★京都南禅寺北西界隈
京都南禅寺の北西部(明治維新までは南禅寺塔頭が建っていた地)に、著名な「庭園」が並列する。
「庭園」は東から碧雲荘・清流亭・(織寶苑)があり、南西方向に(洛翠)・真々庵と続く。
京都南禅寺北西界隈:地図
「碧雲荘」には河内家原寺(河内安堂廃寺)心礎、出所不詳の出枘式心礎の2個、
「清流亭」には河内智識寺西塔心礎、
「真々庵」には出所不詳(出雲国分寺?)の心礎と云われる礎石(但し心礎かどうかは不明、むしろ心礎ではない可能性が高い)が存在する。
しかし、いずれも非公開で一般人には確認の方法がないのが現状である。
2013/06/17追加:
○「植治の庭 清流亭と碧雲荘に入った河内古代寺院の塔心礎」高井晧(「琵琶湖と地域文化」(林博通先生退任記念論集刊行会/編、サンライズ出版、2011 所収) より
△疎水と庭園
明治26年丸山公園噴水に京都疎水の水が導水される初例と云う。
以降、植地7代目小川次兵衛の手により山形有朋無隣庵の庭に導水したのを初め、南禅寺界隈の庭園群に水の流れを現出することになる。
△白楊-8代目小川治兵衛
7代目の長男、大正15年44歳で逝去。本業は造園家であるが、写真家・考古学者・茶人としても活躍。
7代目小川治兵衛は「どんな庭でも茶席でも、何時でも注文どおりに出来るように材料を持つのが植治の生命だ。」(「庭師「植治」丹羽圭介翁談」)といい、手元には古の伽藍石、石塔、石燈籠、古瓦及び老松、古杉などを山の如く整えていたと云う。特に古瓦・伽藍石の収集は白楊の影響が大きかったと云う。
2021/12/13追加: 明治維新の神仏分離令・明治4年上知令により、南禅寺は現在の境内地を以外の境内地を失う。
さらに、永寺5年の無檀無住寺院の廃寺令・明治11年の合寺令により、塔頭の大部を失う。 (明治初頭25ヶ塔頭の内,17ヶ院を失という。)
政府に上地された旧境内・塔頭跡地は払い下げられ,明治20年代後半から昭和初期にかけて、この地に多くの別荘庭園が造作される。本ページで取り上げた碧雲荘・清流亭・真々庵がそうである。
※南禅寺・南禅寺寺中の遷移/庭園については最後の<【参考】南禅寺>の項を参照。
★碧雲荘(非公開)
ここには河内家原寺(河内安堂廃寺)心礎と出所不明の出枘式心礎が存在すると思われる。
碧雲荘は元々南禅寺塔頭跡地であり、ここに野村徳七(野村財閥の創始者、大和銀行・野村證券などを束ねる)
が別邸を構える。
現在は野村證券所有であり、非公開である。造庭は小川治兵衛(植治)とその長男保太郎(白楊)と云う。(大正年中に作庭)
面積は7000坪。西隣に清流亭がある。
2006年重文に指定される。
大玄関及び能舞台(東面車寄、西面渡廊下、北面便所付属、南面東端塀、北面東端門及び塀付き)(附:去来門、供待)、大書院(西面渡廊下付属)、中書院、洋室及び書斎(東面渡廊下付属)、廊下蔵(南面廊下付属)、旧館(北泉居)(西面門、南突出部西面門及び塀付)、台所蔵、西門及び事務所(北面東端門付)、大黒堂、不老門(左右袖塀付)、龍頭軒(附:渡廊下、便所)、花泛亭、待月軒(附:便所)、露(田舎家)、羅月及び蘆葉舟、巽蔵(西面物置及び北面蔵前付属)(附:詰所)、東門(左右袖塀付)の17棟と
土地 17,339.35m²(石垣、南門、北門、旧館南側門、迎仙橋、西門前水路、塀を含む)が指定範囲と云う。
○「植治の庭」尼崎博正編、田畑みなお、淡交社、1990. より
碧雲荘見取図:
※河内家原寺心礎は表門から大玄関に至る途中の図の○印
のところにあると推定され、心礎と燈籠があると思われる。
出枘式心礎は「北泉居」東にあると思われる。「北泉居」は図の「推定北泉居」と書き込みした所であると思われ、図の向かって左の○印の沢飛び附近にあると推測される。
◆河内家原寺心礎
○「河内六寺あれこれ-智識寺を中心に-」高井晧(「古代摂河泉寺院論攷集 第2集」摂河泉寺院研究会、2005 所収) より
河内家原寺心礎
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河内家原寺心礎:左図拡大図 安堂に山下太一郎氏という人物が在住した。
山下氏は大正初めに既に安堂正休寺前に掘り出されていた心礎を柏原駅まで「ころ」で夜間、ニ三夜かけて運び汽車に乗せた経験がある。また心礎の上で遊んだ経験もあると云う。
碧雲荘にある心礎の写真を、この山下氏に示し確認を求めたら、間違いなくこの特徴ある石の形は安堂にあった礎石であると証言されたと云う。
一方野村徳七氏(碧雲荘を造営)は大正6年にこの地を検分し、この時礎石を運んだといわれている。
さらに翌大正7年野村氏はこの地で「南遊紀念茶会」を営すと云う。このことは山下氏の経験と符合する。 |
2013/06/17追加;
○「植治の庭 清流亭と碧雲荘に入った河内古代寺院の塔心礎」高井晧(「琵琶湖と地域文化」(林博通先生退任記念論集刊行会/編、サンライズ出版、2011 所収) より
「市史編纂余話U」山本昭(「柏原市歴史資料館々報」創刊号、1660 所収)では
安堂の家原寺に塔があったのは確実なようであるが、既に心礎は無くなっていた。安堂村の山下鹿造、山下富三、巽兼治氏他の多くの方から塔心礎が出土したことを詳しく聞く。そして、この心礎は京都の碧雲荘にあることを聞く。
出土後、心礎は暫く安堂池と云う池の辺に置かれていた。上には丸い円穴があり、その穴は西向・安堂の駅の方に向いて置かれていたということである。
そこで碧雲荘に出向きましたが「お見せする訳にはいかない。」と謝絶される。
これはかって野村徳七は須磨(住吉であろう)に大和若草伽藍の心礎を保有していたが、法隆寺の再建・非再建議論のなかで、若草伽藍の心礎の行方が話題となり、心礎は野村邸にあることが判明し、昭和14年に国と法隆寺の要請を受け、法隆寺に返納すると云う痛い経験をしたということである。この痛い経験から、この安堂の心礎も同じ
轍を踏んではならないということで、塀雲荘の執事の方に心礎を見せてはならないとの通達が来ているようである。
→若草伽藍心礎
※上の心礎写真は昭和61年「史学会」(大坂の歴史研究会OB)が碧雲荘の見学に行き、それとは意識せず、立派な石として撮影したものである。上記の安堂在住山下太一郎氏に確認を求めた写真でもある。
しかし、確認したい事項があるので、山下清氏に克明に邸内を探索できる日をお願いしていたところ、後日冬の日にそれが実現する。庭師の選定の日であった。
持参した布袋に心礎円穴の白砂を掻きだして見ると、気になったいたとおりそれは真円ではなく楕円であった。しかも底はボールのように丸いものであった。そこには削られた鑿の跡が歴然と残っていた。この円穴は明らかに彫り直されていたのである。
しかしこれは心礎の円穴であろう。安堂村の多くの証言があるように、心礎の穴は西向に置かれていたという心礎の形状に一致するのである。
碧雲荘家原寺心礎楕円穴
○「石と水の意匠」尼崎博正著、田畑みなお撮影、淡交社、1992 より
河内家原寺心礎
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河内家原寺心礎2:左図拡大図 長方形の自然石手水鉢がある。
(著者には心礎としての認識が無いと思われる。)
長さは2m以上、奥行き約1m、高さは80cm余、材質は丹波石。
平な天場の右端あたりには径45cm余の水穴が楕円形に穿れている。
正面上方には六角形の燈籠がある。
※上述のように、この手水鉢が河内家原寺から掘り出された心礎で、現段階では心礎としての加工(柱座・舎利孔など)がどのようなものであったのかあるいは「水穴」が枘孔であるのかあるいは設置時の加工であるのかなどについては不明。
→上記「植治の庭 清流亭と碧雲荘に入った河内古代寺院の塔心礎」にその概要がある。 |
→河内家原寺跡(河内安堂廃寺)
◆出枘式心礎(出所不明)
上記の河内安堂の家原寺跡から出土した心礎とは別に「心礎」とされる礎石がある。
2011/10/15加筆・修正:
○「幻の塔を求めて西東」:
河内安堂に所在の普光寺心礎と伝える。
出枘式、大きさは210×180×60(現高)cm、円柱座造出(径120×15cm)、出枘は30×5cm、奈良後期。
○「日本の木造塔跡」:
碧雲荘にある元興寺式の大きい心礎は安堂字普光寺から運んだと伝えられる。
2011/05/10追加:
○「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 第十巻第五號」昭和14年 所収)
心礎一覧表178に「寺院不明」大和國、花崗岩、2段凸式、野村徳七氏京都邸在 とある。
※大和の寺院不明の心礎と紹介されるも、河内安堂普光寺心礎を指すものであろう。
しかしながら
・そもそも河内安堂に普光寺という字(地名)があるかどうか良く分からない。
もしあるとしても、安堂の普光寺とは河内安堂廃寺(河内家原寺跡)を指すものとも思われる。
※普光寺とは安堂ではなく、高井田の鳥坂廃寺の法号というのが最近の解釈である。
・河内家原寺(安堂廃寺)心礎は、上記のように、全く別の石であるが、上記の石の存在を知らないかあるいは知ってはいても無視して、
この出枘式心礎(礎石)を安堂(の普光寺)から搬入したものと思い込んでいるのであろうか。
※この石の方が、上記の河内家原廃寺心礎に比べて、心礎らしく見えるのは確かのようである。
以上のように「日本の木造塔跡」、「幻の塔を求めて西東」では「出枘式心礎(礎石)」を河内安堂普光寺心礎と云うも、
安堂の普光寺とは良く分からないし、あるいは河内家原廃寺(安堂廃寺)を指すものであればその心礎は別に存在する。
従って、この「出枘石心礎(礎石)」の出所は不明とするしかない。
○「植治の庭」尼崎博正編、田畑みなお、淡交社、1990 より
碧雲荘出枘式心礎
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標記図書に礎石写真の掲載がある。 碧雲荘出枘式心礎:左図拡大図
「日本の木造塔跡」、「幻の塔を求めて西東」、「塔婆心礎の研究」で云うところの
「普光寺心礎」「2段凸式心礎」の写真であろう。 |
★清流亭(非公開)
河内智識寺西塔心礎が現存すると云う。
野村別邸(碧雲荘)の西側にある。
明治維新で南禅寺境内の大部が上地。この地は南禅寺塔頭楞巌院の地と云う。
明治42年塚本与三次(近江出身の実業家)がこの地に邸宅を構える。庭園は小川冶兵衛(植治)作庭、数奇屋は北村捨次郎作。
※塚本与三次は小川冶兵衛(植治)とともに、南禅寺界隈の別荘地開発を手がける。
大正4年東郷平八郎が「清流亭」と命名する
大正14年この邸宅は2分割される。西側は岩崎小弥太邸(三菱財閥)、東側は下郷伝平邸(近江長浜出身の実業家)に譲渡。
※東側は現在の清流亭、西側は現在の織寶苑となる。
現在、清流亭は大松(株)<京都室町>の所有である。非公開。
2010年主屋、寄付、立礼席が重要文化財の指定を受ける。
○「植治の庭」尼崎博正編、田畑みなお、淡交社、1990. より
清流亭見取図:
寄付(東側南)の左(南)に十三重石塔と巨大な塔心礎が据えられる。
◆河内智識寺西塔心礎
○「河内六寺あれこれ-智識寺を中心に-」高井晧(「古代摂河泉寺院論攷集 第2集」摂河泉寺院研究会、2005 所収) より
この心礎は清流亭入口「寄附」にあり、十三重石塔の前に据えられる。
清流亭の造園は碧雲荘と同じく小川治兵衛(植治)とその長男保太郎(白楊)と云う。
保太郎曾孫・小川造園小川清氏によれば、「この心礎は智識寺のもの」との口伝があり、確たる証拠を探していると云う。
現地「石神社」に残存する東塔心礎は一部欠損しているが、この心礎はほぼ完形を保つ。
様式上あるいは大きさなど、東塔心礎と非常に良く似た心礎と思われる。ただし、この心礎には舎利孔がある。
「清流亭記」昭和16年刊、下郷伝平(大正14年から清流亭の持主となる)が編集委託、画家久保田金僊編集 では
「□塔心礎
河内国柏原駅を距る東方約半里程の一村落の山裾から発掘されたもの、種々考証の結果、智識寺の塔心礎と言うことが判明した。
是れも珍しいものである。」
とあると云う。
著者・高井晧は
「太平寺村で心礎を売り出したような伝承は全く聞かないので、初耳のことばかりであった。」
なお山下寺心礎は今も不明であり、上述のように塔四柱礎石2個(塔四柱礎石とする根拠は不明)の存在も知られ、山下寺塔跡は未発掘で、今後心礎が発見される可能性もあるが、この清流亭心礎は山下寺心礎の可能性も捨てきれない。
※蓋し、小川家の口伝、「清流亭記」の記述、現地に残る「東塔」心礎との形状の類似性などの状況証拠から、この心礎は河内智識寺西塔心礎とほぼ断定できると思われる。
智識寺西塔心礎
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実測図(下に掲載)によれば
大きさは231cm以上×240cm(対角では244cm以上)厚さは57〜45cmで、径約153cmの円形に表面を削平し、その中央に径81〜84cm、深さ5cmの柱穴を彫る。
方形の舎利孔を持つ。舎利孔は一辺16cm×17.5cm、深さ4cmの受蓋孔と一辺12cm(あるいは9×11cm)深さ12cmの舎利孔本体とで成る。
京都清流亭心礎:左図拡大図:河内智識寺西塔心礎(ほぼ確実)
京都清流亭心礎実測図:河内智識寺西塔心礎 |
2013/06/17追加;
○「植治の庭 清流亭と碧雲荘に入った河内古代寺院の塔心礎」高井晧(「琵琶湖と地域文化」(林博通先生退任記念論集刊行会/編、サンライズ出版、2011 所収) より
内容及び写真は上記の「河内六寺あれこれ-智識寺を中心に-」と同一であるが、新しい知見を以下に記載する。
清流亭訪問の契機:平成13年柏原市教委北野氏より、智識寺心礎は清流亭のあるということで、訪問の誘があり、白楊の孫小川清の案内で訪問する。
本心礎の岩質は、写真ではあるが、奥田尚(橿原考古学研究所)氏より、太平寺の中心を流れ下る谷あいに露出する「黒雲母花崗岩」であると確認される。
最初の訪問の時、心礎の上は苔生しさらには1本の松が生え、舎利孔は見えなかった。小川氏は「これは白楊の精神からすると邪道である。松の一部は既に岩の間に入り割り始めている。古代石造物に苔をつけるのもダメだ」といい、亭の執事も賛同する。
後日、心礎の松と苔が取除かれ、その結果の写真は上記の舎利孔がはっきりと写る写真であり、舎利孔の法量である。
○「石と水の意匠」尼崎博正著、田畑みなお撮影、淡交社、1992 より
智識寺西塔心礎
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京都清流亭心礎2:左図拡大図:河内智識寺西塔心礎
※苔と松が心礎上に写るので、上記の「整理」される以前の撮影であろう。
塔心礎:円形凹柱座のなかに舎利孔と石蓋孔が穿たれる。
※以下の記載がある。
「塔心礎は碧雲荘と真々庵にもあるが、いずれも円形の凸柱座に凸枘を造り出す。」
(以上により、真々庵にも出枘式の心礎があると知れる。)
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→河内智識寺跡
2010/06/25追加:
○清流亭サイトより:
当サイトでは以下のように述べる。
「【清流亭について】:・・・(略)・・・清流亭は歴史的にも貴重な建造物ですので、現在、当社でしっかりとお預かりすることで文化保存に貢献し、ひいては我々を育ててくれた京都への恩返しになると考えております。
普段は維持のために、やもなく非公開となっている清流亭内部を少しずつご案内致します。」(ママ)
「【清流亭散策】:・・・(略)・・・非公開の清流亭内部をweb上で公開しております。」
以上このサイトで述べていることは以下の主旨であろう。
清流亭は大切な公共の文化財である、そしてこの文化財はたまたま当社が預かるかたちになっている、しかしながら、文化財保護の観点から、非公開とさせていただいているが、文化財は公共財ということを鑑みて、清流亭内部をWebで公開をさせていただく、と。
このサイトには上述の「智識寺西塔心礎」写真が数点掲載されている。その写真数点を拙サイトに転載させていただく。
京都清流亭心礎3:十三重石塔前に(智識寺西塔)心礎はある。
京都清流亭心礎4:写真が小さいので、舎利孔の形状は判然とはしないが、ともかく舎利孔があるのが分かる。
京都清流亭心礎5
※写真以外の情報については既知の情報のため割愛。
○参考:方形舎利孔
本心礎の舎利孔は方形である。
舎利孔が方形である心礎にはこの智識寺西塔心礎を含め(16例)以下がある。
1)三河白鳳寺(長方孔14×13cm、深さ14cm)、
2)三河文護寺
(方11×1cm)、
3)尾張甚目寺(方21×5.5cm)、
4)近江百濟寺(方13cm×4.5cm)、
5)摂津太田廃寺(長方孔30×22×16cm)、
6)大和飛鳥寺(長方孔33×30cm深さ21cm)
7)大和大窪廃寺(径13cm×3cmの蓋受孔と方8×7cmの舎利孔)、
8)和泉禅寂寺[坂本寺](方19×3cmの蓋受孔、方13×3cmの舎利孔)、
9)播磨與井廃寺(長方孔10.5cm×8cm、8.1cm・・・亡失)
10)伯耆上淀廃寺中塔(長方形の舎利孔及び蓋受孔・寸法不詳)、
11)出雲天王平廃寺(方20×1cmの蓋受孔と方15cm[底部は方12cm]×10cmの舎利孔)、
12)備中栢寺廃寺(長方孔と思われる、詳細不詳)、
13)備後本郷平廃寺(2段目長方孔34×8.5×深さ2cm、3段目・舎利孔6×3cm[長方孔の北よりにある])、
14)安芸寺町廃寺(長方孔1尺×幅2寸5分、深7分の横溝)、
15)筑前塔の原廃寺(蓋受孔は方19.7×1.8cm、舎利孔・方13.9×12.4cm)
★真々庵(非公開)
詳細は不明。
・「石と水の意匠」尼崎博正著、田畑みなお撮影、淡交社、1992.より
「塔心礎は碧雲荘と真々庵にもあるが、いずれも円形の凸柱座に凸枘を造り出している。」との記載があり、真々庵に出枘式の礎石あるいは心礎があることが知
れる。
○Web上に以下の情報がある。
元染谷寛治氏の別邸(聚遠亭)であった。小川治兵衛の作庭(明治42年)と云う。
昭和36年松下幸之助が社長を退任、PHPの活動を再開するにあたり、この別荘を求める。真々庵とは松下幸之助の命名。
昭和42年、PHP研究所は京都駅前に活動の拠点を移す。
昭和55年、建物の全面改装を経、「松下美術苑真々庵」(松下電器迎賓施設)となる。
敷地約1500坪。非公開。
真々茶室、根源の社、出雲国分寺の礎石、十三重の檜垣塔(江戸末期)などがある。
2007/12/10追加:
真々庵にある礎石はおそらくこの庭園の作園時(明治42年)、当時の南禅寺管長から染谷寛治氏に贈られ、礎石は出雲国分寺の礎石であったと伝えられると云う。これ以上の時期や経緯などの詳細は不詳と云う。
もとより塔心礎かどうかの言い伝えも無いようである。
礎石の大きさは1m超で、径60〜70cm程度の平らな円形を整え(柱座)、その中央に径30cmほどの突起状の円形部(出枘)がある
と云う。
※以上から、礎石であることはほぼ確実と思われ、しかも上記の「言い伝え」や現地(出雲国分寺金堂跡)に残る礎石との形状の類似性から出雲国分寺礎石である可能性はかなり高いと思われる。
なお大きさから塔心礎である可能性は低く、塔の側柱・四天柱礎あるいは金堂の礎石である可能性が高いと思われる。
2021/12/20追加: ○「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課、2012 より
松下真々庵 真々庵は傑出した石造美術品を有している。
まず円形の凸柱座に凹枘を造り出している塔心礎がある。これは出雲の国分寺にあったものらしく、南禅寺管長だった小林道温より寄贈されたものと云われている。
【参考】山城南禅寺
◆南禅寺概要 太平興国南禅禅寺と号する。
弘安10年(1287)禅林寺殿「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「南禅院」と名ずけ、これが南禅寺の草創である。 のち南禅院は南禅寺の塔頭南禅院となる。
至徳3年(1385)足利義満により相国寺が創建され、南禅寺は五山之上に位する。往時、塔頭は60ヶ寺を有するという。
応仁元年(1467)の応仁の乱などで伽藍が荒廃する。
慶長10年(1605)以心崇伝が南禅寺に入寺し、南禅寺の復興が進む。 翌年慶長11年には豊臣秀頼により法堂が再建される。(但しこの法堂は明治28年焼失)
以心崇伝は徳川家康の側近として、「黒衣の宰相」と呼ばれ、塔頭金地院に住した崇伝は、全国の臨済宗の寺院を統括する「僧録」とに任ぜられる。以後、金地院の住持は絶大な権勢を誇る。
明治維新の上地令で寺地の多くを失ない多くの塔頭が廃絶する、その跡地は今、大邸宅として残る。 碧雲荘・清流亭・真々庵などであり、左記の三邸宅の庭には古代寺院の心礎などが置かれているも、まず非公開で自由に見ることができない。
◆南禅寺と南禅寺周辺の庭園 2021/12/20追加: ○明治3年南禅寺本末一覧 より 明治3年南禅寺本末一覧
上記の南禅寺本末一覧では、明治3年次の25ヶ院の塔頭が挙げられる。 南禅寺塔中
天授庵、歸雲院、金地院、聴雪軒、正的院、慈氏院、眞乗院、上生院、牧護庵、正因院、大寧院、岩栖院、聴松院、語心院、壽光院、済北院、東禪院、少林院、雲門庵、楞厳院、正眼院、瑞雲院、龍華院、慈聖院、廢:清涼院、廢:金剛院、寮舎・金龍軒、廢:同・妙高軒
二条川東・法皇寺は末寺としてある。 既に、明治3年時点で、清涼院、金剛院、廢:寮舎・妙高軒の3ヶ院は廃寺であった。
○「七代目小川治兵衛」尼崎博正、ミネルヴァ書房、2012 より
・明治4年社寺上地令 現在の境内地を除く全ての寺領を失う。 ・明治5年11月無檀無住寺院廃寺令
慈聖院、正眼院、少林院、金龍軒(天授庵内)が廃寺。 ・明治11年12月合寺令
壽光院(→眞乗庵)、牧護庵(→法皇寺)、済北院(→東禪院)、(岩栖院(→雲門庵)、瑞雲庵(→語心院)が合寺。
明治21年京都府により面禅寺境内の圧縮指定(この項は「庭石と水の由来」) この時、正因庵が境外地となる。
その後、語心院、大寧院、楞厳院、聴雪院、雲門庵、上生院、東禪院、龍華院も廃絶。
かくして、明治3年にあった25院の内、明治末までに17院が消滅する。
以上のように上地された旧南禅寺境内や寺中跡地が民間へ払い下げられ、邸宅や別荘に変貌していくこととなる。
旧南禅寺境内と植治の庭園
○「庭石と水の由来」尼崎博正、昭和堂、2002 より
現在見られる南禅寺界隈別荘庭園群は上記の「七代目小川治兵衛」に見られるように、上地された旧南禅寺境内や寺中跡地がその源である。
発電所取入口系の横山別邸・環翠園は大寧院、稲畑氏和楽庵は壽光院・正因庵の跡地であり、市田對龍庵は金地院の旧境内地である。
扇ダム系の清流亭(旧塚本邸)は楞厳院、怡園は少林院、野村碧雲荘は慈聖院・瑞雲院・済北院・東禪院跡地に築造される。
旧南禅寺境内と明治期の庭園 ○「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課、2012 より
・南禅寺下河原町
明治維新の上地令により、103、380坪余あった境内が明治29年の初めには33,996坪余となる。(「寺院明細帳」) ・智水庵
南禅寺寺中安念院の跡地にある。 ※安念院とあるが、安念院とは不明、おそらく大寧院の誤謬であろう。 ・大寧軒
大寧軒はかつての塔頭大寧院が上地により民間の所有になり、明治末年には環翠庵が営まれたが、歳月を経て現在は再び南禅寺に還っている数奇空間である。
◆現存する南禅寺主要伽藍 2021/09/09撮影: 法堂:前出、方丈(国宝・慶長16年(1611)御所の建物の下賜を受けて再建といわれる)、鐘楼
、三門(重文):寛永5年(1628)建立、勅使門(重文):寛永18年(1641)移築、勅使門(重文):寛永18年(1641)移築、中門:慶長6年(1601)寄進
仏殿跡:禅宗伽藍の定跡として伽藍は三門・仏殿・法堂と並ぶが、仏殿は応仁の乱で焼失しその後再建されず、現在はその位置に礎石のみを残す。 薝蔔林寺(南禅僧坊):禅専門道場。享保16年(1731)僧堂を開堂、現在の禅堂は寛政8年(1796)建立。
南禅寺勅使門1 南禅寺勅使門2 南禅寺勅使門3 南禅寺勅使門4 南禅寺勅使門5
南禅寺勅使門6
南禅寺中門
南禅寺三門11 南禅寺三門12 南禅寺三門13 南禅寺三門14 南禅寺三門15
南禅寺三門16 南禅寺三門17 南禅寺三門18 南禅寺三門19 南禅寺三門20
南禅寺三門21 南禅寺三門22 南禅寺三門23 南禅寺三門24 南禅寺三門25
南禅寺三門26 南禅寺三門27 南禅寺三門28 南禅寺三門29
南禅寺仏殿礎石:土壇様な高まりが見られるが、土壇かどうかは分からない。
南禅寺法堂1 南禅寺法堂2 南禅寺法堂3 南禅寺法堂4 南禅寺法堂5 南禅寺法堂6
南禅寺本坊1 南禅寺本坊2
南禅寺方丈1 南禅寺方丈2 南禅寺方丈3 南禅寺大玄関1 南禅寺大玄関2
南禅寺鐘楼1 南禅寺鐘楼2 南禅寺鐘楼3 南禅寺鐘楼4
南禅寺僧堂1 南禅寺僧堂2 南禅寺僧堂3 南禅寺僧堂4
南禅寺大寂門1 南禅寺大寂門2 2021/09/09撮影:
◆現存する塔頭 1.金地院:→南禅寺金地院東照権現を参照
応永年間(1394 - 1428)洛北鷹峯に創建され、慶長10年(1605)頃に以心崇伝によって現在地に再興される。
2.南禅院 :南禅寺発祥の地といわれる。 南禅院1 南禅院2 南禅院3 南禅院4 南禅院5 南禅院6 南禅院7 南禅院8 3.最勝院(高徳庵):明治45年までは現在の庫裡の地にあり、大正初期、現在地に移り庫裡を新築し、その時高徳庵(綾部市上林)を廃して寺名を移し塔頭とする。(上林高徳庵の庵号を遷し、庫裡に被せたということであろうか。)・・・・・未見
4.正因庵 天授庵・正因庵 正因庵1 正因庵2 正因庵3 正因庵4 5.天授庵:延元4年(1339)南禅寺15世虎関師錬が開山の無関普門の塔所として開く。慶長7年(1602)細川幽斎によって再興される。
天授庵1 天授庵2 天授庵3 天授庵4 天授庵5 天授庵6
6.真乗院:永享8年(1436)山名宗全が香林宗簡の塔所として開いた塔頭である。山名宗全の墓がある。・・・・・未見 7.南陽院:南禅寺の法堂を再建した豊田毒湛が住した塔頭。明治42年西賀茂正伝寺塔頭南陽院を移す。
南陽院
8.大寧軒:大寧院の流れを汲む塔頭で薮内家により再興される。元塔頭跡地で、南禅寺が買い戻ししたという。 大寧軒
・智水庵:もともとは南禅寺塔頭(大寧院)跡と思われる。現在はZOZO前澤云々の購入話もありうんざりする。
・何有荘:南禅寺塔頭(壽光院・大寧院・正因院)跡、宗教法人大日山法華経寺の所有であったともいう。現在その実態は良く分からない。
諸Webサイトの情報を総合すると、金の亡者どもの醜い係争がある(あった)ようである。 何有荘 9.帰雲院:最初期の南禅寺塔頭である。開祖は規庵祖円(南院国師)で、南院国師の墓がある。
帰雲院1 帰雲院2 帰雲院3
10.正的院:元翁本元の塔所。元翁は南禅寺11世、元応元年(1319)住持し、正慶元年(1332)示寂。 正的院1 正的院2
11.聴松院:聴松庵、清拙正澄(南禅寺14世)の塔所。摩利支尊天を祀る。 聴松院1 聴松院2 聴松院摩利支尊天3 聴松院摩利支尊天4
12.慈氏院(達磨堂):
義堂周信の塔所。嘉慶元年(1387)創建。 慈氏院1 慈氏院2
13.牧護庵(法皇寺):南禅寺五世佛灯国師塔所、文保2年(1318)約翁徳検(仏灯国師)後宇多天皇の勅により、南禅寺5世として住する。
法皇寺は乙訓郡今里にあり乙訓寺の異称である。推古天皇勅願で建立され、宇多法皇(寛平法皇)が落飾し、乙訓寺を行宮とし、故に法皇寺とも称される。
その後、今熊野日吉町附近(智積院付近)に移り、足利義満が伯英に命じて禅宗とし南禅寺大寧院に属せしむ。
元禄6年(1693)徳川綱吉により、左京区法皇寺町附近に遷される(満足稲荷は法皇寺鎮守という)。
明治11年南禅寺金地院に合併、さらに明治21年南禅寺牧護庵に合併する。 牧護庵(法皇寺)1 牧護庵(法皇寺)2
→乙訓寺と法皇寺については下に掲載の「◆山城乙訓寺と法皇寺」を参照。 14.光雲寺:未見:左京区南禅寺北ノ坊町に所在。複雑な寺歴を持つようである。
2021/12/22追加: ◆山城乙訓寺と法皇寺
◎テーマの発端
2021/12/21:oshiro
tennsyukaku氏より、「謎多き古代寺院・乙訓寺の実像に迫る貴重な発見 長岡京時代の遺構を発掘」との京都新聞記事を紹介される。
発掘の成果は以下の「乙訓寺発掘調査プレス発表」とおりで、塔跡などが確認された訳ではない。
しかし、南禅寺寺中牧護庵の履歴のなかで、牧護庵は明治11年南禅寺金地院に合併、さらに明治21年南禅寺牧護庵に合併し、近年牧護庵に復号するといい、その法皇寺は足利義満により南禅寺に与えられるという。さらに法皇寺は乙訓寺の異称といい、元禄6年(1693)法皇寺は徳川綱吉により、左京区法皇寺町附近に遷されるともいう。
なぜ乙訓寺(法皇寺)が禅宗に転宗したのかあるいはなぜ綱吉により現在の左京区法皇寺町附近に遷されたのかなど不明な点が多い。
そこで、Webサイトで調査をして見ることとする。 結果、乙訓寺(法皇寺)に関する優れたページを発見する。
そのページには乙訓寺と法皇寺と南禅寺との関係及び足利義満及び徳川綱吉・桂昌院の護持僧隆光との関係が纏められているので、以下に要約・転載をする。
まずは ◎乙訓寺発掘調査プレス発表 概要は以下の通り。 読売新聞:2021/12/20
「長岡京に乙訓寺南門か…掘立柱建物跡 出土」
長岡京市の長岡京跡で、乙訓寺の南門とみられる掘立柱建物跡が出土する。
都の造営期に大寺院として改修された際の遺構と考えられ、南門の回廊とみられる柱穴も確認。
市教委は「長岡京で重要視された寺の規模や伽藍配置に加え、都の構造を知る貴重な手がかりになる」としている。
第29次調査で、11月から寺域南側の約190平方mで行う。
寺域南限の南門とみられる掘立柱建物跡は、1.4m四方の柱穴を南北方向に3.3m間隔で3か所確認。寺域南側で明確な遺構が出土するのは初めてで、柱穴は長岡京跡では最大級という。
近くでは南門の回廊と推定される南北1.3m、東西0.8mの柱穴が約3m間隔で七つ見つかる。
出土場所は、寺の講堂とみられる建物跡から同軸上に約108m南側で、柱間約3mの建物は長岡京期の大規模邸宅に多くみられることなどから、寺がこの時期、計画的に改修された様子がうかがえる。
龍谷大の国下多美樹教授(日本古代都城史)は「中門、金堂、塔など寺の中心伽藍を探るための定点になる発見。南門が礎石ではなく、掘立柱が使われていた経緯の検討も必要になる」と話す。
乙訓寺推定南門跡:読売新聞 より 乙訓寺推定南門跡2:京都新聞 より
※乙訓寺 飛鳥期に推古天皇の勅願で創建されたと伝わり、桓武天皇が長岡京に遷都した際、大増築される。 平安期には空海が別當となる。
次いで ◎「花洛名勝図会三巻」:「法皇寺」の項では次のようにある。 花洛名勝図会三巻・法皇寺
法皇寺 右頂妙寺の東にあり法皇寺町と云。初め乙訓郡今里にあり。後大仏方廣寺の辺に轉ず。
然るに智積院学寮建立の時其地移すとぞ。都(すべ)て當寺の四面の町屋皆寺境にして門前町の名をよべり。
観音堂 (中略) 鎮守稲荷社 (中略) 茶処 (中略)
黨寺その昔乙訓郡今里にあり。弘法大師性霊集に載る處の乙訓寺是なり。 傳云ふ推古天皇始に堂を建て観音の像を安置しその後荒廃す。 弘仁六年僧空海を以って乙訓寺の別當織に補せたり。 (中略)
寛平法皇脱草履の始め行宮としたまふ。この時再興ありし堂を以って法皇寺と号す。
そののち星霜を経て足利将軍義満公此れを尊崇して大檀越たり。
尤もその頃は真言宗たり。然るに寺僧争論の事あり。之に依りて両僧を追放し大寧院の住たる伯英和尚を請じて黨寺の住職とす。
故に改めて禪宗となり後世大寧院に属す。伯英徳俊和尚は入唐の僧また義満公帰依の僧なり。
推古天皇を始め宇多天皇及び鹿苑院相國義満公の尊牌寺にありというふ。
元禄年中此地に移し祖師堂一宇尚存す。このころ隆光再修すと山城志に見えたり。
※法皇寺は始め、乙訓郡今里にあり、乙訓寺がこれである。後京洛大仏方廣寺の附近に移転する。
※足利義満、法皇寺の大檀越となり、寺僧争論を契機として、南禅寺大寧院伯英和尚を住持とし、禅宗となす。 ※慶長6年(1601)徳川家康、玄宥に豊国大明神境内の坊舎と土地を下賜し、根来智積院が再興され、また元和元年(1615)更に祥雲禅寺が施入され、智積院境内伽藍が拡充されるというから、江戸初期に法皇寺は川東法皇寺町に移るということだろう。
※あるいは、元禄年中護国寺隆光が川東に移し、再修したのかも知れない。
さらに、
○「新撰京都名所圖繪 巻5」竹村俊則、昭和38年 では次のように記す。 乙訓寺:
推古天皇勅願、聖徳太子の開創と伝えるも定かでない。しかし境内から奈良期の遺瓦を出土するので、この地に延暦遷都以前の古代寺院があったと想像される。
延暦4年(785)早良親王は淡路に配流されるが、しばし当寺に幽閉されるという。(「水鏡」)
弘仁2年(811)弘法大師が当寺別當に任ぜられる。また宇多法皇が脱履の初め当寺を行宮としたので一の法皇寺とも号する。
中世には禅宗南禅寺派となるも元禄桂昌院の再興によってふたたび真言宗となる。 現在は大慈山と号し、真言宗豊山派に属する。
※しかし、中世には五山之上南禅寺末となり、洛中に移転(これは記されていない)し、明治維新まで洛中に乙訓寺(法皇寺)が存続したしたことと、元地(乙訓郡)に乙訓寺が豊山派として存続していることについての言及はなく、元地に現存する乙訓寺と南禅寺末法皇寺との関係についての明確な言及はない。
Webサイトには次の優れたページが存在する ○楓宸百景(ふうしんひゃっけい)>楓宸百景(史跡・社寺)>乙訓寺(長岡京市)
である。
本サイトでは、元地に現存する乙訓寺と南禅寺末法皇寺との関係について詳細な論及があるので、各々のページを要約・転載する。
(1)乙訓寺の再興と護持院隆光
◆徳川綱吉・桂昌院の護持僧
隆光は正保2年(1645)大和国添下郡二条村に生まれる。幼くして近くの唐招提寺に、次いで長谷寺に入る。
貞享3年(1686)筑波山知足院の住職に任命される。
元禄元年(1688)寺地を神田橋外に移し、元禄8年には護持院(護国寺)の称号を下されて大僧正となり、護国寺亮賢とともに元禄の寺社再興を動かす中心人物の一人となる。
しかし宝永2年(1705)に桂昌院が、宝永6年に将軍綱吉が逝去、大僧正を解任され大和国に退隠する。
◆『隆光僧正日記』(全20冊、東京護国寺蔵) この「日記」には乙訓寺の再興についても、一連の動きがつぶさに記される。
元禄6年(1693)隆光は京都の金地院文殊院屋敷と交換して乙訓寺の地を入手、綱吉の側用人柳沢保明(吉保)へ願書を提出する。
乙訓寺は室町期に南禅寺末寺となり、以後300年余り寺号も「法皇寺」と号することなっていた。
隆光は空海ゆかりの真言宗の名刹が禅寺になっていることを惜しみ、自分の財産と引き換えに再興に着手することとなる。
元禄7年には、幕府・桂昌院・牧野成貞等からの造営料施入をうけ、翌年に堂舎が完成し、什物一式が新調される運びとなる。
また隆光は、古記録などにもとづいて「乙訓寺縁起」を纏め、住持は長谷寺から元貞が入り、宝永2年(1705)には寺領100石(神足村54石、古市村46石)が与えられる。
都名所圖繪・乙訓寺:天明7年(1787)」:隆光による再興時の姿をよく表しているものと思われる。 【2】『都名所図会』
大慈山乙訓寺ハ西岡今里にあり、當寺は推古天皇の御顔にして聖徳太子の開基なり、其後弘仁二年の冬、弘法大師別当職に補し、八幡宮の示現を蒙り、大師の像を彫刻し給ふに御首ハ八幡宮化現し神像に刻み給ふ、是密法擁護のしるしなりと、故に神佛合躰の御影といふ、當寺の本尊是也、例載三月廿一日開帳す、又寛平法皇脱履のはじめ行宮とし給ふ、是によつて法皇寺とも名づく、いにしへは方境広大にして伽藍厳重たり、中頃南禅寺の伯英和尚住職し、又武州護持院再興ありて真言宗とあらたむ
(2)元禄7年の乙訓寺惣指図
◆乙訓寺再興の設計図
「乙訓寺惣指図」は、まさにその時つくられた設計図で、竹矢来(竹垣)で囲まれた境内と、本堂・八幡社・客殿・南門・東門の配置や間取りが、細かく記される。
青色は瓦葺き、茶色は檜皮もしくは杮葺きである。工事は元禄7年12月8日起工、翌8年5月21日に竣工で、6月15日に上棟供養が執行される。
乙訓寺惣指図:京都府立京都学・歴彩館蔵 ◆乙訓寺縁起の流布
隆光は伽藍の造営だけではなく、乙訓寺縁起の作成、古記録にもとづいて弘法大師の乙訓寺在住寺の事績を明らかにし、あらゆる道具類を新調して什宝目録を整備する。
乙訓寺の本尊は、頭部が八幡菩薩、体部が弘法大師の姿をした合體大師であり、縁起の眼目はこの御本尊の霊験を説くものである。
その後、元禄7年の設計に追加されて鐘楼と護摩堂が建ち、宝永3年(1706)には今日に続く寺観が整うこととなる。
【参考1】乙訓略縁起 (版本1枚刷) 乙訓寺蔵 *ふりかな略
夫當寺ハ人王三十四代推古天皇の御宇にはしめて此地をひらき、伽藍を建立ありて則乙訓の郡を此寺に施し給ふ、ゆへに勅して乙訓寺と名給ふ、聖徳太子みつから十一面尊を刻て此寺の本尊としたまひ、又ハ八幡宮を勧請して此地の鎮守としたまふ、然後嵯峨天皇の御宇にいたりて此寺を弘法大師に給、鎮護国家の密場とし給ふ、或時天皇御脳しきりなりけれハ大師求圓持の法を修し給ふに、明星忽ちに影向ありて御脳則いへさせたまふ、故に今に至まて明星野といふハ此因縁也、鹿園院義満公の時此寺の衆徒争論の事ありき、義満公衆徒を御追放ありてこの地を南禅寺の伯英禅師に給ふに、夫より二百八十余年、禅者の所住となりぬ、然共合躰の霊験ハ日々に新なり、于時元禄六年忝台命有て此寺を大僧正隆光に給、又許多の黄金を給ぬ故に此伽藍を建立して再秘密鎮護の道場となる、正是合躰大師の霊験なるもの也 元禄九年三月日 (3)郡名寺院・乙訓寺の発掘
◆苦悩の乙訓寺発掘
「乙訓」の初見史料は、延暦4年(785)長岡京造営責任者である藤原種継暗殺の疑いをかけられた早良親王が、乙訓寺に幽閉される(日本紀略)という記事である。
また弘仁2年(811)からは空海が別當として止住し、最澄と交わした手紙(風信帖)、嵯峨天皇に橘を献上した詩(性霊集)でも有名である。
乙訓寺は推古天皇の創建という寺伝があり、寺の周辺から古代の瓦がたくさん採集され、乙訓郡の中心的な古代の伽藍が眠っていると注目されていた。
昭和41年(1966)、児童数の増加に対応するため、長岡町では乙訓寺の北の竹藪2万平方mを買収して、町立第3小学校を建設することになる。乙訓の文化遺産を守る会のメンバーたちが、整地前に事前調査を行うように長岡町に申し入れ、4月から期間20日ということで、発掘調査が始まる。
調査を進めれば進めるほど、白鳳期から平安期にかけての講堂跡や僧房などと推定される建物跡(礎石・掘立柱)や溝が次々と発見され、調査は8月迄続けられることとなる。
長岡京発掘:NHKブックス74 より 乙訓寺展示室写真より1 乙訓寺展示室写真より2
◆古代の乙訓寺と周辺地割
この時の調査では講堂跡と瓦窯が、長岡町や周辺住民の尽力で保存されましたが、その他の一連の遺構は工事によって壊される結末となる。その後、古代乙訓寺の全容解明に努力は続けられているが、まだ道半ばではある。
そこで、参考として、乙訓寺周辺の古い地図に、条里地割と条坊地割を示した図を作図したので、紹介しておく。乙訓寺周辺はこの2種類の古代の地割が混在し、とても解釈が難しく、現在のところ定説はない。しかし、江戸期再建のものとはいえ、南門と東門の位置が、これら古代の計画地割と密接な関係にあることは一目瞭然で、何かしら意味があると思われる。さらに航空写真でみると、その複雑さが一層わかり、乙訓寺の北限(江戸期)を画する谷間など、旧地形も明瞭にみることができる。
乙訓寺の寺域と周辺地割 昭和34年長岡町航空写真
2007/11/12作成:2021/12/22更新:ホームページ、日本の塔婆
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