| 戦国の群雄 (生年順) |
| 北条 早雲 |
1432~1519;室町時代中後期(戦国時代初期)の武将。戦国大名となった後北条氏の祖・初代。生前は伊勢盛時、出家後は早雲を名乗った。嫡男氏綱が北条を名乗ったが鎌倉時代の執権北条家との関係はない。今川家、足利将軍家、山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争(長享の乱)などで伊豆、相模などに領地を広げた。領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名として、戦国大名の先駆けと言われる。 |
| 毛利 元就 |
1479~1571;中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。安芸毛利氏の第12代当主。安芸国高田郡吉田荘の吉田郡山城を本拠地とした国人である毛利弘元の次男。策略家として知られ、一代で一国人領主から勢力を伸ばして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配する中国地方の大大名となった。 |
| 北条 氏綱 |
1487~1541;後北条氏第2代当主。伊豆国・相模国を平定した伊勢盛時(北条早雲)の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 |
| 大内 義隆 |
1507~1551;戦国時代の武将、周防国の守護大名・戦国大名・公卿。大内氏の第16代当主。第15代当主義興の嫡男。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位・兵部卿兼大宰大弐兼侍従兼参議。義隆の時代に領土的に全盛期を迎え、大内文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣陶晴賢に謀反(大寧寺の変)を起こされ、義隆と一族は自害した。 |
| 尼子 晴久 |
1514~1560;出雲国の戦国大名。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し、当時の中国地方随一の大大名となった。大内、毛利の両家と度々戦火を交え、尼子家の最盛期を創出した。父・政久が、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで陣没。祖父・経久の世子(直接の跡取り)に繰り上がった。元服後の初名は詮久(あきひさ)。晩年、大内領の大半が毛利領になると、毛利氏による石見東部への侵攻が激しくなり、晴久はよくこれを防いだが、永禄3年(1560年)12月、晴久は月山富田城内で病死。享年47。嫡男の義久が継いだ。 |
| 北条 氏康 |
1515~1571;相模国の戦国大名。北条氏綱の嫡男、後北条氏第3代当主。関東から山内・扇谷両上杉氏を追い、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退けた。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって北条氏を率いた。 |
| 今川 義元 |
1519~1560;駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹の婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域を支配。合理的な軍事改革等の領国経営と外征面での才覚により今川氏の戦国大名への転身を成功させた。駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に討ち取られた。嫡男氏真が今川家を継ぐが、武田信玄、徳川家康らの駿河侵攻により戦国大名としての今川家は滅んだ。 |
| 武田 信玄 |
1521~1573;甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。晴信、信玄は出家後の法名。甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の次男。信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。享年53。 |
| 三好 長慶 |
1522~1564;畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、細川晴元の有力家臣であったが、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴・義輝ともども晴元を京都より放逐し、三好政権を樹立。その後は細川氏が支配していた領地を継承・拡充して三好氏の勢力を畿内の大部分にまで広げ、足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び、畿内の支配者として君臨。嫡子義継の家督相続のために上洛し、義輝らへの挨拶が終わると飯盛山城に帰ってまもなく病死。享年43歳。義継は信長に滅ぼされる。 |
| 上杉 謙信 |
1530~1578;越後国など北陸地方を支配した武将・大名。初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)、上杉政虎(まさとら)と改名、同家が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍足利義輝より一字を譲り受けて輝虎と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号。信濃に進攻し、武田信玄と5次にわたる川中島の戦いを行った。また、今川義元死去により、甲相駿同盟が崩れたのを見計らって、上野、武蔵、相模に進攻した。その他、越中、能登にも進出し、能登に進出してきた織田方の柴田勝家を撃退している。足利義昭の誘いがあり、越相同盟を拒否したことのある北条との和睦は拒否したが、武田勝頼や本願寺と和睦し、信長包囲網を形成した。関東に出兵する準備中、閑所で倒れた死去。享年49。 |
| 大友 宗麟 |
1530~1587;大友義鎮(よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。大友氏の21代当主。宗麟は法号。キリスト教にも受洗。中国明朝との外交では「豊後太守源義鎮」、カンボジア国王からは「日本九州大邦主」、ポルトガル国王からは「豊後の王」と称された。父は20代当主・大友義鑑。中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。 |
| 織田 信長 |
1534~1582;戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。尾張国織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権を確立して天下人となった。しかし、天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。享年49。没後、正一位を追贈された。 |
| 豊臣 秀吉 |
1537~1598;木下藤吉郎秀吉として、尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改姓した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。秀吉は毛利氏と交戦していた中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ毛利氏と和睦して引き上げ(中国大返し)、京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに、秀吉は柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破るなど、織田政権内の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、正親町天皇から豊臣の姓を賜った。秀吉は朝廷の権威を背景とした惣無事の名のもと、各地の戦国大名に臣従を要求し、小田原征伐で北条氏を降し天下統一を果たした。天下統一後、秀吉の豊臣政権は太閤検地・刀狩令・石高制などの政策を全国規模で推し進めて、近世封建制度の基礎を築き、各地の蔵入地や鉱山からの収入で巨大な財力を手にした。晩年は明の征服を決意して、朝鮮出兵を行い(文禄・慶長の役)、実子秀頼が生まれたことで後継と定めていた甥の秀次を排除し、政権の再構築を余儀なくされた。秀吉は病に倒れ、幼い秀頼を徳川家康・前田利家に託してこの世を去った。しかし、秀吉亡き後の豊臣政権はほどなく内部対立の激化から関ヶ原の戦いを生じ、勝者となった徳川家康が江戸幕府を樹立。さらに、豊臣氏は大坂の陣で幕府に敗れ滅ぼされた。 |
| 北条 氏政 |
1538~1590;戦国時代の相模国の戦国大名。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田勝頼とは義兄弟にあたる。石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出たが、本能寺における信長死亡後は上野国を奪い返し、滝川一益を撃退。豊臣秀吉や徳川家康と対立。和平調停も行われたが、氏政は秀吉からの上洛要請を拒否し、秀吉による22万軍勢による小田原征伐が行われ、氏政は切腹した。享年53。 |
| 前田 利家 |
1539~1599;戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。「加賀百万石の祖」とも称される。尾張国荒子城主前田利春(利昌とも)の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の後見を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取に動く徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8か月後に病死した。享年62。 |
| 徳川 家康 |
1543~1616;戦国時代から江戸時代初期の日本の武将・大名。天下人、江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川氏(将軍家、御三家)の祖。三英傑の一人。三河国の国人土豪・安祥松平家5代当主。元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改めた。当初は今川氏の配下として活動するが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを機に、今川氏から独立して家康に改諱し、織田信長に接近して清洲同盟を結ぶ。永禄9(1566年)年12月には徳川氏に改姓した。本拠三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げる。天正10年(1582年)本能寺の変での信長死亡後に発生した天正壬午の乱も制して甲斐国・信濃国を手中に収め、5か国を領有する大大名となった。信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで対峙し、実質的な勝利大名とするが、後に秀吉に臣従し、天正18年(1590年)の小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し、天下人の地位を獲得すると、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。晩年の慶長20年(1615年)には大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、また武家諸法度や禁中並公家諸法度など諸法令の策定も行い、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。 |
| 伊達 政宗 |
1567~1636;出羽国と陸奥国の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩の初代藩主。伊達氏第16代当主伊達輝宗と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼いころ疱瘡(天然痘)を患い、右目を失い隻眼となる。天正12年(1584年)10月、父輝宗の隠居にともない家督を相続し、父と同じく米沢城を本拠とする。輝宗は、天正13年(1585年)10月、所領安堵の件などの礼に来ていた畠山義継の見送りに出た所を拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した(粟ノ巣の変)。この事件については、鷹狩中の手勢がなぜか鉄砲で武装していたことを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある。天正15年(1587年)12月、関白・豊臣秀吉による惣無事令(私戦禁止令)を発令後も政宗は、二本松城の畠山氏や佐竹氏と抗争を続け、会津および出羽置賜地方、奥羽南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。秀吉の小田原攻囲中の天正18年(1590年)5月豊臣方から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立し小田原に至った。秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石を安堵した。政宗は秀吉に面会する際、水引で髪を束ねることで斬首の覚悟を示して臨んだ。 |