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月 |
出来事 |
1563年
(永禄6年) |
1月 |
毛利元就、安芸国の銀山を朝廷御料所に献上。 |
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2月 |
北条氏康・武田信玄、上杉方の武蔵国松山城を攻略。 |
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上杉謙信は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城(現 加須市)を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城(現 行田市)の成田長泰を降伏させた。 |
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4月 |
上杉謙信は下野に転戦して、唐沢山城(現 佐野市)を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城(現 小山市)も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城(現
結城市)の結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。 |
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7月 |
松平元康、今川氏真と絶交し、家康と改名。 |
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8月 |
三好長慶の嫡子義興が22歳で早世。長慶は十河一存の息子で甥の重存(義継)を養子とした。 |
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毛利元就の嫡男・隆元が不慮の死。隆元の嫡子・幸鶴丸(輝元)が家督を継承。 |
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秋 |
三河国に一向一揆蜂起。徳川家臣も加わり、家康鎮定に苦しむ。 |
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この年 |
上杉謙信は、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えた。 |
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閏12月、上杉謙信は上野和田城(現 高崎市)を攻めた後、厩橋城(現 前橋市)で越年。 |
1564年
(永禄7年) |
1月 |
安房国里見義弘、北条氏康に下総国国府台で敗退。 |
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2月 |
松平家康、三河の一向一揆を鎮定。 |
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唐沢山城の戦い;三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し、唐沢山城に攻め寄せた。この時の戦いは10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも、最大の激戦となる。謙信は総攻撃をかけるも、昌綱は徹底抗戦。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。謙信は足利義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れる。 |
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3月 |
上杉謙信、上野国和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国。 |
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4月 |
上杉謙信は、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城(現 つくば市)を攻略。 |
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蘆名盛氏軍が武田信玄と手を結んで越後へ攻め込むが、上杉軍は蘆名軍を撃破。その間に武田軍は信濃国野尻城(現 水内郡信濃町)を攻略したが、上杉軍はこれを奪還。 |
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5月 |
長慶、松永久秀の讒言を信じ、弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺。 |
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7月 |
三好長慶、河内国飯盛山城で没(享年43歳)。義継(十河重存)が若年のため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えた。 |
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8月 |
第五次川中島の戦い;謙信率いる上杉軍は信玄率いる武田軍と川中島で再び対峙。60日に及ぶ対峙の末に上杉軍は越後に軍を引き、決着は着かず。以降、謙信と信玄が川中島で相見えることはなかった。 |
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9月 |
北条氏政、武蔵国関戸郷(多摩市)の市掟を制定。[海外;スペイン、フィリピンを征服] |
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10月 |
佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため上杉軍は唐沢山城を攻撃し、佐野昌綱を降伏させると人質をとって帰国。 |
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この年 |
足利義輝の斡旋もあり、毛利氏と大内氏が和睦。 |
1565年
(永禄8年) |
2月 |
越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦し、上杉謙信に救援を要請。 |
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3月 |
第一次関宿合戦;北条氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となる関宿城(現 野田市)の奪取に傾注。上杉謙信は、関宿城主
簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、謙信と戦わずして撤退。 |
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4月 |
毛利元就が出雲に出陣、尼子氏の月山富田城を兵糧攻めにする。 |
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5月 |
永禄の変;将軍足利義輝、室町第にて三好三人衆と松永久秀に襲われ自害(享年30歳)。 |
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やがて久秀は独自の動きを見せ始め、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)までの3年間内紛状態に陥った。 |
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6月 |
信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城(現 高崎市)を攻略した。 |
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7月 |
松永久秀ら、宣教師ヴィレイラ・フロイスを京都から追放. |
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9月 |
謙信は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点 和田城(現 高崎市)を攻めたが成功しなかった。 |
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11月 |
大和国多聞城の松永久秀、筒井順慶の筒井城(大和郡山市)を攻略。 |
1566年
(永禄9年) |
3月 |
上杉謙信は常陸国へ出兵して再び小田城(現 つくば市)に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また謙信と同盟を結ぶ安房国 里見氏が北条氏に追い詰められ、救援すべく下総国に進出。 |
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臼井城の戦い;謙信は、北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せたが籠城方の健闘により敗北。足利義昭の使者より、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請する書状が臼井の上杉軍のもとに届けられたことが、上杉軍の退却に繋がったか。 |
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5月 |
三好三人衆、松永久秀を破る。 |
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6月 |
筒井順慶、筒井城を奪回。 |
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9月 |
足利義昭、越前国朝倉義景を頼る。 |
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木下藤吉郎(秀吉)、美濃国墨俣に築城、斎藤龍興を破る。 |
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上杉謙信の臼井城攻め失敗により、謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。上野金山城主・由良成繁が謙信に背く。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり謙信は守勢に回る。さらに謙信は関東での勢力拡大を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。 |
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11月 |
毛利元就、出雲国富田城を攻略、尼子義久降伏。 |
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12月 |
家康は正親町天皇の勅許により、松平を改めて徳川を姓とした。同時に従五位下三河守に叙任された。 |
1567年
(永禄10年) |
2月 |
金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が松永久秀を頼って出奔。これを契機に久秀は勢力を盛り返し、4月に堺から信貴山城に復帰した。 |
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3月 |
唐沢山城の戦い;上杉謙信は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、昌綱を降伏させる。しかし、厩橋城代を務める上杉の直臣
北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。 |
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4月 |
謙信は北条高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。謙信は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方であった)。 |
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5月 |
信長、娘を徳川家康の嫡子信康に嫁がせる。 |
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8月 |
稲葉山城の戦い;斎藤龍興を破り、美濃を平定。逃げた斎藤龍興を追って、伊勢に攻め込み、長島を攻撃。北伊勢の在地領主を服属させる。 |
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信長、稲葉山城を岐阜城と改め、居城とする。 |
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10月 |
松永久秀、東大寺大仏堂にこもる三好三人衆を攻撃し、大仏殿・大仏焼けたが畿内の主導権を得る。一方、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。 |
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信長、岐阜城(旧 稲葉山城)下の加納を楽市とする。 |