臨床余録
2025年9月21日
ぼくには今しかない

 「ぼくには今しかない ぼくにもあなたにも 今を生きることがよく死ぬことにつながる 死は一回だ くいなく死にたい」

 これは認知症専門医であり自ら認知症を公表していた長谷川和夫医師が亡くなる前に書かれた言葉である。含蓄のある文章だ。

 朝日新聞の声欄にこのところ認知症本人や介護する人からの投稿が多い。
 そのなかでも、印象に残った言葉をあげてみよう。

 夫は自分で話したことを忘れたり新聞の記事を読んでも覚えられなくなり、かかりつけ医から専門医を紹介され認知症と診断。いよいよ来たか、とショックであったが一方「忘れっぽくなってから、性格が丸くなり穏やかになった。普段は言わない感謝の言葉を妻に言うようになった。」
 もう一例は、批判や愚痴の多かった母親が「80歳を過ぎ、認知症になり家族との大切な思い出をすべて忘れてしまった。同時につらい思い出も忘れ、昔の恨み言を一切いわなくなった」

 この2つの例と似た現象はときどき僕の患者さんでも経験する。不安抑うつ状態で長く治療していた方が認知症の症状が出て来るのと並行して不安抑うつが消失する。苦しい症状はなくなり笑顔をみせるようになるのである。

 認知症になることはすべてネガティブに捉える必要はないことを示唆している。本人の心の内部では一種の安らぎが生まれているのかもしれない。

附記
*昔、メディカルエッセイ集『バビンスキーと竹串』(p48)に載せた文章を思いだしたので下に載せる。横浜市民病院神経内科で働いていたころのものだ。

「認知症になることで病前より幸せそうにみえる例を少なからず経験している。その場合、“幸せ”の基準が変わるのがポイントだ。例えば今思うのは次のようなケース。ワンマンでわがまま、亭主関白であった方が認知症になり、妻にも人にもやさしい、単純だが思いやりに満ちた男性に変貌した。日付けも場所もわからず、金銭管理もできなくなり、すべて妻に頼らざるを得ない。しばしば排泄の失敗もある。そのつらいはずの困難や失敗がふたりの笑顔をもって語られる。実際はとても表現できない大変な苦労があるのかもしれない。それにしても、「何もかも、もうこの人にまかせていますから」と言いながら妻をいたわるその態度はなかなか真似ができない。認知症の不自由と苦労は、ここでは人のもつ根源的ないつくしみとユーモアで乗り越えられているかのように見える。認知症は治らない。しかし、治らないことで別次元の生の地平が開かれてくることがある。」

*今回の新聞投稿のなかでもうひとつとりあげる。74歳の開業医からのもの。「どうでもいい事は忘れるようにしていますが、大切の事はしっかり覚えます。でも今の私にはその大切な事がないんです。」と92歳の女性の言葉を引用。「脳機能だけを見る薬物中心の医療でなく、人の幸せは何か、残りの人生をどう生きるか、多次元的な視点で受け止めねばと思う。」とまとめている。共感できる視点だ。





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