(41)園芸は代表的な道楽だった
造形化した自然も好んだ江戸庶民
「趣味と贅沢と市場経済」旅シリーズの後は「園芸」です。植物の栽培や動物の飼育は、農村部では生活費を稼ぐために、都市部では趣味として多くの人が携わっていた。ここでは都市部の趣味の園芸を中心に、経済学的視点を忘れずに扱うことにする。 先ずはいろんな人の見方を紹介しよう。
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<代表的な道楽=園芸>  武家や町人の間でもっとも広く行われていた江戸時代の道楽とはなんであったろうか、ということになると、その代表的なものは、やはり今日と同様、園芸であったろう。 上は大名といった上流の武士階級が金に飽かしたものから、路地の長屋住まいにいたるまで、大名は大名で、庶民は庶民なりに共通して熱中したものである。
 道楽はほんらい個人の嗜好の問題であり、自身の満足を求めるものである。だから、金で買い求めるものでもない。文字通り小人の楽しみの路であったはずである。それが、巧拙などを競うようになっていくのは、どうしても人間のすることであり、競争意識が出てくることは、やむをえないところかもしれない。
 園芸においても、枝ぶりなどの樹木の姿や、草花における大輪・小輪の花の出来具合いを競うこともしばしばである。今日でも盛んなキク(菊)の品評会などは、そうした成果を競うことの代表的な例といえるであろう。 (『江戸の道楽』から)
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<自然を造形化した日本人>  江戸時代の日本人はまったく汚されていなかった自然と共生していた。自然の四季の推移を巧みな季語として表現、分析、体系化して、季語集をつくった俳諧の正解が翌これを表していると思う。 俳諧史の権威、尾形仂氏によると、既設の意識は早くも『万葉集』に見え、『古今集』で春夏秋冬に分類され、以来この伝統が引き継がれた。連歌では天正15(1587)年の『毛吹草』が『至宝抄』のほかにその倍くらいの俳諧季語を集載した。 その後18年を経た寛文5年、北村季吟が著した『増山の井』には『毛吹草』よりはるかに多い季語が集約され、これが世に用いられた。そして約半世紀後の享保元年、児島員九が著した『俳諧通俗志』は、本草学や新しい季語や新風俗を集約した、以前のものよりはるかに充実した季語集となった。 これが幕末まで用いられとということである。つまり江戸時代には、俳諧世界では立派な季語の集大成ができあがっていたのである。
 季節のなかでも、「牡丹散ってうちかさなりぬ二三片」(蕪村)というように花吹雪、落花、花屑、花埃、花の雨、落葉──「散る」、花吹雪が散ることは日本人独特の世界であって、福原麟太郎氏の研究によると、西欧では落花を楽しむという文化はほとんど見当たらない。 しかし日本には落花を楽しむ文化がはるか古い時代からある、と氏はいっているが、まことに日本人は花の散る姿、紅葉の散る様子を楽しむということが古い時代からあって、歳時記のなかには、散る花のさまざまな季語が網羅されており、また「風光る」、「山笑う」、「山眠る」などという季語も素晴らしい感覚を表現し、形象化したものだと思われる。
 とくに「風光る」で思い出すが、私は先に「風の文化史」を書いたことがあって、日本の風の文化を古代から現代まで詳しく調査し、また歳時記のなかの風をたくさん拾ってみた。おそらく、中国の沙漠地帯あるいは東北地方(旧満州)あたりでは砂嵐の風とか、はるか向こうに吹き降りの雨が降っているのが見える風というような大まかな風であるのに、日本では村ごとに風の名前が違うほどに、さまざまな風の呼び名があり、また漁師による風の呼び名も多種多様であって、これは江戸時代だけにできたものではないが、非常に多くの名前を持って日本人に感じられる。 そういう意味では、日本人ほど豊かな風文化を持っている民族はないのではないかと思われるのである。いずれにしても四季のさまざまを細かな季語というかたちでデフォルメした日本人は、自然を造形化している民俗である。 (『甦る江戸文化』から)
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<花と緑の江戸……園芸好きだった江戸の人々>  近頃、日本でもガーデニングブームとやらで、庭づくりや園芸が脚光を浴びるようになってきた。このガーデニングという言葉は、「GARDENING」(造園、造園術、園芸)からきたもので、ハーブやイングリッシュガーデンなどをテーマとして、園芸植物を育てて楽しむことに特徴があるようだ。 日本庭園(枯山水など)のような形式にとらわれず、個人の好みに応じて自由な方法で栽培できる。また、その楽しみ方もただながめるだけでなき、インテリアに取り入れたり、料理や入浴などのシーンで味や香りを楽しんだりと、じつに幅広い。
 過去においても、日本人が生活の中で、現代のガーデニングと同じように園芸と親しみ、ブームとなった時代がある。それは、江戸時代で、対象とした植物や嗜好の違いはあるものの身分の上下、貧富にかかわらず、広い層の人々が植物に深い関心を持っていた。そこで、江戸の町で、どのようなガーデニングが行われていたか少しずつ見ていきたい。
 江戸っ子の植物好きには、幕末期、日本を訪れた外国人たちも少なからず驚いたようだ。イタリアの通商使節、V・F・アルミニヨンは、「日本人は花が大好きで、江戸近辺の植木屋たちは冬でも花を栽培し、大量に供給している。花屋は街中を売り歩き、貧しい人々の住む地域でも確実に買い手を見つけることができる」(『イタリア使節の幕末見聞記』大久保昭男訳、新人物往来社)と観察している。 また、イギリスの園芸家、ロバート・フォーチュンは、「日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もし花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するこのとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優ってみえる」(『江戸と北京』三宅馨訳、広川書店)と最大級の賛辞を残している。
 さらに、江戸の町を丹念に見て歩いたプロイセンの使節団長オイレンブルグは、「都市、しかも江戸の商店街の狭い小路の各家々にでも、一隅に小さな植物が置いてある。多分、制限された場所が、矮性樹の栽培という洗練された趣味になったのだろう」(『オイレンブルグ日本遠征記』中井品夫訳、雄松堂出版)と江戸の園芸の特質に迫るような観察力を見せている。
 日に日に政情が不安定になりつつあった幕末の江戸にあって、意外にも現代のガーデニングブームを上回る園芸ブームが存在したことが、外国人たちの記録から推測できる。また、江戸庶民の園芸に対する関心の高さは、江戸の町の景観にも反映されていた。スイス領事として赴任していたルドルフ・リンダウは、「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋め尽くしているので、遠くから見ると、無限にひろがる1つの公園の感を与えてくれる。到る所に林として、また、並木として植えられた木立に気付く」 (『スイス領事の見た幕末の日本』森本英夫訳、新人物往来社)と書いている。このように当時の江戸は世界一の人口を抱えながら、園芸を楽しむ国民性によって、緑に囲まれた美しい都市を形成していた。しかも、江戸の緑は、自然の緑ではなく、植栽された植物が多く、人の手によって維持管理されていた。つまり江戸は、園芸植物を効果的に配置した箱庭のようであったと言ってもよいであろう。 (『江戸のガーデニング』から)
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<日本における品種改良の伝統>  明治以後の日本の科学で、最も早く国際水準に到達したものの一つは、遺伝学であると言われる。もしノーベル賞に生物学賞があったならば、1949(昭和24)年の湯川秀樹氏の物理学庄の初受賞と前後して、日本から受賞者が出ただろうと言われている。いわゆる高度成長が始まった昭和30年代のごく初期に、いち早く日本で行われた大規模な国際学会は、国際遺伝学会であった。 遺伝学がめざましく発達できたのは、それに先立ち、栽培植物と飼育動物の分野で、品種改良の長い歴史があったからだと考えられる。その経験から得られた知識の集積が、遺伝を研究する際の素材として生かされたに違いない。
 品種改良と遺伝学のつながりを象徴しているかに思えるのが、学会のあゆみである。1915(大正4)年、まず日本育種学会が発足し、翌年に機関誌として『日本育種学会々報』が発刊された。そして1920(大正9)年に、この学会が日本遺伝学会と改称され、機関誌も『遺伝学雑誌』に変わったのだった。育種学会の事務局は、駒場の農科大学にあった。遺伝学会になった当初も、東京西ヶ原の国立農業試験場に置かれていた。 のちになって東京大学理学部植物学教室に移った。以上の経過は、遺伝学が導入されてから応用の品種改良が起こったのではなく、品種改良がまず母体としてあって、そこから遺伝学が分離独立していった事情を示していよう。(なお第2次大戦後、遺伝学会とは別個に、改めて日本育種学会が新設され、現在に至っている。)
 ではそういう品種改良を、実際に担ってきたのは誰か?明治以前にこのための公共の機関はなかった。すべて民間の人たちの手で──文字通り”手”で──推進されてきた。その民間の意味だが、植物の栽培も動物の飼育も、2つのまったく別個の流れがあった。1つはいうまでもなく、農村で営まれた農業である。もう1つは渡海の趣味として発達した。観賞用および愛玩用の生物の栽培と飼育である。 江戸時代にはそれぞれの流れから、多くの研究書が出現した。農村と渡海とでは扱われる植物と動物の種類がまったく違っていた。しかし品種への関心はどちらも高く、実際に、それぞれの種類でたくさんの品種が作りだされていた。
 農村では当然ながら、イネが常に中心であった。イネの品種について最古の記録が、同時に栽培植物の品種に関する最古の記録になる。それは『万葉集』の歌のなかにある。同書巻14の歌の1つに「葛飾早稲」という言葉が詠み込まれていて、これがイネの品種の最初の文献とされている。早稲があるからには、少なくとも晩稲もすでにあったに違いない。またわざわざ葛飾をつけているのは、これと区別される早稲の品種がほかにもあったことを推測させる。 おそらく『万葉集』が編集されるよりもずっと早く、複数の品種の分化が起こっていたことは確かであろう。(中略)
 都会で栽培される植物は、花と植木であった。植木の場合、これまた近郊に、専門に扱う植木職人が出現した。とくに多かったのが江戸の近くで、駒込から巣鴨にかけての一帯だった。そのなかの染井村で作りだされた1つが、サクラの「ソメイヨシノ」である。サクラを含めて大きく成長する樹木の類は、当然ながら素人が扱うのは難しく、専門の植木職人にたよらなければならなかった。
 これに対して草花は、町なかの住民が好んで手がけた。アサガオ、キク、アヤメ、ハナショウブ、サクラソウ、フクジュソウ……など、種類も多岐にわたった。担い手は主に武士であった。町人が多忙だったのに比べ、武家の隠居には暇があり、それを趣味の植物に振り向けたのだった。 花の色や形を多様にすることと、種類によっては葉の斑入りをつくることが、大きな目標にされた。とくに盛んだったのが、アサガオであった。アサガオの古名は牽牛子(けんごし)で、のちに牽牛とも表記された。(中略)
 農村と対照的に、町では動物の愛玩用の飼育が流行した。個人の住居で飼うのだから、比較的小型のものに限られた。動物の交雑は、植物よりも簡単である。キリスト教の文化圏と違って、倫理上の制約も日本では少なかった。イヌ、ニワトリ、コマネズミ、コイ、キンギョなどで、さまざまな品種が作りだされた。(中略)
 日本の花の改良が著しく発達するのは江戸時代になってからである。
 江戸時代の日本の園芸植物の発達はヨーロッパや中国にひけをとらないが、その改良の基本となったのは変わりものを選抜する選定眼であった。ヨーロッパではかけ合わせによる育種は、遅くとも19世紀前半には行われていたが、日本では積極的な交雑育種は、中尾佐助博士が指摘したように、江戸時代にはまず行われていなかったとみられる。 本書では「ソメイヨシノ」が人為交配によって江戸時代に成立したと述べられているが、これは岩崎文雄氏によって提唱された仮説である。元禄のころから活躍した伊藤伊兵衛三之丞、政武親子は26巻の『地錦抄』シリーズを刊行したが、その書でみる限り、交配にふれた箇所はない。
 江戸後期のアサガオの変異維持には、かけ合わせも行われたと思われるが、むしろ例外的で、江戸園芸は突然変異による枝変わりや自然結実からの実生によって変わりものを見いだし、それをさし木や接ぎ木などの繁殖技術を駆使して殖やし、広めたのが主流である。
 それにしても、爆発的な江戸園芸の発達は、武士や庶民に戦のない時代、ゆとりが生じ、そのエネルギーが花の競争に向けられたからであろう。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<緑の風を運ぶ小型鉢物>  江戸からつづく東京・下町の路地裏には、アサガオとか釣忍(つりしのぶ)とかいった植物がよく似合う。いずれも場所をとらずに栽培でき、夏の早朝に美しい花を咲かせたり、緑の風の気配を知らせたりする都市の風物といっていいだろう。 いまマンションやアパートでのベランダ園芸が花盛りだが、江戸の人たちは軒下園芸に自然のエッセンスを濃密に詰め込んで、さり気なく草花との共生を楽しんでいたようだ。佃島の横町あたりにその風情はまだ残っている。
 アサガオをはじめとして小型鉢物の園芸植物はいわゆる現代風モバイル植物である。ベランダのどこに置くか、または引っ越しの際には次の居住地へもっていけるし、室内外の移動も可能。まったく便利なモバイル植物として現代人に愛好家がふえている。 この点、軒下に忍を吊したり、物干し場に朝顔の鉢を置きつる立てを行ったり、江戸の人たちも狭い空間をうまく使って、人間と植物お互いに折り合って共生していたところも似ていると思わないか。
 江戸の町では、朝顔は5月のなかばから売り出して、8月前までを限りとした。「アサガオやあ、あさがお」と棒手振で夜明けから朝顔売りが町々を歩き、正午までに売り切って帰る。素焼きの小鉢作りで、花には、紅、白、瑠璃、あさぎ、柿色、ふちとり、しぼりなど多様な色と模様があり、花の大きなものが喜ばれた。 うら長屋の門口にも、貧富の差なく咲く朝顔、それが江戸の夏の風景であった。朝に咲き、夕べにしぼむ朝顔は、江戸っ子気質に合ったのだろう。その栽培は盛んだった。
 朝顔は元来観賞用草花ではなかった。はじめ薬用として栽培されていたものが、しだいに観賞用として人々が愛好するようになったものである。文化のはじめに、下谷御徒町の植木職人が仇顔の栽培を行っていたのだが、このころから花や葉の改良が始まり、文政期(1818〜1830)になると、深川や浅草方面に広がっていった。
 そして、この元来は観賞用草花ではなかった朝顔を観賞用草花として、花を開かせたのは、それは江戸の”先端科学””江戸のバイオ”の成果であった。園芸文化の世界でメンデルよりも前に遺伝の法則を心得た極致の花を創り出したのは、江戸の人々であった。バイオ時代を迎えたいまこそ、もう一度彼らの智恵と経験をたどってもいいのではなかろうか。
 小学校の夏休みの観察日記の材料はたいてい朝顔だった。それは葉や花の形にさまざまな変異が現れやすい性質をもっているからだ。朝顔はもともと日本に自生したものではなく、奈良時代に中国から薬草として渡来したものである。種子に毒性があり、下剤として効果があると考えられ、おもに奈良地方で栽培されていた。
 薬草であるために野性種そのものは小輪青色花、東京古型標準型の「青並葉青丸咲」にその原型をとどめている。葉の先が3つに分かれ、丸くて青い花(あさぎ、または、はなだ色)。その単調で可憐な花ゆえに次第に愛されるようになった。細く伸びたつるに夏の朝まだきに咲く清々しい花は日本人の美的意識にもかなったのか、やがて詩歌や句に詠まれ、書画にも登場するようになった。 (『江戸は躍る!』から)
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<園芸文化の成立と発展>  近年、日本では「ガーデニング」が一大ブームとなっている。多くの人々が生活に潤いを求めて庭造りや園芸を楽しみ、書店には幾多の園芸書が並べられている。 実はこのようなブーム現象は、江戸時代にも難度となく見られた現象であった。
 江戸時代初期における園芸は、伝統的な華道・茶道・庭園文化の流れを汲む京・大坂など上方が1つの核となっていた。しかし徳川将軍家の園芸趣味や、天下の「総城下町」・江戸の都市建設・拡大に伴う寺院や武家屋敷内の庭園整備などを背景に、徐々にその中心を江戸へと移していき、江戸の周縁部にはさまざまな花卉草木・植木類を専門的に供給する地域が成立した。 その代表的な存在が、江戸の東部郊外に位置する葛飾地域や北西部郊外の染井を中心とする駒込・巣鴨地域であり、その盛んな様子は数多くの浮世絵に描かれ、その姿を今に伝えている。
 「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない」。幕末に染井を訪れたロバート・フォーチュンは、著書『江戸と北京』の中でこう述べているが、イギリス人植物学者で著名なプラントハンターでもあった彼をしてこう言わしめるほどその規模は大きく、またレベルも高かった。
 『江戸と北京』を通読すると、当時の日本の園芸文化が、中国(清)におけるそれよりも優れていると彼自身が評価している点を数多く見出すことができる。この江戸の園芸文化を支えたのが「芸家」「花戸」などと呼ばれた植木屋・庭師であり、彼らの集住する駒込・巣鴨地域は、まさに江戸の「園芸センター」の様相を呈していた。江戸の都市緑化事業を担っていたのは。彼ら植木屋だったのである。 (『事典 しらべる江戸時代』から
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<大都市江戸造営から園芸の隆盛へ>  慶長8(1603)年、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府をスタートさせました。以後、約270年間にわたって政権を握った徳川家ですが、その間江戸は城下町とにての機能を着々と整備し、享保年間(1720年前後)には人口100万人を擁する、世界有数の大都市に成長しました。
 平和が続くなかで町人が力をつけ、経済的にも大きく発展し、文化的のもそれまでにない繁栄をしました。園芸文化もその例に漏れず、飛躍的な発展を遂げたのです。
 私は、<園芸>は<農業><本草学>を親として生まれ。<生け花>と<造園>の、双方を合わせて三位一体となって、つまり兄弟のような関係を保ちながら発達し、生まれてきた文化だと考えています。農業、本草学から話を進めると少し大げさになるので、兄弟である生け花、造園にまず目を向け、思いついたことを述べてみたいと思います。
 日本人はもともと花好きな人種といえるでしょう。野山に自生する草花を愛し、それを何らかの形で身近なところに取り入れたいと考え、花を生けるようになってきた。
 花を愛する一方で私たちの祖先は、樹木に神が宿るとも考えていました。サカキもそうですし、マツも神が降りてくるのを「待つ木」なのです。そういう宗教心も植物への関心をいっそう深いものにしてきたと思われます。 (『江戸の園芸・平成のガーデニング』から
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<自然を愛する心をミームが現代に伝えている>  多くの識者が指摘するように、江戸時代の人びとは園芸を楽しみ、緑のなかで生活していた。リチャード・ドーキンスの発想を借用すれば、利己的な文化遺伝子「ミーム」がこうした感覚を現代に伝えているはずだ、となる。 「明治以後の日本の科学で、最も早く国際水準に到達したものの一つは、遺伝学であると言われる」はミームが時を経ても江戸の人の感覚を現代に伝えているからだと考えられる。「趣味と贅沢と市場経済」今度のシリーズはこうした園芸を扱うことにした。 どこまで意図したものが表現できるか?どこまでミームを解明できるか?好奇心と遊び心をもってチャレンジします。ご期待ください。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
事典 しらべる江戸時代                 林英夫・青木美智男編 柏書房       2001.10.15
江戸の園芸・平成のガーデニング                   東征一郎 小学館       1999. 4.20
( 2005年9月26日 TANAKA1942b )
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(42)椿から始まった江戸の園芸
無類の花好きだった徳川家康
江戸時代の贅沢を東福門院和子の話から始めた。先立つものがある人たちの話から始まった、贅沢が市場経済を発展させた、というテーマ。旅では大名の参勤交代から話を始めた。同じように「園芸」も徳川家康から話しが始まる。 あの狸親父家康が園芸好きであった、という意外なことから今週は始まる。
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<寛永のツバキの流行から始まった>  関ヶ原の合戦(慶長5年、1600)の勝利のあと、徳川家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた(慶長8年)。ようやく平和な時代を迎えることとなって、園芸復興の時代が訪れる。
 たとえば後水尾天皇(1596〜1680)の嗜好に倣って、大御所(2代将軍)徳川秀忠(1579〜1632)や貴人たちはツバキの鉢植えに熱中する。時は寛永年間(1624〜1644)であった。
 この<寛永のツバキ>の流行と同時に、秀忠は諸国から珍しい木や草花を集めることに執心した。これがおそらく江戸時代の庭園造りの始まりであったろう。こうした<将軍の道楽>がゆすされたのは、なにより世情の安定がもたらされた故に他ならない。 先に述べたように、江戸城を中心に周辺の町割り計画による市街化の進行や、利根川・隅田川等の河川の整備が進んで、江戸幕府の財政的基盤の安定と幕藩体制の定着が背景にあった。
 秀忠に続いて3代将軍徳川家光(1604〜1651)もツバキの愛好者であった。もうこの頃になると、大名が貴人たちの中にあっては「お留花」と称して、自慢の品種の花を確保し、門外不出として愛でることも、ままなされていた。 この「お留花」は、園芸を自身だけのひそやかな楽しみにするという精神構造から生まれた典型的なものであったといえよう。 (『江戸の道楽』から
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<あの狸爺家康が無類の花好きだった>  江戸の園芸はツバキから始まったと言われている。家督を息子の秀忠に譲り、隠居生活に入った家康が、昔、駿河の一領主だった頃に手がけていた花の栽培にふたたび熱を入れ始めた。 そして、芥川小野寺(駿河時代に庭の管理を任せていた花好きの住職)を呼び寄せ、二の丸の「御花畠」の手入れを命じた。これを江戸の園芸の出発点と見たからだろう。それにしても、関ヶ原の戦いで淀君・秀頼親子を死に至らしめ、後世「狸爺」とあだ名された一代の策略家である家康が、無類の花好きだったとは、人間の意外な一面を見るようでおもしろい。
 この「御花畠」はいわゆる築山や池、石組みなどで後世する日本庭園の類ではなく、かといって、実用本位の野菜畑でもない。「御花畠」の奥には、花を観賞するための東屋が建てられ、ツバキや四季の草花などが植えられていた。 草花の周りに柵をめぐらす程度で、灯籠や庭石などは置かなかった。つまり、あくまでも花を見るための庭であった。これはむしろ現代の庭づくりに近いといっていい。つまり、家康は江戸のガーデニングの先駆者でもあったわけだ。
 続く2代将軍、秀忠も相当な花好きであった。特にツバキがお気に入りだったようで、元和元(1615)年の『武家深秘録』には、”斑入り珍花”として名高い「広島椿」を入手したという史実が残されている。 もっとも、このツバキ、開花する直前に家康が死去し、その年は哀悼の気持ちを表すために、花を見るのを我慢したという。 (『江戸のガーデニング』から
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<ツバキの品種改良から始まった日本での品種改良>  観賞植物に品種が多く生じ、その記録が残されるようになったのは江戸時代からで、椿の花と品種名を記入した巻物がその最初のものであった。 日本では中国原産の梅、牡丹、芍薬(しゃくやく)、菊などを早くから導入して栽培してきた。牡丹、芍薬は紀元前から中国で薬草として栽培されてきた。(中略)
 日本では古くから花は庭に取り入れられ、鑑賞されていたことは、万葉集をはじめ平安時代の文学に多く述べられている。しかし、個々のの諸区部の品種を取りあげた園芸書は、江戸時代になって初めて現れた。 水野元勝『花壇綱目』(延宝9年、1681)が最初で、その中には、ボタン、シャクヤク、キク、ウメ、モモ、ツバキ、サクラ、ツツジ等の品種と品種の簡単な説明が加えられてある。 これらのうち最初の5種は中国渡来種で、後の3種は日本に自生する花木である。といっても、サクラ、ツツジは総称名で、実際には植物分類上の種または雑種に当たる品種が扱われることになる。(中略)
 江戸期にブームとなったツバキの新花、珍花づくりは、茶の湯を愛した秀吉が関白となった1585年ごろから漸次盛んになり、以来末期までの280年間にわたり多様な品種を数多く生み出してきた。
 ところが、近年、ツバキ属の発生・分化の中心である中国大陸産の原種を調べる過程で、日本の古典品種である「ワビスケツバキ」や「熊谷(くながい)」(古名・朝鮮椿)、「紅唐子(べにからし)」、「肥後羽衣」などは、いずれも中国産ツバキ属の血が取り込まれているのではないかと考えられるようになってきた。 また、ツバキとサザンカの自然雑種ハルサザンカも、江戸中期にはすでに数種が存在していた。
 このようにいろいろなことがわかってくると、日本のツバキ品種は日本民族と同様、古くから多彩な遺伝子構成の中で成立してきたものと考えられるのである。
 江戸期のツバキブームの始まりについて記した東西2つの史料を紹介しよう。
 『百椿集』・著者の安楽庵策伝は、京都・誓願寺の住職で紫衣を許された高僧であった。新しい時代の花となったツバキを熱愛し、わずか20年間に100を越える品種を収集した。これを花色別にして命名し、文学的な表現で品種の特徴などをまとめたものが本書である。 その前文で京のツバキの流行について「後陽成院の御代(1586年)からツバキの流行が芽生え、今上帝(後水尾帝)の御宇(ぎょう)(1611〜1628)には甚だもって盛んなり」とし、その品種も「元和元年から日ましに増益す」と記している。
 一方、江戸の様子について『武家深秘録』(元和1年、1615)は、「将軍秀忠、花癖あり、名花を諸国に徴し、これを後園吹上花壇に栽えて愛玩す。この頃よりツバキ流行し、数多くの珍種を出す」と述べている。
 ツバキ流行の背景には立花(立華)や茶の湯の流行があったわけで、当時のトップ陣営……京では帝や公家、僧侶などが、江戸では将軍や諸大名らが牽引力、推進力としてツバキ熱の浸透に大きく作用した。とくに家光が参勤交代の制を定めるようになってから、地方の優れた品種が江戸に集中し始め、今日の華麗な江戸椿のもとになったと考えられている。(中略)
 江戸の後期に至ってもツバキブームは衰えを知らず、その様子を屋代弘賢は『古今要覧稿』(天保12年、1841)の中で、「ツバキは世間に大いにもてはやされている。流行しているからこそ植木屋は利益を求めて栽培熱心となり、種子を蒔いて変わりものを作り出す必要が生じた。 その結果、多くの珍種、奇花を得ることができた」と述べている。
 この時代、ツバキ好きの人々はツバキ園を設けて互いのコレクションを競い合い、珍花や変わりものは高値で売買された。ツバキが”金の成る木”であったことが、町人や小録の武士をも巻き込んだブームの一因とみられている。
 元来、ツバキは自家不和合性があり、他家受粉することで種子を結ぶことが多い。したがって多品種を植えたところでは、種子を蒔くと親とは違った変わりものがいろいろとできる。江戸期の新花づくりは、多くの人々の長期にわたる実生の育成、選抜が中心となり、これに枝変わりが加わった。ときには知らぬまに中国系の血も加わって、驚異的な発展をみたと考えられる。
 ちなみに、宮内庁所蔵の『椿花図譜』は、江戸初期から元禄期にかけて、東福門院が絵師に命じて描かせた京のツバキの原色図鑑とさえいわれている貴重本である。 (T注 東福門院は単なる衣装狂いではなかった。東福門院和子の涙▲を参照) 。この中にツバキ617種、サザンカ12種、唐椿2種があるが、江戸系の品種はきわめて少ない。これに江戸中期以後の品種を加えたら、おそらく1500を優に越えるであろう。
 平成7年現在で日本のツバキ品種は、種間雑種を含めてもせいぜい200余種程度。江戸期の新花づくりの狂乱ぶりが想像されよう。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<植木売り>  植木売りは行商というよりは、神社仏閣の縁日の露天商として盛んであった。日を決めて江戸の各地に植木市が立ち、特に薬師、観音、不動の各縁日を渡り歩くだけで商いが成り立った。 行商の場合は、竹の四ッ手を二つ天秤の両端にさげ、根付きの植木の鉢植えの小さい木を商った。売り値は木の種類により異なるが、かなり掛け値が多いものもあったらしい。
 業態については、鶴屋南北の『貞操花島羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか)』(文化6)に、「松、頬かむり、木綿やつし股引、草履、縁日の植木屋にて、植木の荷へ葉蘭、水仙の頬、片手桶の小さきに本水を入れあるを、竹の四つ手へ結わえ、よき所にカンテラを吊し、出で来たり」とある。 (『江戸の生業事典』から)
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<鉢植えが楽しまれ、多くの図譜も刊行された>  江戸時代にはさまざまな種類の植物が園芸品として育てられているが、その中心となったのは、狭い土地でも育てられる鉢物で、時代によって流行した植物がいくつか見られる。 寛永の椿、元禄の躑躅、享保の菊、寛政の橘、文化の朝顔、文政の万年青(おもと)・松葉蘭などである。
 ブームとなった植物は、高額な売買の対象ともなり、寛政10(1798)年には珍品鉢植えの高価売買が禁じられたが、その後もブームはつづき、橘・万年青(おもと)・松葉蘭・福寿草、セッコクなどは、まさに「金成樹(かねのなるき)」とも呼ばれたほどである。 これらの植物の評価は、美しさを競うというよりも希少性が重視され、多くの奇品珍品が生みだされた。
 品評会の記録としては、正徳4(1714)年に京都のの円山でおこなわれた菊合わせの会が早いもので、以後も流行植物の品評会はさかんに開かれた。
 出品物を写した図譜も多く刊行され、葉や茎の斑入り、矮性(丈が伸びないもの)、捻れ、縮み、花の変わり咲きと、驚くばかりの多様な姿が図示されている。
 菊に関して、江戸では文化9(1812)年ごろから巣鴨・染井(東京都豊島区)の植木屋を中心として作り物(菊人形)がつくられ、多くの見物人でにぎわった。弘化期にも再び人気を呼び、多くの番付や道案内・錦絵が出版されている。 (『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
( 2005年10月3日 TANAKA1942b )
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(43)話題の多いキクとアサガオ
変化朝顔の不思議
江戸時代の園芸として、キクとアサガオはいろいろと話題が多い。今週はキクとアサガオでまとめてみました。
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<キクの起源と文化史>  日本を代表する花はと問えば、誰もが春のサクラと秋のキクと答えるであろう。むしろ外国人のほうが日本人よりも、日本の花はサクラよりもキクだ、と言う人が多いようである。 愛好者が多く過程でも栽培されて、各地で品評会などが催される趣味園芸の代表的花であると同時に、切り花として生産され、その数量は現在日本では20億本にも達し、切り花生産量の3分の1を占め第1位である。産業的にも社会的にも、日本人の生活に非常に密接にかかわっている花である。(中略)
 今日のキクの栽培品種は、長い年数の間交雑が繰り返されてきた。したがってきわめて雑種性に富んでおり、また自家受精を行わないため、交雑した場合、その後代には種々の雑多な形質をもった実生が現れる。その中から形質の変わったものを選んできた。 営利栽培のためには、商品性の高いものであると同時に」生産性にすぐれ、営利性の高い品種を作りださなければならない。しかし優良品種の出現の確立は非常に低く、20〜30万本に1本程度であると思われる。
 キクの栽培品種は中国で野生種との交雑で生まれたものであると言われるように、日本に自生する多くの野性ギク(イソギク、シオギク、ナカガワノギク等)と容易に交雑ができ、それらの雑種が得られる。イソギクとスプレーギクとの交雑では小輪で多花性、分枝性が多く耐病性があり、非常に生産性の高い小輪系のスプレーギクが多く作出され、営利栽培で重要な品種群(ハイブリッドマム)がある。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<キクは御禁制>  田沼時代のマイナス面はそれとして、殖産・膨張政策は、近時のバブル経済によく似た現象を世にもたらした。大仰に言うならば、日本の有史以来初めて、消費文化を国民は享受したというわけである。
 そんな消費文化の影響が庶民の道楽まで及ばないはずはなかろう。歌舞伎の流行、俳諧・狂歌・戯作などの文芸の隆盛、着道楽から食道楽、もちろん園芸道楽にいたるまで万事華やかなものとなり、生け花、茶の湯、香道といった、かつて庶民には縁遠かった遊芸までが大衆化し、まさに消費文化は謳歌されたのであった。
 たとえば香道の流行はただちに道具道楽を招き、茶の湯もまた同様に道具道楽や茶室の数寄屋造りの道楽を招いたにちがいない。香料の少なかった当時にあって、香道とは別に花の香りにとり憑かれた御仁もいたはずである。
 生け花が盛んになれば花作りの園芸と連動し、生け花の会も盛んに開かれることになる。鉢植えの鉢はいうまでもなく、、生け花の花器にいたるまで華美を競い、道楽は高価に走り、ともすると「道楽は道に落ちる」ことにもなったわけである。
 天明の飢饉などを契機に田沼意次が失脚し、代わって登場した松平定信は8代将軍吉宗の緊縮政策を復活させた。しかし、いかに封建時代とはいえ、号令一下、すべてが改まるほど単純なわけではなかった。かつての田沼の遺風を慕う国民がすぐに消えるわけではない。 園芸においても同様であったろうと思われる。
 もっとも、士農工商のそれぞれの本分を正す綱紀粛正に重点が置かれていた。いわゆる寛政の改革にとって、園芸道楽などは、初めはさほど重大な関心事ではなかった。したがって、松平定信の推進する改革後も、改められることもなく園芸ブームはしばらく続いていたのであろう。 だが、世の中が改革による変革に次第に適応し、世の中も落ち着きを取り戻してくると、やがてその園芸ブームに対しても、ついに幕府の注文がつくこととなった。
 本来不要の品である珍品鉢植えが、不相応な高価売買をされているといった現実に対する禁止のお触れである。このお触れは大目付を通じて発令されて、人々はこれを充分心得て改めるべきであることを命じている。それは次のようなものである。
   寛政十午年八月
     大目付え
  近来品珍敷鉢植もの、至て高直ニ売買いたし候趣相聞候、都(すべ)て不用之品不相応ニ高価なるを翫ひ候儀は有之間敷事ニ候間、高価ニ商売致間敷申渡候条、其旨相心得候様、向々え寄々可被達候、
        八月
  (近頃の品物で、珍しい鉢植え物と称していたって高い値段で売買しているとのことが聞こえてくる。まったく不用の品であり、不相応な高価で鉢植え物をもてあそびの売買することはあるまじきことである。高価な値段で商売することは今後致さないように申し渡すこと、その旨十分心得て、広く人々に伝えるべくつとめることとする)
 寛政10(1798)年8月23日のことであった。
 しかし庶民もさるもの、高価売買を禁止されるや、個人の道楽熱に新種商売はやめて珍品を売買せず、こんどは見世物とすることが盛んになる。江戸時代のお触れが抜け法だったというより庶民のほうがしたたかだったということであろう。 (『江戸の道楽』から)オランダのチューリップ・バブルは、1637年2月にピークに達した。江戸でのバブルはその1世紀半後のことであった。
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<菊人形考>  「菊人形」は一時期ブームとも呼べるほどの爆発的な人気を博した。江戸っ子は番付をつけて、どこが1番かとハシゴして歩き、地方に住む人も江戸見物の折には、何をおいても菊人形見物にはせ参じるというほどの熱狂ぶりであった。その起こりはというと、文化8,9(1811,1812)年の頃から巣鴨染井の植木や街で、人寄せに「菊人形」の原型を作り出したのが最初のようである。 「白菊だけで富士山をつくり、黄菊ばかりで虎をつくりやがて鳥や舟、人間までも模した」と当時の記録にある。武家の中には「俗物中の俗物」と毛嫌いした人もいたが、派手好き、めずらしもの好きの江戸っ子には”見た目のわかりやすさ”も手伝ってか、大いに受けた。
 当時の様子を、「遊歴雑記」(作者不詳)には「五十余軒もの菊づくりの家々が皆我も我もと”形造り”(「菊人形」の原型という)をやり出し、道ばたには、茶屋や色々な食べ物屋が軒を並べ、大勢の人々が浮かれていた」と書かれている。もっとも、見物料を取らなかったので、コスト面でいきづかり、文化(1816)年頃の巣鴨染井では「菊人形」はすたれてしまったらしい。
 その後、団子坂の植木屋に受けつがれ、菊づくりの余儀としてなかば道楽的に作っていたのが、明治期になるとなぜか、小屋掛けして木戸銭を取って見せるという興業に変化していった。明治10年頃が団子坂の菊人形前世紀で、扱う小屋が44軒にも及んだというからその人気はたいへんなものだったろう。 (『江戸のガーデニング』から)
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<キクと変化アサガオ>  キクの品種については、『花壇網目』『花壇地錦抄』『増補地錦抄』などに簡単な説明がついた品種がそれぞれ、66,137,101種あげてある。 この時代に品種分化は完成していたが、さらに18世紀になって松平頼寛『国字略解菊経』(宝暦5年、1755)はじめ、19世紀までに多くの園芸書が刊行され、そこでは花型、花弁の形態など詳細に説明し、キク鑑賞の様式を説明している。これはキクの園芸的発達のレベルが高くなっていたことを示している。 中国のキクも長い年月の間に変化、発達したらしく、江戸時代のも新しく中国の品種を導入したことが、記録されている。しかし、花形の変化では、ツバキやカエデと同じ感覚で日本のキクのほうが広い変化幅を示すようになった。
 ボタン、シャクヤク、キクに比べ、アサガオは日本で飛躍的に発達し、まったく新しい園芸植物が現れたといってよい。アサガオはネパールから中国に入り、平安時代に日本に渡来した。中国では半野生化し、北京郊外には白、青、赤、紫などの色ものが開花しているが、園芸植物としての改良は行われなかった。 日本では長く種子を下剤として用いてきたが、江戸時代後半になって「変化朝顔」というめずらしい花形をもった品種が栽培されるようになった。その成果は峰岸正吉『朝鮮珍花蕣集』(文化12年、1815)、同『牽牛(あさがお)品類考』(文化12年、1815)で初めて園芸書としてまとめられた。これらの書物は花形、花弁の形など分類、葉の変化などを記述して、色刷り木版の美しい図を収めている。 この後変化アサガオの書物多く出版され、明治にいたったが、成田屋留次郎『三都一朝』(嘉永7年、1854)、同『両地秋』(安政2年、1855)、同『都鄙秋興(とひしゅこう)』(安政4年、1857)などは、嘉永安政時代(1848〜1859)の代表的な書物である。いずれも東西のアサガオの名花を美しい図版で描いたものである。
 このように、江戸時代のアサガオ園芸では、変形の極というべき変化アサガオをつくり出した。1年草のなかで、1種だけから幅広い変異を表した種類は他にアスターがあるぐらいで、きわめて珍しい例である。ただ、変化の極致といえる花の場合は、不稔性で採種ができないから、変化ものが出る兄弟株から採種しなければならない。このように変化ものを出す系統は親木とよばれ、それから出る変化ものは出物(でもの)とよばれる。 ごく珍しい出物が出てくる割合は非常に低いので、多くの親木を準備しなければならない。この煩雑さは、現代のようにスピードを好む時代には歓迎されないのであろう。今日では変化アサガオの栽培は、ごく限られた人たちによって、わずかに続けられているにすぎない。アサガオの形質については、遺伝学者たちの手で、詳細に研究され、一つ一つの花の変化が、遺伝学的に説明された。この点でも他に例がない園芸植物といえる。
 変化アサガオのうち単純な変化を表すものでは、採種できるし、形質が固定するので、採種したもので、毎年同じ姿のものを続けて栽培できる。このようなものを正木(まさき)とよんであるが、大輪アサガオも正木のほうに入る。大輪アサガオの栽培は明治中期に始まり、昭和に入って本格的になった。 形の上では変化アサガオと比較にならないが、大輪アサガオも世界のどこにも見られない優れたものといえる。住まいは狭くなって、植物栽培に必要な空間が少なくなった現代でも、大輪アサガオの栽培は屋上で可能であるから、都市の中にもアサガオの趣味栽培家が多い。しかし、変化アサガオの栽培には場所と時間が多く必要であるから、江戸時代から明治時代までに主流であった変化アサガオの栽培に再び戻ることはないであろう。 それにしても、変化アサガオは貴重な遺産であるから、せっかく高いレベルに達していた園芸文化を喪失するのは惜しいものである。
 欧米の園芸家で日本の変化アサガオを知っている人はほとんどない。多くは聞いたことも見たこともないだろう。したがって、江戸時代の変化アサガオの本を見せると、だれでも驚く。今日の日本人もまた同じようである。江戸時代から明治時代にかけて出た変化アサガオの園芸書は非常に多く、種類別に比較すると、アサガオの本が最も多く出たことになるだろう。 このことも日本の園芸文化の高さを示すもので、この時代に1つの種類について、これだけの書物が出たことも、日本の趣味園芸家に知っておいてもらいたいことである。 (『園芸の時代』から)
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<アサガオ>  アサガオとはどんな花なのか。江戸期以降の熱狂的なブームを経て、日本の園芸文化史上飛躍的な発展を遂げ、今日に受け継がれているのはなぜか。この魅力はどこにあるのか。
 これはアサガオへのユニークな感性と、独創的な智恵と育種技術を駆使そてきた繊細な感情があったからであろう。
 なかでも、珍花奇葉を鑑賞する目的の変わり咲きは、奇葉の変化の妙を満喫し、花形・花色・花模様まで楽しめるのである。三次元の花とか、変化の花とか、変化の極致といわれる牡丹咲きともなると、雄しべや雌しべがすべて花弁化するため種子が取れない。 種子が取れない花の形質を継続するには、親木の選択が必要である。この中から目的の珍花を求めていくのが本来の楽しみ方である。江戸っ子たちは、このたぐいまれなアサガオの瞬間美、朝は朝なに、いくつ花が見られるかといった期待感に包まれて、朝の静かな始まりの中に、精一杯に咲こうとする花の姿をみて、はりのある生活感を充足させたのだろう。 めっきり季節感をなくした現代の暮らしのなかで、江戸期の高度で楽しい育種文化を再び見直そうという風潮が現れてきたことは、誠に喜ばしい限りである。(中略)
 江戸の文化・文政期に、下谷や本所の植木屋が、シーズンともなると自園の朝顔園でふつうの丸咲きや変わり咲きを売り出したり、鉢に植えたアサガオを吊り台に乗せ、肩にかけて町中を売り歩く姿もあった。一方、変化を楽しむ同好者のグループは、花色・花姿の多様さを競い、寺社の境内や自宅の座敷に陳列して花合わせを催した。 この花合わせは、名花の花芸を競うもので、いっそう栽培熱が加わり、珍種を生み出す結果にほつながった。
 競争相手があればこそ、花もいよいよ凝った姿へと変容していったのだろう。
 江戸を起点として、京難波でもブームが起こり、大坂では『牽牛品類図考』・『花壇朝顔通』、江戸では『あさかほ叢』・『丁丑(ていちゅう)朝顔譜』・『朝顔水鏡』など多くの朝顔書が刊行された。とくに、『朝顔水鏡』には、アサガオの培養法が記載されており、親木のことや、葉形により花形を知る苗木の選別の仕方にもふれている。
 とくに、嘉永・安政期のアサガオの進化は目覚ましく、新しい珍種を得てはこれを維持しようと真剣に考えていたようである。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<アッと驚く変化朝顔>  現在ではアサガオのイメージといえば100人が100人、見慣れたラッパ型の花を思い描くに違いない。ところが江戸時代は違っていた。特に19世紀初めに流行したいわゆる「変化朝顔」はおよそアサガオのイメージとはかけはなれていた。奇妙キテレツなものであった。 たとえば風車のようなものがあったり、花弁が細く長くたれ下がっていて花火のようだったり、おしべ、めしべがかがり火のように突き出したりする。葉や茎も負けておらず、松葉状、握りこぶし状(いずれも葉)、つるなし、茎が平べったく帯のようになった「石花(せっか)」などがあり、実に千変万化な形状であった。
 我々が知っている普通のアサガオは、採れた種を翌年まくと、またほぼ同じ丸形の花を咲かせるが、「変化朝顔」とは特殊な遺伝の組合わせによるもので、種を採って育てても親木と同じ花を咲かせるとはかぎらず、まず、普通のアサガオからは変化朝顔はできないので、変化朝顔の種を手に入れることから始める。 種を入手したらまいて発芽を待つ。そして、子葉が出たら、そのまま成長して複雑な花をつける「出物苗」と、その苗から珍花奇葉は出ないが、変化朝顔の形質は受けついでいるので、育てて種を採って、それをまた育てて……ということをくし返していけば、いずれ珍花奇葉が飛び出す可能性を秘めている「親木苗」とを見分ける。 渡辺好孝氏の『江戸の変わり咲き朝顔』(平凡社)によれば、この段階が1番むずかしいのだそうだが、これは、習熟して選別する能力を身につけるしかないらしい。とにかく、その年には出現しなくても諦めずに、何年も根気よく続けるのが、変化朝顔と出合う唯一の方法なのである。文字通り苦労に苦労を重ねて、見る人をアッといわせるようなろんでもない花を咲かせるという醍醐味があった。
 江戸時代の変化朝顔は名前からしてスゴイ。「孔雀変化林風極紅車狂追抱花真蔓葉数莟生(くじゃくはんかりんぷうごくべにくるまくるいおいかかえばなしんつるはかずつぼみはえ)」や「泡雪掬水葉紅掛鳩地エ黒鳩刷毛目台桔梗袴着咲(あわゆききくすいはべにがけはとじ くろばとはけめだいききょうはかまぎさき)」など、呪文としか思えないような代物だ。 ただし、これは花銘で品種名ではなく、個体の遺伝的特徴を列記したものである。一体だれが、何を思って、こんなふしぎな花を手がけたのだろうと首をみねりたくなるが、起源は文化3(1806)年の大火後、下谷の辺りが、広大な空き地となり、そこに植木屋たちが色々な珍しいアサガオを咲かせたのが始まりである。 したがって、その時点では、特別なドラマはなかった。それがやがて少しずつ広まって、幕臣、僧侶、裕福な町人にとっては目先の変わった趣味として、また、下級武士には、生活の糧として、やがては一般庶民にまで朝顔人口の裾野は広がっていった。 (『江戸のガーデニング』から)
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<朝顔売り>  江戸の各所に植木市が立ち、初夏には朝顔の鉢植えも売られたが、行商もおこなわれ、四つ手の籠に鉢を並べ両天秤で荷って巡った。『東都歳時記』の6月の景物に、「牽牛花(あさがお)。所々植木屋。寺島村百科園其外多し。文化の末より、此花の奇品を玩ぶ事世に行われ、名花も従って少なからず、又栽植事しだいに巧みにして、千態万色あらざる物なし。(略)往還朝顔鉢植え売りありく」とある。
 現在、入谷の鬼子母神の眞源寺は、「入谷の朝顔市」として賑わっているが、これは幕末から恒例化したものらしい。『江戸遊覧花暦』には、「下谷御徒町辺」が牽牛花(あさがお)の産地として、「文政のはじめ頃は、下谷・浅草・深川辺所々に専らつくり朝顔屋敷など号(なづけ)て、見物群集せし也」とあり、1800年代の中頃からこの辺一帯が朝顔で著名であったことがわかる。
 江戸末期の狂歌に、「朝顔の萎れぬうちに売らばやと己が声をからしてぞ呼ぶ(香気亭)」「売れ残る花より葉より商人(あきんど)の昼は萎れてもどる朝顔(山桜亭)」などと、行商の様子が描かれている。 (『江戸の生業事典』から)
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<主な参考文献・引用文献>
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
園芸の時代                            塚本洋太郎 日本放送出版協会  1978. 5.20 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年10月10日 TANAKA1942b )
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(44)ツツジやハボタンなど
大久保はツツジの名所だった
江戸時代の園芸、品目としてはツツジとハボタンと取り上げることにしよう。ツツジは大久保が名所であった。江戸という都市は政治の中心であったし、同時に観光都市でもあった。 多くの名所があり、下町方面が中心であったように思われるかも知れないが、ツツジは中心部から離れた大久保がその名所として知られていた。
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<ツツジの町・大久保百人町>  ツツジ類は、庭園木や鉢植えとして比較的安定した需要があり、一定の生産がおこなわれていた。元禄以後、目立った流行はないものの、天保期に九州の久留米地方において「久留米つつじ」が誕生するなど、趣味の世界ではツツジの人気は続いていた。 そして幕末には、大久保百人町(現在の新宿区百人町)のツツジがブームとなった。東西8間、南北2町ほどの両側に、数千本のツツジを見ることができるというのが評判を呼び、江戸随一のにぎわいを見せた。中でも、ひときわ美しく、ツツジの本数も多かったのが伊賀組同心飯島武右衛門の住まいで、その1軒だけでツツジの本数は近隣50軒分もあったという。
 なぜ武士の住む町がツツジの名所になったのか、首をひねる人もあるかもしれないが、江戸のガーデニングは、実は武士、それも下級武士がその大部分を支えていた。これまで紹介したツバキやボタンは、もともと上方から入ってきたもので、将軍をはじめ、諸藩の大名、江戸詰めの武士、僧侶たちの中で園芸の嗜みがある者が、めずらしい植物を栽培してひそかに楽しんだり、花自慢をし合ったりした。 そのため、品種の命名一つをとっても謡曲や詩歌にちなんでつけるなど、当初は町人が安易に参入できる雰囲気ではなかった。また、園芸を楽しむには、植木の栽培や鉢物を置く場所が必要で、敷地に余裕のある武士や僧侶でないとむずかしいという事情もあった。 さらに時代が下がって、植木屋や百姓が園芸植物を作るようになっても、下級武士はツツジなどを生産し、生活の足しにしなければならないという苦しい台所事情が背景にあった。
 ところで、江戸時代にはツツジとサツキは区別されていなかった。両者が区別されるようになったのは、サツキが流行した明治30年代以降のことである。江戸時代末期のサツキの品種は、150年前の元禄時代と比べてほとんど増えなかった。サツキが注目され始めたのは、盆栽が明治10年代に流行するようになってからである。 当初の盆栽はマツが主流で、花物のザクロが少し遅れて流行し、これを追うようにサツキの人気が沸騰した。サツキが盆栽とし注目されたのは、花つきがよく、木の上にも下にも、表にも裏にも同じような花が均等に分布するという性質が、鉢物にできる植物がもともと少ない中で、重宝がられたためだろう。 (『江戸のガーデニング』から)
 大久保が江戸時代ツツジの名所であったことは、そこに住んでいる人は子供でも良く知っていた。2005年3月で廃校になった大久保中学校では生徒が皆、校歌として  ♪♪あざやかに富士の嶺見ゆる 武蔵野の昔を今と 咲きほこる つつじのさとに とこしえの生命のすみか 仰げわが そびゆるいらか 大久保の ゆかしまなびや 永久のはえ ああ我が母校 と歌っていた。 2005年8月に最高裁判所判事となった古田佑紀(ブルデン)も当時この校歌を歌っていた。
鉄砲百人組の内職から有名になった大久保百人町のツツジ  鉄砲百人組という下級幕臣団が集住していた大久保百人町(新宿区百人町)では、江戸市民に大変人気のあったツツジを、内職として組屋敷の庭で栽培していた。ついには、大久保地域自体が染井と並ぶツツジの名所として、「江戸名所図会」でも取り上げられるようになった程である 。 こうした園芸産業の隆盛が、江戸の園芸ブームを支えていた。(『観光都市江戸の誕生』から)
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<地味な存在だったハボタン>  ハボタンはキャベツと母種を同じくし、その1変種とされるが、もとはヨーロッパ原産の緑葉キャベツから、比較的草丈が高くて結球性がなく葉が着色し、鑑賞に適するものを分離育成したものといわれている。 キャベツの仲間は野菜として種々に改良利用されているが、観賞用はハボタンだけであり、江戸時代以来、日本人が栽培改良し、育てたものの1つである。(中略)
 ハボタンは他家受精をする植物であるため、従来の品種は集団選抜によって育成され、維持されてきた。そのため、形質の揃いも充分とは言えなかった。品種の純度を高めるために、似た形質のものを多く選抜したり自殖を繰り返したりすると、しばしば自殖弱勢を起こして栽培が困難となり、かつ自家不和合性のため種子ができなくなり場合もあり、品種の維持にも常に困難な面が伴っている。 そこでこれらの欠点を改称するために、一代雑種(F1品種)の作出が行われた。F1品種は両親系統の育成維持とその組合せが重要であると共に、採種経費が問題となるが、自家不和合性を逆に利用することによりこの万台を解決し、F1種子を容易にしかも確実に採種する方法が可能となった。タキイ種苗では1954年に自家不和合性を利用する一代雑種の採種法が確立され、キャベツのF1品種を発表した。 ハボタンもキャベツと同じ胞子体型自家不和合性の遺伝子機構をもつことが認められ、その血葉による育種法で1972年初めて丸葉系のF1品種「白たか」、「紅たか」、名古屋ちりめん系の「紅さぎ」、「白さぎ」が作出発表された。 その後タキイ種苗をはじめサカタのタネ(株)など他の種苗商でもF1品種を発表している。性質が揃い、丈夫で作りやすい優れた品種として、F1品種が今後の主流となろう。
 冬を彩る花壇すは、ハボタンは、いまや欠かすことのできないものとなっている。江戸時代の末ごろ日本人によって作られたハボタンは、長い間生け花や寄せ植えの材料として使われることが多く、昭和の中ごろまでは表舞台に立つことはなかった。 しかし、その後花壇の普及と共に、その改良は目覚ましく、花壇や鉢植えに向く品種が育成され、近ごろでは小鉢植えに良い矮性の小型品種も発表されている。また、一時忘れられかけた生け花用の高性品種も面目を一新して発表され、花壇に立体感をもたせる材料ともなっている。なかでも切れ葉系統の創成はハボタンのイメージを変えるものがあり、その耐寒性は東北、北海道へも花壇を広め、人々の心を温めるものとなろう。 近年、種子が輸出されるようになったが、、ただ”日本人のハボタン”の観があり、世界の人たちから愛され、もっと多様に利用されるように改良が進められ、発展することを願っている。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<バブルを招いた不思議な植物=金生樹(カネノナルキ)>  江戸時代にズバリ「かねのなるき」と呼ばれていた植物のグループが存在した。具体的には、タチバナ(橘、カラタチバナ)、オモト(万年青)、マツバラン(松葉蘭)、フクジュソウ(福寿草)、セッコク(石斛、長年草)、ソテツ(蘇鉄、鉄蕉)などの植物である。
 これらは高額で売買され投機対象と見なされていた。もともと園芸植物は稀少性が評価の大きなポイントとなるために、「お留花(とめばな)」と称して門外不出になっていたり、株分けが厳しく制限されたりしていた。したがって手に入れるためには、それ相応の金がかかった。キクについては正徳年間(1711〜1716)京都の円山とその周辺で「菊合わせ」(品評会)が流行し、人気のあるキク(勝ち菊)の一葉が1両〜3両3分(5万〜15万)で取引されたという話がある。
 このような高額の売買は、江戸では18世紀の末頃から行われていたらしく、寛政9(1797)年植木の高値売買の嫌疑で、駒込村の植木屋が町奉行で吟味を受けている。さらに翌年、珍品鉢植の高値売買が禁じられている。もっとも、その後は高額の取り引きはなくなっただろうと考える早計で、むしろこれはブームの幕開けにすぎなかった。金生樹(かねのなるき)は、文化・文政年間(1804〜1830)にピークを迎えている。 『江戸風俗惣まくり』という本には、奇品を生み出して大もうけし豪邸を建てた話や、道行く人のだれもが苗木を持っていたことなど当時に人々の過熱ぐりが描かれている。
 それでは、金生樹とはどんな木だろう。木とはいっても、本当に木といえるのは、カラタチバナぐらいで、他は樹木とはいえないような気もするが、なぜか一括りにして「かねのなるき」と呼ばれた。
百万両と呼ばれた橘  タチバナの何が人々をそれほど熱中させたのだろうか。それは葉の奇品(斑入り、奇形など)であった。初めは、大坂の好事家たちがタチバナを鉢植えし、斑入りや、葉形のおもしろいものを競い合っていた。タチバナを「百万両」と呼んでもてはやし、その熱狂はたちまち江戸にも広がっていった。 寛政9(1797)年には『橘品』(弄花亭主人)、『橘品類考前編』(灌河山人)、『たちばな種芸の法 素封論』(黄道沙門)、と1年間に3冊もの本が出版されている。今のような出版状況であれば、同じ植物の本が3冊出版されても何の不思議もないが、江戸時代ではきわめて異例のことだ。
 タチバナに始まった金生樹ブームは、オモト、マツバランなどと、種類を増やしながら拡大していった。中でもタチバナの人気は高く、1鉢百両などはざらで、大坂では最高2300両(約1億円)という値がついたという。 こうなると、タチバナの葉の形態や斑入りなどによる鉢植自体の美しさはそっちのけで、利殖第1、皆、目の色を変えてタチバナを栽培するようになった。利殖の対象としても、とにかく斑入りや葉変わりなどの奇品であれば何でもいいというような風潮になり、ますます奇妙な形の植物が幅をきかすようになった。その結果、奇品は法外な値をつけて売買され、利殖のためだけの鉢物栽培が横行した。
流行をくり返す万年青(おもと)  オモトは、関東以南の比較的暖かい地方の、林下に生育する常緑多年草である。非常に強い植物で、日当たりが悪く、雨があまりあたらないような所でも生育できる。移植も真冬を除けばいつでも可能で、根を手で割いて土中に入れておけばそれだけで葉が出てくるという、管理しやすい植物である。 また、現在、一般家庭でよく見かけるオモトは原種ではなく、園芸品種化したものが生育したものだろう。そのため、同じ種から白い縞柄などが入ったオモトが発生することも少なくない。
 鉢物「オモト」として鑑賞する場合、その種類は葉の大きさで、大葉種(30センチ以上)、中葉種(15〜30)、小葉種(15センチ以下、コオモト)に分けられる。オモトの観賞ポイントは覆輪(葉の像をかたどる乳白色の形)、縞柄(葉の黄色の縞)、斑(葉面に生じる白色の模様、図斑、虎斑などがある)、それに葉の厚さとバランスといったところか。
 高さは30〜50センチ程度で、17世紀の末には園芸品として栽培されていた。流行したのは、寛政年間(1789〜1801)以降で、天保年間(1830〜1844)にピークを迎え、その当時は品種も百種を超えていた。『江戸繁昌記』(寺門静軒)によれば、箸ぐらいの大きさのオモトで上半分が白いのを、10両で買おうという人が現れたが、彼はその申し出を断り、謀大諸侯に献上そて300両もの大金を得たという。 これは「太平の万年青(おもと)」という話だが、もし本当なら夢のような話だ。また、文政(1818〜1830)の末から、コオモトが流行し始め、これにも400両という途方もない値段がついた鉢があった。 天保3(1832)年9月の15,16両日、江戸蔵前の八幡社で旗本、水野忠暁らが結成した「東都小万年青連」が開いた「小万年青の聚会」には902品種のコオモトが出品され、盛況を極めたという話が残っている。150年以上も前に園芸のバブルが存在したというわけだ。
 確かに、好きな人にとっては飽きのこない、味わいのある植物であることはわかる。しかし、若い人たちには地味すぎて、どこがいいのかよくわからないのではないだろうか。いずれにしても、マニアックな植物であることは間違いない。
 嘉永5(852)年、3両以上のコオモトの売買が禁止されたことから考えて、幕末になってふたたびオモトが流行していたことがわかる。また、明治期、大正期、さらに、昭和の初めにもそれぞれちょっとした流行があった。
花も葉もない松葉蘭  一体、マツバランとはどんな植物だろう。マツではばいし、かといってランでもない。花の葉もない植物で、おまけに草でもないし木でもないという珍妙なものだ。植物学上はマツバランはシダ類の仲間なのだが、現存するシダ類の中ではもっとも原始的な形態をしている。 その上根っこもなくて、地上に出ている茎が二又に分かれて伸びるだけで、先端には葉が退化したような鱗片状の突起がまばらにできる。高さは、大体30センチ以下で、関東南部以西の暖地に生育する常緑草木である。樹上や岩等に着生することが多いが、時には地面にも生える。ちなみに、『牧野新日本植物図鑑』の1ページ目の1番最初にくる植物がこのマツバランである。
 マツバランがいつ頃から栽培され始めたかは定かでないが、天保7(1836)年に『松葉蘭譜』が出版されていることから、19世紀の前半には流行のピークがあったと推測される。これには、珍品奇品の類が彩色で90品ほど描かれているが、その姿はまるでねじ曲がったニクロム線のような奇妙なものである。 当時は大名草と呼ばれるほど、珍重されていたらしいが、現代の私たちの目から見れば、このようなものが「かねのなるき」だったとは、まったく想像外である。「いいところが何もないのがいい」というような、へそ曲がりな人種が好んだ植物だったのではないかと思えてくるくらいだ。
今も人気が高い石斛  マツバランは、ランという名がついていても分類上はシダの仲間に入るが、セッコクは正真正銘、ラン(蘭)科の植物である。江戸時代は長生草と書いていたが、現在では一般に長生蘭と呼ばれている。なお、セッコクという名前は、漢名「石斛」の音読み、セキコクがつまったものといわれている。(中略)
 セッコクの人気は、明治初頭に少し衰えを見せたが、明治17(1884)年には『長生草見立鑑』(愛知社中版)に135品種が掲載されていることから、ふたたび息を吹き返したものと思われる。また、第2次大戦で消えかかったといわれたが、戦後復活し、 毎年とはいかないが銘鑑が発行されるまでに盛り返し、現在に至っている。
 現代でもセッコクの人気が高いのは、栽培が容易で、初心者でも気軽に入門できること、また、ラン特有の花の美しさがあり、葉の美しさは年間を通して鑑賞でき、増殖も意外に簡単であること、そして、これまであげてきた「金生樹・かねのなるき」の中でもっとも小さく、置き場所に困らないことなどがあげられる。
福を呼び込む福寿草  金生樹の中で、5番目に紹介するフクジュソウは、これまでの葉っぱだけを対象とするものや奇妙な形態の植物とは異なり、花も観賞の対象にしている。正月になると鉢物として出回るフクジュソウは、葉よりも黄色い花が咲く植物である。 フクジュソウの栽培は、比較的容易で、鉢植えにも路地栽培にも適した植物だ。ちなみに、正月の飾り物として市販されている鉢物をそのままにしておいては、翌年花を咲かせることはできない。それは、浅い鉢植にするため、根の多くが切られているからである。(中略)
 江戸時代に園芸種の改良はかなり進んでいた。『本草要正』(泉本幸直)には126品もの品種が示されているが、他種との交雑なしに百以上もの品種がつくられたことは非常に珍しいことである。しかし、フクジュソウの人気は江戸時代から明治時代までで、その後大半の品種が消えてしまった。戦後、園芸品種は、ふたたび収集されるなどして、現在は約50種くらいまでに回復している。
蘇鉄の鉢植え栽培  ソテツが自生しているのは九州南部や沖縄であるが、関東地方以南であれば簡単に栽培できる。本来は南方の祝物であったソテツが江戸で栽培され、人気を得たのは、人々の間に異国情緒への憧れがあったからだろう。また、日陰に耐え、乾燥地を好むなど、栽培が比較的楽なことも理由の1つかと思われる。 庭園では2〜5メートル以上のソテツが植えられているのを目にすることもあるが、金生樹としてのソテツは鉢植で鑑賞するための矮性品(シシソテツ、獅子蘇鉄)が用いられた。
 ソテツは、樹勢が弱った時に、鉄クギを幹に打ち込んだり、根元に鉄クギを散布したりすると蘇生することからこの名がついた。地方によってはソテツを植えると家内に病人が出るといって嫌う所もあるが、逆に江戸時代、特に天保年間(1830〜1844)には正月に飾るおめでたい樹として人気があった。 『金生樹譜』(長生舎主人)にはフクジュソウ、オモト、タチバナの図解を載せ、新年を祝う、めでたさこの上ない植物と説明されている。このソテツ、きれいな赤い実をつけるが江戸時代には鑑賞の対象はもっぱら葉で、斑入りや葉の形のおもしろいものが対象となった。 (『江戸のガーデニング』から)
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<園芸バブルによって園芸産業が発展した>  鉢植え植物が高く売れる、となってより高く売れる商品を作ろうと品種改良が進む。本来趣味であった園芸が産業のようになる。そうしてそれで生計を立てる人はプロとして仕事に専念する。 現在日本では食料自給率の低さを問題にする人がいる。この人たちは「儲け」を問題にしない。つまり食料生産で生計を立てようとする人の質問「農業で豊かな生活はできますか?」の答えようとしない。 「農偉業では儲かりません。豊かな生活は出来ません。日本の食料自給率向上と自然環境保全に意欲のある人が農業に従事すべきです」との答えと理解する。そうして「自分はともかく、妻や子供には豊かな生活をさしてあげたい。それができないのなら農業は諦めよう」となる。
 江戸時代は園芸で一攫千金を狙う人が参入したに違いない。新規参入による競争と緊張感が江戸時代の園芸を発達させたに違いない。一部の人は園芸バブルを非難するかもしれない。しかしバブルが発生するほど園芸産業が盛んだった、と理解すべきで、現代では農業バブルの発生する兆しは全くない。 そのことが、現代日本農業衰退の象徴であると思われる。江戸時代の園芸は自然発生的に盛んになっていった。幕府や識者の指導のもとに発達したのではない。それは自生的秩序に従って発達したと表現できると思う。自給率とか自然保護などというスローガンはなかった、ごく自然な市場経済であったことがわかる。
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<主な参考文献・引用文献>
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
( 2005年10月17日 TANAKA1942b )
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(45)江戸園芸を総括する
現代も盛んなフラワービジネス
今週は園芸シリーズの最終回です。今まで書き残してきたことを補充し、参考文献を挙げておきます。
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<珍品も登場したナデシコ>  古くから、日本女性をほめるときの代名詞として使われてきたナデシコの花。淡いピンクの花弁、楚々とした風情の中にも強さを感じさせる立姿……。 日本人好みの趣のある、しかも「秋の七草」にも数えられる名花なのに、なぜか生花における扱いな芳しくなかった。 室町時代の花伝書『仙伝抄』には「平生は立つといえども祝言に忌むもの」として「カワラナデシコ」の名があがっているし、実際立花では下段ものとして扱われていたようだ。
 しかし、ナデシコの仲間であるマツモトセンノウは、『本草花蒔絵』には48種も記載されている。濃いオレンジ色の直径5センチ程度の花が咲く。日本産の花としてはめずらしく艶やかな色彩をしている。 「マツモト」の名は松本幸四郎の紋所に似ているところからつけられたという説が有力だが、この一事からみても当時マツモトセンノウはかなり注目されていた。
 ところで、江戸時代の後期にマニアたちの手によって花合わせが催されるなど、人気花の1つであったナデシコは伊勢ナデシコ(別名サツマナデシコ。御所ナデシコ)と呼ばれるもので、「カワラナデシコ」とは起源を異にするものである。 江戸時代に出された専門書『撫子培養手引書』(文久3年、1863、長谷川酔香著)によれば、伊勢ナデシコは、その原種と思われるセキチク(唐ナデシコ)が中国からまず薩摩に伝わり、それがまた、伊勢に伝わってその地で変化したものと説明されている。 長い上に縮れた、まるで女の人が髪をふり乱しているような形の花で、モノクロ写真を見ると、ちょっと気味が悪いくらいだ。現在の伊勢ナデシコでも花弁の長さは、10センチ前後というのが普通らしい。江戸の全盛期には、見た人がびっくりするくらい、長くたれ下がった花もあったのだろう。 それにしても変化朝顔といい、マツバランといい、この伊勢ナデシコといい、江戸っ子の「めずらしもの好き」には驚かされる。 (『江戸のガーデニング』から)
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<江戸時代園芸の限界>  以上見てきた日本の園芸の発達史から、いろいろな特徴を考えてみると、@江戸時代の前半は花木主導の園芸で、おもな花木で品種分化が進んだ。そのなかには日本原産のツバキ、サクラ、モミジ、ツツジ類があって、欧米諸国に導入された。 A中国から渡来した園芸植物の、ボタン、シャクヤクの花型では日本型というべき、心が露出するタイプの花をつくった。B江戸時代後半に入ると、変化アサガオ、キク、サクラソウ、ハナショウブなどの草木花卉が流行して、改良が進んだ。 Cまた、斑入り植物を中心にした葉もの園芸が進んだ。などの点を数えることができる。こうしてみると、日本人が育種した植物とその品種は非常に豊富で、レベルが高かったといえるし、関連のある園芸書の数、質ともに優れていたから、日本の園芸文化は高いレベルであったといえる。 このように優れていたが、西洋の園芸に比べると発達に限界があったことを認めなければならない。
 日本の園芸家は、アサガオ、モミジなどの品種分化で非常に優れた能力を発揮したが、それは個々の植物を徹底的に追って実正をくり返し、変異を調べあげて、品種をつくったのである。それはこれらの植物が都合よく変異性をもっていたから可能になったのでのでの変異性のないものは、いかに実正をくり返し、長年月栽培しても変異は生じない。 たとえば、西洋で広く栽培されているマドンナ・リリーは、紀元前1500年に描かれたクレタ島の壁画にでているが、その花は今日栽培されているものと少しも変わりがない。 地中海東岸部から西に移されたマドンナ・リリーは、ローマの兵隊の欧州駐屯にしたがって欧州全土に広がった。変異性のある植物ならば、南から北に移った場合、実正によって当然変異を生じるが、それは今日まで起こっていない。変異性の少ないものでは、種間交雑、戻し交雑をくり返すときにはじめて幅広い変化が現れることは、多くの園芸植物で知られた事実である。 しかし、江戸時代の園芸植物で人為的に種間交雑されて、品種がつくられた例は1つもなかった。日本と西洋の花卉の品種作出を比較するとつぎのようである。
   日本 自然種間交雑利用、実正種内突然変異の選択
   西洋 種間交雑、種内交雑の実正
 欧州の園芸植物の場合、種間交雑は常識で、主要な種類では必ずといってよいぐらい種間交雑が行われている。この違いはどうして生じたのであろうか。欧州の場合、西洋人はなんといっても牧畜民俗であって、日本人のように縄文時代以前から、植物性食料を主としてきた種族とは違って家畜を飼育していたから、家畜の改良には交雑育種が大昔から行われてきた。 したがって、植物でも目的にそった植物を作出するために、種間交雑は当然の常識であった。 (『園芸の時代』から)
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<ケンペルの見た日本人の自然とのふれあい>  江戸時代にオランダ商館付の医師として来日し、約年間長崎出島に滞在したエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651年9月16日〜1716年11月2日)は滞在中の記録を『日本誌』と題して出版した。その中で日本人と植物との関係を詳しく書いている。 そのケンペルの見方を青木宏一郎の著書から引用して紹介しよう。
 ケンペルは、元禄当時の日本人の自然観、植物や庭などについて、自分の自然観をふまえて述べている。
 まず、低級の旅館・小料理屋・居酒屋・食べ物や甘い物を売る茶屋などごく一般的な場所について記述している。
 これらのものは、ケンペルが旅する街道沿いや森や谷間などにあって、疲れた徒歩の旅行者や身分の低い人たちが、わずかな銭を払って、上等ではないが暖かい食事をとり、茶や酒を飲むことができる。 このような場所であっても室内から、花の咲いている植物や小高い遊園、さらさらと流れ落ちる小川といったものがある緑の裏庭が快く目に映るのである。
 また店先に置かれた花瓶には、花をつけた小枝(ケンペルには、ちゃんとした花の咲く植物をこうして使うにはもったいない気がした)が大変上手に活けてあると、書かれている。
 そして、このような美意識は、苦労して暮らしを立てなければならない貧しい人たちがやっている小さな料理店や茶屋でもごく普通に見られ、店は貧弱で粗末であっても、通り過ぎる旅人を惹きつけるに十分であると感心している。
 旅館は、違棚の下に花瓶があり、季節の移り変わりに応じて大変美しい花の咲いた種々の小枝を、華道の規則に従って活けている。この花を飾る技法は、西欧の食卓で肉の切り方やナプキンのたたみ方を教えるのとまったく同じように教授されているという。
 植物に関心があったケンペルは、庭園についても多くの観察を残している。長崎の出島に閉じこめられ、江戸参府旅行でも異国の捕虜に近い立場にあるオランダ人にとって、唯一の楽しみは小庭園だと述べている。
 特に、17世紀はじめ頃から町人の間で茶の湯が流行したのに伴って作られた多くの坪庭に関心を示している。まわりを建物で囲まれた空間を、「つぼ」「壺」「坪」とよび、その狭い空間に自然を取り込み、坪庭というものをつくった。 ケンペルは、白壁で囲まれ、まるで大きな壺のように見えるので「つぼ」とよばれ、広さは後屋の幅だけしかなく、方形で裏木戸があると、その形態を説明している。このような坪庭は、身分の高い人々の屋敷や旅館にはすべてあると述べ、庭の細部を紹介している。
 まず、庭をつくるための空間が非常に狭い所では、接木したウメかサクラかアンズの老木が、せいぜい1本植えてあるくらいだ。その木は、古くて曲がりくねっていて、枝ぶりが変わっているほど、なおさら上品で高価だと考えられていた。
 これらの植木は、しばしば庭の長さだけ枝を水平に延ばし、たくさん花が咲くように、1本か2本の枝を残してほかの枝は落としてある。そうすれば季節が来ると、この一隅にはピンクや八重の花々が信じられないほどに咲き揃って、非常にすばらしい眺めとなる。さらに、花は咲くものの実を結ばないことにまでケンペルはふれている。
 また、まったくスペースがないような旅館でも、建物の中に開け放された明るい場所がとってあって、時々小さな金魚が泳いでいる鉢を置いたり、また1,2の珍しい植木や福寿草の鉢などが置かれてある。また、いくつかの鉢植えには、土がなくとも水分や養分のとれる軽石の上や中に根を延ばす木があることも発見している。
 さらに、旅館だけでなく、普通の家の入口にもこうした鉢植えが趣味や装飾として置いてあると、当時の日本人がごく身近に植物を置いて親しんでいることを書いている。(以下略) (『江戸時代の自然 外国人が見た日本の植物と風景』から)
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<江戸期のイネの品種数は3500種ほど> 都市部での趣味としての園芸を取り上げてきた。最後の少しだけ農村部での話も紹介しておこう。
 明治26年に農商務省に農事試験所が設立され、10年後の明治37年から大阪府におかれた畿内支場でイネの品種改良に着手したが、開始にあたって全国からイネの品種を集めた。 その数は4000に及んだ。同名異種などを整理したところ3500くらいになったという。当時全国でそのくらいの数多くの品種が作られていたものと思われる。おそらく、情報交換や交通の発達していない当時は、狭い地域社会の伝統や千差晩月の風土に適応した品種が、数多くあったのであろう。 それらの多くは、イネを栽培する農民自身が必死の思いで作りだしてきたものであった。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<江戸期のイネの品種改良>  わが国の幕末における稲作技術は、現在の東南アジアのそれよりもかなり高い。それが、明治以降のわが国の急速な発達を可能にした真の要因であろう。すなわち、たんにコメをつくるというだけでなく、どのようなつくり方であるかが重要である。 いいかえれば、同じコメをつくりながら、わが国はいつごろ、東南アジアと決定的に分かれて独自の道を歩み始めたのであろうか。いわゆる日本型稲作の確立の時期と過程を、どこに求めるべきであろうか。
 もとより、わが国と東南アジアとでは気候や土壌を大いに異にする。コメの種類さえ、ジャポニカとインディカの相違がある。したがって、わが国に定着した当時の稲作のあり方が、東南アジアのそれと同一だとは考えられない。 けれどもイネの伝来が東南アジアから揚子江下流沿岸を経て、わが国に伝来されたとすれば、その定着の初期において、栽培技術の決定的な相違があったとも考えられない。
 両者が決定的な訣別をしたのは、おそらく条里制を契機とすると考えるできだあろう。だが、条里制の稲作技術は、まだ充分明らかでない。そこで、はなはだ大胆な意見だが、荘園制のことでの集約な水管理、田植えの普及などによる集約な土地利用の発達、これらが、その訣別の重要な契機だと著者は推定している。 もっとも、それでも日本型稲作といいきるわけにはいかない。それが文字通り決定的に離陸をとげたのは、江戸時代に入ってからだと思われる。
 わが国の稲作技術史で、江戸時代はそのような意味をもっている時期である。 (『稲作大百科』から)
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<現代のフラワー・ビジネスはどうなっているのか?>  江戸時代の産業=園芸が現代ではフラワー・ビジネスと名前を変えて繁昌している。
 日本農業のなかで最もビジネスに近いのは花農業といってよいでしょう。これは花が嗜好品で、食品でなかったために、公的な規制がほとんどなく、生産者も流通関係者も自己責任のもとで比較的自由に仕事をしてきたためだとっかんが得られます。 したがって花農業の展開事例を見ていくと、今後の日本農業のヒントになることがたくさん出てきます。
 ここでは、最近10年ほど大きく構造変化してきた花農業、フラワービジネスの同好を見てみましょう。そこでは、農業とビジネスが相互に影響しあい、連携しながら新しい市場を開拓していることがわかります。
 はじめに花農業とは何を指してしるのか簡単に説明しておきます。花農業は「花き農業」と呼びならわされており、大きく切り花と鉢物と花木類からなります。具体的な植物名でいうと、切り花では、キク、バラ、カーネーション、カスミソウや洋ラン、ユリ等が思い浮かびますし、鉢物ではシクラメン、各種の観葉植物、洋ラン類が、また花木類ではツツジやサツキ、ツバキなどがポピュラーです。
 1995年の日本農業全体の粗生産額は、10兆5800億円で、花き祖生産額は6200億円でしたので、花き農業は農業全体の5.7%を占めることになります。80年におけるこの比率は2.9%でしたから、最近15年間で2倍以上に拡大してきています。農業全体に占める構成比としては大きな数値ではありませんが、その伸び率は非常に高くなっています。
 この「急速な伸び」という点は、花き消費動向から見直すと非常によくわかります。1995年の1世帯当たり年間切り花購入金額は1万3000年弱で80年の2倍以上に伸びています。また、園芸品・同園芸用品の購入金額は同様に95年で8900円以上で、90年にデータをとりはじめてから5年で25%以上伸びています。
 切り花の消費拡大については、「フラワーブーム」、また園芸品・同用品の消費拡大については、「ガーデニングブーム」といわれるブーム現象が大きな追い風になったことはよく死絵荒れています。しかし、われわれの生活がままぐるしく変化し、人々が花や緑に心の安らぎや、生活の潤いを求めるようになってきていることはまぎれもない事実です。 花や緑に対する消費者のニーズの高まりは一過性のブームでかたずけられる問題ではないでしょう。 (『新・アグリビジネス』から)
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<母の日に<キリンカーネーション>が売れている> 「農業は先進国型産業である」▲がTANAKAの考えだ。その農業の中でも花卉産業は最も先進国型産業のようだ。その業界に他の業種から参入して成功している例だある。それを取り上げてみよう。 なおキリンビールの他には、サントリーが青いバラを開発して「販売については2007年以降を予定しています」と表明している。
「母の日に売られている鉢ものカーネーションの大半は、キリンビールが育てたものである」
 こう言うと多くの人は、恐らく「えーっ、その話って本当?」と驚くに違いない。もっとも昨今は鉄の会社が牛肉を売ったり、銀座では老舗の文房具店が、ワインを売る時代である。ビール会社が、花を売ってもひとつもおかしいことはない。
 ちなみに5月の第2日曜日の{母の日}に、日本では、どれほどのカーネーションが売られているのだろうか。推定では鉢植えのカーネーションつまり鉢ものが、年間販売量の約80%相当で、およそ350万鉢、切り花が、同じく15%相当で、1億5千本から2億本程度と見込まれている。
 いうまでもなく異分野から参入した企業、つまり命じの初めから1世紀余りにわたって、ビールを柱に飲料・食品会社として発展してきた企業がかつて経験したことのないマーケットで、既述のようにマジョリティ{多数派}を獲得することは、容易なことではない。 そもそもキリンビールが、未知の領域であるフラワービジネスの分野──同社ではこれをアグリバイオ事業と呼んでいる──に進出を決めたのは、1980年代の初めである。 それほど古いことではない。なお同じころ同社は、バイオテクノロジーを勝つようした事業として、医薬事業を同時にスタートさせている。ねらいは、ライフサイエンス分野での事業領域の拡大にあった。
 ところでわが国の場合、いわゆるもの日を中心に花が集中して売れる日は、1年のうちでどの程度あるだろうか。{母の日}のカーネーションのように、ある特定の花がまとまって売れる日は、恐らく他にあまり例がないといえよう。 たとえば3月のひな祭の桃の花も、5月の端午の節句の菖蒲も、あるいは春秋の彼岸や弔辞の際の仏花としてのキクも、バースデーやブライダル用のバラも、さらにはクリスマスから新年にかけてのポインセチアやシクラメンも、それぞれ季節を彩る風物詩として生活のなかに根付いてはいるが、一点集中という意味では、{母の日}のカーネーションには到底及ぶまい。
 またカーネーションの場合、切り花は鉢ものろ違って、年間を通して比較的コンスタントに需要がある。そのため花き業界では、キクとバラと並んでビッグスリーと呼ばれ、定番になっている。 これは国際市場でも同じである。したがってカーネーションのマーケットを制することは、フラワービジネスをグローバルに推進する上で極めて大きな意味を持っている。まさに戦略商品なのである。 (『キリンが挑む花ビジネス』から)
上記本の目次の後に次のような文章が引用されてあった。園芸シリーズの最終回なのでここに引用することにした。
 20世紀に入ってこのかた、ガーデニングにかんする専門知識はかつてないほどの発達を見せている。書籍、雑誌、講演、映画、放送を通じて、どれほど知識の旺盛な人であっても、一生かかっても吸収できないほど大量の園芸知識が溢れている。 だが、そうした専門知識や技術の追求の一方で、ガーデニングや庭の植物に秘められたもっと文化的なロマンチックな一面が見えなくなっている。 現代生活の慌ただしさにつれて、そうなるのも不思議ではないだろう。なぜなら、科学の発達によって生活の省力化が進んだのに、ますます時間的なゆとりが失われているように思えるからである。
 A・アンダーソン著武田雅子訳『花の歴史』八坂書房、1998年、8頁
<ホンダの子会社がコシヒカリを開発>▲  キリンやサントリーなどの大企業が農業に参入する。農業は先進国型産業なのだから当然のことだ。そして農業とは関係のなさそうな日本の大企業が農業分野に参入する。その一つにホンダがある。 インターネットで次のようなニュースが流れた。
 ホンダが全額出資する研究開発子会社のホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパン(HRI−JP、埼玉県和光市)は2005年8月8日、名古屋大と共同でイネの培養特性を飛躍的に向上させる遺伝子を世界で初めて発見したと発表した。 この遺伝子を交配によって培養が容易なイネの遺伝子と入れ替えることで、培養しやすい「コシヒカリ」の開発にも成功した。 これまで自然交配で二十年以上かかっていた国内で人気の高いコメの品種「コシヒカリ」の新品種開発が3〜5年程度に短縮できる。………
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たくさんの花卉市場が園芸産業の流通を支える  江戸時代の産業=園芸が現代ではフラワー・ビジネスと名前を変えて繁昌している。花卉を取り引きする市場も活況を呈している。 その花卉市場、関東地方ではこのようにたくさんの花卉市場が設けられている。
 大田花き -大田市場花卉部
 フラワーオークションジャパン -大田市場花卉部
 (株)東京砧花き園芸市場 -世田谷市場花き部
 世田谷花き -世田谷市場花き部
 東日本板橋花き -板橋市場花き部
 (株)第一花き -北足立市場花き部 
 水戸中央花き -茨城県
 川崎花卉園芸(株) - 川崎市中央卸売市場北部市場 神奈川県
 株式会社南関東花き園芸卸売市場 -南関東花き園芸卸売市場
 北関東花き(トキワ園芸農業組合) - 茨城県
 東武生花市場 -地方卸売市場 株式会社東武生花市場
 川越花き市場 -埼玉県経済連川越花き市場
 鴻巣園芸センター -埼玉県産地市場
 埼玉園芸市場 -地方卸売市場 株式会社埼玉園芸市場
 (株)東京東久留米花卉園芸卸売センター 
 群馬県中央園芸株式会社 -群馬県中央園芸
 このように現代では園芸が産業として育っている。花はれっきとした花卉産業であり、環境保護を名目とした公共事業である米との違いがハッキリする。
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<道楽の園芸が産業となって現代に受け継がれている>  徳川家康の椿道楽から始まった趣味の園芸が大名や下級武士や商人から庶民にまで広まって、産業として発展して、それが現代に受け継がれている。 フラワー・ビジネスは高度成長を遂げて豊かになった日本で成長し始めている。江戸時代も園芸が趣味の普及したということは江戸市民が豊かになっていった、ということなのだろう。 このことからも、「江戸時代は庶民もけっこう豊かであったに違いない」と言える。
 江戸をはじめ、園芸は都市部でも趣味だった。農村部では農業は産業であった。その稲作も品種改良・生産技術改良が行われていた。 今回は「園芸」がテーマなので多くは扱わなかったが、江戸時代は農村部も決して停滞していたわけではなかった。最後にそれも付け加えてみた。
 このように「園芸」という趣味も、「衣装道楽」や「旅」といった趣味や贅沢と同じように、江戸時代の経済発展に影響を与えていたことがハッキリした。江戸時代のミームは生きている。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献> ”園芸シリーズ”で参考にした文献を列挙しました。乱読につき順不同です。
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7
事典 しらべる江戸時代                 林英夫・青木美智男編 柏書房       2001.10.15
江戸の園芸・平成のガーデニング                   東征一郎 小学館       1999. 4.20
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
園芸の時代                            塚本洋太郎 日本放送出版協会  1978. 5.20 
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
江戸時代の自然 外国人が見た日本の植物と風景           青木宏一郎 都市文化社     1999. 4.19
稲作大百科 第2版 1 総説/形態/品種/土壌管理         農文協編 農山漁村文化協会  2004. 3.25 
世界のフラワービジネス                       小川孔輔 にっかん書房    1991. 5.10
あなたもできるフラワービジネス                     東潔 誠文堂新光社    2002. 1.30
新・アグリビジネス                         大澤信一 東洋経済新報社   2003. 3.30  
江戸参府旅行日記                     ケンペル 斉藤信訳 平凡社東洋文庫   1997. 2.25 
キリンが挑む花ビジネス 世界のガーデニング文化を育てる       中田重光 日刊工業新聞社   1999.11.25 
( 2005年10月24日 TANAKA1942b )
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(46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か?
享保の改革に反抗したモルモット
江戸時代、趣味と贅沢が市場経済を発展させた、というのがTANAKAの見方だ。衣装道楽、旅、園芸と話を進めてきた。 最後は「贅沢は敵だ」の政策をとった徳川吉宗と「贅沢は素敵だ」の政策をとった尾張藩主徳川宗春について調べてみた。
 歴代将軍のなかでも吉宗は将軍としての主導権を発揮して積極的に政治にかかわっていった。その成果については高低評価が分かれるかも知れないが、積極的に改革を進めたのは事実だ。 そしてその基本姿勢は質素倹約であった。この時代にその吉宗と逆の政策をとったのが尾張藩主徳川宗春だった。宗春の目指した政策は挫折する。 しかしその贅沢を奨励した政策は、このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」で取り上げないわけにはいかない。確かに挫折し、失敗し、公式記録の多くが消し去られてしまったが、そのモルモット精神は現代にこそ見直すべきだと思う。 江戸時代を振り返れば、荻原重秀や田沼意次のように結局は失脚させられた改革者がいた。江戸時代という時代背景を考えれば、あまりにも時代を先取りしていたのかも知れない。本人は思っていなくても、その政策は早すぎたのかも知れない。 だからこそ、21世紀の今もう一度見直してもいいだろう。それだけの価値のある実験だったと思えるからだ。
 現代では「官に逆らった経営者たち」▲が成功したモルモットだ。江戸時代には荻原重秀や田沼意次や尾張藩主徳川宗春がモルモットであったが旧勢力に失脚させられた。吉宗の倹約政策に反抗した贅沢政策の宗春。平成不況の現在、この政策を見直すことはそれなりの意味があるだろう。
吉宗・宗春関連の略年表
西暦 年月日 出来事
1684 貞享1.10.21 吉宗 紀州徳川の4男として誕生
1695 元禄8. 8月 荻原重秀の貨幣改鋳
1696 元禄9.10.28 宗春 尾張藩主の第20子として誕生
1705 宝永2.10. 6 吉宗 父兄たちの死により紀州藩主となる
1709 宝永6. 1.10 5代将軍綱吉死去
1712 正徳2.10.14 6代将軍家宣死去
1716 享保1. 6.26 吉宗 第8代徳川将軍に就任
1717 享保2. 2月 吉宗 大岡忠相を南町奉行に任命
1718 享保3.11月 新金銀通貨用令、古い貨幣の回収を命じ緊縮政策を徹底
1720 享保5. 5.12 吉宗 新規製造禁止令を出す
1722 享保7. 7. 3 吉宗 上米令を発布
1724 享保9. 6.23 吉宗 倹約令を出す
1725 享保10年 吉宗 御用商人を江戸から大坂へ派遣、米の取引を仕切らせようとする。以後1730年まで3度にわたる       
1729 享保14. 8.11 宗春 奥州梁川3万石の大名となる
1730 享保15.11.28 宗春 兄継友に死に伴い7代尾張藩主となる
    3月 江戸町奉行・大岡忠相のもとに、大坂の商人が米会所開設許可を願いにくる
    8月 大坂商人による米市場=大坂堂島米会所を公認する
    9月 上方の米商人に対し、米価吊り上げを要請
1731 享保16. 1. 1 宗春 将軍吉宗に拝謁
    1.19 宗春 将軍吉宗から一字「宗」をもらい、通春から宗春と名を変える
    3月 宗春 『温知政要』を著し、近侍になどに与える
    4.12 宗春 尾張に着城、建中寺へ参拝。奇異な行列に住民は仰天する
    5. 1 宗春 藩士たちに芝居見物を許可
    7.12 八重姫没。その服喪を補うため、宗春 7月24日と8月1日に盆中の踊りを許す
    8.22 宗春 市中の子供らを集めて下邸で躍らせる
1732 享保17.7月 享保の大飢饉
1733 享保18. 1.26 江戸で初めての「打ち壊し」起こる
1735 享保20.10月 米の公定価格を設定
1736 元文1. 5.12 貨幣改鋳。米の公定価格廃止
1738 元文3.6.9 尾張藩年寄横井豊後守、宗春不在中に遊郭や芝居など諸興業を停止。クーデター
1739 元文4.1.12 吉宗 成瀬隼人正、竹越志摩守らを召し、宗春謹慎の内命を示す
  4.1.13 宗春 麹町邸に隠居
  4.7.5 宗春 名古屋閉居を命ぜられる。道中掃除の必要なし、と。
元文4年 貨幣が市中に出回り、米相場は安定
1745 延享2. 9月 吉宗 将軍職を長男・家重に譲る
1751 寛延4. 6.20 吉宗 脳出血で倒れ、68歳で死去
1764 明和1.10.8 宗春 死す
1821 文政4年 宗春 罪人を許される
1839 天保10.11.5 宗春 従二位権大納言を贈られる。このとき初めて金網をはずされる


<『徳川実紀』から>
江戸時代の公式記録である『徳川実紀』から、吉宗と宗春に関する項目をいくつか抜き出してみよう。
*               *                *
享保16年1月19日 尾張主計頭通春朝臣従三位の中将に拝進せしめられ。御名の一字たまはり。延壽国資の御太刀御盃そへつかはされ。宗春卿とあらためられ。備前高綱の刀を献ぜらる。
享保16年2月28日 松平左近将監乗邑。少老本多伊豫守忠統して。殊更に諸有司に倹約の令を仰下されしは。近年うちつゞき米価いやしきにより。其あたひに応じ。諸事をはからふべし。よて今年より三年の間。 ことさらにこゝろして節倹をもちゆべしとなり。」
 また老臣会議して定めし趣は。常の出仕に白小袖着する事。身ぐるしくとも。用ひらるべきほどは着用し。袷小袖も白小袖着すべし。従者も麁服を着さしむべし。轎興も外をかざらず。 用ひらるゝまで用ゆべし。親戚其他の参会に。一汁三四菜たるべし。香物の外美饌を用ゆべからず。世上に稀まる魚鳥求むべからず。御鷹の鳥を開くとて饗する時も。一汁三四菜たるべし。慶莚に饗膳出さでかなひがたきは。献酬かろくすべし。 屋舎の造営をも無益をはぶき。従者の衣服は絹布。木綿とり交へ。外をかざらず便に従ふべし。見ぐるしき事は苦しからず。私の音信。贈遺其品を省略し。無用の従者を減ずべし。この定めを破る事あるべからずとなり。」
 また万石以下の輩には。衣服。調度等舊くとも有来りしを用ひ。新制を用ゆべからず。朔望等の外は白小袖を着すべからず。かつ上着は。今まで縞類用ひざりしが。この後は着用すべし。家士の衣服は。殊更見ぐるしくともこれをもちひ。 絹布とりまじへもちゆとも。便にしたがふべし。婦女の衣服もこれにおなじかるべし。屋舎も破壊せざらんには搆造すべからず。すべて官事に関係するのほか。家督。嫁娶をはじめ。親戚の贈遺これまでの半たるべし。家督。嫁娶の饗応も。近年定例をもてことさら省略し。 その他の賀儀は、吸物のみにて献報すべし。常の集会には。平日用ゆる食物のほか。いさゝかにても。とりつくらふべからず。なるべきほどは。采邑のものをめしつかふべし。すべての従者も。有用のものをえらび。外貌にかゝはるべからず。 このむねかたく守るべしとなり。」
享保16年3月15日 尾張宰相宗春卿太刀金。縮緬。馬を献じ。昇進を謝せらる。
享保17年8月21日 尾張宰相宗春卿病快てまうのぼりご対面あり。
享保17年9月9日 けふ万石以上以下に令せられしは。西海。山陽。四国。蝗災にかかり。米すくなきをもて。東山。東海。北陸に所領ある輩。米を上方に輸送するは定れることなれど。ことしはわけて大坂のみに限らず。災にかゝりし国々なりとも。 その便宜にしたがひて多く積送り。また民間の売米も。それに准ずべきむね令すべしとなり。」
 かくの如くにても。蝗災の国々なを米乏しくば。公料の米も輪輸せらっるべければ。その心してあるべしとなり。
享保17年10月8日 今日令せられしは。ことし関東の国々。米穀ゆたかにみのりしよし聞えたれば。万石以上采地に。米を多く貯ふべしとなり。 
享保17年10月15日 けふ万石以下に令せられしは。駿河。遠江。参河。尾張。伊勢。公料。私領の地より。官廩に納むる米。及び家々の扶持に預る米の外じゃ。浦賀の湊にて。江戸に入ことをとゞむべしと令せられしが。餅米を輸送するは。其よし申さば通しやるべき旨。かさねて奉行に仰下さるれば。其心得あるべしとなり。
享保17年10月28日 尾張宰相宗春卿に放鷹の暇をつかはさる。
享保17年11月22日 尾張宰相宗春卿鷹場より帰られてけふ御対面あり。 
享保17年11月28日 尾張宰相宗春卿の嫡男万五郎の方髪置の祝あり。松平右京大夫輝貞御使し。綿三十把。三種二荷。大納言殿より金一枚。縮緬五巻をつかはされ。父の卿には三種二荷を送り給ふ。 よて宰相より三種一荷。万五郎の方より太刀馬資の金。縮緬五巻。二種一荷奉らる。
享保17年12月朔日 尾張宰相宗春卿中納言に昇進あり。  
元文4年1月12日 尾藩の老を召れ。伝へしめらるゝ御むねあり。これは中納言宗春卿封つがれしより後。身の行ひたゞしからず。さきに宿老をして申させたまふ事もあり。かつ国の政とゝのはず。 土民困窮せるきこえあり。去年また左近将監乗邑より。藩老にさとすむねありしが。あらためらるゝしるしも見えず。かくては国務に任じがたければ。隠退して糀町邸に蟄居せらるべしとなり。」
 このよし松平安芸守吉長。松平大学頼貞。松平播磨守頼永等ともにまかり。申聞くべきの旨仰出さる。この事により水戸中将宗翰卿に本多中務大輔忠良御使し。紀伊中将宗将に松平右京大夫輝貞御使せり。 宗春卿は成瀬隼人正正泰をもて。かしこまり聞え上らる。
元文4年1月13日 中納言宗春卿もとに。松平安芸守吉長。松平大学頭頼貞。松平播磨頼永まかりて。きのふの仰を伝ふ。また尾藩の支封松平但馬守義淳をめして宗家をつがせらる。よりて水戸中将宗翰卿。 紀伊中将宗将卿。及び庶流のともがらみな出仕あり。
天保10年11月5日 尾張中納言齋荘卿のもとに。太田備後守。脇坂中務大輔御使して。章善院宗春卿元文中つゝしみ仰せ出されしが。こたび格別のおぼしめあしもて免されて。従二位大納言を贈らせらる。 前大納言齋朝卿には。中納言齋荘卿相続ののち国政等世話いたさるるにより。同じく正二位に叙せらるゝとなり。
天保10年11月16日 尾張中納言齋荘卿使して。章善院宗春卿の贈官位を謝して。両御所に物まいらせらる。
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<吉宗に対抗した尾州宗春> TANAKAは吉宗と宗春の違いを「贅沢は敵だ」と「贅沢は素敵だ」の違いとして捉えてみた。その違いから<吉宗に対抗した尾州宗春>として宗春を捉えることもできるかも知れない。ここでは大石慎三郎の著書から、吉宗と宗春の関係についての一部を引用してみよう。
*               *                *
 享保17(1732)年5月、8代将軍吉宗はことごとく対立していた御三家筆頭の尾州名古屋藩主徳川吉宗を譴責し、さらに元文4(1739)年正月にはこれに隠居謹慎を命じて尾州家麹町屋敷に閉じ込め、その跡を分家の高須松平家から義淳を迎えて継がせた。これが尾州家八代藩主徳川宗勝である。 謹慎は大変厳しく父母の墓参さえ許さず、明和元(1764)年10月宗春が死亡すると、罪人だというのでその墓石に金網をかけてしまった。宗春が許されるのは、それから75年余もたった天保10(1839)年のことである。
 その理由として徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、宗春は「身の行いただしからず、……かつ国政ととのはず、土民困窮せるきこえあり、去年また左近将監乗邑(のりさと)より藩老にさとすむねありしが、あらためらるゝするしも見えず、かくては国務に任じがたければ隠退して麹町邸に蟄居さらるべしとなり」と、 処分の理由を全く宗春個人の資質のせいだとしている。
 しかし当時世間には、8代将軍の座をめぐって、御三家筆頭の尾州徳川と第2位の紀州徳川家(吉宗)との間には、深刻な争いがあったとの噂が広く流布し、それが信じられていたむきもある。 そのためこれらのことは、その争いに根をもつ近親憎悪の醜い争いが噴き出したものと見る者も少なくなかったようである。
 さらに8代将軍の座を占めた徳川吉宗と、尾州宗春との間には、その性格・人生観・政治手法ともに極端なへだたりがあり、対立して当然といったものがあった。そもそも歴史の流れには幅があるが、この吉宗と宗春との間には、あたかも元禄〜享保にかけた歴史の大河の両岸に立ったようなへだたりがあったので、 この争いを見ることには、その時代の歴史そのものを見るようなところがあった。
 質素は吉宗のトレード・マークのようなものであった。将軍になってから特にそれが目立ち、どんな厳冬でも襦袢を下に着ることがなく、鷹狩りに出るときは、必ず木綿の羽織に小倉木綿の袴をはいて行った。 また食事も若いときから飽食をしなかったが、、将軍になってからも一汁三菜を守り、それも朝の辰刻(8時ころ)と夕方の申刻(4時ころ)の2回とるのみであった。 食習慣についていえば、日本社会では元禄のころ1日3食の風習が一般にまで行き渡るが、吉宗は「身を養うには1日2食で十分であり、それ以上はみな腹の奢りである」といって、どんなにすすめても3食とることを承知しなかった。 また酒も大変好きであったが、飲むまえに今日は何本と量を決めておいて、決してそれを過ごすことがなかった。
 そんなことから倹約令は将軍吉宗の主要政策の1つで、元禄の繁栄のなかで世間に蔓延した浪費の風潮を引き締めて、政情な社会に戻すことに力を入れた。 それまでは幕府は分をこえた消費をぜいたくとして取り締まってきたが、吉宗は使い捨ての風潮にストップをかけるとともに、今までよりも高い消費生活をすることを、ぜいたくとして取り締まった。 (大石慎三郎著『吉宗と享保改革』から
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<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍     大石慎三郎 日本経済新聞社       1994. 9.21
国史大系45 徳川実紀第8篇           黒板勝美 吉川弘文館         1965.11.30
国史大系49 続徳川実紀第2篇          黒板勝美 吉川弘文館         1966. 9.30
歴史探索 徳川宗春 なめたらいかんて、名古屋城  舟橋武志 ブックショップ「マイタウン」1995. 4. 1 
( 2005年10月31日 TANAKA1942b )
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(47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革
贅沢と新しいことの徹底禁止
「倹約の吉宗か?贅沢の宗春か?」と題して吉宗と宗春を対比して取り上げる、その吉宗をはじめに取り上げることにする。日本史では吉宗中心で宗春はあまり取り上げられない。 吉宗がいてその反対者として宗春がいるかのようだ。それなら、それで吉宗のことをシッカリ理解しておこう。まずは享保改革を正統的な見地から見ることにしよう。
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<享保の改革のポイント>  8代将軍徳川吉宗の政治は、享保元(1716)年から延享2(1745)年までの29年1カ月に及ぶ。このうち、20年という最も長い年号である享保(以後、元文が5年間、寛保が3年間、延享が4年間のうちの2年間間、延享2年に吉宗は隠退する)をとって「享保の改革」と呼ぶ。
 江戸初期から始まった経済成長はこの頃から低成長に変わる。新田開発について見れば日本列島ほぼ開発し尽くされた。日本各地の鉱山からの金銀の産出量はピークを迎え、以後衰退し始める。こうした経済成長鈍化は人口増加にも現れ、享保6(1721)年に約3106万に達した人口は以後伸び悩む。 こうした低成長の経済に加えて「米価安の諸色高」というやっかいな問題が起き始めていた。米価安は、江戸時代前期に米の生産力が上昇し、供給が過剰になったためであり、諸色高は、人々の生活水準が上昇し、消費力が伸びたにもかかわらず米以外の生産が追いつかず、供給不足となったためであった。
 こうしたことは給料を米でもらう武士の収入が伸びず、武士以外の農工商民の生活が豊かになる、という支配階級が貧しく、被支配階級が豊かになるという幕府にとっては困った世情になっていった。幕府の財政も苦しく、それに加えて疫病の流行が社会不安を増大させていた。
 こうした時吉宗は将軍として主導権をとって改革に乗り出していった。その改革点を 大石力著『吉宗と享保の改革』を参考に、いくつか拾い出してみよう。
米価安定策  「米将軍」と言われた吉宗は米の価格安定に苦心した。江戸時代は三貨制度と言われ、金・銀・銅が貨幣として用いられた。そして、それに加えてもう一つ、武士の給料はコメで支払われた。農民の年貢もコメであった。つまり、コメで税金を納め、コメで武士の給料が支払われていた。 吉宗の時代、コメが増産され、価格が低下した。武士はコメで給料を貰い、それを売って生活費に充てた。そのコメの価格が下がると、武士の給料は実質的に下がることになる。武士としてはコメの価格は上がって欲しい。こうした事情で、吉宗はコメ価格の低下に対して、高値安定を目指した。 そのためコメが豊作だと各藩に備蓄米として市場に出さないよう通達を出したり、主食としてよりも酒造りに回すよう指示したりした。こうした米政策で特に大きなことは、享保15(1730)年に大坂堂島の米会所を公認したことであろう。これに関しては 大坂堂島米会所▲に書いたので、そちらを参照のこと。
目安箱の設置  吉宗の行った享保の改革としてよく知られているのが、「目安箱の設置」だ。享保6年閏7月、幕府は次のような触を出した。
  一、此度日本橋え高札相建候、右札ニ有之通、直訴場も相極候上は、此以後捨文は勿論、外え到直訴間敷事
   右之通、急度(きっと)相心得候様ニ、町中え可触知者也 
     (『御触書寛保集成』第2579号)
 このように江戸の日本橋に高札を立て、将軍への直訴を許すので、これからは捨文(無記名の当初や落書)や、将軍以外への訴訟はしないように、江戸の町々へ周知させようとした。『御触書寛保集成』には、これに続いて高札の文言が記されている。その大意は次の通り。
(1) 来る8月から、毎月2日、11日、21日の3度、江戸城竜ノ口(東京都千代田区和田倉門パレスホテル付近)の評定所前に箱を出しておくので、直訴したい者は、正午までに住所・名前を記し、封をして持って来ること
(2) 投書の内容は、政治に有益な事、諸役人の不正に関すること、訴訟を長く待たされている場合などに限ること
(3) ただし、自分を売り込んだり、人を陥れたり、いいかげんなことや、本来役所に提出すべき訴えなどは取り上げず、焼き捨てること
 ここで直訴が許されたのは町人や農民などの一般庶民であり、旗本・御家人などの武士たちは許されなかった。
町火消組の創設  吉宗は享保2(1717)年2月に大岡忠相を町奉行に任命し、首都江戸の改造と、都市政策の実施に乗り出した。大岡は防火都市への本格的な改造を目指し、様々な防火対策を打ち出した。 その一つが、町火消組合の創設であった。享保3(1718)年に、江戸の町ごとに30人1組の火消組合を結成し、火災時には隣接する風上と両側3方面の地域から、各2組ずつ計6組、180人が駆けつけ、消火にあたるというものであった。
 その後、享保5年8月7日、この町火消組織を「いろは47組」に再編成し、各組どとに地域の消火に当たる体制を整備した。その後何度も再編成され、改良されていった。
町奉行所の機構改革  大岡忠相が南町奉行に就任した後、町奉行所の機構改革が進められた。享保4年に、元禄15(1702)年以来、北町・南町・中町と3つに分かれていた江戸の町奉行を南・北の2奉行所に改編させ、同年4月には本所・深川地域(墨田区・江東区)を町奉行所支配下に置いた。
『江東区史』(1955年刊)や『東京百年史』第1巻(1973年刊)によれば、享保改革期の町奉行所の主な役職は次の通り。
  歳番(ねんばん)、本所見回り、牢屋見回り、養生所見回り、出火之節人足改め、火事場建具改め、高積見回り、風烈見回り、新地家作改め、町回り、地方(じがた)改め
仲間組合の結成による物価安定策  吉宗は享保6(1721)年11月に、町奉行の大岡らの指揮のもとで、江戸の商人や職人たちに業種別の組合を結成させ、組合を通じた商人支配・価格統制の体制を作りだした。 このとき指定された業種は、扇屋、紺屋、菓子屋、紙屋、雛人形屋、瀬戸物屋、椀屋、皮細工、小間物屋、きせる屋、糸組屋、火鉢土器屋、塗物屋、など96種類。
 さらに享保8(1723)年、吉宗は、江戸・京・大坂の三都の町奉行に物価を下げるにはどうしたらよいか諮問した。これに対して、江戸の町奉行の大岡と諏訪美濃守頼篤は、連盟で意見書を提出している。 その内容は、商人らが不当な利益を得ないような同業者の仲間組織を作ること、この仲間組合によって仕入れ値を抑えて物価上昇を抑えること、幕府は大坂から積み出す品や、江戸に入る品を調査するなどであった。
 享保9年5月には、布、綿、米、醤油、薪、炭、酒、紙など生活必需品22品目を扱う問屋などに仲間組合を結成するよう命じ、翌6月には物価引き下げ令にもかかわらず、米穀に比べて不当に高い商品について、町名主たちにその理由を書き上げさせている。
 後の時代の田沼意次は株仲間を結成させ、運上金・冥加金という間接税を徴収し幕府財政を再建しようとした。吉宗は同じような同業者組合を結成させ、物価安定を狙った。田沼時代の後の天保の改革の主導者、水野忠邦は株仲間を「物価高騰の主犯」として解散させた。 それにより生活必需品の流通機能は混乱し、狙いとは逆に諸物価が乱高下することになった。
小石川養生所の設立  享保7(1722)年正月21日、麹町十二丁(東京都新宿区)三郎兵衛店(たな)に住む町医師の小川笙船(しょうせん)は、極貧の病人のために施薬院を建ててほしいと、目安箱に投書したところ、翌2月笙船は評定所から呼び出され、さらに詳しい意見を求められた。
 笙船の意見を聞いた幕府は、享保7年12月4日、小石川薬園(現在の東京大学植物園)の中に養生所を開設させた。敷地は約1000坪、建物は柿葺(こけらぶき)の長屋で薬煎所が2ヶ所、収容人数は40名、医師は小川笙船・丹治を始め7名で、いずれも専門は本道(内科)であった。
都市下層民対策  当時江戸には農村部からの人口流入が多くあった。彼らは江戸で日雇取(ひようとり=日雇い人夫)、振売商人(商品を担ったり下げたりして売り歩く商人)などの下層民を形成した。このため大岡は、都市の下層民対策に力を入れた。
 享保6年6月、幕府は、さしあたり生活はできても、ひとたび火事にあうとたちまちその日の生活にも困ると思われる者を調査登録し、同年9月には、それらの者が今後類焼した場合、数日間扶持米(救助米)を与えることにした。こうした施策は、こののち7年正月、8年正月にも出されている。
風俗の取締り  吉宗と宗春の大きな違い、それは風俗に対する姿勢であった。宗春は幕府によって厳しく統制されていた遊郭を広く許可した。その幕府、吉宗は都市風俗の取締りを強化した。
 享保5(1720)年、町奉行所は私娼取締りを強化する触を出した。その内容は、遊女の抱え主や、遊女を置いた家主は、家財を没収し往来3日間晒したうえで追放、遊女を呼んだ茶屋は家財没収、また名主・五人組には連帯責任で取締りの義務を課し、違反があった場合は処分するという厳しいものであった。
 享保7(1722)年12月7日、幕府は心中事件を扱った書物の出版を禁止し、以後役人が巡回して取り締まることにした。この後「心中」の文字は、浄瑠璃や歌舞伎の題名から消え、心中に関する話も、心中するはずの男女が救われるという筋書きに改められたりした。
 享保8(1723)年2月には、心中者を厳罰に処することが決められた。今後、心中した2人の死骸は取り捨てて埋葬や葬儀を許さないこと、一方が生き延びた場合は、その者を死刑とし、死骸は取り捨てること、2人とも生き延びた場合は、3日間晒したうえで非人手下(ひにんてか)とすることなどが定められた。 (T注 「非人手下」とは士農工商のさらに下の階級である非人に落とされ、以後非人頭の車善七の支配下に置かれることを言う)
鷹場制度の復活  吉宗は将軍就任早々、鷹場制度を復活し、享保2(1717)年5月11日に、亀戸・隅田川(東京都墨田区、江東区)で初めて鷹狩を行った。以後、享保の改革全時期(1716〜1745)を通じて鷹場制度はさらに整備・強化されていく。 これは吉宗個人の趣味と言うよりも、軟弱になる武士に対する姿勢、それと鷹場整備を通じて江戸周辺の支配確保も目的であったと考えられる。
行楽地の整備  吉宗は江戸近郊東西南北の地に、庶民のための行楽地を整備した。
 隅田川堤・中野桃園・御殿山・飛鳥山などを行楽地として整備した。これらの土地は鷹狩りと深くかかわりある場所であった。 庶民の行楽は、将軍の御場、御場所のうちで、あくまでも幕府・将軍から賜るという形式をとったのであった。
全国人口調査  享保の改革以前、全国の諸藩は検地(土地の測量)により領国内の土地(耕地)を把握し、人別改めにより人口を掌握していた。しかし、それはあくまでも、各大名が領国を支配するために行ったもので、検地の方法や人口調査の方法は、各藩まちまちであった。 これに対し、吉宗は、享保6(1721)年6月21日に、全国的な規模で土地の面積(反別)と人口の調査を行い、幕府に差し出すように命じた。
 反別調査は、大きな変化がなかったためか、以後行われなかったが、人口調査は5年後の享保11(午年)に、第2回の調査が行われた。こののち人口調査は、子年と午年と、6年に1度ずつの割合で幕末まで続けられ、その回数は22回に及んだ。
 この調査は武家関係の人口がはずされているという江戸時代の人口統計として、最も大規模で信頼できる調査となる。吉宗は全国人口統計の祖でもあった。 (T注 この調査は速水融・鬼頭宏などの歴史人口学の研究者の間で広く活用されている)
司法改革  享保直前の正徳2(1712)年に、当時の司法・立法の最高機関である評定所にあてて出された注意には、訴訟事件が多いにもかかわらず評定所の会合が短いこと、評定所が調査を十分に行っていないこと、審査の菜に議論を尽くさないこと、審理が遅く権勢や賄賂によって判決が傾くこと、などがあげられていた。
 吉宗は享保6(1721)年4月4日、江戸城内の吹上の庭で寺社、町、勘定の3奉行による裁判の様子を見学している。この日吉宗は、老中や若年寄を伴い、御座には御簾(みす=すだれ)をかけ、朝から夕方まで奉行たちの裁判ぶりを見た。 裁判は全部で36,吉宗はその内15を見学し、こののち奉行たちを御前に呼び、引き出物を与え慰労している。
 吉宗は寛保2(1742)年に『公事方御定書』を完成させ、評定書に対し、元和元(1615)年から寛保4(1744)年までの130年間に幕府が出した法令の編集を命じた。 延享元(1744=寛保4)年にこれが『御触書』としてまとまった。法令編纂事業は、この後も続けられ、『宝暦集成』、『天明集成』、『天保集成』が続撰されたので、これらと区別するために『御触書寛保集成』と呼ばれるようになった。
貨幣政策  元禄8(1695)年、幕府の勘定奉行荻原重秀は貨幣の質を落とし、数量を増し財政の不足を補う貨幣改鋳を行った。 その後、新井白石が正徳4(1714)年に慶長金銀と同質の正徳金銀を発行した。ここに金貨は慶長、元禄、乾字、正徳の4種類、銀貨は慶長、元禄、宝字、永字、三宝字、四宝字、正徳の7種類が流通するという、たいへんな混乱に陥っていた。
 享保3(1718)年11月に吉宗は新金銀通用令を出し、正徳金銀と同質の通貨に統一し貨幣領を収縮する方針をとった。通用令の内容は、@これまで物価は乾字金・四字金銀を基準として定めたが、以後は新金銀を基準とする、 A交換の比率は純金銀含有量に応ずるよう改めること、B旧貨の通用期限は享保7年とする。の3点であった。
 両替屋への統制の強化と新金銀通用令の強硬によって、元禄以来混乱を続けてきた通貨は享保7年にようやく統一され、通貨量も縮小するようになった。
 しかし、吉宗の緊縮財政は深刻な不況を起こした。「インフレはいついかなる場合も貨幣的現象である」が分かれば、吉宗のデフレ政策が理解できる。
 そこで元文元(1736)年5月に金銀改鋳を行った。この改鋳により通貨流通量は増大し、経済は安定した。「文字金」、「文字銀」と呼ばれるこの新金銀(元文金銀)は、その後安定した通貨として、文政期の改鋳に至るまで、80年間流通した。
奢侈品の禁止  幕府は享保以前から手遊び物や雛道具、衣類、季節はずれの野菜や果物などの奢侈を禁じていた。
 吉宗はさらに厳しい奢侈禁止令を出した。享保6年4月と5月の規制では、従来も見られた雛道具や破魔弓、羽子板などの取締りに限られていたが、7月の規制では、器物、織物などの新製品の政策をすべて禁止し、書籍や草紙なども奉行所の許可を得なければ出版してはならないとした。 さらに京都や大坂、その他所々から新製品が送られてきた場合は、少量であっても奉行所へ報告し、指図を受けることとしている。 翌閏7月には、諸道具、書籍の他、諸商売物、新製品を作ることを禁止し、どうしても作らなくてはならない場合には、役所の許可を受けることにした。
 さらに、これを徹底するために、幕府は、同月に絹紬問屋、太物(綿・麻織物)問屋、小間物問屋など20種類ほどの町人たちの名簿を、町名主を通じて、町年寄りに提出させた。そして翌8月、町年寄は年番名主を呼び出し、扇屋、雛人形屋、瀬戸物屋、錺(かざり)屋など96種類の職種の商人・職人たちに組合を命じたのである。 これらの職種はいずれも新規物に関連するものであり、米穀、薪炭、材木、味噌、醤油、塩、繰綿などは入っていない。幕府はあくまでも、新規の品々を奢侈品として取り締まることに主眼を置いていたのである。
新田開発  吉宗は、勝手掛老中の水野忠之を中心に、幕府財政再建作の検討するよう命じていた。その答えは「新田開発」と「税制改革」であった。そこで、享保7(1722)年7月、幕府は江戸の日本橋に新田開発令の高札を建て、町人請負も含めた開発促進の方針を示した。 この新田開発の方針に従って、下総国の飯沼新田(茨城県水海道市付近)、越後国の紫雲寺潟新田(新潟県北蒲原郡)、武蔵国の武蔵新田(東京都西部、埼玉県南部)、見沼新田(埼玉県浦和市・大宮市)など、各地の新田が開発された。 (T注 江戸時代の新田開発については大坂堂島米会所▲を参照のこと)
税制改革  新田開発と並ぶ財政再建策は税制改革であった。吉宗は享保7(1722)年以降、各地の幕領で、従来の検見取法(毎年の出来ばえを実地調査し、これをもとに年貢量を決定する方法)から、定免法(年貢量の一定期間の固定)への切り替えを行い、役人の不正を防止するとともに収入の安定化をはかった。 しかも、この定免法は、定免の年季切れに際して年貢量を引き上げるという、増税の意図を含んだ税法であった。
 幕末期に、幕臣の向山源太夫(誠斎)が編集した資料集である『誠斎雑記』の中の「御取箇辻書付」によれば、年貢総量の平均が、享保元〜11年に140万石であったのが、同12〜15年には156万石余へと、16万石も増加している。 (以上、享保の改革については、大石力著『吉宗と享保の改革』を参考にしました)
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<商品経済の発達に逆行した改革> 「野暮将軍」のほかに吉宗は「八木将軍」すなわち「米将軍」(「米」という字を「八」と「木」の2つに分解)という称号も奉られている。吉宗の最大の関心事が米相場であり、結果的にこれに翻弄され続けたことを揶揄したものである。 江戸時代は「米遣い経済」などと言われ、米が経済の中心であったが、元禄時代以降、次第に「米価安の諸色高」という傾向が顕著になってきた。そして、米価の下落は、そのまま幕府財政を直撃し、幕臣や農民の困窮に直結した。
 米相場をつり上げるため、享保13(1728)年には、従来は米価騰貴の原因になるとして厳禁されていた米切手の転売が許可された。また、諸藩に対しては、江戸や大坂などの消費地に回す米を抑えるよう命じてもいる。 ところが、享保17年、西国が世にいう享保の大飢饉に襲われ、江戸や大坂では米相場が急騰して大規模な打ち壊しが発生した。翌18年から19年にかけては再び大豊作になって、吉宗はまたしても米相場のつり上げに努力しなければならなかった。 そこで米の肯定相場を定めようとしたが、実情に合わず断念せざるを得なくなっている。
 さすがの「八木将軍」も新たな対策を講ずる必要に迫られた。そこで着目したのが、貨幣の改鋳であった。良質の貨幣を出して物価の安定を図ろうとしたころが、かえって米相場の下落を招いていることを知ったからである。 世間の通貨不足を緩和するために貨幣の改鋳に踏み切ったことは、投書の財政方針を放棄して、インフレ政策に転換することを意味するものにほかならなかった。
 貨幣改鋳によって米相場の問題は一応の落着をみたが、インフレ政策のために町民や農民の用いる一般的な通貨である銭貨の相場が下落して、庶民生活の困窮に拍車をかけることとなった。 改革を推進するにあたっては、神尾春央、依田政次、大岡忠相など有能な人材が思い切って抜擢されている。また、目安箱を設置して建言や請願を受け付けるなど、幕府に新風を入れている。
 さらには「公事方御定書」の制定など、法典を整備し、教育や文化事業に力を注ぎ、幕府のお膝元の江戸の市政を重視し、防火・防犯組織を確立するなど、都市機能の充実強化にも努めている。
 勤倹と尚武を貫き、奢侈や安逸にも慣れきった役人たちを、ともかくも引っ張っていった吉宗は、歴代将軍や諸侯の中にあっても出色的存在である。その意味では名君といわれてもよいであろう。
 しかし、享保改革の成果となると、はなはだ疑問が残る。商品経済の統御に失敗し、年貢の増徴も行き詰まり、何よりも改革を推進していった結果、農民の抵抗を激化させることとなった。
 改革が所期の成果を得られなかったのは、「諸事権現様定めの通り」として、「貴穀賤金」「勧農抑商」という伝統的な思想から脱却できなかったことによる。つまり、商品経済の発達という時代の潮流を無視したことである。
 結果的に吉宗は「世直し」という期待を裏切った。この時期、尾張藩主の徳川宗春は、吉宗の勤倹とは裏腹に、自由に奢侈を許し、名古屋に別天地を築き上げている。「公方は乞食に似たり、尾張は天下に似たり」という当時の落首は、世人が吉宗に何を期待していたかを、如実に物語っている。 (『江戸の財政再建』から)
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<将軍吉宗の、新規製造物禁止令>  江戸時代、拡大していった経済が1720年ごろから停滞し始めた。吉宗が享保改革を始めた頃と一致する。ではどうして、この頃から停滞し始めたのか?江戸時代の大きな謎のはずだが、納得できる回答は見当たらない。 将軍吉宗の享保改革にはいろんな評価があるが、その本質は何か?となるとスッキリした答えが見当たらない。 「大江戸経済学」とのタイトルで経済学の視点から、といきがって書いている割には良い答えが出せない。そのように悩みながらいろいろ文献をあさっている内に、歴史家以外の本に興味を引くものがあった。こに紹介するのは、「新規製造物禁止令が成長をとめた」という説だ。 以下、板倉聖宣著『日本史再発見』の<将軍吉宗の、新規製造物禁止令>を要約しながら話を進めていこう。
 先ず、江戸時代、相馬藩の年貢の収納量から話は始まる。相馬藩の経済統計資料によると、相馬藩の年貢収納量は1721年から1726年まで増大しているが、1715年の17.6万俵に達することなく、そのあと増減をくり返しながら、確実に急テンポで落ち込んでいる。
 年貢収入が増減する、ということは大名の収入、ひいては家臣たちの収入が増減するということだ。これが相馬藩だけの特殊な事情ならば、大きな問題ではないが、「江戸時代前半の高度成長と後半以後の衰退ないし停滞」は相馬藩の特殊事情とは言えない。
 多くの経済史料を調べて、長期数量統計をグラフに描くと、江戸時代の前半と後半の違いは歴然としている。
 次ぎに、佐渡金銀山の産出銀の長期統計資料がある。これは1613年から1945年までの資料で、これによると、1721年以後になると採掘量がめっきり減っているのが判る。
 もう一つ、別子銅山における銅の採掘量の資料がある。これによると1698年に採掘量がピークに達した後、1720年頃から横這いに転じている。ところがこの銅山は明治維新以後、かつてない採掘量を記録している。
 4番目は土木工事のこと。土木学会編『(明治以前)日本土木史』(1936)の「開墾・干拓・埋立・地池・灌漑・排水」の工事の件数だ。1600年の関ヶ原の合戦以後、土木工事の件数は飛躍的に増大した。 しかし、1660〜1670年にピークに達して、その後、1710〜1720年になると激減している。これらの資料から、1720前後に日本の経済は大きく変わったと考えざるを得ない。
 1720年という年は、元号で言うと享保5年のことで、徳川吉宗が8代将軍となっていわゆる享保改革を初めて5年目のことだ。その年の前後には、革命や政変のようなものは起きていないし、その他の政治的大事件もない。 1716年の吉宗政権の誕生が転機になっていると見るよりほかない。そこで著者は「吉宗政権は1720年ごろに、経済の発展ないし衰退を抑えるためにどんな政策をとったか」を見るために、吉宗の言動を詳しく記録した『徳川実記』を調べた。 その結果、吉宗は「何事によらず、新規のものを工夫・製造することを禁止する」と指示していたことを見つけた。以下、『日本史再発見』から引用しよう。
なぜ吉宗は<新規製造物禁止令>を出したか  それなら、吉宗はどうしてそんな無茶な政策を実施することにしたのだろうか。
 その理由はかなり推察できる。吉宗(1684〜1751)は、1716年に将軍の座につくと間もなく、「天領からあがる年貢収納量は、神君家康公の時代かた急速に増大して参りましたが、最近では増大することもなく停滞しておりまする」 ということぐらいは知らされていたに違いない。そして、その理由の一つとして、「百姓の数が減っている地域があって、そういう地域ではとくに年貢の取り上げがうまくいかない」といったことも知らされていたに違いない。 そこで吉宗は、大岡忠相(ただすけ 1677〜1751)らの腹心たちと対策を協議して、世界にも先駆けて全国の人口調査を始めることを指示したのであろう。秀吉や家康は「経済の基礎は農地にある」と考えて日本全国の検地を実施したのだが、吉宗政権は「経済の基礎は人口にあるらしい」と気づいて、人口調査を実施したというわけであった。
 そして吉宗は、それとともに新田開発を奨励したのである。農業関係の土木工事の件数を見ても分かるように、新田開発工事は1710年ごろから急激に落ち込んでいた。 そこで、吉宗は新田開発に期待をかけたのである。しかし、そのグラフを見ても、全国の土木工事の件数は1720年以後増大に転じていない。吉宗の新田開発政策は、口でいうほど成功はしなかったのである。それは、1710年ころから落ち込んだ土木工事の件数を維持しただけであった。これはどういうことであろうか。
 じつは吉宗の時代には、当時の技術で新田開発のできる土地はほとんど開発され尽くされていたと言っていいのである。そのことは、明治維新以後になっても「日本の農地面積はほとんど増えていない」ということを見ても明らかである。 それでも当時、「新田を開発したい」と申請する町人などがあった。しかし、多くの場合、既存の田畑に引いていた用水を新田に引き込んで、それで「新田を開発した」と称し、新田への年貢の免除を申し出るものが少なくなかったという。 そういう場合は、新田の代わりに、既存の田畑が荒廃することになり、幕府の年貢収入はかえって減少することになった。だから、吉宗は享保5(1720)年5月12日の指示でも、
  「新田開発するもよきことなれども、古き田畝(田畑)または秣(まぐさ)の妨げとなる開墾なすべからず」
と指示することを忘れなかった。
 そして吉宗は、一方で<弊害のない新田開発>を奨励するとともに、抜本的な解決法として、これまで通りの経済成長を維持・発展させることは無理と見て、「何とか現状維持をはかろう」と懸命になったに違いないのである。 それが<何ごとによらず従来なかったものを作りだすことを禁止する>という<新規製造物禁止令>であった。
 この政策はある意味では完全に成功したと言えるであろう。全国的に見れば、江戸時代の経済はその後ほぼ停滞したと言っていいからである。
 しかし、相馬藩のように、1720年以前からすでに停滞どころか人口が落ち込みはじめていたところでは、日本全国なみに「1720年の水準でとまれ!」ということはできなかった。相馬藩の人口はその後激減し、それに応じて年貢収納量も激減したのである。 (『日本史再発見』から)
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<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保の改革 教養の日本史                    大石学 東京堂出版     2001. 9.28
江戸の財政再建                            井門寛 中公文庫      2000.12.20
日本史再発見 理系の視点から                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25 
( 2005年11月7日 TANAKA1942b )
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(48)『温知政要』と『遊女濃安都』
宗春の政治姿勢をみる
江戸時代の三大改革といわれる享保改革、吉宗が大奮闘したのは間違いない。しかしその成果については高低評価まちまちだ。 板倉聖宣著『日本史再発見』は歴史家が目をつけない、<新規製造物禁止令>という点に注目している。歴史家業界が自家不和合性に陥らないためには、業界外からの新規参入があって、雑種強勢が生まれるといい。 そこまで新しい見方、と言えるかどうか?と思いながらも、『日本史再発見』には興味を引かれる。
 そうした吉宗像に対して宗春の方はどうか?宗春がどのような気持ちであったのか?いろんな文献を読んでも今ひとつハッキリしない。 公式資料はほとんど廃棄処分にされてはいるが、残された『温知政要』と『遊女濃安都』から、宗春の政治が浮かび上がってくる。まず宗春の政治がどのようであったのか、その辺りから話を始めよう。
<享保の改革とは全く逆の宗春の政治>  享保15(1730)年11月28日、 宗春は兄継友に死に伴い7代尾張藩主となる。そして、享保16(1731)3月に『温知政要』を著し、近侍になどに与えた。 この『温知政要』は宗春の政治姿勢を著したもので、その後の宗春の政治を理解するのに役立つ。そして『遊女濃安都』(ゆめのあと・夢の後)。これは尾張藩主徳川吉宗の襲封から退隠にいたる9年間の記録で、享保16(1731)年から元文4(1764)年までが書かれている。 そして、追加的に、天保10(1839)年に宗春がようやく赦免、権大納言を贈られることまでが書かれている。
 内容は、宗春一代の編年録を縦糸に、名古屋城下の風俗的欽述を横糸に織りなした名古屋繁盛記。著者は分からない。講義お咎めのの宗春のことを好意的に書かれているので、それはやむを得ない。
 この『温知政要』と『遊女濃安都』を中心に、『徳川実記』を加え、多くの人が宗春について書いている。これらをもとに宗春像を描いてみることにしよう。
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<尾張の異端大名>  宗春の行いで最も奇妙で世間を驚かしたことが、享保16年4月12日、建中寺へ参拝時の奇異な行列だろう。その場面を神坂次郎の小説『江戸を駆ける』から引用してみよう。 なおこの場面は『遊女濃安都』にも記されているので、そちらも引用してみた。
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 それは、なんとも異様な光景であった。
 行列の先頭を、長大な、真紅のキセルがゆるゆると歩いていく。長さ2間(約4メートル)。そのきせるの先端から、時おり、ぷかりおうかりと白いけむりが立ちのぼっている。
 行列のあるじは、徳川御三家筆頭の尾張藩65万3千石の太守である。が、それにしてはその行装(みなり)が異風である。緋ぢりめんの頭巾をかぶり、目のさめるような猩々緋(しょうじょうひ)の羽織に紅いろの着物、お気に入りの茶坊主の小野田玄格にキセルを担がせ、煙草をくゆらせながら、まるで無頼の詩人のような物憂い表情で、白い牛にゆられていくのだ。
 異風といえば、行列の供まわりの家臣たちの服装も人目をそばだてるほどの派手やかさである。揃いの股引に、表は雲竜や竹に虎の模様を描いた半纏(はんてん)の、裾裏の紅ちりめんをひらひらさせながら通りすぎて行く。
 徳川宗春──。
 徳川300年の間(かん)を通じて、あらゆる将軍や大名たちななかで、この宗春くらいおのれの思うままに生きた男はいないであろう。宗春、さきの名を通春(みちはる)、尾張徳川家3代藩主綱誠(つななり)の第20子。部屋住みの庶子の身から、分家の陸奥、梁川の松平義昌の跡式を継いで3万石の領主となり、のち、4代藩主吉通、5代藩主の五郎太、そして6代藩主の兄の継友と相つづく藩主たちの急死のため、7代藩主となる。 (『江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)』から
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<遊女濃安都から>  現代に残された数少ない宗春に関する史料、その中で『遊女濃安都(ゆめのあと)』は貴重なものだ。その中からの一部を引用してみよう。数少ない史料でもあり、多くの文献で引用している。江戸時代の文章は読むのに苦労するので、ここではほんの一部だけ引用することにした。 興味を持った方は図書館ででも探して読んでみて下さい。
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 一、近郷にて白牛御買上に付、大代官飯島重左衛門御預りの手代罷越、求来る。右牛、殊の外、思召に入、御機嫌能、依之、右手代両人へ表立御褒美。
   金二百疋づゝ   渡 辺 宅左衛門
            広 田 利右衛門
 一、諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙置候て、猩々緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通にて、御衣服、是又、時々替り候へども、毎迚も、御頭巾、唐人笠、五尺計の御煙筒御持、奥御茶道衆、其先かつぐ。 右白牛に被為召、定光寺へも、御道中、右の通にて御参詣、總て、所々出御・還御の節、夜に入候へば、町々辻々、揚行燈、家並に思ひ思ひのかけ行燈、尤、町々の境を立、夫々の物好き致候。総体、御在国の節、所々へ御成の節、御道筋、夜は、町々拵付たる趣向の造物・揚行燈・燈籠・掛行燈、美を儘、見物人群集す。 (『日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都』から)
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<人々を驚かした宗春の行状>  宗春と改名したのは享保16(1731)年1月19日、将軍吉宗の1字、宗の字をもらってからで、それまでは通春(みちはる)といった。大変華美放縦ともいえる性格で、領主になった早々は公儀の法度を守り、尾州家代々の法規を遵守するようにという触れを出している。 しかしそれはいわば慣例に基づくもので、実際には享保の改革が進行している吉宗の政治とは似ても似つかぬ放縦闊達な政治を打ち出した。
 すなわち宗春の代になると尾州藩江戸屋敷は、遊芸・音曲・鳴り物自由ということになったうえ、昼夜の区別なく出入りも自由ということになったので、それまでとは打って変わってにぎやかになった。同16年4月に宗春は尾州藩に初入部するが、その時の行装の華麗さは、人々を驚かすものがあったといわれる。 また領内でもたびたび異様な風体をして人々を驚かせている。
 その1例を挙げてみよう。宗春は入部早々領内から白い牛を買い上げさせるが、それが大変お気に召して見つけてきた代官所手代に褒美の金を手渡した。のみならず、領内の寺社参詣の時も、この白牛に立派な鞍と鐙(あぶみ)を置かせ、猩々緋(しょうじょうひ)の装束に紅色の頭巾をかぶりそれにまたがって出かけた。 そして帰りには羽織袴を脱ぎ捨てて白練の着物を着流しにし、そのうえ帯も前結びにし、2間(3.6メートル)ほどもある長煙管(キセル)の先を茶坊主にかつがせ、それでプカリ、プカリと煙草をふかせながら帰るという有様であった。
 また同年7月、自分の娘が亡くなったために、町の盆祝いが取り止めになったのは気の毒だというので、その代償として同月の24日から8月1日までの間を盆踊りの日として町民たちに踊りを勧めた。 さらに8月22日から23日にかけてのまる一昼夜は、町じゅうの踊り組200組ほどを、次々と屋敷に呼び込んで踊らせ、それを見物して打ち興じ、1組ごとに褒美の金銀を与えるなどした。
 土民の遊興についても大変寛大で、遊女町も願い出ればどんどん許可したから、全国から遊女たちが名古屋を目指して集まった。そのため名古屋には西小路・葛町・富士見原・飴屋町・屈託ヶ原・巾下新道・西主水町・天王崎・錦屋町・朝日町・崇覚寺門前・栄国寺新町などの遊女町ができた。
 また歌舞伎も宗春は自分の領地である尾張ではこれを許し、芝居の興業にも積極的であったので各地に芝居小屋ができ、歌舞伎や芝居がにぎやかに催された。 こうなると下は上にならうで、当時尾張では家老から農工商に到るまで、表は黒または紫色、裏は紅色の縮緬で作った派手な頭巾をかぶり、くわえ煙草をして遊女や野郎を引き連れ、手をとりあって小唄を謡いなどしながら、昼夜の区別なくぞろぞろと町中を浮かれ歩くのが流行したといわれている。
 ために尾州藩では江戸屋敷をはじめ国元は名古屋市内はもちろん領内に至るまで、”元禄の繁栄”が再来したような華美な彩りに浮き立っていた。宗春にいわせると「上が浪費するから下々にまでお金が回っていくので、自分のすることは決して自分一人のぜいたくでも浪費でもない」というのであった。 さらに彼は「すべて人間というものは、老いも若きも、気に締まりとゆるみがなくては、落ち着いた生活はできないものである。特に色を好むということは、人間にとっては飯を食べることと同様、その本性に由来するものである。だから上に立つ者は心して民にゆるみを与えることが肝要である」というのである。
 そんなことから将軍吉宗が綱紀粛正の一環として、江戸の岡場所(私娼窟)の取り締まりに力を入れ、また私藩もこれにならうなか、尾張宗春は名古屋において積極的に遊女街を新設していった。そのため全国の城下町が灯が消えたように沈滞する一方なのに、名古屋ひとりが明々と繁栄した。 日本の中京としての名古屋の地位はこの時に築かれたといわれ、その繁栄の様は「享元絵巻」という絵巻物に画かれて有名である。ちなみに「享元」とは享保と元文との間という意味で、宗春に治世という意味である。
 将軍吉宗による宗春の隠居強制は、このような歴史側面を圧殺するものである。しかしこの側面だけを取り上げて、近ごろ一部で言われているように徳川吉宗をおとしめるのは大きな誤りである。 (大石慎三郎著『吉宗と享保改革』から)
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<温知政要>  宗春の政治に対する姿勢を書いたものに『温知政要』がある。宗春関係の史料が抹殺されて現在に残されたものが少ない中で貴重な史料だ。これが京で出版されようとしたとき、吉宗は主版を差し止めた。それだけ吉宗としては許せない本であった。 その一部を引用してみよう。
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 一、夫人たる者、平生心に執守事なくては叶はざる事なり。しかし其品多ければ忘れ怠りやすし一二字の中より限りなき工夫出る物なり、殊に国持たらん者、すへすへまで行渡らずしてあやまる事多かるべし。 故に慈と忍との二字を掛物二幅にこしらへ、慈の字の上には日の丸を書かせたり。慈は心のうちにのみ隠れてはその詮更になし、外へあらわれすへすへゑも及び、隅々までも照したき心にて、太陽の徳をしたひての事なり。 忍の字の上には月の丸を書かせたり、堪忍は心の中にありて、外へあらわれざる時の工夫ゆへ、大陰の形を表せり。日月の二字を合すれば則明の字也。大学の明明徳にも叶べきか、万の事明らかになくしては、取まがふ事のみにて、宜く正理に叶ふ様にはおこなはれまじ。 駕興道具の者の衣服には、仁の字を相印に申付けたり。是、内に居ては慈忍の二字を見、外へ出ては仁の字を見、朝夕何方におゐても暫くも忘れずして、執行勘弁やむまじき為の工夫也。 (『名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要』から)
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<海音寺潮五郎『吉宗と享保』から>  宗春を扱った小説は多くある。その中で海音寺潮五郎の『吉宗と享保』には宗春の『温知政要』を現代風に表現した部分がある。吉宗のお庭番=密偵である助八が宗春邸を探ろうとして捕まり、宗春はお庭番であることを承知で邸内を案内する。 その場面を引用してみよう。『温知政要』をテーマにして取り上げれば、かなりの原稿枚数を必要とする。『吉宗と享保』のこの場面の描写である程度『温知政要』での宗春の考えを理解できるだろうと思う。
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 男子禁制の奥こそ案内しなかったが、表御殿、中奥、庭園、侍長屋………一通りずっと見せた。
 以前(まえ)の庭に帰って来た。
「これで、まず一通り見て貰ったことになるが、どうであった。面白かったかな」 
「……恐れ……恐れ入りましてござりまする」
 助八は恐縮しきっていた。蛇の睨まれた蛙の気持ちがこうもあろうか、底知れぬ深淵に臨んでいるような薄気味悪さに、五体が竦んで、馬鹿になったように頭が働かなくなっていた。
 邸内を偵察するどころの話ではない。一時も早くこの場を立ち去りたいとばかり考えていた。
 だが、宗春は容易に助八を離そうとはしなかった。落ちつきはらった調子で、のんびりと言うのである。
「わし自身はあたり前のことをやっているに過ぎぬと思うているが、世間の目には随分と変わって見えるらしく、いろいろと評判を立てている由、わしは、物好きや、一時のきまぐれでこういうことをしているのではない。わしはの……」 
 宗春がここまで話した時、若い一人の侍が出てきた。
(あ、来た!)
 一目見た時、助八にはそれが誰であるかすぐわかった。
 誰でもない。星野磯部である。助八が星野を知ったのは、吉宗の日光社参の時が、はじめてであった。その時、いつも側去らず宗春が召し連れていたので、よほどの寵臣と思って、くわしく探索して磯部については随分深い知識を持っているのである。
 宗春の襲封と共に、磯部は三百石、側用人に任ぜられていた。
 磯部の姿を見ると、宗春は笑って説明した。
「これは通りがかりの町人だが、しきりに当屋敷を見たがっているようなので、呼び入れて、今、とっくりと見せたところじゃ。隠密かも知れぬ故、斬れと申す者もあるが、わしの見るところでは隠密ではない。こんなおだやかな顔をした隠密があるものではないからのう」 
「御意にござります。隠密などつとまる者は目から鼻に抜けるほどに小気の利いた者でござりまする由。されば、かかる馬鹿面の者などにつとまることではござりませぬ」 
 針のようにとげのある眼で見ながら、皮肉に笑って、磯部は答えるのである。
「そうそう、なるほど随分と間抜けた顔をしているな。ははははは──さて、どこまで話したかな。うむ、そうそう、一時のきまぐれや物好きによってかようなことをいたしているのではないというところだったの。町人、わしは、実を言うと、今の世の中の政治のとりかたに深井疑いがあるのだ。 当代になって、まず上様がなされたことは、倹約令の発布だ。上は将軍大名より、下は百姓町人に至るまで、倹約せねばならぬ、曰く、衣類一枚の価何十匁以上のものは着ることならぬ、曰く、毎食の膳部は一汁一菜といたせ、曰く、酒は何献を越すべからず、曰く、何々すべからず、曰く、何々すべからずと、道学先生が内弟子を躾けるようなやり方で天下の政治をしようとしていなさる。 野放図もなき贅沢はもとよりほむべきことではない。が、倹約だけで世並みがよくなるとは、一軒一家の生活かたと、天下の政治とを混同している考えではないかと、わしには思われるのだ。勿論、天下の政治においても倹約を行わなければならぬ時もある。国を挙げて外国と戦争している時たか、甚だしき天災地変があったとか、狭窄であるとかいう時にはこれ以外に切り抜ける策はない。 が、それは医家の所謂応病与薬であって、今日の如く天下治安、海内無事の場合には適せぬとわしは思う。金は天下の廻り持ちという。金銀が滑らかに天下を廻ってこそ、人の生活は豊かになるのだ。倹約、倹約で、人々が握った金銀を一切手から離さないで握りづめにしていては、世の中どうなると思う。 金銀が金銀の役目をせぬばかりでなく、町人も、百姓も、職人も、その仕事はとんと上がったりになってしまうではないか。天下中の者が食べるものを倹約(しまつ)し、飲むものを倹約するようになれば、食物を作り出す百姓がが困り、酒を造る酒屋が困る。天下の人が残らず着るものを倹約するようになれば、蚕を飼い、麻をつむぐ百姓が困り、織屋が痛む。 運送の仕事にあたる馬子船乗りも困れば、売買いの間に利鞘をかせぐことによって立っている商人も困る。武士だけが困らぬもののように見える。武士は自ら米を作ったり、織物を織り出したり、器物を造り出したりはせぬ。武士は主より禄を貰って使うだけのもの故、倹約すれば倹約するだけ余分に金を残すことが出来て、如何にも結構のように、一応は考えられる。 が、これとても、もう一歩踏みこんで考えれば、そうでないことがわかる。なぜなら、武士の生活の資になるものはどこから出て来るか、百姓の租税、商人の運上から出て来るのだ。 されば、百姓町人は大本、武士はその末じゃ。本が衰え枯れて末がどうしてよかろう道理があろう」 
 恐怖は今は去って、探索に対する熱意がしらずしらずのうちに、助八の顔を熱心にしていた。
 宗春は、そしらぬ顔でつづける。
「いい例がある。倹約令を出されて以来、幕府には随分と金が出来たそうな。前代様までは、お公儀のお勝手は火の車であったのだから、先ず、大したお手柄と申さねばならぬが、どこまでもその手で押して行こうとなさるところに御無理がある。 何とやら言う下世話があるの。それ、馬鹿の一つ覚え、ははは……。どこにその御無理があるか。元禄の希代にお公儀は財政の窮乏を救うために金銀の改鋳をして、慶長の古制より四分方品位を悪くなされた。 つまり、六両の古金銀を以て十両の金銀をつくりなされたわけじゃ。それによって、とまれかくまれ、お公家儀一時の急は救われたが、際限もなく金銀がふえたために、物の値段は天井知らずに騰がって、人民の生活は苦しくなった。 人民の生活苦しくなったため、それが響いてお公儀のお勝手もくるしくなった。その急を救うために、金銀品位を更に落として改鋳をやらねばならなかった。されば、常憲院様(綱吉)の後晩年の世の中は、どうにもこうにもならぬ御治世となった。 その時、出て来たのが、金銀復活の説じゃ。金銀を慶長の古制に返して数を少なくすれば、物の値段が下がって、この混乱した世間もおちつくであろうとの説を立てる者共が出て来た。 六代文昭院様(家宣)の時に用いられた新井白石などがそれじゃ。文昭院様はその説を容れさせられて、金銀復活のお志が在したが、急にはその運びになりかねる事情があって、わずかに準備に着手なされたのみにて御薨去遊ばされた。 次は七代様(家継)だが、七代様は御幼少であったし、御治世もお短く在した故、格別のこともなかった。その次が、当上様じゃ。上様は、倹約令を天下に敷いて、天下の人心を引きしめ、また、それによってお公儀の財政を豊かにして置いて、金銀復活の事業にとりかかり遊ばされた。 この間の段取りはまことにお見事なものであった。誰がやっても、あれほど見事にはやれまい。が、その後が悪い。金銀の復活も出来、幕府のゆとりも出来た以上は、国民一同が生々と元気よく働いて世の中を豊かにするような方法を講じなければならぬのに、いつまでもはじめの手をつづけて行こうとなされている。 その結果は、見ているがよい。士農工商、皆元気がなくなって苦しみ喘ぎ、また、お公儀のお勝手も今を絶頂として、だんだん弱りに弱って、あげくの果てはまた元禄のように、それどころか、元禄以上に質を下げた金銀をつくらねばやりきれぬようになるは必定故、仏法では世に常住不変のものはないと言うが、天下の政治は殊にそうだ。 天下は生き物だ。昨日の天下と今日の天下、去年の天下と今年の天下は違う。違うが故に、昨日の策は今日に適せず、去年の策は今年に適しない。差期日の是は今日の非、去年の非は今年の是だ。それ故、天下の政(まつりごと)を為す者は常住不断に天下の姿を見て、その変に応ずる策を以て臨なねばならぬのだ。 わかりやすい例を取って言おう。生まれたての赤んぼには母親の乳が一番よい。飯であるとか、魚であるとかいうものは食わしてはならぬ。が、一年たち、二年たち、三年たって、なお、乳ばかりあてがっておいたらどうだ。 到底、まともな生育を遂げることは出来まい。今の幕府の政治のとりざまが、わしにはその愚かな母親の育児に似た所があるように思われてならないのだ。もし、わしが天下の政を執るならば、そうした馬鹿の一つ覚えに類したことはせぬ。必ずや、機を見、変を察して、時処位に最も適合した策をとる。 が、悲しいかな、わしは天下の政には縁なきものだ。が、わしの自由になる尾張一国だけは、かかる愚かな政治の下に立たしたくない。最もよいと信ずるわしの政治を行いたい。 新しい法度を立てたのは、その第一歩だ。わしのこのやりかたが成功するか、公儀のやりかたが成功するか、その心あって見ている人には相当に面白い観物(みもの)であろうよ。はッははは………」
 我を忘れて熱心な面持で聞いていた助八は、突然に響いた鋭い宗春の哄笑に、ぎくりとして気がつくと、宗春は声だけはいとも愉快ふぇに響かせながら、眼は抉るように鋭い光をたたえて助八の眼を見つめていりのであった。
 助八は顔を伏せた。
 ゆっくりと、その眼を、傍らの星野に転じて、互いに微笑し合って、それから、宗春はまた言った。
「町人、見るところ、その方は主人持ちのように見える。何商売か知らぬが、相当な家につかえているのであろう。相当な家の主人ならば、わしが今申したことについて、是非の考えもつくであろう。 帰ったならば、逐一に話してみい。主人が何と申すか……連れて行って帰してやれ、手荒なことをするでないぞ」 
 そして、宗春は床几を立って歩き去った。
 助八は入った門まで連れて行かれて、ぽんと突き出された。
「どこへなりと立ち去れ!」
 よろめく足をふみしめて、しばらくの間、助八は、茫然としていた。
 いたうの間にか陽が傾き翳って、薄ら寒い風が出ている。
「覚えていろ!」 
 口の中で言って、乱れた着物を掻き合わせたが、ふと、全身びっしょりとつめたい汗をかいているのに気づくと、今更のようによみがえった恐怖に、ぶるっと身ぶるいしていた。 (海音寺潮五郎著『吉宗と宗春』から)
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<尾張の国の宗春>  享保16(1731)年、7代藩主となったのは宗春である。宗春の治政はわずか9年であったが、藩政史上特記されるべき時代といえる。宗春はまずこの年、自分の治政方針を示す『温知政要』を著した。 その中で彼は法令が多すぎるのはよくないとか、倹約はかえって無駄を生ずることになると述べている。そして城下南部の西小路、富士見ヶ原、葛町(かずらまち)の3ヶ所に、藩祖以来禁止されていた遊郭の設置を認めた。 遊郭はたちまち非常な賑いをみせ、3ヶ所で妓楼101軒、遊女646人という記録が残っている。また常設の芝居小屋が遊郭や寺社地に57座も設けられた。このため江戸、上方の役者が流入し、興行は387回にも及んだといわれている。 一方商業活動も活発になり、後に名古屋の御三家といわれた伊藤・関戸・内田家が、その商業の基礎を確立するのもこの頃である。
 このような宗春の積極政策は、当然将軍吉宗の倹約政策とまっ向から対立し、享保17(1732)年、宗春は幕府からとがめを受けた。この時は何かと言い逃れた宗春も、土風が、乱れてきたり、財政赤字が増加してきたため、享保20年頃から引き締めにはいった。 藩士の遊郭出入りを禁止したり、遊郭の整理や芝居小屋の新設を禁止したりした。しかし元文4(1739)年、ついに宗春は幕府から隠居謹慎を命ぜられ、彼の死後も墓石に金網がかぶせられるという処分を受けた。 (『藩史大事典 第4巻中部編U 東海』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都          谷川健一 三一書房      1971. 8.20
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要           名古屋市教育委員会編・発行        1960.10.30
吉宗と宗春                           海音寺潮五郎 文春文庫      1995. 4.10 
藩史大事典 第4巻中部編U 東海                  木村礎他 雄山閣       1989. 1.20 
( 2005年11月14日 TANAKA1942b )
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(49)宗春の政治をどう評価するか?
英雄か?ケインズ政策の失敗か?
吉宗と宗春をどのように評価するか?まだまだ評価は定まっていない。歴史家に加え、理系からエコノミストからと、自家不和合性には陥ってはいないが、説得力のあるものはない。 そうした状況で宗春に比較的好意的な見方と、やや否定的な見方をここ取り上げてみた。
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<英傑・徳川宗春の挑戦>  初めは宗春に比較的好意的な見方を紹介しよう。
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 徳川時代の交通網は、江戸と大阪に通じる路が中心で、日本橋を起点とする五街道、物資輸送の水上四路──そのいずれもが、江戸と大阪をあてこむものであった。 幕府も諸藩にしても、大坂で効率よく米を換金し、貨幣経済の密度を高め、自らの首を絞める結果を招いたのである。
  人は武士 なぜ藏宿にあてがはれ(『誹風柳多留』)
 旗本や御家人の扶持米を米蔵から受け取り、その委託販売をしていた「札差」が、まるで旗本たちに俸禄を払っているようだ、と人々は笑った。
 5代将軍・徳川綱吉の治世下である元禄時代は、日本が成長期から低成長期へと転換する過渡期であり、武士や農民はすでに顕著になった商人の「下克上」に恐れ戦いていた。
 以降、武士であれ、農民、職人などの庶民にしても住みづらく、暮らしにくい時代がつづく。
「世を直す者は出ぬのか」
 時代の底流は、約180年間というもの、憧れきっていたと言ってよい。
 天下を再び建て直し、商人の勢力を封じ込め、新政を打開する強力な英雄が希求された。しかし、そのような易姓革命への憧憬は、ついぞ命じ維新まで実現しない。
 無論、幕府もただ手を拱いて傍観していたのではなかった。なんとか膨張する商品経済を押さえ込もうと躍起となり、歴代、将軍の交替するごとに政策を工夫改良した。ときには、豪商・淀屋辰五郎の闕所に見られるような峻烈な処置も講じている。 が、ことごとくが失敗に帰してしまった。
 なぜ、失敗したのかは本書の重大なテーマであり、本章に譲りたい。
 ただ、ここで覚えておかねばならない重要な点は、
「あの時期が、天王山だったかもしれぬ」
 と、誰しもが思う岐路のあったことである。
 徳川幕府265年の真ん中、享保年間(1716〜1736)──正確には享保20(1735)年──このあたりが、一つの分岐点であった事を、後世のわれわれは知っている。
 幕府や諸大名家にあっては、しきりと「倹約令」が発せられ、豪商たちは挙って「家訓」の制定に懸命となった。この江戸期におけるターニング・ポイントは、武士にせよ商人にしても、各自の立場で大いなる飛躍を遂げるか、没落の憂き目を見るかの、二者択一を迫られた時期でもあった。
 ときに、将軍は8代の徳川吉宗であり、”江戸時代三大改革”の一つといわれる”享保の改革”を推進していた。過渡期ゆえに、その改革の意義は大きく、一応の成果をあげたことから吉宗は、”徳川幕府の中興の英主”と後世に呼ばれるようになる。
 平均在任年が17.7年という15代の将軍のなかにあって、8代吉宗は享保元(1716)年から延享2(1745)年まで、足かけ30年にわたって将軍職にありつづけた。
 この間、頭のてっぺんから足の爪先まで、渾身、異常な成長を遂げる商品経済──その中核であるコメの対策に没頭した吉宗は、
「米将軍」などと庶民から揶揄されながら、むきになって商人たちと戦ったものの、所詮は貨幣経済を取り込むことはできなかった。
「──うかうかしていると、幕府は崩壊するのではないか」
 一部に、危機意識があらわとなった。
 この危機意識こそが、思わぬ英雄を生み出したのである。旱天下に慈雨を待つような心持ち、英傑の出現を期待する機運が天下に起こり始めていた。
「かくなった上は、あの方こそ──」 と将軍吉宗の政策を危惧する人々が一様に翹望した人物こそ、吉宗に14年遅れて”御三家”の筆頭・尾張藩第7代藩主となった徳川宗春であった。参議・左近衛権中将、権中納言に任ぜられたこの人物を、人々は”尾張宰相”などとも呼称した。
 宗春を嘱望する気運は潮のように、上げ潮がひたひたと満ちるように広まった。
 一方の宗春の胸中にも、商人を抑え込むのではなく、武士と商人を融合させる秘策が出来上がっていた。
「一気に、かけあがらねばならぬ」
 宗春はがらり、と国を覆すべく、旭日昇天の勢いで風雲を叱咤しつつ立ち上がった。
 当時、朝廷における最大の権力者(摂政・関白)であった一条兼香の日記や、いくつかの風聞が物語るところによれば、もし、将軍吉宗が、あまりに幕府にとって利己的な財政再建をおこなうならば、宗春はそれこそ尾張一藩をもって武装上洛を決行し、幕政改革を担う。それが許されないなら”挙藩一致”して尊皇倒幕の旗を揚げ、一挙に吉宗とその周辺を殲滅するといった、戦備による凄味すら示していた。
 こういう好機は、人間に一生で何度も訪れるものではない。
 あと少し、宗春にとっては、
 運よく。
 としかいいようがない。
 吉宗は宗春の攻勢を、長い将軍座位の年数でからくも支え、どうにか己の地位を守り抜いた。が、しばらくは腑の抜けたような表情をしていたに違いない。このあたりの事情こそが、本書の中心となってくる。一方においては、英雄興亡の叙事詩的興奮、えもいえぬ物悲しさを感じるのだが、内容はひとまず措く。
 両者の生死存亡を賭けた戦いが、太平の世にあっていかに苛烈であり、尋常ならざるものであったかは勝者となった吉宗の、宗春に対するその後の徹底した弾圧をみればよい。
 宗春はその死後、墓標を金網で覆われつづけた。
 尾張の藩士・領民が、宗春の名前を口にすることができるようになったのは、幕府から禁固御免の許しが出た天保10(1839)年12月23日以降のことであった。
 今日、宗春の肖像画は1枚も残されていない。もとより、宗春の存命中の正式な記録は、ことごとくが隠蔽され、闇の彼方へ葬り去られた。換言すれば、将軍吉宗の異常とも思える弾圧がなければ、果たして後世の評価は今日のようなものになり得たじゃ否か。歴史のおもしろさ、怖ろしさがここにもある。
 詳しくは本文で述べるが、将軍吉宗は法令によって人心はおろか、経済そのものを押さえ込もうとした。宗春は逆に、法の濫用を否定し、タテマエを撤廃。”慈”と”忍”の2字を政治の根本にすえ、本音の部分で庶民に語りかけ、商人と対座し、人間性を肯定する「自由」と「四民共楽」の理想を、己の方針に掲げた。積極的に商品経済をうけ入れ、富国強兵策をも講じている。
 わずかに抹消を免れた宗春関係の史料『遊女濃安都』には、次ぎのような件があった。
「老若、男女、貴賤とものかかる面白き世に生まれ逢う事、只前世の利益ならん、仏菩薩の再来し給ふ世の中歟(か)と、善悪なしに難在難在と上を敬ひ地を拝し、足の踏みしまりなく、国土泰平末繁昌と祈り楽しみ送る年こそ暮れゆけれ」
 さて、泰平の世にありながら、商経済の「下克上」に喘ぎつつ、時代を切り拓いたのははたして何れであったのだろうか。
 将軍吉宗と宗春という、およそ性格が対極をなす2人からは、リーダーシップの可能性と限界について考察しうるのも、本書の大切なテーマである。
 とはいえ、宗春の生涯は今となれば根本的な史料とて乏しく、その存在自体、霞の彼方にあるような、あるいは泡沫(うたかた)のような危うさをともなっている。少しでも実態に近づくためには、とりあえずその時代背景や環境の中に、この時代にそぐわない英傑が突出した条件を、手繰りつづけねばならない。そうすることによって、ふいに宗春の”心象”が見えるかもしれないではないか。
 いかに記録が消されたとはいえ、徳川宗春はこの世にナマ身の人間として、今から240年前には確かに存在したのである。伝説の宗春から、実在の宗春に近づけ得ないものでもあるまい。
 今日の、日本が大転換期を迎える中にあって、徳川宗春の生き方が、少しでも読者諸氏の日常生活のヒントとなり得れば、筆者にとって、望外の喜びである。 (加来耕三著『徳川吉春』から)
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<吉宗と反対をいく宗春の政治>  宗春の政治は、まことに吉宗の改革の反対をいったものであるといってもさしつかえない。たとえば、吉宗がわざわざ相対死と名づけさせて、蛇蝎のように嫌った心中事件も、遊女町の繁栄と、庶民の心の解放につれて名古屋に入ってきた。
 享保19年春、飴屋町の遊女小さんと、日置村の畳屋喜八という者が、添い遂げられぬ恋をあの世で、と心中をはかった。ところがそれが失敗して、2人とも生き残ったのである。これは当時の公の法律では、「男女ともにその死骸をとり捨てること、1人が生き残った場合の相対死はその1人を下手人とみなす、共に死骸の埋葬は認めない。 もし両人ともに生き残った場合は、3日ほど市にさらして、これを 非人手下▲ (ひにんてか)とする」となっていた。
 宗春は、これを3日間、市にさらしたところまでは当時の法に従ったのであるが、その後はこれを許し夫婦になることを認めている。尾張藩の年代記のようなものに『金府記較抄(きんぷきかくしょう)』というのがあるが、そのなかにこれにふれて「広小路にて酒の上 御免 夫婦に相成候」と出ている。
 宗春はまた、その在職中一人の死刑も出さなかったと言われていた。
 しかし、かれの寛大にして自由な施政方針は、そのまま一般的に受け入れられたとは限らない。これまで、自由のなんたるかを知らず、心を慰めることについての節度を持たなかった人々は、その与えられた自由のなかで、すっかり自分を見失ってしまう者も出てきた。
 宗春は、享保19(1734)年、20年とつづけて、家中そ戒める府令を出している。それは、
 「惣じて家中之輩、前々より咄書・風説書を以て申し聞け候趣相守り候ことあたわず、近来別して身の分際をも忘却し、大身は人馬の嗜みも薄く、子身は日用之調度をも欠く、江戸詰の順をも種々断り申し立て、直ぐに詰越(つめこえ=勤務順を変える)を願ひ、自然と慎み憚る事なく、其上奇怪異風の輩ひたと出来し、未練僣上之所行等々」(『御日記頭書』)
がある、また家中のもので博奕をやっている者もあると聞く、これで自分の本心とまったく違うことになるので、これは厳重につつしんでもらいたい、というのだ。 
 しかしながら、この宗春の府令は、なかなか実行されなかった。ついに宗春は、芝居小屋を制限し、西小路・不二見原・葛町などに栄えていた遊郭を一ヶ所に集めることを命ずるのである。そして、四方から入りこんできた遊女や踊子の類に、その出身地に帰ることを要請した。そのころになると、藩の財政がいよいよ窮迫していることも判明してきたのである。
 享保17(1732)年に、滝川・石河の両使を億って宗春を詰問した吉宗は、その後、じっと尾張のやりかたを注視していた。そして、財政窮乏に悩んだ尾張藩が、元文3(1738)年8月、1万5千両の百姓人別金を課し、同じ10月、名古屋・熱田・岐阜などの町人に3万5千両の上納金を命ずるに至ったころ、ようやくその藩内の百姓・町人のあいだに、不満の気が動くのをみて、自己のもっとも強力な反対者たる宗春を葬る決心うぃするのである。
 元文4年1月、隠居慎を命ぜられた宗春の駕籠は、13日に藩邸を出て、糀(こうじ)町の屋敷へ入っていった。その日から幕府の役人が厳重に門を固めて、近習の者もこれに近づけなかったという。その後、宗春は尾張に帰り、そこに幽居して、明和元()1764年10月8日、69際までを生きた。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<徳川宗春・ケインズ政策の失敗>  江戸時代に展開された「贅沢は敵か?素敵か?」の政策論争。いや、論争と言うより実際に政治の場で成果を競い合った吉宗と宗春。将軍と藩主との格の違いもあって、結果は吉宗の勝利に終わる。後世の歴史かはどのように評価するか?多くは、吉宗の勝ちを認めながらも、判官贔屓もあってか宗春にも好意的だ。 それでも冷たく突き放す見方もある。このような見方もある、ということで取り上げてみた。
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 彼が藩主になるや否や名古屋は栄えた。町の中心の街路には、夜になると行灯がかけられ、人通りが絶えず、三味線や笛の音が、夜遅くまで聞こえたという。ところが、尾州藩の財政は苦しくなる一方だった。 尾州藩の財政収入は、主として、年貢米に依存しており、米価は低い水準に下がったままだ。
名古屋における消費財需要は、藩内の人によるだけではない。繁栄する名古屋にあこがれ、全国からツーリストがやってくるので、消費需要がもり上がり、消費財価格は上昇した。宗春の華美な生活を支える尾州藩の財政支出は増加の一途をたどった。宗春が藩主になった時は、藩の財政は大幅な黒字だった。 それは何代かにわたる祖先の努力によって、木曽川、長良川の河口の沖積層が良田に変わり、農業の生産性が著しく向上したためだ。しかし、彼が藩主に就任すると、直ちに赤字に転じ、赤字は累積の一途をたどり、彼が職を退く時には、破産状態になっていた。
 彼は、2つの点で誤りを犯した。その1つは、消費的支出の増大によって、経済が成長すれば、消費財産業やサービス産業が著しく成長するから、税体系を変えるべきだった。つまり、税の中心を農民に対する年貢米から、商人や芸人や遊女宿への流通税に変えるべきだった。
 しかし、いつの時代でも、税体系の改革は至難の業だ。商人や芸人は、激しく反対するだろうし、当時は、簿記が幼稚な段階にあったので、所得の捕捉がむずかしかった。宗春は、混乱を呼びそうな税改革を実施しようとしなかった。
 現在の所得税中心の税体系は、勤労者層への税負担が重すぎ、明らかに、社会正義に反している。今後、本格的な高年齢化社会を迎えるに当たって、消費税のウェイトを高めなければ、将来の勤労者の生活は、一層の重税によってひどく圧迫されてしまう。 しかし、消費税の引き上げには激しい反対があって、所得税中心の体系を変えることはできない。歴代の政府はこの課題をずっと果たせないである。税体系の変革は実にむずかしいものだ。
 もう1つの問題は、財政支出の拡大によって、需要不足をカバーしようと考えたのは正しかったが、拡大した財政支出は、宗春や家臣等の華美な消費による支出でなく、消費財産業の供給を拡大し、また生産性を向上させるため投資的支出に向けるべきだった。 そうすれば、工事で働く人夫が増え、彼らの消費は増えただろう。また、工事に使う道具や材料に対する需要も増えたはずだ。それは、需要不足をカバーする役割を果たしただけでなく、消費財価格を引き下げるという効果を持っていた。
 しかし、財政支出をこうした投資に向けるために、消費財産業の調査研究をする必要があった。また、藩当局は、なぜ、消費財産業異だけを育成しようとするのか、という理論づけを用意する必要があった。華美な生活をして、楽しく過ごしているのでは、こういう地道な仕事はできない。
 考えてみれば、大名以下、家臣が率先して華美な生活をし、歌舞伎音曲の類に浮かれて、藩民がそれを見習うといった状態で、経済が発展し、藩の財政が豊かになるほど、世の中はうまくできていない。常識で考えても、それは無理だろうぐらいの見当がつく。
 レーガン大統領は、アメリカの財政赤字を大きくした犯人だ。彼は、カリフォルニア大学のラッファー教授の学説を信じ込んでしまった。ラッファー説は、「大幅な減税を実施すれば、税収が増え、財政赤字は減る」という手品のような理論である。 減税をすれば、税引後の個人所得が増え、それにともなって、消費が拡大する。消費の拡大と共に、経済は活況になり、個人の所得が増加し、税収が増えるというものである。
 もちろん、こんなうまい話があるわけはない。アメリカの財政赤字は、大幅減税と共にぐんぐん拡大した。
 宗春は、大変気のやさしいヒューマニストだった。当時、心中は極端に嫌われた。吉宗は、とくにそれを嫌い、もし片方が生き残ったときには、殺人罪を適用して死刑にし、未遂の場合は、3日間、町でさらしものにした後、非人にするという法がつくられていた。 しかし宗春は、心中未遂の若い男女を3日間さらしものしした後、結婚を認めるという人情味あふれる判決を下した。
 その上、かれは「上の華美は、下を助け、経済を繁栄させる」と信ずるほどの空想主義者だから、吉宗の冷たい経済政策に反抗的な姿勢を示し続けた。ヒューマニストや空想主義者は、政治家として、不適格だ。政治家が甘い理論のとりこになった時には、必ず国が乱れる。 尾張藩の財政赤字が拡大すると共に、かれは家臣の信頼も失ってしまった。吉宗は、その機をとらえて、宗春に蟄居謹慎を命じた。宗春は、元文4(1764)年に死ぬまで、25年間、尾州の麹町屋敷から1歩も外に出ることなく過ごした。
 名古屋は現在も芸どころであって、長唄や常磐津を好み、習う人が多い。それは、宗春の影響だと考えられるが、宗春は罪人になったため、名古屋の多くの人は、彼の名前も忘れてしまっている。 (『歴史の智恵・経済のヒント』から
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<徳川宗春モルモット論>  宗春の試みは失敗した。本人はどのように考えていたのだろう。いつ頃から失敗だったと気づいたのだろう。それは、現時点では単に推測の域を出ることはない。ハッキリ断言できる資料はない。小説家の力を借りるより他はない。
 今ではハッキリしている結果だけを評価するしかない。その評価がまちまちだ。「英傑・徳川宗春の挑戦」との捉え方もあれば「ケインズ政策の失敗」との捉え方もある。TANAKAの見方はハッキリしている。宗春モルモット論だ。江戸時代、それも「贅沢は敵だ」の吉宗の時代に「贅沢は素敵だ」の政治を行ったのだから、今考えれば成功する筈がなかった。 バーナード・マンデビル(1670-1733)の「蜂の寓話」も、ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)の「恋愛と贅沢と資本主義」も、ソースタイン・ヴェブレン(1670-1733)「有閑階級の論理」も知らなかった時代、家来さえついて来られず挫折した宗春、しかし、「宗春モルモット」として捉えると21世紀の日本人に考えさせる多くのものを残した。ただ、それを感じない人もいる。 簡単に「失敗」と結論を出すエコノミストもいる。吉宗の享保改革を<新規製造物禁止令>という歴史家があまり問題にしなかった点から切り込んだ、歴史家業界の新規参入者がいて、日本の歴史も面白くなる。宗春に関しても、歴史家業界とは異業種からの参入者が面白い見方を披露してくれるといいなァ、とTANAKAは期待するのだが………。
 このようなことを考えることがある。高い山に登る。遠くを見渡すと、そこよりも低い山の頂上が目に入る、しかし、そこよりも高い山の頂上がどうなっているのかは分からない。評論家が庶民感覚を大切にするのはいい。しかしそれだけではそれぞれの分野における天才を評価することはできない。庶民感覚だけでは金持心理は理解できない。常識を心得ているのはいい、しかし、それだけでは宗春のような型破りの政治を評価することはできない。 かつて大宅壮一はソニーがトランジスタラジオで注目され始めた1960年代、週刊朝日の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、「ソニー・モルモット論」を展開した。
 「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーだったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」と。
 しかし後年、井深太は「ソニー・モルモット論」に対し、以下のように語っている。
 「私共の電子工業では常に新しいことを、どう製品に結びつけていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくということは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に活かしていけば、いくらでの新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなど見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、日本の製造業者全部がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のラジオが世界に幅をきかせている一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対する種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である。  トランジスタの使い道は、まだまだ我々の生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」
 大宅壮一でさえ、当時はモルモット・ソニーがこれほどまでに成長するとは予測していなかった。現代の評論家でも宗春をキチンと評価できる人はいないかもしれない。 バーナード・マンデヴィル、ヴェルナー・ゾンバルト、ソースティン・ヴェブレンがあまり話題にならず、ケインズに比べハイエクが話題にならない日本では、宗春の政策を経済学的に評価するのは難しいのだろう。アマチュアエコノミストとしては正しく評価することはできなくても、せめて話題提供ぐらいはできたのではないかと、と自負しています。 歴史家業界・エコノミスト業界とは違う、異業種からの参入者が面白い見方を披露してくれるといいなァ、とTANAKAは期待しています………。
<主な参考文献・引用文献>
徳川吉春 尾張宰相の深謀                      加来耕三 毎日新聞社     1995. 6.25
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
歴史の智恵・経済のヒント                       竹内宏 PHP研究所    1994.11. 4 
( 2005年11月21日 TANAKA1942b )
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(50)倹約と贅沢を総括する
ゾンバルト以上に資本主義的であった
<奢侈からの資本主義誕生> このシリーズ”趣味の贅沢と市場経済”はヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』からヒントを得て書いてきた。そこでシリーズ最終回の今回は『恋愛と贅沢と資本主義』とそれに似た書物などから引用することにした。 1冊の本を短い文章で紹介するのは難しい。ここでは、一部を引用して文章の感じを味わってもらって、関心を持ったら1冊全部読んで頂きましょう。そのきっかけにでもなれば、と思い引用することにした。
*               *                *
 私が本章で展開しようと思う問題、すなわち奢侈は資本主義の発展にとってどんな意味をもっていたかということ、換言すれば、奢侈によって、あるいは奢侈を通じて、資本主義の歩みはうながされたかどうかという問題は、理論家、実際家を問わず、17、18世紀の経済学者の間できわめて熱心に論議された。 この問題は、ある意味で、そのまわりに他のすべての経済ならびに政治上の問題を集める中核てき問題であり、今日ではさしずめ「農業国か、それとも工業国か」といった問題に匹敵する重要なものである。 17,18世紀では、資本主義という言葉は用いられず、それぞれ思い思いに、興業、製造業、富などといわれていた。だが、事柄そのものについては、意見の一致が見られた。そして、奢侈とはその頃発生の途上にあった経済形式であり、資本主義的な経済形式の発展をうながすものであることが認められた。 そのため経済的進歩主義を称える者すべて、奢侈を歓迎した。彼らは極端に査知った奢侈消費は資本形成を中断するものではないかと恐れただけで、アダム・スミスと同様に、必要な資本の再生産と蓄積を確実ならしめるためには、倹約家たちがすでに大勢いるはずと信じては、おのが心を安んじさせたものだ。
 各国政府は、奢侈を奨励する奉公で施策をくりひろげた。
 17世紀を通じ、すみやかな歩みで資本主義が発展した国々では、贅沢禁止令が消滅していった。
 一定の奢侈支出、たとえばある種の美味な食事をとることを禁じることを含む”衣服令”は、イギリスで1621年廃止された。フランスでは食物の贅沢に関する最後の禁止令が出たのは1621年のことである。 それでも1644年および1672年に、贅沢の目的のために貴金属を過度に使用することが禁ぜられた(もっとも、これはもともと貨幣政策を考慮して行われたものだ)。1656年には50リーヴルを上回る(ビーヴァー皮の)帽子の禁令が出ており、1708年にはフランス最後の衣服に関する法律が発せられた。 それ以後支配層は、(資本主義的工業の利益にとっての)奢侈支出の必要性を確信、文壇のリーダーたちも奢侈礼賛に傾いた。(もっとも、後になるとルソー主義者の反対運動が起こる)彼らがなぜ奢侈を評価したかというと、それはまず、奢侈が市場形成の力をもっていたからである。
 モンテスキューは言っている。
「王国では奢侈はなくてはならぬ。もし富者が贅沢のために消費をあまりしなくなると、貧乏人は飢えてしまうだろう」
 (初期)資本主義の発展にとって、奢侈がどんな意味があったかについてのいくつかのきわめてセンスのある考え方は、『商業にしたがう貴族』に関するアベ・コワイエの含蓄ある第2の書の中に見出される。
「奢侈は暖め、燃焼する火に似ている。奢侈が富裕な人々の屋敷を飲み込むとき、奢侈は商売に活を入れてくれる。奢侈が道楽者の財産を吸収するとき、奢侈は労働者を養ってくれる。奢侈は、少数者の富を減少させるが、その反面、大衆の収入を何倍にもしてくれるのだ。 もし、リヨンの布地、黄金製品、絨緞、レース、鏡、宝石、馬車、優雅な家具、贅沢な机などが軽蔑されることにでもなれば、何百万本の無為の手が硬直することは明らかだ。そのとき同時に聞こえてくるのは、パンを求める叫び声である……」
 フランスには奢侈についての文献が数多くある。そのなかの奢侈を歓迎する文献のうちでもとくにすぐれているのは、『奢侈に関する理論、あるいは、奢侈は国家の福祉にとってたんに有益であるばかりでなく、不可欠の必要事であることを証明せんとする試みについての論文』 (2巻、1771年)である。この書物は『世俗』の中のヴォルテールの言葉「豊饒は最高の必要事なり」をモットーとしてかかげているが、著者は頭のよいユダヤ人のピントである。
 奢侈はたしかに害悪であるけれども、産業を促進することによって全体には利益をもたらすものであるという考え方は、イギリスにも広まっていた。「消費の悪徳は、個人にとって害はあるが商業にとってはそうは言えない」倫理的色彩の強いディヴィッド・ヒュームさえ次のような結論に達した。 すなわち、よい奢侈はよい。悪い奢侈はたしかに悪徳ではあるけれども、悪い奢侈がなくなれば、おそらくその代わりに登場するであろう怠情とくらべれば、はるかにすぐれていると言うのだ。 この考えは、社会哲学組織の一形式として、バーナード・マンデヴィルによって「蜜蜂の詩」の中に表現された。彼が奢侈を称えた詩句は次のとおりである。
  おそるべき悪徳、これ以上呪われ
  憎まれるべきもののない吝嗇(りんしょく)は、
  あの高貴ある罪、浪費の奴隷だ。
  奢侈は何百万もの貧しい人々を
  養うことに役立だっている。だが、
  かの不思議なる華美を誇る心根は
  さらに百万もの人々をとらえている。
  羨望と虚栄が産業を振わせる。
  つねに嘲笑され驚嘆されているが、
  衣裳、住居その他もろもろの事柄で、
  流行におくれまいとする欲望は、
  商業の真の原動力である。 (『恋愛と贅沢と資本主義』から)
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<蜂の寓話─私悪すなわち公益> ゾンバルトも引用した『蜜蜂の詩』、一般的には『蜂の寓話』として翻訳されている。その一部、初めの方を引用しよう。
*               *                *
ブンブンうなる蜂の巣──悪者が正直者になる話── 
あるひろびろとした蜂の巣があって
奢侈と安楽に暮らす蜂でいっぱいだった。
けれども法律や武力で名高いことは
蜂の大群を早く生むことと同じだった。
その蜂の巣は学術や精励の
偉大な育成所と考えられていた。
そこの蜂ほどりっぱな政治に恵まれ
気まぐれで満足しがたいものはなかった。
彼らは暴政の奴隷でないばかりか
野放しの民主主義の統治下にもなく、
法律で権力が制限されているので
悪事ができない国王のもとにあった。

 この虫けらどもは人間なみの生活をし
小規模ながら人間の行為とそっくりで、
町で行われるあらゆることから
軍人とか学者の職務まではたしていた。
ただすばやくて微小な手足のため
巧みな仕事ぶりは人目につかなかった。
しかし人間の器械にも労働者にも
船舶にも城塞にも武器にも細工人にも
技芸にも学術にも仕事場にも道具にも
相当するものがみなそこにあった。
でも蜂の言葉がわからないので
人間の呼び方によらねばならない。
ないものはいろいろあり
骰子もその一つだったにせよ、
国王があって近衛兵がついていたから
博奕はやったとするのが正しかろう。
ただしそんなことはぜんぜんしない
兵士の連隊を見せてくれれば話は別だ。

 蜂の大群が多産の巣にむらがり
かえってそのために繁栄していた。 
おたがいの渇望と虚栄とを
満たそうとして何百万もが努力し、
他方さらに何百万もも死後は
製作物の破損をめざすことであった。
彼らは世界の半分を供給すうるだけなのに
仕事に労働者が追いつかなかった。
莫大な資本でほとんど苦労もなく
利益の大きい事業に飛び込んだ者もいた。
またある者はのろわしい大鎌や鍬や
すべてひどく骨の折れる商売が定めで、
哀れな連中が毎日すすんで汗を流し
食うために体力と手足を使いつくすのだ。
かと思うとある者がやっていた商売は
ほとんどだれも徒弟に出さないもので、
資本はいらず鉄面皮なだけでよくて
十字印ついた貨幣をかけずにはじめられ、
詐欺師や食客や女衒や博奕打ちや
掏摸や贋金づくりや薮医者や占い師や、
まっすぐ働くことをひどくきらい
人がよくてうかつな隣人のの路ウドを
自分たちのために役立たせようとし
こうかつに細工をほどこす手合いどもだ。
こんな連中が悪者と呼ばれたのだが
名前のほかは堅気の者も変わりなかった。
詐欺を知らない商売や地位はなくて
いかなる天職にも欺瞞があったのだ。

この後は次のように続いていく
弁護士は、いつも事件をこじらせ仕事を増やす………
医者は名声や富を重んじ患者の健康は後回し………
僧侶の中には博学で雄弁な者も少しはいたが、あとは無学で怠情や色欲や強欲や自負を隠した………
戦を強いられた兵士たちは、生き残るとそれで名誉を獲得した………
大臣たちは国王に仕えていたが、悪者よろしく詐欺を働いた………
公正なことで名高い正義の女神さえ、目隠しはしても感情はそのままだった………
かように各部分は悪徳に満ちていたが
全部そろえばまさに天国であった

こうして悪徳は巧妙さをはぐくみ
それが時間と精励と結びついて、
たいへんな程度にまで生活の便益や
まことの快楽や慰安や安楽を高め、
おかげで貧乏人の生活でさえ
以前の金持ちよりよくなって
足りないものはもうなかった。 (『蜂の寓話』から)
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
顕示的消費─Conspicuous Consumption> 経済でも主流から外れるとセンスが違ってくる。「これで経済学と言えるのか?」と言いたくなるようなものもある。そうした変わった経済学の中でも、かなり変わっているのがこの『有閑階級の論理』だ。それでも視野狭窄にならないために、こうした本も読んでおく必要はあるだろうと思う。
*               *                *
 代行的な有閑階級の進化と一般的な労働者集団からの分化について論じたときに、そのいっそうの分業──すなわち、さまざまな使用人の間での分業──について言及しておいた。 代行的閑暇を主要な仕事にしている一部の使用人階級は、新しい副次的な領域の義務──財の代行的消費──を行うようになる。このような消費の最も明瞭な形態は、制服の着用や広々とした使用人部屋の専有に見ることができる。 多少不明瞭で効果も劣る形態の代行的消費でずっと広まっているものとしては、貴婦人と居住世帯の他の人々によってなされる食料、衣服、住居、および家具の消費がある。
 だが、貴婦人の登場よりもはるか以前の経済進化の時点で、金銭的能力の証拠としての財貨の特別な消費が、多少とも洗練された体系になり初めていた。消費における差別化の開始は、金銭的能力と読んで差支えないものより先んじていた可能性さえある。 それは略奪分化段階の初期までさかのぼることができるものであり、この側面における当初の差別化は、略奪的な生活の開始と踵(きびす)を接した出来事であるという推測さえ成り立つだろう。 財の消費の生じるこの最も原始的な差別化は、大部分儀式的な性格のものである点で、われわれがよく見慣れている後の時代の差別化に似ているが、蓄積された富に依拠していない点で、それとは異なっている。 富の証拠としての消費の効用は、派生的な発展に分類されるべきものである。それは以前から存在し、人間の思考習慣のなかにきちんと組こまれていた区別が、淘汰的な過程をへて、新しい目的へと適応したものである。
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 価値の高い財の顕示的消費は、有閑紳士が名声を獲得するための手段である。彼の手元に富が蓄積されてくると、彼自身の努力だけでは豊かさを十分に証明できなくなってくる。 こうして友人や競争相手の助力を得て、高価な贈り物や贅を尽くした祝祭や宴会を提供するという手段が活用される。贈り物や宴会は、おそらく馬鹿正直な誇示(オステンテーション=ostentation)とは異なった起源をもっていたはずだが、これがこの目的に役立つようになったのはきわめて早い時期のことで、しかも現代にいたるまでその性質を保ち続けている。 したがってその効用は、いまやこの点に関するかぎり、こうした慣例の実質的な基礎としての役割を長期担ってきたことになる。 たとえばポトラッチ{北米西岸のインディアンの間で、財力を誇示するためになされる贈答の儀式}や舞踏会といった贅を尽くした宴会が、とくにこの目的にかなったものとして利用される。 この場合には、主催者が比較を試みようとする当の相手方が、目的達成のための手段として利用されている。競争相手は、招待主のための代行的消費の実行者であると同時に、招待主だけではとても処分しきれない多量の立派なものの消費の目撃者であり、こうして彼はまた、招待主の社交儀礼の力量をしっかり見せつけられるわけである。
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 高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存してある。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり、財の顕示的消費なのである。 したがって、実行可能な最下層まで、この2つの手段が流行する。これを採用する最下層の人々の間では、2つの職務の大部分は、妻と同一家計内の子供たちに委嘱される。 妻が見せかけの閑暇さえ実行できないさらに低い階層では、財の顕示的消費だけが残り、しかも、妻と子供たちによって実行されることになる。過程をもつ男はこの奉公にそって消費の一端を担うことができるし、実際に、ふつうはそうしている。 しかし、さらに下の赤貧にあえぐ人々の階層──スラム街すれすれのところの階層──の場合には、男だけでなく、まもなく子供たちも、事実上見栄(アピアランス=appearance)を保つのに役だつ財の消費を停止することになり、実質的に、女が家庭の金銭的な体面(ディーセンシー=decency)の唯一の象徴になってしまう。 どの社会階層に属する人々であっても、たとえ赤貧極まりない人々の場合であっても、習慣的な顕示的消費のすべてを捨て去りはしない。この部類に属する消費の最後のものが放棄されるのは、抜き差しならない必要に迫られたときだけである。 最後の装身具あるいは金銭的体面の最後の真似事が投げ捨てられるまでには、むさくるしさや不快さなどが限りなく堪え忍ばれる。このような高級ないし精神的な必要物の充足を完全に放棄するほど肉体的な欲求の圧力に屈してしまった階級や国家など、決して存在しなかった。 (『有閑階級の論理』から)
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<信仰と社会層分化> 真面目なプロテスタントが資本主義を発展させた、という考えで書かれたのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。今日「日本が経済発展したのは真面目な儒教思想の影響だ」と言うのも同じ様な考え方で、それは『恋愛と贅沢と資本主義』の対極にある考えといって良いだろう。 そこで、ここでは「趣味と贅沢と市場経済」の締めくくりとして、対極にある『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げてみよう。
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 さまざまな種類の信仰が混在している地方の職業統計に目をとおすと、通常つぎのような現象が見出される。それはドイツ・カトリック派会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、 彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。この現象は、たとえば東部ドイツにおけるドイツ人とポーランド人の間のように信仰の種類が国籍の区分と一致し、したがって文化の発達程度とも一致しているような地方で見られるだけではない。 およそ資本主義の発展期に、その結果として、住民たちの間に社会層分化が生じた地方ではいたるところ──この分化が激しければ激しいほど明白に──信仰統計の数字をとおして明らかに見出される。
 このように近代の大商工企業における資本所有や経営、それから高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数が相対的にきわめて大きいということ、換言すれば、それらに参加しているプロテスタントの数が総人口におけるプロテスタントの比率よりも大きいということは、 ある点まで、古い過去の時代に発した歴史的な理由によるものと見ることができる。もちろんその場合、信仰上の所属問題は、経済現象の原因ではなくて、ある程度までその結果と考えねばならないだろう。そうした経済的職能に携わることは、あるいは資本所有、あるいは巨費を必要とする教育、またたいていの場合この両者を必要条件としており、 したがって今日では遺産の所有者か、あるいはある程度富裕な人でなければそれに携わることが不可能となっている。しかし、すでに、16世紀のドイツでもプロテスタンティズムに帰依したのは、まさしく多数のきわめて富裕な、自然や交通事情に恵まれた、経済的に発達した地方、とりわけ無数の富裕な都市だった。 そして、そのことの余波は今日になっても経済上の生存競争でプロテスタントの立場を有利にしている。
 ところがこの場合、歴史的にみると、次のような疑問が生じてくる。すなわち、このように経済的に発展した書地方がとくに宗教上の革命を受け入れるべき素質を強くもっていたのは、どういう理由によるだろうか、と。 この疑問への答えは一見簡単なようだが、決してそうではない。たしかに経済上の伝統主義から脱却したということが、宗教上の伝統にも懐疑をいだかせ、伝統的権威に対する反抗を力づける原因になったというふうに考えることもできよう。しかしこの点については、今日忘れられがちな一つの事実に留意しなければならない。 それはほかでもなく、宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。 しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にはほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだったのだ。
 今日、いちじるしく近代経済の相貌を呈している国民でも、カトリック教会の支配──かつては今日以上に「罪人は憐れみ異端を罰する」ものだった──に服することに少しも困難を感じていないように、15世紀の末葉、当時もっとも富裕で経済的に発達していた地方の人々も、同じカトリック教会の支配に服することに困難を感じていなかった。 カルヴァニズムは16世紀にはジュネーブとスコットランドを支配し、16世紀末から17世紀にかけてはネーデルランドの大部分を、17世紀にはニューイングランドと、一時はイギリス本国も支配した。が、こうしたカルヴァニズムの支配は、今日のわれわれには、およそ個人に対する教会の統制の形態のなかでもっとも耐え難いものだろう。 その当時も、ジュネーブやオランダ、イギリスにおける古い都市貴族の広汎な層にとっては、カルヴァニズムは同じように耐えがたいものと感じられた。じじつ、当時経済的発展が進んでいた諸地方の宗教改革者たちが熱心に非難したのは、人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろそれが少なすぎるということだった。 そうだとすれば、経済的発展の進んだ国々の人々、しかも、のちに見るように、その内部ではとくに当時経済生活において興隆しつつあった市民的中産階級がピューリタニズムの、かつてその比をみないほどの専制的支配を受け入れたのは、いったいなぜだったのか。 そかも、彼らが単にいやいやながらというのではなく、それを擁護するために、カーライルが "the last of our heroisms" (わが英雄主義の最後のもの)といったのが誤りでないように、市民的階級そのものにとってほとんど空前絶後ともいうべき英雄行動を示したのは、いったいなぜだったのか。 (『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から)
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<江戸豪商の顕示的消費> 元禄時代江戸に豪商が誕生した。代表的な豪商として、紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門がよく知られている。彼らについては幕府と癒着した政商として、あるいは幕臣への賄賂、あるいは江戸での派手な散財が取り上げられる。 そのなかで散財は江戸の市場経済を刺激にたであろうことは容易に想像できる。その散財についてつぎのような文が目に付いたのでここに引用しよう。
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 紀文も奈良茂も、まさにこの元禄時代の潮流にあざやかに乗って、短時日の間に江戸の超一流の豪商にのしあがった。
 特権階級──賄賂──役人(政治家)、という三題噺は、いつの世にも通用するようだ。ことに、官営の土木事業がさかんであった元徳時代には、新井白石も指摘しているように、請け負いの利権を獲得しようと暗躍する材木商人と、彼らと結託して私腹を肥やそうとする賄賂役人の横行が顕著であった。
 一攫千金をめざす投機的材木商人にとっては、絶えず新たな利権の獲得を意図して、自己を宣伝しておく必要があった。たとえ少々背伸びしてでも、金を湯水のごとく遊び捨てることによって、財力のあるところを誇示し、自分とむすんだ役人には、賄賂をたんまり出すぞと暗示しておく必要があった。 吉原は自己宣伝と役人饗応の場として、恰好の場所であった。才智にたけた紀文や奈良茂のことである、ただ無目的に、ばかな豪遊をしたわけではない。
 しかし元禄期をすぎるころから、濫伐による山林の荒廃が顕著となり、また城下町の建設も一段落するなど、商品としての材木が需要・供給両面ともに悪化したため、材木商たちはつぎつぎに転・廃業を余儀なくされた。
 とくに不正役人を退け、諸事緊縮を旨とする新井白石の「正徳の治」の展開は、彼ら特権商人にとっては致命的であった。しかも元禄の貨幣改鋳によるインフレ経済時代から、正徳・享保の良質貨幣鋳造のデフレ経済時代を迎え、もはや一攫千金は昔日の夢と化した。
 紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門の盛衰は、いずれも政権の交代と軌を一にしていた。その意味で2人は政商であった。地道で堅実な商人道からみれば、それは元禄の夜空をいろどる一瞬の花火にも似た、はかない存在であったといえよう。 (『大系日本の歴史10』から)
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<最後までつき合って頂き、ありがとうございました> 『資本主義は江戸で生まれた』という見方がある。『恋愛と贅沢と資本主義』は恋愛と贅沢が資本主義を発展させた、という見方もある。江戸時代の『貧農史観を見直す』と言う人もいる。 「素人歴史家は楽天的である」と言う人もいる。そんなようなイメージが重なり合ってこのシリーズ「趣味の贅沢と資本主義」が始まった。約1年間取り組んでみて、江戸時代に対するイメージが前以上にハッキリしてきた。 「一握りの特権階級である武士に人々は虐げられ、反抗する力さえ奪われていた」と言ったような見方は間違っている。現代に比べれば、生産技術も、それを生かす経済学というソフトパワーも、医療も、未熟であった。けれどもそれなりに人々は幸せを求めて努力していた。 そして、贅沢を楽しむ心の余裕さえ持っていた。そのように考えるのが自然だと思うようになった。
 今回取り上げた「絹」「衣裳道楽」「伊達くらべ」「お伊勢参り」「園芸」など、これがなくては生活できないというものではない。つまり、贅沢だ。なくても困らない物にお金を使う、「バブルとはそういうものだ」と言えば、その贅沢が発展させる資本主義はしょせんバブルなのかも知れない。 バブルを嫌って質素・倹約に徹すれば徳川吉宗の享保改革になる。江戸時代の改革とは反資本主義の運動だったのだろう。生産技術、それを生かすソフトパワーが発達し、幕藩体制が危うくなって、そのため歴史を逆回転させようとしたのが江戸時代の改革であった。 しっかりした理論創りまでには至らなかったにせよ、宗春は直観的に歴史の流れを感じていたのだと思う。これはセンスの問題だ。
 1年間も続いてのだから、何か気の利いた文章を、締めに相応しい文章をと思っていたのだが、まとまりのない最終回になってしまった。それでも当人は今まで知らなかった事をいっぱい発見できたので、けっこう自己満足に浸っています。
 それにしてもアマチュアの試行錯誤の文章に最後までつき合って頂き、感謝しています。本当にありがとうございました。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
国史大系45 徳川実紀第8篇                    黒板勝美 吉川弘文館     1965.11.30
国史大系49 続徳川実紀第2篇                   黒板勝美 吉川弘文館     1966. 9.30
歴史探索 徳川宗春 なめたらいかんて、名古屋城       舟橋武志 ブックショップ「マイタウン」1995. 4. 1 
吉宗と享保の改革 教養の日本史                    大石学 東京堂出版     2001. 9.28
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
江戸の財政再建                            井門寛 中公文庫      2000.12.20
日本史再発見 理系の視点から                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25 
江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都          谷川健一 三一書房      1971. 8.20
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要           名古屋市教育委員会編・発行        1960.10.30
吉宗と宗春                           海音寺潮五郎 文春文庫      1995. 4.10 
藩史大事典 第4巻中部編U 東海                  木村礎他 雄山閣       1989. 1.20 
徳川吉春 尾張宰相の深謀                      加来耕三 毎日新聞社     1995. 6.25
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
歴史の智恵・経済のヒント                       竹内宏 PHP研究所    1994.11. 4 
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫   2000. 8.10 
蜂の寓話──私悪すなわち公益         バーナード・マンデル 泉谷治訳 法政大学出版会   1985. 6.24 
有閑階級の理論              ソースティン・ヴェブレン 高哲男訳 ちくま学芸文庫   1998. 3.10 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー 大塚久雄訳 ワイド版岩波文庫  1991.12. 5