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月 |
出来事 |
1574年
(天正2年) |
1月 |
1日、信長の重臣達が年始の祝賀の為岐阜城へ登城。 |
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松永久秀は岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である佐久間信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。 |
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信長、越前一向一揆討伐の為、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を派遣。下旬、武田勝頼、美濃明智城を攻める。 |
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2月 |
信長、美濃明智城救援の為出陣するも、間に合わず落城。 |
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3月 |
信長、従三位、参議に叙任される。東大寺の蘭奢待を賜る。 |
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羽柴秀吉、近江国長浜城に入る。 |
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上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため、8,000の兵を率いて関東に出陣し上野金山城(現
太田市)の由良成繁を攻撃、膳城(現 前橋市)、女淵城、深沢城(現 御殿場市)、山上城(現 桐生市)、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らなかった(金山城の戦い)。 |
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織田信長から上杉謙信に、狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』が贈られる。 |
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4月 |
石山本願寺光佐(顕如)、信長の諸城を攻撃。 |
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武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため、上杉軍は北条氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。 |
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5月 |
武田勝頼と徳川家康の攻防が繰り返される。勝頼、徳川領の高天神城を攻める。徳川家康、信長に救援を乞う。 |
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信長、家康救援の為、京を発する。 |
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6月 |
中旬、高天神城の救援に向かうも間に合わず落城。 |
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7月 |
上杉謙信、越中を平定する。以後、加賀に侵攻する。 |
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9月 |
信長、伊勢長島の一向一揆を鎮定。中江・屋長島の一揆勢男女二万人を焼き殺す。 |
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10月 |
尾張国の道路や橋、水道などの修繕を命じる。 |
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北条氏政が下総関宿城(現 野田市)の簗田持助を攻撃するや、謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなった(第三次関宿合戦)。 |
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閏11月 |
上杉謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めるが、既に関東では上杉派の勢力が大きく低下していた。 |
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12月 |
分国中の道路整備を行う。 |
1575年
(天正3年) |
1月 |
上杉謙信、養子 喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲る。 |
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4月 |
信長、高屋城にて三好康長を攻める。 |
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5月 |
長篠城救援の為、岐阜を発し、尾張熱田に陣。その後家康と合流。 |
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長篠の戦い;信長と徳川家康の連合軍、三河国設楽ヶ原で武田勝頼を破る。(5/21) |
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7月 |
正親町天皇、信長に官位の昇叙を進めるも辞退。 |
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長曾我部元親、土佐を平定する。 |
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8月 |
越前一向一揆を討伐。 |
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9月 |
信長、柴田勝家を北陸方面の司令官とする。 |
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10月 |
信長、尾張国に橋の架設を命じ、また道路には並木を植えさせる。 |
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信長、伊達輝宗の使者をもてなす。本願寺光佐、和を乞う。信長これを承諾。 |
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信長と石山本願寺光佐(顕如)と和睦成立。 |
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下旬、信長、京都妙覚寺で茶会を開く。千利休が茶頭をつとめる。 |
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11月 |
嫡男信忠に、尾張・美濃を与え、家督を譲る。 |
1576年
(天正4年) |
2月 |
足利義昭、備後の鞆に移り、毛利輝元(元就の孫)に支援を求める。 |
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信長、近江の安土城に移る。 |
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4月 |
石山本願寺 顕如が再び挙兵し、織田軍が石山本願寺を包囲する。 |
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5月 |
信長、摂津国四天王寺から石山本願寺に迫る。 |
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足利義昭が反信長勢力を糾合し、義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越三和が試みられる。謙信は越相同盟を破棄したことのある北条氏政との和睦は拒否したが、武田勝頼との和睦は了承。 |
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上杉謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた顕如と和睦。 |
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謙信が本願寺と講和した背景には、足利義昭が毛利氏の庇護下から謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる。また、前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越三和は成立しなかったものの、謙信と本願寺との講和によって、信長包囲網が築き上げられた。だが、謙信が本願寺や毛利輝元との同盟を決めたことで、信長との同盟は破綻し、以後敵対することとなる。 |
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毛利輝元が謙信に上洛を呼びかけたことで、6月に謙信は輝元の叔父・小早川隆景に対して、来秋には上洛するように伝えている。 |
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7月 |
中国の毛利元就、信長の水軍を破り、石山本願寺に兵糧米を搬入。 |
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9月 |
上杉謙信は、管領畠山氏が守護を務める越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、増山城、守山城、湯山城を攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに越中を平定した。 |
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10月 |
足利義昭から信長討伐を求められ、上杉謙信は上洛を急ぐことになる。この時期、織田信長は朝廷から内大臣に、次に右大臣に任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に織田政権と室町幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎない。 |
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11月 |
織田信長、正三位、内大臣に叙せられる。 |
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上杉謙信、能登に侵攻し諸城を落とした後、七尾城を包囲する。謙信の狙いは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で七尾平定は重要であった。七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が主導権争いをしており、内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、抗戦を決した。これにより、七尾城の戦いが勃発する。 |
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第一次七尾城の戦い;謙信は能登国に進み、熊木城、穴水城、甲山城(かぶとやまじょう)、正院川尻城(しょういんかわしりじょう)、富来城(とぎじょう)など能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んだ。しかし七尾城は石動山系北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった。付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年する。 |
1577年
(天正5年) |
2月 |
織田信長、紀伊国雑賀衆の一向一揆を攻撃。 |
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3月 |
滝川一益、明智光秀ら雑賀を攻める。 |
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鈴木孫一ら一揆の首謀者が投降信長これを赦す。 |
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6月 |
信長、安土山下町に13ヶ条の掟書を出し、安土城下の繁栄を図る。 |
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信長、安土城下を楽市とする。 |
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上杉謙信は七尾城を包囲していたが、関東での北条氏政の進軍もあり、春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされた。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す書状が届く。 |
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7月 |
信長、伊達輝宗に上杉謙信の暗殺を誘う。 |
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閏7月 |
上杉謙信は再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲する(第二次七尾城の戦い)。このとき、七尾城内では疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していた。しかし、守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。このため、謙信は力攻めは困難とみて調略を試みる。 |
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8月 |
信長、上杉謙信に備える為、柴田勝家らを加賀に派遣する。 |
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松永久秀、足利義昭・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もる。信長は松井友閑を派遣し、理由を聞こうとしたが、使者には会おうともしなかったという。信長は激怒し、佐久間盛明が養育していた13歳と12歳の二人の人質を処刑した。*3 |
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長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。総大将・柴田勝家の下、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。 |
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9月 |
上杉謙信、加賀の湊川で柴田勝家ら織田勢を破る。 |
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上杉謙信は立て籠もる七尾城内の遊佐続光らと通じて反乱を起こさせ、信長と通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城は落城。2日後の9月17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。 |
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9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。 |
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9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千人は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。 |
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9月26日、七尾城の普請が着手され、謙信も登城し、その眺望の素晴らしさ長尾和泉守宛の手紙の中に記す。また、手紙の中で、信長の軍を「案外ニ手弱之様体(案外に手弱だ)」とし、「此分ニ候ハ、向後天下迄之仕合心安候(この分だと、今後、天下までの仕合も心安いものだろう)」と記している。謙信はさらに西に進み、信長を討伐することを本気で考えていた可能性がある。 |
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10月 |
信貴山城の戦い;信長は、嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした10万の軍勢を送り込み、松永久秀の信貴山城を包囲。佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊す」と返答し、織田軍の攻撃により、久秀は平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ、自害。享年68。 |
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羽柴秀吉、中国征伐のために京都出発。 |
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12月 |
秀吉、播磨国上月城を攻略。尼子勝久、山中鹿之助(幸盛)が入城。 |