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月 |
出来事 |
1560年
(永禄3年) |
1月 |
幕府、宣教師ヴィレイラに京都布教を許可。 |
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5月 |
今川義元、駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた大高城を救うべく、周辺の織田方諸砦を松平元康らに落とさせる。 |
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桶狭間の戦い;前哨戦に勝利した報せを受けた今川義元は、沓掛城で待機していた本体を大高城に移動させる途上、桶狭間で休息中に織田信長の急襲を受け、首をとられた。42歳。 |
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今川家の人質となっていた松平元康(徳川家康)、駿河から11年ぶりに三河国岡崎城に帰る。 |
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8月 |
越後国守護代長尾景虎(上杉謙信)、関東管領上杉憲政を奉じ上野国へ出陣。 |
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9月 |
長尾景虎の動きに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた北条氏康は、包囲を解いて河越に出陣、10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城し、籠城の構えをとった。 |
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12月 |
尼子晴久死去。晴久の嫡男・尼子義久は将軍・足利義輝に和睦を願う。永禄5年(1562年)6月、本城常光が毛利氏へ寝返ると、毛利元就は和睦を一方的に破棄し出雲侵攻を開始。 |
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この年 |
甲斐国釜無川の信玄堤が完成。 |
1561年
(永禄4年) |
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信長、尾張を統一(一向宗長が支配する島附近は除く) |
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1月 |
足利義輝や北条氏康が今川氏真(義元嫡男)と松平元康との和解を促したが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。氏真には痛恨の事態となった。 |
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3月 |
小田原城の戦い;長尾景虎、北条氏政の小田原城を攻囲するも攻めあぐねる。 |
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三好長慶、義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎える。 |
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閏3月 |
長尾景虎、上杉憲政に関東管領職を譲られ、鎌倉八幡宮で上杉政虎を名乗り、管領就任式を挙行。 |
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5月 |
三好長慶、将軍義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津普門寺へ迎え入れる。 |
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嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。 |
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9月 |
上杉謙信と武田信玄、信濃国川中島で激闘(第四回川中島の戦い;八幡原の戦い)。激戦となり、両軍死者多数。信玄の弟信繁や軍師山本勘助らが戦死。 |
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東三河でも、国人領主らは今川氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。 |
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今川家から離反した菅沼定盈の野田城攻めに先立って、今川方の小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。 |
1562年
(永禄5年) |
1月 |
信長、松平元康と清洲同盟を締結。 |
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2月 |
北条氏康・武田信玄が上杉方の松山城を攻め落とす。上杉政虎、救援に向かうも間に合わず。*2 |
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4月 |
将軍義輝を追放し京都を占領中の六角義賢、土一揆の蜂起で徳政令を発布。 |
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6月 |
毛利元就、本城常光が毛利氏へ寝返ると、尼子氏との和睦を破棄し、出雲侵攻を開始。 |
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7月 |
大村純忠、ポルトガル人に肥前国横瀬浦を開き、教会を建てる。 |
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毛利元就、出雲国の尼子義久の諸城を攻略。 |
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11月 |
上杉軍が関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受けた。信玄からの援軍を加え、5万人を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く上越国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、謙信は松山城を救援するため峠越えを強行。 |
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12月 |
上杉謙信は12月には上野沼田城に入ったが、間に合わず翌年2月松山城は落城した。 |