(6)先に豊かになった人への憧れ
トレンド・メーカー東福門院
<東福門院のノブレス・オブリージュ> 東福門院が雁金屋から多くに衣裳を購入したことを「衣装狂い」と表現するのは適切ではないと思う。東福門院は庶民ではなく、当時日本ではただ一人の特別な人であり、歴史を振り返ってもあまりいない特別な立場の人だった。特別な人は特別な倫理基準で判断すべきで、庶民感覚で判断してはマズイ。
 たった数え年14歳で徳川家から後水尾天皇のもとに嫁いだ和子、幕府と朝廷との力のバランスの中でもて遊ばれたわけではあるが、両者の融和のために力を尽くした。幕府から1万石を自由に使えることになっていた。武士は1万石から大名と呼ばれる。その1万石を使って幕府と朝廷との融和のために力を尽くした。 寺院・神社に寄進したり、文化サロンを開いたり、周りの人たちへの心配りなどを通じて穏やかな人間関係環境を作り、それが朝廷での嫌幕府感情を和らげたに違いない。そうした行為の一つが衣装購入であり、その衣装を周りの人たちにプレゼントすることだった。優しい心の東福門院は周りの人達の笑顔を見るのが嬉しかったに違いない。 「東福門院のノブレス・オブリージュ」と理解すると、多額の衣装購入は何も不自然なことではない。東福門院の趣味も生かしながら、幕府と朝廷との融和のために精一杯生きた、と言うべきだろうと思う。
 「趣味と贅沢と市場経済」の元になったゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では贅沢を満足させるために、贅沢産業が育ったと述べている。江戸時代の贅沢は産業を育てもしたが、朝廷の贅沢が町民にまで広まった、ということに特徴がある。先に豊かになれる者から豊かになって、それに憧れて続いて豊かになった者がいた。 東福門院の衣装道楽は町人の憧れであり、尾形光琳の雁金屋から仕入れた御所染は流行の最先端でもあった。つまり東福門院は寛永文化のトレンド・メーカーでもあったわけだ。
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<東福門院の真似をして「衣装くらべ」「伊達くらべ」>  東福門院が派手な衣装を好んだ、ということは、「幕府と朝廷との力のバランスの中で精神的に苦しい生活だったろう」と心配し、同情する者としては少しほっとする。年齢以上に地味な衣装で一生慎ましやかな生活をおくった、とすると悲しくなる。
 東福門院のトレンド・メーカーについては先週書いているが、もう一度その一部を引用しよう。
  東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。 (「御水尾院」から)
 トレンド・メーカー東福門院の真似をして何があったか?と言うと「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われるコンクールあるいはコンペティションが行われた、ということだ。
 その「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われる事例で現在よく知られているのは、
 @ 江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
 A 同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
 B 京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
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<A 石川六兵衛の女房将軍綱吉に伊達くらべ>  延宝9年(1681)5月8日(この年の9月に天和と改暦)、江戸町人石川六兵衛の女房は、将軍綱吉が上野寛永寺にお詣りなるのにあわせて、通り道の民家を借りて伊達比べを仕掛けた。これはこの時代の象徴的な出来事であり、歴史の文献で取り上げられているし、また小説も書かれている。そこで幾つかの文献から関係する部分を引用してみよう。
「伊達くらべ元禄の豪商」から  延宝九年(1681)五月八日、五代将軍綱吉は上野へ仏参した。この日は前将軍家綱の忌日である。長い行列が下谷大名小路にさしかかると、どこからともなく香の匂いが漂っていきた。それも有りふれたものではない。高価な伽羅をおびただしくたいているようである。
 匂いは当然、乗物の中の綱吉の鼻にも届いた。
 乗り物の両脇には、御側衆、若年寄がついている。そのうしろに御小姓、御小納戸衆が続いている。不審に思った綱吉が、乗物の中から、あの薫りはなんだと聞くと、だれも、どこでたいているのか、わからないという返事である。
 香をたく家は多いだろうが、それが道路にまで強く匂ってくるというのはめずらしい。しかも伽羅である。それでも、綱吉はまだ大して気にしていなかった。
 ところが、香の匂いはだんだん強くなってくる。大名小路から上野広小路に入ると、匂いが出てくる方角まではっきりしてきた。
 広小路は繁華の地で、道の両側は町屋である。匂いはその並んだ町屋の一軒から出ている。行列の者の目は、勢いその方へ注がれたが、間口一杯に開け放たれ、床には赤毛氈が敷いてあり、金屏風その他、結構尽くした調度がしつらえられ、中に美しく着飾った女が、晴れがましい様子で拝礼をしていた。
 それが女主人と見え、ほかに腰元風の女、下女など数人、みな善美を尽くしたいで立ちで控えていた。
 香は、その部屋に置かれた立派な香爐にくべた銘木の伽羅の煙を、下女たちが金箔刷りの扇子であおぎ立てていた。
 その光景は、行列の者の目をむかせるに十分なものだった。さながら大大名の奥御殿を切り取って持ってきたようである。
 将軍の乗物からは外を見ることができる。綱吉も町屋の様子を見て一驚を喫した。いったい何者の妻か。ああして、乗り物を拝見しているところからすれば町屋の者だろうが、それにしてはぜいたく、おごりの度が過ぎる。
 当時の綱吉は将軍職を継いだ翌年のことで、俗な言い方をすれば、張り切っていた。綱紀を粛正し、人倫五条の道を正し、財政を立て直し、節倹をすすめようと考えていた矢先である。あの者たちを召喚してきびしく調べた上、僣上のことがあれば厳罰に処さなければならんと思った。
 「不埒な町人、何者か尋ねて参れ」
 と綱吉は命じた。
 行列には両番組、御徒組などのほか、小人目付、御徒目付などが従って警備に当たっている。側の者からの命令で、早速御徒目付の組頭がくだんの町屋に行って調べると、女は町人石川六兵衛の妻とわかった。
 いったい、将軍の通行の時、その順路はもちろん、横町に至るまで人払いになり、従って制止の声を掛けることもないが、通りに面した町屋に対しては何の構いもなかったという。つまり、戸や窓をすべてとざしておく必要もなく、家々の主人が溝板の上に出て、お通りの節平伏するだけで、その他の家人、女などは店に坐って、別に改まって頭を下げることもなく、 お通りを見物していいのである。だからこそ、六兵衛の妻はそんなことが平気でできたのであろう。
 武家の場合には制限があって、長屋長屋の窓を全部閉じてしまう。主人は門内にあって、お通りの時に、行列の御徒目付、御小人などが、いまお通りですよと声をかけると平伏する定めだったという。
 その町屋は仕立屋で、石川六兵衛の家ではない。一時借り受けただけであった。
 六兵衛の妻は、将軍の目をひくように、舞台や衣装ばかりではなく、香までたいて万全を期したわけである。
 その目的は達せられた。新将軍は彼女の衣装の立派さにおどろいたが、感心はせずに怒ってしまった。これは彼女の思惑違いだったかどうか。彼女は綱吉を、風流で物のわかった、伊達好きな将軍と考えていたのだろうか。それとも、処罰を覚悟の前で、「伊達」をしかけて将軍の度肝を抜いたのだろうか。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
「江戸風狂伝」から  およしは、京での伊達くらべに勝ってきた。
 相手は、那波屋(なはや)十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりとした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。
 「京からも大坂からも、待っているとのお便りをいただいているのですが」
 やはり、将軍綱吉に、伊達くらべをしかけたいと言う。
 六兵衛は、大声で笑い出した。笑っても笑っても、次の笑いがこみあげてきて、しまいには涙が出てきた。
 大の男が、お家騒動の決着を将軍に咎められるのではないかと思い悩み、或いは将軍の厳しさに戦々恐々として遊びしも出てこられぬさなかに、およしは、その将軍へ伊達くらべをしかけようと、本気で考えているのである。おのが女房ながら、そののんきさが、たまらなく好もしかった。 おしゃれの好きなおよしにとっては、京の那波屋の女房も、伊達くらべを待っているとの手紙を寄越した女達も、将軍綱吉も、みな同じ仲間なのかもしれなかった。
 「やってみるがいい」
 六兵衛は、目頭にたまった涙をふき取りながら言った。
 「伊達くらべをしかける広小路の店は、わたしが見つけてやる。どうしても貸さぬと言うたら、買い取ってやる」
 嬉しい──と、およしは胸の前で手を合わせた。
 「が、言うておくが、将軍様はてごわいぞ」
 「いえいえ、わたしも負けてはおりませぬ。店先には金の簾を垂らし、わたしのうしろには金の屏風をたてまわして……」
 「そうではない」
 どんな罰をうけるかわからぬと言いたかったのだが、六兵衛は、黙っていることにした。(中略)

 店にはすでに緋毛氈が敷かれ、金屏風が立てられていて、石川屋から連れてきた手代が、金の簾を吊しているところだった。和田屋の女中がはこんできたのは白磁の香炉で、石川屋の女中の指図で位置をきめている。
 「こちらの用意はできました」
 と、和田屋の女中が言い、奥の方で小さなどよめきがあがった。およしが居間から出てきたのかもしれなかった。
 店先へは、まず八人の女中があらわれた。緋色に金糸の刺繍がある着物を着て、香木の入った箱を持っている。中に入っているのは、無論、伽羅だろう。左右の香炉に二人ずつ、中の二つに一人ずつが坐り、作法通り、灰点煎をはじめた。
 そのうしろに坐った二人は、やはり緋色の着物をまとっていたが、手には扇を持っている。伽羅の香りを、綱吉へあおぎかれるつもりらしい。
 およしな、伽羅がたかれてから店先にあらわれた。
 きれいだ──と言う、正兵衛の声が聞こえた。
 およしの着物は、涼しげな白地に浜辺を描いたものだった。動くたびに雨が光るのは、ところどころに銀糸の刺繍が混じっているからにちがいない。浜辺の砂は金糸の刺繍で、落ちている貝は、螺鈿の細工のように、光沢のある貝を磨いて金糸の中に埋め込んであった。 間違いなく、ただ一度しか着られぬ着物であった。
 六兵衛に気づいたおよしは、口許をほころばせて店の中央に立った。天女が舞いおりたようだと、六兵衛は思った。
 三保の松原におりた天女に土地の漁師が心を奪われたように、これならば綱吉も、およしに目をとめるにちがいなかった。およしに目をてめて、自分の気のきかぬ身なりが情けなくなって、早く戻れと駕籠をいそがせる筈だった。
 いい気持ちではないか。
 人の頭の上へ手をひろげ、町奉行も作事奉行も抑えたうけ、おじけづかせている将軍へ、小柄で青白い顔をした女が一矢お見舞い申すのだ。
 もっと胸を張れ──と、六兵衛は、自分の躯を反らせて見せた。
 身上など取り上げられても惜しくはない。江戸から追放になってもこわくはない。みなが恐れる将軍に勝てるのは、およし、お前だけなのだ。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 小説ではこの後、将軍の目に留まり、後日家財没収の上、江戸十里四方追放を言い渡された、ことが書かれている。小説の最後の部分を引用しよう。
 六兵衛は大勢の使用人に暇を出したあと、身のまわりの品を包んだ風呂敷包みを背負い、およしの手を引いて江戸を出た。五月も末になったというのに、雨の気配はなく、今年は空梅雨かもしれなかった。 
 水田には無情でも、旅には都合のよい空模様だったが、品川の宿を出るとすぐ、およしが足をひきずりはじめた。
 「やれやれ」
 六兵衛は、風呂敷包みをおよしの背にくくりつけたかわり、およしを背負って街道からそれた。品川の海が見える草叢に腰をおろすと、陽は暑かったが、風は快かった。
 およしな、草鞋を脱いでいる。緒の当たるところに血がにじんでいた。
 「でも、こんなものを持っています」
 と、およしは懐から紅絹を出して見せた。和田屋で伽羅をたいていた女中の一人が、餞別がわりにと持たせてくれたのだという。
 「や、そんなものがあるなら、どこへでも行けるな」
 六兵衛は、笑っておよしの背を叩いた。親類や親しい仲間からの餞別は、あらたか使用人に配っていまったが、それでもまだ、これだけは風呂敷の中へ入れてくれと言った和田屋正兵衛からの金包がある。
 「京でも大坂でも、お前の好きなところへお供するよ」
 「そうですねえ」
 およしは、草鞋の緒に紅絹を巻いている手をとめて首をかしげた。
 「鎌倉へ行こうかしら」
 「鎌倉か。頼朝公の夢の跡を追うのもわるくはあるまい」
 「それから小田原へ行って、名古屋へ行って……」
 「さあてね、そんな所まで行けるかどうか。鎌倉で働いて、小田原で働くとなると、名古屋へ行くまでに二十年はかかる」
 「お互い、年をとりますねえ」
 およしは、布を巻いた草履に足を入れた。
 「京へ行く時も、こんな風でございました。ところが、歩きつづけているうちに、肌がかたくなってしまって、──面白うございますね」
 これからの人生もおそらく面白いだろう。およしと一緒ならば。
 六兵衛は、のびをしながら立ちあがった。
 「さ、足が痛いかもしれないが、川崎まで行ってしまおうよ」
 素直に立ち上がったおよしへ、六兵衛は、片方の目をつむってみせた。
 「鎌倉へ腰を落ち着ける前に、足の擦り傷も癒さねばなるまいな」
 「箱根の湯へ行くのでございますか」
 およしが目を見張った。
 六兵衛は、風呂敷包みを肩にかけて歩き出した。およしと潮風が追ってきた。(小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 所払いとなった二人がその後どうなったか?は分からないが、小説としてはこのような悲劇的でない終わり方がこの時代の空気を表現していると思う。「素人歴史家は楽天的である」(森鴎外「伊沢欄軒」)。
「元禄歳時記」から  杉本苑子の『元禄歳時記(上)』「さんご珠は血の色」では最後が悲劇的に終わっている。
 ──亀屋、石川屋への厳罰が、江戸中をふるえあがらせたのは、それから十日ほどのちである。
 「町人の分をわきまえず、不相応な奢侈にふけった」
 というのが、おとがめの理由だが、直接のきっかけは言うまでもなく、寛永寺への参詣途上、綱吉将軍の鼻先をかすめた高価な焚き物にあった。一つ、たぐれば、ギヤマン天井、金無垢すだれ、能舞台と、 とっこに取れる口実は出てくる。両家はそろって、家産を没収され、江戸十里四方から追放された。
 骨の髄までしみこんだぜいたくくらしを奪われ、一転、乞食の境遇に落ちたお栄が、半狂乱となり、男泣きに、泣いて無念がる石川屋六兵衛と、身をよせた信州の遠縁の家で、最後の夫婦喧嘩をしでかし、興奮したあげく、ありあう刃物でのどを突いて死んだという悲報が届いた。 (「元禄歳時記(上)」さんご珠は血の色 から)
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<丸谷才一の衣装くらべ>  丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で伊達くらべのことを書いている。
 戸田茂睡といふ浪人の書いた同時代史『御当代記』に、こんな話が載ってゐる。江戸の富豪、、石川六兵衛の妻は、京都へ出かけて衣裳くらべをしたほど派手好きな女だったが、天和元年(1681)五月、上野の寛永寺に詣でる綱吉に伊達くらべを仕かけた。すなわち、行列の通る上野の下の町屋を借り、金屏風を立てまはして自分はその前に坐り、結構な衣裳の小間使ひ六人に伽羅を焚かせ、 その伽羅の煙を、外に出て立ってゐる振袖の腰元二人が、通りかかった綱吉の駕籠に金の扇子であふぎかけたのある。このため六兵衛は追放、家財は没収されたのだが、月 罰を受けるかもしれないことは充分わかってゐながらこんなことをするあたり、彼女の芝居っ気はかなりのものだ。わたしはこの話に贅沢とか町人のエネルギーとか自己顕示欲とか、そんなことよりも、まづ演劇的人間を感じてしまふ。六兵衛夫婦は隅田川のほとりに下屋敷を構へ、大名衆や幕府の役人をしきりに招待したといふことだが、その招宴ではきっと、松平大和守の邸と同じやうに役者に藝をさせたにちがひない。 六兵衛の妻が上野でしたことは、赤穂の浪士の場合と違って呪術的要素と結びつく気配はまったくないけれど、しかし命がけの華麗な自己劇化といふ点で四十六人の徒党とよく似てゐるのである。 心中の流行でも見当がつくやうに、芝居心がふんだんにあることは元禄期ないし綱吉の治世の一特徴なのだらう。豊かで平和で安定した時代はどうしても日常生活からの藝術的=儀式的離反を盛んにするし、その結果、幸か不幸か、演劇と実生活との混乱をもたらしがちなのかもしれない。とにかくこれは、飛脚宿の入り婿と見世女郎から、豪商の妻や浪人の一味を経て、征夷大将軍に至るまでに共通する風俗であった。 (「忠臣蔵とは何か」から) 
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<「御当代記」から>  この伊達くらべ、江戸時代に書かれた出典は?と捜してみた。丸谷才一が書いているように『御当代記』がそれらしい。ということで『御当代記』からの文を引用しよう。
 一 延宝八年十三月廿七日、石川六兵衛と申町人夫婦籠者(ろうしゃ)被仰付候、是ハ富貴の町人にて浅草山の宿浅草川のはたに下屋敷をもとめ、大きに家を作り結構の造作を仕、大名衆御役人を招請いたし、おごりを極め申を、兼而上聞に達し候所に、五月八日上野へ御社参の節、右六兵衛が女房かくれなき伊達者にて、すでに先年上方に小べに屋権兵衛と申者の女房だてものなるよしを聞、江戸にハなる善兵衛が女房などだてものと聞たれ共、 中々我にハ及ぶものなしとて、右小べに屋が女房とだてくらべせんとて上方へわざわざのぼりたる程の女なれば、当公方様へもだてを仕、世上に無隠名qをとらんと思ひけん、御成おがミに上野の「下」町の町屋をかり、金の屏風を立廻し、こしもとの振袖の女弐人花の如く出たゝせ、しんミよう六人にもけっこうなる衣装をさせ、台子をしかけ伽羅を夥敷くべ、御駕籠の通り候時に臨て、こしもと二人に金の扇子をもって伽羅の煙をあふぎかけ申候ニ付、誰が妻と御穿鑿有りて右のとをり也。
 一 石川六兵衛を籠者の被仰付候も、総而御仕置きび敷ゆへなれば、当御代になり候て少しの御科あるものも御改易・御追放・閉門あるひハ御役を御とりあげ、延慮の人、町人も少しも家をきれいに立、町屋の門などもひらき門に作り、庭の植木石なども大きなるをかまへたるハ、御とがめにあふ御ふれなれば、俄に家をこぼち庭の木を切、石をほりうめ、人の心さらにおちつけず候、殊ニ庚申の年八月六日大風洪水にて田畑損し、五穀みのらざるに、御代替りなればさらだに城主城主も米をたしなむべきに、 殊更御仕置ききび敷科人多く出来候へば、自然に気短なるものゝ、いかやうの心ありて逆心もあらんかと、世をあやぶミ一しほ米を廻さず候へば、江戸中米の高サ大飢饉のごとし、武具・馬具・鎧・長太刀の外ハ求る物なければ、諸色かつてあきなひなく町人もこまり果申候
 「一 乗物駕籠の御法度出ル、是ハ此以前も候事なれども此度ハ強キ御あらため也、駕籠舁曷命ニ及ト云々」
 校注 『徳川実記』には、この月二十八日条に浅草黒船町の市人六大夫という豪商が八日将軍の寛永寺御成りに家の男女を華麗によそおって出たのを咎め、宅地を没収して追放に処した記事がある。なお『改正廿露叢』には、二十八日に小舟町の商人石川六兵衛の商家に不似いの奢侈を咎め入牢のところ、昨日妻子とも追放、屋敷家財没収の処分と記す。本書の記述は二十八日の処分に先立っての噂をとったものか。 (「御当代記」申年 延宝八年 から)
 『徳川実記』も調べようと思ったが、膨大な文献でどこに書いてあるのか、時間がなく調べつかなかった。見つかり次第引用します。
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<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20  
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 元禄歳時記(上)さんご珠は血の色               杉本苑子 講談社       1974.12.12 
忠臣蔵とは何か                           丸谷才一 講談社       1984.10.12  
御当代記 東洋文庫 将軍綱吉の時代          戸田茂睡著 塚本学校注 平凡社       1998.11.11
( 2005年1月24日 TANAKA1942b )
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(7)当世流行の衣装くらべ
伊達もの対決、江戸か京都か
<伊達くらべ、鳶魚の見方──東西の衣装競べ> このシリーズで多くの文献から引用したのだが、江戸時代の文化をテーマにしたら この人を抜きにする訳にはいかない。 ということで、三田村鳶魚の「江戸の生活と風俗」と題された文庫本の「驕妻東西の衣装競べ」から引用しよう。
 天和改革は、寛文度と大いに状況が違っておりました。石六夫妻の処刑を見ましても、様子は知れます。
 小舟町三丁目石川屋六兵衛の女房が、天和元年五月八日、綱吉将軍が寛永寺へ廟参されるのを拝観に出ましたのが一件の端緒で、この女房は中橋上槇町の石屋久三郎の娘、親の久三郎は明暦大火の記を書きました亀岡石見入道宗山でございます。 久三郎は石垣普請の請負で大いに儲けた男、石垣成金であったから、自宅へ能舞台を拵えたり、別荘を持ったり、町人の癖に、平常乗馬を飼ったり、大名暮らしをしておりました。その贅沢な亀岡の家に生まれ、大町人の石六の妻になった。 石六の女房は、江戸中に自分と伊達競べをする女はいない、京都の富豪那波屋金右衛門の妻が衣装自慢だと聞きまして、わざわざ上京いたし、東山で両人が衣装競べをしたが、遂に石六の女房が勝ったという大変は伊達女、京都は織物も本場だのに、そこへ衣装競べに行く。 前にも申し上げました通り、この頃は、西陣もまだまだ、正徳・享保以後の発達に比べれば、幼稚なものでした。延宝度の諺に、「吉原の張りを持たせ、長崎の衣装を着せ、九軒で遊びたい」と申しました。 これは遊女についての諺でございますが、長崎は織物の産地ではありません。そこの遊女が江戸や大坂の遊女に勝った衣類を持っていたと申すのは、長崎は本邦唯一の互市場で、日本にない織物の入口であったからでございましょう。 寛永以来、輸入織物を珍重いたすことが一段と盛んになり、寛文度には唐物屋というものが出来ておりました。輸入織物の愛用が追々と下漸いたしますことも、目立ってまいります。驕妻二人の衣装競べは、国産品ではなく輸入品ですから、西陣や堺の生産とは交渉がございません。 従って、関東も関西もなく、資金次第で手に入ります。その石六の女房が、綱吉将軍の廟参を拝観に出るのに、別に趣向をつけたのではないが、平素華美な暮らしに慣れたままに、自身が着飾っていたばかりか、侍女には緋縮緬の掻取(かいとり)に秋草づくしの模様、三人の童女には唐織の小袖を着せ、下女二人にもはではでしく装わせて、 下谷広小路の仕立屋の店先を借り受け、店一面に毛氈を敷き詰め、金屏風を立てた所へ、ズラリと居並んで、香を焚かせておりました。そこを綱吉将軍が経過されまして、お目に留まり、あれは何者かとお尋ねがございました。 それから、役々へ命令がございまして、御徒頭(おかちがしら)が取り調べますと、石川屋六兵衛の女房と知れました。翌九日、町奉行所へ呼び出されまして、石六夫婦と倅甚右衛門は、江戸十里四方追放になりました。この宣告書には、衣裳法度の違犯を言わずに、山の宿の別荘が身分不相応なもので、常に奢っていた咎による、と書いてございます。 しかし、綱吉将軍のお目に留まって、一件を惹き起こしましたのは、驕妻等の着類で、勿論衣裳法度を犯したものであります。しかし、石六は御用町人であって、別荘も諸役人を招待して御馳走する場所なので、当時の言葉にいたせばテレンというやつでございます。 女房の衣裳法度違犯よりも、このテレンの方が事態が重いので、宣告書には重い方を書いたものでございましょう。記録には、女房以下の衣類を、将軍が見咎められての処刑だ、と書いたのが、二三のみならずございます。 さて、かような贅沢な女房が出ますのは、町人の奢り、驕商によるのであって、こう商人を驕らせるように何故なったか、時世を検討するためにも、天和改革を知らねければなりません。 その端的を衣裳法度に捉えるのが、便利でございます。その時は、織物も、染め物も、縫物も、寛文以後著しく進展いたしております。これを大略申し述べたいのですが、紙数も尽きましたから、残念ながら他の機会に譲りましょう。 (「江戸の生活と風俗」驕妻東西の衣装競べ から)
<江戸期女性の美と芸>
 衣装くらべは「女性史」という観点からも注目すべき出来事であった。こうした面からの見方も引用してみよう。
 江戸時代初頭における女性の闊達さはほかの時代には見られないほどで、新しい風俗の煙草を吸う女も出れば、街頭に男性をとらえる遊女も現れ、自由奔放の気分に満ちていた。それはまだ粗野の色合いの抜け切れないものではあったが、寛文から元禄(1661-1704)ごろになると洗練された美を描き出すのである。
 尾形光琳が秋草を描いた白の小袖を着たのは、江戸深川の材木商冬木家の妻女である。菱川師宣の「見返り美人」は誰をモデルにしたのであろうか。豪華な衣服や調度に千金を投ずる人のために、西陣の高級織物も発達し、友禅染も発明され、蒔絵や陶芸の進歩も見られたのである。
 江戸浅草に住む豪商石川六兵衛の妻は、江戸ではかくれもない伊達者であったが、江戸には相手になる者がいないというので、はるばる京都にのぼり、難波屋(なにわや)十右衛門の妻と伊達くらべをしたのである。それでもやまず、ついに公方様(将軍)に伊達をしかけて、世間にかくれない名をとろうというので、天和元年(1681)、将軍綱吉が上野の寛永寺の霊廟に参詣したおりをうかがって、山下の町屋を借りて、 室内で名香を焚かせ、金の簾を垂れ、金の屏風を引きまわした前に美女を並べたて、金の扇子で、その香あおぎかけさせた。これを綱吉が聞き咎めて、六兵衛は家財を没収されたうえ、追放された。その妻の寝所の天井にはガラスを張って金魚を泳がせ、寝ながら見ることができるようにしてあったという。生類憐れみの悪令を発すること二十年に及び、大名・小名が一人もこれを諫めることができなかったというのに、六兵衛の妻は伊達をしかけようという、ここに元禄女の代表を見ることができる。
 西鶴が扱った五人女にしても、恋のために命を捨てた女性たちである。終わりを全うした琉球屋のおまんにしても、恋のためには家を捨てて、衆道一筋の源五兵衛のもとに出かけて行ったのである。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
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<伊達くらべ、東西対決>  江戸で将軍綱吉に仕掛けた伊達くらべ、その張本人である石川六兵衛の妻は以前に京で伊達くらべをやっていた。 これは将軍綱吉への伊達くらべに較べれば大胆なことではなかったが、江戸と京との比較で考えると面白い。つまり、それまで江戸は田舎で京が都会だった。大坂から出津された物を「下り物」と呼び、舶来品のようにありがたがった。 当然流行に関しても東福門院がいた京の方が進んでいて、江戸はそれを真似ているだけだ、と思われていた。ところが伊達くらべでは江戸が京に勝ったのだった。江戸の人たちは拍手喝采したのではないだろうか。そのような伊達くらべ、例によって幾つかの文献から引用しよう。
元禄時代の着物の特色
 大名諸侯が天災地変やそれにともなう物価高で生活がいよいよ苦しくなっていくのと相反して、寛文年間(1661-1673)の終わりから延宝年間(1673-1681)の初頭にかけて町人の生活は向上し、これによって婦人たちの着物も大名家族とは違った豪華さを迎えた。 京都の丸山で、江戸の豪商石川六兵衛の妻女と、京の豪商難波屋十右衛門の妻女が桜花咲き乱れるもとで偶然に出会い、その衣装くらべとなった。江戸の妻女の梅の立ち木模様に対して、京の妻女は嵐山の風景を描いたものを着用、どちらもすばらしい身なりであったので雌雄を決めかねていた。 ところが、つぶさに江戸の妻女の着物を見ると、梅の蕾が全部、珊瑚で飾られていて、さすがの京雀も江戸の金持ちには勝てなかったという。この話は延宝年間に起きたものである、と『武野燭談』にみえている。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
那波屋十右衛門の妻
 およしは、京での伊達くらべに勝って戻ってきた。 
 相手は那波屋十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
京での伊達くらべ
 男は、遊びはしなくても商売──事業というものがある。それに全力を傾けることができる。面白いと言えば、これほど面白いことはあるまい。武士なら天下の政治にたずさわるという、これまた至極生き甲斐のある仕事を持っている。女には許されていないのだ。
 六兵衛の妻のような女には、我慢のならないことだ。彼女が衣装に凝り、江戸の名だたる町人の妻と衣装くらべをやり、もう相手がいないというほどになったのも、それほど衣装好きというのではなく、胸中の鬱を散じるには、ほかにいい手段がなかったからなのだ。
 上野や浅草など、社寺詣での時、春の花見、夏の水遊びの時、芝居見物の時など、衣装を見せびらかす機会はいくらもある。一般の物が見たこともないようなものを出入りの呉服屋に命じてあつらえ、頭から足先まで着飾り、伴の女中にも華美な装いをさせて、目抜きの場所に現れると、 諸人が目をむき、あれは石川の女房だ、きょうはまた、徳にすばらしい衣装だなどとささやき合う声を聞くだけでも、胸のつかえが下りる。
 これがまた、同じように張り合う町女房がいて、申し合わせたように、自慢の衣装を着、伴を連れて、さりげなく競い合うということになると、スリルは倍加する。暗々裡の衣装くらべが、どこででも行われている。
 その衣装くらべに、彼女はいつも勝ったという。
 江戸では、もう相手になるものがいないので、いざ、本場の京に行って、京童のどぎもを抜いてやりましょうと思う。彼女にすれば、京女に勝てば本懐なのだ。複雑はことは何もない。要するに勝ちたいのであり、人目を引き、名を上げたいだけである。あとはどうなろうと構ったことではない。……その底には女の深い不満があり、 さらには町人としての、特権階級に対する抵抗があることなど、彼女自身は意識していない。意識すれば、「伊達」というものが濁ってしまう。
 伝えられるところでは、京都の豪商、難波屋十左衛門の女房が古今の衣装道楽であるというので、衣装くらべをしましょうと言い送ったところ、いつでもお相手しましょうという自信たっぷりの返事が来た。
 そこで彼女は自家仕立てのけっこうな女乗り物に乗り、女中共を引き連れて東海道を下った。衣装くらべと言っても、どこぞの屋敷で二人が並び、ファッション・ショーまがいのことをするのではなく、名所旧蹟あたりを互いにさりげなく徘徊して、見物の諸人にどちらの衣装が勝っているか、その評判によって決めようという、優雅な趣向なのである。
 さて難波屋の女房は、緋繻子に京の景色を刺繍で入れた着物を新調して、目に立つところを歩いた。関東の田舎者に負けられるものかとばかり、その衣装は見る人の目をそば立たせるに十分で、これでは江戸者がかなうはずはないと、専らの評判になった。
 これを聞いても六兵衛の女房は別にあわてず、自分の衣装を着て京の名所をそぞろ歩きする。黒羽二重に、南天の立木を染めただけの、一見なんの変哲もないものだった。人が失望して、江戸とはなんと田舎だろうと軽蔑したところ、よくよく見れば、衣装の南天の実の一粒一粒が珊瑚の玉であったので、みながびっくりし、勝負の判定はくつがいされてしまった。
 この伝説は、あまり俗っぽくてつまらないが、彼女が衣装くらべのために、京都まで出張したようなことがあったのは、事実かもしれない。伊達のためなら、遠路もいとわないのである。江戸の女の意地もあったろう。また、京坂が日本の台所なら、江戸は将軍の膝元というわけで、新旧の張り合いもある。関東、関西の対抗意識は、なかなか歴史の古いものだ。 元禄前後までは、なんと言っても関西だが、時代が下がるにつれて、次第に関東の勢いが強くなってくる。だが、経済的にも関西がおくれてしまったのは、明治、大正という頃になってからであろう。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
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<武野燭談から──伊達くらべ> この伊達くらべの出典は「武野燭談」にあるようだ。そこで江戸時代の文章で読むのに苦労するのだが、ここに引用し、江戸時代の空気を感じてもらいましょう。
 商家の者共、大名の真似のしたさに、或いは聖護院宮峯入(しょうごいんのみやみねいり)の伴をし、或いは官家公達に扶持を乞いて、其家来と号し、槍を持たせ、馬を牽かせける様なる奢り重畳して、京に、難波屋十左衛門が女房、江戸にて石川六兵衛が女房など、奢りの余りに衣裳競べにとて、 態々江戸より京へ上りけるに、難波屋が女房、此事を聞くと等しく、緋綸子に洛中の図を縫はせて着たりけるに、江戸上がりの石川が女房、東山辺を徘徊せし日の出立(いでたち)は、黒羽二重に南天の立木の染小袖ぞ着たりける。 是は見合いはするまでもなき、京の方こそ結構なれ。何の衣裳競べぞ。と、例の京童言ひはやすに、彼の小袖を能く能く見れば、南天の実は、珊瑚珠を磨らせて、悉く縫付けさせたるなり。此に至りて難波屋が負けしとなり。是れ延宝の末の物語なり。 綱吉公御代初めに、此石川江戸追放となり、是れより町人と名の付きたる者は、悉く刀を差止められ、衣類は絹、袖の外堅く制禁せられけるに、京都は猶ほも華美重畳して、石垣茶屋と云ふは、名こそこはごはしけれ。河原を見下し、崖作りにして、四壁金襴純子を以て張り、床をば畳を止めて天鵞絨を以て包み、天井をば水晶の合う天井として、水を湛へ置きて金魚を放ち、 障子には硝子にて張り、珍膳美味を尽くして、美女是を配膳す。さる程に高位の人々、さあらぬ富人も、金銀次第の遊興放埒なることなりしを、稲葉美濃守正通、所司代職の時、天和年中禁止せられけるとか。古へは長以が心持の商家多かりしとなり。貞享年中より、全く町人の奢侈天下になくなりしは、珍重の事ぞかし。 (「武野燭談」巻之十四 から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23        三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸      相賀徹夫・児玉幸多 小学館       1980. 4.10 
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20 
武野燭談                             村上直校注 人物往来社     1967. 7.25 
( 2005年1月31日 TANAKA1942b )
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(8)スタイリスト尾形光琳の影響力
京都東山での伊達くらべ
<東山での衣裳くらべ> いくつかの「衣装くらべ」「伊達くらべ」について見てきた。伊達くらべとしてよく知られているのは次の3件。
@江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
A同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
B京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 この3番目の「東山での衣裳比べ」は『翁草』にあるので、これを引用しよう。
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<翁草>  或人曰、内蔵介世盛りの時、畫師光琳常にしたしく来る。或時内蔵介、光琳に謂て云く、来る何日東山に於て、一家の妻室参會の事有り。某が妻女も出席するなり。定て綺羅びやかなる出會成べし、右に就て能き物数寄有らん。 其の趣向奈何と問、光琳暫く考て爾々と教示す。内蔵介諾て教に任せ、扨(さて)當日に至り、晴れの會なれば、家々の妻室花を粧ひ、段々に端の寮重阿彌が許に来り、乗物を手ぐりにして奥へ昇入れ、数多くの侍女前後をとり巻、静に乗物を出たるさま、唐のやまとの美を盡(つく)し、綾羅錦繍の目もあやなるに、得なら薫り粉々として座に着ば、追々に家々の乗りものを昇入、 徐々と居流れたる有様、何れ天人の影向綺羅天を輝す計なり、などや内蔵介室の遅きと、各待頬ふ處に少し程有て中村の乗物をあないして繰入る。皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、 前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。
 内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。 内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
 其の後内蔵介は島より召返され、剃髪して風竹と號し、漂客と成る。昔に引替たるさまなりし、余も風月の宴に折々出會たる事有しが、世を諷せし中にも、昔の優美残りなつかしき風情も見たり。去れども付け合の句は多分述懐成しも實に理なり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)
<スタイリスト尾形光琳の実力> 「東山での衣裳比べ」について「山根有三著作集3 光琳研究1」から引用しよう。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。(「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
白と黒の美的効果
 山根有三はこう書いている。<「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる>と。「白と黒の美的効果」というと川久保玲を連想する。 それとも川久保玲は尾形光琳を研究したのかな?以前仕事で訪れた会社、そのビルにコムデギャルソンCOMME des GARCONSが入っていて、社員は皆真っ黒のスーツなのでショックを受けたことを覚えている。しかし当時はともかく、今では <蝶々> よりはずっと自然に受け入れられると思う。
 東福門院に始まった衣装道楽が、「伊達くらぶ」へと発展し、その美的センスは尾形光琳の白と黒の美的効果を狙ったものへと進化していった。そしてその美的効果は現代へと受け継がれている。
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<伊達くらべの盛行>  こうした伊達くらべ@ABについて、大石慎三郎著「江戸時代」から引用しよう。
 近世初頭、鎖国前もその後も含めてわが国の輸入品の圧倒的大部分は白糸と呼ばれる絹糸および絹織物であった。 豪奢を好むわが国の新興支配階級に、とくにその妻子たちにこのうえもなく絹が愛好されたからである。それは急速に国民の各層にまで伝播したらしく早くも寛永19年(1642)の幕法に「村役人は絹・紬・布・木綿を着てもよいが、 一般百姓は布・木綿以外は着てはいけない」とあるのでわかるように、この段階には絹・紬の使用が一般農民にまでおよび始めていたことがわかる。この傾向は農民的余剰が一般的に成立して、庶民大衆の生活水準が急向上をはじめる四代将軍家綱の後半から五代将軍綱吉の初政時代にかけてひときわ目立つようになる。 金持ちで派手好きな妻女は金にあかせ意匠をこらした衣服をつくって、それを仲間どうしで競いあった。この衣装競争のゆきつくところが、この時代を代表する社会風俗である「伊達くらべ」、つまり「衣装くらべ」であった。
 天和元年(1681)五月、綱吉が五代将軍になってまだ一年たっていないときの話である。彼が祖先の廟がある上野寛永寺に参詣したとき、上野の町を通りかかると、ひときわみごとに飾りたてて自分を迎えている女性が目についた。 彼女は金の簾をたれ、金の屏風をひきまわした前に、これも美しく着飾らせた八人の腰元を従えて立っていた。
 調べさせてみると浅草黒船町の町人石川六兵衛の妻だということであった。綱吉は身のほどをわきまえない者、ということで早速この六兵衛一家を闕所処分(財産没収のうえ追放)の刑にしているが、彼女pの言い分は「自分は将軍の行列に”伊達くらべ”をしかけたまでだ」というのであるから面白い。 衣装くらべも行きつくところまで行ったものである。これよりさきのことであるが、この石川六兵衛の妻は、江戸には自分の相手になる女性がいないというので、はるばる京都にまで”伊達くらべ”に出かけている。このとき彼女の相手をしたのは、京都の小紅屋権兵衛の女房とも、また那波や十右衛門の妻女だともいわれている。
 ともかく石川六兵衛一家は前記のように闕所になったが、それは天下の将軍に”伊達くらべ”をしかけたからで、”伊達くらべ”そのものが悪いというわけではなかった。元禄の繁栄のなかでそれはますます盛んになったようである。
 たとえば尾形光琳の最大のパトロンであった銀座商人中村内蔵介の妻も、伊達女として有名であった。彼女が京都の東山で行われた衣装くらべに、尾形光琳の助言をいれて、みずからは白無垢の着物に羽二重の裲襠(うちかけ)を着、その侍女たちには花のごとく美しく着飾らせたのを従えて、なみいる伊達女たちを圧倒したという話は有名である。 また光琳が、江戸深川の豪商冬木屋の妻女のためにつくった”冬木小袖”は、当時の伊達の到達した美として有名である。
 東福門院和子は皇太后でもあるので、さすがに自ら”伊達くらべ”に出ることはなかったが、このような”衣装狂い”のオピニオンリーダーでもあり、またそれ故に衣装製作技術の最大の育成者でもあった。そして彼女の愛顧のもとで技術をみがいたのが尾形光琳の生家雁金屋であった。 (「江戸時代」から)
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<「女郎十一人、衣裳比べの花を競う」> これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
 難波西横堀新町の一廓、川流山瓢箪寺に、名題の太夫に揉み込まれし禿、出家して松の上座を許され、今日水上の新談義ありと、夜見世の燈明輝き、寺中九軒の其一ヶ寺、吉田院方には五々三の高盛、嶋臺の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、夜着蒲団錦の山を重ね、一ツ家の女郎十一人、 衣裳比べの花を競ひ 、次の間迄に居流れ、千秋万歳の千話箱火燵に、唐織の蒲団を掛け、能化の姉女郎寄掛て聴聞あり。 教おかれし客を泳がし、節供・正月を括りつける方便、退客を留めやう、指・爪・髪・起請の書時、泣いて見せる潮合い、振ると振らぬ床入りの身拵、色道至極の奥義を示され、今日口明け初談義、聴衆は粋の女郎共、頭の白き碩學の遣手、耳を澄まして聞居たる。新艘子擧屋に陞って發願の紐を解き、紅舌を動かし述べられける。 (「傾城禁短気」五之巻第一から)
<西鶴「好色五人女」の衣装くらべ>  「世にままならぬものは情の道」と「源氏物語」にも書き残してある。
 この春は石山寺の御開帳というので、都の人々は連れ立って、東山の桜を見捨て、逢坂山を越えて出かけるのであった。参詣の女たちは、おおかた当世風のぱっとした旅姿で、誰ひとり後の世の安楽を願ってのお参りとは見えなかった。みな衣装くらべの姿自慢、その心には観音様もふき出されることだろう。
 そのころ、おさんも茂右衛門をつれてお寺に参り、この花のように我々の命も、いつ散るもnやらわからない。この浦山の景色をまた見られるかどうかわからない身の上だから、今日の思い出に存分楽しもうと、二人は瀬田から小舟をかりて湖に漕ぎだした。 (「現代語訳 西鶴全集4 好色五人女」人をはめたる湖 から)
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<「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」> 経済学の用語で、プライスメーカーとかプライステーカーという言葉が使われる。これを「流行」について使えば、「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」となる。 東福門院和子、遠山久太夫の妻のお虎、細川家の女で烏丸光広の妻が当時のトレンドメーカーであったとすれば、石川六兵衛の女房、難波屋十左衛門の女房、中村内蔵助の妻、冬木屋の妻女がトレンドテーカーであったと言えるだろう。 そうしてさらに多くの女性がトレンドテーカーになり、江戸時代初期の流行を作っていった。それはそれまでの時代には考えられない「生き生きとした女性の生き方」であった。江戸時代初期は、女性解放とまでは言わないが、女性が元気になっていった時代であったのは間違いないことだ。
現代の伊達くらべ
こうした伊達くらべ、現代ではどうなのだろうか?と考えると、毎日、繁華街で伊達くらべが行われているのかも知れない。それでも改まって「現代版伊達くらべ」を行ったらどうだろうか? 例えば東京の日比谷公園で、桜の季節、花見を兼ねての「伊達くらべ」。50人ほどの参加者を募って、2時間程度、園内散策、お茶会、などを行い専門家による審査を行う。入賞者にはスポンサーからの商品授与がある。 スポンサーには化粧品メーカー、繊維メーカー、家電製品メーカーなどが参加する。一般人もこれを見て楽しむ。芸能ジャーナリズムや芸能プロダクションが多く取材に来る。江戸時代がブームなら参加者も抽選をするほど多く集まるだろう。 ミスコンテストを女性蔑視のように非難する人もいるようだが、江戸時代の伊達くらべからはそれとは違った、「元気な女性」が感じられる。ということで、現代版伊達くらべは多くの人の支持を受けるだろうと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
翁草1                               神沢貞幹 歴史図書      1970.10.
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気             八文字屋本研究会 汲古書院      1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気            野間光辰 岩波書店      1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女            井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館       1976. 7.31
( 2005年2月7日 TANAKA1942b )
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(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪
大江戸美少女噂話
<ミーハー的経済学> アマチュア・エコノミストに必要なのは「好奇心」と「遊び心」。東福門院から伊達くらべと話を進めてきた。ここではミーハー的な話を取り上げることにする。それがアマチュア・エコノミストらしい態度だからだ。 その話題とは、「大江戸美少女噂話」。朝廷の話から、豪商の妻女の話になり、それが江戸市井の美少女の話になる。だんだんと庶民に近い話になってくる。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では特権階級の贅沢の話で終わっている。江戸時代の「趣味と贅沢と市場経済」では一部特権階級の話が、庶民の段階にまで広まって行く。 これが特徴だ。ということで、例によっていろんな文献から、江戸の美少女の話を引用しよう。初めは、「笠森稲荷のお仙」から。
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<お仙の茶屋>
♪♪ 向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて、ザッとおがんでお仙の茶屋へ、
腰を掛けたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見たらば、土の団子かお団子団子、
この団子を犬にやろうか猫にやろうか、とうとうとんびにさらわれた ♪♪
 この江戸の童歌はよく知られていて、いまでもうたわれる。歌のなかに出てくる「お仙の茶屋」が、谷中笠森稲荷の門前にあった。鍵屋という水茶屋で、その店の看板娘がお仙(お千)である。
 鍵屋の主は五兵衛というもので、お仙はその娘であった。明和六年(1769)にお仙は十八という娘盛りであった。「美なりとて、皆人見に行く」と、大田南畝の『半日閑話』にある。
 お仙はたいした評判で、同書によると、錦絵の一枚絵、あるいは草双紙・双六・読み売りなどに、その艶姿が出て、手拭にも染められた。芝居にもとりあげられ、またいっそうの人気をあおった。 (「図説人物日本の女性史7」多岐川恭著「笠森お仙」 から)
 明和のころ、江戸の市井では「評判娘」といわれる美女たちが注目を集めていた。美女といっても、遊女や女形役者ではない。その多くは、盛り場などの水茶屋で働く美人の茶汲女であった。
 谷中笠森稲荷の鍵屋お仙、浅草寺(せんそうじ)境内の本柳屋お藤、同境内の茶屋のおよしらが特に有名で、のちに明和の三美人と称された。なかでも、薄化粧の自然美のお仙と、化粧のやや厚い都会美のお藤は大評判で、江戸の美女一、二を競った。 人気の評判娘は、絵双紙や芝居などの題材にもなり、鈴木春信らが描く錦絵は飛ぶように売れた。さらに寛政期には、喜多川歌麿らが描いた高島おひさをはじめ、難波屋おきた、菊本おはんの、いわゆる寛政の三美人が、世人にもてはやされた。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」竹内誠著「江戸の美人たち」 から)
 ところで、三美人の筆頭、つまり当世風に言うなら「ミス江戸」の椅子は、どうやらお仙のものであったらしい。 稲荷参道の水茶屋で、来客に茶を供し菓子を運ぶこの娘は、浅草境内で石臼を回し揚枝を商ういま一人の娘はと、絶えずその美貌を競わされている。しかし、当時流行の「娘評判記」の類が、およそ軍配を上げるのは、お仙の方であった。 たとえば『江戸評判娘揃』は彼女を一位に選び、『新板風流娘百人一首見立三十六人歌仙』もまた、大極上上吉にお仙を据えていた。さらに、大田南畝や伊庭竹坡、あるいは加藤曳尾庵など好事家たちの筆も、惜しみなく彼女に江都第一の美女の誉れを与えている。
「お仙」の名が、文献の上に初めて現れるのは、明和二年であるという。その年の数え歌の中で、「八つ谷中のいろ娘」と歌われたのがそれ。そして、同五年には、狂言の中島三甫蔵の科白に、「采女ヶ原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙」とその名を読み込まれ、また、ほぼ同じ頃から、錦絵や、双六、手拭いなどに、その絵姿が頻出するようになった。 大田南畝の「半日閑話」は、「お仙十八歳、美なりとて、皆人見に行く」と伝えている。
 ここで、私どもは、一つのことに気付かされる。すなわち、明和の美少女「お仙」は、お仙ばかりではなく「お藤」やその他の娘たちもそうなのだが、彼女たちは、「物語の種子」となるような格別の事件とも無縁に、従って物語的興味を煽るべき何らの趣向とも関係なく、ただ、その美しい姿形だけが注視されたのだった。 ひたすらに見える姿の美しさが話題となり、そのさながらの姿態に人々の視線が吸い寄せられる……。そして、このことが指し示すのは、「物語」を解体し、「映像化された身体」という形で「断片」を浮上させる、江戸後期のまなざしに他ならない。(中略)
 さて、このあたりで、私どもの視線を、いま一度、明和の娘たちに戻そう。先に触れたように、お仙やお藤の名声は、格別の事件とも、あるいはそれを種子として枝葉を繁らせた物語とも無縁であった。ただ、人々の見開かれた目に、美しい肢体として像を結び、それが市井の噂の中に浮上してきたのだ。 彼女たちは、何よりもまず、とび切りの美少女として衆の目をそばだたせる。そして、噂に高い美女ぶりに一目触れようと蝟集する好奇の視力は、彼女らの姿・形を、さながら一枚の絵のように切り取ってその美形ぶりを鑑賞し始めるのだ。こうして、生身の娘たちのたたずまいが、飽くなく見ようとする視力で「お仙」や「お藤」という一枚絵に変貌させられたとき、彼らの一瞥を、画面に引き移して、美しく紙面に摺り着けて見せたのが、錦絵作者、とりわけ、鈴木春信だったということになる。  (「大江戸漫陀羅」本田和子著「美少女へのまなざし」 から)
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<江戸の町娘おしゃれ革命>  今から230年前、浮世絵師鈴木春信は、その頃江戸で評判だった3人の美人を描いた。3人の美女とは、役者で女形で大評判の瀬川菊之丞。谷中・笠森いなり門前にあった茶屋の看板娘お仙。それに浅草の楊枝屋の娘、柳屋お藤であった。 のちにこの3人は「明和の三美人」と称された。このほか明和の評判娘は、浅草の茶屋の娘とされる蔦屋およしをはじめ、おりん、おそでなどが有名で、いずれも20歳前後の町娘である。
 3人の中で特に評判が高かったのが笠森お仙で、その名は明和年間(1764-72)に江戸じゅうに知れ渡った。化粧、髪型、履物からかんざし、櫛などの装飾小物に至るまで、江戸の町娘のおしゃれ革命は、このお仙の登場から始まった。(中略)
 お仙の名を一躍有名にした鈴木春信は、当時、美人画で名高かった浮世絵師である。その春信が谷中にある感応寺の笠森稲荷門前の茶屋に立ち寄った折、そこで参詣人にお茶を注いでいる茶屋娘お仙の姿を見て、その美しさに心惹かれた。
 それまで吉原の遊女などを題材にたくさんの美人画を描いていたが、そうしたいわゆる商売用の美しさではない、素朴で清楚な美しさをお仙に見出したのだった。そして、お仙をはじめとする町娘を描くことを決意したと伝えられる。
 お仙は当時十八歳。田畑が広がる中に寺社があるだけの江戸の端、谷中の農家で生まれ育った。
 お仙と出会った頃、春信はいくつもの色を重ねた浮世絵、「錦絵」の絵を手掛け始めたところだった。その錦絵の特徴である精巧さ、華麗さを生かしてお仙の姿を色鮮やかに描き、それが版木に彫られ次々に摺られていったのである。
 それまで普通の町娘を描いた美人画というのはなかったので、人々に大きな衝撃を与えた。評判は評判を呼んで、一回で二百枚は摺られたと思われるお仙の美人画は、刷り上がるのをまって飛ぶように売れた。また茶屋は江戸のはずれのあったにもかかわらず、お仙を目当てにやって来る人々で賑わった。
 茶屋の娘にすぎなかったお仙の人気が沸騰したことで、江戸には次々と町娘のアイドルが登場する。
 当時、江戸で人気のある美人の名前、容貌、評判そして居場所などを記した「娘評判記」と総称される読み物がたくさん出版された。そのうちの一つ「江戸評判娘揃」の中で、お仙は「大極上上吉」と、最高の格付をされている。
 お仙の人気は男性だけではなく、女性の間にも広がっていった。「美しくなりたい」と願う女性たちは、春信が描いたお仙の絵を見て、そのファッションを取り入れることに夢中になるのである。櫛やかんざしなど、お仙と同じ物を身に着けたいと思う娘たちのために、お仙関連商品も売られるようになった。
 蜀山人の名で知られる大田南畝の「半日閑話」、明和六年(1769)の条に、「……錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形に作り奉納す。……」とあるのを見ても、あっという間にお仙がアイドルとして江戸じゅうに広まった様子がわかる。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
時代が変わっても失われないおしゃれ心  天明七年(1787)、老中松平定信による寛政の改革が始まり、人材登用、財政節約、農村新興などと同時に風俗取締りも掲げられた。質素倹約を命じ、町娘が自由に楽しんだおしゃれも、その取り締まりの対象となる。
 華美な服装や髪飾りを禁じる様々なお触れが相次ぎ、寛政七年(1795)には、女髪結禁止令が出される。女性が髪を自分で結わないのはぜいたくであるとし、女髪結は転職を命じられ、違反する者は厳しく罰せられた。
 さらに、美人の姿を広く伝えることでおしゃれブームを巻き起こした浮世絵にも、厳しい規制が加えられた。絵の中に娘たちの名前を書くことを禁じ、ファッションリーダーが生まれないようにしたのである。
 しかし、この改革はあまり効果を見ず、江戸の女房、娘たちは女髪結を家へ呼んで、「知り合いに頼んだ」として秘かにおしゃれを楽しんだりした。江戸庶民のしたたかさが、こんなところにもあらわれている。
 そうした中で、一世を風靡したお仙の名もしだいに人々の話題にのぼることがなくなり、手鞠歌の中に残るのみとなった。
「向こう横町のお稲荷さんへ一銭あげてざっとおがんでお仙の茶屋へ……」
 この手鞠歌は江戸時代から明治、大正、昭和と長く歌い継がれ、お仙に対する親しみを後世の人々の心に残した。
 それは「おしゃれをしたい」という人々の気持ちが、厳しい寛政の改革の中でも失われることがなかったからかもしれない。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
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<大田南畝「半日閑話」>  「大江戸美少女噂話」、当時はどのように噂話になっていたのだろうか?いつもながら江戸時代の文章、読み辛いのだが、これで当時の空気を感じて頂きましょう。
◆笠森お仙、お藤 谷中笠森稲荷地内お千(18歳)、美也とて皆人見に行。家名は鎰屋五兵衛也。錦絵一枚絵、絵草紙、双六、よみ売等にいづる。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形に作りて奉納す。 (明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に笠森いなりに水茶屋お千と。是より評判有、其秋七月森田座にて中村松江おせんと成る)
浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤も又評判あり、いてう娘と称す。錦絵、絵草紙、手拭等に出、よみうり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで、一枚絵に出る。
◆童謡 なんぼ笠森おせんでも、いてう娘にかないやしょまい。(実は笠森の方美なり) どうりでかぼちゃが唐茄子だ、といふ詞はやる。
◆娘評判記 此節娘評判甚しく、評判記など出る。よみ売歌仙などにしてうりあるく。公より是を禁ず。
◆とんだ茶釜 此頃、とんだ茶がまが薬鑵と化したと云ことばはやる。
 按に、笠森いなり水茶屋のおせん他に走りて、跡に老父居るゆえのたはぶれ事とかや。上野山下の茶屋女林屋お筆、もとは吉原四つ目屋大隅といへる妓なるよし。人みな見に行。名づけて茶がま女と云。錦絵に出る。
◆鈴木春信死す 十五日、大絵師鈴木春信死す。(この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかゝずして云、われは大和絵師也、何ぞや河原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。 役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す)
◆桜川お仙 芝愛宕下薬師堂水茶屋の美婦評判有。名付て桜川お仙とも、又仙台路考とも云。(去年あたりか不詳、仙台の産なるや)
(「大田南畝全集」第11巻 半日閑話 から)
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<江戸評判娘揃>   伝え聞婦人。軍中にて名を残せしをかぞふるに、漸く片手を満す。遠きおもんはかりなければ抔(など)と。上下(かみしも)でで羅れたら。何といゝわけを。駿河の不二より。高ひこと葉も高高と。唄三味線の耳には。何白雨(なにいふだち)と。 こちらがふっても。あちらはふらぬ。ふられぬように。あそびこのすが。しゃれものと。呑舞うたへ二つ三つ。ちょっきりこうと是をかう持て。受取たりや其次は。いよ市川と誉めさわぎ。無礼もみんな酒にきせ。きせ綿をあたゝめて。酒をいざや呑もふぞと。引受引受。其時は楚の時。嗚呼面倒な。是何ぞ五十年。女の徳をもふさは。 さもありなむか。仏も元はぼんぶのしるし。開帳場でさへ。女中者内陣へと。側近く拝ませ。麁相は勿論いゝあやまりも。女だけとそれなり。すぜうのしれぬ娘も。稽子なれは。貴人かうけに。お道外取附引附。恋なればこそ。手を取てのたまわく。屋敷のうち迄。眠りながら人耳寄行。婚礼には。呑始じめて男に戴かせ。又左ぎってうに楊弓を射習。 なが袖月夜もの。しんごさ息子かぶ。みなぶらつきの相手なり。亭主に飯をたかせ。摺子木は生きたを掴む。其外かぞふるに。いとまあらんなれど。ながいはおそれ在原の。昔男も思い出され。とても世を送るとならば。女にこそと。寝がへりをして。又れいこくの時。下になるを不思儀と思へは。茶人の女房が。始じめたか。上になる事を案事。 遊女はとつぱづして。男にくらいこませ。じんぜうな口つきでも。蔵も屋舗も。運ばせるを見ては。さりとは広ひ。江戸中で。かくれなき。大和茶の娘揃ひを。よみ売に拵らへ売歩行と。日毎にきかぬ事はなかりき。我も又。いわきならねは。其よしあしをと。早朝から。歩行廻り。今夜は根津に。起きどほし。谷中時分に帰へらんとおもへど。 いやいや飛鳥起ねはならぬ。身のうへと。道を急ひで。笠森にて日暮しぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲けをさせしも。此娘の連のとくならんと。涎と汗とをぬくひながら。漸やどへ帰へり。じぐちまぢりのいゝ送りの手耳於葉。狼に衣をきせて。古寺へなをせし如く。あれ是とつまらぬ事而斯已おゝく。一ツとしてつかまへ所はなし。 ひやうたんで鯰をおさへるにひとし。嗚呼馬鹿な事に。紙をよごしぬとおもへば。よはりふしたる。枕の夢はさめたり
         海月庵
  明和丑  穐   無骨
江戸評判娘揃惣目録 時行娘之部
 武蔵野の秋広々と 咲乱たる見立茶屋花尽し左如し

巻頭
大極上上吉 鎰屋お勢ん 谷中笠森座 
名にしほふ江戸むらさきと名も高く人々の気にあいこび茶当世の立もの其色深く染たがられますもむりとはさらさらおもはれませぬ行さきざきて評判をききやう
 紫は江戸の手柄や桔梗まで

極上上吉 甲州屋お松 高なわ座 
若ひ衆の目に月夜にはあたまがぶらりしゃらりとそゝり歩行人々にも次第色深く袂の庭も気色に送りさりとは美しくそのひやうばんも高なわの葉鶏頭
 行秋に猶色深し葉鶏頭

大上上吉 玉屋おまん 鷺森座 
いかにもしっとりとやさしく打あかっておとなしく見へますさりとはてい女とふもいふ所はあるまいと見すしらぬもの迄も見ぬ恋にこがれて毎日毎日御噂をきくの花
 風に散あふなげはなし菊の花

大上上吉 住吉屋お富 浅草座 
なる程心も住吉やきれいにさっはりとして人好のあるさりとはおしあわせしせんと色は穂に出てそのたをやかなるやうすは陰なき月影にうつりすなをなる当世風はすゝきすゝき
 行秋を招や風の糸薄

上上吉 万歳屋お政 下谷広小路座 
人々の気にふれ菊は夕暮の秋風は身にしみしみと若ひ衆はとかく内證てつかわれます少しの情に世を送るよりははるかませ菊と夜昼となき評判はきつゐおかほのしら菊しら菊
 白菊や闇にあかるき立姿

巻軸
極上上吉 柳屋お不二 浅草いてふ座 
青柳硯に見へしも誠にことはりなり二町まちでも聞及びまづ柳屋へより風が妻の役は里香がつとめても鷺考いゝふんのないしこなし外にはなし地の乗物にめしてもなかなかひけはせまいせまい見せでもひやうばんはさりとは広ひ秋野のに咲乱れたるおみはへし
 名にめでゝ落馬あぐなしおみなへし
(「洒落本大成」第4巻 江戸評判娘揃 から)
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<あづまの花> とうざいとうざい高ふは御ざりますれど是よりおことはり申上まするとまくのそとの切口上年々かはらぬ役者評判記は見るばかりが百銅のいた事まれに出る吉原ひやうばんきな見た跡が百疋のいた事 爰にあらはす芸子ひやうばん記はわづか小銅で御もとめなされおわかい方には御近所の芸子などはその被成かたにて物いらずに御手に入る法も有と承はればくはしく御らんのうへ右の儀はぢきぢきの御相たいに被成ませ利勘先生此だん申上たく 下手の長口上上牛のせうべん十八丁芝のはてから神田の四ッ谷赤坂かうじ町深川本所浅草下谷すみからすみの若ひ衆へそのためのおことはりすらりっとさやうに明て和らけき年
  いきな月
     しゃれる日
          利勘先生勘当之門弟
                  道楽散人著
たちばな町 路考娘
瀬川菊之丞にいきうつしなるゆへろかう娘と称ずおよそ唐天ぢくはいざしらず日本の地においてこのきみにならぶはあらじ鼻すじ打とふりいろのしろき事ゆきかとあやまたれ 首すじなどははくちやうのとつくりにひとしゆびさきのじんじやうさ浅草くわんおん地内の女yすじに異ならずいきすぎ少もなく物ごしうるはしく義太夫の大めいじん長うたさみせんおどりの上手かみのゆひかたはでならずじみならずわるじゃれはきついきらいしらね 御方は武家そだちと見給ふもことわりぞかし
日本がし 慶子娘
中村富十郎によくにたるゆへ慶子むすめとせうずうそろそろとしまの部に入るといへ共いろつや十五六に異ならずひとへに艶顔すぐれしゆへなるべし せい高くしてほっそりと柳ごし三弦ぶんごの大めいじん少しかうまんのきみあれども是はきりやうと芸とつりあふ故なるべし 一め見る人はあはれ此世へ出たる甲斐に此やう成君とせめて一夜のまくらをかはさば死てもだいじないなど思はざるはなしまことに美女の上の吉也
横山町 里江娘
中村松江によく似たるゆへ里江むすめとせうず唐のやうきひ我朝の小野ゝ小町は当世見し人なければその実しれず今此やうなうつくしい君が又とあらばたて引がしたいどふ共こふともほむるに詞なし此きみに思はるゝ人は前生にどのやうなよきたねをまきしやらん当時の色男たち身だいを棒にふる共 此きみを一生の手がらに手にいれ給はゞまつだいの高名成べしびじんの親玉外にはないぞや
品川 亀音娘
瀬川雄次郎ににたるゆへ亀音娘とせうず芸もよくいひぶんもなけれ共おりおりむかばらをたつ事有又人のはなしのこしをおるか得手もの也何さま心にまがれる所有とみへたり
かうじ町 都巨娘
嵐小式部ににたるゆへ都巨むすめとせうずすこし女太夫といふ身あり手ぬぐひをかたにかけると人のみゝに口をよせてさゝやくがゑて物也 少しわきが有との説なれ共山の手ニてはひやうばんよし
(「洒落本大成」第4巻 あずまの花 から)
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<主な参考文献・引用文献>
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1 
大江戸漫陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 5.10  
NHKニッポンときめき歴史館5   NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会    2000. 3.10 
大田南畝全集 第11巻 半日閑話                 濱田義一郎 岩波書店      1988. 8.29 
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花      水野稔 中央公論社     1979. 4.10
( 2005年2月14日 TANAKA1942b )
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(10)美少女を取り巻く文化人
平賀源内とその仲間たち
<ひろしです> 東福門院和子の衣装道楽から始まり、豪商の妻女たちの「伊達くらべ」へと進み、さらに錦絵に描かれた「お仙」をはじめとする美少女へと話を進めてきた。 ところでこうした傾向は現代ではどうなっているのだろうか?そう考えている内に、こんなことを言う人がいるのに気づいた。
 ひろしです。渋谷のギャルがみんなAV女優に見えるとです。 
 夜、センター街を歩いてみる。「なるほどな」と思う。
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<絵師春信と源内> お仙をはじめとする町娘が話題になったのは、鈴木春信が描いた錦絵の影響が大きい。そしてその錦絵は1765(明和2)年、一気に多色摺りへと進化した。その進化に平賀源内が大きく関与していた。このあたりの事情について芳賀徹著「平賀源内」から引用しよう。
 春信の錦絵創製というのは明和2年のいわば突発的ともいうべき美の開花であった。その突然の開花が生じるには、勿論当年の絵暦ブームのプロデューサー菊簾舎巨川からのさまざまの具体的な注文や指示、また交換会での絵師同士の啓発や競争が、強いうながしになったにちがいない。 だが、またその創製のプロセスにはいずれかの段階で源内の思いつきやヒントが生かされていたというのも、やはり大いにありうることだったのである。
 浮世絵は単純な墨摺りの木版から始まって、丹絵、紅絵、漆絵へと手彩の色数を少しずつ増し、その摺りや彩色の技法もしだいに複雑にはなってきたが、それが紅摺絵という紅と緑を基本にする2〜4色ほどの版彩画にまで進んだのは、1740年代半ばのころ(延享期)であったという。 それから20年ほどは、いくらか色数がふえる程度でその段階で足踏みし、春信自身にしても明和元年まではもっぱらこの紅摺絵を制作していたのだが、それが翌2年からは一挙に美麗な多色摺の錦絵へと転じたのである。
 そのにわかな変化を小林氏は蛹から蝶への華麗な変態(メタモルフォーゼン)にたとえるが、まさにそうとでもいう以外にないような錦絵の誕生には、さまざまの技術上の新工夫と、それを求める新しい美的表現への意欲とが働いていた。 一枚一色の版木を画面に次々に何枚も寸分狂わずに押しあててゆくための「見当」のつけ方の改善、地潰し、空摺り、キメコミといった素材(木と紙)の質をフルに生かした技法の驚くべきソフィスティケーション、胡粉を混じえたしっとりと不透明な中間色の多用、そしてそれらの一枚の上に何回も繰り返される馬連による摺りの強い圧力に十分耐えて応じる良質な奉書紙の採用── ざっとあげてもこれだけの新しい工夫が集中して、あの匂い立つばかりの春信の錦絵は蝶のように舞い立ったのだが、その変態の全課程とはいわずとも、そのどこかで源内のアイディアを貸すということがあったのではないか。
 およそカラクリの類が好きで、その発想にも富んでいた源内、物産学を通じて諸国の物産や種類の顔料にくわしい上に、絵やデザインにももともと心のある源内であった。製作現場の彫師、摺師ももちろん絵師春信とともに、パトロン巨川の意匠を実現するためにありったけの智恵と経験とを傾けたであろうが、それでも制作が行きづまり、失敗が続くようなとき、春信は同町内の、歩いて数十間ぐらいの浪人学者源内宅にふらりと寄って、 中津川座の磁石石や方解石のころがる間に坐って、なにかと相談することもあったのではないか。
「どうなさいました、春信さん、例のお旗本の大小(絵暦)は。……」
「いや、それがね、実は源内先生、例のところがどうもきれいにいかなくって……」
などと、1765年ごろ、日本・江戸の神田白壁町における平賀源内と鈴木春信とのやりとり──古今東西の歴史の上で、これほど魅力的な二人の対話は、ちょっと他に思い浮かばない。
 何にせよもの珍しいこと、抜きんでてあざやかな思いつきや発明は、よかれ悪しかれみな源内のものとしてしまう、後代のあの「源内病」に、万象亭森島中良はすでに罹ってしまっていたのだろうか。しかし源内は、例の「はこいりはみがき嗽石香、はをしろくし口中あしき匂ひをさる」(明和6年)であろうと、あるいは「きよみづもち、りやうごく橋辺新見勢ひらき仕候」(安永4年?)であろうと、江戸町人からの頼みならば、ごく気軽に、はなはだ達者に、 口上書き(CM文)を書いてやるような「才気」と「侠気」に富んだ男であった。同町内の町人絵師春信の絵と才に、三歳ほど年下であろうと源内が惚れ込んで、なにかと智恵を貸し助けてやったということは、やはり「大いにありえた」ことであった。「吾妻錦絵」との命名(ネーミング)さえ、もしかすると源内のものであったかもしれないのではないか。
 春信は明和二年からわずか五年ほどの間に、あのほそやかにコケティッシュな春信スタイルの美少女たちの、八百余点の錦絵で、明和の江戸を、いや1760年代の世界を美しく飾って、同七年(1770)六月、四十五、六歳であっという間に世を去ってしまった。「徳川の平和」を、そのなかで甘く熟した夢を、そのまま宿したような彼の作品は、絵暦のサークルを離れ独立した錦絵として売り出されると、もちろん江戸中の大評判となった。 越前武生の手工業(マニュファクチュア)の特産である奉書紙に、秘技を尽くして摺られ、一枚一枚畳紙に包んで売られたから、それは従来の浮世絵とは段違いに高価であったが、それでもよく売れたという。当時の町人層は懐も肥えたが眼も肥えてきていたのである。
 吾妻錦絵の評判が高まると、さっそくそれを詩に詠んで、それによって自分を売り出すような青年才子も登場してきた。戯名陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、実は幕府の御徒といういちばん下っ端の役人大田南畝(1749-1823)で、その処女狂詩文集「寝惚先生文集」(明和4年)を出版したときは、まだ数えで十九歳の若者であった。
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<鏡餅を上から見た絵を描いてごらん─小野田直武> この時代のキーパーソンは平賀源内と田沼意次だ。天才であり、狂人であった平賀源内、失敗ばかりしていたが彼から影響を受けた人が沢山いる。そうした源内と取り巻く人たちに目を向けてみよう。
 源内は1773(安永2)年6月、秋田へ向かった。秋田藩鉱山技術指導に招聘され、その後何度か江戸と秋田を往復している。藩主佐竹義敦は絵心があり、家臣の小野田直武とともに源内から絵の指導を受けている。その折り源内は直武に言った「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」と。直武は初め意味が分からなかったが、源内は西洋画の手法を直武に教えたのだった。
 角館生まれで角館育ちの小野田直武(1749-1780)が秋田本藩の「銅山方産物吟味役」とも呼ばれる役に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立したのは1773(安永2)年12月のことだった。江戸へ来て直武は源内の家に同居し、絵を描いたり、源内を手伝って金唐革を政策したり、司馬江漢と西洋画について話合ったりしていた。その直武が源内の紹介により杉田玄白など『解体新書』翻訳のグループに紹介され、その翻訳書の挿し絵を担当することになる。 そして『解体新書』が1774(安永3)年8月に刊行された。実に短期間の内に直武は挿し絵を描いたのだった。そして、『解体新書』は直武の挿し絵があったからこそ価値があった、と言われている。源内も予想していなかった才能を発揮した。
<『解体新書』翻訳─中川淳庵・杉田玄白>
中川淳庵(1739-1786)は江戸生まれで江戸育ち、本草学者田村元雄の社中で源内と一緒だった。 その淳庵を通して源内と知り合い、生涯最良の友となったのが杉田玄白(1733-1817)であった。その玄白は源内が死んだあとその碑に一文を書いている。その最後の部分を引用しよう。
 嗟(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ
 行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ
 源内はドドネウスの『阿蘭陀本草』を1765(明和2)年に買って、これを翻訳したかった。二度目の長崎留学、それは田沼意次によって幕府の仕事として認められたのだが、結局オランダ語はものにできず、翻訳はできなかった。それだけに、玄白等の『解体新書』翻訳は悔しかったに違いない。しかし源内はそうした感情は出さなかった。「意地が廃れりゃこの世は闇さ」とイキがっていたのかも知れない。 この長崎留学について四年後に書いた源内の手紙がある。
 四年以前、田沼候御世話ニて、阿蘭陀本草翻訳のため長崎へ罷越し候。段々珍書共手ニ入れ、且つ蛮国珍事共承り出で、御国益二も相成り候事共数多御座候。(服部玄広あて、安永二年四月二十五日) (「平賀源内」から)
 こうして源内と意次の関係が浮かびあがってくる。
<日本初の銅版画─司馬江漢>
源内が神田白壁町に住んでいた頃、そこには小野田直武も同居していた。そして鈴木春信も度々通ってきた。そこに司馬江漢もいた。彼は初め鈴木春重となのり、春信の贋作を描いていたが兄貴分にあたる直武の助言で西洋画を学び、後に日本で初のエッチングを始める。源内からすれば孫弟子にあたるということか。 源内の『根南志具佐』に書かれた江戸の風景、それにピッタリなのが司馬江漢の「両国橋図」だ。江漢は絵だけでなく文章も沢山書いている。
<松平定信ににらまれた下役人─大田南畝>
大田南畝(蜀山人)が19歳で「寝惚先生文集」を出したとき、その序文を源内が書いている。
 <馬鹿孤ならず、必ず隣り有り。目の寄る所たまが寄る> 平賀源内は大田南畝の漢詩集「寝惚先生文集」の序で、こんなふうに書いた。「徳孤ならず、必ず隣り有り」徳ある者は孤立しない、必ず同じ類の有徳の者が出てこれを助ける、と「論語」に語るところのパロディだ。徳ある者もあつまるだろうが、馬鹿もまたあつまる。天明文化は、賢人ならぬ馬鹿が寄りあつまって出来た文化だ、という達見であった。(「江戸の想像力」から)
 南畝は売れっ子の作家になるが、田沼の時代から松平定信の時代になって、寛政の改革を皮肉った有名な狂歌「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といひて夜もねられず」によって、幕府からにらまれ大田南畝としての活動をやめる。その後は蜀山人と名乗って、役人と作家とを両立させながら地味に生きていく。
 源内にその処女出版作の序文を書いてもらった南畝は、山東京伝の処女作黄表紙「開帳利益札遊合」の序文を書く。この分野でも源内の孫弟子が生まれる。
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<市場を信頼した─4沼意次> 田沼意次が幕府の中心にいて政治を行っていた時代は、江戸時代にあって不思議な時代だった。幕府の政策の基本は「贅沢は敵だ」だった。程度の差はあっても常に倹約を奨励していた。このため奢侈を理由に家財没収・所払いになった町人は多い。そしてその中心には儒教や朱子学があって、外国文化の影響を嫌っていた。 ところが田沼の時代は違っていた。杉田玄白の表現を借りれば「なんとなく明るく、自由な時代」だった。源内のような天才で狂人という不思議な人間が生きて行けたのも田沼の時代だったからで、杉田玄白等の『解体新書』が出版できたのも田沼の時代だからであり、大田南畝が活躍できたのも田沼の時代だったからだ。
 江戸時代は町人が先に豊かになり、その豊かさを味わい、贅沢を楽しんだ。それに対して幕府はそれを抑え質素・倹約を奨励した。町人が趣味と贅沢で市場経済を発展させ、幕府がそれを儒教や朱子学、プロテスタンティズムの倫理などで押さえつけようとした時代だった。そして市場の勢いを抑えようとしたのが、新井白石・将軍吉宗・松平定信・水野忠邦であり、 その反対側にいて市場の力を生かそうとしたのが田沼意次と徳川宗春であった。
 「徳孤ならず、必ず隣り有り」はこの時代、源内と意次を考えるとピッタリの言葉だ。松平定信が意次を追い落としても、それだけでは「田沼の時代」は終わらなかった。それは意次一人だけで作って行った時代ではなかったからだ。そして源内も失敗ばかりしていたが、多くの人を刺激してすばらしい文化の花を開かせた。利己的な文化の遺伝子「ミーム」が東福門院から伊達くらべの豪商の妻女に感染し、 お仙をはじめとした天明の美少女へと感染して行った。そしてこの時代源内からの「ミーム」が実に多くの人々に感染していった。こうしたミームというウィルスの繁殖を抑えようとした「贅沢は敵だ」の幕府の政策があったけれども、江戸時代を通じてミームは増殖し、やがて時代は明治維新へと進んでいったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
平賀源内                               芳賀徹 朝日新聞社     1981. 7.20 
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて                 奥村正二 岩波書店      2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5
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