<主な参考文献・引用文献>
江戸時代 大石慎三郎 中公新書 1977. 8.25
翁草1 神沢貞幹 歴史図書 1970.10.
山根有三著作集3 光琳研究1 山根有三 中央公論美術出版 1995. 5. 1
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気 八文字屋本研究会 汲古書院 1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気 野間光辰 岩波書店 1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女 井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館 1976. 7.31
( 2005年2月7日 TANAKA1942b )
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(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪
大江戸美少女噂話
<ミーハー的経済学>
アマチュア・エコノミストに必要なのは「好奇心」と「遊び心」。東福門院から伊達くらべと話を進めてきた。ここではミーハー的な話を取り上げることにする。それがアマチュア・エコノミストらしい態度だからだ。
その話題とは、「大江戸美少女噂話」。朝廷の話から、豪商の妻女の話になり、それが江戸市井の美少女の話になる。だんだんと庶民に近い話になってくる。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では特権階級の贅沢の話で終わっている。江戸時代の「趣味と贅沢と市場経済」では一部特権階級の話が、庶民の段階にまで広まって行く。
これが特徴だ。ということで、例によっていろんな文献から、江戸の美少女の話を引用しよう。初めは、「笠森稲荷のお仙」から。
(^_^) (^_^) (^_^)
<お仙の茶屋>
♪♪ 向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて、ザッとおがんでお仙の茶屋へ、
腰を掛けたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見たらば、土の団子かお団子団子、
この団子を犬にやろうか猫にやろうか、とうとうとんびにさらわれた ♪♪
この江戸の童歌はよく知られていて、いまでもうたわれる。歌のなかに出てくる「お仙の茶屋」が、谷中笠森稲荷の門前にあった。鍵屋という水茶屋で、その店の看板娘がお仙(お千)である。
鍵屋の主は五兵衛というもので、お仙はその娘であった。明和六年(1769)にお仙は十八という娘盛りであった。「美なりとて、皆人見に行く」と、大田南畝の『半日閑話』にある。
お仙はたいした評判で、同書によると、錦絵の一枚絵、あるいは草双紙・双六・読み売りなどに、その艶姿が出て、手拭にも染められた。芝居にもとりあげられ、またいっそうの人気をあおった。
(「図説人物日本の女性史7」多岐川恭著「笠森お仙」 から)
明和のころ、江戸の市井では「評判娘」といわれる美女たちが注目を集めていた。美女といっても、遊女や女形役者ではない。その多くは、盛り場などの水茶屋で働く美人の茶汲女であった。
谷中笠森稲荷の鍵屋お仙、浅草寺(せんそうじ)境内の本柳屋お藤、同境内の茶屋のおよしらが特に有名で、のちに明和の三美人と称された。なかでも、薄化粧の自然美のお仙と、化粧のやや厚い都会美のお藤は大評判で、江戸の美女一、二を競った。
人気の評判娘は、絵双紙や芝居などの題材にもなり、鈴木春信らが描く錦絵は飛ぶように売れた。さらに寛政期には、喜多川歌麿らが描いた高島おひさをはじめ、難波屋おきた、菊本おはんの、いわゆる寛政の三美人が、世人にもてはやされた。
(「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」竹内誠著「江戸の美人たち」 から)
ところで、三美人の筆頭、つまり当世風に言うなら「ミス江戸」の椅子は、どうやらお仙のものであったらしい。
稲荷参道の水茶屋で、来客に茶を供し菓子を運ぶこの娘は、浅草境内で石臼を回し揚枝を商ういま一人の娘はと、絶えずその美貌を競わされている。しかし、当時流行の「娘評判記」の類が、およそ軍配を上げるのは、お仙の方であった。
たとえば『江戸評判娘揃』は彼女を一位に選び、『新板風流娘百人一首見立三十六人歌仙』もまた、大極上上吉にお仙を据えていた。さらに、大田南畝や伊庭竹坡、あるいは加藤曳尾庵など好事家たちの筆も、惜しみなく彼女に江都第一の美女の誉れを与えている。
「お仙」の名が、文献の上に初めて現れるのは、明和二年であるという。その年の数え歌の中で、「八つ谷中のいろ娘」と歌われたのがそれ。そして、同五年には、狂言の中島三甫蔵の科白に、「采女ヶ原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙」とその名を読み込まれ、また、ほぼ同じ頃から、錦絵や、双六、手拭いなどに、その絵姿が頻出するようになった。
大田南畝の「半日閑話」は、「お仙十八歳、美なりとて、皆人見に行く」と伝えている。
ここで、私どもは、一つのことに気付かされる。すなわち、明和の美少女「お仙」は、お仙ばかりではなく「お藤」やその他の娘たちもそうなのだが、彼女たちは、「物語の種子」となるような格別の事件とも無縁に、従って物語的興味を煽るべき何らの趣向とも関係なく、ただ、その美しい姿形だけが注視されたのだった。
ひたすらに見える姿の美しさが話題となり、そのさながらの姿態に人々の視線が吸い寄せられる……。そして、このことが指し示すのは、「物語」を解体し、「映像化された身体」という形で「断片」を浮上させる、江戸後期のまなざしに他ならない。(中略)
さて、このあたりで、私どもの視線を、いま一度、明和の娘たちに戻そう。先に触れたように、お仙やお藤の名声は、格別の事件とも、あるいはそれを種子として枝葉を繁らせた物語とも無縁であった。ただ、人々の見開かれた目に、美しい肢体として像を結び、それが市井の噂の中に浮上してきたのだ。
彼女たちは、何よりもまず、とび切りの美少女として衆の目をそばだたせる。そして、噂に高い美女ぶりに一目触れようと蝟集する好奇の視力は、彼女らの姿・形を、さながら一枚の絵のように切り取ってその美形ぶりを鑑賞し始めるのだ。こうして、生身の娘たちのたたずまいが、飽くなく見ようとする視力で「お仙」や「お藤」という一枚絵に変貌させられたとき、彼らの一瞥を、画面に引き移して、美しく紙面に摺り着けて見せたのが、錦絵作者、とりわけ、鈴木春信だったということになる。
(「大江戸漫陀羅」本田和子著「美少女へのまなざし」 から)
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<江戸の町娘おしゃれ革命>
今から230年前、浮世絵師鈴木春信は、その頃江戸で評判だった3人の美人を描いた。3人の美女とは、役者で女形で大評判の瀬川菊之丞。谷中・笠森いなり門前にあった茶屋の看板娘お仙。それに浅草の楊枝屋の娘、柳屋お藤であった。
のちにこの3人は「明和の三美人」と称された。このほか明和の評判娘は、浅草の茶屋の娘とされる蔦屋およしをはじめ、おりん、おそでなどが有名で、いずれも20歳前後の町娘である。
3人の中で特に評判が高かったのが笠森お仙で、その名は明和年間(1764-72)に江戸じゅうに知れ渡った。化粧、髪型、履物からかんざし、櫛などの装飾小物に至るまで、江戸の町娘のおしゃれ革命は、このお仙の登場から始まった。(中略)
お仙の名を一躍有名にした鈴木春信は、当時、美人画で名高かった浮世絵師である。その春信が谷中にある感応寺の笠森稲荷門前の茶屋に立ち寄った折、そこで参詣人にお茶を注いでいる茶屋娘お仙の姿を見て、その美しさに心惹かれた。
それまで吉原の遊女などを題材にたくさんの美人画を描いていたが、そうしたいわゆる商売用の美しさではない、素朴で清楚な美しさをお仙に見出したのだった。そして、お仙をはじめとする町娘を描くことを決意したと伝えられる。
お仙は当時十八歳。田畑が広がる中に寺社があるだけの江戸の端、谷中の農家で生まれ育った。
お仙と出会った頃、春信はいくつもの色を重ねた浮世絵、「錦絵」の絵を手掛け始めたところだった。その錦絵の特徴である精巧さ、華麗さを生かしてお仙の姿を色鮮やかに描き、それが版木に彫られ次々に摺られていったのである。
それまで普通の町娘を描いた美人画というのはなかったので、人々に大きな衝撃を与えた。評判は評判を呼んで、一回で二百枚は摺られたと思われるお仙の美人画は、刷り上がるのをまって飛ぶように売れた。また茶屋は江戸のはずれのあったにもかかわらず、お仙を目当てにやって来る人々で賑わった。
茶屋の娘にすぎなかったお仙の人気が沸騰したことで、江戸には次々と町娘のアイドルが登場する。
当時、江戸で人気のある美人の名前、容貌、評判そして居場所などを記した「娘評判記」と総称される読み物がたくさん出版された。そのうちの一つ「江戸評判娘揃」の中で、お仙は「大極上上吉」と、最高の格付をされている。
お仙の人気は男性だけではなく、女性の間にも広がっていった。「美しくなりたい」と願う女性たちは、春信が描いたお仙の絵を見て、そのファッションを取り入れることに夢中になるのである。櫛やかんざしなど、お仙と同じ物を身に着けたいと思う娘たちのために、お仙関連商品も売られるようになった。
蜀山人の名で知られる大田南畝の「半日閑話」、明和六年(1769)の条に、「……錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形に作り奉納す。……」とあるのを見ても、あっという間にお仙がアイドルとして江戸じゅうに広まった様子がわかる。
(「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
時代が変わっても失われないおしゃれ心
天明七年(1787)、老中松平定信による寛政の改革が始まり、人材登用、財政節約、農村新興などと同時に風俗取締りも掲げられた。質素倹約を命じ、町娘が自由に楽しんだおしゃれも、その取り締まりの対象となる。
華美な服装や髪飾りを禁じる様々なお触れが相次ぎ、寛政七年(1795)には、女髪結禁止令が出される。女性が髪を自分で結わないのはぜいたくであるとし、女髪結は転職を命じられ、違反する者は厳しく罰せられた。
さらに、美人の姿を広く伝えることでおしゃれブームを巻き起こした浮世絵にも、厳しい規制が加えられた。絵の中に娘たちの名前を書くことを禁じ、ファッションリーダーが生まれないようにしたのである。
しかし、この改革はあまり効果を見ず、江戸の女房、娘たちは女髪結を家へ呼んで、「知り合いに頼んだ」として秘かにおしゃれを楽しんだりした。江戸庶民のしたたかさが、こんなところにもあらわれている。
そうした中で、一世を風靡したお仙の名もしだいに人々の話題にのぼることがなくなり、手鞠歌の中に残るのみとなった。
「向こう横町のお稲荷さんへ一銭あげてざっとおがんでお仙の茶屋へ……」
この手鞠歌は江戸時代から明治、大正、昭和と長く歌い継がれ、お仙に対する親しみを後世の人々の心に残した。
それは「おしゃれをしたい」という人々の気持ちが、厳しい寛政の改革の中でも失われることがなかったからかもしれない。
(「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
(^_^) (^_^) (^_^)
<大田南畝「半日閑話」>
「大江戸美少女噂話」、当時はどのように噂話になっていたのだろうか?いつもながら江戸時代の文章、読み辛いのだが、これで当時の空気を感じて頂きましょう。
◆笠森お仙、お藤 谷中笠森稲荷地内お千(18歳)、美也とて皆人見に行。家名は鎰屋五兵衛也。錦絵一枚絵、絵草紙、双六、よみ売等にいづる。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形に作りて奉納す。
(明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に笠森いなりに水茶屋お千と。是より評判有、其秋七月森田座にて中村松江おせんと成る)
浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤も又評判あり、いてう娘と称す。錦絵、絵草紙、手拭等に出、よみうり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで、一枚絵に出る。
◆童謡 なんぼ笠森おせんでも、いてう娘にかないやしょまい。(実は笠森の方美なり) どうりでかぼちゃが唐茄子だ、といふ詞はやる。
◆娘評判記 此節娘評判甚しく、評判記など出る。よみ売歌仙などにしてうりあるく。公より是を禁ず。
◆とんだ茶釜 此頃、とんだ茶がまが薬鑵と化したと云ことばはやる。
按に、笠森いなり水茶屋のおせん他に走りて、跡に老父居るゆえのたはぶれ事とかや。上野山下の茶屋女林屋お筆、もとは吉原四つ目屋大隅といへる妓なるよし。人みな見に行。名づけて茶がま女と云。錦絵に出る。
◆鈴木春信死す 十五日、大絵師鈴木春信死す。(この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかゝずして云、われは大和絵師也、何ぞや河原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。
役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す)
◆桜川お仙 芝愛宕下薬師堂水茶屋の美婦評判有。名付て桜川お仙とも、又仙台路考とも云。(去年あたりか不詳、仙台の産なるや)
(「大田南畝全集」第11巻 半日閑話 から)(^_^) (^_^) (^_^)
<江戸評判娘揃>
伝え聞婦人。軍中にて名を残せしをかぞふるに、漸く片手を満す。遠きおもんはかりなければ抔(など)と。上下(かみしも)でで羅れたら。何といゝわけを。駿河の不二より。高ひこと葉も高高と。唄三味線の耳には。何白雨(なにいふだち)と。
こちらがふっても。あちらはふらぬ。ふられぬように。あそびこのすが。しゃれものと。呑舞うたへ二つ三つ。ちょっきりこうと是をかう持て。受取たりや其次は。いよ市川と誉めさわぎ。無礼もみんな酒にきせ。きせ綿をあたゝめて。酒をいざや呑もふぞと。引受引受。其時は楚の時。嗚呼面倒な。是何ぞ五十年。女の徳をもふさは。
さもありなむか。仏も元はぼんぶのしるし。開帳場でさへ。女中者内陣へと。側近く拝ませ。麁相は勿論いゝあやまりも。女だけとそれなり。すぜうのしれぬ娘も。稽子なれは。貴人かうけに。お道外取附引附。恋なればこそ。手を取てのたまわく。屋敷のうち迄。眠りながら人耳寄行。婚礼には。呑始じめて男に戴かせ。又左ぎってうに楊弓を射習。
なが袖月夜もの。しんごさ息子かぶ。みなぶらつきの相手なり。亭主に飯をたかせ。摺子木は生きたを掴む。其外かぞふるに。いとまあらんなれど。ながいはおそれ在原の。昔男も思い出され。とても世を送るとならば。女にこそと。寝がへりをして。又れいこくの時。下になるを不思儀と思へは。茶人の女房が。始じめたか。上になる事を案事。
遊女はとつぱづして。男にくらいこませ。じんぜうな口つきでも。蔵も屋舗も。運ばせるを見ては。さりとは広ひ。江戸中で。かくれなき。大和茶の娘揃ひを。よみ売に拵らへ売歩行と。日毎にきかぬ事はなかりき。我も又。いわきならねは。其よしあしをと。早朝から。歩行廻り。今夜は根津に。起きどほし。谷中時分に帰へらんとおもへど。
いやいや飛鳥起ねはならぬ。身のうへと。道を急ひで。笠森にて日暮しぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲けをさせしも。此娘の連のとくならんと。涎と汗とをぬくひながら。漸やどへ帰へり。じぐちまぢりのいゝ送りの手耳於葉。狼に衣をきせて。古寺へなをせし如く。あれ是とつまらぬ事而斯已おゝく。一ツとしてつかまへ所はなし。
ひやうたんで鯰をおさへるにひとし。嗚呼馬鹿な事に。紙をよごしぬとおもへば。よはりふしたる。枕の夢はさめたり
海月庵
明和丑 穐 無骨
江戸評判娘揃惣目録 時行娘之部
武蔵野の秋広々と 咲乱たる見立茶屋花尽し左如し
巻頭
大極上上吉 鎰屋お勢ん 谷中笠森座
名にしほふ江戸むらさきと名も高く人々の気にあいこび茶当世の立もの其色深く染たがられますもむりとはさらさらおもはれませぬ行さきざきて評判をききやう
紫は江戸の手柄や桔梗まで
極上上吉 甲州屋お松 高なわ座
若ひ衆の目に月夜にはあたまがぶらりしゃらりとそゝり歩行人々にも次第色深く袂の庭も気色に送りさりとは美しくそのひやうばんも高なわの葉鶏頭
行秋に猶色深し葉鶏頭
大上上吉 玉屋おまん 鷺森座
いかにもしっとりとやさしく打あかっておとなしく見へますさりとはてい女とふもいふ所はあるまいと見すしらぬもの迄も見ぬ恋にこがれて毎日毎日御噂をきくの花
風に散あふなげはなし菊の花
大上上吉 住吉屋お富 浅草座
なる程心も住吉やきれいにさっはりとして人好のあるさりとはおしあわせしせんと色は穂に出てそのたをやかなるやうすは陰なき月影にうつりすなをなる当世風はすゝきすゝき
行秋を招や風の糸薄
上上吉 万歳屋お政 下谷広小路座
人々の気にふれ菊は夕暮の秋風は身にしみしみと若ひ衆はとかく内證てつかわれます少しの情に世を送るよりははるかませ菊と夜昼となき評判はきつゐおかほのしら菊しら菊
白菊や闇にあかるき立姿
巻軸
極上上吉 柳屋お不二 浅草いてふ座
青柳硯に見へしも誠にことはりなり二町まちでも聞及びまづ柳屋へより風が妻の役は里香がつとめても鷺考いゝふんのないしこなし外にはなし地の乗物にめしてもなかなかひけはせまいせまい見せでもひやうばんはさりとは広ひ秋野のに咲乱れたるおみはへし
名にめでゝ落馬あぐなしおみなへし
(「洒落本大成」第4巻 江戸評判娘揃 から)(^_^) (^_^) (^_^)
<あづまの花>
とうざいとうざい高ふは御ざりますれど是よりおことはり申上まするとまくのそとの切口上年々かはらぬ役者評判記は見るばかりが百銅のいた事まれに出る吉原ひやうばんきな見た跡が百疋のいた事
爰にあらはす芸子ひやうばん記はわづか小銅で御もとめなされおわかい方には御近所の芸子などはその被成かたにて物いらずに御手に入る法も有と承はればくはしく御らんのうへ右の儀はぢきぢきの御相たいに被成ませ利勘先生此だん申上たく
下手の長口上上牛のせうべん十八丁芝のはてから神田の四ッ谷赤坂かうじ町深川本所浅草下谷すみからすみの若ひ衆へそのためのおことはりすらりっとさやうに明て和らけき年
いきな月
しゃれる日
利勘先生勘当之門弟
道楽散人著
たちばな町 路考娘
瀬川菊之丞にいきうつしなるゆへろかう娘と称ずおよそ唐天ぢくはいざしらず日本の地においてこのきみにならぶはあらじ鼻すじ打とふりいろのしろき事ゆきかとあやまたれ
首すじなどははくちやうのとつくりにひとしゆびさきのじんじやうさ浅草くわんおん地内の女yすじに異ならずいきすぎ少もなく物ごしうるはしく義太夫の大めいじん長うたさみせんおどりの上手かみのゆひかたはでならずじみならずわるじゃれはきついきらいしらね
御方は武家そだちと見給ふもことわりぞかし
日本がし 慶子娘
中村富十郎によくにたるゆへ慶子むすめとせうずうそろそろとしまの部に入るといへ共いろつや十五六に異ならずひとへに艶顔すぐれしゆへなるべし
せい高くしてほっそりと柳ごし三弦ぶんごの大めいじん少しかうまんのきみあれども是はきりやうと芸とつりあふ故なるべし
一め見る人はあはれ此世へ出たる甲斐に此やう成君とせめて一夜のまくらをかはさば死てもだいじないなど思はざるはなしまことに美女の上の吉也
横山町 里江娘
中村松江によく似たるゆへ里江むすめとせうず唐のやうきひ我朝の小野ゝ小町は当世見し人なければその実しれず今此やうなうつくしい君が又とあらばたて引がしたいどふ共こふともほむるに詞なし此きみに思はるゝ人は前生にどのやうなよきたねをまきしやらん当時の色男たち身だいを棒にふる共
此きみを一生の手がらに手にいれ給はゞまつだいの高名成べしびじんの親玉外にはないぞや
品川 亀音娘
瀬川雄次郎ににたるゆへ亀音娘とせうず芸もよくいひぶんもなけれ共おりおりむかばらをたつ事有又人のはなしのこしをおるか得手もの也何さま心にまがれる所有とみへたり
かうじ町 都巨娘
嵐小式部ににたるゆへ都巨むすめとせうずすこし女太夫といふ身あり手ぬぐひをかたにかけると人のみゝに口をよせてさゝやくがゑて物也
少しわきが有との説なれ共山の手ニてはひやうばんよし
(「洒落本大成」第4巻 あずまの花 から)
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸 相賀徹夫編 小学館 1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館 小学館 2002.12. 1
大江戸漫陀羅 朝日ジャーナル編 朝日新聞社 1996. 5.10
NHKニッポンときめき歴史館5 NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会 2000. 3.10
大田南畝全集 第11巻 半日閑話 濱田義一郎 岩波書店 1988. 8.29
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花 水野稔 中央公論社 1979. 4.10
( 2005年2月14日 TANAKA1942b )
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(10)美少女を取り巻く文化人
平賀源内とその仲間たち
<ひろしです>
東福門院和子の衣装道楽から始まり、豪商の妻女たちの「伊達くらべ」へと進み、さらに錦絵に描かれた「お仙」をはじめとする美少女へと話を進めてきた。
ところでこうした傾向は現代ではどうなっているのだろうか?そう考えている内に、こんなことを言う人がいるのに気づいた。
ひろしです。渋谷のギャルがみんなAV女優に見えるとです。
夜、センター街を歩いてみる。「なるほどな」と思う。
(^_^) (^_^) (^_^)
<絵師春信と源内>
お仙をはじめとする町娘が話題になったのは、鈴木春信が描いた錦絵の影響が大きい。そしてその錦絵は1765(明和2)年、一気に多色摺りへと進化した。その進化に平賀源内が大きく関与していた。このあたりの事情について芳賀徹著「平賀源内」から引用しよう。
春信の錦絵創製というのは明和2年のいわば突発的ともいうべき美の開花であった。その突然の開花が生じるには、勿論当年の絵暦ブームのプロデューサー菊簾舎巨川からのさまざまの具体的な注文や指示、また交換会での絵師同士の啓発や競争が、強いうながしになったにちがいない。
だが、またその創製のプロセスにはいずれかの段階で源内の思いつきやヒントが生かされていたというのも、やはり大いにありうることだったのである。
浮世絵は単純な墨摺りの木版から始まって、丹絵、紅絵、漆絵へと手彩の色数を少しずつ増し、その摺りや彩色の技法もしだいに複雑にはなってきたが、それが紅摺絵という紅と緑を基本にする2〜4色ほどの版彩画にまで進んだのは、1740年代半ばのころ(延享期)であったという。
それから20年ほどは、いくらか色数がふえる程度でその段階で足踏みし、春信自身にしても明和元年まではもっぱらこの紅摺絵を制作していたのだが、それが翌2年からは一挙に美麗な多色摺の錦絵へと転じたのである。
そのにわかな変化を小林氏は蛹から蝶への華麗な変態(メタモルフォーゼン)にたとえるが、まさにそうとでもいう以外にないような錦絵の誕生には、さまざまの技術上の新工夫と、それを求める新しい美的表現への意欲とが働いていた。
一枚一色の版木を画面に次々に何枚も寸分狂わずに押しあててゆくための「見当」のつけ方の改善、地潰し、空摺り、キメコミといった素材(木と紙)の質をフルに生かした技法の驚くべきソフィスティケーション、胡粉を混じえたしっとりと不透明な中間色の多用、そしてそれらの一枚の上に何回も繰り返される馬連による摺りの強い圧力に十分耐えて応じる良質な奉書紙の採用──
ざっとあげてもこれだけの新しい工夫が集中して、あの匂い立つばかりの春信の錦絵は蝶のように舞い立ったのだが、その変態の全課程とはいわずとも、そのどこかで源内のアイディアを貸すということがあったのではないか。
およそカラクリの類が好きで、その発想にも富んでいた源内、物産学を通じて諸国の物産や種類の顔料にくわしい上に、絵やデザインにももともと心のある源内であった。製作現場の彫師、摺師ももちろん絵師春信とともに、パトロン巨川の意匠を実現するためにありったけの智恵と経験とを傾けたであろうが、それでも制作が行きづまり、失敗が続くようなとき、春信は同町内の、歩いて数十間ぐらいの浪人学者源内宅にふらりと寄って、
中津川座の磁石石や方解石のころがる間に坐って、なにかと相談することもあったのではないか。
「どうなさいました、春信さん、例のお旗本の大小(絵暦)は。……」
「いや、それがね、実は源内先生、例のところがどうもきれいにいかなくって……」
などと、1765年ごろ、日本・江戸の神田白壁町における平賀源内と鈴木春信とのやりとり──古今東西の歴史の上で、これほど魅力的な二人の対話は、ちょっと他に思い浮かばない。
何にせよもの珍しいこと、抜きんでてあざやかな思いつきや発明は、よかれ悪しかれみな源内のものとしてしまう、後代のあの「源内病」に、万象亭森島中良はすでに罹ってしまっていたのだろうか。しかし源内は、例の「はこいりはみがき嗽石香、はをしろくし口中あしき匂ひをさる」(明和6年)であろうと、あるいは「きよみづもち、りやうごく橋辺新見勢ひらき仕候」(安永4年?)であろうと、江戸町人からの頼みならば、ごく気軽に、はなはだ達者に、
口上書き(CM文)を書いてやるような「才気」と「侠気」に富んだ男であった。同町内の町人絵師春信の絵と才に、三歳ほど年下であろうと源内が惚れ込んで、なにかと智恵を貸し助けてやったということは、やはり「大いにありえた」ことであった。「吾妻錦絵」との命名(ネーミング)さえ、もしかすると源内のものであったかもしれないのではないか。
春信は明和二年からわずか五年ほどの間に、あのほそやかにコケティッシュな春信スタイルの美少女たちの、八百余点の錦絵で、明和の江戸を、いや1760年代の世界を美しく飾って、同七年(1770)六月、四十五、六歳であっという間に世を去ってしまった。「徳川の平和」を、そのなかで甘く熟した夢を、そのまま宿したような彼の作品は、絵暦のサークルを離れ独立した錦絵として売り出されると、もちろん江戸中の大評判となった。
越前武生の手工業(マニュファクチュア)の特産である奉書紙に、秘技を尽くして摺られ、一枚一枚畳紙に包んで売られたから、それは従来の浮世絵とは段違いに高価であったが、それでもよく売れたという。当時の町人層は懐も肥えたが眼も肥えてきていたのである。
吾妻錦絵の評判が高まると、さっそくそれを詩に詠んで、それによって自分を売り出すような青年才子も登場してきた。戯名陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、実は幕府の御徒といういちばん下っ端の役人大田南畝(1749-1823)で、その処女狂詩文集「寝惚先生文集」(明和4年)を出版したときは、まだ数えで十九歳の若者であった。
(^_^) (^_^) (^_^)
<鏡餅を上から見た絵を描いてごらん─小野田直武>
この時代のキーパーソンは平賀源内と田沼意次だ。天才であり、狂人であった平賀源内、失敗ばかりしていたが彼から影響を受けた人が沢山いる。そうした源内と取り巻く人たちに目を向けてみよう。
源内は1773(安永2)年6月、秋田へ向かった。秋田藩鉱山技術指導に招聘され、その後何度か江戸と秋田を往復している。藩主佐竹義敦は絵心があり、家臣の小野田直武とともに源内から絵の指導を受けている。その折り源内は直武に言った「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」と。直武は初め意味が分からなかったが、源内は西洋画の手法を直武に教えたのだった。
角館生まれで角館育ちの小野田直武(1749-1780)が秋田本藩の「銅山方産物吟味役」とも呼ばれる役に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立したのは1773(安永2)年12月のことだった。江戸へ来て直武は源内の家に同居し、絵を描いたり、源内を手伝って金唐革を政策したり、司馬江漢と西洋画について話合ったりしていた。その直武が源内の紹介により杉田玄白など『解体新書』翻訳のグループに紹介され、その翻訳書の挿し絵を担当することになる。
そして『解体新書』が1774(安永3)年8月に刊行された。実に短期間の内に直武は挿し絵を描いたのだった。そして、『解体新書』は直武の挿し絵があったからこそ価値があった、と言われている。源内も予想していなかった才能を発揮した。
<『解体新書』翻訳─中川淳庵・杉田玄白>
中川淳庵(1739-1786)は江戸生まれで江戸育ち、本草学者田村元雄の社中で源内と一緒だった。
その淳庵を通して源内と知り合い、生涯最良の友となったのが杉田玄白(1733-1817)であった。その玄白は源内が死んだあとその碑に一文を書いている。その最後の部分を引用しよう。
嗟(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ
行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ
源内はドドネウスの『阿蘭陀本草』を1765(明和2)年に買って、これを翻訳したかった。二度目の長崎留学、それは田沼意次によって幕府の仕事として認められたのだが、結局オランダ語はものにできず、翻訳はできなかった。それだけに、玄白等の『解体新書』翻訳は悔しかったに違いない。しかし源内はそうした感情は出さなかった。「意地が廃れりゃこの世は闇さ」とイキがっていたのかも知れない。
この長崎留学について四年後に書いた源内の手紙がある。
四年以前、田沼候御世話ニて、阿蘭陀本草翻訳のため長崎へ罷越し候。段々珍書共手ニ入れ、且つ蛮国珍事共承り出で、御国益二も相成り候事共数多御座候。(服部玄広あて、安永二年四月二十五日)
(「平賀源内」から)
こうして源内と意次の関係が浮かびあがってくる。
<日本初の銅版画─司馬江漢>
源内が神田白壁町に住んでいた頃、そこには小野田直武も同居していた。そして鈴木春信も度々通ってきた。そこに司馬江漢もいた。彼は初め鈴木春重となのり、春信の贋作を描いていたが兄貴分にあたる直武の助言で西洋画を学び、後に日本で初のエッチングを始める。源内からすれば孫弟子にあたるということか。
源内の『根南志具佐』に書かれた江戸の風景、それにピッタリなのが司馬江漢の「両国橋図」だ。江漢は絵だけでなく文章も沢山書いている。
<松平定信ににらまれた下役人─大田南畝>
大田南畝(蜀山人)が19歳で「寝惚先生文集」を出したとき、その序文を源内が書いている。
<馬鹿孤ならず、必ず隣り有り。目の寄る所たまが寄る> 平賀源内は大田南畝の漢詩集「寝惚先生文集」の序で、こんなふうに書いた。「徳孤ならず、必ず隣り有り」徳ある者は孤立しない、必ず同じ類の有徳の者が出てこれを助ける、と「論語」に語るところのパロディだ。徳ある者もあつまるだろうが、馬鹿もまたあつまる。天明文化は、賢人ならぬ馬鹿が寄りあつまって出来た文化だ、という達見であった。(「江戸の想像力」から)
南畝は売れっ子の作家になるが、田沼の時代から松平定信の時代になって、寛政の改革を皮肉った有名な狂歌「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といひて夜もねられず」によって、幕府からにらまれ大田南畝としての活動をやめる。その後は蜀山人と名乗って、役人と作家とを両立させながら地味に生きていく。
源内にその処女出版作の序文を書いてもらった南畝は、山東京伝の処女作黄表紙「開帳利益札遊合」の序文を書く。この分野でも源内の孫弟子が生まれる。
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<市場を信頼した─4沼意次>
田沼意次が幕府の中心にいて政治を行っていた時代は、江戸時代にあって不思議な時代だった。幕府の政策の基本は「贅沢は敵だ」だった。程度の差はあっても常に倹約を奨励していた。このため奢侈を理由に家財没収・所払いになった町人は多い。そしてその中心には儒教や朱子学があって、外国文化の影響を嫌っていた。
ところが田沼の時代は違っていた。杉田玄白の表現を借りれば「なんとなく明るく、自由な時代」だった。源内のような天才で狂人という不思議な人間が生きて行けたのも田沼の時代だったからで、杉田玄白等の『解体新書』が出版できたのも田沼の時代だからであり、大田南畝が活躍できたのも田沼の時代だったからだ。
江戸時代は町人が先に豊かになり、その豊かさを味わい、贅沢を楽しんだ。それに対して幕府はそれを抑え質素・倹約を奨励した。町人が趣味と贅沢で市場経済を発展させ、幕府がそれを儒教や朱子学、プロテスタンティズムの倫理などで押さえつけようとした時代だった。そして市場の勢いを抑えようとしたのが、新井白石・将軍吉宗・松平定信・水野忠邦であり、
その反対側にいて市場の力を生かそうとしたのが田沼意次と徳川宗春であった。
「徳孤ならず、必ず隣り有り」はこの時代、源内と意次を考えるとピッタリの言葉だ。松平定信が意次を追い落としても、それだけでは「田沼の時代」は終わらなかった。それは意次一人だけで作って行った時代ではなかったからだ。そして源内も失敗ばかりしていたが、多くの人を刺激してすばらしい文化の花を開かせた。利己的な文化の遺伝子「ミーム」が東福門院から伊達くらべの豪商の妻女に感染し、
お仙をはじめとした天明の美少女へと感染して行った。そしてこの時代源内からの「ミーム」が実に多くの人々に感染していった。こうしたミームというウィルスの繁殖を抑えようとした「贅沢は敵だ」の幕府の政策があったけれども、江戸時代を通じてミームは増殖し、やがて時代は明治維新へと進んでいったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
平賀源内 芳賀徹 朝日新聞社 1981. 7.20
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて 奥村正二 岩波書店 2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸 相賀徹夫編 小学館 1980. 4.10
江戸の想像力 田中優子 筑摩書房 1986. 9. 5