思春期は成長と不安定さ、依存と自立、希望と失望などの矛盾(dialectics)に満ちた時代である。私の臨床ではこれらの対立に寄り添い、時期尚早にそれを減らしたり解消したりする衝動を抑えるようにしている。キーツは友人レイノルズにあてて書く、「ミツバチを性急に集めたり、到達すべきものの知識からあちこちブンブン飛び回って鳴いたりするのはやめよう、そうではなく花のように葉を開いて、静かに受身になって待つようにしよう。」私が診る患者は毎日勝利と敗北を味わっている。簡単な答のない疑問を抱え、我々の社会に蔓延している知的な不協和音を味わいながら不安を経験している。キーツは兄弟に書く。「この世に安定しているものは何もない、騒動がお前の唯一の音楽だ」私は患者自身が決定し解答できるようにこれらのプレッシャーに抵抗する力を作り出すのを助けることは可能と信ずる。大人になるための難題を乗り越える自信を培うためにこの忍耐力が決定的に重要である。「私のこころは不全感に満ち落ち着かず、それを入れるに身体は小さすぎる」キーツの言葉は若者の不安の生きた表現だが、その心情は思春期に限ったものではない。生涯のどのステージにあっても患者は不確かさを経験する、説明を阻む症状、多様な成功率の治療、保証されない予後である。医者やケアギバーもまた、自己と他者、主観と客観そして委託と自己決定の間で自分たちの不確かさに直面する。
ネガティブ ケイパビリティはこれらの曖昧な領域に開かれた状態で近づくように我々を導く。そして、複数の視点を誘導し、個人と普遍的なもの間の緊張から生まれる意味を導く。この考え方は科学を否定するものではなくそのレンズを広げるものである。エビデンス、プロトコール、そしてナラティヴはすべてケアの必須要素である。「知識のどの部門も大きな全体にむけて素晴らしく計算されている」とレイノルズに書く。「私はこのことに確信を持つ故に自分の医学書を捨ててしまわなかったのは、そこで知っている僅かな知識を生かすためによかったと思う」
ネガティブ ケイパビィリィティは他者をケアするすべての人にとって必須のものである。それは成長とつながりを支えるものとして疑いを価値あるものと認めることを我々に促す、そして我々が患者の経験に寄り添い、矛盾に耐え、変容可能な場所を作りだすことを助けてくれる。思春期の若者はいつも私に人生は不可解(mysterious)ということを思い出させる。私は自分の仕事はもや(mist)を取り除くことではなくもやとともに居ることであると思う。「私はとても奇妙な人生を生きてきた」そうキーツはレイノルズに書く。「あちらにもこちらにも・・錨(いかりanchor:力とたのむもの)はなかった・・私はそれを喜ぶ」我々の日々の仕事においてキーツのネガティブ ケイパビィリィティへの呼び声を心にとどめよう、そしてそれを喜ぼう。
以上が後半(一部省略した)の拙訳である。医療やケアにとって大切と思わるところに下線を付した。
附記
*このエッセイでは、人生の不思議さ、不確かさ、不可解さ、疑わしさなどは否定すべきものではなく、性急に事実や理由を求めようとすることなくそこに留まることは、人の成長や深化のために価値あるものとしてネガティブ ケイパビリティの意味を説いている。それに対して今急速に広がりをみせているAIの思想はネガティブ ケイパビリティの思想とは相容れないように思うのだがどうであろうか。
*このブログで書いた「もうお花見はおわりましたか」のAさん。訪問診療は不透明なもやの中だった。彼の世界は不可解であった。先は見えずあらゆる予測は不確かさで満ちていた。不安はあったが、患者の意向に沿い病院には行かず在宅に留まることを続けた。そして亡くなられた。それでよかったのかどうかわからない。もやもやするものは残る。しかし、今思い起すと、すでに呼吸も止まり眼をつむったままの蒼白の彼の表情はなにか崇高なものを秘めていたような気もするのだ。
*ネガティブ ケイパビリティをキーツの手紙の原文に沿って載せておこう。
“Negative capability”―the state in which a person“ is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after facts&reason.”
他人の視点のなかに住むために詩人は自らのアイデンティティを解き放たなければならないとキーツは主張した。「詩人はアイデンティティを持たず、絶えず求めており、他なる身体に満ちわたる」友人にこう語る。これは、アイデンティティ形成と個性化は思春期の中心的課題という教訓に反する。しかし自己の模索は他者へのつながりを妨げるものではない。むしろ成長は個の境界を広げる関係性に依存する。実際、この関係性は若者が自分を大きな全体の一部であるとみる機会を与える。私はよく患者に、劇場でもスポーツでもクラブでも違う生活圏の人たちと仲よくすることをすすめる。このような接触は共感性を磨き、仮説を検証し、コミュニティでのアイデンティティへの理解を広げる。それは誰ひとり孤立した島ではないことを思い出させてくれる。「私はますます想像力が強くなり自分はこの世界というより数多くの世界に住んでいるようだ」と兄弟に書く。
医師もまた自己と他者、個人と大衆を融和させることを学ばなければならない。「私自身、人よりも正しいとは思わないし、この世で証明できるものは何もないと思う。」キーツはこう友人に書く。近代医学は証明できることを重んじ、客観的なアルゴリズムや測定可能な結果に頼ってケアを標準化する。にもかかわらず「それを経験するまでは何も現実にはならないのだ」とキーツはいう。人をケアするには主観的な空間、生きられた経験への注意そして個人の生活のごたごたした現実が必要である。
このつり合いをとる行為は若者の臨床において具体的に表われている。例えば、摂食障害の入院治療では厳しい栄養リハビリプロトコールを必要とする、この基準からはずれると偏見や不平等の懸念が生じる。治癒にむけてサポートするには背景にある昔のトラウマや持続的困窮をとりあげる必要がある。キーツは愛する友ブラウンへの手紙に書いた。「あなたのような健康な人間は私の神経と気性が経験する恐怖を想像することはできないでしょう。」この恐怖を見分け、対処することに失敗すると患者の人間性は窒息する、そしてケアに関連する側面は無視される可能性がある。ネガティブ ケイパビリティは、客観性と主観性は相容れないものではなく、相互に依存するという認識を我々に促す。データや根拠は基礎を形作る、一方ナラティブ(物語)はプロトコールが失敗する空間をうずめる。キーツはレイノルズに書いた。「原理(axiom)は自分の脈(pulse)で証明されるまでは原理ではない、我々は病気になるまでそれを理解できない」次のステップに導くために患者や家族の視点や優先事項を聞き出して治療選択を考えるときにはこの学びを身近に置くようにする。これらの経験は、癒しはアルゴリズムではなく患者と臨床医の生きた出会いのなかで起こることを思い出させてくれる。
以上が拙訳でこのエッセイの前半の一部にあたる。
附記
*キーツは早くから詩の才能を見出され、詩人こそが最高の人間であるという信念が固められていく。しかし経済的には困窮しどこかに自己のアイデンティティー(存在証明)を求めながらも持つことができない、そしてあらゆるものの中に自分を満たそうとする。また自分の正しさもわからず物事すべてを解決することはできないこと、詩人はその不確かさを受け入れる能力があると信じていた。
*客観的にリアルとされる物事も自分がそれを経験しなければリアルとはいえないというキーツの言葉は大事だ。測定可能な標準化されたケアなどリアルとはいえないのだ。
*治療選択の際、医師は患者に客観的データを示し、どこまでが確かで不確かさはどれくらいかを提示する。いわゆるインフォームドコンセントである。大事なのは不確かさの共有。そして患者のナラティブ(物語)も医師と共有されることで癒しのプロセスが促進される。
*『キーツ詩集』岩波文庫 (中村健二訳)より好きなフレーズをあげてみる。
立ち止まって思いみよ! 人生はたったの一日。
木の梢から危険な旅路をたどる
はかない露のひと滴
The lancet March 29 2025 perspective欄 The art of medicineを読む。タイトルは Negative capability: a moral imperative in adolescent medicine. 筆者はAnoushka Sinha
数か月前、私は英国ロンドン、ハムステッドのキーツハウスを訪ねた。ジョンキーツ(1795‐1821)は医者になるため初めの5年間の修行を終えロンドンのガイズホスピタルの医学研修生となった。そして25歳、結核で死ぬ。悲劇的に短い生涯に彼はイギリス文学の混沌と矛盾の中に不動の光を与えた。その力を彼は兄弟への手紙の中で“Negative Capability”と表現した。それは「苛立って事実や理由を求めようとすることなく、不確かさ、不可解さ、疑惑の中に留まることができる状態」である。訪問中私は彼の詩稿の隣にある医学ノートをみることができた。恐らく彼の死への近接性が習慣的な感覚としての不安(uneasiness)になじみやすくしていたであろう。愛する友人への手紙に「誰かの病や死がいつも私の時間を奪い純粋な幸福を何日も味わうことができないでいる」と書いている。確かに、芸術的なインスピレーションと身体的なエクスピレーションの相互作用は彼のリアリティと偶然性への洞察をもたらしたであろう。
キーツは詩人になるために医学を捨てる。The Fall of Hyperionで逆説的に描いたhumanist: すべてのものの医者としての詩人になるためである。この言葉は200年後の思春期医学の医師である私の経験にも共鳴する。「私はもや(mist)のなかにいる。」そうキーツは友人John Reynoldsに書く。思春期は薄もやの季節である。私が診ている患者は自律と依存、力と弱さ、疑惑と可能性の間で揺れている。彼らは見られること、聞かれることを望む。自分たちの固有の経験を大事にし、しかし同時に自分を守るガードレールやガイダンスも必要としている。これらの対立する緊張を維持することは彼らをケアする複雑さを受け入れることを促す。これを受け入れるということ、つまりNegative Capabilityは、私にとっては単に哲学的な理想ではなくて医学におけるモラル上必須のもの(moral imperative in medicine)と信ずる。
以上が初めの5分の1ほどの拙訳。やや長いいエッセイなので何回かに分けて訳出する。
以下、附記とする。
附記
*ネガティブケイパビィリィティ(negative capability)という言葉はまださほどなじみはないかもしれない。Capabilityは能力、negativeは否定的という意味だから「否定的な力」「消極的能力」といった訳になるかもしれないがそのままネガティブケイパビィリィティとするのがよいだろう。簡単にいうと「不確かさの中に居られる能力」である。
*医学の臨床はポジティブな確実性を求める。しかし、実際は不確かさの中の仕事であるといってもよい。機械ではない人の身体や心を対象に診断し治療をする。薬の効果にしても何ひとつ完全に確かなことなどないではないか。どうか効いてほしいと祈るような気持ちで処方箋をだしている不確かな自分がいる。
*超高齢化社会となり慢性疾患の患者を診ることも多くなった。この先どういうことになるのか確かなことはわからないという思いで日々医者も患者も悩む。いわばちゅうぶらりんの状態に耐えることになる。これもネティブケイパビィリィティのひとつである。
*精神の病は検査や画像で診断できるわけではない。正解のない曖昧な領域である。いわばもやの中にいる。ひきこもりに近い状態の人もいる。その先のみえない宙づり状態に耐えること、思春期に限らず必要なのはネガティブケイパビィリィティなのである。
当サイトに掲載されている文章等は著作権法により保護されています
権利者の許可なく転載することを禁じます