Title9-3.GIF (2758 バイト) クロニクル 織田信長 天下布武 探究テーマ史 #204  


 ホーム 日本1559年  戦国時代(「織田信長 天下布武」前史) 豊臣秀吉 天下統一 戦国時代の群雄

尾張の織田信長は家督争いの混乱を収めた後、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大。戦国の世を収めるため「天下布武」を唱えた。足利義昭を奉じて上洛し、後には足利義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。敵対する三好三人衆、松永久秀、武田勝頼などを破り、比叡山、一向一揆を武力で制圧した。しかし、天正10年6月家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。戦国の三英傑の一人。



 ■ クロニクル「織田信長 天下布武」  
 年 タイトル 
1559年
(永禄2年)
 信長、上洛して将軍足利義輝に謁見
1560年
(永禄3年)
 信長、桶狭間で今川義元を討ち取る
 1567年
(永禄10年)
 信長、斎藤龍興を破り美濃を平定、岐阜城に移る
 1573年
(元亀4年)
 信長、将軍義昭を追放;室町幕府滅亡。浅井・朝倉を滅ぼす。
1577年
(天正5年)
 信長、長篠の戦で武田勝頼を破り、上杉謙信と北陸でぶつかる。
1582年
(天正10年)
 信長、武田を滅亡させ、上杉・毛利を抑える。


 ■ 織田信長 天下布武 年表  
 年 月  出来事 
1523年
(大永3年)
7月  毛利家当主(元就の甥)が9歳で病死。一部家臣の推挙により、元就が当主となる。相続争いが生じ、異母弟相合元綱を押す一派を粛清(相合殿事件)。
     大内方と細川高国方の遣明船が明の寧波(ニンポー)で武力衝突事件を起こす。以後、大内氏が日明貿易を独占。*2
1524年 2月  甲斐 武田信虎、関東管領上杉憲房を支援し、相模へ進攻。*2
     :
1528年    大内義興が死去。大内義隆が家督を相続、九州地方へ進出。豊後の大友氏、筑前の少弐氏らと争う。*2
1531年 6月  細川澄元の子である細川晴元が細川高国を倒し、高国は自害。*2
1532年
(享禄5年)
6月  三好元長の勢威を恐れた細川晴元や一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、元長が殺害される。元長の嫡男長慶は阿波へ逃げる。
     細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり、享禄・天文の乱となる。
1535年 8月  伊勢宗瑞(北条早雲)の嫡男北条氏綱と今川氏親の嫡男今川氏輝が甲斐の武田信虎を破る。*2
  12月  三河 松平清康、織田勢との攻防最中に尾張守山で殺害される。*2
1536年 6月  今川氏輝が急逝し、後継者争い勃発。今川義元が勝利し、家督を継ぐ。*2
  7月  延暦寺僧徒と近江守護 六角定頼が、洛中の法華宗徒(日蓮宗)を襲い、二十一本山を焼く。(天文法華の乱)*2
     大内義隆が少弐氏を滅ぼし、北九州の覇権を握る。*2
1537年    駿河 今川義元、織田信虎の娘を正室に迎える。*2
  3月  安芸 毛利元就、出雲守護代尼子経久の生田城を攻め、落城させる。*2
  8月  尼子経久、周防・長門の守護大名 大内義隆の石見大森銀山を攻略。*2
1538年 7月  出雲 尼子晴久、播磨・備前守護大名 赤松政村(晴政)を破る。*2
  10月  古河公方 足利晴氏と北条氏綱が、安房 里見義堯(よしたか)と足利義明を破る。*2
1539年 1月  阿波 三好長慶、京に入り細川晴元に仕える。*2
  5月  周防・長門・石見・安芸などの守護大名 大内義隆、尼子経久の石見大森銀山を攻略。*2
1540年 5月  甲斐 武田信虎、信濃の諸城を攻略する。*2
  6月  尾張 織田信秀、三河 安祥(あんじょう)城を攻略する。*2
  8月  尼子晴久、大内義隆の石見大森銀山を攻めるが失敗。*2
  10月  毛利元就、安芸で尼子晴久を破る。*2
1541年 6月  甲斐 武田晴信(信玄)、父の信虎を追放し家督を継ぎ、甲斐守護となる。*2
1542年 閏3月  大内義隆・毛利元就、出雲 尼子晴久を攻める。*2
  7月  武田晴信、諏訪頼重を甲斐に幽閉し、自害させる。*2
  8月  斎藤道三(利政)、美濃守護 土岐頼芸(よりのり)を尾張に追放する。*2
  9月  武田晴信、諏訪(高遠)頼継を破り、諏訪を平定する。*2
1543年 3月  大内義隆・毛利元就、出雲富田城の尼子勝久を攻めるも撤退。*2
  8月  種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝える。*2
1544年 9月  織田信秀と美濃守護 土岐頼芸、越前 朝倉教景(のりかげ)が連携し美濃稲葉山城の斎藤道三を攻めるも反撃をうける。*2
1545年 9月  織田信秀、三河 安祥城で岡崎 松平広忠を破る。*2
 1546年
(天文15年)
8月  畠山政国(河内守護)と遊佐長教(河内守護代)が細川氏綱を援助し、将軍足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せたが、晴元配下の三好長慶らが反撃し、義晴は将軍職を嫡子の義輝に譲った。
1547年
(天文16年)
6月  武田晴信、分国法「甲州法度之次第」を定める。2
  8月  三河の戸田康光、松平広忠の子竹千代(後の徳川家康)を奪い、織田信秀におくる。*2
1548年
(天文17年)
2月  武田晴信、信濃の上田原で北信濃の武将 村上義清に敗れる。*2
  7月  武田晴信、塩尻峠で信濃守護 小笠原長時を破る。*2
10月  長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったためかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城する榎並城を包囲した。
  12月  長尾晴景(景虎の兄)は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。
  この年  斎藤道三と織田信秀が和睦。道三の娘 濃姫(帰蝶)が信秀の子 織田信長の正室となる。*2
1549年
(天文18年)
4月  江口の戦い;三好長慶の本隊が出陣、晴元・政長が三好政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長は江口城に布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らに別府川に布陣させた。六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名を討ち取る。
  6月  今川勢が織田氏の安祥城を攻め、織田信広を拘束。信広と松平竹千代の人質交換が行われる。*2
  7月  細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に逃れた。長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し入京。6日後に氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲。
     フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸(キリスト教伝来)。*2
1550年
(天文19年)
2月  守護上杉定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。
  7月  武田晴信、信濃 林城で小笠原長時を破る。*2
  9月  武田晴信、村上義清の砥石城を攻めるも大敗。*2
  11月  三好長慶、京に入る。*2
     足利義輝は陣を構えていた中尾城を自ら焼き、近江 堅田に退く。*2
  12月  長尾一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。
1551年
(天文20年)
1月   景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利した。
     さらに8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったことなどから助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げた。
  3月  三好長慶は、遊佐長教の仲介で伊丹城を開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。
     義輝は、長慶を二度にわたって暗殺しようとしたが、未遂に終わっている。
  5月  武田家家臣 真田幸隆らの調略により砥石城が落城。*2
  7月  相国寺の戦い;三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶は松永久秀とその弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破る。
  9月  周防守護代の陶隆房(晴賢)ら謀反を起こし、大内義隆を討つ。義隆自害。(大寧寺の変)
  12月  大内義隆が謀反により死去したため、将軍足利義輝より、尼子晴久が山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた。
     豊後 大友宗麟、ザビエルにキリスト教布教を許可。*2
1552年
 (天文21年)
1月  義輝を支援してきた六角定頼が死去した。後継者の六角義賢は、義輝と長慶の間に入り、和睦を成立させた。幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になる。
     長尾景虎は、相模国北条氏康により領国を追われた関東管領上杉憲政を迎え入れ、御館に住まわせた。これにより北条氏康と敵対関係となった。
  3月  尾張 織田信秀が没し、嫡男 信長が家督を継ぐ。*2
     豊後 大友宗麟の弟 大内義長が陶晴賢らが主導する大内氏を継ぐ。大友氏が九州で勢力を強める。*2
  4月  三好長慶は、細川晴元に与する波多野元秀の八上城を包囲したところ、三好方として従軍していた池田長正や芥川孫十郎らが離反した。やむなく5月23日に包囲を解いて越水城に撤退した。
  8月  長尾景虎は関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに沼田の南方 平井城・平井金山城の奪還に成功する。
  9月  景虎は初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁。天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。堺を遊覧、高野山へ詣で、京の臨済宗大徳寺で受戒した。
  10月  三好長慶は再度丹波を攻め、細川晴元に味方する諸将と戦った。
  この年  武田晴信(後の信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時、村上義清らが長尾景虎に救いを求める。
 1553年
(天文22年)
 2月  長慶・義興父子は足利義輝と面会。このとき長慶暗殺の噂があり、長慶は淀城に逃れた。丹波で細川晴元との衝突もあったことから、長慶と義輝が会談し、義輝側近で和睦反対派の上野信孝らから人質をとる。
  3月  足利義輝と三好長慶の和睦が破れる。義輝は東山霊山城に籠城、晴元と結んだ。帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破る。
  4月  長尾景虎は村上義清らの亡命を受け入れ、武田晴信討伐を決意し、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。
  7月  東山霊山城の戦い;長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走。長慶は、将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京。
     以後5年にわたって義輝は近江朽木に滞在することになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。
  8月  三好長慶の弟実休が細川晴元の実弟(異説あり)である阿波守護細川氏之を討って事実上阿波一国を奪い、畿内の長慶と阿波の実休は別々の支配体制を構築することになるが、実休は兄との緊密な連携に努め、軍事面ではその指揮に従って活動している。
     以降、永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨など8か国に及んでほか、近江や伊賀、河内、若狭などにも影響力を持っていた。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。
     30日 布施の戦い;景虎の率いる長尾軍は晴信の率いる武田軍の先鋒を撃破。
  9月  1日 第一次川中島の戦い;景虎は八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻して荒砥城や虚空蔵山城を攻め落とし、青柳城へ放火した。これに対し晴信は本陣を塩田城に移し、決戦を避けた。その後、武田軍と長尾軍との間では、武力衝突は起きず、膠着状態が続いた。長尾軍は9月に越後へ引き上げた。
1554年
(天文23年)
   長尾景虎の家臣北条高広が武田と通じて謀反を起こす。
     北条城の戦い;景虎は自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した。この時、北条高広は帰参を許された。
  3月  武田(甲斐)、北条(相模)、今川(駿河)の三者間で婚姻が成立。甲相駿三国同盟。*2
  5月  毛利元就、安芸の諸城を攻撃。*2
  この年  尾張 織田信長が知多の水野信元を支援、今川方の村木砦を攻略。*2
 1555年
(天文24年)
   織田信長、斯波義銀(よしかね)を守護に担ぎ尾張守護代 織田信友を清洲城で討ち取る。*2
4月  第二次川中島の戦い;長尾景虎は武田軍迎撃のため、再び信濃国へ出兵、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙。裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制。武田軍と長尾軍の双方のにらみ合いは5か月に及び、最終的に駿河国の今川義元の仲介の下で和睦。
  10月  厳島の戦い;毛利元就軍4千が奇襲により、陶晴賢軍2万を破る。晴賢は自害。*2
  閏10月  今川義元の調停により、長尾景虎、武田晴信が北信濃より撤退。*2
1556年
(弘治2年)
3月  景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果て、突然出家・隠居することを宣言。
  4月  美濃 斎藤道三、息子の義龍と戦い敗死。*2
  5月  毛利元就、吉川元春が出雲の石見銀山で尼子晴久を破る。*2
6月  駒帰の戦い;景虎は天室光育に遺書を託し、春日山城をあとに高野山に向かう。その間、武田晴信に内通した家臣・大熊朝秀が謀反を起こす。天室光育、長尾政景らは、急いで景虎に知らせた。周囲からの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破った。
1557年
(弘治3年)
2月  武田晴信は盟約を破り長尾軍の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされ出兵が遅れた。
  4月  第三次川中島の戦い(上野原の戦い);雪解けの始まった頃、北信濃に進攻してきた武田晴信に対して、景虎は再び川中島に出陣。長尾軍は高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣し、破却されていた旭山城を再興して本営とする。
1557年
(弘治3年)
5月  景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍。武田軍は、深志城から先へは進まず長尾軍との決戦を避ける。
  7月  武田軍の別働隊が長尾軍の安曇郡小谷城を攻略。長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃。
  8月  武田軍と長尾軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いにはならず、長尾景虎は越後へ、武田晴信は甲斐へ引き上げる。
1558年
(永禄元年)
 将軍・義輝から上洛要請があり、長尾景虎は翌年に上洛することを伝える。
     長尾軍は上野国経由で下野国に侵攻、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱し、景虎は引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦。
11月  河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された安見宗房(直政)が畠山高政を紀伊国に追放。
     織田信長、弟 織田信勝を清洲城で殺害。
     将軍足利義輝、近江守護 六角承禎(義賢)らの仲裁により三好長慶と和睦。*2
  この年  足利義輝が長尾景虎と武田晴信に和議を促す。*2
     ■■■以上、「織田信長 天下布武」前史=「戦国時代 前期」■■■以下「戦国時代 後期」
1559年
(永禄2年)
2月   尾張国清洲城主織田信長、上洛して将軍足利義輝に謁見。
  3月  高梨政頼の本城中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。
  4月  越後国春日山城主長尾景虎(上杉謙信)、。再度上洛して正親町天皇や将軍足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた。
  5月  河内で畠山高政が追放されたため、三好長慶は松永久秀を和泉国に出兵させたが安見方の根来衆に敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流して6月26日に2万の大軍で河内に進出した。
  8月  高屋城、飯盛山城などを落とし、高政を河内守護として復帰させ、安見宗房を大和国に追放して自らと通じた湯川直光を守護代とした。
  8月  宣教師ヴィレイラ、豊後国府内から上洛、布教。
  この年  前年永禄元年、足利義輝と三好長慶の戦いは長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた。このため、足利義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名たちが動揺したのを心配して、その状況を確かめるために景虎が越後から上洛に踏み切ったのではないか、との見方がある。
     長尾景虎と足利義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の違いが大きく実現しなかった。
   大友義鎮(宗麟)、豊後府内を開港、外国商人と交易。宣教師アルメイダ、病院を建てる。
1560年
(永禄3年)
1月  幕府、宣教師ヴィレイラに京都布教を許可。
5月  今川義元、駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた大高城を救うべく、周辺の織田方諸砦を松平元康らに落とさせる。
     桶狭間の戦い;前哨戦に勝利した報せを受けた今川義元は、沓掛城で待機していた本体を大高城に移動させる途上、桶狭間で休息中に織田信長の急襲を受け、首をとられた。42歳。
     今川家の人質となっていた松平元康(徳川家康)、駿河から11年ぶりに三河国岡崎城に帰る。
   8月  越後国守護代長尾景虎(上杉謙信)、関東管領上杉憲政を奉じ上野国へ出陣。甲相駿三国同盟の一つ今川氏が崩れたことにより、長尾景虎は、相模の北条氏康を討伐することを決断し、長尾景虎は三国峠を越えて、上野国の諸城を攻略。厩橋城(後の前橋城)を関東における長尾軍の拠点とし、この城で、長尾景虎は越年した。この間、景虎は関東の諸将たちに対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。
  9月  長尾景虎の動きに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた北条氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城し、籠城の構えをとった。
  10月  浅井久政が隠居し賢政(のちの長政)が浅井氏の家督を継ぐ。久政を隠居させ、浅井氏の方針を転換して六角氏と対抗。
  12月  尼子晴久死去。晴久の嫡男・尼子義久は将軍・足利義輝に和睦を願うも、この和睦を毛利元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、出雲侵攻を開始
   この年  甲斐国釜無川の信玄堤が完成。
1561年
(永禄4年)
 信長、尾張を統一(一向宗長が支配する島附近は除く)
   3月  長尾景虎、北条氏政の小田原城を攻囲。関東の飢饉で景虎方の一部国衆勢力が撤兵し、また武田信玄が信濃国川中島に海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制。これらにより、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任し、上杉政虎を名乗る(以下、上杉謙信と表記)。
     三好長慶、義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎える。
   閏3月  長尾景虎、上杉憲政に関東管領職を譲られ、鎌倉八幡宮で上杉政虎を名乗り、管領就任式を挙行。
  5月  三好長慶、将軍義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津普門寺へ迎え入れる。
  8月  第四次川中島の戦い;上杉謙信は関東から帰国後、1万9,000人の兵を率いて川中島へ出陣した。
   9月  上杉謙信と武田信玄、信濃国川中島で激闘(第四回川中島の戦い;八幡原の戦い)。激戦となり、両軍死者多数。信玄の弟信繁や軍師山本勘助らが戦死。
  11月  武田軍は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始、上杉謙信が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これを受けて謙信は同月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦い、敗北した(生野山の戦い)。
     上杉謙信は古河御所付近から一時撤退。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。謙信は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、難攻不落の山城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、謙信は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる;唐沢山城の戦い。
  12月  上杉謙信は将軍・足利義輝から一字を賜り、諱を輝虎と改めた。政虎の名乗りは一年に満たない期間であった。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。
     関東の諸将たちは、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。武田信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす北条氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗した。
1562年
(永禄5年)
1月  信長、松平元康と清洲同盟を締結。
  2月  北条氏康・武田信玄が上杉方の松山城を攻め落とす。上杉政虎、救援に向かうも間に合わず。*2
  4月  将軍義輝を追放し京都を占領中の六角義賢、土一揆の蜂起で徳政令を発布。
     上杉軍は上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。
  7月  大村純忠、ポルトガル人に肥前国横瀬浦を開き、教会を建てる。
     毛利元就、出雲国の尼子義久の諸城を攻略。
     上杉謙信は越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし、謙信が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、神保長職を降伏させた。
  11月  上杉軍が関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受けた。信玄からの援軍を加え、5万人を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く上越国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、謙信は松山城を救援するため峠越えを強行。
  12月 上杉謙信は12月には上野沼田城に入ったが、間に合わず翌年2月松山城は落城した。
1563年
(永禄6年)
1月  毛利元就、安芸国の銀山を朝廷御料所に献上。
  2月  北条氏康・武田信玄、上杉方の武蔵国松山城を攻略。上杉政虎、救援に向かうも間に合わず。
     上杉謙信は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城(現 加須市)を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城(現 行田市)の成田長泰を降伏させた。
  4月  上杉謙信は下野に転戦して、唐沢山城(現 佐野市)を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城(現 小山市)も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城(現 結城市)の結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。
  7月  松平元康、今川氏真と絶交し、家康と改名。
     イエズス会宣教師ルイス=フロイスが来日。のち織田信長に謁見。*2
  8月  三好長慶の嫡子義興が22歳で早世。長慶は十河一存の息子で甥の重存(義継)を養子とした。
     毛利元就の嫡男・隆元が不慮の死。隆元の嫡子・幸鶴丸(輝元)が家督を継承。
   三河国に一向一揆蜂起。親今川派の徳川家臣も加わり、家康鎮定に苦しむ。
  この年  上杉謙信は、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えた。
     閏12月、上杉謙信は上野和田城(現 高崎市)を攻めた後、厩橋城(現 前橋市)で越年。
1564年
(永禄7年)
1月  安房国里見義弘、北条氏康に下総国国府台で敗退。
  2月  松平家康、三河の一向一揆を鎮定。
     唐沢山城の戦い;三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し、唐沢山城に攻め寄せた。この時の戦いは10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも、最大の激戦となる。謙信は総攻撃をかけるも、昌綱は徹底抗戦。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。謙信は足利義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れる。
  3月  上杉謙信、上野国和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国。
  4月  上杉謙信は、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城(現 つくば市)を攻略。
     蘆名盛氏軍が武田信玄と手を結んで越後へ攻め込むが、上杉軍は蘆名軍を撃破。その間に武田軍は信濃国野尻城(現 水内郡信濃町)を攻略したが、上杉軍はこれを奪還。
  5月  長慶、松永久秀の讒言を信じ、弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺。
     織田信長、犬山城主 織田信清を倒して尾張を統一。*2
  7月  三好長慶、河内国飯盛山城で没(享年43歳)。義継(十河重存)が若年のため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えた。
  8月  第五次川中島の戦い;謙信率いる上杉軍は信玄率いる武田軍と川中島で再び対峙。60日に及ぶ対峙の末に上杉軍は越後に軍を引き、決着は着かず。以降、謙信と信玄が川中島で相見えることはなかった。
  9月  北条氏政、武蔵国関戸郷(多摩市)の市掟を制定。[海外;スペイン、フィリピンを征服]
  10月  佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため上杉軍は唐沢山城を攻撃し、佐野昌綱を降伏させると人質をとって帰国。
  この年  足利義輝の斡旋もあり、毛利氏と大内氏が和睦。
 1565年
(永禄8年)
2月  越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦し、上杉謙信に救援を要請。
  3月  第一次関宿合戦;北条氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となる関宿城(現 野田市)の奪取に傾注。上杉謙信は、関宿城主 簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、謙信と戦わずして撤退。
4月  毛利元就が出雲に出陣、尼子氏の月山富田城を兵糧攻めにする。
5月  永禄の変;将軍足利義輝、室町第にて三好三人衆と松永久秀に襲われ自害(享年30歳)。
     将軍家家臣 細川藤孝らは、次期将軍に足利義昭の擁立をはかる。
     やがて久秀は独自の動きを見せ始め、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)までの3年間内紛状態に陥った。
  6月  信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城(現 高崎市)を攻略した。
7月  松永久秀ら、宣教師ヴィレイラ・フロイスを京都から追放.
  9月  謙信は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点 和田城(現 高崎市)を攻めたが成功しなかった。
11月  大和国多聞城の松永久秀、筒井順慶の筒井城(大和郡山市)を攻略。
1566年
(永禄9年)
3月  上杉謙信は常陸国へ出兵して再び小田城(現 つくば市)に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また謙信と同盟を結ぶ安房国 里見氏が北条氏に追い詰められ、救援すべく下総国に進出。
     臼井城の戦い;謙信は、北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せたが籠城方の健闘により敗北。足利義昭の使者より、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請する書状が臼井の上杉軍のもとに届けられたことが、上杉軍の退却に繋がったか。
5月  三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友道)、堺で松永久秀を破る。
6月  筒井順慶、筒井城を奪回。
9月  足利義昭、越前国朝倉義景を頼る。
 木下藤吉郎(秀吉)、美濃国墨俣に築城、斎藤龍興を破る。
     上杉謙信の臼井城攻め失敗により、謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。上野金山城主・由良成繁が謙信に背く。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり謙信は守勢に回る。さらに謙信は関東での勢力拡大を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。
11月  毛利元就、出雲国富田城を攻略、尼子義久降伏。
  12月  家康は正親町天皇の勅許により、松平を改めて徳川を姓とした。同時に従五位下三河守に叙任された。
  この年  この年までに徳川家康は、東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国統一。西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行う。
 1567年
(永禄10年)
2月  金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が松永久秀を頼って出奔。これを契機に久秀は勢力を盛り返し、4月に堺から信貴山城に復帰した。
  3月  唐沢山城の戦い;上杉謙信は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、昌綱を降伏させる。しかし、厩橋城代を務める上杉の直臣 北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。
  4月  謙信は北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。謙信は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方であった)。
5月  信長、娘を徳川家康の嫡子信康に嫁がせる。
8月  稲葉山城の戦い;斎藤龍興を破り、美濃を平定。逃げた斎藤龍興を追って、伊勢に攻め込み、長島を攻撃。北伊勢の在地領主を服属させる。
 信長、稲葉山城を岐阜城と改め、居城とする。
  10月  松永久秀、東大寺大仏堂にこもる三好三人衆を攻撃し、大仏殿・大仏焼けたが畿内の主導権を得る。一方、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。
   信長、岐阜城(旧 稲葉山城)下の加納を楽市とする。
1568年
(永禄11年)
2月  信長、北伊勢を平定し、息子 信孝を神戸氏の養子(神戸信孝)とする。*2
3月  放生津の戦い;越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず。
  6月  信貴山城の戦い;松永久秀の信貴山城が三好三人衆に落とされる。
7月  信長、足利義昭を越前から岐阜立政寺に迎える。義昭上洛の外交戦が本格化する。
     武田軍が信濃最北部の飯山城(現 飯山市)に攻め寄せ、支城を陥落させるなどして越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに謙信から離反した椎名康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城(現 魚津市)をはじめ、守山城(現 高岡市)を攻撃した。ところが時を同じくして、信玄と通じた上杉氏重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。
9月  信長、京への途上、近江守護六角承禎の箕作城を陥落させ、逃亡した六角氏の観音寺城に入る。
 信長、足利義昭を奉じて入京。14代将軍足利義栄と三好三人衆、阿波国へ逃げる。
 足利義昭、15代将軍に任じられる。
 信長、諸国の関所を撤廃。
     上杉謙信、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命される。謙信は越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束していた。
  11月  上杉謙信は本庄繁長の反乱を鎮めるため、繁長と手を組む出羽尾浦城(現 鶴岡市)主・大宝寺(武藤)義増を降伏させ、繁長を孤立させた。11月に繁長の居城・本庄(現 村上市)に攻撃を加え、謀反を鎮圧する(本庄繁長の乱)。
     この頃、甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化し、今川氏真は武田氏の敵である上杉氏に和平を持ち掛け信濃への牽制を要請したが、謙信はこれを退ける。
12月  武田信玄、甲相駿三国同盟(1554年成立)を破り、駿府に侵入。薩埵峠で今川氏真を破り、駿府城を攻略し、駿河国を併合した。相模の北条氏政が氏真救援に向かう。氏真、遠江 掛川城に逃げる。
     北条氏は武田氏と断交し、激しく敵対するようになったが、同時に武田氏と北条氏の間の均衡が崩れて、北条氏康の居城・小田原城に大きな危機が迫った。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向から敵に囲まれる苦しい情勢となった。北条氏康は、長年敵対してきた上杉謙信との和睦を考えるようになった。
 徳川家康、掛川城を攻撃。
 肥前国大村純忠、大村、長崎に教会堂を建てる。
1569年
(永禄12年)
1月  和泉国堺、信長に矢銭2万貫を差し出す。
 三好三人衆、足利義昭の御所 本圀寺を襲撃するが失敗。松永久秀は大和平定を進める。
     北条氏康は上杉謙信に和睦を提案。謙信は当初、和睦に積極的でなかったが、度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されていた(第二次関宿合戦)。この城の危機を救うためにも謙信は北条氏との和議を検討し始めた。
2月  信長、京に二条城造営を開始。
3月  信長、撰銭令を出す。
     上杉謙信は武田信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる北条氏康と同盟する(越相同盟)。
     上杉謙信は、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺(武藤)義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。
4月  信長、宣教師フロイスに京都布教を許す。
 足利義昭、二条城に移る。
5月  今川氏真、徳川家康に掛川城を開城、退去。北条氏政に保護される。今川氏真、北条氏政の子氏直を養子とし、駿河国守護職を譲る。
     家康は遠江国を支配下に置き、氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退ける。
     謙信は閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈る。
6月  越相同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は上杉謙信に従った。北条高広も帰参が許された。謙信は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保した。これより謙信は本格的に北陸諸国の平定を目指すことになった。一方で、北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟により上杉方の関東諸将は謙信に対して不信感を抱く結果となった。長年に亘り北条氏と敵対してきた里見義弘は謙信との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。
8月  長曾我部元親、土佐国安芸城の安芸国虎を滅ぼす。
     上杉軍は前年に続いて越中へ出兵、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に亘り攻囲(松倉城の戦い)。上杉軍は支城の金山城を攻め落としたものの、武田信玄率いる武田軍が上野国へ侵攻したため上杉謙信は松倉城の攻城途中で帰国し、上野の沼田城に入城した。
10月  信長、伊勢国をほぼ平定。
 武田信玄、北条氏の小田原城を攻める。
1570年
(元亀元年)
1月  将軍足利義昭と織田信長の対立が次第に表面化する。信長が義昭に五か条の条書を認めさせ、「義昭の命令は信長だけが承る」として、義昭幕府が、それまでの大名連合体制と久秀も含めた同盟者の立場から、一気に信長の単独連立体制と信長が上位者へと変貌する。
     信長は主要大名・国人への触書を出すが、触書に家康や義継宛には殿を付けたが、嫡男信忠の義父の松永久秀には付けず、義継の宿老扱いに、地位低下させられた。
     下野において再び佐野昌綱が上杉謙信に背いたため、上杉軍は唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。
4月  織田信長・徳川家康連合軍、京を発し、越前の朝倉義景攻めに向かう。
 金ヶ崎の戦い;信長方による朝倉義景攻めの最中、北近江の浅井長政が朝倉方に寝返る。
 金ヶ崎の退口;織田・徳川軍が京へ撤退。
     松永久秀は信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。
     上杉謙信は北条氏康の七男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた。謙信は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇した。
6月  姉川の戦い(近江):信長・家康連合軍、浅井長政・朝倉義景を破る。
 徳川家康、岡崎城から遠江国浜松城に移る。
9月  石山合戦始まる;摂津国石山本願寺光佐(顕如)、反信長挙兵(~1580)、各地の門徒に檄文を発する。
 信長、近江坂本に出陣し、比叡山の浅井・朝倉軍と対峙する。
  10月  北条氏康から支援要請により上杉軍は上野国へ侵攻し、武田軍と交戦した後、年内に帰国。
11月  伊勢国長島の一向一揆;織田信長の弟信興を小木江城で攻め滅ぼす。
12月  信長、勅命及び足利義昭の斡旋で浅井・朝倉と和睦。
1571年
(元亀2年)
2月  上杉謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣。椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃。数年に亘り謙信を苦しめた新庄城・守山城などを攻撃。康胤は激しく抗戦を続けたが、上杉軍はこれらの城を落城させた。康胤は再起を目指して落ち延びて、越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続けた。その後、両者の間では、富山城を奪い合う戦いが幾度となく繰り返され、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになった(越中大乱)。
     上杉謙信と共に武田信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈る。
  3月  武田信玄、徳川家康方の高天神城を攻撃。*2
4月  武田信玄、三河国吉田城で徳川家康と戦う。
5月  信長、長島一向一揆討伐に出陣。
     松永久秀は畠山秋高の家臣で自らの指揮下にあった安見右近を奈良に招いて殺害すると、その本拠である交野城を攻めた。これに呼応するように三好義継や敵であった三好三人衆までが畠山攻めを開始して、6月には連合して高屋城を攻めた。
     松永久秀と三淵藤英・細川藤孝兄弟が山城普賢寺城を巡って交戦。
  6月  松永久秀、三好義継、三好三人衆は、連合して高屋城を攻めた。
     足利義昭としては、松永久秀・三好義継・畠山秋高は幕臣同士の争いを許容せず、和田惟政に秋高救援を命じた。
   将軍足利義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込み、順慶を宿敵とする松永久秀はこれを許せず義昭に反旗を翻し幕府を離脱する。
  8月  辰市城の戦い;松永久秀は筒井方に大敗し、竹内秀勝らの重臣と奉行人など有力な家臣を失う。筒井城も奪還された。
     松永久秀は、三好三人衆と連携していた阿波三好家(三好長治・十河存保・篠原長房)とも和睦をして白井河原の戦いで和田惟政を討ち取る。
 毛利元就の次男吉川元春が出雲の尼子勝久を攻める。敗れた勝久は織田信長を頼る。
9月  信長、比叡山延暦寺を焼き打ち。
  10月  普賢寺城を抑えた松永久秀がさらに義昭方の槙島城へと攻め込む。
     関東の覇権を長年上杉謙信と争った北条氏康が死去。
     松永久秀が大和支配の安定化のために幕府の直轄地である山城南部への進出を図り、それが将軍足利義昭との境界紛争を招いた結果として、義昭は久秀を牽制するために順慶と接近した。
     将軍足利義昭と信長の協力関係は続いており、松永久秀は信長と敵対したのではなく、義昭と対立した結果としてその後見である信長とも対立したと見られる。
  11月  北条氏政からの支援要請により上杉軍は関東へ侵攻。佐竹義重が武田信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。
  この年  甲斐国の武田信玄から松永久秀宛に書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。
 ポルトガル船3隻、長崎に入港。
1572年
(元亀3年)
 松永久秀と三好義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするが、将軍足利義昭の働きかけによって失敗する。
     しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは、朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近し、また義昭と信長の関係悪化に伴って、敵対対象は信長へと移行していく。;信長包囲網
  1月  北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦。謙信は再び北条氏と敵対する。上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動。謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになる。
     上杉軍は利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。
  5月  武田信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城、白鳥城、富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。
7月  信長、北近江小谷城の浅井長政・朝倉義景と対峙する。
8月  上杉謙信、越中へ出陣し、新庄城に布陣。その後、富山城の一揆勢は9月17日未明には小旗を畳んで日宮城方面に退却。
9月  信長、将軍義昭に「異見17ヶ条」を出し、その失政を責める。
     上杉軍は神通川を越えて西進し、滝山城にも攻撃を開始し、年末にこれを制圧。
11月  信長、上杉謙信と同盟を結ぶ。
12月  武田信玄、三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝。
1573年
(元亀4年)
1月  椎名康胤方の松倉城が開城。
2月  足利義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と松永久秀・三好義継は和睦。
4月  武田信玄、病状が悪化し、上洛を諦め甲斐へ戻る。途上、没する。信長包囲網の一角が崩れる。上杉謙信への圧力も薄らぐ。
 信長、将軍義昭を二条城に包囲。
7月  将軍義昭、山城国宇治槙島城で挙兵。
 信長、将軍義昭を追放;室町幕府滅亡。
8月  信長、北近江浅井長政と越前朝倉義景が籠城する小谷城を攻撃。
 信長、退却する朝倉義景を攻め、自害に追い込む。越前一乗谷朝倉氏を滅ぼす。
9月  信長、浅井長政を近江小谷城に攻める。浅井一族自害。
     上杉謙信は越中国へ出陣、増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、越中の過半を制圧。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。
     謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻。
11月  信長、本願寺の顕如と和睦。
     若江城の戦い;三好義継、信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死。
12月  松永久秀、大和国多聞城で信長に降伏、城を明け渡す。三好三人衆も、信長に敗れ壊滅し、包囲網は瓦解した。
1574年
(天正2年)
1月  1日、信長の重臣達が年始の祝賀の為岐阜城へ登城。
     松永久秀は岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である佐久間信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。
 信長、越前一向一揆討伐の為、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を派遣。下旬、武田勝頼、美濃明智城を攻める。
2月  信長、美濃明智城救援の為出陣するも、間に合わず落城。
3月  信長、従三位、参議に叙任される。東大寺の蘭奢待を賜る。
 羽柴秀吉、近江国長浜城に入る。
     上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため、8,000の兵を率いて関東に出陣し上野金山城(現 太田市)の由良成繁を攻撃、膳城(現 前橋市)、女淵城、深沢城(現 御殿場市)、山上城(現 桐生市)、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らなかった(金山城の戦い)。
     織田信長から上杉謙信に、狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』が贈られる。
4月  石山本願寺光佐(顕如)、信長の諸城を攻撃。
     武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため、上杉軍は北条氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。
5月  武田勝頼、家康領の高天神城を攻める。徳川家康、信長に救援を乞う。
 信長、家康救援の為、京を発する。
6月  中旬、高天神城の救援に向かうも間に合わず落城。
7月  上杉謙信、越中を平定する。以後、加賀に侵攻する。
9月  信長、伊勢長島の一向一揆を鎮定。中江・屋長島の一揆勢男女二万人を焼き殺す。
10月  尾張国の道路や橋、水道などの修繕を命じる。
     北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなった(第三次関宿合戦)。
  閏11月  上杉謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めるが、既に関東では上杉派の勢力が大きく低下していた。
12月  分国中の道路整備を行う。
1575年
(天正3年)
1月  上杉謙信、養子 喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲る。
4月  信長、高屋城にて三好康長を攻める。
     武田勝頼、徳川方の長篠城を包囲。*2
5月  長篠城救援の為、岐阜を発し、尾張熱田に陣。その後家康と合流。
 長篠の戦い;信長と徳川家康の連合軍、三河国設楽ヶ原で武田勝頼を破る。(5/21)
     武田氏は山県昌景や馬場信春ら宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくされた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城(現 島田市)を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。
     この頃から、徳川家康は、織田信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる。
7月  正親町天皇、信長に官位の昇叙を進めるも辞退。
 長曾我部元親、土佐を平定する。
8月  信長、越前一向一揆を討伐。
9月  信長、柴田勝家を北陸方面の司令官とする。
10月  信長、尾張国に橋の架設を命じ、また道路には並木を植えさせる。
 信長、伊達輝宗の使者をもてなす。本願寺光佐、和を乞う。信長これを承諾。
 下旬、信長、京都妙覚寺で茶会を開く。千利休が茶頭をつとめる。
11月  嫡男信忠に、尾張・美濃を与え、家督を譲る。
1576年
(天正4年)
2月  足利義昭、備後の鞆に移り、毛利輝元(元就の孫)に支援を求める。
 信長、近江の安土城に移る。
4月  石山本願寺 顕如が再び挙兵し、織田軍が石山本願寺を包囲する。
5月  信長、摂津国四天王寺から石山本願寺に迫る。
     足利義昭が反信長勢力を糾合し、義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越三和が試みられる。謙信は越相同盟を破棄したことのある北条氏政との和睦は拒否したが、武田勝頼との和睦は了承。
     上杉謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた顕如と和睦。
     謙信が本願寺と講和した背景には、足利義昭が毛利氏の庇護下から謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる。また、前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越三和は成立しなかったものの、謙信と本願寺との講和によって、信長包囲網が築き上げられた。だが、謙信が本願寺や毛利輝元との同盟を決めたことで、信長との同盟は破綻し、以後敵対することとなる。
     毛利輝元が謙信に上洛を呼びかけたことで、6月に謙信は輝元の叔父・小早川隆景に対して、来秋には上洛するように伝えている。
7月  中国の毛利元就、信長の水軍を破り、石山本願寺に兵糧米を搬入。
  9月  上杉謙信は、管領畠山氏が守護を務める越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、増山城、守山城、湯山城を攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに越中を平定した。
  10月  足利義昭から信長討伐を求められ、上杉謙信は上洛を急ぐことになる。この時期、織田信長は朝廷から内大臣に、次に右大臣に任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に織田政権と室町幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎない。
11月  織田信長、正三位、内大臣に叙せられる。
 上杉謙信、能登に侵攻し諸城を落とした後、七尾城を包囲する。謙信の狙いは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で七尾平定は重要であった。七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が主導権争いをしており、内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、抗戦を決した。これにより、七尾城の戦いが勃発する。
     第一次七尾城の戦い;謙信は能登国に進み、熊木城、穴水城、甲山城(かぶとやまじょう)、正院川尻城(しょういんかわしりじょう)、富来城(とぎじょう)など能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んだ。しかし七尾城は石動山系北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった。付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年する。
1577年
(天正5年)
2月  織田信長、紀伊国雑賀衆の一向一揆を攻撃。
3月  滝川一益、明智光秀ら雑賀を攻める。
 鈴木孫一ら一揆の首謀者が投降信長これを赦す。
  6月  信長、安土山下町に13ヶ条の掟書を出し、安土城下の繁栄を図る。
   信長、安土城下を楽市とする。
     上杉謙信は七尾城を包囲していたが、関東での北条氏政の進軍もあり、春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされた。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す書状が届く。
  7月  信長、伊達輝宗に上杉謙信の暗殺を誘う。
  閏7月  上杉謙信は再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲する(第二次七尾城の戦い)。このとき、七尾城内では疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していた。しかし、守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。このため、謙信は力攻めは困難とみて調略を試みる。
  8月  信長、上杉謙信に備える為、柴田勝家らを加賀に派遣する。
 松永久秀、足利義昭・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もる。信長は松井友閑を派遣し、理由を聞こうとしたが、使者には会おうともしなかったという。信長は激怒し、佐久間盛明が養育していた13歳と12歳の二人の人質を処刑した。*3
     長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。総大将・柴田勝家の下、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。
9月  上杉謙信、加賀の湊川で柴田勝家ら織田勢を破る。
     上杉謙信は立て籠もる七尾城内の遊佐続光らと通じて反乱を起こさせ、信長と通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城は落城。2日後の9月17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。
     9月18日、柴田勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。
     9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千人は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。
     9月26日、七尾城の普請が着手され、謙信も登城し、その眺望の素晴らしさ長尾和泉守宛の手紙の中に記す。また、手紙の中で、信長の軍を「案外ニ手弱之様体(案外に手弱だ)」とし、「此分ニ候ハ、向後天下迄之仕合心安候(この分だと、今後、天下までの仕合も心安いものだろう)」と記している。謙信はさらに西に進み、信長を討伐することを本気で考えていた可能性がある。
10月  信貴山城の戦い;信長は、嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした10万の軍勢を送り込み、松永久秀の信貴山城を包囲。佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊す」と返答し、織田軍の攻撃により、久秀は平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ、自害。享年68。
 羽柴秀吉、中国征伐のために京都出発。
12月  秀吉、播磨国上月城を攻略。尼子勝久、山中鹿之助(幸盛)が入城。
  この年  上杉謙信、武田勝頼と和睦。
1578年
(天正6年)
1月  信長、正ニ位右大臣に叙せられる。
 信長、弓衆の福田与一の失火により、単身赴任の部下が多いことが判明。妻子らを安土に移させる。
 上杉謙信、謙信は遠征の準備中に倒れ、昏睡状態のまま死去。享年49。生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めておらず、上杉氏の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発。勝利した上杉景勝が、上杉氏当主となったが、内乱で上杉家中の疲弊・衰退は激しく、対外出兵する力を失う。そして、謙信が晩年に交戦状態となった織田信長による攻撃を受け、滅亡寸前まで追い込まれた。
4月  秀吉、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍に包囲される。
5月  上杉景虎が御館(おたて)へ移り、春日山城の上杉景勝と争う。
6月  九鬼嘉隆、信長の命により鉄船を建造し、雑賀の水軍を破る。
7月  播磨国上月城、毛利軍に奪回され、城主尼子勝久自害;尼子氏滅亡
9月  下旬、信長、鉄船を視察。
 北条氏康、武蔵国世田谷新宿を楽市とする。
10月  摂津在岡城の荒木村重が足利義昭・本願寺と通じ、信長に背く。
11月  耳川の戦い;九州南部を制圧した島津義久、九州北部の大伴宗麟と争い、日向の耳川の戦いで破る。
 信長、荒木村重をなぐさめ諭すが村重は応じず。
 信長・九鬼嘉隆の甲鉄船団、摂津国木津川口で毛利水軍600隻を撃破。
 荒木村重の属将、摂津国高槻城主高山右近、信長に降伏・服属。
1579年
(天正7年)
3月  上杉景勝、上杉景虎の御館を攻略し、景虎は自害、景勝が上杉家当主となる。
5月  安土城天守閣完成。
 浄土宗と日蓮宗による安土宗論。信長、日蓮宗を処罰。
7月  イエズス会巡察使ヴァリニャーニ、島原に来着。
8月  明智光秀、丹波平定を信長に報告。
 柴田勝家、加賀侵攻。
9月  信長、荒木村重攻略中の将兵を見舞う。
 家康、信長の命により正室築山殿を殺害し、嫡男 松平信康(家康嫡男)を自害させる。
10月  明智光秀、安土城にて丹波・丹後平定を報告する。
この年  信長、宣教師オルガンチノに寺院建設許可。
1580年
(天正8年)
1月  羽柴秀吉、播磨の三木城を攻め、別所氏を滅ぼす。
3月  信長、本願寺に覚書を送り、石山城内の全ての人を赦免し、加賀国の二郡を返す事を成約。
閏3月  信長、安土城の埋立地を宣教師に与える。
 信長と本願寺と和議が成立。顕如が石山本願寺を退去。石山戦争終結。
4月  大村純忠、長崎を教会領に寄進。
8月  信長、丹波を明智光秀に、丹後を細川藤孝に与える。
 信長、大和国郡山城主筒井順慶に国内諸城破却を命令。
 本願寺教如(顕如の子)、紀伊国雑賀に退去。本願寺全焼(石山合戦終了)。
 信長、近衛前久を頼り、島津・大友と和平を図る。
     林通勝親子を追放。
     佐久間信盛親子を追放。
   11月  柴田勝家、加賀一向一揆を平定。首謀者達の首を安土に送る。
  この年  安土城にセミナリヨ(神学校)開設。
1581年
(天正9年)
1月  高天神城を包囲する徳川家康を攻撃するため、武田勝頼が出陣すると聞き、信長、嫡子信忠を清洲に出陣させる。[オランダ独立宣言]
     京都での馬揃えの準備を明智光秀に命じる。
     豊後府内にコレジ(養成所)を開設。
  2月  宣教師ヴァリニャーノ、黒人従者を連れて信長と謁見。柴田勝家、入京し信長と謁見。
     皇居東門外で盛大な馬揃えを行う。正親町天皇、観覧する。
  3月  再び馬揃えを行う。
     上杉景勝が越中に侵攻した為、信長、越前衆らを帰国させる。それを聞き景勝は撤退。
  4月  堀秀政に和泉の検地を命じる。
     信長、和泉国に指出検地。槇尾寺を焼く。
  6月  羽柴秀吉、因幡へ侵攻。
  7月  安土城天主閣・総見寺に提灯をつるしまた馬廻り衆に松明を持たせ城下一帯をライトアップ。
  8月  安土城で馬揃え。
     因幡鳥取城の救援に、毛利輝元らが出陣するとの風説があり、在国の武将らに出動態勢を整えさせる。
     また信長自ら出陣し、東西決戦の後、西国平定を決意。細川藤孝・明智光秀らは船に兵糧を積み鳥取川に停泊させる。
     信長、高野聖1,000人余りを処刑。
  9月  織田信雄(信長次男)ら伊賀惣国一揆平定。
  10月  信長、前田利家に能登を与える。
     信長、伊賀視察。
     羽柴秀吉、毛利氏の因幡国の鳥取城を兵糧攻めの末落とす。
  11月  羽柴秀吉、淡路島を平定。
  12月  信長、羽柴秀吉の軍功を称し、茶道具12種の名物を下賜。
1582年
(天正10年)
1月  近隣の大名などが年始の挨拶、江雲寺御殿や天皇の行幸の御殿を見せる。
     追放された佐久間信盛が病死、息子信栄を赦免し、旧領を安堵する。伊勢の大神宮の修築に3千貫を寄進。
     九州のキリシタン大名(大伴宗麟・有馬晴信・大村純忠)が天正遣欧使節をローマ教皇に派遣。長崎を出発。
  2月  信濃の木曽義昌が武田勝頼に背く。それを受け信長は諸方面から出陣命令を出す。また自らも伊那へ進攻すると指令。
     9日、信濃出兵にあたり命令を発す。
     信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。*wiki
   3月  信忠、信濃高遠城を落とす。
     天目山の戦い;武田勝頼、織田信長・徳川家康に敗れる。
     武田勝頼、新府城を退去し、山中の民家に身を潜める。信長出陣。
     武田勝頼、滝川一益に見つかり民家を包囲され切腹。その他一門なども切腹もしくは討ち死。戦国大名 甲斐武田氏滅亡。
     浪合にて勝頼父子の首実験。
     滝川一益に、上野国と信濃二郡を下賜。
     信忠の高遠城(現 伊那市)攻略の褒美として刀を贈り、天下の支配権を譲る。旧武田領地を配分する。
     羽柴秀吉、播磨の姫路から備中へ出陣。
  4月  信長、東海道を通って富士山などの名所巡りをしながら、徳川家康の居城浜松城に到着。
  5月  信長、阿波国を三男 織田信孝に与える。
     徳川家康と穴山梅雪を接待。安土での接待を明智光秀に命じる(15日~17日)。
     羽柴秀吉、高松城を水攻め。安芸から毛利軍が出陣し秀吉軍と対陣。秀吉の援軍要請を受け、信長、自ら出陣して中国を平定し、九州まで攻め入ることを決意。そして明智光秀・細川忠興・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩河吉大夫らに先陣を命じる。明智光秀、坂本に帰る。
     19日、家康らと能を観る。
     20日、家康を接待。
     21日、家康一行、上洛。案内役に長谷川秀一を同行させる。
     26日、明智光秀、中国出陣のため坂本を出発。翌日、亀山城へ移る。愛宕山へ参詣、おみくじを二度三度と引く。またその翌日、連歌の会を催し、「ときは今あめが下知る五月かな」と詠む。
     29日、信長、上洛、本能寺に入る。小姓衆以外は随行せず。
  6月  2日未明、本能寺の変;明智光秀、13,000の兵で本能寺を包囲し、信長を殺す。
     信長の嫡男信忠も二条御所で自害。
     ■■■ 以下「豊臣秀吉 天下統一」 ■■■
     3日 羽柴秀吉に「本能寺の変」第一報が届く。
     4日 羽柴秀吉、高松城主 清水宗治の自刃をもって毛利氏と講和。*2
     8日 明智光秀、近江 坂本城に入る。
     細川藤孝は上役であり、親戚でもあった明智光秀の再三の要請を断り、剃髪して田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断る。
     15日;山崎の戦い;秀吉、明智光秀を討つ。
     27日、清須会議;信長後継を三法師(信長の長男信忠の嫡男、当時3歳)に決定。
  7月  秀吉、山城検地を行う。
  10月  15日秀吉、京の大徳寺で織田信長の葬儀を催す。
  12月  秀吉、岐阜城の織田信孝を攻めて降伏させる。*2
1583年
4月  賤ケ岳の戦い;羽柴秀吉、柴田勝家を破る。勝家・夫人お市(信長妹)、越前国北庄城で自害。
     秀吉、加賀に進み前田利家、佐々成政らを帰順させる。*2
  5月  織田信雄、尾張で織田信孝を自害させる。*2
  8月  秀吉、大坂城築城を開始(1585年完成)。
1584年 3月  徳川家康、尾張の清洲城で織田信雄と会い、羽柴秀吉と敵対する。*2

4月  小牧・長久手の戦い;徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉を破る。
  6月  ポルトガル船、平戸に来航。
  12月  秀吉、家康と和睦。
 1585年 4月  秀吉、高野山を帰順させ、武装解除させる。*2
  6月  羽柴秀長(秀吉の弟)、四国の長曾我部元親攻めに向かう。*2
  7月  羽柴秀吉、関白となる。*2
     長曾我部元親が降伏(秀吉、四国平定)。*2
  9月  羽柴秀吉、豊臣姓を賜る。*2
1586年 5月  徳川家康、朝日姫(秀吉の妹)を正室(継室)にむかえる。*2
  8月  豊臣秀吉、黒田義孝・小早川隆景らに九州攻めを命じる。*2
  10月  秀吉、大政所(秀吉の母)を人質として徳川家康におくる。*2
     島津義久、大友氏攻撃のため日向に出陣。*2
     徳川家康、諸将らと大坂城で豊臣秀吉に謁見。*2
  12月  豊臣秀吉、惣無事令を発する。*2 ■■■ 日本の合戦年表 ■■■(P155)

資料    『世界史大年表』 石橋秀雄他
 *1 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)
 *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版)
 *3 『信長公記』



Title9-3.GIF (2758 バイト)    テーマ別資料    テーマ史《INDEX》   ホーム