【4-4】「但馬名草神社」を巡る「俗説」批判
2005/01/20版

はじめに

 帝釈寺日光院妙見宮、延喜式神名帳に記載のある名草神社(式内社名草神社)と現在の名草神社(明治創建名草神社)との関係について、ここでもう一度整理を行うこととする。

 帝釈寺日光院妙見宮と式内社名草神社と明治創建名草神社を「無批判に」あるいは「意図的に」同一のものとする「俗説」が横行している。
この「俗説」が、現在においても一般的に流布していることの背景は、近代日本生成期の初頭に現出した皇祖・現人神などを至上神とするいわば「国家神道」に囚われた一種の「ドグマ」が、現在においても「健在」であるというところにあるのだろうと推測される。

 この俗説は、公的な歴史であるべきはずの「八鹿町史」をはじめ、「名草神社の沿革」、リーフレット「但馬・八鹿 名草神社」、「式内社調査報告 第19巻 但馬国 ・因幡国・伯耆国」 の「名草神社の項」などで、広範に見られるものである。

 今手元に、「名草神社三重塔と出雲大社」兵庫県八鹿町ふるさとシリーズ10、八鹿町教育委員会、1997 の中の 第1章・第4節に「但馬妙見社について」、八鹿町教育委員会・谷本進、という論考がある。
この「論考」をはじめ、上記のいずれの資料も、大同小異で、立脚する「ドグマ」や思考基盤は同一のものである。
それゆえ、このページでは、世に流布している「俗説」をこの「論考」に代表させて、見てみたいと思う。

式内社名草神社と帝釈寺妙見宮と明治創建名草神社との無批判な同一視。

以上の三者は全く別のものであるというのが正しい立脚点である。
即ち
○式内社名草神社は延喜式編纂の頃は養父郡のどこかに存在はしていたのは確かであろう。
しかし、その祭神や鎮座地は、「延喜式神名帳」の「名草神社」に祭神・鎮座地の記載が無いため、現在では不明とする外はない。(鎮座地については石原山<妙見山>であった可能性はあ るも、それは推測が可能というだけのことである。)
さらに、「名草神社」について「延喜式神名帳」以降の消息は全く聞くことがない。つまりは、その後、早い時期に廃絶したものと考えるのが自然な考えであろう。
○一方帝釈寺及び信仰の中心である帝釈寺妙見宮は寺伝では飛鳥期の創建とするが、それは定かではない。
しかし、創建の時期は不詳としても、中世・近世には帝釈寺関係の多くの史料などが残り、帝釈寺妙見宮及び妙見信仰は隆盛であったことは疑う余地がない。
○現名草神社は明治の神仏分離及びその後の国家神道の体系化の国策によって、帝釈寺を簒奪して、新しく作り出された神社であることは、当時の豊岡県などの文献(布告など)ではっきりしている。

「俗説・その1」:帝釈寺日光院妙見宮と名草神社との混同。
 (あるいは「混同」というより、「意図的」な「すり替え」、あるいは「無批判」な「誤用」)

妙見山には名草神社があって、五穀豊穣を祈願するために多くの参拝者があって繁栄していた。」(P.57)
おそらく中世・近世の妙見山のことを念頭に置いた記述と思われる。
しかしながら、中世・近世に妙見山に位置し、繁栄していたのは、帝釈寺および帝釈寺日光院妙見宮であり、決して名草神社ではないのである。
これは、多くの「日光院文書」や「(杵築大社)寛文造営日記」などの古文書などが証明するところである。

以上のように「帝釈寺日光院妙見宮と名草神社とを同一視出来ないことは」誰が見ても明らかであるが、後期国学・復古神道および国家神道に毒された思考では、式内社名草神社が連綿と明治創建名草神社に続くと今の時代でも 「夢想」もしくは「捏造」するようである。
「妙見山には、現在、(明治に創建の)名草神社がある」ということと「妙見山には帝釈寺があり、妙見菩薩が祀られていた」ということは、全く別のことなのである。
「現在、妙見山に明治創建名草神社があるのは、明治維新まで妙見山にあった帝釈寺日光院を簒奪して、名草神社が創建された」という事実を示すだけなのである。
 後期国学や復古神道の思考にとっては、「妙見山には(式内社の)名草神社があったはず」 という「強迫」あるいは「妙見山には(式内社)名草神社が無くては不都合」という「事情」、また「妙見山に名草神社があって欲しい」と云う「願望」などがあり、今でも、明治の神仏分離の処置とほぼ同一の理屈 である「式内社名草神社は、明治に創建の名草神社と同一である」という「付会」をやってのけるようである。

歴史的事実としては「妙見山には石原山帝釈寺妙見宮があって、・・・多くの参詣者があり繁栄していた。」という表現が正しい表現なのである。

同じく
江戸時代の妙見社すなわち名草神社の境内には真言宗石原山帝釈寺(日光院や西住院)が別当寺として存在した」(P.57)
「妙見社すなわち名草神社」とは、これも同じ(以上で述べた)江戸後期から戦前まで流行した「思考」の産物である。
「江戸時代の妙見社=名草神社」ということは全く事実に反することで、「妙見社=帝釈寺日光院」というのが事実である。

「俗説・その2」:式内社としての名草神社が復称

明治5年に妙見宮を延喜式にかれて<かかれて(誤植?)>いる名草神社に復称し、大正3年に県社となった。」(P.57)
「延喜式神名帳」の養父郡に「名草神社」の記載があり、「名草神社」が式内社とされていたのは事実と思われる。
しかし、神名帳に名草神社の記載があることと帝釈寺妙見宮が名草神社であることとは全く別のことである。
そもそも、神名帳には鎮座地の記載も祭神の記載も無いというのが実態である。
さらに
式内社名草神社が、延喜から後代、中世・近世を通じて存在していたことを証明する古文書とか遺跡とかは皆無である。
また、中世・近世において、式内社名草神社あるいはその祭神が帝釈寺妙見宮もしくは妙見際菩薩と同一であるような事を示す文献も皆無である。
中世・近世に於ける神道家の著した「延喜式神名帳考証」においてさえも、式内社名草神社と帝釈寺妙見宮とを関係付けた考証は皆無と思われる。
(彼等は彼等の生きた時代の限界があったにせよ、彼等の考証は「文献考証にまともに取り組んできた」結果なのである。)
つまりは、式内社名草神社は少なくとも中世には「廃絶」していたと考えるべきでなのである。
要するに、石原山帝釈寺妙見宮と式内社名草神社とは全く無関係であると判断するのが自然なことなのである。

だとするならば、「明治5年に延喜式にかかれている名草神社に復称」などということはありえないことと云える。

事実は、神仏分離資料などで明らかなように、「明治5年豊岡県は帝釈寺を名草神社に改称することを命令した。」ということなのである。つまり、復称などではなく、帝釈寺を廃寺とし、「名草神社」と称する神社を 「でっち上げた」というのが事実なのである。

 なお、付言すれば、「大正3年に県社になった。」(県社になる前は「明治6年村社に列」したという事実と合わせ)とは、明治創建名草神社が、「天皇およびその祖霊」を祭祀する「国家の祭祀」の体系及び「伊勢神宮」を頂点とする国家神道のヒエラルキーに組み込まれたことを意味する。 またさらには、その後の「国家総動員」とか「教育勅語」などに代表されるような思想で、国民宣教を行う制度の一翼を担う国策神社に変質したということを意味するのである。 恥ずべきことと知るべきであろう。

 ところで、式内社名草神社とは一体どのようなものだったのであろうか。
今にしては、全く資料もなく、推測するしかないが、おおよそ次のような「想像」も可能性としては有り得ると思われる。
「筆者(谷本)は名草神社は本来は石原山(妙見山)を祭祀する山岳信仰であった可能性を考えたい。妙見の集落から三重塔のある塔平(塔ガナル)を見ると、その向うに石原山がある。つまり塔平に本殿があって西方を参拝すると石原山を祭祀することができる。根拠は無いが、塔平に本殿のあった時代の可能性を考え、名草神社の原信仰が山岳信仰でないかと想像したい。」(P.72)
とある。
なるほど、このような「想像」の方が、後期国学や国家神道の思考から自由であり、可能性としては有り得ることと思われる。
もっとも、以上の一文に後段を私が付け足すとすれば、以下のようになる。
「しかし、この山岳信仰の式内社名草神社は、その後、おそらく平安期には廃絶したものと思われ、中世以降信頼できる古文献には全くその名をみない。」と。
なお、「但馬妙見、日光院の概畧」では「(中世には)・・一山隆盛を極め、・・・山上の奥の院(明治創建名草神社の地)には秋葉神社を奉祀」とある。
延喜の昔、塔平に式内社名草神社があったとして、この寺伝によれば(勿論事実かどうかは不明ではあるが)、塔平には「秋葉社」があったとする。延喜の昔、塔平に式内社名草神社があったと しても、すでに中世には、式内社名草神社は退転し、秋葉社に替わってていたということなのであろうか。

中世近世寺院の一山多院制についての無認識

「俗説・その3」:帝釈寺日光院は妙見宮の別当であった。

江戸時代の妙見社すなわち名草神社の境内には真言宗石原山帝釈寺(日光院や西往院)が別当寺として存在した」(P.57)
という記述がある。
これは中世・近世の帝釈寺の在り方を無視するものである。
「別当」という表現で、帝釈寺(日光院)が神社の管理に与る、もしくは日光院と云う寺院とは別に「神社」が存在することなどを暗黙に示そうとしているが、これは全く実態とは違 うものである。
即ち、妙見宮本殿は帝釈寺の本堂(中心堂)に相当する堂であり、寺院が奉仕する「神社」の存在などどこにも無く、従って帝釈寺日光院が別当であることなどは有り得ないことなのである。

 「【1】 「名草神社」の創建(出自)について」で述べた「一山多院制」について、再び考察し、帝釈寺について推論する。

一般的に云って、中世・近世の有力寺院は「一山多院制」ともいうべき、寺院組織を採っていたのが常態であった。
南都仏教系では、南都諸大寺がその典型例である。
例えば大和興福寺では、今はその盛観は全くないが、明治維新までは、中金堂を中心とした主要伽藍があり、その周囲には多くの門跡・院家・坊舎が集団を成していた。
また、その規模は減ずるも、南都諸大寺のうちの小規模な例として、大和法隆寺にその姿を覗うことができる。
あるいは、南都を離れれば、今でも大和当麻寺などにもその片鱗を見ることができる。
 密教系寺院では、比叡山・高野山・紀伊根来などにおいて、根本の堂塔を中心に数千の坊舎があったといわれ、今はその規模は縮小し、根来においてほぼ壊滅状態ではあるが、今なおその一端を見ることができる。
 またおそらくその性格は多少違うとは思われるも、日蓮宗諸本山や禅宗諸本山に今なお、中心伽藍の廻りに多くの塔頭・寺中などを擁し「一山」を形成している姿を見ることができる。
 以上のような中央の権門寺院や諸宗派を代表する大本山・大寺院などだけでなく、地方でもその多くの例がある。
近江の湖東三山と言われる西明寺、金剛輪寺、百済寺をはじめ、その附近の天台系寺院は今は数宇の坊舎しか残存しないが、現地を訪ねると、数百数十の坊舎跡が累々とした石垣と平坦地 として残り、かっての「一山多院制」の寺院の在り方を偲ぶことができる。

 さらに地方に眼を転じると、例えば、備前では「報恩大師備前48ケ寺」と 通称される密教系の有力寺院の存在が知られる。
いずれも、ほとんどが報恩大師建立と伝える寺院である。(報恩大師自身はほとんど伝説に近い存在であるが、播磨を中心とした有力寺院のほとんどが、法道上人(仙人)開基といわれるのと事情は似ているのであろうか。)
 備前48ケ寺の寺院は中世末の戦乱や近世初期の備前池田氏によるいわゆる寛文の神仏分離(寺院淘汰)もしくは明治維新でその寺観を大いに損ねるが、それでも19.上寺山余慶寺(現存6坊)、22.横尾山静円寺(3坊)、25.千手山弘法寺 、28.御瀧山真光寺、30.大滝山福生寺、38.石井原山千光寺 、1.金山観音寺などにその面影が辛うじて残り、現地を訪れると、本堂から数町離れて、大門(総門・仁王門)が建ち、長い参道があり、参道奥に本堂・塔などの主要伽藍があり、その周りまたは参道脇には 数宇から十数宇の坊舎があり、寺院を構成した形態が見られる。地方でも有力な寺院は概ね、以上のような「一山多院制」であったのが常態であったのである。

 帝釈寺についても、寺伝その他の資料から、現日光院のある石原の地に本堂(薬師堂)、仁王門、多宝塔(この存在は、杵築大社「寛文御造営日記」に見える。)求聞持堂、護摩堂などの主要伽藍があり、その周囲には成就院などの10坊が並び、「一山多院制」をとっていた と推測することができる。そしてその西50町には奥の院を構える・・・それが帝釈寺の寺院構成と推測できるのである。
推測ではあるが、当時、妙見大菩薩はおそらく本堂(薬師堂)に祀られていたのであろう。
さらに想像を逞しくすれば、どのような経緯や霊験などがあったのかは不明ながら、いつしか帝釈寺の信仰は本尊薬師如来から妙見大菩薩に遷っていったのであろう。※※※
 いずれにせよ、この寺院は山号を「石原山」、寺号を「帝釈寺」と称する。
そして、帝釈寺の信仰の中心は、残された多くの資料から、妙見本殿本尊妙見大菩薩であったことは疑いないことであろう。
繰り返すと、帝釈寺とは一山本堂(薬師堂) に妙見大菩薩を祀り、さらに寺院機能を維持する諸堂塔が廻りに配置され、それらを護持するために、成就院などの院坊が建立されていたのである。まさに一山多院制の寺院であったのである。
 ※10坊とは成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊と伝える。
  (因みに現在の日光院のある地即ち帝釈寺のあった石原の地は字十坊と云う。)
 ※薬師堂本堂 平屋建木造本瓦葺 22.46坪
     一山全坊の総本堂なりし時は七間四面なりしが日光院山上に移って維持困難となり、
     享保4年(1719)四分の一に縮小して現在に至る。(「但馬妙見、日光院の概畧」 日光院51世森田祐親)
 ※山上の奥の院には秋葉神社を奉祀という。(「但馬妙見、日光院の概畧」 日光院51世森田祐親)

 天正5年(1577)羽柴秀吉の山陰攻略により、妙見大菩薩本殿、薬師堂のみを残し灰燼と帰す。

 その再興にあたっては、おそらく現日光院のある石原の地での再興が困難な何らかの事情があり、奥の院の地に、日光院が妙見大菩薩を奉持して上り、石原山帝釈寺は日光院1坊として再興される。
 その後江戸期を通じ、明治の神仏分離まで、帝釈寺は妙見山(現在の名草神社)に地に存続する。

 明治の神仏分離で帝釈寺日光院は山を降りることを強制され、かつ上地により寺領などを失い、かって伽藍があった地即ち現在の石原の地 に唯一残っていた坊舎の成就院に合流する。

 以上のように近世の帝釈寺は妙見大菩薩を本尊とする妙見本殿を一山本堂とし、杵築大社三重塔受譲により、塔の再興も果たすが、実際に一山を維持するのは日光院一坊であったため、帝釈寺は日光院と 同義である認識となっていったと思われる。
もともとは「一山多院制」であっても、多院制の実態がなくなり、一坊のみでの寺院を護持することになれば、元の寺号は使用されなくなり、院号で一般的に認識されるのも、自然な流れあるいは仕方の無い流れと思われる。

 例えば、前述の備前48ケ寺の中に4.瓶井山禅光寺という寺院がある。山号は瓶井山で、寺号は禅光寺と号する。
かっては十数坊があったと伝えるが、現在は、禅光寺堂塔と安住院、普門院の2坊のみ(中蔵院は名跡のみ)が残る。
禅光寺山門・本堂・鎮守などは安住院に隣接して配置(仁王門は伽藍入口、多宝塔は離れた山中にある)され、現在では安住院 がその「管理」をしているように見える。勿論普門院も仁王門脇の奥に立派に存続するも、伽藍配置や諸事情から、禅光寺の寺号ははぼ使われず、禅光寺一山の山門である仁王門は禅光寺仁王門とは言わず、「安住院(もしくは瓶井の) 赤門(仁王門)」といい、やや離れた丘の中腹にある多宝塔も本来は禅光寺多宝塔というべきであろうが、管理は安住院が行っている理由で、「安住院多宝塔」と呼ばれる現状となる。

石原山帝釈寺も、近世では、実質的に日光院一坊で護持する形であったため、妙見本殿を含め、帝釈寺は日光院と同義とされるようになったものと思われる。

以上のように
帝釈寺日光院は、元来妙見本殿を本堂とする一山多院制寺院であり、神社を管理する別当のような形では全くない。
そもそも妙見大菩薩は仏体であり、妙見宮自体が帝釈寺日光院本堂であり、妙見社などという神社があった訳ではない。
帝釈寺本堂が妙見宮であり、信仰対象が妙見大菩薩であるために、その安置される堂が妙見本殿と称され、近世に帝釈寺を護持していた坊が日光院一坊であったという 寺院構成なのである。

なお「・・真言宗石原山帝釈寺(日光院や西住院)・・」(「日光院と西往院とをあわせたものが帝釈寺 」)という表現がある。
この根拠は「妙見本殿」の銘と思われるが、第40世宝潤は嵯峨御所西往院兼帯 (「但馬妙見、日光院の概畧」)とあり、この寺院資料が正しいとすれば、単なる著者の錯誤であろう。

明治の神仏分離の実相

「俗説・その4」:帝釈寺は石原村に移転、妙見宮は名草神社と改称。

帝釈寺神仏分離及び明治の名草神社の出自についても、適当な「ごまかし」がある。
明治の神仏分離によって真言宗石原山帝釈寺は妙見村から石原村に移転し、現在の妙見山日光院に引継がれた。」( 「但馬妙見社について」P.57)

以上のような表現は
妙見山には名草神社があって」、「江戸時代の妙見社すなわち名草神社」あるいは「明治5年に妙見宮を延喜式にかかれている名草神社に復称」などという立場に立つものの「限界」であろう。
これが無邪気であるならば、もっと「実相」を良く見ることを願うばかりであるが、意図的であるとするならば、糾弾するしかないであろう。

帝釈寺神仏分離・帝釈寺処置の「実相」はどうであったであろうか。
実相は「妙見山帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離」で見てきたところで ある。

要約すれば、
「帝釈寺日光院妙見宮は明治初頭の神仏判然令で、妙見は神であろうとの嫌疑を受け、おそらく延喜式名草神社の復古の思惑もあり、妙見菩薩は仏体であることを認めた上で、明治5年には名草神社と改称する命令を受ける。 」
さらに「皇祖」などを中心とした天皇唯一神道とも云うべき国家神道化の中で、明治9年、豊岡県は帝釈寺日光院妙見宮は廃寺、仏像仏器を除く土地・建物を国策神社(現名草神社)に引渡すよう命令した。」ということであろう。
「・・・帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事・・・」
(名草神社宛て・豊岡県達)

以上が明治の神仏分離・帝釈寺処分の実相である。
だとすれば、現名草神社は帝釈寺を簒奪し、その後に国策神社として創建された神社であるというしか無いであろう。
従って、適当に「ごまかさずに」表現するならば、「明治の神仏分離及び国家神道化の国策により、帝釈寺は簒奪され、新たに名草神社が創建される。 これが現在の国策名草神社である。帝釈寺は元あった石原の地に移転を余儀なくされる。」と云うのが正しい表現であろう。

名草神社の祭神の諸説と天御中主が祭神であることの意味

「俗説・その4」:自明のこととして、名草彦命を祭神とする。

式内社名草神社の祭神の考証と明治創建名草神社との祭神の遷移の概要は以下の通りである。

「神名帳考証」寛文年中(1661-73)、度会(出口)延経:「日本庶民生活史料集成 26巻」三一書房、1968より
延喜式巻第9  但馬国:131座、養父郡30座」の27座目として
 「○名草(ナクサノ)神社 大名草彦命 旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、

 →式内社名草神社の初期の考証である。但しあくまで文献考証で実地考証ではないと思われる。
  祭神がなせ名草彦命(及びその系統)なのかの根拠かはっきりしないが、
  名草神社という社号と、文献(旧事紀)にある名草彦命の名前との一致で、単に「付会」されたものと推測される。
  (あるいは、考証結果のような伝承があった、もしくは文献があった可能性はあるが、名草神社は早くから廃絶していた
  と思われ、近世初頭にそのようなものがあったとは思われない。いずれにせよ、今では全く不明である。)

「神名帳考証」伴信友、文化10年(1813):
            「神祇大系 延喜式神名帳註釈」岩本徳一校注、神道大系編纂会, 1986.3・・・伴信友自筆稿底本
但馬国:131座、養父郡30座」の27座目として
  「名草(ナクサ)神社  旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、○姓氏録云、大名草彦命、

 →近世後期の時期に、古代に廃絶したと推測される名草神社の考証資料は、何も無かったはずで、
  この考証は、以前の考証を引き写しただけのものであろうと推測するのが自然であろう。

「但馬圀式社考」
名草神社
  考証云、大名草彦命 旧事紀云、建斗米命子建田背命、母中名草姫、但馬国造等祖、
  旧事紀云、饒速日命五世孫建斗米命、本国造智名曽之女名草姫為妻、生六男一女、其一名草彦神也、
  又云、名草彦神者、神皇産霊命之五世孫天道根之後、」

当文献は著者不詳、本輯は朝来・養父・出石3郡のみで、気多・城崎・美含・二方・七美5郡を欠く。元々3郡のみなのかあるいは他の5郡を欠損したのかは不明とする。また当書の由来は
「本書は国幣中社出石神社々務所に委嘱し、同社社務所詰島村賛氏の謄写して贈られしものなり」とする。

特撰神名牒・・・・明治9年脱稿 
  名草神社 祭神 名草彦命
」とあり、続けて以下の文章がある。
   ※以下もおそらく「特撰神名牒」からの転載と思われる。(但し、「特撰神名牒」の原文は未見。)
曰く
今按新撰姓氏録名草彦命は紀直の祖なるを此地に祭る事疑わしきが如くなれど舊事紀火明神五世孫建斗米命の妻は紀伊圀造智名曽中名草姫とあれば其由緒によりて祭れるものと聞えたり。 」

 →以上2つの資料は幕末・明治初頭のものと思われ、これらも、過去の考証を引き写しているものと思われ る。
  大いに復古神道の盛り上がったこの時代でさえ、未だ「記紀」の「天照」や「皇統」崇拝は顔を出してはいない。
  しかし、一方では国学の流行とともに、「記紀」の祭神に付会する説も流布していた形跡もある。

以上は「古典的」な式内社名草神社の祭神とされる神々で、明治創建名草神社では以下のように変化する。

「俗説・その5」:無反省なあるいは何の脈絡もない天御中主など(造化3神・記紀の神々)の登場

昭和31年に名草神社宮司井上憲一氏が著した「名草神社の沿革」
名草彦命 脇座:天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、日本武尊、御祖神、比売神
『寛文注進但馬諸社帳』『豊岡縣考案記』『神社道志流倍』」などを総合すると以上になる。
「養父郡古事記」では
天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、五十猛神(亦ノ名、大屋津彦命)、大屋津姫神、抓(つま)津姫神、
及び己が祖、大名草彦命、の凡七座を祀る。
とする。

名草彦命を主神とし、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の3神および日本武尊、御祖神、比売神 の七神を祀神とすると『兵庫県神社誌』にある。」「但馬妙見社について」P.57

以上の2つの資料に見える祭神と明治初頭以前との祭神との落差は一体どうしたことであろうか。
突然、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神などが祭神として出現するとは、神々とはそんなに「軽く」「いい加減」 なものなのであろうか。

 ここで、造化三神あるいは天御中主とは一体何ものなのかと概括すると以下のようになる。
  ※私は「記紀」など見たこともないので、以下は諸解説から引用。
『古事記』は以下の一文から始まるようである。「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、神産巣日神、此の三柱は、並独身と成り坐して、身を隠したまひき。」と。
その後、特に天之御中主は「ひっそりとお隠れになり」どこにも登場せず、神話も全く無い神という。
『日本書紀』(本文)では、最初に出現した神は国之常立神であるようで、天之御中主は、一段一書四の「又曰」で「高天原にいたと」の記載があるのみと云う。
簡単に云えば、この神もしくは神々は「記紀」の単なる「枕詞」として、存在するということだと解釈できる。
また「延喜式神名帳にも全く登場しない」神とされ、古代にも全く「無視」された神々のようである。
さらに「以上のような実情から、天之御中主は日本古来の祭祀や信仰から採用された神ではなくて、道教の影響から成立した神ではないかという説も有力である」とされる。
※「天の中心の神」とは道教の天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰から生まれたのではないか、道教では北極星が天の中心で、その北極星が神格化され「最高神」とされ、その影響ではないかということのようで ある。

 天御中主に注目したのは、伊勢外宮度会家の伊勢神道が早期の例のようで、近世末に後期国学と復古神道で天地創造神として取り上げるようになって陽の目をみた神と云う。
それゆえ、天御中主を祭神とする例は古代ではおそらく皆無で、中世近世にも祭祀の例はほとんど無いと思われ、「北海道に祭神とする神社が多い」とされることから判断しても、要するに、伊勢・皇祖を中心とする明治以降の「神々の体系化」の中で、各地の祭神に、嵌め込まれた神のようである。そしてこの神を祭神に加えることで、その神社の地位は安泰であり、その権威も国家神道によって保護されるといった構図となるのであろう。
「古事記」の単なる「枕詞」の存在が、国家神道の神々と神社の体系の構築の「道具」に見事に変身したということなのであろう。

 式内社名草神社と明治創建名草神社との祭神の見事な落差は、以上で明らかと思われる。
明治の神仏分離を経て、官により帝釈寺は簒奪され、名草神社が創建される。
それは皇祖に連なる神々と現人神とを唯一正統な神々とする国家神道の下部機構に位置づけられたことを意味する。
明治創建名草神社が村社に列し、さらに県社に昇格したことは、その証左であろう。
明治創建名草神社の祭神も「記紀」を中心とするヒエラルキーに対応し、国家神道に相応しい祭神が追加されたということであろうと考えれば、「この見事な落差」はむしろ当然のこととも云える。

参考に、天御中主の出自の唐突さは、以下を見れば判然とする。
天御中主を主神とする著名な神社は以下と云われる。
 ※一瞥しただけで、その「性格」は判断できるといえるであろう。
・国策によって創建されたと思われる神社
北海道釧路神社:大正6年創建・村社。
東京大神宮:明治3年、明治天皇の裁可により、東京における伊勢神宮の遥拝殿として創建。
信濃松本四柱神社:明治7年松本に神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局、惟神の大道を中外に宣布する)が設立、
 院内に天之御中主、高皇産霊、神皇産霊神、天照の四柱を奉斎、明治12年四柱神社として創建。
・古社ではあるが、国策によって祭神が追加されたと推測される神社
陸奥仙台青麻神社:創建は古いようである、天照・月読も祭神とするようであるので、近世末か明治に祭神が変更されたものと
 思われる。
武蔵秩父神社:古社のようである。中世以降、妙見信仰が中心であった。昭和3年県社から国幣社に列格。
播磨西宮岡太神社:古社であるようであるが、祭神の沿革は不詳。
・妙見大菩薩を天御中主に付会し、妙見宮を強制改宗させた神社
相馬小高神社・相馬中村神社・相馬太田神社(相馬妙見三社)

「霊符縁起に日本三妙見として肥後八代妙見、下総相馬妙見、但馬石原妙見が書かれているという。・・」
「下総千葉妙見は現在千葉神社となっている。」「幕末まで妙見寺と号したが、明治の神仏分離で千葉神社に改称し、県社となった。現在では天御中主を主祭神」としている。(「但馬妙見社について」p.60)

「中世には天台8坊、真言7坊」があり、近世には「神宮寺・増行坊・休楽坊」があったが、
「明治4年神仏分離により、天御中主・国常立を祭神として八代神社と改称され、県社となる。」(「但馬妙見社について」p.62)

ご覧のように、必ず「天御中主が主祭神」、「県社となる」の「文言」が出てきます。
(天照は直接の皇祖であり畏れ多いので)オールマイティで無難な天御中主などを持ち出し、神社を天皇に対する距離によって格付けし、「臣民」を 「皇国史観」で教化し、天皇が神政する国を造る云々の「妄想」に、今だに、この著者は囚われている証拠と思われる。

天御中主を祭神とするとは、いかなる意味なのかは、以上のことを一瞥しただけで、明瞭であろう。