Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 1573年 クロニクル「織田信長天下布武」  

1567年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 1577年

信長、将軍義昭を追放;室町幕府滅亡。浅井・朝倉を滅ぼす。





 織田信長は、斎藤龍興を破り美濃を平定。京を支配していた三好長慶が没し、将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆との間で、主導権争いが激化しつつあった。


 年 月  出来事 
 1567年
(永禄10年)
2月  金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が松永久秀を頼って出奔。これを契機に久秀は勢力を盛り返し、4月に堺から信貴山城に復帰した。
  3月  唐沢山城の戦い;上杉謙信は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、昌綱を降伏させる。しかし、厩橋城代を務める上杉の直臣 北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。
  4月  謙信は北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。謙信は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方であった)。
5月  信長、娘を徳川家康の嫡子信康に嫁がせる。
8月  稲葉山城の戦い;斎藤龍興を破り、美濃を平定。逃げた斎藤龍興を追って、伊勢に攻め込み、長島を攻撃。北伊勢の在地領主を服属させる。
 信長、稲葉山城を岐阜城と改め、居城とする。
  10月  松永久秀、東大寺大仏堂にこもる三好三人衆を攻撃し、大仏殿・大仏焼けたが畿内の主導権を得る。一方、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。
   信長、岐阜城(旧 稲葉山城)下の加納を楽市とする。
1568年
(永禄11年)
3月  放生津の戦い;越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず。
  6月  信貴山城の戦い;松永久秀の信貴山城が三好三人衆に落とされる。
7月  信長、足利義昭を越前から岐阜立政寺に迎える。義昭上洛の外交戦が本格化する。
     武田軍が信濃最北部の飯山城(現 飯山市)に攻め寄せ、支城を陥落させるなどして越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに謙信から離反した椎名康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城(現 魚津市)をはじめ、守山城(現 高岡市)を攻撃した。ところが時を同じくして、信玄と通じた上杉氏重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。
9月  信長、京への途上、近江守護六角承禎の箕作城を陥落させ、逃亡した六角氏の観音寺城に入る。
 信長、足利義昭を奉じて入京。14代将軍足利義栄と三好三人衆、阿波国へ逃げる。
 足利義昭、15代将軍に任じられる。
 信長、諸国の関所を撤廃。
     上杉謙信、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命される。謙信は越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束していた。
  11月  上杉謙信は本庄繁長の反乱を鎮めるため、繁長と手を組む出羽尾浦城(現 鶴岡市)主・大宝寺(武藤)義増を降伏させ、繁長を孤立させた。11月に繁長の居城・本庄(現 村上市)に攻撃を加え、謀反を鎮圧する(本庄繁長の乱)。
     この頃、甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化し、今川氏真は武田氏の敵である上杉氏に和平を持ち掛け信濃への牽制を要請したが、謙信はこれを退ける。
12月  武田信玄、甲相駿三国同盟(1554年成立)を破り、駿府に侵入。薩埵峠で今川氏真を破り、駿府城を攻略し、駿河国を併合した。相模の北条氏政が氏真救援に向かう。氏真、掛川城に逃げる。
     北条氏は武田氏と断交し、激しく敵対するようになったが、同時に武田氏と北条氏の間の均衡が崩れて、北条氏康の居城・小田原城に大きな危機が迫った。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向から敵に囲まれる苦しい情勢となった。北条氏康は、長年敵対してきた上杉謙信との和睦を考えるようになった。
 徳川家康、掛川城を攻撃。
 肥前国大村純忠、大村、長崎に教会堂を建てる。
1569年
(永禄12年)
1月  和泉国堺、信長に矢銭2万貫を差し出す。
 三好三人衆、足利義昭の御所 本圀寺を襲撃するが失敗。松永久秀は大和平定を進める。
     北条氏康は上杉謙信に和睦を提案。謙信は当初、和睦に積極的でなかったが、度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されていた(第二次関宿合戦)。この城の危機を救うためにも謙信は北条氏との和議を検討し始めた。
2月  信長、京に二条城造営を開始。
3月  信長、撰銭令を出す。
     上杉謙信は武田信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる北条氏康と同盟する(越相同盟)。
     上杉謙信は、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺(武藤)義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。
4月  信長、宣教師フロイスに京都布教を許す。
 足利義昭、二条城に移る。
5月  今川氏真、徳川家康に掛川城を開城、退去。
 今川氏真、北条氏政の子氏直を養子とし、駿河国守護職を譲る。
     謙信は閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈っている。
6月  越相同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は上杉謙信に従った。北条高広も帰参が許された。謙信は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保した。これより謙信は本格的に北陸諸国の平定を目指すことになった。一方で、北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟により上杉方の関東諸将は謙信に対して不信感を抱く結果となった。長年に亘り北条氏と敵対してきた里見義弘は謙信との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。
8月  長曾我部元親、土佐国安芸城の安芸国虎を滅ぼす。
     上杉軍は前年に続いて越中へ出兵、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に亘り攻囲(松倉城の戦い)。上杉軍は支城の金山城を攻め落としたものの、武田信玄率いる武田軍が上野国へ侵攻したため上杉謙信は松倉城の攻城途中で帰国し、上野の沼田城に入城した。
10月  信長、伊勢国をほぼ平定。
 武田信玄、北条氏の小田原城を攻める。
1570年
(元亀元年)
1月  将軍足利義昭と織田信長の対立が次第に表面化する。信長が義昭に五か条の条書を認めさせ、「義昭の命令は信長だけが承る」として、義昭幕府が、それまでの大名連合体制と久秀も含めた同盟者の立場から、一気に信長の単独連立体制と信長が上位者へと変貌する。
     信長は主要大名・国人への触書を出すが、触書に家康や義継宛には殿を付けたが、嫡男信忠の義父の松永久秀には付けず、義継の宿老扱いに、地位低下させられた。
     下野において再び佐野昌綱が上杉謙信に背いたため、上杉軍は唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。
4月  織田信長・徳川家康連合軍、京を発し、越前の朝倉義景攻めに向かう。
 金ヶ崎の戦い;信長方による朝倉義景攻めの最中、北近江の浅井長政が朝倉方に寝返り。
 金ヶ崎の退口;織田・徳川軍が京へ撤退。
     松永久秀は信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。
     上杉謙信は北条氏康の七男(異説あり)である北条三郎を養子として迎えた。謙信は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇した。
6月  姉川の戦い(近江):信長・家康連合軍、浅井長政・朝倉義景を破る。
 徳川家康、岡崎城から三河国浜松城に移る。
9月  石山合戦始まる;摂津国石山本願寺光佐(顕如)、反信長挙兵(~1580)、各地の門徒に檄文を発する。
 信長、近江坂本に出陣し、比叡山の浅井・朝倉軍と対峙する。
  10月  北条氏康から支援要請により上杉軍は上野国へ侵攻し、武田軍と交戦した後、年内に帰国。
11月  伊勢国長島の一向一揆;織田信長の弟信興を攻め滅ぼす。
12月  信長、勅命及び足利義昭の斡旋で浅井・朝倉と和睦。
1571年
(元亀2年)
2月  上杉謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣。椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃。数年に亘り謙信を苦しめた新庄城・守山城などを攻撃。康胤は激しく抗戦を続けたが、上杉軍はこれらの城を落城させた。康胤は再起を目指して落ち延びて、越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続けた。その後、両者の間では、富山城を奪い合う戦いが幾度となく繰り返され、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになった(越中大乱)。
     上杉謙信と共に武田信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈る。
4月  武田信玄、三河国吉田城で徳川家康と戦う。
5月  信長、長島一向一揆討伐に出陣。
     松永久秀は畠山秋高の家臣で自らの指揮下にあった安見右近を奈良に招いて殺害すると、その本拠である交野城を攻めた。これに呼応するように三好義継や敵であった三好三人衆までが畠山攻めを開始して、6月には連合して高屋城を攻めた。
     松永久秀と三淵藤英・細川藤孝兄弟が山城普賢寺城を巡って交戦。
  6月  松永久秀、三好義継、三好三人衆は、連合して高屋城を攻めた。
     足利義昭としては、松永久秀・三好義継・畠山秋高は幕臣同士の争いを許容せず、和田惟政に秋高救援を命じた。
   将軍足利義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込み、順慶を宿敵とする松永久秀はこれを許せず義昭に反旗を翻し幕府を離脱する。
  8月  辰市城の戦い;松永久秀は筒井方に大敗し、竹内秀勝らの重臣と奉行人など有力な家臣を失う。筒井城も奪還された。
     松永久秀は、三好三人衆と連携していた阿波三好家(三好長治・十河存保・篠原長房)とも和睦をして白井河原の戦いで和田惟政を討ち取る。
 毛利元就の次男吉川元春が出雲の尼子勝久を攻める。敗れた勝久は織田信長を頼る。
9月  信長、比叡山延暦寺を焼き打ち。
  10月  普賢寺城を抑えた松永久秀がさらに義昭方の槙島城へと攻め込む。
     関東の覇権を長年上杉謙信と争った北条氏康が死去。
     松永久秀が大和支配の安定化のために幕府の直轄地である山城南部への進出を図り、それが将軍足利義昭との境界紛争を招いた結果として、義昭は久秀を牽制するために順慶と接近した。
     将軍足利義昭と信長の協力関係は続いており、松永久秀は信長と敵対したのではなく、義昭と対立した結果としてその後見である信長とも対立したと見られる。
  11月  北条氏政からの支援要請により上杉軍は関東へ侵攻。佐竹義重が武田信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。
  この年  甲斐国の武田信玄から松永久秀宛に書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。
 ポルトガル船3隻、長崎に入港。
1572年
(元亀3年)
 松永久秀と三好義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするが、将軍足利義昭の働きかけによって失敗する。
     しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは、朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近し、また義昭と信長の関係悪化に伴って、敵対対象は信長へと移行していく。;信長包囲網
  1月  北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦。謙信は再び北条氏と敵対する。上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動。謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになる。
     上杉軍は利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。
  5月  武田信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城、白鳥城、富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。
7月  信長、北近江小谷城の浅井長政・朝倉義景と対峙する。
8月  上杉謙信、越中へ出陣し、新庄城に布陣。その後、富山城の一揆勢は9月17日未明には小旗を畳んで日宮城方面に退却。
9月  信長、将軍義昭に「異見17ヶ条」を出し、その失政を責める。
     上杉軍は神通川を越えて西進し、滝山城にも攻撃を開始し、年末にこれを制圧。
11月  信長、上杉謙信と同盟を結ぶ。
12月  武田信玄、三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝。
1573年
(元亀4年)
1月  椎名康胤方の松倉城が開城。
2月  足利義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と松永久秀・三好義継は和睦。
4月  武田信玄、病状が悪化し、上洛を諦め甲斐へ戻る。途上、没する。信長包囲網の一角が崩れる。上杉謙信への圧力も薄らぐ。
 信長、将軍義昭を二条城に包囲。
7月  将軍義昭、山城国宇治槙島城で挙兵。
 信長、将軍義昭を追放;室町幕府滅亡。
8月  信長、北近江浅井長政と越前朝倉義景が籠城する小谷城を攻撃。
 信長、退却する朝倉義景を攻め、自害に追い込む。越前一乗谷朝倉氏を滅ぼす。
 信長、浅井長政を近江小谷城に攻める。浅井一族自害。
     上杉謙信は越中国へ出陣、増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、越中の過半を制圧。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。
     謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻。
11月  信長、本願寺の顕如と和睦。
     若江城の戦い;三好義継、信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死。
12月  松永久秀、大和国多聞城で信長に降伏。三好三人衆も、信長に敗れ壊滅し、包囲網は瓦解した。


資料   『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1 『日本史年表・地図』 (吉川弘文館)
 *2 『日本の合戦年表』 (地人館編著 朝日新聞出版)


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