石原村石原所在の現日光院と石原村石原所在の帝釈寺妙見社
謎めいた章立であるが、解説を始めよう。
ここに、国土地理院発行の
25000/1の地図がある。
この地図で観察すると、
JR八鹿駅を降りると、南西方向から八木川が流れ、その八木川に沿って進むと、すぐに西方から流れる小佐川が合流する。
この小佐川は妙見山を源流としてはぼ西から東に流れ八鹿村に至る。
小佐川沿いには一筋の道があり、この道はおそらく古代からの交通路であったと推定され、
この小佐川に沿う道を遡れば八鹿村→九鹿村→小佐村→石原村椿色に至ることが分かる。
△椿色・石原・日光院・妙見三重塔・妙見山の地図:下図拡大図
石原村椿色では小佐川とその支流が合流し、石原村椿色から小佐川沿いに、西南西方向約10町で石原村石原に至る。
この石原村
石原集落の山麓には現日光院がある。
ここから新道(自動車通行可)が通り、帝釈寺妙見社(現「明治官立名草神社」)に至る。
一方、椿色からほぼ西方向(やや北より)に進む川に沿った、旧道(と推定される)があり、この道は日畑村日畑の集落を通り妙見社の集落妙見(日畑村字妙見)に至る。
※さらに、この道は妙見山の北側を通り、七美郡日影村に通じ、妙見越と称するとも云う。
そして、妙見集落のすぐ西の山麓には帝釈寺妙見社社地がある。
しかし、この帝釈寺妙見社の境内地は日畑村ではなく、石原村石原なのである。
つまり、妙見越を利用する限り、帝釈寺妙見社は、日畑村を飛び越えて、下流の石原村石原の飛び地の様相を呈する。
そして、この飛び地の距離は、即ち帝釈寺妙見社(現「明治官立名草神社」)と石原字椿色や石原字石原(現日光院)との距離はおよそ1里半を測る。
なお、「八鹿町史 上巻」 八鹿町, 1971では、妙見集落(日畑村妙見)は、寛永9年帝釈寺が奥の院の地に移転復興したことに伴い、配札人も移転し門前村を形成したことに始まると
云う。配札人は全国の信者に「札」を配布して回る人々で、諸国からの信者が妙見山に参篭の折は宿を引き受けたという。寛永9年には11戸、文化13年には33名と云う。
2012/07/29追加:現在では妙見集落は廃村である。僅かに都会の1家族が住するも、もとより配札人などの後裔ではない。
さらに、「養父郡史」などでは、日畑村は慶安元年(1648)妙見社領となり、幕末に至ると云う。 |
石原村は字石原から妙見三重塔に至る南の谷及び妙見山(石原山)一帯を称するものなのである。
もう一度確認しよう。
帝釈寺妙見社(現「明治官立名草神社」)の所在地は(平成の合併前では)養父郡八鹿町石原1755番地6であり、
日光院の所在地は養父郡八鹿町石原450(字十坊)である。
そして、上の地図では、妙見社社地(石原村石原)と石原字十坊(日光院)とはおよそ1里半は離れていることが確認できる。
要するに、おおよそ1里半は離れてはいるが、山麓の石原(日光院)も日光院旧地である帝釈寺妙見社社地も同じ「石原村石原」であるということなのである。
以上が何を意味するのか。
それは、
およそ1里半は離れてはいるが、石原村石原の現日光院と石原村石原の帝釈寺妙見社は「同体」であったことを意味するものなのであろう。
日光院(帝釈寺)の縁起に曰く、
「このころ<古代とも解釈されるがおそらく中世には>当院<日光院>は盛隆を極め、
塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十ヶ寺を有し、
別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院(現在の名草神社の地)を有し、
石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場」であった。
・・・石原山(帝釈寺)は石原の地に栄え、西方(およそ1里半弱の)に奥の院を有していた。
「しかしながら天正五年の羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、妙見尊本殿、薬師本堂のみを残し灰燼と帰し
寺門一時衰微」する。
<中略>
「
高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨は、当院第三十五世を兼務し復興に尽力」し、「
ついで其の弟子の快遍阿闍梨を第三十六世として大いに興隆」「
寛永九年(1632年)には、奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り日光院を妙見山の山腹に移転復興」。
「現名草神社の本殿は、日光院第四十世宝潤によって宝暦四年に完成。<後略>)」
・・・寛永9年奥の院の地に妙見大菩薩を奉持し、奥の院の地に帝釈寺を再興する。
「明治9年7月8日には豊岡懸から『寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを神社に明け渡すこと』との布達が発せられ」「
これをもって名実共にお寺を神社にせよ、との命令」であった。
「<前略>この時、但馬妙見信仰を守るために、九鹿村から奥の小佐谷中の人々や諸国信者、数百人が午前5時に山上に集まり、妙見七尊体尊像を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流
」「(つまり、日光院の建物がそっくりそのまま、明治9年に名草神社にされた。)」
以上で考察すると、現在も帝釈寺妙見社社地(現「明治官立名草神社」)の地番が「石原」であることは、以上の経過の必然であったと思われる。
明治の神仏分離の処置で、
日光院が下山した石原村石原集落から帝釈寺妙見社までは、随分離れてはいるが、実は同じ「石原」の地番を有するのである。つまり、このことは、「妙見社は石原山帝釈寺日光院奥の院であった」あるいは「日光院そのものであった」ことの「証」であることを主張しているのであろう。
なお現日光院の所在地は石原字十坊と云う。明らかに、帝釈寺塔中の10坊に因むものと思われる。
さてここで、飛び地というのは、その2点間に何がしの歴史的繋がりがあるということを主張するものであると云う一例を挙げよう。
現在の行政区で表現すると、現宇治市(宇治川左岸は旧久世郡・右岸は旧宇治郡)南方で城陽市(旧久世郡)と宇治田原町(綴喜郡)との行政界が接する山中に久世郡久御山町の飛び地がある。
この飛び地から久御山町界まではおよそ直線で1里の距離を測る。(以下に示す雙栗社から飛び地まではおよそ2里ほどある。)
この飛び地は三郷山(高さ336m、約28ha)と称され、古くは佐山の雙栗社(椏本八幡宮)の宮地であり
、御旅所が置かれ神輿渡御が行われたと云われる。
近世では佐古・佐山・林の3村(現久御山町)の共有地であった故に、宇治市中に久御山町の飛び地として残ると云う。
なぜそのようなことになっているのかと云うことであるが、それは、
古代、おそらく三郷山に住んでいた住民が佐古・佐山・林方面に移住していった「名残り」であるとの説が有力なようである。
以上、
現宇治市・城陽市・綴喜郡宇治田原町に接する久世郡久御山町飛び地は、雙栗社(椏本八幡宮)の宮地であったというわけで、「飛び地」には切っても切れない「何がし」の関係があるという一例である。
◎妙見山小佐谷弾丸列車軌道
歴史の一齣として妙見山に纏わる逸話がある。それは「妙見山小佐谷弾丸列車軌道」である。
妙見杉を切出し、それを八鹿駅に運搬するために、小佐谷(日畑村)の山中と小佐川沿に八鹿駅まで軌道が敷設されたという。
それは動力を持たないトロッコ程度の軌道と思われ、地元の人々以外には殆ど知られていない軌道のようである。
明治5年いわゆる「上地令」が発せられ、日光院所有妙見山山林は上地される。
明治32年「国有土地森林原野下戻法」発布、翌年日光院は「妙見山還付の申請」をなす。
明治36年還付不可の裁定があるも、直ちに明治政府に行政訴訟を提訴。
明治39年行政訴訟は勝訴、妙見山全山が日光院に回復する。
明治44年「日光院と東京の大宝正鑑が契約を結ぶ。」(日光院サイト)とある。
当然「明治官立名草神社」は妙見山の所有を回復すべく多くの民事訴訟を提訴するも、全て敗訴と云う。
上記の「大宝正鑑」とは不明であるが、要するに、妙見山の杉を八鹿駅まで下ろすために、明治末年には「小佐谷弾丸列車軌道」が敷設されたということであろう。
この弾丸列車は杉の自重で駆け下るもので、動力は持たない軌道であったと云う。
今も日畑村の山中にはこの軌道敷が随所に残ると云う。
軌道は日畑村の山中を廻り、おそらく椿色付近に出、そこから小佐川右岸を下り、八木川と小佐川との合流点に出、八木川を渡川し、八鹿駅に至ると云う。
弾丸列車遺構小佐付近1:小佐川と田圃の間に走る露盤が軌道跡
弾丸列車遺構小佐付近2:同上
弾丸列車遺構合流付近1:小夜川と八木川の合流地点、写真手前は八木川、右が小佐川、
写真中央左に小屋があるがその付近から八木川を渡川したと云う。
弾丸列車遺構合流付近2:上の写真の渡川先が写真中央の石積付近と推定される。(推定)
2006年以前作成:2012/07/29更新:ホームページ、日本の塔婆
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