(11)先に豊かになれた豪商たち
特権階級相手の商売から町人相手へ
<豪商と呼ばれた豊かな人たち> 江戸時代、先に豊かになれた人たちの中に豪商と呼ばれる人たちがいた。その中でも紀伊国屋文左衛門の名前だけはよく知られている。ここでは江戸時代の豪商について幾つか引用することにした。 象のことを知ろうと思って、目を瞑って象を撫でるとしたら、なるべく多くの所を撫でるのがいい。豪商についてもいろんな見方があるだろうから、同じようなことでも多くに人の見方を知っておこうと思う。
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<倫理観でも多視的な日本人>  江戸時代の豪商三井家には「商人に限らず、儒仏両道に心得、一向仏道にかたより候へば、家危うく成候事」とか「商人は賢者に成ては家衰ふ」という家訓が残っていた(三井高陽『越後屋反古控』)。 儒教にせよ、仏教にせよ、あまり深く信心すると家がダメになる。また、学問をやりすぎて賢人になったら家が衰える。そういう教えの中に、要するに神も仏も、適当に信仰していればよろしい、という現世的な思いが強く流れている。おそらく、西鶴の天理・冥理のようなものを念頭に置くぐらいにしてしてしてお、その日その日の仕事に励むくらいが適当ということになろうか。
 それは将軍に対しても大名に対しても、似たような態度となって現れる。いちおうの礼儀は尽くす。必要とあらば土下座して頭を下げるだろう。が、敬意を払うこともない。それは、現代人がダイアナ妃も松田聖子も区別なしに騒ぎ立てるが、いささかの尊崇の念も抱かないことにも通じる。靖国神社に参拝し、天皇を尊敬し、現代の若者にその念の薄いことを憂うる某首相にしても、 「しからば貴下は、陛下の馬前に死ぬことを光栄と思い、あるいは乃木将軍の殉死のごとく天皇に生命を捧げる心情があるか」と問われれば、「そこまでは考えていない」と答えるに違いない。
 すべて相対的で、便宜上は敬神拝仏忠君をタテマエとするけれども、キリスト教のように絶対神と対決し、神と対話をするといった態度は全く存在しない。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、宗教が経済はもちろん人間生活のすべてに一貫して影響を持っている。そこには、唯一絶対神であるザ・ゴッドにたいする信仰が核になっている。 いってみれば、その視点から、宇宙の新羅万象が整然と秩序づけられている。それに比べ、西鶴にせよ現代人にせよ、自らの生活の一つ一つに神の定めた原理が働いているなどと夢にも信じない。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<柏屋の花嫁>  豪商、巨商ということばで真っ先に思い泛んでくるのは、江戸八百八町に黄金を撒き散らして豪興を競い、奢りをもって人生の理想として歴史の舞台を走りぬけていった”お大尽”紀文や奈良屋といった、一種、破滅型の豪快きわまりない大商人たちの表情である。
 それと、京の都で<<金銀をもっての歓楽は、およそ心に任ぜずと云う事もなく、あらゆる事を仕尽しぬ>>といわれ、その奢侈の咎で家屋敷を闕所競売、遠島に処せられていった中村内蔵助。大坂の陣の競争成金で<<おどり屋敷を四方に構え、庭に唐、天竺の樹を植え数奇をこらした座敷は四方にビイドロの障子をたて、天井もビイドロを張りつめ水をたたえて金魚を放ち>>と、 公方も及ぶまいと噂された大坂の淀屋。そして西鶴の『日本永代蔵』のなかに登場する絲屋十右衛門の贅をきわめた姿……などであろう。
 数奇者の十右衛門は、茶入一個を買うため大八車に銀三百貫を積ませ、市中を練るようにして運ばせたという。銀三百貫は米に換算すれば七千百余石。が、一説によるとその茶入は判金千枚、つまり一万両であったという。銀に換えれば六百貫、米にすれば一万四千二百石あまり。六百貫の銀といえば、なんと表高三十万石の長州藩毛利家の年間総収入の千二百五十三貫九十匁(寛永二十年「米と金」奈良本辰也)の約半年分にあたる。 茶入一個の値段がである。
 そんな当時の巨商の、はかり知れない財力と格式の高さを象徴するような豪華な婚礼調度の品々が、昭和の現在も遣っていて見る人の目をみはらせる。江戸中期、大名諸侯をしのぐばかりの権勢を誇った京の難波屋九郎左衛門(五代目祐英)の四女里代が、おなじ京商人の柏屋孫左衛門(四代目)に嫁いだおりの嫁入道具である。
 華やかな輿入れ行列に先だって運ばれる長持ち、唐櫃、屏風箱、そして新婦が婚儀の粧いをおこなう部屋の、長谷川等伯が松を描いた金屏風をひきめぐらせた粧の間に飾りつけられた絢爛たる、おびただしい数の調度類。そのいずれもが”柳に海棠”を描いた金時絵に”丸に角立四目菱”の定紋を散らした華麗な品々であった。 粧の間の飾りつけの中心になる三つの棚だけを眺めてみても、まず中央の……金泥高時絵の厨子棚。この棚を飾っている諸道具は、沈木(じんぼく)や唐桑などで造られた梨子地時絵総紋散らしの十二手箱(鏡台2合、櫛箱4合、白粉箱4合、油桶2合)、香道具としては、香盆の上に火道具、聞香炉、重香箱。そのとなりには空薫物の香を容れた沈箱(じんばこ)。大文箱。手紙用の通箱。進物用の水引箱。左手の黒箱には、汚れた櫛を拭っておさめる、三つ櫛十一組と櫛払い刷毛をいれた払箱。 朱うるしの小角赤箱。三つ櫛一組を納めた小櫛箱。小文箱。
 三つ目の、右手の書棚には書物や巻物が置かれ、これら三つの棚の前には、金箔を貼りそれぞれ『源氏物語』の絵を描いた三百六十個の蛤を入れた六角形の貝桶が二つ。それに書見台。羅の上に朱うるしを塗った大角赤箱。眉作箱。大鏡。昆布箱。香炭箱。耳だらいや椀嗽(うがいわん)など御歯黒道具をいれた鍍金箱。髪箱。粧の間に飾られた以外の道具には、畳紙(たとう)箱。香合せの十種香箱。外出の際に携行する食事用器の食籠(じきろう)。二十人分の弁当を入れて運ぶ円筒形の行器(ほかい)。 そして上流社会でもてはやされていた双六盤に駒石。このほか化粧箪笥。裁物箱。物指箱。色紙箱。煙草盆。硯箱。長硯箱。薬箪笥。刀掛。脇息。重箱。そしてまた寝具のなかの枕だけでも、花嫁の床入りの儀に用いられる祝まくらから、花嫁の供をしてきた女たちの枕。沈香をくゆらせて眠る風流な焚掛枕などさまざまな枕がある。そしてこれらすべてが、塵取りや炭取りにいたるまで黒うるしに蒔絵した華麗なものなのだ。
 それはそうであろう。花嫁の父、那波屋九郎左衛門は、三井総本家三代の三井高房が著した『町人考見録』にも、<<京一番の有徳人>>と書いたほどの豪商であった。那波家は大名貸の関係から諸大名との交際も深く、その生活も小川通り二条上ルの松平加賀守の屋敷を買い求めて住むという豪勢をきわめたものであった。花嫁里代の祖父素順(四代目)のとき、筑前黒田藩から二百石を与えられ、槍持ちを供に昴然と京の町を往来した素順の姿は、京雀たちの話題になったという。
 享保十年(1725)那波屋の大名貸し総額、銀一万百六十貫余。時価にすると、およそ八十五億円。これをみても那波やの財力の巨きさがわかる。 (「江戸を駆ける」から)
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<元禄の豪商たち>  17世紀後半、寛文年間(1661-1673)から元禄年間(1688-1704)にかけては、社会構造が大きく変化した時代だった。もともt江戸時代の支配体制は、絶対多数の農民を「生かさぬよう殺さぬよう」にして、かれらから目一杯年貢を搾り取るかたちをとっていたが、やがて、農業生産力の向上によって、農民の手許に少しづつではあるが、余剰が残るようになった。 そうなるちお農村にも交換経済が入り込み、全国的に諸湯品流通が活発化する。商品流通の活発化は、必然的に都市の商工業者の台頭を促し、なかでも全国流通の中心に位置した三都(大坂・京都・江戸)には、莫大な資本を蓄積する豪商が多く生まれた。
 この時代の豪商たちは、社会構造の変化を反映して、大雑把に二つの類型に分けることができる。
 第1は、前代の特権商人と同様、大坂・江戸など大都市建設に伴う土木工事、建築請負、鉱山開発など、幕府や諸藩つまり政治権力と結託して財を成した者たちで、かれらはまた、その財をもって米相場や材木の買い占めなど、投機的商業を行ったという点で共通性をもっている。このタイプには紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門・河村瑞賢らがあり、淀屋もまたこのタイプであった。
 奈良屋の場合、日光東照宮の普請にあたって、御用材木の入札を市中相場よりはるかに安い値段で落札したうえ、当時江戸の独占的材木問屋だった柏木伝衛門が抱え持っていた檜材を、幕府御用をかさにきてだまし討ち同様の手口で横取りし、二万両という大金を稼いだ。これが奈良屋が豪商に成り上がる契機になったという。 紀伊国屋は、紀州みかんの江戸送りで有名であるが、このエピソードは伝説の域を出ず、確かなところでは、江戸の大火のたびに材木の買い占めで巨富を成し、幕府の材木御用達を命じられたものという。また、上野寛永寺の造営を請け負って50万万両を稼いだという話も伝えられている。
 こうした特権商人が存在する一方、不特定多数を相手に斬新なアイディアで勝負する新興の商人たちがあらわれた。この第二の類型の代表的豪商としては、三井越後屋が挙げられる。
 天和三年(1683)、三井八郎右衛門は江戸駿河町に呉服店越後屋を開店したが、この店の商法は「よろず現金、切り売り、掛け値なし」という革新的なものだった。つまり、それまでの呉服商が訪問販売で年三回払いであったのと違い、すべて店頭売り、一銭も掛け値は付けず、したがって、値切ってもまけない、すべて現金払いで延べ売りはしない、その代わり安いというわけである。 このようなかたちでディスカウント制を導入したほか、一反以下の半端でも切り売りし、多くの手代を商品別に配置する、さらに、急ぎの注文には数十人の職人がその場で即座に仕立てるなど、越後屋の商法は、大衆サービスを徹底的に追及したものだった。
 このように、元禄という時代は、政治権力と結託して投機的商売を行う古いタイプの豪商と、大衆を相手にすることによって財を成した新興商人とが併存する時代であった。
 ちなみに、越後屋の開店は、西鶴の処女作『好色一代男』発表の翌年のことである。西鶴は『日本永代蔵』のなかで、越後屋商法について細かく記している。かれは、これら商人の姿をつぶさに観察し、自作のなかに描き込んだのである。 (「歴史発見15 元禄の豪商たち」から
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<近世本町人の登場>  経営史的には京都経済の転換は17世紀後半の庶民経済の発達をうけて、大町人の没落していく話が数多く集められており、その歴史を反省することで、新興町人としての経営哲学を確立しようというねらいが、こめられている。
 近世初頭の朱印船貿易や金・銀座の経営、大名貸しの金融業などで、莫大な財産を蓄えた大町人が京都には数多くいた。しかし、『町人考見録』が引用した事例だけでも、大名貸、驕奢、愚かなること、投機事業、闕所等々の理由で没落したものが七十家以上にのぼっている。 その資産家度も京坂第一の大両替商とか、上京で一、二といわれる大名貸の問屋であったとか評される巨商ぶりであり、資産は二、三十万両あるいは銀数千貫と称される人びとであって、年収からいえば数万石規模の小大名に匹敵するものあったという。 (「京都 歴史と文化1」{政治・商業} から)
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<昔は掛算今は当座銀>  以前は将軍家や大名方の御婚礼、または年末の衣配りの際などには、その係の小納戸方の役人の好意で、一商いしてもうけたものである。ところが昨今は、大名方が出入りの商人だけにまかせず、入札(いりふだ)で請け負わせるようになったために、商人たちはすこしの利益を目当てに競争するので、 おたがいにじり貧となり懐は苦しく、ただ世間体ばかりで御用をととのえるようになった。あまつさえ多額の掛売りの代金は、数年でこげついてしまい、そのもうけは、京都の両替屋が預金に対して支払う利息にもおよばず、上方の問屋に払いこむ為替銀の支払いにも手づまって難儀している。そうかといって、これまで拡張してきた店を、 にえあかにしまうわけにもいかず、自然と小商いになってしまうのである。つまりは引き合わぬ算盤、この分でいくと江戸店(だな)だけ残って何百貫目の損が目に見えているのだから、足もとの明るいうちに、格を下げてでも身代を建て直そうと、それぞれ思案している時節に、また商いの道はあればあるものである。
 三井九郎右衛門という男は、手持ちの資金に物をいわせて、家康が鋳造させた駿河小判も思い出される駿河町に、間口九間に奥行四十間という棟の高い長屋を造って新店(しんだな)を出し、すべて現金売りで掛値なしと定め、四十余人の利発な手代を思うままにさばき、一人に一品を受け持たせた。たとえば金襴類一人、日野絹・郡内絹類に一人、羽二重一人、紗綾類一人、 紅類一人、麻袴類一人、毛織物一人というふうに手分けして売らせた。おまけに天鵞絨一寸四方、緞子を毛貫袋になるほど、緋繻子(ひじゅす)は槍印になるだけの長さでも、竜門は袖覆輪の片方だけでも、求めに応じて売り渡した。ことに奉公口きまった侍が、にわかに主君にお目見えする際の礼服の熨斗目(のしめ)や、急ぎの羽織などは、その使いを待たせておいて、数十人もかかえる職人が居ならび、 即座に仕立てて渡してやる。そんなふうだから家が繁盛し、毎日百五十両ならしの商売をしたという。世の調法とは、この店のことである。
 この亭主を見ると、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところはないが、ただ家職にかけてかしこいだけである。大商人の手本といってよかろう。いろはの番号をつけた引き出しに、中国や日本の絹布を畳みこみ、そのほかさmざまの古渡りの絹までととのえてある。たとえば中将姫の手織の蚊帳、人麻呂の着た明石縮、阿弥陀如来の涎掛け、朝比奈三郎が着ていた舞鶴の紋所のある布、達磨大師の座布団、 林和靖の括り頭巾、三条小鍛冶の刀袋まで、何によらず無いというものがない。あらゆる物が帳面に書きこんである。まことにめでたい。 (「日本永代蔵」から)
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<特権商人─賄賂─役人>  17世紀後半の日本は、各地の城下町建設が急ピッチにすすみ、材木などの建築資材をあつかう商人の活躍が目立った。ことに最大の城下町である江戸では、大火がしばしばおこり、材木の需要は非常に大きかった。
 「材木」、それは今日であえば鉄鋼に相当する江戸時代の期間商品であった。城も屋敷も橋も、そのほか何をつくるにも欠かせぬ中心的建設資材である。
 折しも、五代将軍綱吉による元禄政治が展開した。神仏への信仰心が厚く、また学問好きでもあった綱吉は、護国寺や寛永寺根本中堂や湯島聖堂などの造営をはじめ、日光東照宮や下総香取社などの修復事業をつぎつぎに命じた。
 このような官営の土木事業には莫大な資金がいる。源田慰留にいえば、いくつもの高層ビルや高速道路や新幹線の建設に匹敵するような大事業である。綱吉は、幕府財政が不足してきたため質の悪い貨幣を大量に増鋳し、これらの建設資金に投下した。
 こうした元禄政治に対する従来の評価は、すこぶる悪かった。綱吉の浪費ぐせによる悪政だというのである。しかし近年の評価はだいぶ風むきが違ってきている。すなわち、幕府主導の大規模な財政投資事業をつぎつぎに断行することにより、民間の活力を刺激し、 日本経済全体の底上げをはかった良政だというのである。
 ともあれ、こうした綱吉の政治に便乗し、材木商人が利を得る機会がいっそう増大した。新井白石は自叙伝『折りたく柴の記』において、「前代(元禄時代)に土木の功しばしば起りしより、材木の価騰り貴くなれる事、古今の間いまだ聞かざる所なり、(中略)されば材木をあきなふ商人共の、たちまちに家を起して、某は幾百万を累ぬといふもの、 いくらといふ数しらず」と指摘している。
 紀文も奈良茂(ならも)も、まさにこの元禄時代の潮流にあざやかに乗って、短時日の間に江戸の超一流の豪商にのしあがった。
 特権商人─賄賂─役人(政治家)、という三題噺は、いつの世にも通用するようだ。ことに、官営の土木事業がさかんであった元禄時代には、新井白石も指摘しているように、請負の利権を獲得しようと暗躍する材木商人と、彼らと結託して私腹を肥やそうとする賄賂役人の横行が顕著であった。
 一攫千金をめざす投機的材木商人にとっては、絶えず新たな利権の獲得を意図して、自己を宣伝しておく必要があった。たとえ少々背伸びしてでも、金を湯水のごとく遊び捨てることによって、財力のあるところを誇示し、自分とむすんだ役人には、賄賂をたんまり出すぞと暗示しておく必要があった。 吉原は、自己宣伝と役人饗応の場として、格好の場所であった。才智にたけた紀文や奈良茂のことである。ただ無目的に、ばかな豪遊をしたわけではない。
 しかし元禄期をすぎるころから、濫伐による山林の荒廃が顕著となり、また城下町の建設も一段落するなど、商品としての材木が需要・供給両面ともに悪化したため、材木商たちはつぎつぎに転・廃業を余儀なくされた。
 とくに不正役人を退け、諸事緊縮を旨とする新井白石の「正徳の治」の展開は、彼ら特権商人にとっては致命的であった。しかも元禄の貨幣悪鋳によるインフレ経済時代から、正徳・享保の良質貨幣鋳造のデフレ経済時代を迎え、もはや一攫千金は昔日の夢と化した。
 紀伊国屋文左衛門と奈良茂左衛門の盛衰は、いずれも政権の交代と軌を一にしていた。その意味で二人は清祥であった。地道で堅実な商人道からみれば、それは元禄の夜空をいろどる一瞬の花火にも似た存在であったといえよう、 (「大系日本の歴史10」から)
(^o^)                 (^o^)                 (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
保坂元の江戸再発見                          保坂元 読売新聞社     1987. 7.31
江戸を駆ける                            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25 
歴史発見15 元禄の豪商たち              NHK歴史発見取材班 角川書店      1994. 8.30
京都 歴史と文化1{政治・商業}                林屋辰三郎編 平凡社       1994. 4.18 
日本永代蔵 現代語訳西鶴                    暉峻康隆訳注 小学館ライブラリー 1992. 4.20 
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
( 2005年2月28日 TANAKA1942b )
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(12)少し遅れて豊かになれた人たち
木綿の普及が生活革命
<人は着る物によって意識が変わる> 朝廷・幕府関係者が贅沢をし始め、それを真似て金持ち町人が贅沢をし始めた江戸時代初期、庶民は木綿の普及によって意識革命がおこり始めていた。 柳田国男はその著書『木綿以前の事』で、江戸時代に木綿の普及が生活を変えたことについて書いている。今週はここから話を始めることにしよう。
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<木綿以前の事>
 (一)
 『七部集』の附合(つけあい)の中には、木綿の風情を句にしたものが三ヶ所ある。それから木綿とは言ってないが、次の『炭俵』の一節もやはりそれだろうと私は思っている。
   分にならるる娵(よめ)の仕合    利牛
   はんなりと細工に染まる紅うこん  桃隣
   鑓(やり)持ちばかり戻る夕月    野坡
 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家するはずの二番息子の処へ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷(あわせ)か何かをきょうは着ているというので、もう日数も経っているらしいから、これは普段着の新しい木綿着物であろう。 次の附句は是を例の俳諧に変化させて、晴れた或る日の入り日の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来ると鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。 またこれとは反対に、同じ恋の句でも寂しい扱い方をしたものが、『比佐古』の亀の甲の章にはある。
   薄曇る日はどんみりと霜をれて     乙州
   鉢いひ習ふ声の出かぬる        珍碩
   染めてうき木綿袷のねずみ色      里東
   撰(よ)りあまされて寒き明(あけ)ぼの  探志
 この一聯の前の二句は、初心の新発意が冬の日に町に出て托鉢をするのに、まだ馴れないので「はちはち」の声が思い切って出ない。何か仔細ありそうな、もとは良家の青年らしく、折角染めた木綿の初袷を、色もあろうに鼠色に染めたと、若い身空で仏門に入ったあじきなさを嘆じていると、 後の附句ではすぐにこれをあの時代の、歌比丘尼の身すぎの哀れさに引移したのである。木綿が我邦(わがくに)の行われ始めてから、もう大分の年月を経ているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐこのような優雅な境涯を、聯想する習わしであったのである。 
 (二)
 木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなっかたのである。 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つあった。第一に肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優っていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特権かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。 そうしていよいよ綿種の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遙かに簡単で、僅かの変更をもってこれを家々の手機で繰り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした根市が綿田になり、綿の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。 麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不要になって、後にはその名前まで忘れられ、そうして村里には染屋が増加し、家々には縞帳と名づけて、競うて珍しい縞柄の見本を集め、機(はた)に携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて悦んで着た時代が、こうしてやや久しく続いていたらしいのである。
 (三)
 色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しくかわったと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪廊は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。そのうえ袷の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷり入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味がでてくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前より明らかに外に現れた。ただ夏ばかりは単衣の糊を強くし、或いは打盤で討ちならして、僅かに昔の麻の着物の心持ちを遺していたのだが、それもこの頃は次第におろそかになって行くようである。 我々の保守主義などは、いわば只五七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。そんな事をしている間に、以前の麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる撫で肩と柳腰とが、今では至って普通のものになってしまったのである。 それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々には裸形(らぎょう)の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。 心の動きはすぐ形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまり木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃(こまや)かになって来たことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。 (「木綿以前の事」から)
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<新・木綿以前の事4  『木綿以前の事』が書かれたのが1939(昭和14)年のこと、それから50年経って『新・木綿以前の事』とのタイトルの書が出版された。『木綿以前の事』の話の続きとしてこちらも取り上げることにしよう。
「おあむ」の生い立ち
 戦国から江戸の初めに生きた一人の女性の昔語りが記録されて、今日に伝えられている。『おあむ物語』である。
「おあむ」は多分「御庵」で、彼女の本当の名前ではあるまい。晩年出家して尼僧となったので、「御庵さま」と呼びならわされていたのであろう。しかし名前が分からないから、ここでは「おあむ」を名前のような形で使わせてもらうことにする。
 おあむの父は、山田去暦といって、石田三成に仕え、300石の知行を受けた侍だった。初め近江の彦根の城におり、のち関ヶ原合戦のときには、美濃の大垣城にたてこもった。おあむも父に従って大垣に籠城し、家中の女たちと一緒に鉄砲玉を鋳たり、味方が取ってきた敵の首を上級者に見せるため、おはぐろをつけたり気丈に働いた。そのとき流れ弾丸に当たって戦死した弟は14歳だったというから、おあむは20歳少し前の年頃であったろう。 この物語を記録した人物も、奥書で、おあむのことを「寛文年中(1661-73)八十歳にして卒す」といっているから、当時20歳前という推定に誤りはないと思われる。  
かたび4一つの育ち盛り
 このおあむは、戦国末期の生活について、いくたの貴重な証言を残している。その中で、いま私が注目しているのは、朝夕「雑水(炊)」しか食べられなかった食生活の貧しさの話につづいて、衣生活について述べた次の一節である。
「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、ほしやと、おもふた。此様にむかしは、物事ふ自由な事でおじやつた。……今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金(こがね)をついやし……沙汰の限りなこと」
 年寄りが、「今の若者はぜいたくだ」というのはいつの世も同じセリフでおもしろいが、おあむの衣生活はそれにしてもきびしいものだった。若い乙女の恥じらい心も日増しに強くなる十三歳から十七歳という育ちざかりの四年間、着たきりスズメの暮らしだったというのは、なんとしてもおどろきである。いかに乱世とはいえ、主君を持ち、しかも三○○石の知行も取る侍の娘である。それがこのような貧しさを強いられていたというのは、いったいどうしたことなのだろうか。
 おあむの話に誇張があれば別だが、とりわけ意図的にうそを語ることがらでもないから、実際にそうだったと受け取るほかはない。そのおどろくべき衣生活の貧しさの理由として、私は彼女のいう「帷子一つ」に注目する。
 「帷子」というのは、裏をつけない一重の着物である。その素材は、生絹(紗に似た薄織りの絹)のこともあるが、それは贅沢な場合で、普通は麻地である。戦前では、夏の着物として麻の帷子という言葉は、私たちの暮らしの中でも生きていた。
 とすると、おあむは、夏冬通じて、一重の麻の着物一枚で通したわけである。今ではとても信じられないが、古代や中世ではこの種の麻の一重を、寒い折りには何枚か重ねて着るというのが衣生活のごく普通の姿であったから、夏冬通して「帷子」ということ自体にも特別の不審はないのである。
麻の時代と木綿の時代  では、おあむは、どうしてもっとたくさんの衣類をもっていなかったのか。中世の絵巻物類を見ると、子供がはだかで遊んでいる光景が描かれており、実際そういう育て方が行われていたくらいだから、全体に寒さに対しても薄着で過ごしたことは考えられる。 しかし主たる理由は、やはり、多数の衣類をそろえるということが、一般にむつかしいことだったからと考えるのが筋である。
 結論を先にいうと、おあむの少女時代は、日本人の衣料の中心が麻であった時代の最後の段階に当たっていた。ちょうどそのころから木綿が普及し始め、急速に麻にとって代わるのであるが、おあむはまだ麻の帷子で乙女の時代を通したと思われる。 
 衣生活における麻の時代と木綿の時代とでは、以下詳しく考察してゆくが、非常に大きな違いがあった。麻の時代の民衆の衣生活は、原料植物の栽培から紡績・織布にいたるまで、全体として未分化で自給性が強い上、一反の生地を作りあげるまでの手間は非常に多くを必要とした。それにくらべると、木綿の時代は、原料作物栽培、紡績、織布の工程の分化が進み、全体として商品生産の度合いが高まるとともに(この点はのちに詳しく検討する)、 そもそもその生産工程は、麻とくらべるとはるかに効率がよく、手間が少なくてすむものだった。
 そのため、麻の時代から木綿の時代に入ると、日本人の衣生活は一変し、衣服の保有量の点でも一挙に豊かになった。おあむが昔を回顧しつつ、今の若い衆は好みにまかせたくさんの衣類を買っている、というのは、かならずしも贅沢な絹の着物だけを指しているわけではなく、木綿の着物が以前にくらべ容易に手に入るようになったからである。 (「新・木綿以前の事」から)
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<木綿の普及は文化革命>  江戸時代に入ると、文化革命といってよいほどの変化が社会の諸方面に現れた。柳田国男の『木綿以前の事』で取り上げられている木綿の普及もそのいちじるしい例の一つだが、これをパーセントで見れば、江戸時代初期にコットン使用は8パーセントの壁を破ったということができる。 万葉集の時代には、木綿は貴重品のように貴ばれている。そして、人が身に着けるものは麻か絹に限られていた。それが江戸時代に入ると、絹は贅沢品と見なされ、庶民は木綿を着るよう強制されはじめた。柳田は、木綿の綿ゴミが空中に飛び交い、日本の空の色が汚れてきたに違いないと、時代の変化を詩的に描いているが、現代でいえばテレビや自動車・冷蔵庫・洗濯機などの普及によって生じた生活革命に匹敵する変化を、江戸時代初期の人は体験したと考えてよい。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<衣類以外にも大きな変化が起きていた>  人が自分の生活を考える場合、比較するのは他人と、過去のことだろう。江戸時代の庶民が自分の生活を考えて、「周りの人たちとあまり変わりはない。昔よりはずっと良くなった」このように考えたと思う。そのように考えたであろう理由は、木綿の普及による衣料革命であり、その他にも大きな変化があった。こうしたことについて考えてみよう。
生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに  戦国時代以来の大規模な開発に基づく生産力の発展と経済成長は、武士や民衆の生活を飛躍的に向上させた。享保改革期の農政家で幕府の代官を勤めた田中丘隅は、著書『民間省要』において、 「衣食住の哀レさをいはゝ、誠ニ涙もとゝめ難し。ケ様の事も近年そろそろと変し、世とともに食事もよくなれり」 、 かつて貧しかった衣食住が年とともによくなったと述べている。
 衣の分野では、麻から木綿へと衣料の変化が起きた。木綿は丈夫で着心地がよく、保温と吸湿にすぐれていた。しかし、戦国時代以前は、朝鮮や明からの輸入に頼っていたため、いまだ高価であった。戦国時代になり、兵衣・陣幕や鉄砲の火縄などに仕様され、需要が高まると、三河・河内・摂津・伊勢などの各地で木綿栽培が急速に発達し、武士や民衆の間に普及した。
 木綿を用いた衣服として、小袖・帯・羽織・浴衣などが普及したが、これらは斬新な模様や色彩とともに、さまざまな流行を生みだした。
 履き物も、かつて民衆の多くは裸足であったが、江戸時代になると草履・下駄・草鞋などが広く普及した。傘や合羽が普及したのも江戸時代である。
 享保18年(1733)に刊行された『当世風俗通』には、当時流行りの髪型として本多髷があげられている。この本には、髪型以外にも羽織や頭巾をはじめ装飾品も示されている。
 18世紀後半には、女性の髪を結う女髪結も広く見られるようになり、流行の髪型が広まった。このほか、髪の油・鬢付油・笄(こうがい)・挿櫛・お歯黒・黛など、化粧品や装飾品も大いに発達した。
 江戸時代は、衣の分野で武士や民衆の生活に大きな変化が見られ、ファッションの大衆化・多様化とともに、さまざまな流行が見られるようになったのである。
食──1日2食から3食へ──  食も大きく変化した。菜種油やろうそくによる灯火の広がりとともに1日2食から3食へと増えた。武士や公家は米を主食としたが、民衆の多くは雑穀を用いた。 魚の煮物や野菜など1,2菜のおがずも定型化した。おかずは味噌、醤油、砂糖などで味をつけた。南蛮料理から生まれた天麩羅や、中国料理から伝わった卓袱なども普及した。
 初物食いなど、季節を先取りして競って食べる風習も広まった。江戸では、4月ごろに伊豆や相模湾でとれた初鰹を食べることがさかんになった。幕府は貞享3年(1686)に、生シイタケは正月から4月まで、梨は8月から11月まで、蜜柑は9月から3月までなど、商売期間を決めた「初物禁止令」を発布して、ぜいたくや価格の上昇をおさえようとしたが、金さえ出せば人より早く食べられるということから、ブームはなかなか静まらなかった。
 江戸では、貞享4年ごろに上方から鮨が伝わったが、文化・文政期になると、江戸湾でとれるさより・穴子・白魚など、豊富な魚介類を素材に、握り寿司がおこり、江戸前寿司として広まっていった。
 参勤交代し伴う武士や奉公人・出稼ぎ人など、単身の男性が多い江戸では外食産業が発達した江戸前期はお茶漬けのような感嘆なものであったが、18世紀半ばには屋台の食べ物屋や料理茶屋が普及した。
 屋台で人気があったのは、蕎麦屋や天麩羅屋などで、江戸後期から幕末期の風俗を記した喜多川守貞『守貞謾稿』は、江戸の蕎麦屋の多さについて、「今の世、江戸の蕎麦屋およそ毎町一戸あり、不繁昌の地にても四,五町に一戸なり」と述べ、万延元年(1860)には夜鳴き蕎麦屋を除き、3763軒の蕎麦屋があったことを記している。
 他方、京や大坂においては饂飩屋が普及し、「京坂の饂飩屋、繁昌の地にておよそ四,五町に一戸なるべし、所により十余町一戸の当たるもあり」と、その普及ぶりを記している。東西の食文化のちがいが明確化したのも、江戸の後期であった。
 また料理茶屋の料理について、「今の世、三都ともに士民奢侈を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」と、衣服で武士と庶民の差があっても、領地ではほとんど差がないと述べており、身分のちがいを越えて食文化が発達したようすがうかがえる。
近代に連なる生活習慣の確立  以上のように、江戸時代は衣食住の各分野において武士や民衆の生活が大きく変化し、新たな生活習慣が確立した時代であった。そしてこの生活習慣は、明治以降の近代社会へと連なるものであった。
 鎖国体制下で確立した日本型の生活は、その後の西欧化、近代化の過程においても、日本社会の基底で重要な役割を果たしたのである。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」 大石学著「生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに」 から)
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<主な参考文献・引用文献>
木綿以前の事                            柳田国男 岩波書店      1979. 2.16
新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ             永原慶二 中公新書      1990. 3.15 
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12.
板坂元の江戸再発見                          板坂元 読売新聞社     1987. 7.31
( 2005年3月7日 TANAKA1942b )
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(13)金さえあれば、何でも買える風潮
改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策
<マネーゲームは悪なのか?> トレンド・メーカー東福門院から始まった衣装狂い、これが豪商の妻女の伊達くらべへと進化し、江戸の美少女が錦絵のスターになった。この流れを支えたのは、人々が豊かになったということだ。マネー・ゲームでの勝者が豪商になり、その豪商の座を新興商人が狙う。資本主義経済の原型がこの江戸時代初期にはっきりしてきた。 しかし、イギリスでの産業革命初期とは違って、過酷な労働条件での工場労働者は出ていない。それでも豪商たちは「金さえあれば、何でも買える風習」を作っていった。それに対して幕府は幾度も「奢侈禁止令」を出している。幾度も出しているということは、結局効果はなかったということだ。大本営と同じ「贅沢は敵だ」は「贅沢は素敵だ」に変わった。 それでも「贅沢は敵だ」は時代を超えて主張されている。現代でも「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との主張を支持する人がいる。「ライブドアが時間外取引でニッポン放送の株を大量に買った。これは違法ではないが、グレーゾーンだ。そして何よりも<< 金さえあれば、何でも買える風習 >>が良くない」と、解説する人がいる。十分に金があって、今更取り立ててほしいものがない人は金に執着しない。しかし、 「もっと金があれば、もっと欲しい物が買える。もっと金があるといい」と言う人。「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人がいる。この人たちは「贅沢は敵だ」とは考えていない。TANAKAは前者で、堀江貴文は後者です。
 「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人の中から「官に逆らった経営者」が出てきた。
@日銀総裁からは「ペンペン草を生やしてやる」と言われ、世界銀行からの資金融資をもとに大胆な、そしてやや無謀とも言える設備投資をした川鉄の西山弥太郎。
A大切な外貨でトランジスタの特許を買って、「井深さんはトランジスタ補聴器を作るのですか?」と冷やかされた東通工(現ソニー)。 その補聴器はシーメンス(siemens)が作っている。シーメンスに関しては 戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義 ▲で次のように書いた。
 ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。 この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
B通産省事務次官佐橋滋と喧嘩した本田宗一郎、「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」との藤澤武夫の言葉で四輪車参入を決意した本田宗一郎、これまた無謀な決断でもあった。
C日本の流通機構を大きく変えた「宅配便」、そのヤマト運輸は苦し紛れの決断でもあった。従業員に給料を支払うためには「金さえあれば、何でも買える風潮は良くない」などとは言っていられなかった。
<江戸時代の改革とは>
 江戸時代の三大改革とは、「贅沢は敵だ」政策であり、「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする権力者の政策であり、抑えようとしたのは、町人の「贅沢をしたい気持ち」であった。そして「マネーゲーム」や「市場でのメカニズムを生かす仕組み」を否定するものであった。それでも抑えきれなかったのは、町人の市場でもマネーゲームの力の強さだった。 市場の力を発揮させたのは豪商をはじめ町人であり、その町人が力をつけ、武士階級が抑えきれなくなって幕藩体制が崩壊した、と考えられる。この「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との政策実行者は新井白石・将軍吉宗・大岡越前守忠相・松平定信・水野忠邦であり、積極的な経済政策をとったのは荻原重秀・田沼意次・徳川宗春であった。 現代日本で「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする人たちは……、マスコミ報道を注意深く見ていれば分かるでしょう。
 そして多くの評論家は、「どちらに味方した方が今後仕事がしやすいか?」考慮中で、自分の意見をハッキリ言わない。それでも「早い内に現勢力側に見方した方が良い」、と判断した人もいる。
 30歳過ぎて conservative であっても、かつて liberal であったときの熱い heart は失いたくない。
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<淀屋の米市>  「金さえあれば、何でも買える風潮」を正そうとして幕府は豪商を奢侈を理由に処罰した。その例を挙げてみよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。 この淀屋は山崎の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされている。その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。 常安は開発町人の一人で中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、糸割符の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。 淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請け負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に参加する人々の便宜のため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。 この北浜の米市は元禄十年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。
 淀屋は初代常安、二代个庵の時期に日本一の豪商に成長した。それは、諸大名蔵米・蔵物販売や大名貸を行ったことによっている。淀屋の驕奢として知られているのは、四代重当(しげまさ)のこととされるが、その有様を当時の『元正間記』は、
 家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付、金ふすま、(中略)ひいとろの障子を立、天井も同しひいとろにて張詰め、清水をたたへ金魚・銀魚を放し
 と記している。建物は金を張り詰めて金のふすまを立て、夏にはビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張ってその中には金魚・銀魚を泳がせたというのである。 誇張もかなりあると思われるが、いかに豪奢な生活ぐりかがわかる。四代目の重当は経営にはまったく関与しなかったといわれている。そのため、大名からの返済金もしだいに滞るようになり、経営が悪化した。
 淀屋の闕所として知られているのは、宝永二年(1705)、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻太夫を身請けしたが、その二千両という金を工面するため、淀屋の手代が第三者の印判を偽造し、天王寺屋を信用させて金を借りたが、これがもちに発覚し、手代は蓄電したため当主の広当が捕らえられ、 吟味の結果、印判偽造(謀判)は資材であるが、減刑されて闕所・所払いになったというものである。広当は十九歳とも二十二歳とも伝えられている。身請けの金策かどうかは断定できないが、手代が今でいう私文書偽造を行い、偽印を使用したことで処罰されたのである。 普通辰五郎とされるが、辰五郎と名乗ったのは二代言当と四代重当であり、通常辰五郎といわれているのは四代と五代を混同してのことと考えられる。 (「大阪市の歴史」から)
<闕所事件の背景>  四代重当は元禄10(1697)年に没し、その跡を継いだ五代目の三郎右衛門も町人の分際をこえた豪奢な生活をした。この三郎右衛門が、闕所の処分をうけた辰五郎と推定される。
 このさい、幕府に没収された淀屋の莫大な財産は諸書によってまちまちであり、いずれもそのまま信用できる数字ではない。まじめに計算していくと、金10億両とか20億両とかいう、国家予算どころではない、ばかげた金額になってしまう。
 しかし、そうした数字になる大半の要因は、たとえば「大名衆へ貸銀、凡そ1億貫目」などとあるように、大名への貸付高が巨額にのぼっているからである。これによって、その絶対値は信用できなくとも、淀屋の莫大な大名貸活動を推察することは可能であろう。
 要するに元禄〜宝永期(1688〜1711)に、淀屋の諸大名に対する債権があまりにも巨額となり、大名たちは淀屋に対し身動きできぬ状態となった。そこで幕府は諸大名の財政を救うため、倹約令違反という口実のもと、強引に淀屋を処罰したと考えられる。淀屋辰五郎の闕所事件は、表面的にはその驕奢な生活が、幕府の咎めの理由となったが、 その背景には、このような大名財政の窮迫を救うために、淀屋一家が犠牲にされた事件であったと言えよう。 (「大系日本の歴史10」から)
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<婦女の衣服を統制>  幕府の「贅沢は敵だ」政策を扱った文章を幾つか取り上げてみよう。
 天和三(1683)年正月に幕府は「金紗・縫物・惣鹿子は、今後婦女の衣服に用いることを許さない。すべて、新奇の織物・染物を製造してはならぬ。小袖の表、一端の代銀二百目を限ること」と布令した。 また二月になり、「商人にあっては、かりに月俸を給わるものでも、今後帯刀してはならない」という命令も出した。また同月に、「失火の節または旅行のときであっても、商人の帯刀は一切禁じる」命令した。
 それから同じ二月には、「先日命令した商人帯刀衣服検査のため徒(かち)目付を差し出し、違反すうるものは逮捕せよ」と触れた。商人帯刀のことは、前代すでに触があったが、年来の旧習がことごとく定まらないので、このたびまた令を出して、厳しく禁じたのである。 このころ、小舟町一丁目に石川六兵衛という豪商があった。その妻は非常な奢りもので、常に紗、絹、毛織物を着し、晴れがましい所へは、さまざまな金入りを着て出た。天和中、将軍がはじめて東叡山寛永寺へ参詣したとき、かの六兵衛の妻は行列を拝もうと黒門前に桟敷をかけ、黄金の簾をめぐらし、名香をくゆらせ、左右に赤の縮緬の大振袖を着た切禿(かぶろ)の女人を侍らせ、 自分はその中央に座して、将軍通行の歳に簾を巻き上げさせて拝した。これ見た綱吉が、町人に似合わしからぬ奢り方であると、夫婦を遠流(おんる)に処し、その家を潰してしまった。後で夫婦の寝室を見ると、天井を玻璃で張り、金魚を放して寝ながら眺めるようにしてあったという。また、大伝馬町の丸屋という豪商の妻女は、将軍通行の際、家の中で伽羅を焚いたが、この香は世にも稀な名木であることを誇って焚いたのを咎められ、 糾問の結果、日ごろの奢侈が発覚して、同様遠流に処せられた。(徳川太平記)
 このころの幕政の根本理念は、農業至上主義の考えであったから、商人が商するとき、買い取った物に対して三割、四割と値をつけ不当に高利をむさぼり、他人の弱みにつけ込むことは不道徳な行為で、悪であると考えていた。したがって、士・農・工・商という階級制度のなかの最下位におき、富があり、奢る商人をみれば、わずかの口実がありさえすれば取り潰すのであった。 (「物語日本の歴史・第23巻」から)
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<寛文・天和の衣装法度──国産織物の大回転>  こうした幕府の政策について三田村鳶魚はどのように書いているのだろうか?『江戸の生活と風俗』のなかの「寛文・天和の衣装御法度」と題された分を引用しよう。
 近年のような意味で、市民生活に制限を加えたことは、江戸時代にないのでございます。幕府の改革は、いつでも倹約を同道しないのがなく、その倹約は、必ず奢侈を禁じるのが定例でした。それもそのはず、改革はいずれも政治費節減を主要とするものですから、約三百年に、おおきな改革は、寛文・天和・享保・寛政・天保と、前後5回ありました。 その他にも、奢侈抑損はしばしば行われたのですが、五大改革の際には、殊更その取り締まりが緊しい。しかし、七七禁令とは意味合いが違うので、みだりに比較することも出来ませんけれども、ここには、寛文・天和の二大改革の衣装法度を捉えて、その大略の様子を眺めることにいたしましょう。あたかも、寛文ないし天和度は、わが国の織物業の開展し始めた際でもございますので、他の三大改革よりも、そこを考慮すべきところが多いかと存じます。
 寛文三年十月晦日、京都及び江戸の呉服調達店へ命令された制限は
  女院御所、姫君方、うへの御服一おもてに付、白銀五百目(銀六十目を金一両に換算)より高直に仕間敷(つかまじるまじく)候。
  御台様(武家では将軍の夫人のみの称)、上の御服一おもてに付、白銀四百目より高直に仕間敷候。
  御本丸女中(将軍の奥向きに仕えるもの、武家女奉公人の最高頂にあり、故に、諸大名、諸旗本の仕女は、皆これより順次に逓減するはず)、上の小袖一おもて、白銀三百目より高直に仕間敷候。
 これで、公家、武家を通じて、一切の扶助の最高分限者を初めて制限いたしました。江戸時代には、奢侈の解釈が終始一貫しておりまして、分限に相応いたしたのは奢侈だはなく、不相応なのを奢侈ということになっておりました。それゆえ、その品物によってすぐに奢侈と決定いたしません。前記の法令にいたしましても、女院御所・御台所・御本丸女中と申すのが、その分限なのでございますから、その方々にそれが相応でも、大名・旗本の奥方にすれば、不相応になります。 その相応不相応を品物で申すよりも、代価で申す方が、制限いたすのに明確適切だったのでございましょう。
 同十二年四月十三日に、当業者に対して、縮緬・紗綾・綸子・羽二重・晒布を上中下三段にいたし、毎月二日に値段の届け出を命じ、また、真綿・絹・紬をも前記の通り三段にいたし、相場の上がった度ごとに、届け出るように命じました。これで、制限の品柄が知れました上に、、もっぱら売方を抑えたことも知れます。幕府は更に、長崎貿易について、輸入織物の綸子・絖(ぬめ)・縮緬・絖綸子・羽二重・袖・木綿・真綿を、校訂値段で取引させることにいたしました。これで前記の品柄が主として輸入物であったのが知れます。
 天正年中に、シナの職人が堺へ来て、織り方を伝えまして、錦・金襴・繻子・絖綸子・縮緬を生産いたし、堺の織物業が盛んになり、それを京の西陣へ移しましたのは、寛文になってからのことらしゅうございます。西陣俵屋の唐織と申した錦も、それより以前のものでがざいますまい。縮緬も堺伝来なのでございますが、西陣で良品が出来るようになりましたのは、天和年間のことで、紋縮緬・柳条(しま)縮緬を織りだしたと申します。 岐阜・長浜・峰山は、縮緬の産地として名高うございますが、その業を西陣から伝来したのですから、それも後年のことです。天鵞絨(ビロード)は、慶長中に、西陣へ阿蘭陀(オランダ)の法を伝えて産出したと申します。綾は、天正年間から、西陣で織り出していたと聞きましたが、紋紗綾・綾唐織・加女(かめ)綾・八反掛柳条綾は、天和度からの産出で、皆シナ様式を学んで、巧妙に転化したのに過ぎません。
 寛文五年(家継将軍の時)に、一端の長さを二丈六尺と定められましたが、その時は、国産の好い絹織物がだんだん出回った機会なので、京と堺とで織ったのを羽二重といい、美濃・加賀・丹後の産を撰糸と言ったそうでございます。品物は違いませんが、名称は別でありました。本場と場違いという心持ちででもございましょうか。その際、京産の紋羽二重・綾羽二重は大いに賞賛されたものだそうでございます。同時に、筑前・上野・下野・越前・越中・但馬等で、盛んに絹を織り出しまして、諸国へ売り出しました。 かく寛文度には国産の絹織物に精品も出来、種類も増加し、国々にも織物業が起こった様子でございます。しかし、まだまだ外国品が来なければならなかったとみえます。
 転じて民間の方を眺めてみますと、代価でなく、品目で制限してございます。寛文八年三月に、庄屋は、絹・紬・布・木綿・脇百姓は、布・木綿に限る。ただし、紫及び紅梅の染色は相成らぬ、と申すので、これは、既に寛永三年、同二十年にも同様な規定がございます。慶安元年二月には、町人の召仕は絹布(平ぎぬ以上)は相成らぬ、絹または紬に限る、また、町人は羅紗のカッパを着用してはならぬ、と見えます。これで町人に外国織物を需要するもののあったが知れます。 武家の奉公人にも、寛永八年十一月に、歩侍(かちざむらい)は、練羽二重より上の衣類を着用してはならぬ。同十二年十二月には、歩・若党の衣類は、紗綾・縮緬・平島・羽二重・絹・紬・布・木綿のまかを停止す、弓・鉄砲の者は、絹・紬・布・木綿、小者・中間は、すべて木綿に限る、と定めました。弓・鉄砲の者と申すのは、麻布・細よみなどを言うのでございます。 これだけは、寛文以前に決まっておりましたから、寛文改革には、主として最高分限にある御女性に対する制限が、先頭に立つように、あったのでございます。その時の睨みは、輸出品もしくは国産でも最優良品で、その需用者はどこにあったかも知れます。
 さて、この取り締まりにつきまして、寛文八年十一月十日、御老中方申合書付に、
   婦人衣類等の儀、同列申合の書付
  縫入り候間着、持合の品にても、以来着いたす間敷事、
   但、かいどり下は勿論、帯付の節も同様の事
  衣服あつらへ候とも、先達て仰出され候直段の上に出ざる様に申付、勿論の事。
 とあるのが目をひきます。かかる取締りには、警察力が加わらなければなりませんが、従来は、町与力・町同心がだんだん動いておりますけれども、寛文度には、御徒目付(おかちめつけ)が巡回して、御法度の衣類着用の者があれば、一々主人の名前を書き留めることになっているから、家来どもの着衣のみだりにまらぬようにせよ、という達しがございます。 民間よりも武家階級を取り締まる方が主要であったのかと存じます。それも、寛永八年には、御法度の衣類を着用した者があれば剥ぎ取れ、と命じたのに、寛文度は取締りもだいぶ穏当だったらしゅうございます。 (「江戸の生活と風俗」寛文・天和の衣装御法度 から)
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<婦女の衣服を統制─「徳川実紀」から>  江戸時代の公式文書であった「徳川実紀」から、こうした問題についての部分を引用しよう。
寛永十九年  廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
延享元年  三日令せらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。旦また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁さらる。 違犯するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ 廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
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<ようく考えてみよう。お金は大事だよう>  資本主義社会での企業活動は「マネーゲーム」であり、企業活動とは「利益追求活動」に他ならない。 江戸時代商人の考えた経済社会は市場経済であったが、幕臣はその経済システムを理解していなかった。幕藩体制維持だけを考えていて、そのために経済システムまでは考えが及ばなかった。 たとえば「大坂堂島米会所」、享保15(1730)年に幕府は公認するのだが、そこでの価格が市場のメカニズムによって決まる、ということが分かっていなかった。このため将軍吉宗は米会所に対して、米価格を高く維持するよう指示している。
 「先に豊かになれる者から豊かになる」は経済の常識であり、人々が豊かに成る速度が速ければ早いほど所得格差は広がる。平等を望むなら経済成長を遅らす必要がある。 ところでライブドア堀江社長のニッポン放送株取得問題、マスコミは興味本位で扱っている。テレビとはそういうもので、「公共性」は単なる建前で、視聴率をとるためには興味本位で扱うこともしばしばある。それにしてもテレビ東京のWBSでさえ、興味本位で扱っていた。 「落とし所は何処ですか?」との質問は、自民党と野党との国会運営委員会での駆け引きに対する質問だ。また「日本人の感覚に合う」とか「合わない」とかは、評論家同士でも会話でしかない。 マネーゲームのプレーヤーは自己の利益追求に専念すればいい。アダム・スミスの表現を借りればこのようになる。
 かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べ、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したという話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得して、それをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。 (「国富論」第4編 第2章「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」から)
 好奇心と遊び心があれば「ネットとラジオ、テレビが結びついたら、どんなメディアが出来るだろう?可能性がイッパイありそうだ。堀江社長はどんな夢を持っているのだろう?」このように質問すると思うけれど、あの場にいた人たちには好奇心も遊び心もなかった。そしてアダム・スミスも単なる歴史上の人物でしかなかったのだろう。 日経新聞の影響下にあるテレビ東京でさえ得意であるはずの経済問題を興味本位で扱っている。経済学の香りなどこれっぽっちもしない下世話な週刊紙的扱いしか出来なくなっている。この分野にも新規参入の緊張感が必要だ。
 ビル・ゲイツでさえ「市場経済は弱肉強食の社会だ」その通り。産業界では、今トップにいる企業も「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」という恐怖心をもっている。 (「ビル・ゲイツの面接試験」から)
 マスコミ関係者がこのような緊張感で仕事するように、新規参入の危機感を与えなくてはならない。そうでなければ社員までが反対声明を出す企業になってしまう。反対意見の出ない自家不和合性に陥った組織になってしまう。江戸時代のことを考えながらも、現代の問題が頭から離れない。
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<主な参考文献・引用文献>
大阪市の歴史                         大阪市史編纂所 岩波書店      1999. 4.20
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館       1993. 4.20
物語日本の歴史・第23巻 ─騒動に明け暮れる江戸の権力─      笠原一男編 木耳社       1992.11.10
江戸の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23          三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国富論 アダム・スミス                     大河内一男訳 中公文庫      1978. 4.10
ビル・ゲイツの面接試験       ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社       2003. 7.15 
( 2005年3月14日 TANAKA1942b )
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(14)リーガル・パターナリズム
小さな政府の大きなお世話
<幕府の衣装お節介─『徳川実紀』から> 今週のタイトルは「リーガル・パターナリズム(legal Paternalism =温情主義・お節介主義) 小さな政府の大きなお世話」。金さえあれば、何でも買える風潮に対して、「贅沢は敵だ」政策をとった江戸幕府。現代でもこの「贅沢は敵だ政策」と同じ考えの政治家・財界人がいる。 ライブドア堀江貴文社長のニッポン放送株取得問題も「贅沢は敵だ」主義の権力者と、そうした既得権者がいるのを知りつつも金で買える物は買うことにしようとする新規参入者との争い、と捉えると分かりやすい。 そうした「贅沢は敵だ」政策を江戸時代の公式文書であった『徳川実紀』から、関係する記事を抜き出してみた。
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寛永十九年五月  廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
寛永二十年二月  十八日万石以下の侍を営中に召して、老臣仰をつたふるは。先年より諸士奢侈を禁ぜらるゝところ。近年また奢を競ふきこえあれば。いよいよ慎み(てトア)。先令を守り。をのをの質素をむねとすべし。この後奢侈のふるまひするものあらば。采邑を牧公せられ。其上厳刑に処せらえうべしとなり。(紀伊記) (「徳川実紀」寛永二十年(1643)二月 から)
慶安元年二月  この月令せられしは。市井泥濘の道路は。浅草砂に海砂まじへ。道途高低なく中高に築くべし。芥ならびに泥もて街道を築くべからず。下水の樋井に路傍の溝渠壅埋せざるやう塵芥を除くべし。もしそむくものは曲事たるべしとなり。 また市井めし仕ひ絹布着する事。前にゆるされしことあれば。このゝち絹袖のみを用ゆべし。市人はいふまでもなく。店かり。借屋の者までもこの旨厳に守るべし。刀脇差美麗に造るべからず。羅紗の雨衣着すまじとなり。(大成令) (「徳川実紀」慶安元年(1648)二月 から)
寛文八年二月  廿八日。此日令せらるゝは。各国村里の醸酒。累年の半額たるべき旨令せらる。よて減額を注記し。勘定所に出すべし。領内の寺社領たとへ御朱印賜はり。税額のそとたりとも。醸酒の額は各地領主。代官よりかき出すべし。 本田圃に煙草培栽いよいよ停禁せらる。厳に曉告すべしとなり。」又大目付。目付より伝ふるは。侍。若党衣服。紗綾。縮緬。綸子。あま島を停むべし。元よりたくはへし羽二重は苦しからず。毛羽織あるは雨衣用ふべからず。直参のともすがら麁品を用ふべし。老臣の家士はすでに絹布のみ着せしめ。毛織はかたくとゞむれば。各其心すべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年二月  廿九日。目付して達せらるゝは。歩行。若党。紗綾。縮緬。毛布のたぐひ。是まで貯へたりとも着すべからず。羽織は貯へしまゝに着ふるし。重て裁縫の時。絹。紬より上品を用べからずとなり。(日記、大成令、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年三月  三日。この日目付のともがらより伝ふるは。こたび火災により節約の令を下され。麾下の士等衣服。絹。紬を着するも苦しからずとの盛慮なれば。老臣もこれをはゞかり。家士等此のち紗綾。縮緬。毛布のたぐひ着する事を禁じ。羽二重。ひら縞は着ふるすまゝにして。かさねてつくる時は。絹。紬の外は禁ずれば。各家人等にも曉告し。思ひ違ふ事なく。元より貯ふる衣服はひそかに着し。この後つくらしむげからずとなり。」 (日記、御側日記、令條記、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月  七日。大目付より伝ふるは。このたびの火災により。いよいよ倹素をかたく守り。卑賤艱困せざらんやう曉告すべし。麾下の士ことに疲弊に及べるをもて。当時当直は絹。紬。木綿袴を着すべき旨令せらる。 直参のともがらすらかうやうに麁服を着すれば。藩士はことに麁悪を用ひ。綸子。紗綾。縮緬等。其他美麗をはゞかるべし。其品により。制を定めては令せられ難し。直参のともがら麁服を着すれば。それに准じ。末々のともがら其ほどほどに麁簿を用ゆべし。 又藩士には城持しもあるにより。藩士は何品と概して令し難し。熨斗目は名代の使。あるは賀使の時のみ着せしめ。其時宜に遣ひてとひはからふべし。熨斗目もて上下のうらとするは。元より用ひはらひし事なれば苦しからず。平亀綾。羽二重の小袖。羽織。貯へしは着すべし。こは絹。紬にまがへるもあれば。 新たに制するは絹。紬を用ゆべし。在府の時贈答の書簡又は口伸には。歩行使たるべし。かく毎事簡易に令せられるうへは。月次の朝會延引の時も。其事触らるまじ。主人の賜物といへども。紗綾。縮緬。綸子。其他美麗の衣服憚るべし。従者の衣服美麗に見え。憚らざるに似てしかるべからず。 老臣の家士近頃絹。木綿を着せしむれば。いかにも麁品を用ゆべし。毛布のたぐひ。かたく着すべからずとなり。(大成令、日記) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月  八日。此日長崎奉行に論告せらゝは。真綿。くり綿。絹。紬。木綿織物。麻布。染物。蝋燭。銅。漆。油。酒。今年より異域にをくるべからず。但油。酒は船中の常用に備ふるはくるしからず。 薬品の外植物。生類。諸器材。金絲。薬剤とならざる唐産類。珊瑚樹。たんから。丹土。蘭産器物。唐草。ひょんかつ。衣服の用に充らざる美麗の布帛等。かたく舶来せしむべからず。羅紗。羅脊板。猩々緋の三種はゆるさるべし。その他の毛布は禁ずべしとなり。(年録、大成令) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年五月  四日、此日猿楽等。鼓吹手。狂言師まで刀帯る事禁ぜらる。よて條制を下さる。旅行の時も鎗もたすべからず。をのをの其技をもはらとし。につかわしからぬ他技をなすべからず。 衣服は絹。紬を着すべし。猿楽催さるゝ時は。大夫の宅に集まり試業すべし。すべて若党めし具すべからずとなり。役者惣員三百七十人。此旨堅く守るべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)五月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ  廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
天和三年二月  三日長崎奉行に仰下されしは。羅紗。猩々緋。其外毛織の類。并に金糸。其外衣服に用ふべからざる織物・珍禽。奇獣及び薬品にあらざる植物。木材。はた器財。翫具の類。来泊するとも買上ぐべからず。此よし唐蘭の商人にも曉論すべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月  五日市井に令せらるゝは 金紗。繍物。惣鹿子。今より後婦女の衣服に用ふる事許さず。すべて新奇の染物を停止すべし。小袖の表一端価銀二百目限りたるべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月  十九日。進献の時服に。伊達染。紋縞。純子。繻珍を禁ぜられる。向後は男子の着用すべき服を献ずべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年六月  十四日。けふ令せられしは。明日山王の祭礼。ねりものゝ品々。ならびに人形の衣装。あるは其事にあづかりしもの迄も。制限の外華飾すべからず。見にまかる者も。是におなじかるべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)六月 から)
貞享元年六月  この月令せられしは。市井にて屋形船みだりにつくるべからず。今よりのち新に造らんとおもふものは。あらかじめ町年寄へまうして指揮うくべし。もし申いでずして作るものあらば。過失たるべしとなり。(大成令) (「徳川実紀」貞享元年(1684)六月 から)
延享元年十月  三日令さらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。且また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁せらる。 違反するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
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<生類あわれみの令>  江戸時代、幕府のお節介と言えば「生類あわれみの令」が思い浮かぶ。
  【解読文】   覚
一兼而被 仰出候通 生類あハれミの志、弥
 専要に可仕候、今度被 仰出候意趣ハ
 猪鹿あれ田畑を損さし、狼者人馬
 犬等をもそんさし候故、あれ候時計
 鉄砲にてうたせ候様ニ被 仰出候 然處ニ
 万一存たかひ生類あハれミの(「心」脱)わすれ、
 むさと打候者有之候ハヽ急度曲
 事に可申付事 (以下略)
 読むのに疲れるので、読み下し文を引用しよう。
  【読み下し文】  覚
一、兼て仰せ出され候通り、生類あわれみの志、いよいよ専要に仕るべき候、 今度仰せ出され候意趣は、猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、狼は人馬犬等をも損ぜさし候故、あれ候時ばかり、鉄砲にて打たせ候よう仰せ出され候 然る処に、万一、存じ違い、生類あわれみの(心)忘れ、むざと打ち候者これ有り候わば、きっと曲事に申し付くべき事。
一、御領・私領にて猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、或いは狼あれ、人馬等損ぜさし候節は、前々の通り、随分追いちらし、それにても止み申さず候わば、御領にては御代官、手代、役人、私領にては地頭より役人ならびに目付を申し付け、小給所にては、その頭々へ相断り役人を申し付け、右の者共にきっと誓詞致させ、 猪鹿狼あれ候時ばかり日切を定め、鉄砲にて打たせ、そのわけ帳面にこれを駐し置き、その支配支配へきっと申し達すべく候、猪鹿狼あれ申さず候節、まぎらわしく殺生仕らず候ように堅く申し付くべく候。若し相背く者これあらば、早速、申し出で候様に、その所々の百姓等に申し付け、みだりがましさ儀候わば、訴人に罷り出で候様に兼々申し付け置くべく候。 自然隠し置き、脇より相知れ候わば、当人は申さず(申すに及ばず)、その所の御代官・地頭、越度たるべき事。
右の通り堅く相守り申すべき者也
    巳の六月日

是は御付紙の御文言
猪鹿狼打ち候わば、その所に慥かに埋め置き、一切商売、食物に仕らざるべく候、右は猟師の外の事に候
右御書付の通り、きっと相守り申すべき者也
    元禄二巳年七月日
(「独習江戸時代の古文書」から)
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<生類憐れみ令>  同じような令が幾度も出されているので、別な文章を引用しよう。
   【読み下し文】  覚
一、そうじて馬に荷付け候儀、その馬の様子により荷物の分量を考え、馬難儀致さざるように軽く付け申すべく候。並びに道中荷付馬定めの貫目いよいよ相違なきよう念を入れ、重荷付け申すまじき事。
一、病馬並びに痛みこれ有る馬、随分いたわり、左様の馬は使い申すまじく候こと。
  但し、右の類の馬育みかね候者は、最前も相触れ候通り訴え出るべく候こ事。
  右の趣堅く相守るべく候。もし違背の族これ有るに於いては曲事たるべきものなり。
    午五月 日
  右の書付、小奉書堅紙、四百六十通(これを)調(ととの)える。
一、一万石以上並びに大寄合は、但馬守宅へ家来呼び(これを)渡す。
  但し、建部内匠頭は御役人にて候えども万石、榊原越中守は大寄合ゆえ、これまた但馬守宅にて相渡る。尤も奏者番・寺社奉行・喜連川左衛門・那須衆・美濃衆・信濃衆、ならびに中島与五郎・松平太郎左衛門nへも但馬宅にて渡る。
一、甲府殿・御三家城付へ但馬守より四通、御同朋頭をもって(これを)渡す。(中略)
  五月十一日に(これを)遣わす。
   京都・大坂・長崎・伏見・奈良・駿府・日光。
    このほかへは(これを)遣わされず。
      覚
諸人仁愛の心これ有るようにと常々思い召され候ゆえ、生類憐みの儀たびたび仰せ出され候ところ、今度橋本権之助、犬を損じさし不届きに思い召され候。これに依り死罪仰せ付けられ候。いよいよ人々仁愛の心に罷り成り候ように大身小身ともに相成り、末々まで急度(きっと)申し合わすべきものなり。
  午十月 日
右小奉書堅紙、四百五・六十通ほど表御右筆(これを)調える。但し余慶とも。
  午十月十五日書付渡る覚
高家・奏者番・寺社奉行・御留守居・大御番頭・大目付・町奉行・御勘定奉行
 大目付より相触れる分
  御旗奉行・御鑓奉行・御作事奉行・御普請奉行・遠国奉行・遠国役人・御留守居番
 右は書付十五通、大目付へ相模守(これを)渡す。
一、奥向きへ三十通。
一、美濃守・右京大夫一通ずつ。
一、呂宇宙・若年寄中一通ずつ。
(以下略)
(「江戸時代の古文書を読む」から)
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<小さな政府─経済紛争は株仲間任せ>  徳川幕府は小さな政府であり、警察官に相当する目明かしは民間人であった。日本では2006年6月までに 違法駐車取締事務が民間に委託されることになり、こうした点ではあたかも、江戸時代のような小さな政府を目指しているかのようにみえる。
 江戸時代金銭トラブルは当事者同士で解決するように、というのが幕府の方針だった。では実際どうだったのか、というと、業界団体が商業上のトラブルを解決する機関になっていた。 幕府は「事業をするなら、業界団体に入りなさい。そうでなければ事業することを許さない」として業界団体である「株仲間」を公認していた。株仲間では代金不払いなどの業者を仲間はずれにして、実質的に商売できなくしていた。 問屋仲間の誰かが代金不払いを起こすと、その業者の名前を文書にして株仲間全員に周知させ、取引を停止させ、実質的に商売できなくした。『江戸の市場経済』では次のように表現している。
 株仲間は、仲間の一人に代金不払いその他のさまざまな不正を働いた取引相手に対して、一致して取引を停止するという多角的懲罰戦略を採った。こうした株仲間の行動様式が、公権力による所有権と契約履行の保証に限界がある状況下で、 商取引の拡大を可能にしたと考えられる。(「江戸の市場経済」から)
これに関しては岡崎哲二「江戸の市場経済」▲>  <株仲間という江戸産業人の知恵▲を参照のこと。
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<大きなお世話─自己責任社会から過保護社会へ>  ここでは衣服のことと<生類憐れみの令>を取り上げたのだが、『徳川実紀』を読むとこの他、「火の用心」「不審者に注意」など、町人生活に細かいことに触れているし、大岡越前守忠相は江戸の諸物価について事細かに指導している。 現代ではどうかと言うと、「自己責任」という言葉に嫌悪感を持つ人がいて、「政府の責任」との表現で市民生活に行政の規制が多くなっている。一方で「規制緩和」のかけ声があって、一方で既得権者が規制を守り、その範囲を広げようとする。 そうした傾向を「市場の暴力から市民生活を守る」との趣旨で賛成し、国民の保護者としての政府を目指す思考傾向がある。こうした傾向を「母子家庭国家・日本」「老化する日本」「未熟児国家」「アダルト・チルドレン」などと表現する人もいる。 現在ヨーロッパでは「社会民主主義」という左翼政党が多くの支持を集めているが、日本で左翼は人気がない。日本では右翼・左翼との分け方よりも、「保護主義」か「自己責任」かの分け方の方が的確かも知れない。そしてイデオロギーとしての左翼は人気ないが、 市民生活を事細かく干渉・保護するリベラリズム、リーガル・パターナリズムは公の場で訴えやすく、支持されると考えられている。
 リーガル・パターナリズムに対して自己責任を大切にする考えがある。TANAKAは今まで幾度も取り上げてきたので、そちらを参照してください。 自然界に「福祉主義」はない▲ > <人間幼稚化の構造▲ >  「自助努力」と「過剰補償能力」▲
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<主な参考文献・引用文献>
独習江戸時代の古文書                         北原進 雄山閣       2002. 8.20
江戸時代の古文書を読む 元禄時代            徳川林政史研究所監修 東京堂出版     2002. 6.25 
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
江戸の市場経済                           岡崎哲二 講談社       1999. 4.10
近世日本の市場経済─ 大坂米市場分析                 宮本又郎 有斐閣       1988. 6.30 
株仲間の研究                            宮本又次 有斐閣       1958. 3. 5 
経済倫理学のすすめ                         竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
父性なき国家・日本の活路                      竹内靖雄 PHP研究所    1980. 2.27
「日本」の終わり 「日本型社会主義」との決別            竹内靖雄 日本経済新聞社   1998. 5. 6
国家と神の資本主義                         竹内靖雄 講談社       1995. 1.27
得する生き方 損する生き方                     竹内靖雄 東洋経済新報社   2001. 4.26
市場の経済思想                           竹内靖雄 創文社       1991. 6.30
マン・チャイルド 人間幼稚化の構造  D.ジョナス、D.クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社    1984. 7.10
サバイバル・ストラテジー          ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社       1983. 4.20
( 2005年3月21日 TANAKA1942b )
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(15)絹輸入のため金銀が流出
新井白石『折りたく柴の記』での心配
<金銀の海外流出> 「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を発展させた」というのがTANAKAのこのシリーズのテーマだ。東福門院和子から始まった「衣装狂い」が広く民間にまで普及し、その結果絹の輸入が増加し、そのために日本の金・銀が海外に流出することになった。今週はその流出に関することを扱い、さらに視野狭窄にならないよう、この時代を取り巻く問題にも目を向けてみよう。まずは『江戸時代』から引用し、この時代を俯瞰してみよう。
『江戸時代』から
 戦国末期から江戸時代初頭にかけては、わが国は世界でも有数な貴金属の産出国であったことはT章で記したとおりだが、その結果得られたわが国保有金銀は、このようにして生糸、絹織物輸入の代価品として、どんどん国外に流出していったのである。 もしこの金銀産出がそのまま続けば問題はなかったのだが、ほぼ寛永の末年(1643)ころ底をつくので、後は保有金銀の消耗によって生糸は購入されていたことになる。貞享元年輸入額を制限したうえで糸割符制を復活したことは先に触れたが、この段階になると保有金銀の底がみえはじめ、もはや輸入額を制限する以外に方法がなくなっていたのである。
 このようにしてさしものわが国の保有金銀も衣装代として国外に流出してしまうのだが、その額を新井白石はその著『折りたく柴の記』のなかで、正確には知り難いが、慶安元年(1648)から宝永五年(1708)までの60年間に金239万7600両余、銀37万4229貫目余であると計算し、さらにその前の慶長6年(1601)から正保4年(1647)までの46年間にはその2倍あったと推定している。 これでゆくと慶長6年から宝永5年までの108年間の流出したわが国の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それはわが国の慶長以降の総産出金銀の、金はその4分の1、銀はその4分の3にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分にもなってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまうと心配している。
 このような認識から金銀は人間にとって骨のようなものであり、農作物等の生産物は(もちろん生糸、絹も)人間の毛や髪のようなものである。したがっていくら切ってもあとから生えてくるこの(毛・髪=食料・生糸等)を買うために、一度なくなったら再生のきかぬもの(骨=金銀等)を使うのは愚の骨頂である。 すべからく輸入を制限してそれは薬種と書籍のみにすべきである(白石建議)、という新井白石の貴金属重視のうえに立った貿易管理論がうまれ、それがやがて田沼時代の本多利明などによる重商主義的貿易立国論へと展開していくのである。(中略)
 これでわかるように、元禄〜享保期には大量海外流出は重農主義者、重商主義者をとわずわが国識者の憂えとなっていたのである。ところでその原因はたとえば大飢饉による食糧の緊急輸入とかいったものではなく、ひとえに女性を美しく着飾るための輸入だったのである。
 さて新井白石はそのために江戸時代初頭から108年のあいだに海外に消えた金銀は金719万2800両と銀112万2687貫であると計算しているのだが、(この他銅が大量に出ているが便宜上省略)、いま銀50匁を金1両、金1両をいまの通貨5万円として試算してみると、総額で1兆4823億2700万円ということになる。 これを1年に平均してみると日本人は毎年主として衣装(生糸)代として137億2千万円余の金銀を海外に支払った計算となる(ちなみに当時の幕府1年間の年貢収入は同様手法で計算すると約6〜700億円ということになる)。
 もちろん大変おおざっぱな計算であるが、世界最美の和服文化も、また尾形光琳の芸術も大変高価は支払のうえに開花しているのである。
 なお最後に一言つけ加えておくと、前述したように支払手段(金銀)不足のため生糸の輸入は段々と困難になるが、それと歩調を合わせて、その国産化がおしすすめられていった。 その努力は領主財政の立て直しなどどからめていっそう促進され、約150年たった安政6年(1859)の第二次開国段階には、すでにわが国は世界有数の産糸国家に成長していたことは周知のところである。近世初頭にはわが国の保有金銀を食い尽くした生糸が、こんどは明治・大正・昭和の三代にわたってわが国経済を支える輸出資源に転化していたのである。 (「江戸時代」から)
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<『折りたく柴の記』による金銀の海外流出> 江戸時代絹輸入に伴う金・銀の流出に関しては、この新井白石の『折りたく柴の記』をもとに話を進めることになる。『折りたく柴の記』には荻原重秀批判が多く記載されているが、ここではその話題は扱わないことにして、金・銀流出に関する文章を引用しよう。
長崎貿易銅のこと  御代を継がれたはじめの年から、長崎港で外国貿易に使う銅貨が不足して、貿易が行われにくく、庶民たちが産業を失うという報告が奉行所からあって、私に御下問があった。 「簡単に議論すべきこととは思われません。そのことの本質をじゅうぶん考えたうえで申し上げましょう」とお答えした。それからあとで差し上げた草案は、別に本としたもの(『市船議』『市船新例』など)が多いから、詳細なことはここに書かない。その大要は次のとおりである。
「御当家が天下を支配されて、海外貿易が始まって以来、およそ百余年のあいだ、わが国の貨幣が海外に流れ出して、すでに大半はなくなった〔金は4分の1、銀は4分3を失った。しかし、これも、公式に示されたところから推量して言うのである。そのほか、推量できないことは、まお大きな数量にのぼるであろう〕。
 今後百年以内にわが国の財貨がつきはてることは、知者ではなくても明らかなことです。たとえ年々諸国に産出するものがあるといっても、これを人体にたとえてみれば五金(金・銀・銅・鉄・錫)のたぐいは、骨が二度と生じないのに似ている。五穀についてすら、なお肥えた土地と痩せた土地があり、豊作と凶作がある。 まして五金については、産地が多くなく、しかも採掘しようとしてもいつでも得られるものではない。
 わが国の有用の財をもって外国の無用の財にかえることは、わが国にとって永久の良薬とはいえない。むかしから、わが国はまだ外国の助けを借りたことがない。だから、こんにちも、薬以外で外国に求めなければならないものはない。貿易船がむかしのように来なくなったしても、こちらからの必要とするものを手に入れる方法はないわけではない。 もしやむをえないことがあったならば、古代の聖人の制度に『歳入の額を見きわめて支出を定める』(『礼記』王制篇)ということもあるから、わが国の財貨で現在流通しているもの、および毎年諸国から産出するものを見当したうえで、中国および西や南の海外の国々、朝鮮・琉球などに渡すべき年額を定められるべきである。 たとえ、わが国内で売買する物価が倍にあがったにしても、わが国永久の財貨を出しつくして外国に渡すよりは、その憂いは少ないように思われます」などと詳しく意見を申しあげた。 (「折りたく柴の記」から)
長崎貿易の新令  御先代のとき、長崎奉行所に命じて、長崎で、貿易のために費やされたところの金・銀・銅の数をお尋ねになったとき、「慶長6年から正保4年までの計46年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永5年にいたる計60年間に、海外に流出した金は239万7600両あまり、銀は37万4229貫あまりである。銅については、寛文2年以前の61年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永4年にいたるまでの計44年間に、11億1449万8700斤あまりに達した」と答えた。これは慶安元年以後、奉行所でわかっただけの分である。それ以前には、長崎だけのことではなく、前にも書いたように、外国船はわが国のここかしこに来て商い、わが国の船も、外国のここかしこに行って商売をした。 このほか対馬から朝鮮に入ったもの、薩摩から琉球に入ったものなどは、すべてその数量をはかることができない。
 しかし、試みに、長崎奉行所から書き記して差し出したところを基礎として、慶長以来の計107年間に外国に、流出した金銀のおよその数を算定し、また慶長以来、国内で鋳造された金貨・銀貨のおよその数と比較してみると、金は4分の1が失われ、銀は4分の3が失われたことになる。 だから、今後、金は百年たてばその半分がなくなり、銀は百年以内に、わが国で使用すべきものはなくなってしまう。銅は、すでにいま海外貿易の材料に足りないだけでなく、わが国の1年間の使用量にも足りないのである。わが国に産出する永久の宝ともいうべきものをむだ使いして、外国から来る、ただ一ときの珍しいもてあそびものと交換し、 そうした取引きのためにわが国威を落とすようなことは、適当とは思われない。もし薬品や書籍などを求めるためにやむをえない場合は、現在わが国に流用している数量と、毎年、日本の諸国に産出する数量とを計算して、長崎および対馬・薩摩などから外国に流出すべきものの年額を定めるべきである。 すべてこうしたこともしないで、ただ長崎で、毎年貿易に使用する金・銀・銅の額だけ決められたのは、納得のいかぬことである。
 しかし、たとえ今後これらの額を決められるにしても、いままでのように、1年間に来る船数も、船ごとに載せる物資の数量をも決められないと、密貿易のやまないことは、いままでどおりであろう。だから、まず、毎年わが国に産出する金・銀・銅と、外国に流出する概数を比較して長崎で貿易のために使用すべき年額を決め、次に外国船に載せてくる ところの物資の量を計り、その船数およびその積んでくるものの数まで決めて、積んできたかぎりのものはすべて買い取るようにしたならば、いままでのように密貿易のためにわが国の宝を失うこともなくなり、外国人どもがわが国の法を無視すつということもなくなって、国威は万里の外にまでおよび、わが国の財宝は、万世ののちまで足りるようになるであろう。 (「折りたく柴の記」から)
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<糸割符制度のはじまり>  中世にあっては、中国で生産された高級絹織物が輸入され、その輸入絹織物にたいする需要は公家・社寺の荘園領主主層から御家人層にいたるまで大きかった。 ところが、中国の優れた絹織技術も同時にもたらされ、こうした動きに刺激されて、国内の絹織技術の水準が向上した。京都では、伝統的な絹織技術者であった大舎人座(おおとねりざ)の職人たちが、応仁の乱後、西軍の陣営となっていた地に住んで機織を行い、西陣織として名を知られるようになる。
 また、堺や博多は日明貿易の基地であった関係から、明の技術の影響を受けて絹織物生産が発達し、絹織物業はしだいに地方の都市や農村にまでおよんだ。いっぽう、明では蚕糸業がさかんに行われ、湖糸(こし)と呼ばれる江南産生糸の生産も急増した。 そして、わが国では、完成品である高級絹織物を輸入していた時期から、原料である中国産生糸を輸入する時期へと移行する。
 こうした中国産生糸をもたらしていた日明勘合貿易も天文16年(1547)で終了する。それと前後して、いわゆる後期倭寇が活発な動きをみせるが、それも明政府によって鎮圧される。ここに日本と中国とのあいだに一種の空白状態があらわれ、そこを往復する船は数少ないものとなった。
 このころ16世紀なかばにポルトガルは、マカオに拠点を築き、マカオと日本貿易の一体化をねらった日本貿易カピタン・モール制という制度を設け、一時期空白状態となった日中間に仲介貿易という形式で登場した。 このカピタン・モール制は、ポルトガル国王が日本貿易を王室直営ろし、任命された司令官は日本貿易の全県を掌握するとともに、マカオ滞在中は同市の行政・司法上の最高の地位を占める、といった制度である。やがてポルトガル船は日本に中国産生糸をもたらすようになり、その輸入生糸取引きに関して徳川幕府が糸割符制度を創設する。
 糸割符制度の創設期の状況は、その制度下で輸入生糸取引きに関与した糸割符商人が後世に書き上げた由緒書類によってうかがい知ることができる。それらによると、糸割符制度は、江戸開府の翌年にあたる慶長9年(1904)5月3日、伏見城で、家康の面前で糸割符奉書と呼ばれるものが下布されて始まったと記されている。 そのさい、糸割符制適用範囲の輸入生糸(当初は白糸のみ)は、堺・京都・長崎で、120/100/100の割合で配分されたという。この堺・京都・長崎を三ヶ所(のちに江戸・大坂を加えて五ヶ所となる)と称した。幕府は三ヶ所(五ヶ所)で糸割符仲間を組織させ、その代表を糸割符年寄と言った。
 糸割符制度のはじまりを示す、幕府から下付された糸割符奉書は、原文書と称されるものが天理大学付属天理図書館に所蔵されているので、それを読み下し文にして次に掲げれることにしよう。
 〔糸割符奉書〕
 黒船着岸の時、定め置くく年寄共糸のねいたさざる以前に、諸商人長崎へ入るべからず候。いとのね相定め候うえは、万望み次第商売致すべきものなり。
 慶長九年五月三日           本多上野介(花押)
                    板倉伊賀守(花押)
                  (天理図書館所蔵文書)   
(「古文書の語る日本史」から)
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<「鎖国」とは……>  元禄時代に、ドイツ人ケンプェルがオランダ東インド会社に雇われ、長崎出島に医師として滞在したことがある。彼は歴史に強い関心を持っており、後に『日本誌』を著しているが、この書が長崎に渡来し、その一部分を長崎の阿蘭陀通詞志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)が翻訳した。 このときに「鎖国」という言葉が用いられており、これが文献上に現れた「鎖国」という言葉の初見であるといわれる。時に享和元年(1801)のことである。
 「鎖国」という言葉を文字通りに解釈すれば、「国を鎖す」という意味で、外国との関係を遮断して国際的に孤立するということを意味している。しかし、江戸時代の初期に幕府の大概政策によって成立した「鎖国」状態は、このような厳しい国際的孤立の状態ではなく、「鎖国的な制限がなされている状態」を内容とするものであるということは、周知のところであろう。
 幕府の行った「鎖国」政策は、明治期以降じつに多数の人々によって注目され論じられてきており、いまだに議論が絶えない課題である。 したがって、「鎖国」についての認識が、けっして一様とは言えないのが現状である。ここではおおむね次のように認識しておくことにしよう。
 すなわち、まず、「鎖国」状態について具体的に整理し、「鎖国」状態を成立させ、展開していく幕府の行為を「鎖国」政策、そして、「鎖国」状態を幕府の大概関係に関わる一つの形式・組織と見る場合に、それを「鎖国」体制とする認識に立つことにする。
 まず、「鎖国」状態とは、朝鮮・琉球・蝦夷との関係を除く、老中の直轄支配・長崎奉行の管轄下において、おおむね次のような基本的要素によって形成されている対外関係に関わる状態と認識する。
@日本船・日本人の異国渡海禁止
A異国居住の日本人の帰国禁止
Bポルトガル船の日本寄港禁止
C唐人・長崎オランダ商館関係以外の異国人の日本渡来禁止
D唐船・長崎オランダ商館関係以外の異国船の日本寄港制限
E異国人の日本居住禁止・制限
F国内港における外国貿易の相手を唐船とオランダ商館に限定
G国内港における外国貿易を長崎一港に限定
H海上銀(投銀投資)の禁止
I異国居住の人との文物交流の禁止
 したがって、このような状態を成立させ、それを展開していく政策を「鎖国」政策と認識し、さらにこのような基本的要素によって形成されている江戸幕府の対外政策を「鎖国」体制と言うように認識する。 (「長崎貿易」 から)
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<江戸時代・昭和時代の「贅沢禁止令」>  江戸時代の一時期、輸入羅紗(らしゃ)類が御法度になったこともあるが、わが国では養老律令以来、一貫して禁制品にされたのは絹であった。そして、この贅沢禁止令は、その背景を変えながら、後々まで続き、昭和15年7月7日、「奢侈品等製造販売制限規制」が公布された。これが悪名高い七七禁令で、指輪や宝石類とともに、白生地羽二重や丸帯などの絹物が対象になった。 日米開戦の千円、「贅沢は敵だ」の標語が出た時代で、暗い谷間に落ちていったころである。日本ではこれが一般的な奢侈禁令としては最後のものとなった。(T注・しかし現代でも「贅沢は敵だ」と主張する人や、その考えを基本に市民運動を起こす人がいる。 特に最近は資源・環境問題とからめて誰も反対できない「正義論」として目立っている。本人たちは「小さな親切」のつもり、受け取る方は「大きなお世話だ」の反感)。
 贅沢禁止令は欧州の諸国にもあった。ここでも絹物がその第一の対象になっている。欧州でこの種の禁令が出たのは13世紀の末だという。英国ではエドワード3世治下の1336年ごろで、衣服の制限令というより、道徳規範のようなものであった。 1363年にはには「身分相応の衣服」を強制し、奉公人や一般の職人の絹製品の着用を禁止した。欧州においても、「分を守る」ということが、体制を維持する上で大切なことであり、絹の産出しない国だけに、効果は大きかったと思う。
 当然この種の禁令への批判も出てくる。モンテーニュの有名な『随想録』(エセー)の第43章「贅沢を取締まる法律について」はその代表である。その中で絹や黄金などを庶民に禁止するのは、これらの価格を増し、これを用いてみたい気持ちを強くもたせるだけだと皮肉っている。 ここでも黄金とならんで絹が贅沢品の双璧となっている。これが書かれたのが1580年代のことである。英国ではエリザベス1世時代、国力がつき、舶来品崇拝熱が出てきた1601年、贅沢禁止令は一括廃しされてしまった。いずれも徳川幕府が開かれた時代のことである。 (「絹の文化誌」 から)
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<司馬遼太郎/ドナルド・キーンの「鎖国論」> 司馬遼太郎とドナルド・キーンが江戸時代について対談している本があった。その中から今週のテーマに関係有りそうな部分を引用しよう。
キーン 近世にオランダ人が日本にはじめて来たころは、日本は山ばかりだと思ったでしょう。自分の国と正反対でした。
司馬 いまのキーンさんのケンペルの話と同じようなことが、シーボルトにもあります。シーボルトもドイツ人ですから。「日本側がどうもちがう発音だと言ってきたときには、 自分のオランダ語は山オランダ語だと言え」という伝承があったのかなあ。
キーン もっとも、シーボルトはケンペルの『日本誌』を読んでいたのでしょう。最近、オーストラリアで教えているドイツ人の女流学者が、ケンペルがドイツ語で書いた本の英訳(1727年に刊行)を読んで、誤りが非常に多いことに気が付きました。 そこでケンペルの原文を読むと、ケンペルはもっともっと日本のことに感心していたことがわかりました。始めに英訳したスイス人は、なるべくヨーロッパ人を怒らせないように、けんぺるにいろいろ条件をつけて、たとえば仏教が嫌いだというふうに原文を変えたわけです。 今度新しい英訳をつくるそうですから、きっとケンペルの仕事が見直されるのではないかと思われます。
司馬 楽しみですね。
キーン ええ、ケンペルは日本のことを高く評価したにちがいないです。もちろん、いままであった翻訳でもそれはわかりますけれども、でも翻訳者が勝手に文章を書いていたらしいのです。 日本人にとって一番大切なところは、ケンペルの『日本誌』の最後のところですが、その日本語訳が志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)によって徳川末期の1801年に出まして、「鎖国論」と訳されていました。私はドイツ語の原文を覚えていませんが、「鎖国」という言葉がそのときに訳語としてでてきたのです。新造語でした。そのときまで、日本語に「鎖国」という言葉はなかったそうです。 翻訳として「鎖国論」がでてきたときまで、日本人は自分たちが鎖国のなかにいるとは気がつかなかったようです。
 ケンペルは、鎖国は非常にいいと言っていました。私たちの常識に反します。ヨーロッパ人としては、鎖国は貿易の自由の障害になるとか、外国人が自由に日本に入れないから大変不愉快だと思うはずですが、ケンペルは「日本に何も欠けているものはない。すべてのものがあるから、鎖国がいい」と言っています。 (「世界のなかの日本」から)
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<小袖をめぐるモード>  江戸時代の人々が主に着用した衣服は小袖であった。小袖は、現代のきものの祖型であり、上下一部式で、袖口が詰袖で袂があり、垂領(たりくび)で衽(おくみ)がある。
 「小袖」といっても単純に袖が小さいという意味ではない。袖丈が地面に触れるほpどの振袖から庶民の浴衣に至るまでこの範疇に含まれる。「小さい袖」というのは、中世まで中心的な位置を占めていた狩衣や直垂(ひたたれ)といった大袖型式の衣服に対しての呼称なのである。
 衣服の変遷を数世紀に及ぶスパンで見ていくと、下位で用いられている実用的な衣服が次第に上層の公的な衣服型式に採用されていくという傾向と、下着が表着(うわぎ)に変化していくという傾向が認められる。前者を形式昇格の原則、後者を表皮脱皮の原則と呼ぶが、わが国の服装史における小袖は、この二つの原則にきわめて忠実な変遷を示すものとして注目される。
 和様の衣文化の基礎ができあがった平安時代の後期のころ、小袖は上層の公家階級において下着として用いられていた。下着は実用性を第一とした機能的な衣服である。それゆえ小袖の場合も、庶民のあいだでは労働着として用いられることが多かった。つまり、小袖はもっとも肌に近い衣服であると同時に、もっとも簡便な衣服であり、服飾のヒエラルキーの最下位に位置していた。 しかし、時代の下降とともに、小袖は表着としての型式を調え、次第に上層の衣生活に進出するようになっていった。
 近世の小袖は古代とはその有り様を一変させ、下着としてはもちろん、上層階層の表着にまで昇格し、老若男女、貴賤高下の隔てなく、衣生活のほとんどの領域を占めるに至ったのである。 (「事典 しらべる江戸時代」から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
折りたく柴の記                     新井白石 桑原武夫訳 中公文庫      1974. 2.10
古文書の語る日本史 6江戸前期                  所理喜夫編 筑摩書房      1989. 7.30
世界のなかの日本 十九世紀まで遡って見る    司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中公文庫      1996. 1.18
事典 しらべる江戸時代             編集代表/林英夫・青木美智男 柏書房       2001.10.15
絹の文化誌                    篠原昭・嶋崎昭典・白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
( 2005年3月28日 TANAKA1942b )
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