Title9-3.GIF (2758 バイト) 研究テーマ「戦国時代」 探究テーマ史 #208  


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足利義満以降、将軍は守護や守護代の内紛に干渉し、それによって将軍の権力を誇示してきた。8代将軍足利義政も同様で管領畠山氏の相続争いに介入。当時の幕府では、足利家の有力分家、細川、斯波、畠山の三管領と、四職(ししき)とされる侍所の長を担う赤松、一色、山名、京極といった守護大名が強大な力を持っていた。足利義政が介入した争いはこじれ、義政の判断も二転三転し、畠山家の争いも泥沼化した。畠山義就(よしひろ)と畠山政長の争いに、斯波氏の家督争い、それぞれを味方する足利将軍、山名氏などが加わって応仁の乱(1467~1477)に発展する。各守護大名なども加わり、東軍と西軍に分かれて全土を巻き込む戦乱となった。1474年に山名と細川が単独講和し、1477年に西軍の中心となっていた大内政弘が東軍に帰順する形で領国に戻ると、ようやく乱は終わる。しかし、11年におよぶ戦乱で京は荒廃し、将軍の権威は地に落ちた。守護大名の領国では実力のある守護代が下剋上して戦国大名化してく。先に享徳の乱で戦国化した関東に続き、全国が戦国乱世となった。


 ■ 戦国時代 年表  
 年 月  出来事 
1523年
(大永3年)
7月  毛利家当主(元就の甥)が9歳で病死。一部家臣の推挙により、元就が当主となる。相続争いが生じ、異母弟相合元綱を押す一派を粛清(相合殿事件)。
     大内方と細川高国方の遣明船が明の寧波(ニンポー)で武力衝突事件を起こす。以後、大内氏が日明貿易を独占。*2
1524年 2月  甲斐 武田信虎、関東管領上杉憲房を支援し、相模へ進攻。*2
     :
1528年    大内義興が死去。大内義隆が家督を相続、九州地方へ進出。豊後の大友氏、筑前の少弐氏らと争う。*2
1531年 6月  細川澄元の子である細川晴元が細川高国を倒し、高国は自害。*2
1532年
(享禄5年)
6月  三好元長の勢威を恐れた細川晴元や一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、元長が殺害される。元長の嫡男長慶は阿波へ逃げる。
     細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり、享禄・天文の乱となる。
1535年 8月  伊勢宗瑞(北条早雲)の嫡男北条氏綱と今川氏親の嫡男今川氏輝が甲斐の武田信虎を破る。*2
  12月  三河 松平清康、織田勢との攻防最中に尾張守山で殺害される。*2
1536年 6月  今川氏輝が急逝し、後継者争い勃発。今川義元が勝利し、家督を継ぐ。*2
  7月  延暦寺僧徒と近江守護 六角定頼が、洛中の法華宗徒(日蓮宗)を襲い、二十一本山を焼く。(天文法華の乱)*2
     大内義隆が少弐氏を滅ぼし、北九州の覇権を握る。*2
1537年    駿河 今川義元、織田信虎の娘を正室に迎える。*2
  3月  安芸 毛利元就、出雲守護代尼子経久の生田城を攻め、落城させる。*2
  8月  尼子経久、周防・長門の守護大名 大内義隆の石見大森銀山を攻略。*2
1538年 7月  出雲 尼子晴久、播磨・備前守護大名 赤松政村(晴政)を破る。*2
  10月  古河公方 足利晴氏と北条氏綱が、安房 里見義堯(よしたか)と足利義明を破る。*2
1539年 1月  阿波 三好長慶、京に入り細川晴元に仕える。*2
  5月  周防・長門・石見・安芸などの守護大名 大内義隆、尼子経久の石見大森銀山を攻略。*2
1540年 5月  甲斐 武田信虎、信濃の諸城を攻略する。*2
  6月  尾張 織田信秀、三河 安祥(あんじょう)城を攻略する。*2
  8月  尼子晴久、大内義隆の石見大森銀山を攻めるが失敗。*2
  10月  毛利元就、安芸で尼子晴久を破る。*2
1541年 6月  甲斐 武田晴信(信玄)、父の信虎を追放し家督を継ぎ、甲斐守護となる。*2
1542年 閏3月  大内義隆・毛利元就、出雲 尼子晴久を攻める。*2
  7月  武田晴信、諏訪頼重を甲斐に幽閉し、自害させる。*2
  8月  斎藤道三(利政)、美濃守護 土岐頼芸(よりのり)を尾張に追放する。*2
  9月  武田晴信、諏訪(高遠)頼継を破り、諏訪を平定する。*2
1543年 3月  大内義隆・毛利元就、出雲富田城の尼子勝久を攻めるも撤退。*2
  8月  種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝える。*2
1544年 9月  織田信秀と美濃守護 土岐頼芸、越前 朝倉教景(のりかげ)が連携し美濃稲葉山城の斎藤道三を攻めるも反撃をうける。*2
1545年 9月  織田信秀、三河 安祥城で岡崎 松平広忠を破る。*2
 1546年
(天文15年)
8月  畠山政国(河内守護)と遊佐長教(河内守護代)が細川氏綱を援助し、将軍足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せたが、晴元配下の三好長慶らが反撃し、義晴は将軍職を嫡子の義輝に譲った。
1547年
(天文16年)
6月  武田晴信、分国法「甲州法度之次第」を定める。2
  8月  三河の戸田康光、松平広忠の子竹千代(後の徳川家康)を奪い、織田信秀におくる。*2
1548年
(天文17年)
2月  武田晴信、信濃の上田原で北信濃の武将 村上義清に敗れる。*2
  7月  武田晴信、塩尻峠で信濃守護 小笠原長時を破る。*2
10月  長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったためかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城する榎並城を包囲した。
  12月  長尾晴景(景虎の兄)は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。
  この年  斎藤道三と織田信秀が和睦。道三の娘 濃姫(帰蝶)が信秀の子 織田信長の正室となる。*2
1549年
(天文18年)
4月  江口の戦い;三好長慶の本隊が出陣、晴元・政長が三好政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長は江口城に布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らに別府川に布陣させた。六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名を討ち取る。
  6月  今川勢が織田氏の安祥城を攻め、織田信広を拘束。信広と松平竹千代の人質交換が行われる。*2
  7月  細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に逃れた。長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し入京。6日後に氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲。
     フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸(キリスト教伝来)。*2
1550年
(天文19年)
2月  守護上杉定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。
  7月  武田晴信、信濃 林城で小笠原長時を破る。*2
  9月  武田晴信、村上義清の砥石城を攻めるも大敗。*2
  11月  三好長慶、京に入る。*2
     足利義輝は陣を構えていた中尾城を自ら焼き、近江 堅田に退く。*2
  12月  長尾一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。
1551年
(天文20年)
1月   景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利した。
     さらに8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったことなどから助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げた。
  3月  三好長慶は、遊佐長教の仲介で伊丹城を開城させ摂津国を平定した。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。
     義輝は、長慶を二度にわたって暗殺しようとしたが、未遂に終わっている。
  5月  武田家家臣 真田幸隆らの調略により砥石城が落城。*2
  7月  相国寺の戦い;三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶は松永久秀とその弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破る。
  9月  周防守護代の陶隆房(晴賢)ら謀反を起こし、大内義隆を討つ。義隆自害。(大寧寺の変)
  12月  大内義隆が謀反により死去したため、将軍足利義輝より、尼子晴久が山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた。
     豊後 大友宗麟、ザビエルにキリスト教布教を許可。*2
1552年
 (天文21年)
1月  義輝を支援してきた六角定頼が死去した。後継者の六角義賢は、義輝と長慶の間に入り、和睦を成立させた。幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になる。
     長尾景虎は、相模国北条氏康により領国を追われた関東管領上杉憲政を迎え入れ、御館に住まわせた。これにより北条氏康と敵対関係となった。
  3月  尾張 織田信秀が没し、嫡男 信長が家督を継ぐ。*2
     豊後 大友宗麟の弟 大内義長が陶晴賢らが主導する大内氏を継ぐ。大友氏が九州で勢力を強める。*2
  4月  三好長慶は、細川晴元に与する波多野元秀の八上城を包囲したところ、三好方として従軍していた池田長正や芥川孫十郎らが離反した。やむなく5月23日に包囲を解いて越水城に撤退した。
  8月  長尾景虎は関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに沼田の南方 平井城・平井金山城の奪還に成功する。
  9月  景虎は初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁。天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。堺を遊覧、高野山へ詣で、京の臨済宗大徳寺で受戒した。
  10月  三好長慶は再度丹波を攻め、細川晴元に味方する諸将と戦った。
  この年  武田晴信(後の信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時、村上義清らが長尾景虎に救いを求める。
 1553年
(天文22年)
 2月  長慶・義興父子は足利義輝と面会。このとき長慶暗殺の噂があり、長慶は淀城に逃れた。丹波で細川晴元との衝突もあったことから、長慶と義輝が会談し、義輝側近で和睦反対派の上野信孝らから人質をとる。
  3月  足利義輝と三好長慶の和睦が破れる。義輝は東山霊山城に籠城、晴元と結んだ。帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破る。
  4月  長尾景虎は村上義清らの亡命を受け入れ、武田晴信討伐を決意し、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣。
  7月  東山霊山城の戦い;長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走。長慶は、将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京。
     以後5年にわたって義輝は近江朽木に滞在することになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。
  8月  三好長慶の弟実休が細川晴元の実弟(異説あり)である阿波守護細川氏之を討って事実上阿波一国を奪い、畿内の長慶と阿波の実休は別々の支配体制を構築することになるが、実休は兄との緊密な連携に努め、軍事面ではその指揮に従って活動している。
     以降、永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨など8か国に及んでほか、近江や伊賀、河内、若狭などにも影響力を持っていた。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模国の北条氏康くらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。
     30日 布施の戦い;景虎の率いる長尾軍は晴信の率いる武田軍の先鋒を撃破。
  9月  1日 第一次川中島の戦い;景虎は八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻して荒砥城や虚空蔵山城を攻め落とし、青柳城へ放火した。これに対し晴信は本陣を塩田城に移し、決戦を避けた。その後、武田軍と長尾軍との間では、武力衝突は起きず、膠着状態が続いた。長尾軍は9月に越後へ引き上げた。
1554年
(天文23年)
   長尾景虎の家臣北条高広が武田と通じて謀反を起こす。
     北条城の戦い;景虎は自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した。この時、北条高広は帰参を許された。
  3月  武田(甲斐)、北条(相模)、今川(駿河)の三者間で婚姻が成立。甲相駿三国同盟。*2
  5月  毛利元就、安芸の諸城を攻撃。*2
  この年  尾張 織田信長が知多の水野信元を支援、今川方の村木砦を攻略。*2
 1555年
(天文24年)
   織田信長、斯波義銀(よしかね)を守護に担ぎ尾張守護代 織田信友を清洲城で討ち取る。*2
4月  第二次川中島の戦い;長尾景虎は武田軍迎撃のため、再び信濃国へ出兵、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙。裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制。武田軍と長尾軍の双方のにらみ合いは5か月に及び、最終的に駿河国の今川義元の仲介の下で和睦。
  10月  厳島の戦い;毛利元就軍4千が奇襲により、陶晴賢軍2万を破る。晴賢は自害。*2
  閏10月  今川義元の調停により、長尾景虎、武田晴信が北信濃より撤退。*2
1556年
(弘治2年)
3月  景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果て、突然出家・隠居することを宣言。
  4月  美濃 斎藤道三、息子の義龍と戦い敗死。*2
  5月  毛利元就、吉川元春が出雲の石見銀山で尼子晴久を破る。*2
6月  駒帰の戦い;景虎は天室光育に遺書を託し、春日山城をあとに高野山に向かう。その間、武田晴信に内通した家臣・大熊朝秀が謀反を起こす。天室光育、長尾政景らは、急いで景虎に知らせた。周囲からの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破った。
1557年
(弘治3年)
2月  武田晴信は盟約を破り長尾軍の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされ出兵が遅れた。
  4月  第三次川中島の戦い(上野原の戦い);雪解けの始まった頃、北信濃に進攻してきた武田晴信に対して、景虎は再び川中島に出陣。長尾軍は高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣し、破却されていた旭山城を再興して本営とする。
1557年
(弘治3年)
5月  景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍。武田軍は、深志城から先へは進まず長尾軍との決戦を避ける。
  7月  武田軍の別働隊が長尾軍の安曇郡小谷城を攻略。長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃。
  8月  武田軍と長尾軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いにはならず、長尾景虎は越後へ、武田晴信は甲斐へ引き上げる。
1558年
(永禄元年)
 将軍・義輝から上洛要請があり、長尾景虎は翌年に上洛することを伝える。
     長尾軍は上野国経由で下野国に侵攻、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱し、景虎は引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦。
11月  河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された安見宗房(直政)が畠山高政を紀伊国に追放。
     織田信長、弟 織田信勝を清洲城で殺害。
     将軍足利義輝、近江守護 六角承禎(義賢)らの仲裁により三好長慶と和睦。*2
  この年  足利義輝が長尾景虎と武田晴信に和議を促す。*2■■■ 日本の合戦年表 ■■■(2026.07.07)
     以上「戦国時代(前期)」、以下「戦国時代( 後期)」=「織田信長 天下布武
1559年
(永禄2年)
2月   尾張国清洲城主織田信長、上洛して将軍足利義輝に謁見。
  3月  高梨政頼の本城中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。
  4月  越後国春日山城主長尾景虎(上杉謙信)、。再度上洛して正親町天皇や将軍足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた。
  5月  河内で畠山高政が追放されたため、三好長慶は松永久秀を和泉国に出兵させたが安見方の根来衆に敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流して6月26日に2万の大軍で河内に進出した。
  8月  高屋城、飯盛山城などを落とし、高政を河内守護として復帰させ、安見宗房を大和国に追放して自らと通じた湯川直光を守護代とした。
  8月  宣教師ヴィレイラ、豊後国府内から上洛、布教。
  この年  前年永禄元年、足利義輝と三好長慶の戦いは長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた。このため、足利義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名たちが動揺したのを心配して、その状況を確かめるために景虎が越後から上洛に踏み切ったのではないか、との見方がある。
     長尾景虎と足利義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の違いが大きく実現しなかった。
   大友義鎮(宗麟)、豊後府内を開港、外国商人と交易。宣教師アルメイダ、病院を建てる。
1560年
(永禄3年)
この年  信長、尾張上四郡の守護代 織田信賢を攻め、岩倉城で降伏させる。
  1月  幕府、宣教師ヴィレイラに京都布教を許可。
5月  今川義元、駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。尾張沓掛城に入る。義元は織田方に身動きを封じられた大高城を救うべく、周辺の織田方諸砦を松平元康らに落とさせる。
     桶狭間の戦い;前哨戦に勝利した報せを受けた今川義元は、沓掛城で待機していた本体を大高城に移動させる途上、桶狭間で休息中に織田信長の急襲を受け、首をとられた。42歳。
     今川家の人質となっていた松平元康(徳川家康)、駿河から11年ぶりに三河国岡崎城に帰り、独立をはかる。
   8月  越後国守護代長尾景虎(上杉謙信)、関東管領上杉憲政を奉じ上野国へ出陣。甲相駿三国同盟の一つ今川氏が崩れたことにより、長尾景虎は、相模の北条氏康を討伐することを決断し、長尾景虎は三国峠を越えて、上野国の諸城を攻略。厩橋城(後の前橋城)を関東における長尾軍の拠点とし、この城で、長尾景虎は越年した。この間、景虎は関東の諸将たちに対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。
  9月  長尾景虎の動きに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた北条氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城し、籠城の構えをとった。
  10月  浅井久政が隠居し賢政(のちの長政)が浅井氏の家督を継ぐ。久政を隠居させ、浅井氏の方針を転換して六角氏と対抗。
     三好長慶、河内の飯盛城と高屋城を攻略。*2
  12月  尼子晴久死去。晴久の嫡男・尼子義久は将軍・足利義輝に和睦を願うも、この和睦を毛利元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、出雲侵攻を開始
   この年  甲斐国釜無川の信玄堤が完成。

日本1559年

資料    『世界史大年表』 石橋秀雄他
 *1 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)
 *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版)
 *3 『信長公記』



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