【1】「但馬名草神社」の創建(出自)について
2004/11/07版

はじめに:
明治維新から百数十年が経過する。その年月は長く、明治維新の頃の出来事は今生きている人々にとっては数世代前の出来事となる。
それでも神仏分離で何が行われたかの話になると、例えば「ある種の神社関係者の中で不機嫌になる人がいる」ことは理解はできる。
なぜなら、彼等は国家神道や国家神道が為したことは正しい正当なこととしなければ、それは自己否定につながるということを本能的に知っているからである。残念ながら、戦後60数年になるが、戦前の天皇中心の思想は強力に今の日本に残っていると云うべきであろう。
それだからこそ、明治の神仏分離で行われたことを歴史の事実として明確にしておく必要がある。
ましてや、歴史を「隠蔽する」、「捏造する」、「すり替える」行為があるとするならば、そのことに対して、座視することはできない。

但馬「名草神社」とは一体どのような出自なのかを文献上で探って見よう。

昭和31年に名草神社宮司井上憲一氏が著した「名草神社の沿革」という案内文があ る。ここには由来の記載がある。
(「但馬妙見・観光八鹿と其の附近」昭和31年刊 所収)

先ず始めに
「・・妙見山上に鎮座まします名草神社の由緒と沿革を神社の記録によって抜粋し観光客の参考に資する・・」という前置きで、
始まるが、どのような「神社記録」でその由緒と沿革が語られるのかは興味のあるところである。

地理的な鎮座地については以下のように述べる。
「鎮座地は石原字妙見。ただし『寛文注進諸社帳』『大日本史』『國花萬葉記』」などの諸書は火畑(村)とする。
但しこれは現今の日畑と極めて隣接し、妙見部落は日畑に属し、甚だ紛らわしいものがある。云々」
 なるほど、これは地元民でない部外者にとっては確かに紛らわしいが、
  現在も鎮座地は「石原」であるということは厳然たる事実と思われる。 →→ 「石原」日光院と 妙見社の社地「石原」

祭神は
「『寛文注進但馬諸社帳』『豊岡縣考案記』『神社道志流倍』」などを総合すると主神:名草彦命、配座6座:天御中主神・・・」という。
「総説」として
「當神社は人皇30代敏達天皇14年の春4月養父郡司に野直夫幡彦、紀伊圀名草郡より來り同郡民の悪疫と五穀の病蟲害に苦しむを憐み、其の祖神名草彦命以下諸神を祀りてこれに居りしに創まると伝う。延喜式の制小社に列し中古社運隆盛を極め仏者に習合して真言帝釋寺當社の別當となり祭神中に天御中主神あるによりて、七座の祭神を北斗七星に象つて両部神道を構成し社名を妙見宮と改め真言特有の加持祈祷を以って信仰を得、天下の名社となった。・・・・」との記載が 続く。
「創立」として
「養父郡古事記」として漢文の転載がある。
<「養父郡古事記」:「但馬故事記」八巻の中の第3巻が「養父郡故事記」と称する。>
注)本来であれば、漢文で転載すべきであるが、ここに掲載されている漢文は返り点などがなく、全くの漢字の羅列である。
私などでは読み下し・解意が難しい曲面もあるので「平文」で掲載する。

「人皇30代敏達天皇5年夏6月
若足尼ノ命の甥、高野ノ直夫幡彦を以て、夜夫郡司となす。高野直夫幡彦は、紀ノ国、名草郡の人なり。此の御代、仏を信じ、
国の祭を軽んず。是に於いてか、諸国に悪疫流行し、穀実不登(みのらず)、人多く死し、民之に苦しむ。
天皇詔して、神祇を崇敬す。郡司、高野直夫幡彦は、此の災害を攘(はら)わんと欲す。
 14年夏5月、石原山を祀る。
草菜を拓き、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、五十猛神(亦ノ名、大屋津彦命)、大屋津姫神、抓(つま)津姫神、
及び己が祖、大名草彦命、の凡七座を祀る。
五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神は素盞鳴命の御子にして、大名草彦命は、神皇産霊神の御子なり。」

以上の平文は「平文 但馬故事紀」長岡輝一、村岡町小谷書店取扱、平成10年より<P.78−79>転載。

「名草神社の沿革」に記載された名草神社の由緒については以上の通りである。
宮司自らの著作であるから、当然、公式見解というべき重みのある「由緒」というべきであろう。

問題は、その公式見解の「出典」にある。
日光院サイト日光院自身が指摘のとおり、「総説」は「但馬故事記」のからの転用であることは一目瞭然と思われる。
さらに「創立」として記載している漢文は「但馬故事記」そのものからの転載となっている。
つまり、「名草神社」の「創建」についての記事は「但馬故事記」に全面的に依存するものであろう。

<なお『寛文注進諸社帳』『大日本史』『國花萬葉記』などは寡聞にして不詳>
 ※『國花萬葉記』については、著者菊本賀保、元禄10年(1697)の成立と云われる。
  『寛文注進諸社帳』は調査するも不詳、しかしその名の通り寛文年中のものと思われる。
  『大日本史』はかの徳川光圀編の大著を指すとすれば、近世初頭から明治までの成立となる。
  『豊岡縣考案記』は不詳であるが、豊岡縣の名詞から、明治初頭のものと推定して大過ないであろう。
  『神社道志流倍』は不詳。

ところで、上記「名草神社の沿革」にもあるように、近年では「延喜式神名帳」に記載があるとの記事も流布する。
 ※近世の「神名帳」写本には、その名があるのは確かで、また原本にもあったと解釈するのが妥当であろう。
しかし、延喜式神名帳に記載があると云うことの意味は、延喜式神名帳の編纂の頃、養父郡のどこかに名草神社が祭祀されていたことは確かであろうという意味だけで、 自明の如くその後の時代も存在し続けたということを保証するものではない。
  これに関しては 「延喜式神名帳」と「名草神社」について を参照 。

また「総説」の後段では妙見宮の歴史にふれ、『國花萬葉記』からの引用がある。
しかしながらというより、残念ながらというべきか、これは日光院妙見社の中世近世の様相を述べたものである。
ここでは、名草神社のことは全く述べられず、妙見社のことが縷々述べられるだけであろう。
つまりは、妙見社のことを持ち出すだけでは、妙見社の存在を証明するだけで、名草神社の存在証明には全くなら ないことは自明のことであろう。何時・如何にして名草神社が妙見社に転化したのかなどの考証あるいは証明・裏づけがなければ、何の意味もなさない。

「但馬故事紀」の「神社譚」ついて

さて名草神社の(延喜式神名帳は別にして)唯一の「出所」である「但馬故事記」であるが、その記事にも不審がある。
「平文 但馬故事紀」の<P.78−79>から神社創建の記載を抜粋すれば、その記載様式は以下の通り。

雄略天皇17年:・・・土師民部ら、其祖野見宿祢命・・土田の地に祀り。之を民部神社と云う
敏達天皇5年:・・・14年夏5月、石原山を祀る。  (全文は上述)
推古天皇15年:・・・三宅ノ首(おびと)は、其祖大與比ノ命を、三宅に祀り、大與比神社と申し奉る
天武天皇:白鳳12年・・保奈麻ノ臣は、・・其祖武内宿祢を屋岡丘に祀り、屋岡神社と申し奉る
又、紀ノ臣を大恵保に祀り、保奈麻神社と申し奉る
持統天皇3年:三宅宿祢神床は・・大兵主神を祀り、之を、更杵村大兵主神社と申し奉る

(全文を入手していないので、曲解の惧れはありますが)上記ページに限れば、神社の創建譚では「石原山」を除き、○○神社との社名の明記がある。
しかし「名草神社と想定される箇所」については「石原山を祀る」とあり、「名草神社と申し奉る」などの社名の明記はない。
 なぜ「名草神社」と表記しないのだろうか?。
それは、後述のように「但馬故事記」が「偽書」であり、その成立が近世後半以降であったとすると、偽作された頃、既に「名草神社」とは明記できないような事情があったのだろうとも推測でき る。
例えば「名草神社をでっち上げる」にあたり、作者(偽作者)が現地で隆盛であった「石原山」に付会したため、石原山を祀るとした。
あるいは「名草神社」などの実態が皆無であったような事情があり、さすがに「名草神社と申し奉る」などの表記は出来ず、「石原山を祀る」という例外表記にした。
以上のような理由が考えられる。

「名草神社の由来」の「拠り所」である「但馬故事記」とは何か

結論から言えば
「名草神社の創建の出所」である「但馬故事記」については、世間一般では「偽書」であるという評価が定着している。
 ※偽書の定義、意味は種々あることは承知しいる。
また偽書であっても、古代の「伝承」「記録」などの真実を伝える場合もあるであろうとの説があることも承知している。
しかし百歩譲って、偽書が多少の真実を含むにしても、それが真実であるかどうかを証明することが出来ないのであれば、その説は「都合の良い屁理屈」としか云い様がない 。

●櫻井勉はその著「校補但馬考」で「但馬故事記」に対して、早くから、批判を行い、警告を発している。

「校補但馬考巻之11」櫻井勉、私立但馬聯合教育會、大正11年 の
巻末の「附警」の項に「但馬圀司文書」(但馬故事記)の資料批判<P.657−663>があります。
「・・・近来に至り但馬圀司文書(各郡故事記9巻、古事大観録3巻、各郡神社系譜傳9巻、計19巻)なるものあり、
俄かに現はる其書たる文は古文を模し事は古事を扮し、人をして眩惑軽信せしむ・・・」
「・・・近著の町村史続々之引用するものもあり、・・・寒心せさるへけんや・・・」
という書き出しで始まり、文学博士池内宏の「但馬故事記」の偽作を弁ず論説の紹介がある。
この著では、偽書である例示が示されるが、内容理解には高度の知識が必要と思われるため省略する。
さらに文学博士井上頼圀の大正2年の「但馬故事記」の「杜撰さ」の考証も掲載されている。
これも内容理解には高度の知識が必要と思われるため省略する。
いずれにしろ、櫻井勉によって、早くから「但馬故事記」の信憑性は批判されている。

櫻井勉:
出石藩の儒官の家に生まれ、8歳で弘道館に入学、その後堀田省軒の門を敲く。
元治元年(1864)江戸に赴き、芳野金陵について学問を究め、慶応3年(1867)三重の漢学者に師事する。
明治元年(1868)新政府へ関与し、明治5年、横浜税関勤務を経て、地租改正に従事する。
その後内務省地理局長(気象測候所の創設)、徳島県知事(左遷)、衆議院議員、山梨県知事、台湾新竹知事を歴任、
明治34年内務省神社局長に就任、翌年に退官。
退官後は出石の自邸・有子山園に引き上げ、「校補但馬考」の著作に没頭。大正11年脱稿。
昭和6年88歳で逝去。

最近の文献では、
●「近代の偽書」藤原明著があり、<P.188−211>では
(「偽文書学入門」KASHIWA学芸ライブラリー07、久野俊彦、時枝務編、柏書房、2004、所収)
以下のように「但馬国司文書」は分類され、「但馬故事記」成立の上下限が考証されている。

「但馬国司文書」については、「超古代史」と言われる「偽書」の40数種類のうちの一つに数えられる。
偽書としては
「但馬国司文書」のほか「但馬郷名記」「但馬世継記」「但馬秘鍵抄」(なぜか但馬関係が多い)や
著名な「先代旧事本紀大成経」「秀真伝」「上記」「宮下文献」「東日流外三郡誌」などもあげられている。
<以上の他に、但馬関係では「但馬神社名目抄」「但馬貴類抄」も偽書として存在するようである。>
上記論文では
「但馬国司文書」は「近代擬撰地誌」に分類され、出現年代は江戸中期(上限)から明治38年(下限)と結論付けられている。

解説によると、「但馬故事記」は但馬各郡の始元より当代に至る歴史を編年体で記す。
「但馬故事記」の序等に「但馬国司文書」とある。
成立は天延3年(975)で但馬国学寮の国学頭国博士文部吉士良道等によるとされる。
本書では但馬開拓神は大己貴命(おおなむちのみこと)等とされる。
しかしながら、例えば但馬の開拓神は伝承の最も古いもので大永4年(1524)の出石神社蔵惣持寺文書「沙門某勧進状」に見られるように
天日槍(あめのひぼこ)とするものであり、それゆえ本書は江戸以前には遡り得ない。
従って上限は早くても江戸中期とされる。
下限は小田井神社祠官大石繁正(1863−1938・同家は江戸期、城崎・ニ方の2郡の社家頭であった。)が美含郡南無垣村
藤本和造(1864−1945)の家伝であった本書の写本(現在この写本の所在は未詳)を発見したとされる明治38年前後であろう。
なお明治41年から大石繁正は兵庫県神職会が編纂を企画した神社誌の参考資料とすべく、
「但馬故事記」全8巻を謄写版で継続配布したとされる。

なお私見では、
他の神社のことは寡聞にして不明なるも、現在の名草神社の「創建譚」は、案外、元を遡れば、 上記論文中にある「大石繁正配布の謄写版」あたりに行き着く可能性もあるのではと思っている。

さらに最近の刊行雑誌にも以下が指摘されている。
●「『但馬故事記』五つの謎」、原田実著 の<P.88−93>。(「別冊歴史読本77 古史古伝と偽書の謎」新人物往来社、2004所収)
この論文でも、(既知の事実として)『但馬故事記』は偽書であるとの解説が行われている。
その概要及び偽書としての根拠は以下の様に語られる。

「但馬国司文書」といわれる古史古伝があり、これは「但馬故事記」8巻、「古事大観録」6巻、「但馬神社系譜伝」8巻からなる。
「但馬国司文書」は「但馬故事記」序によると、但馬国の国衙で収集した記録に基づき、
弘仁5年(814)から天延2年(974)に(実に160年間)かけて編纂されたことになっている。
しかしながら、既に大正時代桜井務は「校補但馬考」でこの書が偽書であることを糾弾した。
現存の写本は全て森与一義高なる人物が「近衛大将二条愛徳卿」なる人物から文化7年(1810)に拝領し、
それの書写を繰り返したものとされる。しかし文化年中前後には、「近衛大将二条愛徳卿」なる人物の存在は確認できない。

この書は明治期に但馬小田井県神社(豊岡市)の大石繁正が発表し、兵庫県地方の饒速日命伝承をまとめたものではないかともいわれてきた。
しかし、その実態は、「近世国学の流行を背景に、但馬国の草莽の国学者が、記紀や新撰姓氏録、延喜式などの中央の文献と、その足で集めた神社の伝承から、郷土の上代史を考証・復元しようとした、その成果が『但馬国司文書』※『但馬郷名記』などではないか。 」と論ずる。
 ※『但馬郷名記』も「但馬国司文書」に良く似た内容の古史古伝とされる。
  (上述の「近代の偽書」藤原明著でも「偽書」として上げられる。)
 

注:小田井神社:国作大己貴命を祀る。
延喜式神名帳に記載があるという。 → 近世の写本には縣神社として記載されている。
但馬大田文<弘安年中(1278〜87)>には、小田井社々領31町3反あまり、神供田25町1反あまりとある。
中世には社家(四家)、社僧(4寺・金剛、妙楽、正法、三坂)があったという。
天正3年(1575)焼失、天正年中、羽柴秀吉が神領・神供田を没収、社家社僧は離散。貞享年中(1684〜87)に社殿を再興。

さて本題に戻るが、
「名草神社の沿革」の「沿革崇敬」の項では
延喜式(巻十、神名式下)・・・名草神社
  延喜式神名帳に記載があることは、延喜式の編纂当時祭祀されていたであろうことを証明するだけで、それ以上ではありえない。
  この意味は 「延喜式神名帳」と「名草神社」について を参照 。
特迸神名牒・・・名草神社 祭神 名草彦命・・・
  以下の全文(推測)は、「延喜式神名帳」と名草神社 の 「特迸神名牒」 の項を参照 。
神祇志料 名草神社
  「神祇志料」については、「延喜式神名帳」と名草神社 の 「神祇志料」 の項を参照 。
大日本史 名草神社 伝言祀(?)名草彦命」と紹介している。

以上のほとんど脈絡不明な創建譚を列記したあとで、
「名草神社の沿革」の12ページにおいて、「正しい」「本来」の「名草神社」の「由緒」が述べられている。
曰く
「・・・明治維新社名を名草神社と復称し明治6年村社に列し、大正11年縣社に昇格した。・・・」と。
 思うに、「但馬故事記」が「真」であるという前提に立てば、「復称」であろうが、不幸にも「但馬故事記」は「偽」であり、また以下で明らかになるように「名草神社」の存在が証明できないとなると、「復称」ということは成立しない。
さらに成立しないことを理解していて、「復称」と偽るのであれば、それは「詐称」となる。

一般的にいって、明治維新の神仏分離の「処置」に当って、神社と寺院(別当・社僧)とがある程度はっきりしている場合には
神仏分離の実行は比較的簡単(神仏分離のその意味合い・善悪は別にして)であったであろう。
ところが神仏が判然としない場合、あるいは仏を神などと「強弁」した場合には、大変な混乱をもたらす結果になる。
繰り返すが、「詭弁」で以て、神仏分離を強行した場合、無理を押す通すためにはさらに無理を重ねるはめになる。名草神社のでっち上げもこの典型例であろう。
正直なところ、名草神社を担ぐ側にも、心の片隅には「名草神社」とは明治維新の「復古神道によって新しく創出された神社」という後ろめたい認識があるの も事実であろうと推測する。それは彼らも荒唐無稽な創建譚など信じるほど「幼稚」ではないと思うからである。
しかし、「古代の名草神社が復古した」という大前提を基に、明治維新で創出された神社にとっては、古代から神社は存続し続けていたということは 彼等にとって死活問題であるから、一歩も譲れない重大な問題であろう。
それゆえ名草神社あるいはそれを担ぐ人たちは、どうしても、あるいはいかなる手段を使っても、名草神社は古代から祭祀され、連綿とその伝統を守ってきた形にしなくてはならないと強弁(無理)するのは、自明のことと思われ る。
 彼等にとっては、名草神社の出自は、実は明治維新の神仏分離の処置によるものと認識しているため、何としても、「古代の名草神社」を創作し、「復称」という形に するしかないのだろうと推測できる。
 話は単純で、名草神社及びそれを担ぐ人たちが「名草神社とは、明治の神仏分離で、帝釈寺を追い出し、その建物は引継ぎするが、
仏具・仏器は取り払い、明治政府の政策として、全く新しく創設された神社である」という立場に立ちさえすれば、
出自については何も「怪しげなもの」「詭弁」「すり替え」など持ち出す必要もなく「すっきり」したものになるであろうと思われる。

その他 資料での名草神社の創建の取り扱い

ここでは「名草神社の沿革」以外の文献では、名草神社は「どういう由来とされているのか」について考察する。

「日本社寺大観 神社篇」日出新聞社編、京都:日出新聞社、1933(昭和8年)
の「名草神社」の項では、
祭神:名草彦命。
鎮座の年月詳らかならず。戦国時代その所領多かりしも、元禄中社領30石と云う。(後略)
境内に塔婆1基あり。(後略、詳しく三重塔の紹介がある。)

この図書はほぼ全国の神社を網羅した大著である。
残念ながら、どの様に全国の神社を調査したのかははっきりしないが、かなり戦前の調査としては、正直なものと思われる。
これは強引な付会や「但馬故事記」の記事には影響されず、昭和初期の正直な実態を記載した結果とも思われる。
 
「式内社調査報告 第19巻 但馬国、因幡国 伯耆国」
 (「式内社調査報告」 式内社研究会編纂、伊勢: 皇学館大学出版部, 1976〜、全23巻・別冊1巻の大著)
全国の式内社の現状写真・地図・概要を記載した大著である。
名草神社の項:
「社名:延喜式吉田本に「ナクサ」と訓んでいる。平安末期より本社は神仏習合の傾向を強め、妙見信仰の対象とされる中で、次第に
妙見社・妙見宮と呼ばれるようになる。文安2年(1445)の寄進状や慶安元年(1648)以降の朱印状では、名草の名がなく、
「妙見社」とのみ記される。明治維新後の神仏分離により、明治2年神祇官の調査をもって、名草神社に復した。
しかし一般にはなお妙見さんの名で呼ばれる。」とある。
 後述のように、文安2年と慶安元年以降の朱印状は「名草神社の沿革」に記載されたもので、「名草神社の沿革」を下敷きに
いているものと思われる。
文中の「文安2年(1445)の寄進状や慶安元年(1648)以降の朱印状では、名草の名がなく、・・」とあるが、
これは「・・以降に名草の名がなく・・」(これでは以前にはあったとも解釈される)ではなくて、正確には「以降にも名草の名がなく・・」と
表現すべきものと思われる。
 要するに、本書では、正確に「名草の名は古文書にはない」とはっきり断定をしている。
なお、「延喜式吉田本にナクサ云々」とあるが、
これについては、「延喜式神名帳」と「名草神社」について のページでも言及してい るが、
「吉田本」とは、鎌倉期の写本とされる「吉田家本」か、あるいは、天文元年・2年(1532・33)の卜部(吉田)兼永本・写本のことと思われ、おそらくどちらか(両方とも)の写本には、「名草神社」の記載があるものと 推測される。

由緒として
「由緒:社伝等によれば、本社は敏達天皇14年の5月に、養父郡司で、紀伊圀名草郡出身の野直夫幡彦が、当時流行した悪疫に苦しむ民を憐んで、名草彦命など故郷の祖神を、当地の石原山(妙見山)に祀ったのを創建とする。以下略・・・」 と述べる。

 以上、この報告書では、由緒(創建譚)は「石原山に祀る」との文言があり、これから判断すると「但馬故事記」を明らかに参照していると
思われる。
また「名草神社の沿革」(昭和31年の刊行)と本書(昭和51から刊行を開始)との前後関係、
および「瓜二つの言い回し」から判断して、本書は「名草神社の沿革」をも参照している可能性が高いものと思われる。

※「式内社調査報告」
「序並びに解題」によると、数多くの神社研究者を動員して、調査項目を統一して行ったようであるが、如何せん国学院大学・皇學館大學の関係者の主導であった と思われる。この調査目的は、相変わらず懲りもせずに、基本的に皇国史観に基ずく動機と思われる。
但し、「式内社研究において最も参考となる」「特選神名牒」は、その根拠となった地方からの「書上げは当時の政府の廃仏毀釈、神仏分離の方針に迎合して行われた虚偽の介在することが推測され」との批判に立っていることは、一定の進歩というべき なのか、それとも「特選神名牒」の杜撰さにあきれたから見放したというべきなのは判然としない。
「序並びに解題」は式内社研究会々長、国学院大学名誉教授、瀧川政次郎、「凡例」は式内社研究会理事長、皇学院大学教授、田中卓 著

「八鹿町史 上巻」 八鹿町, 1971(昭和46年)

第4章日光院文書に見る但馬
第1節:但馬妙見では「圀華万葉記」に基づき、妙見、日光院、名草神社の由来などが語られる。
日光院については、日光院縁起に沿った説明がなされる。
しかしながら、名草神社については、名草神社宮司井上憲一氏が著した<公式見解である>「名草神社の沿革」の中で
その創建の「出所」とした「但馬故事記」には一言も触れられてはいない。
(不審なことと思われる。)
 その代わり、新しく「圀華万葉記」や「延喜式神名帳」などを持ち出す形になっている。
「(名草神社の)社家では、『延喜式』(巻10神名式下)によって祭神を「名草彦命」とし・・・」とあり
延喜式にその創建を求める立場と思われる。
結局、この著書では、名神神社の由来や創建は何であるのかについては、良く分からない結果になっていると思われる。

さらに、もう一つの特徴は「中世を通じ神仏習合は一般化し」「帝釈寺が妙見社の別当として・・・祭祀を行ってきたことは事実である」と
いう主張がなされていることである。
帝釈寺が妙見社の別当であったとすることの論証の根拠の一つは
一般論として本地垂迹説により神社境内に神宮寺が建立されてきた事実がある。
(妙見社と帝釈寺の関係も神社・神宮寺の関係であろうと暗黙の了解としていると思われる。)
もう一つは近隣の具体例として出石神社と神宮寺・惣持寺、赤淵神社と神淵寺との関係と同じで
帝釈寺は妙見社の別当であったと断定をしている。
一般論としてはその通りであろうし、(出石神社は寡聞にして分からないが)、赤渕神社については今現地の様子を拝見すると
近世には別当として神淵寺が存在した様子を見てとることができる。    →→ 但馬赤淵神社(播磨・丹波・但馬・淡路の塔跡)

 しかしながら以上を以て、妙見社の別当として帝釈寺があったということの根拠にはならない。
(資料の手持ちがなく、また調査をした訳ではないが)、帝釈寺本殿(本堂とか金堂に相当)が一般には「妙見社」として
認識されていたのだろうと推測する。
帝釈寺本殿とは現在の名草神社本殿として現存する堂宇であるが、
その帝釈寺本殿が妙見社そのものであったというのが実態であったと推測される。
即ち明確に神社として祭祀されていた神社に、(本地垂迹説に基づき)社僧として奉仕する寺院が建立された場合は
神社と別当の関係といえるのであろうが、帝釈寺の場合はそうではないと考えられる。
帝釈寺の実態は以下であろう。
 帝釈寺本殿本尊は妙見大菩薩であり、帝釈寺伽藍全体つまり帝釈寺そのもの、もしくは帝釈寺本殿そのものが妙見社とよばれ、
その本尊妙見大菩薩が信仰されていたのが帝釈寺であろう。
要するに、妙見社と帝釈寺の関係は、例えば赤淵神社と別当神淵寺との関係などとは違い、
妙見社そのものが広義では帝釈寺、狭義では帝釈寺本殿(本堂)であったということであろう。

一般的にいって
有力な寺院は多数の僧侶(坊舎)で構成され、その中心として一山本堂(本殿)を構え、その廻りには多くの堂塔及び坊舎を持つ。
特に密教系の有力寺院の近世以前の一般的形態は以上のような寺院構成であったといえる。
帝釈寺も近世以前の有力寺院の一般形態である、一山一本堂制、一山多院制を採る寺院であったと考えて差し支えないであろう。
以上の意味で、帝釈寺は寺院そのものであったといえるであろう。

 素直に考えれば、帝釈寺はまぎれもなく寺院であったと考えられるが、妙見大菩薩を抹消する立場、妙見社を名草神社と言い包める立場からは帝釈寺と妙見社は別 のものであり、帝釈寺は妙見社の別当であったなどという主張を持ち出す。
「名草神社の本殿の両方に作られた火燈窓には寺院の様式が取り入れられており・・・」と何か不思議な現象のように語るが、
何も不思議なことではない。本殿は本堂に相当する仏堂であったから寺院の様式が取り入れられているのは当然のことであろう。

「但馬・八鹿 名草神社」八鹿町教育委員会、平成11年<小冊子>

由緒に関しては、「但馬故事記」への言及はないが、「但馬故事記」や「名草神社の沿革」と同一の表現になっている。
さらに
「今から1000年前に書かれた延喜式に神社名があることから式内社といいます。また戦前は県社でした。」
との付け加えがある。
 ※因みに県社とは明治の神仏分離の延長線上の国家神道の制度であり、不幸にして、国家神道を通じて「臣民」を国家に従属させる
  一翼を担った制度であろうと考えられる。
  私は戦後生まれですから見たことはないが、国家神道の地方地方の神社は、かの「大東亜戦争」に「出征する兵士」の
  「武運長久を祈願する」門出の地に選ばれたと聞く。
  県社であるなどと「誇る」のは、自らが「国家神道の道を歩み、天皇への忠誠を強い、臣民を死地の追いやった」「国策神社」であることを
  「誇る」ようなもので、多少なりとも「恥を知るべし」と思うばかりである。

中世・近世の文献

名草神社の中世近世の姿として「名草神社の沿革」の中葉には次の古文書が紹介されている。

文安2年「山名宗全寄附状」:但州妙見社宛て
慶安元年「朱印状」:妙見社宛て、貞享2年「朱印状」:妙見社宛て、享保3年「朱印状」:妙見社宛て、延享4年、宝暦12年、天明8年、天保10年、安政2年「朱印状:: 各々妙見社宛て
寛延4年「本殿修造棟札」西往兼室日光院現住寶潤:妙見宮修造・・・
 の「古文書」などである。
何のことはない、実はこれは「日光院文書」と言われる古文書にほかならないものである。
「名草神社の沿革」の冒頭でいう「名草神社の由緒と沿革を神社の記録によって抜粋し」とは、およそ縁遠いものであろう。
紹介されている古文書は「名草神社」の記録ではありえず、「妙見社」の記録であることはどう見ても明白なことであろう。
つまり、
以上が意味することは、現在伝えられている古文書では「名草神社」の存在を証明するものは無いということであろう。
かくして、
名草神社の存在を示す唯一(延喜式吉田本は別にして)の拠り所は、「偽書」とされる「但馬故事記」の記載しか無いのは実態であろう。

「八鹿町史 上巻」 八鹿町, 1971(昭和46年)の
「第2節日光院にのこる武家文書」では以下の解説がなされる。
日光院に残る古文書は107通で東大資料編纂室所蔵の写しを加えると136通を数える。
年紀は文永5年(1268)から天正7年(1579)に渡る。
 ※これ等の古文書に記された神仏の名称はほぼ「妙見、妙見大菩薩」であり、宛先の名称はほぼ「日光坊、日光院、成就院」などである。
 「名草」というような表記は皆無なのである。

明治維新の文献

最後に「名草神社の沿革」の後段ですが、そこには以下の古文書の紹介がある。

明治9年及び明治10年「豊岡縣公文書」:「名草神社」の名称が出てくる。
明治10年7月26日兵庫縣権令の「達」:名草神社宛
「本年5月2日付ヲ以テ元帝釋寺號再稱聞届成就院ヘ合併成就院號ヲ廢候云々相達置候處右ハ帝釋寺ヲ成就院ヘ合併シ同院相立候誤リニ候條其他最前之通可相心得事」

以上のように、明治維新の神仏分離の処置で「名草神社」が「創建」され、初めて、偽書でない「公文書」に名前が登場するということであろう。
要するに、明治時代に入って初めて、明治の神仏分離の処置の時、確実な「名草神社」が登場するということであろう。

→詳細は「但馬帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離」のページを参照 。
  帝釈寺に於ける神仏分離とは、官による寺院の収奪であり、その寺院を神社に改竄し、名草神社が創作されたということであろう。

結   論

1、名草神社の創建(由緒)の最大の拠り処は、延喜式神名帳を別にすれば、「但馬故事記」と思われる。
  (延喜式紙神名帳の記載の有無で証明できることは、延喜式の編纂当時に祭祀されていたであろうということだけで、
  それ以降の存在を証明するものではないことは自明のことであろう。)
2、ところが、最大の拠り処である「但馬故事記」は「偽書」であるとされる。
3、「延喜式の近世の写本」以外の「古文書」で「名草神社」の存在を証明するものは、現在のところ全く存在しないと思われる。
4、延喜式神名帳以外で「名草神社」の存在が確かなのは、明治の神仏分離の処置以降でしかない。
5、中世・近世の国学者・神道家の延喜式神名帳の考証の意味および明治維新前後の名草神社の付会(こじ付け)については
  後章(別ページ)を参照。

以上、名草神社が妙見社であったことが証明されない限り、名草神社の「復称」などということは有り得ない。、
また、延喜式編纂以降に、名草神社の存在の証明がなされない限り、現在の名草神社とは「明治の神仏分離の処置で創建された」 全く新しい国策神社であると断ぜざるを得ないであろう。