久  能  山  五  重  塔

久能山五重塔・久能山東照権現五重塔

久能山東照権現五重塔写真:(2006/11/14追加):「Y」氏ご提供

久能山五重塔の写真が残存する。(奇跡的なことと思われる。)
 今まで、まともな絵図あるいは情報等にも邂逅せず、僅かに、幸いにもほぼ完存する塔跡から、その華麗な容姿を想像するだけであったが、今般その姿を垣間見ることの出来る着色写真画像に接したことは大きな驚きである。

写真は「敷島美観」に掲載されたものである。

久能山東照大権現:左図拡大図:「Y」氏ご提供
  ※華麗な塔の片鱗を窺うことが出来る。

中央にある鳥居は現存するのかどうかは記憶が不明確。
塔の手前左側建物は神厩、
中央鳥居の中に写る門は唐門、
塔の対面・写真右側建物(手前)は旧鐘楼、(奥)神楽殿と思われる。

2024/05/12追加:
○「敷島美観」から新たに転載。多少画像大。

 ●久能山東照大権現・全容:上記写真と同一のもの

 ●久能山東照大権現・部分:上記写真の部分図


「敷島美観」小泉墨城、帝国地史編纂所、明治39年(1905) 、大きさ : 26×38cm
 この写真集には皇城二重橋から始まり、日本全国をほぼ網羅し、最後はアイヌ風俗まで約210の名勝旧跡の写真が掲載される。
なお
この図書は国立国会図書館のデジタルアーカイブの1冊として公開されているが、このアーカイブは「粗悪」としか云いようがなく、単に図書をスキャンして、素人がアップした程度のものである。(多額の税金で運用されているはずで、何とかならないものかと思う。)
久能山は富士頂上神社−富士頂上本社(静岡県)−静浦の夕照−久能山−富士白糸滝−乙女峠より富士を望む−秋葉神社と続く中に登場する。

石段下の人物:まだ断髪前の姿であり、この姿から、明治維新直前・直後の様子と思われる。
久能山英文説明:挿絵があるが、その挿絵には層塔ではなく多宝塔の絵が添えられる。
  「敷島美観」は基本的には日本語標記であるが、当書の目的を勘案し、簡単な英文が添えられているものと思われる。

「敷島美観」の刊行は明治38年(1冊本)明治39年(2冊本)であり、なぜこの「新しい」画帳に、明治維新直後(明治6年に五重塔破却)の写真が掲載されているのかは不明である。

 当書の「序」によると、「日本が東洋の公園として」広く宣伝されつつあるが「其風景の美観を遍く海外に伝ふる者なきは予の」誠に遺憾とするところとし、「這般の戦役によりて戦勝国として」の日本が「更にこの画帳によりて風景国として紹介」されることを悦ぶ。(愕堂市隠)
 「緒言」では「・・・・有形的無形的に大日本帝国を縮写せるは蓋し編者の本意・・・」とする。
また協力名士として、公爵二条基弘、侯爵山縣有朋、海軍大将東郷平八郎など多くの公侯伯子男爵が名を連ね、また日銀副総裁高橋是清、東京都知事男爵千家尊福、東京市長尾崎行雄などの著名な名もある。
 編者の「自序」によると「・・・国内の風景明媚なるもの及び著名の神社仏閣を撮影し、・・・」とあるが、撮影時期・撮影者などの記載は全くない。
 以上を信ずれば、帝国の美観を海外に宣伝し、風景の分野でも国威の掲揚を図る意図の基に、新しく「撮影」をしたとも解されるが、それにしても、久能山写真は少なくとも明治6年までに撮影したものを掲載するとはどうしたことであろうか。
この久能山が日本で屈指の風光明媚なところであり、またその建築の華麗なことは誰しもが認めるところであるが、明らかに明治末年には存在しない五重塔が写る写真を掲載するとは、余りに無頓着とも思われる。
 以上謎は残るが、推測すれば、確かに当時とすれば、久能山は交通便利とは言えず、また編集するのに時間的制約があったとすれば、つい手元にあった「古い」写真を使用したとも考えられる。五重塔の有無については「無関心」の事柄であったのであろう。日光山のことを承知であれば、日光山には五重塔も現存するし、違和感は無かったものとも思われる。

2006/12/16追加:
※「敷島美観」に関して
次の2本があると思われる。
1)明治38年無彩色1冊本:
  「敷島美観」小泉墨城編、東京 帝国地史編纂所、明治38年10月、164p 図版194p ; 26×37cm
2)明治39年彩色上下2冊本:
  「敷島美観」小泉墨城編、東京 帝国地史編纂所、明治39年8月、2冊(上,下) ; 26×37cm、日本名勝地彩色写真集
   上下 日本名所写真集 198図 筆彩 表紙は肉筆 25×36a 和装横本
○「Y」氏よりのご提供画像は「明治39年彩色2冊本」のもので、特に久能山の絵は秀麗であると思われる。(※彩色本は未見)
○参考として下に「明治38年無彩色1冊本」の無彩色画像を掲載しておく。
  無彩色久能山東照大権現:明治38年無彩色1冊本 より

2006/01/29追加:
「久能山」:東海道五十三駅勝景図:万延元年(1860)刊行
 久能山(部分図):「地図で読む江戸時代」より

久能山東照権現五重塔跡「X」氏ご提供 画像・・・2002/11/3撮影)

塔は楼門を入って左、神厩の上、唐門の石段下にあった。
いずれも精美に加工された石を用いた礎石、切石積基壇・石段および基壇全面を覆う敷石が完存する。
なお礎石の外周は方5間の柱間であるが、柱間寸法が不詳の為、これが裳階なのかあるいは縁礎石なのかあるいは塔を囲む板塀等の礎石なのか・・・は不明 である。
※2006/12/16:下に掲載の五重塔図によると、ほぼ縁礎石と断定して良いだろうと思われる。但し、この図では一辺3個の縁礎石であり、余りにも杜撰な図とも思われる。  ○久能山五重塔図

塔跡石碑 :下記拡大画像

塔 基 壇 :下記拡大画像

塔跡全貌 :下記拡大画像

塔 礎 石 :下記拡大画像

なお「東海道名所圖會」には、全く東照宮の記事はない。

五重塔跡概要:2004/08/23撮影 (採寸)

久能山五重塔跡概要図

...

2004/08/23撮影:
 久能山五重塔跡正面
 久能山五重塔跡俯瞰1
 久能山五重塔跡俯瞰2
 久能山五重塔跡石段
 久能山五重塔跡側柱礎1
 久能山五重塔跡側柱礎2
 久能山五重塔跡側柱礎3
 久能山五重塔跡縁礎石
 久能山五重塔跡側柱礎4
 久能山五重塔跡礎石1
 久能山五重塔跡礎石2
 久能山五重塔跡礎石3
 五重塔跡遺跡碑(心礎?)

中央間:6尺(約1.8m)、両脇間:5尺(約1.5m)を測る。(芯−芯間)
従って一辺は16尺(約4.8m)、江戸期建立塔の標準的な一辺と思われる。
側柱礎の周囲の礎石20個は裳階ではなくて縁礎石と推測される。

2006/12/16:
久能山叢書(下に掲載)の諸記録では:
  2間4尺8寸(5.1m)四方、
  高さ九輪上迄9丈6尺6寸(29.3m)、
   一本には10丈8尺(32.7m)と云う。
※実測値一辺(芯芯間)は16尺(2間4尺)であり、柱の径が8寸(24cm)内外とすると、記録上の2間4尺8寸とほぼ合致する。

側柱・四天柱礎石の大きさ:
 いずれも一辺約3尺(88cm)で、
 径6寸(18cm)深さ:不明の枘孔を穿つ。
 →五重塔の碑にある枘穴は径15cm、深さ14cm

縁礎石:おそらく、一辺約2尺弱(60cm弱)で柱礎石よりひと回り小さい枘孔を穿つ。

 なお石段及び基壇は採寸していないので、左図はおおよその見当である。

2020/03/06撮影:
 久能山五重塔跡11     久能山五重塔跡12     久能山五重塔跡13     久能山五重塔跡14
 久能山五重塔跡15     久能山五重塔跡16     久能山五重塔跡17     久能山五重塔跡18
 久能山五重塔跡19     久能山五重塔跡20     久能山五重塔跡21     久能山五重塔跡22
 久能山五重塔跡23     久能山五重塔跡24     久能山五重塔跡25     久能山五重塔跡26
 久能山五重塔跡27     久能山五重塔跡28     久能山五重塔跡29

 なお心礎については不明であるが、他の柱礎は完存し、もしあったとすると、石段正面にある五重之塔遺跡と刻まれた石が心礎の可能性が高いと思われる。
2020/03/20追加:
 久能山東照宮のページでは
「 塔址の中央には、五重塔内の心柱の下部受口となっていた礎石があり、これを掘起して前方に移動、駿府城内にあった蘇鉄が移植されました。」という。
これを信ずれば、心礎が存在していて、それを掘り起こし、五重塔の石碑となっていることになる。

 念のため、近世の五重塔の心礎について確認すると、
 池上本門寺五重塔<慶長12年(1607)建立>:断面図では初重梁上から心柱が建ち、かつ初重平面図でも心柱は確認できず、心礎は無かったと思われる。
 中山法華経寺五重塔<元和8年(1622)建立>:心柱は初重から建つといい、かつ初重平面図でも心柱は降りているので、心礎はあるものと思われる。
 御室仁和寺五重塔<寛永14年(1637)建立・徳川家光寄進>:断面図では心柱が初重に降り、かつ初重平面図でも心柱は降りているので、心礎はあるものと思われる。
 上野寛永寺五重塔<寛永16年(1839)再建>:断面図では心柱が初重に降り、かつ初重平面図でも心柱は降りているので、心礎はあるものと思われる。
 日光山五重塔<文化14年(1817)再建>:心柱は懸垂式であり、心柱は初重に降り、心礎の枘孔に心柱枘が収まる仕組みである。
 駿河富士大石寺五重塔<寛延2年(1749)建立>:資料がなく確認できず。
既に失われている五重塔では
 浅草寺五重塔<慶安元年(1648)徳川家光の再建>:心柱は懸垂式で保持されていたようであり、それ故におそらく心柱は初重に降り、心礎はあったものと思われる。「戦災等による焼失文化財」では心礎の確認はとれない。
 谷中感應寺五重塔<寛政3年(1791)再建>:塔礎石が完残し、心礎が現存する、谷中感応寺五重塔弐拾分之壱之図(古図面)でも心柱は心礎上に建つことが確認できる。
 重須本門寺五重塔<元文5年(1740)落慶という>:塔跡が残存する。しかし実見した時の確認が不十分で、心礎の有無は不明である。拙ページでは心礎は無かったように記録しているが、断言はできない。
 芝増上寺五重塔、四条妙顕寺五重塔、六条本圀寺五重塔は全く不明。
ということである。
 はっきりと心礎がない五重塔は池上本門寺1基のみである。重須本門寺も心礎が無かった可能性が高いが不確実。
 富士大石寺は不明で、退転した塔の芝増上寺、四条妙顕寺、六条本圀寺の3基も不明である。
しかし、三重塔と違い、近世の五重塔の大勢は心礎を設置するといってもよいのではないかと思われる。従って久能山五重塔に心礎があることは何等不思議なことではない。

※他の東照宮塔婆:日光東照宮は五重塔現存、駿河久能山東照宮は五重塔跡ほぼ完存、紀伊東照宮三重塔跡はほぼ壊滅

2020/03/20追加:
○「久能山誌」静岡市編、静岡市、2016.3 より

久能山東照宮の修営と組織
 元和2年(1616)徳川家康薨去、翌元和3年主要社殿が完成、寛永・正保の造営を経て諸設備が整備される。
その後、4度の地震に見舞われるが、幕末まで幕府による修営が行われる。
 徳川幕府の造営組織は普請方(土木工事を担当)と作事方・小普請方(何れも建築工事を担当)から成る。
作事方は寛永9年(1632)に設置され、幕府関係の建築物の造営を行う。
明暦3年(1657)江戸の大火で、修復工事を担当していた小普請方の仕事が増大し、貞享2年(1685)小普請方は正式の役職となり、次第に作事方を圧倒するようになる。
そこで、作事方の嘆願により、享保3年(1718)両者の担当場所が確定される。
 久能山の修営については、宝永・宝暦期は小普請方が担い、これは小普請方の勢力拡大の時期と重なり、明和以降幕末までは作事方が担う。
元和2年(1616)大工棟梁中井正清が社殿の造営を命ぜられ、本殿・石の間・拝殿(御宮と称す)そして諸堂社が建立される。
この一連の造営で古坊4ヶ院(大寿・山明・定智・宝性院)も建立される。
  (・・・中略・・・)
◆久能山御山五重塔雛形図
 寛政9年(1797)五重塔の見分が行われ、その際建物の実測調査が実施され、縮尺20分の1の「久能御山五重塔雛形」が作成される。
その写本(昭和2年上木茂謹写)が残る。
そこに残る「池田栄次郎控」とあるが、池田栄次郎は駿府の大工棟梁である。

 久能御山五重塔雛形:左図拡大図
本図の二重〜五重は断面図であるが、初重のみは立面図であり、本図では心柱が初重床下まで降りているのかどうかは分からない。
しかし、東照宮の見解では心礎があり、それを掘り出し、塔跡の石碑としたというので、心礎があり、心柱は心礎に届いていたものと推定される。

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◆駿河国久能山五重御塔之図
 享和2年(1802)作事方によって、御宮諸堂社および五重塔の修復が行われる。寛政9年の五重塔見分・雛形が今回の修復につながったものと思われる。
修理は大棟梁甲良筑前棟村(甲良家8代、明治11年没)が担当する。
甲良若狭棟全(甲良家10代)による「駿河国久能山五重御塔之図」の写本も現存する。(これは明治6年大島盈株写)

「駿河国久能山五重御塔之図」は
 初重・二重の軸組平面図:縮尺1/20
 初重床組図:縮尺1/20
 初重化粧垂木木割図:縮尺1/20
 初重・二重矩計図:かなばかり図:縮尺1/10
 初重隅断面図:縮尺1/10
からなる。

なお、大島盈株(みつもと)については
谷中感應寺に詳細を記載する。
また
浅草浅草寺にも関連記事がある。


久能山東照権現願要

元和2年(1616)徳川家康が歿し、遺命により、当山に埋葬する。同年秀忠の命で社殿を造営し、東照社と称する。
元和3年東照大権現の神号が宣下され、社領は3000石とされる。
正保2年(1645)宮号が宣下され、東照社は東照宮と改称する。
正保3年別当徳音院が建立される。
明治の神仏分離で、五重塔等は棄却される。徳音院は廃寺(明治10年根古屋に再興)となる。
現在は本殿・唐門・廟門・廟所宝塔・旧本地堂(日吉神社本殿)・神庫・神楽殿・鼓楼・神厩・楼門などを残す。
上記の社殿一式は重文指定を受ける。
平成22年(2010本殿・石の間・拝殿が国宝に指定さる。

 →拙サイトに収録した各地の東照大権現については「東照権現・東照宮」を参照

「駿河名所圖會」(安政4年成立 中島島岳著)に見る五重塔
記事:「当山登り十八丁・・・随身門を入ると左の方五重塔、右の方に一社これ在り。・・」
 久能山図      久能山部分図
詳細な図ではないが、五重塔が描かれる。

2006/12/16追加:
「久能山叢書」(全5巻)久能山東照宮社務所 より
 第1編 久能経営記 1970、第2編 資料集 1972、第3篇 資料集 1973、
 第4篇 資料集 1976、第5編 明治以降資料集 1981.3

第1編「久能山経営記」
「久能山御造営年譜」
1.元和2年(1616)
  宮御造営古坊4院(大寿院、定智院、三明院、宝性院)御建立
2.元和3年
  御本社御建立御大工中井大和 ・・・
3.寛永4年(1627)
  御本地堂 御宝蔵 御楼門 ・・・・
4.寛永12年(1635)
  五重塔御建立(同年8月御釿初、・・・)
   ・・・・
   播州式東郡府寺村飛騨内匠15代孫 大工棟梁 甲良出雲
6.正保3年(1646)
  護摩堂 御膳所 禰宜番所学頭及新坊4院(玉泉院、林光院、松岩院、長円院)新た御建立、古坊4院御再建・・・
・・・・

第2編
「駿州久能山御宮并諸堂社其外共御修復出来栄見分之儀申上候書面(貞和2年<1803>御修復)
各堂社塔について微に入り細に入る詳細な修理細目が列挙される。
見分対象の堂社塔は以下の通り
 御宮殿、御本社、御石の間、御拝殿、御宝塔、御包御門、御宝塔御門、御供廊下、御瑞垣、御正面御唐門、
 御本地堂御門、御本地堂、神庫、荒神社、神楽所、御膳所、五重塔、鐘楼、護摩堂、山王社、庚申弁天相社、
 神厩、御楼門、御楼門左右弐重猿頭塀、禰宜番所、愛宕社、稲荷社、土蔵、禰宜食所、拭板之間、御供所。
 春屋、薪小屋
「駿州久能山八院一之御門并御坂石垣其外共御修復出来栄見分之儀申上候書面(享和2年)
 ・・・
「駿州久能山御宮并諸堂社向其外共御修復出来栄見分之儀申上候書面」(天保4年<1833>)
見分対象の堂社塔は以下の通り
 御宮殿、御本社、御石の間、御拝殿、御宝塔、銅色御門、御宝塔御門、御供廊下、御宮廻り御玉垣、御唐門、
 御本地堂脇御門、御本地堂、神庫、荒神社、神楽所、御膳所、五重塔、鐘楼、山王社、庚申弁天相社、
 御楼門、御楼門左右弐重猿頭塀、禰宜番所、御供米蔵、禰宜食所、護摩堂、愛宕社、稲荷社、御供所、
 御物置所、春屋

第3編
久能山略図」:
 近世の久能山絵図で、退転した膳所(上御供所)、明治3年取壊の護摩堂、三明院・宝性院・大寿院・玉泉院などの位置が分かる。

久能山東照宮資料:
「久能山古今覚書」(安永3年<1774>、大僧都慈空記)
1.元和2年前久能山者真言宗に御座候処、・・・・坊中4ヶ寺天台宗に改宗社僧に被・・・・
  ・・・・
  高3000石(1000石 神供領、200石 社僧領、1800石 神主領)・・・
1.正保3年 ・・・高3000石(162石余 年中行事料、127石余 修理料、105石 学頭料、340石 社僧8人料、
                   420石 禰宜役人料、1800石 神主料)・・・・

第4編
久能山九折の図」(中央部の部分図)

久能山九折の図:左図拡大図

山下右に別当(徳音院)・元三大師、左に榊原ヤシキが描かれる。
山上の御宮・五重塔の絵があり・奥の院・愛宕とある。


久能山東照宮の創建」大河直躬:
・五重塔(明治6年取壊):寛永12年8月手斧始、翌13年正月鉋之釘打納、寛永16年7月供養
なを大工について、秘録集には「播州式東郡府寺村飛騨工代々末孫甲良出雲守宗次」とある。
当然のことながら、この甲良出雲守宗次とは当時の幕府付作事方大棟梁を務めていた甲良左衛門宗次との関係が問題となろう。久能山の造営は幕府の工事組織によるものであることは明らかであり、また工事期間が宗次の棟梁在職期間と合至するから、幕府棟梁宗次が棟梁であったことは十分考えられる。しかし甲良家は近江犬上郡甲良町の出身であり、播州出身である記録は他にはない。なお甲良家の宗次の条には久能山五重塔造営の記録はないという。従ってこの秘録集にいう大工棟梁の名前はそのまま信ずることはできないであろう。(伝説的要素があるのか、あるいは他の工匠名との混同があるものとも思われる。)
・奥社石造宝塔:寛永18年遷宮儀式があり、この時完成したものと思われる。
・社家:創建当初は徳川譜代の家臣榊原清久(久能山城守将・後に照久と改名)が命ぜられる。
・供僧:8院があり、楼門下から一の御門までの参道両脇にあった。古坊4院(三明・定智・法性・大寿院)と正保3年には新院4院(玉泉・林光・松岩・長円院)が建立される。
山王社、庚申・弁天社、竈神社:前2社は神厩と参道を挟んで反対側に建っていた小社である。
山王社は現存せず。これはおそらく明治維新の時、本地堂を日枝神社に転用したが、この時神座も移座し、その結果、山王社は毀棄されたものと思われる。なお、比叡山山王権現(日枝神社)の祭神は明治維新に大山咋神と変更された。
    ※「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第 48番大山咋神社縁板)の項を参照。

駿河雑志」<抜粋>
  ※「駿国雑志」は天保14年(1843)阿部正信著

巻之45下
有度郡【久能宮】
・・・祭る処、東照大権現也。元和2年・・御鎮座。時に榊原従2位大内記源照久を以って神職と成し給ふ。
・・・御別当、徳音院学頭と称す。・・・古坊三明院、大寿院、宝性院、定智院・・・新坊林光院、長円院、玉泉院、松巌院・・・御燈明僧、正真院、円智院・・・
抑此御山は南向にして、前の渚に・・御宮の方向いて、左に榊原家、右に御別当徳音院・・・有り。少し登れば下馬札在り。右の方に両大師堂在り。・・・登り坂17曲り・・御門櫓あり。亦坂道4曲り登れば、左に大寿院、玉泉院在り。右に三明院、長円院、宝性院、松巌院、林光院、定智院の8坊在り。・・・楼門有り。・・・・其内左脇に禰宜番所有り、・・・同所御厩有り、東向き也。右の方に西向きに弁財天、青面金剛の2堂在り、同並びて山王の社在り、・・・其一段高き所に護摩堂在り。夫より雁木坂56檀登りて唐銅の鳥居有り、左の方に五重塔、右の方に鐘楼あり。・・・
・・・御本社・・唐戸入口あり。是より御宝塔道也。平人出入を禁ず。・・・
・・・御供所の裏・・夫より山道行きて、・・・愛宕社・稲荷社有り。・・・
・・・御本社の右の方、南向に御本地薬師堂有り。・・・
・・・五重塔は寛永11年、大猷院殿大樹、御上洛の時、御登山、御建立のこと仰出され・・・
・・・石御廟塔は寛永178両年、御修復の時御建立。・・・
・・・両大師堂は寛永□年建立也。
・・・正徳5年(1715)、百回御神忌御造替已然の図有り、以て左に記す。

久能山五重塔図:左図拡大図

御宝塔並御山内の図:廟所宝塔(石造)の図

以上は設計図の類ではなく、スケッチの類であるが、久能山五重塔図が残される。
近世江戸風な趣が良く表わされている。即ち、組物は華美に装飾され、蟇股は彫刻され、初重脇間には彫刻が嵌められ、長押には金具が打たれる・・・・、但し相輪の 形状は不可解である。
なお、縁板のごく一辺が奇しくも残存すると云う。→「五重塔椽板を参照 。(下に掲載)

駿河志料 巻之25」新宮高平
有度郡 久能山
【御本地堂】御拝殿の東瑞垣外にあり、薬師如来を安置す、・・・・
【五重宝塔】鳥居に西にあり。高九輪まで、10丈8尺(32.7m)
五智如来を安置す、五智の如来は・・・・。久能記云、寛永尾11年6月、三代将軍御上洛の時、尊命に依て、此五重塔御建立あり、同12年丑8月11日、釿始子□月18日銑之釿納めしよぞ、奉行は山岡伝右衛門尉、若林与右衛門尉、大工棟梁播州□□□府寺村飛騨工15代、甲良出雲守藤原宗次なり。
【山 王】 護摩堂下段にあり、小祠作り
【堀 井】 1ヶ所、玉泉院下にあり・・・
【堀 井】 1ヶ所、長円院境内にあり、・・勧助井戸と云、・・・
【僧家社人】
 [徳音院] 高85石 御別当 天台宗東叡山末
  当院は、正保3年本田越前守御手伝創建ありて、仙忠法印初住、一山の学頭職なり、久能山記云、
  慶安元年12月25日仙忠法印入院、元禄3年8月28日寂す、自坊坂下にあり。
   御神殿 桁8間梁7間半 大師堂 坂下徳音院並にあり 慈恵大師、慈眼大師の像を安置す。
 [宝性院] 高80依 古坊4ヶ院共に高同じ 正保3年忠慶律師入院・・・
 [三明院] 天栄法印、正保3年入院、・・・
 [定智院] 権大僧都法印仙孝、正保3年入院、・・・
 [大寿院] 三部都法円重法印、寛永11年入院、・・・
 [玉泉院] 高60依 新坊4ヶ院共に同じ 珍能法印、慶安2年入院・・・[久能祠]当院の境内にあり、・・・
 [林光院] 俊光法印、慶安2年入院、・・・
 [長円院] 宗鏡法印、慶安2年入院、・・・
 [松巌院] 三部都法賢応、慶安元年入院、・・・

※「駿河志料」全百八巻、新宮平、文久元年(1861)全巻完成、新宮平は浅間神社(静岡)神職。浅間神社石鳥居前の西草深公園が邸跡と 云う。

東照宮」<抜粋>(文面より、大正4年よりすぐ後の記録と思われる。)
 社格:明治6年県社、明治21年別格官幣社に昇格
 鼓楼:従来は鐘楼で、中将忠長の建立、神仏混淆禁止の当時鐘を太鼓に取替え。
 宝物館:もと社僧坊の址に(建立)。
 徳音院:山下石鳥居から約半町を登った右側に徳音院がある。久能山学頭であったが、
   学頭廃止後建物は取り払われた、寺号だけは存置して大師堂の地に移る。
 大師堂:慈眼大師(天海僧正)元三大師(慈恵大師)の両大師を安置、従来徳音院の附属である。
   建立は徳音院建立以降と思われる。
明治維新に神仏混淆禁止のために取り毀たれた建造物は久能山の威風を痛く削いだものであった。
(取払はれたる建造物)
 五重塔:2間4尺8寸(5.1m)四方、高さ九輪上迄9丈6尺6寸(29.3m)、一本には10丈8尺(32.7m)と云ひ、外廻り弁柄漆塗屋根銅瓦本葺、寛永11年三代将軍家光参詣の節の命によりて松平豊前守に仰ありて大工棟梁甲良出雲が建立し、同12年着工翌13年落成本尊には五智の如来を安置した。(明治6年8月取払)
 護摩堂:桁行3間梁間4間・前幅3尺の縁あり屋根土瓦葺、宮殿造正保3、4年の交建造(明治5年取払)
 別当所徳音院:建坪200坪平屋土瓦葺、正保3、4年の交建造、取払時日不明。
 社僧坊: 8ヶ寺    同   明治3年取払
 禰宜番所: ・・・ 明治5年取払
 御供所、土蔵: ・・・いずれも明治5年取払
 禰宜食所: ・・・取払時日不明
 山王社:構造等不明、取払時日不明
 稲荷神社:4尺2寸四面、幅5尺、奥3尺の向拝あり杮葺、正保3年建造(・・・)
       明治17年9月暴風雨のため倒壊、御神体は末社厳島神社へ移座。
        ※「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第50番稲荷社朱塗柱)の項を参照。

駿河国新風土記」新庄道雄<抄録>
  ※「駿河国新風土記」は全25巻、文化13年(1816)〜天保5年(1834)、新庄道雄著
 徳音院:
一山の学頭にして別当、祭主源照久辞職の後正保3年戌年、本田越前守に命ぜられて御手伝にて創造あり。奉行久世大和守、開山大阿闍梨仙忠、慶安元戊子年12月25日入院して一山の首領となる。東叡山門主の末寺にして天台宗なり、寺碌現米82石5斗、講演料88俵・・・・
 両大師堂:
同寺の北にあり、慈恵大師、慈眼大師の像を安置す、・・・・
 社僧 8院:
三明院 定智院 法性院 大寿院 此4院は初め榊原氏神主たりし時よりの社僧なり、古坊と称す。寺領米27石5斗宛、講演料7俵2斗8升・・・
長延院 林光院 松岩院 玉泉院 此3院は別当所とともに建てたるところなり、新坊と称す、寺領現米19石2斗5升、講演料右に同じ。玉泉院は楼門の下にありて、・・・
 五重塔:
本尊五智如来、銅鳥居の左の方にあり、建永11年大猷院殿御上洛の時御登山坐て五重塔御建立の御願ありて其年より、御造営あり、同12年亥4月落成す、惣奉行松平肥前守、此塔の壮麗形色彫物等の巧なる畿内の寺院いくらの塔ありとも此塔の高大美麗同日の談にあらず。

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2020/03/20追加:
○「久能山誌」静岡市編、静岡市、2016.3 より
久能山惣繪圖トレース図
「久能山惣繪圖」は久能山東照宮蔵、18世紀末頃のもの

2020/03/20追加:
○駿州久能山図
岡山大学池田家文庫
「駿州久能山図」作成者、年紀など不詳

駿州久能山図:左図拡大図:容量4.2M

一之門からう門迄の間に玉セン院以下の坊舎が描かれる。
(坊舎の名称は記されない。)
山下には別当徳音院と両大師が描かれる。
 現在の徳音院は元の両大師のあった地に再興される。
その西側には榊原屋敷がある。
榊原氏は久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理する。
榊原氏は交代寄合であり、駿河有度郡久能領1,800石を領する。
なお、久能山総門番は駿府城代支配である。

2020/03/20追加:
○駿府名勝一覧之図の右端「久能山真景」
静岡県立中央図書館蔵
「駿府名勝一覧之図」出版者:江戸・大和屋喜兵衛、江戸後期

 「駿府名勝一覧之図」・全図:右端が「久能山真景」図である。

上記「駿府名勝一覧之図」の右端が「久能山真景」図である。

 「久能山真景」:左図拡大図:容量2.5M

山下には徳音院・両大師及び榊原越中の屋敷が描かれる。
山上の東照宮門前には社僧8ヶ院の坊舎が並び、社僧8ヶ院の凡その位置が分かる図となる。
薬師堂は本地堂とも称する。東照大権現の本地は薬師如来とする。

2020/03/20追加:
○「久能山東照宮絵図」天保5年(1834)
 久能山東照宮絵図:静岡県立中央図書館蔵:容量2.2M
山下に
別当徳音院の屋敷(神殿であろう)と両大師堂が描かれる。別當屋敷はかなり格式のある建築のように見える。
 「御朱印3000石/御別當/坊中 8ヶ院/社役 19人」とある。
榊原屋敷があり、「御門番/榊原越中守/輿力8騎 同心30人」とある。

2020/03/20追加:
○「久能山真景之図」出版社:根小屋・川島直蔵、明治11年
 久能山真景之図:静岡県立中央図書館蔵:容量2.8M
明治11年の作であるので、明治の神仏分離の処置の後を示す繪圖である。
薬師堂は三王社(山王権現)とあり、鐘楼は鼓楼となる。
五重塔は取り壊され、跡地となる。
楼門下の坊舎はほぼ退転し、元林光院、元松岩院のように記され、玉泉院のみは堂舎が残され社務所となったように見える。
山下では別当徳音院は退転した様子で、両大師のみ残り、久能山総門番であった榊原屋敷(陣屋)は榊原屋敷跡となる。
 ※Web情報では、榊原屋敷(久能陣屋)跡は今でも立派な石垣を残すようである。(未見)


2003/06/27追加:
「久能山東照宮神仏分離に関する報告」小島吟治朗氏報、大正14年 、明治維新神仏分離資料

「・・・神仏分離の法令出る・・・久能山東照大権現を東照宮と改む、・・・同境内に於ける五重の塔并に鐘楼の二大建造物は、撤廃の命を受けたり、・・・亡祖父小島元勝は・・・時の出島宮司に謀り、其の保存方を懸庁に懇請し、・・・同鐘楼の分は同楼に適する太鼓1個を奉納するものあらば、御太鼓堂と改め存続すへく命令の回答に接す、・・・祖父元勝は左記御太鼓1個を奉納す、・・・其の太鼓の銘は左 (下)の如し。
  下部に明治5年1月7日、奉納、遠州金屋原住人、士族勝直父、小島元勝
さて五重の塔の方は・・・存続の方法なくして、終に商人の手に渡り破壊す、同塔の木材金銀銅鉄の金具類は四散せり、当時不思議なる奇談あり、静岡市遊郭・・・・内に引手茶屋業を営む大阪屋某・・は該木材の一部を買受け、自家入浴室を改造したり、・・・数年を出ずして暴れ牛のために変死を遂げたり、・・・・・祖父元勝は・・五重塔破壊当時は縷々其の実況を目撃したり、故に破壊物品の四方に散乱し、或は人夫の土足に掛り居る事も認め、大いに嘆きたり、・・・巴瓦の尖端の巴1個を拾い(径5寸5分本製彫金箔)・・・右品は家宝として保存の為、屋敷内稲荷社の内に奉納現存す。」

「久能山東照宮神仏分離史料」東照宮宮司杉江彦太郎氏報、 日付不明、明治維新神仏分離資料

久能東照宮社務日誌抜粋:
明治3年:山内諸堂の仏体仏具は神殿跡(別当徳音院内)に引き移し。
本地堂薬師如来その他の仏体は山下に下ろし、社僧へ引き渡す。→→下の項☆2007/06/13追加:を参照
明治5年:山上の釣鐘不用。取払い。東大谷村田中助右衛門の願書。
大釣鐘釜谷助右衛門に払い下げ。鐘楼より下ろす。
明治6年:五重塔落札、落札人静岡市新通佐藤那三郎、金額2015両。

久能山下徳音院宝物帳所載
・大日如来(坐像)一体(元久能山五重塔に安置の仏像なり)
・不動尊(元久能山護摩堂安置の本尊なり)

五重塔は入札売却後落札人に於いて破壊分売したるものと思はしく、先年静岡市在住者より扉2枚及軒端の風鐸4個を寄附したることあり、今保存しあり。→→下の項☆2007/06/13追加:を参照

→→☆2007/06/13追加:
 「久能山の歴史図録」久能山東照宮博物館、1974 より
本地堂薬師如来坐像:久能山東照宮博物館蔵
 ※本地堂薬師如来は明治3年大谷村(隣村)大谷寺に移座と記録される。(但し、この像の行方は未掌握につき、不明)
  しかるに、東照宮に保存とは良く分からないが、本地堂本地仏として、伝来する。
久能山五重塔風鐸:久能山東照宮博物館蔵
 ※「先年静岡市在住者より扉2枚及軒端の風鐸4個を寄附したることあり、今保存しあり。」とあり、今も東照宮に保存される。
  但し、扉2枚・風鐸の保存個数は未掌握につき、不明。

○久能山護摩堂
 青龍山本覚寺(日蓮宗・静岡市池田・本山池田本覺寺)の位牌堂は明治4年久能山護摩堂を移建したものと云う。
  →駿河池田本覺寺:久能山護摩堂遺構(位牌堂)写真あり。

2020/03/20追加:
○「久能山誌」静岡市編、静岡市、2016.3 より
久能山の神仏分離過程
 久能山の神仏分離資料には次の資料が著名であり、旧来重用されてきた。
  「新編明治維新神仏分離資料 第六巻」初出は1926年
  「明治維新当時の静岡」静岡市役所、1927
旧来は重用されなかったが、次の資料にも注目すべきであろう。
  「久能山叢書 第5巻 明治以降資料集」久能山東照宮社務所、1961
  「久能山沿革史」旧幕臣・高橋久敬<「久能山東照宮所蔵資料」明治9年(未刊行・静岡県立中央図書館) に所収か)

 明治元年12月、久能山東照宮別当徳音院が廃止される。
 久能山之儀、此度御仕法替被、命御別当御廃に付、徳音院は大慈院江御差戻相成候段被、命候に付申達候間、此段為心得相達候事
と(「久能山叢書 5巻」28ページ)あり、徳音院は廃止され、門主である東叡山寛永寺寺中大慈院に差戻が命ぜられる。
 明治2年、社僧定智院・林光院・長円院・松岩院にも廃止が命ぜられる。
 明治3年閏10月、残りの社僧宝性院・大寿院・三明院・玉泉院にも廃止が命ぜられる。
社僧全てが廃寺となり、山内諸堂の仏像・仏具は廃徳音院の神殿跡に集められ、下山した社僧たちに引き渡される。
薬師堂薬師如来・脇侍日光月光菩薩・十二神将・仏具も同様に降ろされ、これらは大般若経600巻とともに大谷村大正寺へ移される。
一方、山下の神殿に留め置かれた神像は明治3年旧薬師堂に移され、同様に留め置かれた台徳院・大猷院の位牌は駿府宝台院に移される。
 ※大谷村大正寺は大谷に現存する曹洞宗大正寺であろうが、本地仏薬師如来は東照宮宝物殿にあるという。大正寺から再び東照宮に遷座したのであろうが、その経緯に関する情報は皆無であり、よく分からない。
 明治4年6月、腐朽した一之門の下番所と板藏の取り壊しが決定。
 同年7月、廃藩置県により、静岡藩は廃止、藩知事の徳川家達(徳川宗家16代)は東京に帰ることを命ぜられる。
 明治5年2月、久能詰であった徳川家家丁であった4名が免職となる。
 同年同月、祢宜頭川口林平以下祢宜18名に帰農が命ぜられる。
 同年10月、鐘楼の大釣鐘が大谷村釜屋助右衛門に払い下げ。鐘楼は取り壊しを遁れるため太鼓堂と改称し、太鼓は旧幕臣小島元勝が明治6年12月に献納する。
 明治6年1月山下の下馬札の取り払いの命令が静岡縣より下される。さらに同月楼門の扁額(東照大権現)の取り外しが命ぜられる。
 同年2月、久能山は県社に列せられる。同時に祀官(宮司)には榊原祐次郎(最後の久能山惣門番であった榊原三十郎の弟)、祀堂には杉江栄礼が静岡縣より任命される。
 同年7月3日、社務日記には次のように記される。
  一、昨3日杉江栄礼、出島竹斎方へ出張の節、出島氏ゟ申越し候にハ、今般御山五重之儀、佛舎ニ有之間、相払ニ致度旨申越候ニ付、今日榊原祐次郎出庁候事
  ※杉江栄礼は前出の通り祀堂、榊原祐次郎は同じく祀官、出島竹斎は相談役である。
  ※出島竹斎より佛舎である五重塔の取り払いの意向を告げられる。
  おそらく出島の意向は静岡縣の意向を受けたものであったと思われる。
 同年7月4日、榊原より五重塔取り払いの伺いを提出する。
  久能山
 東照宮社前ニ有之五重塔之儀、佛舎の義ニ付、辛未(明治4年)以来取除可申筈之処、品柄故取除方容易難出来、夫故望之者無之、追々及延引奉恐入候間、入札ヲ以相払候様仕度、此度奉伺候間、至急御下知被成下度、此段申上候也、
 明治6年7月4日 久能山祀掌 杉江栄礼印     同 祀官 榊原祐次郎印
  静岡縣参事南部廣矛殿
  静岡縣権参事長長澤常山殿
この伺いの附紙には次のようにある。
 本文伺之通御下知相済候ハゝ、右払下ヶ入用ハ備金仕、平日聢与取締付置、御営繕向等ニ相用候積りニ御座候
 ※五重塔払い下げ金は東照宮の営繕費用とすることを企図するという。

 その後縣から許可を得た榊原たちは出島と相談し、7月11日近隣に五重塔解体を募る回状を回す。
 同年7月末にかけて合計30点の応札があり、静岡の有力町人を中心に根小屋村や士族からも応札がある。
 同年8月3日、開札が行われ、落札は静岡新町佐藤邦三郎に決定、落札金額は2025圓である。
これは米価をもとに現在の貨幣価値に換算すると約2500万円以上となる。
 同年10月24日取壊した五重塔用材11本を東照宮が購入しているので、この頃までには解体が終わっていたのであろう。
参考:
明治の神仏分離の処置以前の境内については、何れも上に掲載の
 久能山惣繪圖トレース図      駿州久能山図      久能山真景
 久能山東照宮絵図      久能山略図
があり、神仏分離の処置後の境内については
 久能山真景之図:明治11年
を掲載しているので、参照を乞う。


五重塔椽板:2006/11/28「Y」氏ご提供

久能山五重塔縁板が、松浦田武四郎の書斎「一畳敷」の「書棚の棚板」として、奇しくも現存する。

北海道探検家・松浦田武四郎が最晩年に建立した草の舎(一畳敷)という書斎の「書棚の棚板」に久能山五重塔縁板を用いる。
そして、この書斎(一畳敷)は現存する。

松浦武四郎、この書斎の建立にあたり、諸国の友人知人に由緒ある寺社・旧家の廃材や断片材を勧進し、その材を建築・内装部材として各所に用いて、書斎(一畳敷)を建立する。
この書斎(一畳敷)は数度の移転を繰り返すも、今次大戦などの戦火なども逃れ、今は国際基督教大学構内に現存する。
また、松浦田武四郎は勧進の記録として「木片勧進」を版し、この版本によって、この書斎のスケッチなどと、用材の寄進者・品目が後世に伝わる。

「木片勧進」: 49番 「久能 五重塔椽板 欅  書棚中棚板に用ゆ」
                     寄進者は「駿州 久能山祠官 出島竹斎」
2006/11/28:「Y」氏ご提供
 ○
「一畳敷」書棚棚板:久能山五重塔縁板 。
 「木片勧進」内観図:東面内部にある書棚を南西から見た図。着色部分が久能山五重塔縁板(書棚中棚板)である。
   なお、竹斎(1816-1887)は五重塔縁板以外にも、
   48番-久能山-大山咋神社(日枝神社)の椽板(檜)や50番-久能山-稲荷社の朱塗柱などを寄進すると云う。
    ※久能山山王社(日枝神社)  久能山稲荷社
2011/06/14追加:
木片勧進東面図:この図の左側に
 「此内書棚 天井十九 棚板三枚八十五 同鴨居第七 四枚目板第三 中板七十 戸第四 棚うけ三十 戸棚敷鴨居十四」とある。
 この東面書棚の棚板上3枚は85番(大和法隆寺蔵斑竹茶棚の板3枚)であり、
 四枚目(一番下の棚板)は第3番(紀伊熊野本宮誠證殿扉1枚 )と云う記述であり、久能山五重塔椽板とは記載されていない。
 しかしながら、上記の「Y」氏も「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」もこの板を久能山五重塔椽板と云う。
 確かに「木片勧進」49番では「書棚中棚板に用ゆ。」とあるも、上記の「四枚目板第三」との矛盾はどのように解釈したら良いのだろうか。
木片勧進平面図:東面の右(南)が「書棚」の位置と明示される。
木片勧進南面図「木片勧進」内観図と同一図である。
  この図では4枚の棚板を持つ書物が乗った書棚が描かれるも、棚板に関する説明は無し。
○2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より
 「一畳敷」書棚中棚板:久能山五重塔椽板
 写真中央が書棚である。
 棚板の上3枚は大和法隆寺由来のものであり、その下の4枚目の中棚板は久能山五重塔椽板と云う。
 「一畳敷」書棚中棚板2:久能山五重塔椽板
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
 現在の一畳敷戸棚: 「49」番が久能山五重塔椽板である。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:


久能山五重塔椽板1
久能山五重塔椽板2
久能山五重塔椽板3
久能山五重塔椽板4:左図拡大図

 ※木片勧進の概要は「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第48〜50番)の各項を参照。


久能山の現状

◇印は2004/08/23撮影、無印は2020/03/06撮影:

建造物の国宝・重文は次の通り。
国宝:久能山東照宮 本殿・石の間・拝殿(1棟)(附:安鎮法供養具11組、本殿釣燈籠4箇、拝殿釣燈籠2箇)
重文:唐門、東門、廟門(宝塔門)、玉垣、渡廊、廟所宝塔(神廟)、旧本地堂(附:釣燈籠2箇)、神庫、神楽殿、神饌所、鐘楼、神厩、楼門(附:廟所参道(廟門以内、石鳥居及び石柵付)、銅燈籠2基、手水鉢石1口、棟札10枚)

徳川家康廟所:重文、高さ5.5m、外廻り8m、元和2年(1616)の創建当初は木造桧皮葺の造りであったが、寛永17年(1640)に徳川家光により現在の石造宝塔に造替される。
つまり、創建当初は木造宝塔であったという、もし造替されず現存するならば、貴重は木造宝塔となっていたであろうと惜しまれる。
 ◇久能山石製宝塔1      ◇久能山石製宝塔2      ◇久能山石製宝塔3
  参考:「駿国雑志」阿部正信、天保14年(1843 より
   御宝塔並御山内の図:廟所宝塔(石造)の図:上に掲載
   元和2年(1616)徳川家康、駿府城にて逝去、遺体は遺言により、久能山のこの場所に埋葬される。
   一周忌後に当地から下野日光へと改装される。
 徳川家康石造宝塔4     徳川家康石造宝塔5     徳川家康石造宝塔6     徳川家康石造宝塔7
 徳川家康石造宝塔8     徳川家康石造宝塔9     徳川家康石造宝塔10

 村松から根小屋へ至る間の富士山
別当徳音院
現状は山下に小堂宇数棟を構える。開基は南光坊天海と伝える。
薬師如来(本地堂本尊?)、不動明王を伝える。また慈眼大師(天海)・元三大師を祀ると云う。
 ◇久能山徳音院    2006/12/16追加:◇徳音院本堂?(本尊薬師瑠璃光如来)
 徳音院神殿のあった場所は更地(駐車場?)となり、何も残さない。元の両大師の地が現在の徳音院となる。
 久能山徳音院跡1     久能山徳音院跡2     久能山徳音院跡3
 久能山徳音院1:元の両大師が徳音院となる。     久能山徳音院2
 久能山徳音院3:徳音院石碑
 久能山徳音院4:徳音院石碑:「鳳来寺嶺薬師如来/同木同体當院本尊/理修仙人作」と刻む。
  ※鳳来寺本尊は開山利修作という薬師如来である。
  於大の方(傳通院・徳川家康生母)は当山に参篭し家康を授かったという。
  家光はこの伝説により鳳来寺に東照宮を造営する。 →三河鳳来寺
 久能山徳音院5:山内    久能山徳音院6:両大師堂    久能山徳音院7:両大姉堂仏壇   久能山徳音院8:大聖歓喜天
 一之門からの眺望:駿河湾     一之門からの眺望:伊豆半島     一之門々衛所
 三明・定智・長圓院跡:奥が山明院跡、旧宝物殿のある場所が定智院跡、手前勘介井戸を含む部分が長圓院跡
 久能山三明院跡1     久能山三明院跡2     久能山三明院跡3     久能山三明院跡4     久能山三明院跡5
 久能山定智院跡1     久能山定智院跡2:建物は旧宝物館
 久能山長圓院跡1     久能山長圓院跡2:井戸は勘介井戸
 久能山大壽院跡1     久能山大壽院跡2
 久能山宝性院跡1     久能山宝性院跡2     久能山宝性院跡3:東照宮博物館の地に宝性院はあったと思われる。
 松岩院は宝性院の北に隣接してあったと思われる。(写真なし)
 玉泉院は今の社務所の地にあったと思われる。(写真なし)
 久能山林光院跡1     久能山林光院跡2:林泉院入口石階と思われる。

 ◇久能山楼門1      ◇久能山楼門2
 久能山楼門3     久能山楼門4     久能山楼門5     久能山楼門6
 ◇久能山神厩     久能山神厩
 久能山稲荷・辨天:稲荷と辨天が相殿となる。稲荷は明治17年倒壊したので山上より遷座、辨天は神仏分離の処置で厳島となる。
 なお、向かって左奥に護摩堂があったと思われる。護摩堂は池田本覚寺を移建され、現存する。
 ◇久能山旧鐘楼
 久能山鐘楼1     久能山鐘楼2      久能山鐘楼3     久能山鐘楼4     久能山鐘楼5
 久能山神饌所     久能山神楽殿
 ◇久能山神庫:重文(文化財ガイドブックより転載)
 久能山神庫1     久能山神庫2     久能山神庫3     久能山神庫4
 ※久能山旧本地堂(薬師堂):
 現在は日枝神社などと称する。完全に仏堂の建築である。
 ◇久能山旧本地堂     ◇久能山旧本地堂(文化財ガイドブックより転載)
 久能山本地堂1     久能山本地堂2     久能山本地堂3     久能山本地堂4
 久能山本地堂5     久能山本地堂6
 ◇久能山唐門1      ◇久能山唐門2      ◇久能山唐門3      ◇久能山唐門4
 ◇久能山唐門5      ◇久能山唐門6
 久能山唐門・透塀     久能山唐門11     久能山唐門12     久能山唐門13     久能山唐門14
 久能山東門
 久能山拝殿1     久能山拝殿2
 ◇久能山本殿1      ◇久能山本殿2      ◇久能山本殿3
 久能山御社1     久能山御社2
 久能山本殿11     久能山本殿12     久能山本殿13     久能山本殿14     久能山本殿15
 久能山本殿16     久能山本殿17     久能山本殿18
 久能山宝塔門1     久能山宝塔門2     久能山宝塔門3     久能山宝塔門4 

昔の久能山

2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
「久能山東照宮に詣づ」文学博士 芳賀矢一:「学生」第4巻3号、多分大正2年刊 所収
 「之の字の形に左右に曲折する石磴は17折、1036段といふ。」
 「日光も久能山もともに別格官幣社東照宮と称して居る。藤原鎌足も談山神社、和気清麻呂も護国神社、楠正成は湊川神社、豊臣秀吉は豊国神社、人臣にして宮号を称するは家康一人である。・・・・死後尚宮号を僭し、天照皇太神に似寄った東照の号を冒すことを怪しまなかった時世の態は、今日から見ればあんまりの事といはねばならぬ。・・・」
  ※芳賀矢一:国文学者。歌人(神官)芳賀真咲の子。福井生。東大教授、帝国学士院会員、国学院大学長、皇典講究所調査委員長を歴任。昭和2年(1927)歿、61才。尋常小学読本唱歌「鎌倉」(七里が濱のいそ傳ひ、稻村崎、名將の 劒投ぜし古戰場)の作詞者。
 ※いくら国家神道=天皇教隆盛の時代とはいえ、国文学者で東京帝大教授にしてこの程度の歴史認識しかなかったとは、「あんまりの事と云わねばならぬ」 といわざるを得ないであろう。
 久能山本社側面      久能山家康廟      久能山旧鐘楼:刊行年から、大正初頭の写真と思われる。


2012/01/09追加:
久能山三重塔跡

○駿河久能寺は以下のように説かれる。
 推古天皇(592-628年)代、久能山に久能忠仁が久能寺を建立すると伝える。行基を始め、多くの高僧が来住し、隆盛を究めると云う。宗旨は天台で、補陀落山と号する。
永禄11年(1568)、武田信玄は、駿府に侵攻し、久能寺を矢部に移し、この要害の地に久能城を築く。
その後、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有に帰し、久能城も家康の支配下に入る。
元和2年(1616)家康が逝去し、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、翌元和3年秀忠によって東照社の社殿が造営される。
矢部の久能寺は明治維新後荒廃し廃寺となるも、明治15年山岡鉄舟によって再興され、現在は鉄舟寺として現存する。
 →矢部久能寺(鉄舟寺)の現況は下に掲載。
○「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」に「久能寺跡現況図」(静岡古城研究会「久能山城」より転載図)の掲載がある。
 久能寺跡現況図
図のほぼ中央に「三重塔基台」とあり、基壇のようなものが描かれる。
おそらくは、信玄による久能寺移転まで三重塔があり、久能山城築城後もその基壇は城の構造物としてそのまま残されたのであろうか。
しかし、久能寺三重塔や久能山城「三重塔基台」など全く資料がなく、詳細は不明である。
また同書では以下のように述べる。
「久能寺の建立地は時代の変遷の中で山岳寺院→山城→神社へと大きく変貌を遂げてきた。現在・・・久能山東照宮の境内に見られる段状地形の中には、あるいは寺院の構造に関わる箇所があるのかも知れないが、現地に於いて寺院建立当時の様子を想起できる具体的な痕跡を見出すことは困難な状況となっている。」
○上図の「三重塔基台」は愛宕社(愛宕権現社)参道の基点の位置にあることが知れる。
 (この「三重塔基台」は未見であり、どのような状況なのかは分からない。)
 (「久能山叢書 第3編」にある「久能山略図」<上掲>により、凡その位置関係は理解することが出来る。)
愛宕権現社は久能山山頂にあり、現在の東照宮本社の裏にあたる。愛宕社は古くから久能山山頂にあり久能寺とともにあったと伝える。
もし、愛宕社が久能寺とともにあったというのが真であるならば、また三重塔基台の残存も真であるならば、この両遺構こそ久能寺を想起させる殆ど唯一のものとも云えるかも知れない。

2020/03/20追加:
○「久能山誌」静岡市編、静岡市、2016.3 より
久能城址の構造と遺構:
 久能城跡の構造を最初に分析し概要図<「沼館図」>を作成したのが沼館愛三である。
  <「有度山塊を中心とせる古城館址之研究」(「静岡縣郷土研究」第5号、昭和10年) 所収>
さらに、簡易測量をして測量図<「静岡古城図」>を作成したのが静岡古城研究会であった。
  <「久能山城跡現況遺構確認調査報告書」久能山東照宮・静岡古城研究会、1994>
今般、新しく測量をし、「久能山測量図」を作成した。
そして、その測量図を元にして、現地で平坦面や土塁などを確認する作業を実施したものである。
で、本ページでは次にその「久能山測量図」を転載するが、その図上には本文中の解説を書き込んだ(文字入れした)図を掲載する。
久能山測量図
 久能山測量図:左図拡大図:容量約2.1M

 今回の測量調査によって、ほぼ久能山に所在する人工的な平坦地や土塁などの正確な位置を確認することができた。
正平6年(1351)以降、度々として登場する久能城は久能寺そのものを利用した臨時的な城郭であったことは間違いない。
この久能城が恒久的な山城として利用されるのは武田信玄によるものであった。
永禄12年(1569)「武田晴信掟書」では久能城への当国衆の立ち入りが一切禁止され、久能寺そのものが村松妙音寺に移転させられて、この段階では完全に久能寺は久能城として城郭化したといえる。
 近江観音寺城についても、南北朝期は観音正寺は臨時的な城郭として利用されるも、戦国期には近江六角氏によって山上の観音正寺は居城とされ、観音正寺は山麓に移転を余儀なくされる。観音正寺が再び山上の戻るのは慶長年中になってからである。
この観音寺城では、城郭として築かれた部分と観音正寺の坊舎堂舎そのものを利用した部分の両方が認められる。おそらく久能城でも久能寺の坊舎そのものを利用した部分と、信玄によって城郭として築かれた部分が同居していると見てよいだろう。
 久能山測量図で文字入れしたように、おおくの平坦地が久能寺の坊舎・堂舎であったが、後に久能城の曲輪や施設として利用されたと推定される。
おそらく城郭として築かれた可能性のあるのは(23)(24)(25)が櫓台として、(9)(イ)(ウ)が土塁として築ずかれたと考えられる。
 切り立った崖が四周を廻り、山頂に位置した久能寺はそのものが要害であり、それを殆ど改修することなく利用できることに着目した信玄がここを城郭としたのであろう。

 ※上述の「久能寺跡現況図」では「久能寺三重塔基台」が述べられているが、本稿にはそれへの言及がなく、「久能寺三重塔基台」とは依然として不明である。

矢部久能寺(鉄舟寺)の現況
○門前説明板 より
 鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、推古天皇の時国主久能忠仁によって創立される。
その後奈良期には僧行基が来山して久能寺と号したという(「久能寺縁起」)。
当時坊中360、宗徒1500人を擁するという。
元亀元年(1570)武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城することとなり、天正3年(1575)現在の場所に移される。
徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜わる。
しかし、明治維新となり、久能寺も次第に荒廃し、無住となる。
 ※平安期は天台宗、現地に移された時には新義真言宗となる。江戸期の朱印は200石、多くの寺中を有する。
明治16年ころから山岡鉄舟が当山の復興に尽力する。
 ※山岡鉄舟は旧幕臣、静岡藩権大参事でもあった。臨済寺から今川貞山を招じ再興する。よって寺号も鉄舟寺と改号される。
2020/03/06撮影:
 鉄舟寺山門     鉄舟寺中門:中門であろう、正面は熊野十二所権現     鉄舟寺熊野十二所権現
 鉄舟寺本堂:本堂であろう。     鉄舟寺仏殿:仏殿であろう。     鉄舟寺鐘楼


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