

仁王門:重文、徳川家光寄進。本堂:本尊薬師如来、昭和49年再建。松高院:旧増道院跡に昭和43年再興。
服部賢成師:明治維新後、高野本山から鳳来寺復興を託され、医王院に住し、復興に尽力。中興の祖といわれる。

鳳来寺境内及寺有林図

2005/07/22撮影:番号は上記図の番号に対応。

2.鳳来寺扁額:仁王門扁額
2.鳳来寺仁王門1:楼門・重文・慶安4年(1651)
    同     2
    同     3
    同     4 ・・・ 徳川家光の命で起工。
3.藤本院跡:(推定)
4.法華院跡
5.般若院跡1   般若院跡2
6.実泉院跡
7.松高院(増通院跡):医王院が万治元年(1658)
  家綱代に建立とされ、松高院の創建も同時期と
  推定される。山門は増通院のものとされる。
8.円琳院跡  円琳院跡附近
9.不動院跡
10.日輪院跡
   杉本坊跡:医王院下附近
   坊舎名不明:医王院下附近
   岡蔵坊跡:医王院附近
   中谷坊跡;医王院附近
11.医王院1   医王院2:現在は無住と思われ、相当 荒廃。
12.一乗院跡
13.等覚院跡
14.岩本院跡
   坊舎名未判読:図17附近
   現大師堂:本堂裏石段の踊り場にある。荒廃し、崩壊の惧れあり。
   現開山堂:東海道名所図絵中の三社権現の場所にあり。
18.弘法堂跡
   元三堂跡:弘法堂から東照宮の途中にあり。

2005/07/30追加:
「鳳来寺開山千三百年」、鳳来寺・藤本哲也、平成15年より

鳳来寺の歩み:坂本正仁(大正大学教授)より
慶安元年(1648)寺僧岩本坊長乳が徳川家光の鳳来寺由来の検分のため、古い縁起や伝承を纏め「鳳来寺興記」を著す。
「鳳来寺興記」は、後の縁起類の源流となる。
「鳳来寺興記」によると、開山は利修仙人(理趣・上人)とされる。
本尊は薬師如来で、「峯の薬師」として知られ、四周の信仰を集める。

平治の乱に敗れた源頼朝は3年間鳳来寺山内に匿われ、後日、その報恩の為、伽藍を寄進すると伝える。
三重塔は梶原景時が奉行し、常行堂(阿弥陀堂)は安達盛長が造営したと云う。
「常行三昧縁起」では応保3年(1163)から応永28年(1421)まで不断念仏を修したと伝える。

初期の確実な文献資料:
「瀧山寺縁起」:嘉禄元年(1225)鳳来寺実鏡坊の名がある。
「倶舎論頌疏」(青蓮院吉水蔵):延慶3年(1310)鳳来寺遍照院および行弁の存在が知られる。
元亨元年(1321)鳳来寺中谷不動院および朝芸の存在が知られる。・・・以降順次文献資料で鳳来寺衆徒等が記録に著れる。
もともと当山は天台の山であったが、南北朝以降修験(熊野)との関係も推測され、また時期は不詳であるが、近世初頭には本堂薬師堂を中心とした真言が主流を占めていったものと推測される。

戦国期には三河田嶺の菅沼氏、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏が大檀越となり、寺領を寄進し、衆徒坊を維持していたと考えられる。
天正8年(1580)徳川家康は22ヶ条の「定書」を「参州設楽郡鳳来寺」に与え、既存の権益の保証を与える。

慶長7年(1602)家康より、746石余の寄進を受ける。
一方、経緯は不詳ながら、江戸期には「家康は大方様(家康生母)が鳳来寺峯の薬師より授かった」という言い伝えが形成される。 (「日光山縁起」など各種縁起類)
 ※ →駿河久能山徳音院
慶安元年(7648)徳川家光は日光山参拝の折、東照宮縁起に目を通し、家康は鳳来寺本尊薬師如来の垂迹であるとの記述により、老中安倍忠秋に鳳来寺に東照宮造営を命じ、浜松太田資宗が総奉行に任命された。翌年鳳来寺の造替も命ぜられ、多くの大名が与力した。
慶安4年造営完成・遷宮。同時に本堂薬師堂、楼門などの造替も完成したと思われる。
明暦2年(1656)東照宮寺領450石を寄進(合計1200石)、万治元年(1658)の検地で、合計1350石となる。

東照宮造営・鳳来寺造替を機に、山内組織が固定される。
伽藍は薬師堂(本堂・真言)東照大権現(天台)、鎮守権現(白山・熊野・山王)、奥の院、利修仙人堂、天神社、八幡社、護摩堂、弁財天、牛王堂、常行堂(阿弥陀堂)、鏡堂、三重塔、弘法大師堂、元三大師堂などを有する。
楼門(仁王門)から本堂・東照宮参道には衆徒坊舎が並ぶ。
天台方は学頭松高院(東照権現別当・300石)、岩本院、等覚院、不動院、観性院、寿命院、般若院の6院(各12石)、吉祥坊、杉本坊 (以上承仕衆)、円蔵坊、円竜坊(以上茶屋坊)、
真言方は学頭医王院(薬師堂別当・100石)、藤本院、法華院、円琳院、日輪院、一乗院、月蔵院の6院(各12石)、尊教坊、中谷坊(以上承仕衆)、善智坊 (茶屋坊)、以上のほか松高院・医王院の隠居所2院の23坊があった。

元治元年(1864)常行堂、三重塔、鎮守3社などを消失。<あるいは文久3年(1863)>
明治8年本堂・鏡堂など殆どの堂宇を消失。薬師堂本堂は明治13年再興(建坪43坪余)
明治39年協議の上、松高院が天台より高野山真言宗に転宗。
大正3年本堂・庫裏などを消失。本堂は大正13年仮本堂として再興。
昭和10年鳳来寺立鳳来寺女子高等学園創立。(現在は県立)
昭和21年真言宗五智教団大本山となる。昭和49年現本堂落慶。

2005/07/22撮影:鳳来寺東照宮
 鳳来寺東照宮01    同     02    同     03    同     04    同     05    同     06
    同     07    同     08    同     09    同     10    同     11    同     12

2003/8/10追加
鳳来寺神仏混淆引分の件」(明治5年)
天台真言両宗 鳳来山一山
天台宗 学頭 松高院 
  衆徒 不動院 岩本院 般若院 増通院 等覚院 宝泉院 杉本坊(元薬師堂承仕) 吉祥院 円蔵坊(茶所) 円龍院
真言宗 学頭 医王院
  衆徒 藤本院 一乗院 円林院 法華院 月蔵院 日輪院 中谷坊(元薬師堂承仕) 尊教院 長順坊
右(以上)は本尊薬師如来、東照宮を専ら奉祀していた。
今般僧侶は悉く薬師に属し、東照宮社地と区域を立て、祭事は新任の祠官が掌握するように改める。云々

三河鳳来寺に於ける神仏引分」秋山謙蔵氏報、昭和2年
徳川家康は父広忠がこの寺の本尊に祈願して誕生し、家門再興の恩に報いるため寺領850石および山林を寄附。
家光は慶安元年から薬師堂、鐘楼、楼門その他30余棟を改築し、その境内に東照宮を造営。神領として500石を加える。
東照宮は家綱の代に落慶し、家綱は重ねて、鎮守社、鐘楼、楼門、宝蔵等を増築。
東照廟の別当は日光輪王寺の配下、薬師堂を高野山の配下に置く。

明治維新前後の建造物
三重宝塔、常行堂(本尊阿弥陀如来)、若宮社、天神社、八幡社、大神宮、荒神社、岩倉社、薬師堂、鏡堂、弁天堂、毘沙門堂、弘法大師堂、元三大師堂、仁王寺(ママ)、法華堂、求聞持堂、観音堂、如法堂、地蔵堂、鐘楼、食堂、浴室、宿坊(般若院・宝泉院、松高院、不動院、岩本院、法華院、藤本院、円林院、日輪院、等覚院、一乗院、尊教坊、杉本坊、吉祥部、中谷坊、薬尾坊三ツ)
・・・壮観を呈したが、次のものを残し、全て滅亡した。

東照廟(明治5年別当社僧は停止、社殿は全く衰退し・・・)、楼門(慶安4年の建築、4間×3間、仁王門)、奥の院(本殿9尺四面、拝殿2間×3間)、勝岳不動堂(9尺四方)、僧坊:医王院(本堂の2町ばかり下)、増通院(今松王院<ママ>、本堂5町ばかり下)
明治8年の火災で本堂をはじめ灰燼に帰す。

宝物は僅かに以下のものが残るのみ。
勝岳不動尊(木造)、利修仙人像(木造)、鳳来寺額、源氏物語、不動八大童子画像、阿弥陀如来画像、中将姫曼荼羅、愛染明王画像
 


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