★明治維新前後の狂気(神祇官再興・祭政一致という幻想)
明治維新の神仏分離及びその行き着く先としてほとんど自明のことであった廃仏とは、一体何だったのだろうか、どういう思想でそれは行われたのだろうか、あるいはその主体は一体誰だったのか、そしてその破壊のエネルギーは
一時的であったにせよ、その源はいかなる訳なのか等々多くの疑問がある。
一般論としては、唯一神道家・平田派・後期水戸学などの影響を受けた後期国学者などの狂気であったことは理解できるが、なぜ一部神道家や国学者の狂気が一時的にせよ、全国に波及していったのか、結果的にはほとんど挫折したにせよ、なぜその狂気が許されたのか、その具体的なところはどうだったのか云々については良く理解できていないというのが正直なところである。
但馬帝釈寺(日光院)の神仏分離もある日突然、帝釈寺を襲った訳ではなく、その当時の大きな時代の奔流の中で、全国各地で行われたことの一コマであったと思われる。
一コマとは「大したことではない」という意味ではなく、「明治初頭の神仏分離政策とは、現象としては、千年とか何百年とかの連綿とした信仰や伝統や風習などがほとんど一瞬にして暴力的に破壊される
」というものであった。
寺院神社は勿論のこと、村々の小祠・辻堂までも破壊の対象となり、大なり小なり佛教的な存在は神仏分離という名の廃仏の影響を受けたと思われる。
但馬帝釈寺もその中の一つで、しかも寺院の消滅を宣告されるという「狂気の例」という意味である。
そこには、なんらかの政治・宗教的勢力があり、その勢力は何らかの政治・宗教的意図を持っていたはずであろう。
それゆえ、帝釈寺の神仏分離を考える前提として、一体誰が・何を目的として、どのような手法で行ったのかなどを、以下の著作から、探ってみることにする。
(A)「神道の思想 第2巻神祇制度編」梅田義彦、雄山閣、昭和49年
(B)「神々の明治維新」安丸良夫、岩波新書、1979
(C)「現代神道研究集成(三)」神道史研究編2、神社本庁、平成10年
(D)「現代神道研究集成(七)」神道思想研究編、神社本庁、平成11年
(E)「神仏分離の概観」辻善之助、「明治維新神仏分離資料」所収
「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫、1518、2001
結論的に云えば
明治維新の神仏分離や廃仏毀釈の意味は単に神を仏から分離し、仏を廃するという意味ではなくて、記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に歴代天皇や南北朝期の功臣を加え、要するに神話的にあるいは歴史的に皇統と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするというのがその意味であった。
そして、その神々の大系は水戸学や後期国学に由来する国体神学が作り出したものであった。(B)
勿論、その国体神学の目指す方向は記紀神話の神々を至高のものにするものであった故に、神仏の峻別、神社からの廃仏は勿論、佛教の廃棄、路傍の辻堂・石仏の廃棄にまで破壊の対象が拡大した。
○○大権現・修験なども、限りなく仏体や寺院に近いものであっても、神社と強弁され、新しい神格がこじつけられた。
国体神学の体系から外れる村々の道祖神・祭礼なども淫祠・淫習として廃棄の対象となった。
もっとも甚だしきものは、平将門(神田明神)などは逆臣の故に、祭神から追われる現象もあったとされる。
江戸後期・末期は封建制が行き詰まり、内憂外患の漠然とした不安の時代であった。
この閉塞は新しい勢力あるいは思想によって打ち破られなければならない必然があった時代でもあった。
この時代新しい勢力として台頭してきたのは、薩長に代表される勢力で、その新しい政治スローガンは「尊王」であった。
要するにそれは、徳川封建制の価値感に取って代わる新鮮な政治スローガンであった。
そしてその「尊王」あるいは「勤皇」とは、深く後期水戸学や後期国学の影響を受けたものであった。
明治維新として「革命」が成就した時、維新政府の政治思想基盤は脆弱であり、また弱年の天皇を擁立したばかりでもあり、維新政府の権威確立のためには何らかの(天皇絶対主義的な)イデオロギーが必要であった。
維新政府には、今までの徳川幕府の封建的意識を変革し、その上で列強諸国に伍していくための「日本的に普遍的」なイデオロギーが必要であった。
以上のような状況の中で、維新政府成立当初、その政治「革命」の政治スローガンであった「尊王」「勤皇」を支えた後期水戸学や後期国学者・国体神学者に期待されたのは、まさに近代化(西欧化)を目指すための日本的な精神規範としての、ま
た今までの徳川封建制の精神規範に取って代わる、新しい精神規範としての「古くて新しい」天皇の絶対的な優位性を確立するための理論であった。
政治とは冷徹なもので、政治目的の実現のために役立つものは全て政治的に利用される。
誕生したばかりの維新政府は生き残りと政治目的の実現のために、「祭政一致」の「王政復古」という形で、彼等を利用した。
それゆえ、維新成立当初は、彼等後期水戸学や後期国学者・国体神学者がその思想としたことは、「祭政一致」の「王政復古」として実現はした。
しかし、その復古主義は、古代の神聖国家以外では現実に機能するはずもない時代錯誤なものであった。
その意味で、彼等復古主義者の理想とは、まさに「幻想」でしかなかった。
実際に明治維新を成就させた「明治維新の功労者」たちは、西欧の文明に触れた現実政治家であり、復古主義とは相容れるものではなかった。その復古主義は、維新政府が目指した中央集権国家要するに近代化とは相反するものでしかなかった。
かくして彼ら復古主義者が現実の政治で実権を持つことはありえなかったが、しかし彼等にとっては理想実現の機会到来であり、また現実政治では祭政一致の政治とは「幻想」であるがために、つまり現実政治ではその理想実現のための舞台の用意が無いがために、逆に、限られた世界であるイデオロギー・宗教政策の中で完全燃焼を遂げようとした。
まさに当時は変革の時代であり、情熱を燃焼できる時代であり、宗教・思想の世界でもそういう熱気はあったであろう。
当時は、近代・西欧化への移行期でもあり、ある意味では無政府状態でもあり、一瞬権力の空白時期でもあったであろう。
要するに混乱期でもあり、彼等復古主義者にとっては、佛教を廃し、自らの国学の理想(王政復古神武創業ノ始ニ被為基)の実現の機会到来でもあった。
その意味で、さぞかし、彼等は勇躍し、雀喜したであろうと容易に推測ができる。
しかしながら、現実は、国体神学者たちの、その非現実的な主張(神武創業に基づく祭政一致など)の故に、彼等は現実政治にはコミットは出来ず、宗教政策という狭い世界に閉じ込められる結果になる。
つまり、国体神学者・国学者などは決して維新政府の主流ではなく、むしろ傍流でしかなかったといえる。
しかし傍流で「閉塞させられた」故にそのエネルギーは一層その激しさを増したとも云えなくもない。
いや彼等にとって「閉塞状態であった」からこそ、あの明治初頭の神仏分離(国学者にとっては廃仏)はあれほど「狂気」であったのであろうとも云える。
あの廃仏という破壊行為を招いた原因の一つとして、佛教界の堕落腐敗・社僧の優位に起因する社僧と神官の確執・経済的利権争いなどがあった
ことも事実であろう。しかし、その根本的原因は、明治初頭の復古主義・国学者・復古神道家の屈折したあるいは鬱積したエネルギーで
あったと思われます。そして、そのエネルギーは「宗教政策」の枠内に「閉じ込められた」故に、それは暴発的なエネルギーになったのであろうと思われる。
要するに、維新政府の目指した近代化・西欧化と国学者たちの復古主義とは根本的に相容れるはずも無く、思想的には尊王(攘夷)だけで和合した維新政府と復古主義者との蜜月は明治3、4年で終る。
かくして、復古主義的な神仏分離政策は頓挫する。
但し、地方での収束はその後数年の時間が必要ではあったが・・・・。
その後、維新政府は古典的な復古主義は切捨て、維新政府としては、強権的な中央集権国家の中心としての天皇絶対化が推し進められていくことになる。
それは国家神道への道であった。
おそらく、維新政府にとっては、富国強兵等々が立脚すべき価値基準であり、
その実現のための人心統合策として採用されたのが「天皇絶対化」(神々の系譜で云えば天照などの皇祖、神社で云えば伊勢神宮)であり、この意味では水戸学及び後期国学は現代にまで及ぶ大きな影響を残したといえるのであろう。
□明治維新前後の神仏分離という名の廃仏関係の動き
天保元年(1830)〜
弘化2年(1845) |
*1:水戸藩の寺院整理:民衆の信仰生活全体を水戸学の立場から神儒合一的な祭祀の大系に変革しようとするものであった。(B) |
天保13年(1842)〜
天保14年 |
*2:長州藩の淫祀破却: 村田清風が主導、寺院と村々の小堂宇・小祀司を淫祀として破却。
明治維新の神仏分離の一つのモデルと云われる。 |
嘉永2年(1849) |
*3:津和野藩:藩主亀井茲監(これみ)が国学に造詣が深く、養老館(藩校)が改革され、岡熊臣(千家俊信<出雲国造千家第75代俊勝次男・国学者、神道家>に学ぶ)を登用、
嘉永4年に没するも、次いで大国隆正・福羽美静を養老館教授に登用。 |
安政5年(1858) |
*4:猿渡容盛(ひろもり);神祇官再興・祭政一致の建言。 |
安政6年(1859) |
三条実方;神祇官再興・祭政一致の建言・意見書。 |
元治元年(1864) |
*5:矢野玄道;神祇官再興・祭政一致の建言・意見書。
「献芹・語」 |
慶応3年6月 |
*3:津和野藩:社寺改正を断行
後に津和野藩主従(亀井茲監・大国隆正・福羽美静)が明治維新政府の宗教政策の中心を担うことになる。
(つまりは明治維新直後の神仏分離・廃仏が強行される結果となる。) |
慶応3年10月 |
徳川慶喜大政奉還。 |
慶応4年正月17日 |
*6:維新政府第1次の官制を発布:太政官の基に神祇科を筆頭に7科を置く。 |
慶応4年2月3日 |
*6-1:官制改革:神祇科は神祇事務局へ、その職掌は「神祇祭祀、祝部、神戸の事を督す」とされた。 |
慶応4年3月13日 |
*7:王政復古の太政官布告。 神仏分離に関する法令 |
慶応4年3月14日 |
五箇条の誓文発布。 |
慶応4年3月17日 |
神祇事務局から諸社に対し、別当・社僧の復飾の達。 神仏分離に関する法令 |
慶応4年3月19日 |
神祇事務局、神職及びその家族は神葬祭に改めるべしとの布達。 |
慶応4年3月28日 |
神祇事務局から、権現号あるいは牛頭天王号の廃止及び仏像を神体とすることの停止・本地仏・鰐口・梵鐘・仏器などの取除きの達
。
神仏分離に関する法令 |
慶応4年4月朔日 |
*8:近江日吉山王社の破壊、首謀者は日吉権現祠官樹下茂国(当時は神祇事務局権判事)および日吉権現祠官生源寺義胤。近江日吉社について |
慶応4年4月10日 |
日吉権現破壊を受け、神仏の判然に当っては「穏ニ取扱べし」との達。 |
慶応4年4月24日 |
八幡大菩薩の号の停止、八幡大神への改号の達。 神仏分離に関する法令 |
慶応4年4月 |
*9:兵庫湊川神社・祭神楠正成の創建(造営は明治4〜5年)の決定。 |
慶応4年4月 |
大和興福寺:「一山不残還俗」し廃寺同様となる。 |
慶応4年4月 |
山城北野天神:住僧49人が復飾、祭儀の様式を改む。 |
慶応4年閏4月4日 |
神社社僧の還俗の達(再通達)。 |
慶応4年閏4月21日 |
*6-2:神祇事務局は神祇官と改組。神祇官が櫻田門内に再興。 |
慶応4年5月 |
山城石清水八幡宮:八幡大菩薩を八幡大神に改め、社僧が還俗、祭儀の様式を改む。 |
慶応4年6月 |
隠岐の廃仏:正義党(正義党とは自称、島後の庄屋・中西毅男らの勤皇家国学者・神官層から成る)が地域権力を掌握。 |
慶応4年8月 |
京都白峰宮の創建、隠岐流罪の崇徳上皇霊の奉遷。淡路に配流の淳仁天皇霊も合祀
後鳥羽・土御門・順徳3上皇(承久の変で配流)の霊を攝津水無瀬宮に祀る。 |
慶応4年9月8日 |
明治と改号(1868)。
この頃江戸は東京と改称、明治天皇東京下向。当時、天皇の特講として皇学所御用掛平田銕胤、漢学所御用掛中沼了三、神祇官判事福羽美静が取り巻いていた
と云う。 |
明治元年10月18日 |
日蓮宗の30番神に伊勢・八幡などを立てること停止の達。 |
明治元年11月 |
佐渡の廃仏:判事奥平謙甫は北辰隊を率いて入島。寺院廃合(本寺もしくは大寺に合寺し、島内539寺を80寺にせよ)を命ず。廃寺の仏像仏具を集めて焼却、大砲・天保銭に改鋳。佛教活動の制限を命令。
参照:「宝暦の寺社帳 下巻」に見る佐渡の社、佐渡国の社・補足 |
明治2年3月 |
太政官に教導局設置→宣教使→9月神祇官員兼務。 |
明治2年3月以降 |
隠岐の廃仏:地域権力を掌握した正義党が廃仏を断行、寺院・仏像仏具、神社の佛教的要素、路傍の石仏、庚申塚は勿論家々の仏壇まで悉く破壊された。島後の46ケ寺全て廃絶、島内70余りの僧侶は全て
還俗もしくは島外追放。 |
明治2年7月8日 |
*6-3:神祇官が太政官の上に置かれる。 |
明治2年7月〜3年 |
松本藩の廃仏:五社神社の神仏分離・別当弥勒院廃寺、領民に神葬祭の強要、松本25ケ寺のうち21ケ寺帰農させる。改革は水戸学・国学の影響を受けた知事(旧藩主)戸田光則など
が主体であった。 |
明治2年12月 |
八神殿(仮殿)を神祇官内に造営、白川・吉田両家奉斎の八神殿の霊代の奉献せしむ。
※中世には神祇官は廃絶、天正18年勅許にて、吉田家が吉田神社に八神殿を祀る。
2012/11/01撮影:
吉田神社斎場所大元宮門前
吉田神社斎場所大元宮:平面八角、屋根入母屋造茅葺、背後に平面六角の後房を付、慶長6年(1601)修造か。
吉田神社八神殿跡:大元宮背後に
残存。現地説明板では天正18年(1590)来斉、明治4年宮中に遷座とある。 |
明治3年正月3日 |
大教宣布の詔の発布:
国家の中心は天皇であり、その祖先は天照などの諸霊であるとの考えに立つ神道が「大教」の名で組織的に全国民に布教されることになる。これは神社神道(神社で行われてきた神道)と皇室神道(皇室の祭祀)を一体化し、これを「大教」として全国民に布教しようと意図したもので、「国家神道」というべきものの実体であろう。明治4年5月14日の2つの布告に繋がって行く。 |
明治3年10月25日 |
太政官より「大小神社取調書」作成が府藩県に令達。式内社をはじめ全国神社が調査される。
「神祇官達 第七百」 |
明治3年閏10月以降 |
富山藩の廃仏:領内313ケ寺を各宗1ケ寺(都合8ケ寺)に統合する方針で廃仏が行われ、金具を得るため梵鐘・仏像・仏器が盛んに焼かれた。 |
明治3年閏10月10日 |
太政官、土御門家(陰陽家総取締)に天社神道(混淆神道)の布教禁止の布告 |
明治3年閏10月28日 |
国内大小神社之規則御定ニ相成候条於府藩縣左之箇条委細取調の布告(太政官)
「太政官布告 第七百七十九」 |
明治3年7月以降 |
*10:美濃苗木藩;藩では幕末から藩主を始め平田派国学が跋扈、幕末から明治維新にかけて青年の青山直道が大参事に登用され藩政改革を断行した。父青山影通は平田篤胤門下で、維新政府に登用され、徴士、神祇官権判事となる。
参照:美濃苗木藩における廃仏毀釈 |
明治3年12月 |
神祇官官員削減、急進派(平田派丸山作楽<さくら>・常世長胤<とこよ>は失職、福羽美静(神祇官)・小野述信(宣教使)が実権を掌握。 |
明治4年正月5日 |
太政官、寺社領「上地」(知行権返上)の布告。ほとんどの寺院に深刻な(経済定)打撃を与える。 |
明治4年5月14日 |
太政官、「官社以下定額及神官職員規則等」を布告。布告の一つは、神社は国家の衆祀であるため、神官社家の世襲の廃止、精選補任
とするの布告であり、もう一つは、官・国幣社、府藩県社、郷社、産土社を制定するものであった。この意味は、国家が祭祀すべき神々の体系を定めたという重大な意味がある。 |
明治4年6月 |
皇室と関係のある門跡・院家・院室の寺院の称号を廃止し、泉涌寺・般舟院を除く全寺院から下馬・下乗の札を撤去する。 →明治18年、門跡の号については公称として使用することを許可する。(「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」 より) |
明治4年7月 |
氏子調規則制定。
「郷社定則」(太政官布告)により、郷社付属として村社を置くこととする。 |
明治4年8月 |
神祇官は神祇省に改組。理由は形式と内容の不一致というものであった。
(以下「親子で読む 続編郷内の歴史散歩」 より)
寺院を勅願諸とすることを停止、勅修法会を廃止する。
京都御所に安置されていた歴代天皇・皇后の位牌及び宮中の仏像・仏具類を泉涌寺・般舟院に移す。
歴代天皇・皇后の位牌を安置していた「お黒戸」はそっくり泉涌寺の御座所の奥に移築される。
泉涌寺の多くの天皇皇后陵・皇族の墳墓が国家の管理となる。 |
明治4年10月14日 |
太政官、六十六部(廻国修行)の禁止の布達。 |
明治4年10月28日 |
太政官、普化宗の廃止の布告。 |
明治4〜5年 |
伊勢神宮の改革:伊勢神宮を国家祭祀の最高位の一つに位置付け。 |
明治5年3月13日 |
教部省設置(神祇省廃止)。初代の卿は嵯峨実愛(さねなる)、大輔は福羽美静(5月解任)。 |
明治5年3月 |
教部省、秋葉山を秋葉神社と改称
することを決定、遠江国学者小国重友を祀官に任命。神仏分離の強行。 |
明治5年9月15日 |
*10-1:太政官、修験宗の廃止、本山・当山・羽黒とも、天台・真言両宗に帰入の布達
。
「太政官第273号(布)」
吉野金峯山寺、湯殿山・月山・羽黒山での廃仏。 |
明治6年 |
*11:9月:西川須賀雄(教部省出仕大講義)出羽三山宮司着任、平山省斉氷川神社大宮司着任、深見速雄讃岐琴平神社宮司着任、落合直亮(なおあき)塩釜神社宮司着任、宍野半(なかば)甲斐浅間神社宮司着任。いずれも神道国家主義者であった。 |
明治6年1月 |
*11-1:大教院開院。ここには造化三神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)と天照大神が祀られ、僧侶・神官がそれぞれの政治的思惑を秘めて参集し、奇怪な様相であった
と云う。
なお中教院規則にも造化三神と天照大神を祀ることを規定する。 |
明治6年3月 |
*12:宍野半甲斐浅間神社宮司着任。 |
明治7年8月 |
神田明神での祭神取替の措置。祭神の1柱は「御霊」としての平将門であった。明治天皇行幸に当り、国体神学の立場に立てば、祭神が逆賊では不具合であり、祭神の取替えが命令され
る。その結果少名彦命に取り替えられる。なお之に先立ち、神官は本居宣長曾孫本居豊穎が任命される。 |
明治10年6月 |
内務省寺社局(教部省廃止)発足。 |
☆水戸藩、長州藩、津和野藩などでは、維新前に国学者や神道家による神道化(即ち廃仏)の動きがあり、
維新直後の神仏判然・廃仏の魁となる。
*1:水戸藩の寺院整理:
徳川斉昭と彰考館関係者が推進、常磐山東照宮をはじめ神社は全て唯一神道に改め、一村一社の制を採り、宗門改めを廃し、氏子帳を作成し、僧侶・修験の還俗、家臣の仏葬などの廃止、神儒折衷の葬祭式の採用、廃寺、村々の辻堂小祀石仏庚申塚などの廃棄、梵鐘の徴収などが行われ、年中行事の中に東照宮・光圀・楠正成・天智天皇を祀る行事などが組み入れられた。
処分寺数は190ケ寺で、寛文年中の1098ケ寺ほどではなかった
が、神仏分離・廃仏を通しての神道への統合を試みたものとして、明治の廃仏・神道化への先鞭と云えよう。この政策は行き過ぎたものとして、幕府による斉昭の処分で
頓挫する。(B)
*2:長州藩の淫祀破却:
村田清風が主導、寺院と村々の小堂宇・小祀司を淫祀として破却、寺社堂案9,666、石仏金仏12,510にのぼり、公認の寺社堂庵は3,376+450に整理されたという。
これにより一村一社に近いものになり、ここから明治以降の村社の萌芽となったとされる。
村田清風の祭祀正邪の基準の諮問に対し、国学者近藤芳樹は延喜式神名帳に記載神社が正祀で以外は淫祀とする。(B)
*3:津和野藩社寺改正:
藩主亀井茲監(これみ)が国学に造詣が深く、養老館(藩校)が改革され、岡熊臣(千家俊信<出雲国造千家第75代俊勝次男・国学者、神道家>に学ぶ)を登用、
嘉永4年に没するも、次いで大国隆正・福羽美静を養老館教授に登用。
※大国は篤胤門下、福羽は大国門弟。
葬祭を神道式にするのが基本理念で、元和3年以降勧請神社のそれ以前の勧請神社への合祀、寺院は本寺もしくは最寄寺院への統合を命じる。士分の葬祭は神道式へ強制。
慶応4年4月津和野藩主亀井茲監(参与・神祇事務局判事)は「仏寺廃合、釈僧還俗、葬祭の神仏併用」の請願をし、許可される。神仏併用という建前であったが、実際は一藩全部を神道式へ強制し、佛教の廃滅を目指すものであった。
その後、津和野藩主従(亀井茲監・福羽美静)が維新政府の宗教政策の一端を担うことになるわけであるが、当時の幕府の政策もあり津和野藩では十分果たせなかった理念を、この主従が津和野藩をモデルにし、
維新の祭政一致の政治体制の基で、復古国学の理念を貫徹しようと考えたであろことは想像に難くない。(B)
*4:猿渡容盛(文化8年〜明治17年):
武蔵惣社六所宮神主で、小山田与清門(平田篤胤・伴信友とともに
「国学三大家」とされる)に国学を学ぶ。
安政5年神祇官再興を建言(この建言は2万字に及ぶという)。
慶応4年7月六所宮の仏像・仏器の取払い・社僧の還俗を強行、地方での最も早い神仏分離の例と思われる。
六所宮では神官が珍しく社僧の上位にあった由に、地方で初期に神仏分離がなされた例とされる。
なお六社明神は明治4年以降、大国魂神社という名称に変更されたようです。
現在、鼓楼が残存する、この鼓楼は慶長年中徳川家康によって、江戸開府記念の造営で三重塔と相対して建立されたものとされる。
※三重塔は正保3年(1646)焼失しその後は再興されず、
鼓楼は嘉永7年(1854)再建という。
六所宮以外の関東地方での神仏分離の早い例はとしては、慶応4年8・9月の武蔵御嶽社、江ノ島弁財天女社の例がある。
*5:矢野玄道(文政6年(1823)〜明治20年);
伊予に生まれる。弘化4(1847)昌平黌に入塾(平田派国学)。嘉永4(1851)京都に移住、本覚寺や鳩居堂などで子弟を教える。
嘉永5皇学校設立の建言書を作成。「皇典翼」「神典翼」を著述。神祇伯白川家や吉田家の学頭を勤める。
明治元年12月13日 皇学所開校。同所講官に補任。
国家構想をまとめた意見書「献芹・語」を、岩倉具視を通じて明治政府へ提出。
明治3年東京に転住、明治5年帰郷。
明治10年修史館御用掛を拝命。皇学所御用掛、宮内省御用掛、図書寮御用掛等を歴任。
著作・手記等は二百数十点に及ぶと云う。
☆「祭政一致」の「王政復古」として維新政府が樹立され、国学者・神道家が勇躍、祭政一致の神道国家化を推し進める。
中央では明治初年からの5年間ほどが、地方ではその後の数年間が狂気の時代であった。
*6:維新政府第1次の官制を発布:
太政官の基に神祇科を筆頭に7科を置く。
神祇事務総督は中山忠能(ただやす・明治天皇外祖父)、有栖川宮幟仁(たかひと)、白川資訓(すけのり)、
事務係は六人部是愛(むとべよしちか)、樹下茂国(じゅげ)、谷森種松が任命される。
・白川資訓(天保12年(1841)〜明治39年) :
資訓王。安政2年神祇伯從四位下兼行侍從、文久元年正四位下神祇伯
※神祇伯は神祇行政の最高位に位置付けられる。花山天皇・皇孫清の子延信王が万寿2年(1025)臣籍降下、神祇伯に任ぜられる。後、白川伯家としてこの職を世襲、伯任官とともに王号を称した。中世には、神祇大副を極官とする卜部氏(吉田家)が成り上り、実権を掌握する。伯家では神号を授与や許状を発行、資料編纂などで生延びる。
・吉田良義(天保8年(1837)〜明治23年) :
公卿(卜部氏)とあり、吉田神道家末裔と思われる。 ・六人部是愛:
六人部雅楽(うた)、山城向日神社神職、明治2年享年30歳で没。
・樹下茂国(文政5年(1822)〜明治17年):
慶応4年、神祇事務局権判事。近江坂本日吉権現祠官であった。同年の日吉権現社破壊の首謀者。当然その行動は維新政府を驚愕させ、明治2年処分、解職となる。後半生は岩倉具視邸に身を寄せる。
・谷森善臣(文化14年(1817)〜明治44年):
京都生まれ。内舎人家(うどねりけ)の出身。伴友信門下で国学を学ぶ。40歳頃から山陵修復事業に狂信し、御陵墓取調事務に従事、皇学取調御用掛、皇学所1等教授、修史館修撰などを歴任。
著作として歴史書の校訂、山稜の調査報告などがある。また、蔵書は多岐にわたり、「谷森本」と称されて、『国史大系』の底本として用いられた資料を多く含む。
・矢野玄道:*5:を参照
・平田銕胤(寛政11年(1799)〜明治13年):
伊予新谷藩士碧川氏の出身、平田篤胤養子。
・周囲には平田延胤(平田銕胤息)・権田直助
(医師。皇朝医道の復興を志す。平田篤胤に師事し、勤皇家となる。明治6年相模大山阿夫利神社の祀官、一時、伊豆三島神社の宮司も務る)・丸山作楽
などもいたようである。 |
なお、祭政一致・神仏分離には以下の人物も関係したと思われる。
井上石見(薩摩諏訪神社神職、大久保一蔵との連絡役)、玉松操、三上兵部は岩倉具視のブレーンであり、樹下茂国・生源寺義胤も岩倉と近い関係であったとされる。
*6-1:慶応4年2月・神祇科の神祇事務局への改組(明治初期主要官職一覧による)
神祇事務局督 |
有栖川宮幟仁親王 |
慶応4年2月20日〜慶応4年2月27日 |
|
白川資訓 |
慶応4年2月27日〜慶応4年閏4月21日 |
神祇事務局輔 |
白川資訓 |
慶応4年2月20日〜慶応4年2月27日 |
|
吉田良義 |
慶応4年2月20日〜慶応4年4月21日 |
|
亀井茲監 |
慶応4年2月27日〜慶応4年閏4月21日 |
神祇事務局判事 |
亀井茲監 |
慶応4年2月20日〜慶応4年閏4月27日 |
|
平田銕胤 |
慶応4年2月20日〜慶応4年3月4日 |
|
矢野玄道 |
慶応4年2月20日〜慶応4年3月4日 |
|
谷森善臣 |
慶応4年2月22日〜慶応4年3月4日 |
王政復古の初期段階では、亀井茲監(これみ)、平田銕胤(かねたね)、福羽美静など平田派・大国派の国学者・神道家が登用され、大国隆正・矢野玄道(はるみち)などの思想が大きな影響力をもつこととなり、これは神祇官再興と祭政一致が維新政府の公的イデオロギーとして採用され、神道国家主義を推進する勢力が地歩を築いたことを意味する。(B)
しかし、祭政一致は神祇事務局設置で実現したが、平田派の平田銕胤、矢野玄道は僅か1ケ月で解任される。
事務局の実権は津和野藩主従(津和野派)亀井茲監・福羽美静が握る。おそらく神学上の対立と地域的に近い長州閥を利用した津和野派による政治的な追い落としがあったと思われる。
要するに平田派神学は神祇官再興の実現直後に維新政府から追放される結末となる。
この時期、津和野派主導の「神祇事務局」から、相次いで、事務局から神仏分離の布告が出され、神仏分離(廃仏毀釈)が強行される。
*6-2:慶応4年閏4月・神祇事務局は神祇官と改組(明治初期主要官職一覧による)
神祇官知事 |
鷹司輔煕 |
慶応4年閏4月21日〜明治元年9月12日 |
|
近衛忠房 |
明治元年9月12日〜明治2年5月15日 |
|
中山忠能 |
明治2年5月15日〜明治2年7月8日 |
神祇官副知事 |
亀井茲監 |
慶応4年閏4月21日〜明治2年5月15日 |
|
福羽美静 |
明治2年5月15日〜明治2年7月8日 |
神祇官判事 |
福羽美静 |
慶応4年5月12日〜明治2年4月12日 |
津和野藩主従(津和野派)亀井茲監・福羽美静が実権を握った構図になる。
*6-3:明治2年7月・神祇官は太政官の上位に位置(明治初期主要官職一覧による)
神祇伯 |
中山忠能 |
明治2年7月8日〜明治4年6月25日 |
|
三条実美 |
明治4年6月27日〜明治4年8月10日 |
神祇大副 |
白川資訓 |
明治2年7月8日〜明治3年12月26日 |
|
近衛忠房 |
明治3年12月26日〜明治4年6月25日 |
|
福羽美静 |
明治4年8月5日〜明治4年8月8日 |
神祇少副 |
福羽美静 |
明治2年7月8日〜明治4年8月5日 |
|
梅溪通善(元公卿) |
明治3年3月30日〜明治4年1月15日 |
神祇大祐 |
北小路随光(元公卿) |
明治2年7月8日〜不明 |
|
門脇重綾(国学者) |
明治3年5月20日〜明治4年8月5日 |
・大国隆正(寛政4年(1792)〜
明治4年):
父は津和野藩士今井秀馨。文化元年(1804)頃平田篤胤門下に入り,のち昌平黌に移り、舎長となる。
文化7年(1810)辞職、その後,村田春海 の門人となる。津和野で家督を継ぎ、長崎遊学を経て,江戸へ行く。
文政12年(1829)5月脱藩,野之口と改名。天保5年(1834)大坂へ行き,京洛で国学を 教授。
天保7年小野藩に招かれ,翌年帰正館設立。天保12年辞し京都で報本学舎を開く。
嘉永元年(1848)以降,姫路藩・福山藩より招聘、嘉永4年9月津和野藩へ復帰、養老館国学教授(岡熊臣・福羽美静も養老館教授)、文久2年(1862)大国と改姓。
明治維新後は,神祇局諮問役・宣教使御用掛となる。
「学統弁論」「本学挙要」「通略延約弁」「古伝通解」「新眞公法論」「直毘靈補註」「本教神理説」などを著す。
・亀井茲監(文政8年(1825)〜明治18年):
津和野藩(4万3千石)主、福羽美静等を重用。維新政府では廃藩置県を建白。維新政府議定。
・福羽美静(天保12(1831)〜明治40年):
18歳で藩校養老館入学,その後大国隆正に師事,維新直後神祇事務局、明治4年宣教次官事務、明治5年3月教部大輔,同年5月罷免。その結果,神祇行政より平田派後退。但しがちがちの国学者ではなく開明派でもあったようです。
その後歌道御用掛・文部省御用掛、明治18年元老院議員、明治20年子爵、明治34貴族院議員。「古事記神代系図」「人事百話」「国民の本義」などを著す。 |
※ 国学・復古神道の系譜
|
「<出雲
>という思想」
原武史、講談社学術文庫1516、2001より維新前後の国学の系譜
「黒→」は思想系譜を示す。
維新の神祇政策の主導権は
「青→」で遷移する。
神祇官・神祇省時代は
1)平田派復古神道から
2)津和野の大国派に移り
神祇省廃止→教部省設置の段階で
3)薩摩派が実権(大教院教化)
を握り、次で
4)伊勢派が実権を握る。
以降、宮中神霊、伊勢神宮を頂点とする神々が体系づけられ、国家神道として近世国家のイデオロギーとなる。
結果は、大国主命などの出雲系の神々は排除され、皇室の祖神とされる天照大神・皇霊・造化3神などが国家祭神となることで決着した。
※左図はモナ丼というページの
[#152: 04.04.25]の図表を参考
にさせて頂く。 |
*7:王政復古の布告に「神武創業ノ始ニ被為基云々」の一句をいれたのは国学者玉松操という。(B)
・玉松操(文化7年(1824)〜明治5年):
諱眞弘,通称猶海,大学頭。父は山本公弘(公卿)、幼にして醍醐無量寿院に入る。
天保10年(1839)還俗して玉松操となる。
のち国学者大国隆正の門人となるが,袂を分かち,近江真野に移り,門人を育成,門人から三上兵部・樹下茂国などが出る。維新前には彼等の線から、岩倉具視
のブレーン(謀臣)を務め、王政復古の工作,王政復古詔勅案を作成した。
維新政権成立後は,平田銕胤、矢野玄道とともに大学官(皇学所),大学寮(漢学所)の皇学所統合を策し、尊王攘夷の徹底を画する。明治2年9月,京都皇学所は廃止
、明治3年3月東京出仕,大学中博士兼侍讀となる。同年10月中博士を辞任、京へ帰り,引退。(平田派国事犯事件の端緒) |
☆中央では、早い段階で近江日吉権現・大和興福寺・北野天神・石清水八幡宮などで神仏分離・破壊が行われる。
一方では尊王に繋がる国策としての神々(楠正成など)の神社が創建される。
*8:近江日吉山王社の破壊:
首謀者は日吉権現祠官樹下茂国(当時は神祇事務局権判事)および日吉権現祠官生源寺義胤で、武装した神威隊(諸国の神官出身の志士)50人と人足50人が乱入し、神体の仏像・仏器・経典などが土足で踏みにじられ、破壊・焼却され
る。
樹下は、仏像の顔を矢で射ぬき、快哉したという。(その様子は神仏分離資料に詳しく報告される。)
この破壊は3月28日の布告がまだ山門に届いてない段階のこととされる。
明治2年12月樹下茂国および生源寺義胤はこの件の責任で処罰される。
近江日吉社についてはこちらを参照下さい。
*9:湊川神社(楠正成)の他、後醍醐天皇(吉野神宮)、護良親王、宗良親王、懐良親王、新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房・顕房の南朝系の諸人、他国に奉遷していた天皇・上皇、瓊々杵尊・神武天皇などの皇祖、天照大神、織田信長(建勲社)、豊臣秀吉
(豊国神社)、毛利元就、上杉謙信、加藤清正(菊池神社)などの武将、国学者や勤皇の志士などを祀る神社(明治2年九段招魂社→明治9年靖国神社)が相次いで創建された。(B)北海道には札幌神社が明治4年5月創立。
※鎌倉宮という社も創建される。
明治2年、大塔宮護良親王を祭神として、護良親王が入牢されたという土牢あった東光寺跡に創建される。
「THE SHRINE OF OTO NO MIA,
KAMAKURA.(鎌倉、大塔宮)」:「ザ・ファー・イースト」1871年9月1日号
○創建当初の鎌倉宮
旧暦・明治2年(1869)2月起工、6月20日神体が決定、7月21日社殿落成、鎌倉宮と命名、創建される(「明治天皇紀 第二」宮内庁 昭和44年 吉川弘文館)
神仏分離、祭政一致の王政復古、天皇中心の中央集権の流れ、平田派国学、天皇中心・国家神道を補強する南朝顕彰の精神の演出などで、造作される。
※なお念のいったことに建武中興15社というのがあると云う。(以下の国策神社を云うようである。)
官幣大社:吉野神宮:後醍醐天皇
官幣中社:鎌倉宮:護良親王、井伊谷宮:宗良親王、八代宮:懐良親王、金崎宮:尊良親王,恆良親王
井伊谷宮(浜松市引佐町井伊谷)
別格官幣社:小御門神社:藤原師賢、菊池神社:菊池武時,菊池武重,菊池武光、湊川神社:楠木正成、
名和神社:名和長年、阿倍野神社:北畠親房,北畠顯家、藤島神社:新田義貞、結城神社:結城宗廣、
霊山神社:北畠顯家,北畠親房,北畠顯信,北畠守親、四条畷神社:楠木正行、
北畠神社:北畠顯能,北畠親房,北畠顯家
小御門神社(成田市名古屋)、藤島神社(福井市毛矢)、結城神社(津市藤方)、
霊山神社(福島県伊達市霊山町大石字古屋舘)、北畠神社(津市美杉町上多気)
|
*10:美濃苗木藩:
慶応4年7月苗木藩守護神竜王権現は高森神社とされ、本尊大日如来を撤去、平田派門人の神葬祭改宗などがあり、明治3年7月知事(旧藩主遠山友禄・平田派門人)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされることになる。
同年8月村々の辻堂、路傍の石仏・石塔の廃棄、神社の廃仏の徹底が命ぜられ、領内全寺院15ケ寺が破壊、全領民への神葬祭への強制ななされる。
参照:美濃苗木藩における廃仏毀釈
明治維新前後の政策としての廃仏は津和野藩、隠岐、佐渡、松本藩、苗木藩、富山藩以外に薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、高鍋藩、飫肥藩、多度津藩(計画のみ)などで実施せられる。(B)
*10-1:湯殿山・月山・羽黒山での廃仏:
神祇官が修験を神道に帰属すると判定した理由は以下のようであった。要するに権現号を持つからで、もし修験が佛教側ということになれば、神道と佛教の勢力図に大きな変化をもたらす故に、強引に神道と判定する必要があった。
「湯殿山、月山、羽黒山等、社号・祭神等、当官にて取調行届候訳には候へ共、そうじて権現号は、本地仏を立て、神は仏の権(かり)に神と現じ、衆生を利益すると云ふ僧徒の習合の説より事起り候事故、権現号有之分は神と相定至当の儀に付、則、社と致し候事に付、祭神等御入用之筋候はば、管轄所へ申達取調可申候也。」
湯殿山・月山・羽黒山での廃仏
吉野金峯山寺も寺院と認めると影響が大きすぎて強引に神社とされた。
*11:当時の官国幣社の宮司、神官になった国学者・維新政府からの派遣国学者たちには以下のような名前が
伝わる。
門脇重綾・岡本経春・黒神直臣・大畑弘国・師岡正胤・矢野直道・中山繁樹・近藤芳介・植田有年・三輪田高房・岩崎長世・岡部譲・半井真澄
*11-1:国学者の間では早くから動きがあったようである。例えば
慶応3年12月矢野玄道は政策構想「献芹・語(せんご)」を奉呈、天下第1の政務は「天神地祇の御祭祀」として、正しく祀られていない天御中主神以下の天神や若干の皇統神を挙げて祭祀するよう主張した。また同時に天皇や国家に対して功績のあった諸人も国家として祭祀するように求め
る。(B)
*12:宍野半の甲斐浅間神社宮司着任:
富士講の信仰対象は富士山そのもので、仙元(せんげん)大菩薩・モトノチチハハとか呼ばれ、また仙元大菩薩は大日如来とされる。
明治5〜6年にかけて富士信仰にも神仏分離の原則が適用され、宍野はそれを主導する。山頂大日如来をはじめ、山中の仏像も取除かれ、山頂には浅間大神が奉斎され、祭事は神道式に変更され
る。
宍野は御師と富士講の巨大組織を復古神道的組織に再編成する意図で、富士一山講社を組織、のち扶桑教と結びつき扶桑教会となる。
その折扶桑教会の教義は富士講の神格であるモトノチチハハは天祖の神天御中主神のこととされ、高皇産霊神・神皇産霊神を加えた造化三神が主神とされる。要するに富士山と主神は別のものとされ
る。
要するに、国家神道の教義の丸出しである。
宍野は薩摩郷士出身、平田銕胤門下の神道家、教部省出仕から宮司に転出。(B)
★最後に:主体は誰かという観点から纏めてみると
明治政府を樹立させた精神的原動力の一つとして、国学者・神道家による復古神道や垂加神道の教説があり、それは佛教排斥の思想を内包していた。(A)
確かに、国学者や神道家の復古主義が精神的原動力として、明治維新の成立には大きな力となったと思われる。
以下は「神仏分離の概観」辻善之助 の該当箇所の概要である。
神祇官復興当時の神祇官の構成は、公卿は家柄で任命されただけであり、白川資訓は旧神祇伯の縁故でなっただけであろう。神祇官の方針を立てるに力あった人は亀井滋監、福羽美成であろう。その外に平田銕胤(判事)、平田延胤(権判事)、谷森善臣(権判事・本居流の人だった)、苗木藩士青山景通(権判事、平田流)であろう。彼等の考えが廃仏に傾いたのは自然の勢いであり、神祇官の廃仏主義は地方に大なる影響を与えた。地方の事務官、地方の神官は得たり賢しと盛んに廃仏行動にでたのである。(E)
地方でも国学者は多く任官されていたと思われ、廃仏に至った構図は辻善之助の考察の通りであろう。
熱田では、名古屋藩校にいた植松茂岡(本居宣長門人)と神社の林相模守美香(やはり本居宣長門人)が主謀者と言われ、例えば経典などを焼き捨てた。
三河菊間藩廃仏の主張者は少参次服部某は平田篤胤門人という。(「廻瀾始末」による)
相模大山は早くより平田篤胤の学風が入り込んでいた。御師は多くは篤胤の門人となっていた。
武蔵御嶽では復古思潮が横溢していた。神官・御師は本居流の考えが全く事実と思い、神社の仏像・仏画・堂舎を撤去する。
美濃苗木藩*10:の主謀者は前述の通り。
信濃諏訪でも幕末の頃、上諏訪松沢義章が社人に平田篤胤の学風を社人に広め、下諏訪大祝金刺振古は国学を興することを勧め、多くの国学者が社人らに講義したと云う。
出羽羽黒の新任西川須賀夫は荒倉神社土岐信風(篤胤門人)の加勢を得て、佛教を排撃する。
隠岐の主謀者である松浦荷前は平田篤胤門人との連絡があった。
鳥取藩の伯耆大山などの廃仏は本居流の流れを汲む国学者が主体であった。
津和野藩*3:は前述の通り。
土佐藩での廃寺の衝にあたった北川茂長は本居平田の学説を奉じていた。
薩摩では平田篤胤の学風が流行していた。(E)
要するに、各地で廃仏を行った主体は平田派大国派国学者あるいはそれに影響された神官などであることは明白であろう。
「神仏分離の諸相」
は、各地で行われた神仏分離という名の廃仏毀釈の様子を纏めてたものである。
(但し、このサイトの当初の目的上、上記ページの対象は木造塔が現存あるいは木造塔が破壊された場合に限定される。
しかし、大規模な廃仏が行われた寺院神社では、高い確率で何らかの塔婆が建立されていたと思われ、
この意味ではまず概ね著名な神仏分離もしくは廃仏の実態は網羅されているであろう。)
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2006年以前作成:2007/05/30更新:ホームページ、日本の塔婆
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