(25)参勤交代という公共事業
三代将軍家光時代に制度化
江戸時代の贅沢は、第1が「絹」、そして第2は「旅」だと思う。鎖国時代で海外旅行はなかったけれど、そして関所があって勝手に住んでいる所は離れられなかったように思われているけれど、調べれば調べるほど江戸時代の庶民は旅行好きだったことが分かる。 もしかしたら現代人よりも旅を楽しんでいたかもしれない。だとすれば「旅」による経済効果もあったはずだし、江戸時代には庶民の旅行好きが市場経済を発展させたに違いない。こうして、また一つ「江戸時代は封建時代と言われるように、庶民は土地に縛り付けられていて、移動の自由がなかった。一生涯生まれた土地から出なかった人が多かった」などの通説が、神話として葬り去られることになる。 けっこう庶民は「旅の恥は掻き捨て」を楽しんでいたのかも知れない。そのような江戸時代の旅について調べてみることにした。まずはとても大がかりな旅──参勤交代から始めることにしよう。
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<参勤交代制度の成立>  参勤交代とは、江戸時代に諸大名が一定の時期を限って交互に江戸に伺候し、もしくは領国に帰った制度をいう。諸大名が江戸の伺候することを「参勤」といい、領国に就くのを「交代」といった。 即ち諸大名が領国に就くのは他の大名の参勤と、交代で行われていたからである。
 この制度の目的についてはさまざまな説がある。まず、徳川家康本人が、6歳で織田信秀の人質となり、しかも、岡崎に帰り再び19歳まで今川義元の人質となった体験から、この制度が大名を臣従させるに最も効果的な手段であることを、身をもって体験したことに淵源を求める説。 大名の威厳を沿道の庶民に知らしめた制度であるという説。諸大名を江戸往復の繁忙のなかに身を常に置いてお金を消費させ、領国にいて清涼を蓄積するのを防いで、幕府への反抗を抑えたという説。 諸大名の江戸在中、安逸に流れさせ怠惰の気風から幕府への反抗心を無くさせたという説。諸説紛々である。
 参勤交代の目的を一言でいえば、地方割拠の傾向にあった時代に、諸大名を幕府の意のままに統御して、権力の集中・掌握を図り、中央集権の実を挙げるための制度であったといえるであろう。
武家諸法度
 寛永11(1634)年になって、3代将軍家光は諸代大名の妻子を江戸に移させ、翌寛永11(1634)年6月21日、御三家以下、外様・譜代の大名の全員を江戸城の大広間に呼び出し、「武家諸法度」を発布し、その第2条で「大名小名在江戸交替所相定也、毎歳四月中可致参勤」と、江戸に参勤することを役儀・奉公として正式に制度化した。 『徳川実記』は、寛永12年6月晦日になって、加賀中納言始め26人を国に就かせ、薩摩中納言以下55人を在府させたと記載する。しかし、この時、譜代大名は交代から「別儀もて滞府」となって除外され、将軍の不時の御用に参殿すべき旨を命令されている。譜代と外様大名との差はなくなりつつあったが、まだ将軍との関係や公儀における位置には、差が残っていた。
 その後、寛永19(1642)年になって、先の寛永12年の法度で「滞府」となっていた譜代大名の交代期が、6月あるいは8月の交代と定められた。ただし、関東の譜代大名は2月と8月の半年交代に定めている。ここに参勤交代制度は全ての大名に義務化されることになった。 もっとも水戸藩と老中など役付の大名は、定府になり、対馬の宗氏は3年に一度、蝦夷地の松前氏は5年に一度の参勤になるなど、若干の例外も見られる。
 以上のように長い年月を辿り、任意制度から強制制度へと移行し、外様大名だけの制度から譜代大名にも適用される制度へと拡がり、参勤交代制度はその実質と形態を徐々に備えていったのである。 (『参勤交代道中記』から)
武家諸法度=徳川実記から
 『徳川実記』から武家諸法度に関する部分を一部引用しよう。
 (六月)廿一日法令を仰出さるゝにより。尾紀水の三卿を始め。在府の諸大名大廣間に群参し。普第の衆は庇に伺公す。時に井伊掃部頭直孝。松平下總守忠明。酒井雅楽頭忠清。土井大炊頭利勝。酒井讃岐守忠勝法令仰出さるゝ旨を傳へ。儒臣林道春信勝中央に出て是をよむ。 其文に曰く。文武弓馬の道。専可相嗜事。左文右武古法也。不可有不兼備。弓馬は武家之要枢也。号兵為凶器。不得止而用之。治不忘乱。何不勘修練呼。』
 大名小名在江戸交替所相定也。毎歳夏四月中可到参観。従者之員数近来甚多。且國郡之費。且人民之労也。向後以相応可減少之。但上洛之節は任教令。公役は可随分限事。』
 新義之城郭構営堅禁止之。居城之隍塁。石壁以下破壊之時は達奉行所可受其旨也。塀門等之分は。如先規可修補事。』………
 (六月)晦日先に在府の諸大名交替のこと仰出されしにより。けふ加賀中納言はじめ廿六人を召て。就封すべき旨つたへらる。これ大名四月交替の始なり。薩摩中納言はじめ五十五人は。在府たるべき旨つたへられ。岩城但馬守宣隆。戸澤右京亮政盛もいとま給ふ。』………
 堅可相守者也。寛永十二乙亥歳六月御朱印。(これ道春信勝と弟永喜信澄草せし所といふ)よみ畢て大廣間に渡らせ給ひ。中段に御着席あり。 諸大名を御前に召て。  神祖。  台徳院殿両代の法令。年月をふる事既に久しければ。今度損益册定して令せらる。各此旨を守るべし。又是迄諸大名の誓詞をめさるゝ例なりといへども。各忠勤既に三朝を歴て怠らざるが故。  當代には誓詞を御覧ずるに及ばず。 又我年やゝ長ずと雖どもいまだ男子を設けざれば。早々嗣子を定むべしと思う事久し。こは後日更に議定すべき旨面令ありて奥にいらせ給ひぬ。 (『国史大系39 徳川実記第2篇』寛永十二年六月 から)
 七月朔日月次拝賀例のごとし。』奥にて見参する普第衆をめして。今度諸大名ことごとく交替命ぜらるゝといへども。此輩は別儀もて滞府せしむれば。召させ給ふ時速に参殿すべき旨面命し給ふ。 (『国史大系39 徳川実記第2篇』寛永十二年七月 から)
武家諸法度現代文
 武家諸法度の現代文を引用しよう。
 一、大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中参勤致すべし。従者の員数近来甚だ多く、且つ国郡の費、且つ人民の労なり。向後、其の相応を以て之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従ふべき事。 (『参勤交代』から)
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<藩財政が窮して日本社会が活性化した>  「(参勤交代は)国力疲弊の損害は御座候えども、其益はこれなし」
 とは、安政元(1854)年2月、松平慶永がときの老中・阿部正弘に、参勤交代の緩和を進言した建白書のなかの言葉である。
 このように参勤交代は、諸藩の国力を疲弊するだけの、害はあっても益のない制度である、というのが江戸時代以来今日まで続いている一般的な評価だが、はたしてそうであろうか。
周防・長門二ヶ国の領主毛利重就の宝暦2(1752)年の参勤を見ると人数549人、先行15人となっている。計564人である。
 これだけの人数が約30日ほどの日数をかけて2年に一度の割合で、江戸と毛利藩藩庁のある萩(山口県)の間を行き来するのだから、そのための出費は大変なものであったろう。参勤交代は大名たち、とくに日本の外周に領国をもっている外様大名に出費を強いて、謀反をおこす力をなくすために実施したのだ、 という説がまことしやかに出るのも、あながち無理からぬところである。
 貞享4(1687)年、毛利藩主吉就の参勤道中
萩  3月11日 午前7時ごろ駕籠で出発
山口       午後2時ごろ御茶屋着。泊
山口   12日 午前7時ごろ出発
三田尻     
三田尻  13日 悪天候のため船中泊
三田尻  14日 雨がやんだので午後2ごろ乗船
上ノ関  15日 押し船で着。船中泊
上ノ関  16日 午前7時ごろ出船。2時ごろ家室着
亀が首      午後7時ごろ芸州亀が首着。船中泊
亀が首  17日 午前6時すぎ出船
高崎       午後2時ごろ着
高崎       4時ごろ潮時がよく、順風だったので出船
鞆ノ津  18日 夜も走って午前3時ごろ着。泊
鞆ノ津      午前6時ごろ出港
下津井      午後2時ごろ入港。潮が悪いため潮待ち。船中泊
下津井  19日 潮待ち。船中泊
下津井  20日 昼ごろ出港。

 毛利吉就の参勤日程表を見れば判るように、海路をとる場合は潮待ちということはあっても、原則的には1ヶ所に2泊することなく、朝7時には出発して夕方まで移動するのだから、徒歩のお侍はもちろん、 駕籠に乗った殿様といえども大変な肉体労働で、その苦労は並大抵のものではなかったろう。
 毛利藩の参勤交代の規定(享保10年)によると、毎朝、一番拍子木で朝支度をはじめ、二番拍子木で御供揃をし、三番拍子木で出立というルールになっているから、仮に朝7時に出発ということになると、少なくともそれより2時間は早くおきて、色々準備を始めなければならなかったろう。
 そのうえ4月1日は朝、池鯉鮒(ちりゆう=知立)をたち、途中岡崎で昼食をとり、夜は赤坂宿に泊る予定だったが、たまたま岡崎で幕府のお金道中にかちあってしまい、同所で昼食をとることができなかった。 結局その日は昼食抜きで歩いたか、それとも岡崎以外のところで臨時に食べたのか、そこらあたりは記録にないので判らないが、ともあれ500人をこえる集団の移動であるので、たとえどこかで食べることができたとしても、大変な騒ぎであったことは疑いない。 また有名な大井川の渡河は4月4日の午後になっているが、この時川越え人足を2465人もつかい、一人につき銭32文ずつ支払っている。ともかく参勤は殿様にも家来にも大変で、自らも越前福井からの参勤者であった松平慶永が、参勤を「国力疲弊の損害は後座候えども、其の益はこれない」といったのは無理からぬところである。
 しかし視野を大きくしてみると参勤交代のプラス面の大きさも見落とすことはできない。それは参勤交代のもつ富・文化・情報の攪拌均等化作用である。
 たとえば、富について考えてみると、江戸時代にはまだ今日のように、中央政府が国民から税金を取り、年金や投資などの形で国民に再配分するという機構はもっていなかった。つまり富を集めた者が、それを使わない限り、それは下々に拡散しなかったのである。 この視点から見ると、参勤交代は全国に散在する約2700の藩が、江戸を行き来する間に、旅費や経費の形でこまかく銭をまいて歩くのだから、富の拡散機能としてはこれにまさるシステムは他に考え及ばないのである。 同じことは、文化の交流や情報の伝播についてもいえるので、もしこの制度(参勤交代)がなかったら近世約300年の間に、個々の領主がつくる地域国家(藩)はもっともっと固定化して、日本の国民国家の形成はもっともっと立ち遅れていただろう。
 たとえば、江戸が創り出した日本を代表する文化=浮世絵の発展も参勤交代を抜きにしては語れない。すなわち、参勤交代で江戸へやって来た地方武士たちが、郷土への手土産として、手軽で都会的雰囲気のある浮世絵を買い求めたたわけであり、彼らの購買がない限り、浮世絵はあそこまで発展することはなかったと言えるのである。 また、江戸時代に盛んに出版された名所案内記も参勤交代で江戸に来た武士たちの需要であった。
 ”可愛い子には旅”とか”百聞は一見にしかず”とかいう言葉がある。旅は文化の牽引車である。たとえそれがある程度の副作用を伴うにしても、旅は人や文化の交流、経済の活性化に大きな役割を果たす。 国家的な旅の制度としての”参勤交代”を、このあたりで見直すべきであろう。 (『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」から)
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<歴史学者の作業>  このシリーズ「趣味の贅沢と市場経済」の江戸時代の捉え方は、「農民は土地に縛り付けられていた封建時代で、武士以外の被支配階級であった人びとは苦しい生活を強いられていた」との歴史観とは違う。こうした歴史観の違いをどのように考えたらいいのか?ここで参考になる文章があったので引用することにした。
 そもそも歴史学というのは客観的実在(史実)の学であって、文学のように筆者側に自由な創造と空想が許されていない。しかしそうかといって史実をただ並べただけでは歴史とはならない。 われわれに与えられている史実とは歴史実態が時空の浸食作用によって、バラバラにつきくずされた残骸であり、また断片の無秩序な集積に過ぎないからである。
 歴史学者の作業とは、この断片を考証検討し、失われた部分を含めて実態を復元する作業といえるだろう。したがって、そこでは筆者の歴史そのものへの認識が、また若干大時代的な言葉を使えば、歴史に対する筆者の哲学が大きな意味あいをもつのである。つまり、多様な史実の取捨は筆者の歴史認識にまかされているのである。 (『江戸時代』から)
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<主な参考文献・引用文献>
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
国史大系39 徳川実記第2篇                   黒板勝美編 吉川弘文館     1964.10.31
参勤交代                              山本博文 講談社現代新書   1998. 3.20 
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
( 2005年6月6日 TANAKA1942b )
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(26)道中費用はどうだった?
藩の財政を圧迫
江戸時代、参勤交代は最大級の公共事業であった。幕府成立直後には江戸市中建設のための普請があったが、これは恒久的なものではなかったし、時には参加しないで済んだ藩もあった。これに比べて参勤交代は幕末まで続く、それぞれの藩の大きさに応じて出費も違う大きな公共事業であった。 藩の出費が大きかった、ということは、それだけどこかの誰かの売上げが大きかったことになる。その参勤交代、実態はどのようなものであったのか、幾つかの文献から引用してみよう。
<参勤交代と本陣>  大ぜいの人をひきつれてゆく旅を大名旅行という。大名の旅行というものは実に多くの家来、供人をつれて歩かなければならなかった。 将軍の旅行となればもっとおびただしい人が動く。徳川吉宗が日光へ参拝したときには供奉の者だけで13万3000人に達したという。したがってその行列のために狩り出された百姓町人の数も22万8306人、馬の数が32万5940頭にのぼった。 それだけの者が自分の仕事をやめて、ただで奉仕しなければならないのである。
 大名の行列はその何十分の一であったにしても、大名は一人ではない。それが参勤交代のために1年は江戸へ、次の年は国元へ旅をする。大名も徳川幕府以前から大名であった外様大名、徳川家に仕えて大名になった譜代大名、それも関東以外に住むものと関東に住む者にわけ、入替りをする月を区別した。 外様大名は東西に分けて、毎年4月を入替りとし、譜代大名は6月、関東に住む譜代大名は在府在国を各半年ろし、8月に交代するものと、2月に交代するものにわけた。
 それも初めの頃は質素な旅であった。彼らはそれまで長い間戦争をし続けて来た。だから野営することにも馴れていたし、まずい食物にも馴れていた。だから国許と江戸との間を往復するにあたっても、道中の宿場の民家のうち庄屋などしている大きい家を借りて大名はそこにとまり、家来は付近の農家に分宿したものであった。 それも、その土地の領主に一々諒承を得てのことであった。ところがそういう家がしだいに宿のようになって来た。百姓たちは大名をとめるからはじめは大名宿と言ったが、寛永年中から、本陣というようになった。
 もともと本陣というのは戦のとき大将の居るところである。参勤交代も大名には軍旅の意味があった。だが大名旅行が華美になるにつれてその宿をつとめる本陣の建物もりっぱになって来たのである。 そして大名の往来の盛んな東海道筋では1つの宿場に本陣が1軒ではすまず、箱根や浜松には6軒もあった。そして東海道全体では53宿に111の本陣があった。他の街道はだいたい1宿1本陣で事足りた。
 本陣がふさがってしかも大名がもう1組やって来たというような場合には脇本陣を利用した。これは建物も設備も本陣よりはおとり、一般に本陣の数より少なかったのであるが、例外はあって、中仙道(中山道とも書く)の大宮宿のように本陣は1つなのに脇本陣」が9もあった例がある。 東海道では73の脇本陣があり、脇本陣の多かったのは小田原・桑名4軒、保土ヶ谷・戸塚・三島・吉原・江尻・岡崎が3軒であった。一般には1宿1軒というのが普通である。
 本陣や脇本陣に泊まる資格のある者は、勅使・院使・親王・門跡・公家・大名・旗本であったが、おなじ宿場に2人の大名がぶつかることにないようにできるだけ注意して日程をたてたが、実際には日程通りにゆかず、川止めなどがあると川のほとりの宿場には幾組もの大名がかちあうことがり、その宿割りには頭を悩ましたものであった。
 ところが大名には多くの家来や供人がつきしたがう。「護花園随筆」によると次のような人数であった。
  20万石以上 馬上15〜20騎、足軽120〜130人、中間250〜300人
  10万石以上 馬上10騎、   足軽80人、     中間149〜150人
  5万石以上  馬上7騎、    足軽60人、     中間100人
  1万石以上  馬上3騎、    足軽20人、     中間30人 
 すなわち、多いものになると一行450人にのごるものもあったわけである。こういう大きな一行になると、小さい宿場では泊まることができない。足軽・中間の泊まる場所が得られなくなるからである。1万石ほどの小大名でも60人近い人数の旅である。
 しかし大名の旅行は街道沿線の者にとっては儲かる旅人であった。中間は大名直属の人夫で、一種の通し人足になるえあけである。だから宿場や助郷の者がその人足として狩り出されることは少ない。仮に出ても無賃ではない。長持や明け荷を運ぶために宿継人馬が徴発せられても規定の賃は払われたものである。 ただ箱根だけは道中も長く坂も急で、中間たちだけで峠を越えることが難しかったから、臨時の人足を多く使った。しかも箱根宿には助郷がなかったから雲助を多く使っていた。 (『旅の民俗と歴史1 日本の宿』から)
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<慢性赤字の原因>  参勤交代で大名が江戸と国元を往復する旅行は天下普請と同様、やはり軍役と同じ扱いとされた。たとえば、禄高と格式に応じた供揃いと道順、日程で旅行をしなければならない、などといった厳しい条件が付けられていた。 供揃いとはそのまま戦闘行為に移れる武装した行軍隊列のことで、武器・弾薬・食糧などは現地調達を許さず、すべて持ち歩くのが原則だった。現地調達が可能なものは飲料水と薪程度だった。ここが、実態として大名どうしで取引行為を行っていた天下普請の場合と異なる点だった。
 参勤交代も含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の50から60%を占め、その費用は各大名にとって大きな負担となっていた。
 しかも、江戸屋敷で消費したり参勤交代の道中で必要となる米はともかくとして、これらの財政支出のほとんどは貨幣で支払うものだった。貨幣経済が本格的に成長していった江戸時代のなかで、米本位の収入構造の下に置かれていた大名にとって参勤交代制度は文字通り「金食い虫」だった。 大坂の大商人から多額の借金をして首が回らなくなる藩も珍しくなかったが、借金のもとんどは江戸屋敷の運営費や生活費に注ぎ込まれた。苦労して工面した貨幣も集めるそばから右から左に消えて行く仕組みだった。
 しかし、耕作適地があらかた開発し尽くされていた当時、農地拡大による年貢増収はほとんど困難だったため、一度借り入れた借金を返済することは難しかった。質素倹約に努めて支出を切り詰めても、参勤交代や江戸での諸活動の手は決して抜けなかったし、農業生産性の向上による年貢増収も厳しかった。 結局、参勤交代関係の義務的経費は大名財政の硬直化や慢性的な赤字体質の最大の原因になっていた。その反面、大名が苦しくなる分だけ、江戸での消費は拡大し、貨幣は町人層に吸収されていった。
 江戸屋敷関係費用の最大の支出先は、幕府や他の大名との交際費だった。これは現在の企業が情報収集活動や営業活動に使う費用ともいえるものだった。この情報収集や営業活動の目的は、思いがけない天下普請や役務を命じらられないための”根回し”のための費用もむくんでいた。、あた、数年に一度の割合で確実に命じられる天下普請などの御手伝大名を大名どうしで調整して決める場合もあった。
 また加賀前田家、筑後黒田家、薩摩島津家など主として外様大名の大藩の場合、御手伝普請担当の子会社ともいうべき2ないし3の支藩を設け、天下普請の時の万が一の事態の累が本藩に及ばない工夫をすることもいわば常識だった。「忠臣蔵」の浅野本家と赤穂支藩の場合はその好例だが、なぜかそのことを今まで指摘したものはほとんどない。 どうしても御手伝を避けたければ、幕府の担当役人に”しかるべき”運動をすることはことより、他の大名家の諒解を予め取っておく必要があった。この場合、大名家側の相談と幕府の担当者などとの事前調整=談合によって、天下普請を担当する大名が決まるシステムだったと考えられる。この辺りの事情は、現在の公共工事にからむゼネコンの談合を想像すれば間違いはないだろう。 建設談合の場合でも「利益の薄い工事や赤字工事が発注されると関係者が事前調整を行って、その工事で”泣く”業者を決め、”泣いた”分は後日の工事で補填するケースがある」との新聞報道が盛んにされている。つまり、幕府やほかの大名家との交際の上手下手は、大名家の運命を左右するほどの重要なものだった。
 これらの活動を実際に担当したのは、江戸屋敷に常駐した「留守居」役と呼ばれる者たちだった。彼らは現在でいえば「外交官兼東京事務所長」にも相当する。留守居役の活躍の舞台は高級料亭や吉原であり、彼らの交際に伴う多種多様の贈答品は、書画・骨董・工芸品をはじめ料理・服装などのすべての分野にわたったため、それらの分野の産業が江戸で異常なまでに発達した。
 さらに、殿様に随行して地方からやって来る大勢の家臣団も江戸の消費需要を継続的に拡大させた。これら多数の家臣は主君から俸禄を支給されて生活費にあてる、文字通りの「サラリーマン」であり、江戸でも国元でも消費生活者として経済生活をおくる存在だった。 これを現代社会にあてはめてみると、さしずめ海外転勤を命じられた単身赴任者の大集団が、転勤先の生活で金を落とすこととさして変わりはない。
 江戸時代広範ともなると、葛飾北斎や安藤広重などが活躍し、『富岳三十六景』『江戸名所百景』『東海道五十三次』などの浮世絵が盛んに出版された。江戸の地図や地誌も同様だった。 これらは、けっこう高級な江戸土産であり江戸や道中のガイドブックでもあったし、参勤交代でえどに集まった武士たちが国元への土産として買い求める商品だった。
 またえどでの流行や最新情報も参勤交代を通じて日本国中に伝えられた。たとえば山王権現(日枝神社)と神田明神の祭礼は、「天下祭」といって将軍も見物する江戸最大の祭礼だった。 しかもその祭礼行列の中の「付け祭」(大奥の特命で各氏子町が負担する芝居や踊舞台のこと=その年の最新モードやファッション、そして長唄、常磐津などの新曲の発表の場として機能した)は、「天下祭」の目玉であり、「付け祭」があるために天下祭は「御用祭」とも呼ばれた。 この祭の形式はほとんど大名の国元に移植されている。「付け祭」での流行は全国のファッション動向に強く影響した。使われた山車も古くなると中古品として地方に売却された。現物でなくとも江戸の山車を真似して地方で製作される場合も多かった。
 これらは江戸から全国に向けた情報や文化の伝達だが、全国からもさまざまな情報がもたらされた。諸国から集まる武士どうしのコミュニケーションによって、江戸では他国の情報にも接することができた訳だった。
 このように江戸は、ヒト・モノ・カネおよび情報が全国から集まり、それらが交流を重ねるなかから新たな価値を生み出す場、すなわち「いちば」としての機能をもっていた(鈴木理生著『江戸の都市計画』三省堂)。これは江戸時代に限らず、現在の東京の場合も同様で、こうした機能こそが都市の最も基本的な部分をなすものといえる。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
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<大名行列の道中費用>  参勤交代は、大藩の普通の年で、2000人から、多い年で4000人にのぼる供の者を引き連れ、十数日を要する大名行列であった。いったい、どれほどの費用がかかったものであろうか。加賀藩の記録から見てみよう。
 今日2000人の人間と馬200疋が、仮に金沢から東京まで12泊13日の徒歩旅行を試みたとする。全員が1泊6000円の民宿に泊まったとしても、13日では宿泊代だけで2億円の勘定になる。
  1泊2食宿泊費    2000人X12泊X6000円=1億4400万円
  昼食費        2000人X13食X600円=   1560万円
  馬1泊2食宿泊費   200疋X12泊X1万5000円= 3600万円
  馬の昼食費      200疋X13食X1500円=    390万円
                            計1億9950万円 
 宿泊費のようにサービス料的な性格の多いものの値段を、江戸時代と現代とで較べると、人件費の著しい値上がりから現代の方が割高であろうが、旅籠賃、即ち宿泊費だけでも2億円ほどかかる勘定になる。
 次の例は、文政元(1818)年、12代斉広が帰国に際し糸魚川宿に宿泊した時の実録である。
   旅籠賃
  一 銭 32貫800文  上 200文一夜分 163人 主人分
  一 銭 93貫60文   中 180文 517人 仲間・若党・鑓持等
  一 銭 214貫880文 下 160文 小者・通し人足 1343人
  一 銭 17貫文     馬 500文 34疋
  一 銭 25貫200文  本陣 280文 90人 藩主付きの人
  一 銭10貫文      本陣 馬 500文 20疋
               (但し本陣については推定)
  〆 392貫940文   (『糸魚川市史』)
 文化・文政期頃に、加賀藩が支払っていた旅籠賃の上の、「上 200文」の相場についてみてみよう。『東海道中膝栗毛』の続編になる『善光寺道中膝栗毛』の中に、西国から善光寺の参詣に出てきた巡礼20人ほどが旅籠賃を考証する場面がある。 宿屋の亭主が言う150文の定値に対して、巡礼の一行は、半値に近い、80文に値切ることを主張し、結局120文で宿泊する。
 また文化9(1812)年、越中国の石崎古近という人が、江戸へ旅した時の北国街道の旅籠賃は、およそ、150文であり、上野・高崎の高い旅籠賃でも172文であった。
 『善光寺道中膝栗毛』、あるいは二人の旅行記からみて、北国街道筋の旅籠賃は、団体の割引料金で120文ほどが相場と考えられ、高田のような城下町で、164文である。信濃の山村の宿場で148文も出せば、脇本陣暮らすの上旅籠に宿泊できたことがわかる。
 これらの例から、加賀藩が道中の旅籠・農家・寺などに北国街道で支払っていた「上の払」200文は、団体扱いで、しかも、民宿なみにしては、破格に高い旅籠賃であったと言えよう。
 加賀藩が支払っていた上のクラス200文という旅籠賃を、他藩の旅籠賃と比べてみよう。
 越後高田藩の榊原侯が、安永3(1774)年4月25日、上田宿に宿泊した時は、一泊160文で取り決めている。ところが賄い勘定の役人が来て、一人について4文を値切ったうえで、更に自分たち10人分の宿泊代を只にさせたので、結局、旅籠賃は一人あたり140文になった。
 天保13(1842)年の会津藩、道中奉行のお達しには御定旅籠賃を上が160文、中が130文、下が100文と定めている。参勤交代の道中で、各藩と旅籠との間で旅籠賃についてのトラブルは、随分あったらしい。 宿札を打った後で権力にもの言わせ、旅籠賃を値切ることのないように注意した触令(『徳川実記』)が、度々出ていることから窺い知ることができる。
 一方、東海道筋の諸色は、当時も北国街道筋より1割から2割高かった。江戸時代の中期から後期にかけての東海道の旅籠代をみると、
  上宿で 172文から300文
  中宿で 148文から164文
  下宿で 100文から140文
程度であった。
 武蔵国、金沢(現在の横浜市金沢区)の瀬戸神社の佐野と言う神主が、天保15(1844)年に伊勢神宮から上方旅行した際の「道中入用の覚」に記載のある旅籠賃は、
  200文 大磯 清水 秋葉 大坂 橋本 金比羅
  180文 桑名 津 堺 大津
  172文 丸子 掛川 名古屋 奈良 法隆寺
とある。そのほかに箱根の芦ノ湖が温泉宿のためであとう、230文と高かった。 
 ところが、加賀藩が東海道を通行した時には、各々上・中・下のランクとも北国下街道の料金の1割増を支払っている。以下のような記録がある。
    覚
  一 220文     上 旅籠代 壱人分
  一 200文     中 旅籠代 壱人分 
  一 180文     下 旅籠代 壱人分
  一 550文     乗馬 壱疋分
     但し 2貫文  干草
        1升   堅大豆
        3升   粉糖
        3升   堅大豆 但し干草これ無きヶ所
   右の内裾湯、寝藁用意相触れ置き候事
   当、御帰国御供人旅籠代等、享和二年御通行の振合を以て右の通り、宿々へ相触れ置き候条、此の段それぞれ仰せ触れられ候様いたし度御座候、以上
     文化十一年二月二十二日
                      (「東海道御通行之節義触留」)
 この他、道中にかかる費用があった。草鞋銭が四文から十六文で、それを4,5日ごとに履き代える。大名行列の時は、荷物を担いでいる者は擦り切れるのが早く4,5日おきという訳にはいかなかった。 茶屋の酒代は1合が15文から20文。宿のあんま代は東海道筋は各地とも協定をしたように24文であった。こういう費用も合算すると馬鹿にならない数字になったのである。 (『参勤交代道中記』から)
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<華美になる大名行列>  幕府は参勤交代を制度化する時から、その従者を少なくするように命じていた。しかし各大名は、次第にその華美を競うようになり、従者の人数も増加させた。 元禄3(1690)年にオランダの東インド会社の医師として長崎の出島に赴任したドイツ人のケンペルはその著『江戸参府旅行日記』で、「彼等(諸大名)は旅行毎に廷臣全部を従ひ、自分も財産の許す限りを尽くして人数多き、費多き行列をなし、 威風堂々として練り行くを常と」し、さらに「最も威望ある諸侯即ち諸大名は凡そ2万石の同勢と推せられ、小名の行列は其半」分であると記している。誤算や誇張もあるが、外国人にとってはこの大名行列は驚嘆であったはずである。
 こうした状況に対し、幕府はしばしば従者制限令を出したのであるが、ほとんど守られなかった。実際に各藩の大名行列をみると、加賀藩では多い時には2500人に達し、行列全体が一宿を通貨するのに3日も要した場合があるという。 薩摩藩では寛永12(1635)年には1240人の行列であったという。10万石に加増された津山藩主松平斉孝の「津山入国行列図」には、全体で800人余の随行者が描かれている。
 幕府は享保6(1721)年10月、改めて参勤交代の際の従者制限令を出した。それによると、20万石以上で役400数十人、5万石以上で馬上7騎・足軽60人・中間100人である。 もちろんこれらの従者の他に、通し日雇い人足や宿場で雇った人足・馬もいる。
 幕府による従者制限は令は多くの効果を挙げ得なかったが、現実問題として参勤交代には多大の費用がかかったから、大名はある程度の抑止を迫られた。 参勤交代に要する費用については幾つかの試算があるが、天保2(1831)年の紀伊藩では年間総収入金34万両のうち、江戸〜和歌山間の旅費が金1万2930両を占めている。 薩摩藩では藩財政の悪化のために次第に従者を減じ、寛延2(1790)年には訳920人、明和2(1765)年には507人、寛政2(1790)年には559人と少し増やした。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<道中の話>  大名、旗本、それに郡代、代官などが道中すると、一ばん被害をこうむるのは、城下、宿場などにある本陣宿、脇本陣であった。 本陣はその土地の旧家で、大名などの前に出て挨拶をしなくてはならないし、あるじは行儀作法を心得ている。本陣は、ちゃんと門をかまえ、玄関に式台があり、大名を泊める設備はととのっている。 そのかわり、台所の豊かな大名はともかく、裕福でない大名の道中奉行は、泊代は置いても、茶代などは出さない。たちの悪い家来がいると、泊代以上の飲み食いをやった。
 公用で街道を往来する代官の宿泊料は、徳川中期で、一泊35文、昼食は17文、と決まっていたが、やはり本陣か本陣脇で泊まるので、それでは足りるわけがない。すべて、泊めるほうの持ち出しであった。
 代官は幕府の御家人だが、郡代は旗本がつとめる。いずれも幕府直轄の天領地を治める役目で、その土地からとれる米は江戸に送り、浅草の米蔵におさめて、幕府の旗本たちの生活費になる。 道中では威張っていたが、代官というのは、テレビで扱っているように、任地でああいう悪政を行ったら、すぐお役目御免になる。5万石から10万石という、大名の知行地と同じ広さの天領地を、わずか20人の下役と共に治めるのだから、代官もらくではない。 本俸は150俵、ほかに役料が少し加わるだけなので、悪いことをやりたくなる代官もいただろう。
 大坂や京都、もっと遠国へ公用で出かけたり、江戸に帰ってくる途中の旗本たちの中には、女好きな連中も多かった。本陣宿や脇本陣に泊まると肩が凝る、というので、飯盛旅籠で女を抱いて寝る。朝、出立のとき、宿代の受取を出させる。200文で泊まっても、500文と書かせ、江戸へ帰って上役からその分も受け取るが、女のほうは乗り逃げをする。
 九州小倉の小笠原家が、東海道を通ったとき、大津の本陣宿で控えておいた通し人馬賃銀目録帳というのがある。延享2(1745)年の記録だが、小笠原家も道中で人足を傭っていた、というのが、それを見るとわかる。大名の道中の費用も、生やさしい額ではない。
 国許で人足を集め、そのまま乗物や荷を担がせ、江戸まで道中を続けるのは、よほど台所の豊かな大大名でないと、出来ないことであった。西国のある大名の行列が、江戸へ出る途中、宿場宿場で人足たちを傭った。だが、箱根を越えるころ、道中奉行も金がなくなり、人足の賃銀を踏み倒してしまった。 ところが翌年、その大名が帰国の途中、箱根へかかると、手ぐすね引いていた人足は、おびただしい荷物を担いだものの、峠の上で荷をほうり出し、さっさと逃げ戻った。山道に散乱した荷は、家中の侍や子者たちが担いで、ようやく峠をおりた。あいにく下情に暗い殿様だったので、道中奉行を叱りつけた。行列を見送ったあと、道中奉行は峠の上で、腹を切って死んでしまった。 (『史話 日本の歴史17』村上元三著「道中の話」から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅の民俗と歴史1 日本の宿                     宮本常一 八坂書房      1987. 4.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
( 2005年6月13日 TANAKA1942b )
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(27)「総費用」とは「総売上」
参勤交代が通貨流通速度を速めた
参勤交代とは徳川幕府が地方の武力勢力を意のままにコントロールするために制度化されたのもであった。「参勤交代とは、諸大名の財政支出を多くして、謀反を起こす力を削ごうとするもの」との解説もあろうが、幕府はそのようには意図していなかった。 初めの内は諸大名ともその威厳を保つために豪華な行列を組んだ。しかし経費がかさむためにいろいろとケチり始めた。今まで歴史で扱うのはこうした出費の面ばかりが多く、大名行列によって潤った人たちのことが話題にならない。「総費用」とは「総売上」なのだが、「総売上」として取り上げた史料は見当たらない。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=貨幣量 V=貨幣の流通速度 P=物価水準 Y=実質国民所得
 上記貨幣数量説に当てはめれば、参勤交代は「V=貨幣の流通速度」に影響を与えたと考えられる。しかも貨幣を使ったのは江戸だけではなく、国元から江戸間での街道で使った。全国の大名が江戸への道すがら、貨幣を流通させた。この経済効果は大きい。
 大名行列のために諸国の宿場町が栄えた。これが庶民の旅を容易にする効果もあった。公共投資の乗数効果ににて、大名行列の貨幣ばらまきが庶民の旅を促進し、さらに貨幣の流通速度を早めることになった。
 参勤交代によって江戸が情報交換の場になった。直接の経済効果はなかったにしても、これは大きい。参勤交代によって街道筋での情報量は非常に大きくなった。オランダ人は長崎では出島からなかなか出られず、情報は拡散しなかったが、江戸ではかなり自由であった、との指摘もある。 江戸にいれば異国情報も入手できた。地方の武士にとって、参勤交代で江戸へ行くのは苦痛ではなく、むしろ行きたがったのではないだろうか。現代にたとえれば、地方の企業で東京への転勤は出世街道への出発点、と同じなのだろう。 こうしたことも含めて参勤交代の経済効果を計算したら面白いだろうと思う。 ただし、アマチュアには荷が重すぎる。多方面から史料を集めて検討したら面白いものが出来るだろうと思う。視野狭窄でないエコノミストが出てきてチャレンジすることを期待しよう。
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 大名は参勤交代の際には「本陣」に泊まった。その本陣が明治になってからどんどん解体して跡を残さなくなった。特に東海道でそれが激しかったのは、それだけ東海道では大名行列の経済効果が大きかった事を示す事例と言えよう。そのことについて宮本常一の著作から引用しよう。 宮本常一は1907(明治40)年山口に生まれた民俗学者。1981(昭和56)年に亡くなるまで日本各地を旅した。
 「宮本を物心両面から支えたパトロンの渋沢敬三が、宮本の業績を称していった言葉は有名である。「日本の白地図の上に宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」 との評価もあり、「旅」を扱うときに忘れてはならない存在だと思うので、その著作の一部をここで引用しよう。
<参勤交代で成り立った本陣>  豪華な旅をすることを大名旅行という。しかい大名旅行がどういうものであったかを知っている人はもう少ない。その大名旅行をいまさら言あげして見るのもどうかと思われるけれども、昔大名の泊まったという本陣やそれに類するものが、全国にまだ100近く残っている。 そのはじめは1000近くもあったと思われたのだが、明治以来どんどん解体して跡を残さなくなった。とくにそのはんはだしいのは東海道で、昔の面影をそのまま残しているのは滋賀県草津町の田中本陣くらいであろうか。 東海道が明治以降の変遷がとくにはんはだしかったためと思われるが、大名の通行が多くて、大名に泊まってもえあうだけで生活のたてられたためであると思う。
 東海道以外では通過する大名も少なかったから本陣だけでは生計はたたない。たいてい本業をもっていた。そのことが家を支えて本陣がかなり残っていたのである。
 本文の中でも触れたことであるが大名は江戸へ妻子をおき、1年は江戸、1年は郷里で生活することになっており、1年は参観、次の年は下向と、毎年旅をしなければならなかった。それが特別の宿すなわち本陣に泊まり、一般客は泊めなかったのだから、本陣のけ遺影も容易ではなかったと思われるが、 それでも大名がこれらの本陣を支えた力は大きく、大名のいる間本陣のつぶれたものはほとんどなかったが、参勤交代がやむと多くの本陣がみるみるうちに衰え、維持できなくなって解体し、その一家も土地を離れてしまって、跡形もないというのが大半である。
 いま残っている100近くの本陣も、それがすべて完全であるわけではなく、完全なものはその半分にも満たない。そのうち60近くのものを、足で歩いて確かめ、写真にも撮って来たし、聞取の取れるものも取って来て、文献のあるものも確かめた。
 本陣の中には今にも崩れそうになったものもある。門だけ残ったもある。大名の泊まった上段の間のみを残したものもある。そしてそのうち消えていくものが少なくないのであろう。 記録するには少し時期が遅れたようであるが、こうして本にまとめておけば、古い豪華な旅の様子をしのぶことができるばかりでなく、今の旅とも対比することができる。 (『旅の民俗と歴史2』から)
<参勤交代での多額の雑費>  大名の旅、それがどういうものであったかはいろいろの書物に書かれている。そしてそれが沿道の農民たちを苦しめた助郷の制度については、古くから論じられて来ている。しかし、それは大名自身にとってもわずらわしいたいへんな旅であった。 そのことについて、大名川の記録は萩藩毛利氏のものが、山口文書館に多数保存せられている。ある日私は石川卓美氏に案内されて、文書館の書庫の中で、これらの史料を見せてもらって驚嘆した。しかしそのすべてを討究することは今の私には時間の上から言って不可能に近い。そこでその一部を紹介して、志ある人の忍耐づよい研究を期待したいと思っている。
 宮本常一はこのように始まる文章で、毛利吉就の元禄6年の参観について書いている。その中から、参勤交代に伴う雑費・雑用について抜き出して引用してみよう。
 家中の武士たちは市中から町なずれの大屋縄手あたりまでの沿道にならんで、主君の旅のつつがないことを祈りつつ見送った。一行はそれから山二つをこえて昼まえには佐々並という所へついた。そこには殿様のお茶屋があり、そこでしばらく休んだ。 すると東条三郎兵衛という者が熨斗をさしあげた。やはり旅のつつがなきことを祈っての進物である。またおかん様の使生田権右衛門から杉重1組、名酒1徳、いわを様の使勝木彦太夫から鶉の味噌漬け1器をさしあげている。(中略)
 なお東条三郎兵衛からはしじみ貝焼1鉢、山芋1折が進上されているが、とにかく見送りにあたって、餞別に品をおくるならわしであったが、きわめてつつましいものであったことが知られる。
 一行はお茶屋での急速をおえると、また行列をととのえ一ノ坂峠をこえて、午後5時には山口についた。そこにもお茶屋があって宿所になる。その日早速山口にある伊勢・多賀・八幡・三ノ宮・厳島・諏訪・山王・祇園・今天神・熊野の社に名代をたてて参拝させ旅の無事を祈り、それぞれ金子100疋(1疋は銭10文または25文)ずつを献納した。すると神社の方からは代表の一人がお守札を持って来た。(中略)
 いっぽう妙見・山王・愛宕へはそれぞれ代表をたて、御初穂として金100疋ずつを包み、また釈迦堂へも金100疋、宝乗坊へは銀1枚をつかわしている。(中略)
 六日には国分寺へまいって護摩をたいてもらっている。その初穂として銀5枚を献納した。そのほか薬師堂へ金100疋、西念寺の三三体観音へ銀1枚、国分寺へは無紋の呉服2つ、国分寺隠居へは銀3枚、天満宮へは上銭2貫文を奉納している。
 まったくわずらわしいまでの配慮であり贈答である。書ききれないから省略した部分が多きけれども、これらのことの使者のおびただしい往来があり、挨拶があり、また御馳走のふるまいがある。そして挨拶の使者をよこした重臣に対してはお返しとして、羽織・呉服などがそれぞれつかわされているのであるから、大名の方も道中とは言いながら、あらかじめ用意して持って行かなければならないわけである。 (『旅の民俗と歴史2』から)
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<参勤交代見直し論>  参勤交代が貨幣の流通速度を早めたのは容易に理解出来るのだが、具体的な数字はつかめない。いくつかの藩の参勤交代の費用を計算し、それをモデルに全体を推計しればある程度の数字はつかめるかも知れないが、アマチュアには荷が重い。せいぜい関係するような文章を引用して皆さんに想像してもらいましょう。と言うことで、今までに引用した文章をもう一度ここに掲載することにした。
 参勤交代も含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の50から60%を占め、その費用は各大名にとって大きな負担となっていた。 しかも、江戸屋敷で消費したり参勤交代の道中で必要となる米はともかくとして、これらの財政支出のほとんどは貨幣で支払うものだった。貨幣経済が本格的に成長していった江戸時代のなかで、米本位の収入構造の下に置かれていた大名にとって参勤交代制度は文字通り「金食い虫」だった。大坂の大商人から多額の借金をして首が回らなくなる藩も珍しくなかったが、借金のほとんどは江戸屋敷の運営費や生活費に注ぎ込まれた。苦労して工面した貨幣も集めるそばから右から左に消えて行く仕組みだった。 しかし、耕作適地があらかた開発し尽くされていた当時、農地拡大による年貢増収はほとんど困難だったため、一度借り入れた借金を返済することは難しかった。質素倹約に努めて支出を切り詰めても、参勤交代や江戸での諸活動の手は決して抜けなかったし、農業生産性の向上による年貢増収も厳しかった。結局、参勤交代関係の義務的経費は大名財政の硬直化や慢性的な赤字体質の最大の原因になっていた。その反面、大名が苦しくなる分だけ、江戸での消費は拡大し、貨幣は町人層に吸収されていった。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
 参勤交代は、大藩の普通の年で、2000人から、多い年で4000人にのぼる供の者を引き連れ、十数日を要する大名行列であった。いったい、どれほどの費用がかかったものであろうか。加賀藩の記録から見てみよう。
 今日2000人の人間と馬200疋が、仮に金沢から東京まで12泊13日の徒歩旅行を試みたとする。全員が1泊6000円の民宿に泊まったとしても、13日では宿泊代だけで2億円の勘定になる。 (『参勤交代道中記』から)
 たとえば、富について考えてみると、江戸時代にはまだ今日のように、中央政府が国民から税金を取り、年金や投資などの形で国民に再配分するという機構はもっていなかった。つまり富を集めた者が、それを使わない限り、それは下々に拡散しなかったのである。 この視点から見ると、参勤交代は全国に散在する約2700の藩が、江戸を行き来する間に、旅費や経費の形でこまかく銭をまいて歩くのだから、富の拡散機能としてはこれにまさるシステムは他に考え及ばないのである。 同じことは、文化の交流や情報の伝播についてもいえるので、もしこの制度(参勤交代)がなかったら近世約300年の間に、個々の領主がつくる地域国家(藩)はもっともっと固定化して、日本の国民国家の形成はもっともっと立ち遅れていただろう。
 たとえば、江戸が創り出した日本を代表する文化=浮世絵の発展も参勤交代を抜きにしては語れない。すなわち、参勤交代で江戸へやって来た地方武士たちが、郷土への手土産として、手軽で都会的雰囲気のある浮世絵を買い求めたたわけであり、彼らの購買がない限り、浮世絵はあそこまで発展することはなかったと言えるのである。 また、江戸時代に盛んに出版された名所案内記も参勤交代で江戸に来た武士たちの需要であった。
 ”可愛い子には旅”とか”百聞は一見にしかず”とかいう言葉がある。旅は文化の牽引車である。たとえそれがある程度の副作用を伴うにしても、旅は人や文化の交流、経済の活性化に大きな役割を果たす。 国家的な旅の制度としての”参勤交代”を、このあたりで見直すべきであろう。 (『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅の民俗と歴史2 大名の旅                     宮本常一 八坂書房      1987. 6.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
( 2005年6月20日 TANAKA1942b )
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(28)世界一旅行好きな江戸庶民
弥次・北コンビは人気ツアーガイド
「絹」に次ぐ贅沢である「旅」、大名は義務で「いやいや」やっていた。それに比べて、庶民は旅を楽しんでいた。関所はあったし、交通機関と言えば「徒歩」しかなかった。庶民には駕籠は自由に使えるほどではなかった。それでも庶民は旅をした。 「入り鉄砲に、出女」は関所で厳しく調べられ、女性の旅は想像に絶するほど困難なものであった。それにもかかわらず女性も旅をした。多くの旅日記も残っている。 「趣味と贅沢と市場経済」の「衣裳道楽」の次は「旅」。江戸庶民がどれほど旅を楽しんでいたのか、その辺から話を進めることにしよう。
<江戸の旅文化 前口上>
 人には、食欲や性欲と同じように「旅欲」なる欲望が内在している、とか申します。いえ、そう申しているのは、私めでございますが。
 人類の歴史をたどってみると、古今東西、人びとは旅を絶やすことはなかったはずです。ただ、旅欲なるもの、メイリオ;食欲や性欲ほど切実なものではありません。そして、その時代の社会的な環境によって、個人の旅欲はいちじるしく抑圧されることにもなります。 社会が政治的・経済的に安定していないと旅の発達はありえないことは、昨今のテロやサーズの例を引き出すまでもなく明らかでしょう。また、社会の安定期には旅欲がいちじるしく促進されることも、これまた10年ほど前のバブル経済時の例を引き出すまでもなく明らかでしょう。
 そのところで、旅は、ハレ(非日常)の消費行動、ということができます。もっとも、旅もさまざまあり、狩猟・行商・諸芸などをもっての生業の旅まで広義に含むと、その概念はあてはまりません。また、探検・冒険行や流浪の旅なども、そのかぎりではありません。ここでいう旅とは、あくまでも物見遊山の旅を対象にします。信仰や視察などの目的を含みながらも娯楽に多くを費やすところの、現代風にいえば観光旅行を対象にします。
 それは、当然のことながら、私用の旅が主流となります。ということは、庶民の旅が主流となるのです。
 江戸時代は、そうした庶民の旅が隆盛でありました。当時の日本は、世界で冠たる「旅行大国」であったのです。そのことは、ケンペルやジーボルトなどが記した江戸参府の紀行文からも明らかです。
 「一生に一度は伊勢参り」「かわいい子には旅をさせよ」「旅は相みたがい」などの言葉が、庶民の旅のありようを物語っています。伊勢参宮ひとつとってみても、現代の海外旅行の人口比にも匹敵するほどの人出がありました。しかも、それが江戸中・後期を通して持続されたのです。
 持続可能の「観光」がいかにむつかしいことか。ということから、江戸の幕藩体制を見直さなくてはならないでしょう。身分制度や年貢制度から庶民の生活は困窮をきわめた、という歴史観からは「江戸の旅文化」の実態は探りにくいのです。
 「ホンネとタテマエ」は、海外の日本研究者をして日本人の行動様式を知るキーワードともされます。江戸の庶民生活を知るにもそうです。タテマエの制度をくぐり抜けてのホンネの行動が許容されもした、江戸とはそんな時代であったのです。
 しかし、庶民の懐具合も気になるところ。そこでも、庶民はしたたかでありました。農間稼ぎ(作間稼ぎ)や駄賃稼ぎ、そうした副業収入は、おおむね年貢の対象外であったことにあらためて注目しなくてはなりません。それに、講組織と代参制度などの発達にもあらためて注目しなくてはならないでしょう。
 けっして、江戸がよかった、というのではありません。だが、少しひもといてみれば、江戸の旅からは、庶民のおおらかな笑顔が伝わってきます。たくましい旅欲が伝わってきます。
 私たちも、ここに「江戸がえりの旅」を試みてみませんか。不祥私めが、旗ふり役を相つとめまする。 (『江戸の旅文化』から)
<庶民の旅が可能になった時代>  徳川家康が江戸に幕府を開いてからおよそ200年後、お江戸は神田八丁堀あたりに住んでいた弥次郎兵衛(弥二と書かれていることもある)と北八(きた八・喜多八とも)というなまけ者が、箱根に向けて旅立った。 ご存じ十返舎一九の『東海道中膝栗毛』である。出版されたのは享和2(1802)年正月。
 このときの十返舎一九はまだ売れていない作家で、当たりをとったことがない。だから一九も版元の村田屋治郎兵衛も、これが大ベストセラーになるとは夢にも思っていなかった。 箱根関所を越えたところで終わるこの初編は、『浮世道中膝栗毛完』となっていて、この表題を見るかぎり続編が出される気配もない。
 ところが案に相違して、本は売れに売れた。版元にせかされて一九は大急ぎで続きを書き、岡部宿までの2編は『浮世道中膝栗毛後編』と題して享和3年に出版、さらにその1年後には浜名湖を渡って新居関所に着くまでを3編として出版した。 この3編から『東海道中膝栗毛』と、私たちが知っている題がつけられることになる。こうして弥次・北コンビの旅はシリーズ物として書き続けられ、伊勢をまわって大坂に到着したのは8編目のことで、江戸を出版してから8年目の文化6(1809)年、てんやわんやの東海道編はようやく完了したのである。
 しかし弥次・北の人気は衰えを知らず、読者の要望に応えて2人はさらに西へと旅を重ねることになる。以下『続膝栗毛』として、金比羅参詣、宮島参詣、基礎街道、木曽路より善光寺道、善光寺道中、上州草津温泉道中、中山道と続き、二人が各地をまわってえどの到着したのは、初編を出してから21年目の文政5(1822)のことであった。
 このシリーズがいかに人気があったかは、この後さまざまな文人によって、「膝栗毛」と題した類似作品が続々と書かれるようになったことでも容易に想像がつく。
 『続膝栗毛』と並行して、一九は姉妹編にあとるもう一つのシリーズ『方言(むだ)修行金草鞋(かねのわらじ)』も著している。奥州山家(やまが)の狂歌師である千久羅(ちくら)坊と鼻毛の延高(のびたか、下手の横好きとなっている巻もある)という二人の田舎者を狂言まえあしに、ホラ話と駄洒落をまじえながら各地の名所や風習を紹介するという趣向である。 初編は『続膝栗毛』の木曾街道と同じ頃の文化10(1813)年に出されている。この『金草鞋』も江戸見物を皮切りに、伊勢から京・西国・木曾・奥州路などほぼ全国に及び、26編まで(林美一氏説)続いた。
 たわいない失敗談が続く弥次・北の珍道中、そして田舎者まる出しの狂歌師とともに諸国を見物する旅行案内が、なぜここのように読み続けられたのだろう。大ベストセラーが生まれるにはそれだけの背景がなければならない。 (『江戸庶民の旅』から)
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 江戸時代の旅を話題にするなら『東海道中膝栗毛』から始めるべきかもしれない。弥次さん北さんの東海道珍道中、江戸時代の人びとも読んでいた。そのベストセラーを一部引用しよう。
<浮世道中膝栗毛初篇>  富貴自在冥加あれやと、営(いとなみ)たてし門の松風、琴に通ふ春の日の麗(うららか)さ、げにや大道は髪のごとしと、毛すじ程もゆるがぬ御代のためしには、鳥が鳴吾妻錦絵に、鎧武者の美名を残し、弓も木太刀も額にして、千早振神の広前に、おさまれる豊津国のいさほしは、堯舜(げうしゅん)のいにしへ、延喜のむかしも、目撃見る心地なん。 いざや此とき、國々の名山勝地をも巡見して、月代(さかやき)にぬる、聖代の御徳を、薬鑵頭の茶飲みばなしに、貯へんものをと、玉くしげふたりの友どちいざなひつれて、山鳥の尾の長旅なれば、臍のあたりに打がへのかねをあたゝめ、花のお江戸を立出るは、神田の八丁堀辺に、獨住の弥次郎兵へといふのふらくもの、食客の北八もろとも、朽木草鞋の足もと軽く、千里膏のたくわへは何貝となく、はまぐりのむきしぼりに對のゆかたを吹おくる、 神風や伊勢参宮より、足引のやまとめぐりして、花の都にむめの浪花へと、心ざして出行ほどに、はやくも高なはの町に来かゝり、川柳点の前句集(古今前句集)をおもひだせば
 高なはへ来て わすれたることばかり(古今前句集、二篇に「高輪へ出ると わすれた事ばかり」とある)
 とよみたれ共(ども)、我々は何ひとつ、心がゝりの事もなく、独身(ひとりみ)のきさんじ(気散じ=心安さ)は、鼠の店賃いだすも費(ついへ)と(荷物を残しておいて、鼠に喰わせるのも益のないことだと。借家を返してしまったのである)、身上のこらず、ふろしき包みとなしたるも心やすし。 (麻生磯次校注岩波書店『東海道中膝栗毛』から)
 これを現代文にすると次のようになる。
 この世の富貴幸福は、思うままにおさずけください、と祈願して家々で用意する、門松の風の音にさそわれて、琴も何処からか聞こえて来る新春の日のうららかさ。まことに大道は撫でつけた髪のように整然として人情風俗は温かく豊かに、 泰平の御代に少しのくるいもなく、荒武者連もたゞ江戸名物の錦絵に色どり美しく面影を残すだけで、切った張ったの弓や木太刀も、額にして神前にお納め申し上げる、平安無類な日本国のおめでたさは、堯舜延喜むかしむかしの聖人の御治世を、目に前に見るようで、なんといゝ気持ちのものではないか。
 さてこのような大御代に、諸国の名所景勝を歴訪して、月代にぬる青黛のかわりに、聖代の功徳をぼんくら頭にしみこませて、茶のみ話の種に貯えてこようと、さそいあった二人の友だち。山鳥の尻尾にも似た長い道中をしようというので、虎の子の財布はしっかりと臍の上に結びつけ、花のお江戸を出発するのは、神田八丁堀周辺に独身暮らしの弥次郎兵衛というのらくら者。 その食客の北八とともに、いくら歩いてもくたびれぬという朽木草鞋で足ごしらえをの、千里膏もしこたま仕込んで、むきみしぼりのそろいの浴衣に、そよそよと吹きわたるあらたかな風にさそわれて、まず伊勢参宮をすませてから、大和を巡って、花の京から梅の浪速へ、さあ出発だと思う間もなく、もの高輪の町へ来かかった。道すがらふと思い出した川柳は、古今前句集に、
 高輪へ来て わすれたることばかり
 とあるけれども、われわれ二人は、なにひとつ気にかゝる心配もない、気楽な独身者じゃないか。 (伊馬春部・小谷恒訳桜楓社『現代語訳 東海道中膝栗毛』から)
 江戸時代の庶民が読んでいた『東海道中膝栗毛』、同じ文章も現代文にすると少し違ってくることもある。
 富貴も思うがままに、冥土までも御利益あれと、祈って立てた家々の門松に吹く松風に、琴の音に通う春の日うららかさ。まことにえどの大道が真っすぐに、毛筋もども揺るがぬ御代の泰平のしるしは、吾妻の国の江戸の錦絵の世界ではあるまいか。
 そこには鎧武者も色美しく描かれてるが、今では弓も木太刀も神の奉納の額に納まるだけ。治まる御代の豊津国日の本の泰平の今でも、あの堯舜の聖人の世や、延喜の帝の昔の栄えを目のあたりに見る心地である。
 いざこのありがたい御代にこそ、国々の名山景勝の地を巡り歩いて、月代に塗る青黛ならむ盛代の御徳を、やかん頭になる年老いてからの茶呑み話のために蓄えておこうと、二人の友だちが誘い合わせ、山鳥の尾のような、長々しい旅のことなれば、臍のあたりに打ち金の胴巻きに、ずっしりと路用の金をあたためて、花のお江戸を立ち出たのは、神田の八丁堀あたりに住む妻を亡くして独り者、弥次郎兵衛と言うのらくら者と居候の喜多八。 千里の道も一足で行くと言う、名代の朽木草鞋の足元も軽く、足の裏に塗ればまめができないと言う千里膏も何貝も買いこんで、二人おそろいの、蛤のむき身しぼりの浴衣の袖を吹き送る神風のお伊勢参りから、足引きの大和の国巡りして、花の都(京都)から梅の咲く浪速(大坂)へと心ざして神田の家から出かけたところ、早くも江戸もなずれの高輪の町に来かかる。
 そこで川柳点の前句集にあったこんな句を思い出した。
 高輪へ来て 忘れたることばかり (江戸っ子が東海道の旅に出ると、たいてい高輪あたりで、あれこれ旅支度で忘れたことを思い出す)
 さいわい、我々には何ひとつ忘れた物も気がかりもなし、ひとりものの気安さで、留守の家にあばれる鼠どものために店賃出すのも無駄なことと、借家をあけ渡して、身代残らず風呂敷包みにまとめてしまったので気安いこと。
 さりながら、旦那寺からお布施あつめのために時々送られてくる仏餉袋(ぶっしょうぶくろ)に、つねずねケチケチして、米をすこしばかりしか詰めなかったので、和尚さんに旅の往来切手を頼むのに気がひけて、銅銭百文自腹を切ってお寺に寄進して往来切手をもらい、また町役人の大家には、古い借金の店賃を払ったかわりに、なんと御関所の手形を受け取った。 (平野日出雄訳静岡出版『東海道中膝栗毛』から)
 弥次さん北さんの東海道珍道中を書いたベストセラー作家の十返舎一九(1765〜1831=明和2〜天保2)、は書いた作品も「遊び心」いっぱいだっただけでなく、その生き方も「遊び心」いっぱいだった。 一九は天保2年(1831)8月6日67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死した。一九は、自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたので、火葬場でその花火が大きくはじけて、弔いの人々を驚かせたと伝えられている。
 辞世の句は
この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙りと共に 灰左様なら
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 『東海道中膝栗毛』と共によく読まれた旅行案内書に『東海道名所記』がある。
<東海道名所記>  「いとおしき子には旅をさせよ」といふ事あり。万事思ひしるものは、旅にまさる事なし。鄙の永路を行過るには、物うき事、はらのたつこと、おもしろき事、あはれなること、おそろしき事、あぶなき事、をかしきこと、とりどりさまざま也。人の心もこと葉つきも、国により所により、をのれをのれの生まれつき、花車(きゃしゃ)なもあり、いやしきもあり、それのみならず、みちすがらには、海・川、山・坂、橋・平地、石はら・砂原、ほそ道・あぜ道、追分なんどとて、これあり。 道のたすけには、大雪に山ごし、大水に川ごし、ふかき川に渡しぶね、のりかけた駄賃馬、あるひは歩にてゆく人のため、からじりの馬、籠・もり物、あるひは馬のなきときは、かち荷物のたすけもあり、しらぬ道には、あんない者あり、旅屋の遠き所には、店屋の餅・団子、茶屋の焼餅、其他在所により、家により、国の名物、酒・さかな、煮売・焼売、色々あり。一日路すぎて暮がたには、はたごやの宿、泊々、これあり。これをむかしは駅館(むまやど)と名づけ、みかどより、五畿七道に御つかひをくださるゝ時、出(いだ)しける伝馬をば、駅馬(はいま)と申す。 「駅馬」とだにいへば、人おそれてたちのけり。今の世までも、「駅馬駅馬」といへば、道行人もかたはらへ立のくは、此事よりも、いひつたへたること葉とかた。 (『東海道名所記』から)
<携帯用案内記は旅の必需品だった>
 江戸時代の旅の隆盛を支えたものに、道中のさまざまな情報や、旅の案内をまとめた出版物の存在がある。 一般に、案内記・道中記・細見記などと呼ばれる本は、旅籠の宿賃、名所旧跡、主要な地名、人足賃、馬の駄賃、茶屋や名物名産、距離が盛り込まれ、携帯に便利な仕様で出版されている。 一枚ものの摺物も、同種の内容に絵図・表などを加え、旅の目的地や種類によって、多数出された。
 物語や紀行文もまた、旅に大きな影響を与えた。十返舎一九など街道筋の名所をつぎつぎと取り上げ、全8編18冊に及ぶ大著となった。当時の旅ブームがこうした出版物を生み、さらに多くの人を旅へと駆り立てたのである。 (『江戸時代館』鈴木章生著「旅のガイドブック」 から)
 弥次・北コンビは人気ツアーガイドだった。そして『東海道中膝栗毛』の他にも多くのガイドブックが出版されていた。『江戸時代館』では旅のガイドブックとして次のような案内書をあげている。『成田香取鹿島息栖細見絵図』、『大日本道中細見記』、『都名所図会』、『安見道中記』、『安芸厳島御神社図』、『象頭山全図』、『四国八十八箇所順拝略図』、『浪花講定宿帳』。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女                 金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
東海道中膝栗毛(上)                十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店      2002. 8.20
東海道中膝栗毛 現代語訳           十返舎一九 伊馬春部・小谷恒訳 桜楓社       1976. 5.10
東海道中膝栗毛 現代訳                     平野日出雄訳 静岡出版      1994.12. 5
東海道名所記・東海道分間絵図  浅井了意・遠近道印作菱川師宣画 冨士昭雄校訂 国書刊行会     2002. 5.31
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
( 2005年6月27日 TANAKA1942b )
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(29)一生に一度は伊勢参り
現代人の海外旅行より盛んだった!
江戸時代の旅として、参勤交代を初めに取り上げたがこれは「趣味」ではなかった。しかし、参勤交代によって宿場町は整備され、庶民の「物見遊山の旅」も便利になった。いわば大名行列によって庶民の「旅のインフラ整備」が整った、と言える。 ハード面でのインフラ整備が参勤交代によって整備され、ソフト面でのインフラ整備は『東海道中膝栗毛』であった。そうしたインフラ整備によって庶民は旅を楽しんでいた。その一番はお伊勢参りであった。実際にどの程度盛んであったのか、とても信じられないような数字もある。江戸時代、現代人ほど数字に神経質ではなかったのだろう。 なるべく信頼できる数字をもとに話を進めていくことにしよう。
<各地で歌われた「伊勢音頭」>

  伊勢に行きたい 伊勢路がみたい
    せめて一生に一度でも
 「伊勢音頭」でそう歌う。伊勢音頭は、盆踊り系の川崎節を基調とするが、近世では古市の遊郭で盛んに歌われるようになった。娼妓たちが客席で輪踊りを演じるときに歌われるようになったのである。
 その歌詞では、いわゆる伊勢自慢のさまざまが詠まれるようになった。それが、伊勢参宮をした者たちの「帰り唄」となり、全国各地にもたらされることにもなった。そのとき、地方ごとに節も歌詞も相応の変化をみるのであるが、 この一節は、ほとんど不変の伝播をみているのである。
  わしが国さは お伊勢が遠い
     お伊勢恋しや参りたや
  伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ
     尾張名古屋は城でもつ
 この2節も、各地に通じる。
 そして、たとえば、次のような歌詞が各地ごとにつくられた(引用は、中国山地での例)。
  お伊勢参りが 伊勢節習うた
     長い道中歌いずめ
  伊勢へ参ったら 子どもができた
     お名前つけましょ伊勢松と
 江戸期、日本人にとっての伊勢参宮は、人生のある種の通過儀礼ともなっていたのである。
 その参宮道中のにぎわいについては、いくつかの文献に登場する。
 たとえば、井原西鶴の『西鶴織留』では、次ぎのように描写されている。
「神風や伊勢の宮ほどありがたきは又もなし、諸国より山海万里を越て貴賤男女、心ざし有程の人、願ひごとく御参宮せぬといふ事なし」
 また、長崎のオランダ商館付きの医師であったエンゲルベルト・ケンペルは、元禄4(1691)年とその翌年に商館長にともなられて江戸参府した際に見聞したことを『江戸参府旅行日記』に著した。 そのなかで、東海道から伊勢に向かう旅人の多いことに注目して、次のように述べている。
 「この参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の区別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。 (中略)皆が宿屋に泊まることはできず、そのため、また銭がなくてたくさんの人々が野宿したり、時には路傍で弱み疲れて死んでいるのを見ることがある」(斉藤信訳)
 はからずも西鶴、ケンペル両者ともが、「貴賤男女」が参宮している、といっている。あらためて注目しなくてはならないことである。一般に、江戸時代の幕藩体制とは、庶民に労働と年貢を強いるものであった、との印象が強かろう。 ゆえに、生活は困窮を極め、長旅に出る余裕などなかった、と捉えがちである。しかし、この文章からは、その種の観念とは別な、庶民の大胆な行動のようすがうかがえるではないか。貧しき者も、女たちも伊勢に詣でているのだ。じつは、それが実態であった。
 いうなれば、幕藩体制のタテマエをかいくぐっての庶民のホンネの行動。その代表的な行動様式が「旅」なのである。また、その代表的な旅が「伊勢参宮」なのである。
 そこで私たちは、従来の歴史観をかえて本題に臨まなくてはならないのである。 (『江戸の旅文化』から)
<年間10万人、20人に1人>
 さて、その言葉どおりに皆が一度は伊勢に詣でた、としよう。ただし、実働年代は15歳から50歳までの35年ほど。江戸中期の人口を1800万人とすれば、年間で50万人以上の人出ということになる。単純過ぎる計算ではあるが、実際しそれに似た数値を示す記録もある。
 たしかなところでは、享保3(1718)年4月に、伊勢山田奉行が参宮者数を幕府に上申した例がある。それにとると、この年の正月から4月15日までのあいだに、42万7500人となっている。この場合、江戸時代の伊勢参宮は農民を主体としており、その旅は、ケンペルも指摘しているように農閑期にあたる正月から春先にかけて集中したことを考慮しよう。 ならば、その数の4〜5割増の数が年間の参宮者数となろうか。約60万人が伊勢参宮を行っていた、と推測できるのである。
 さらに、保護者や監督者の諒解を得ずに行く若者や子どもたちの「抜け参宮」があった。農山村では、それが成人儀礼になったりもしている。それは、街道沿いに住む補とびとの喜捨に頼っての旅であった。その正確な人数はつかめないまでも、江戸中期には、抜け参宮を含め年間だいたい数十万人が伊勢参宮を行っていた、とみてよいだろう。 当時の人口比で、およそ20人に1人が伊勢に歩を進めたということになるわけだ。これは、けっして誇張ではなく、むしろひかえまな推測値というものである。
 ゆえに、「一生に一度の伊勢参り」。それは、ただの願望ではない。言い替えれば、均して20年に1度ぐらいの機会はあるのだから、十分に現実的な願望なのである。
 ちなみに、テロやサーズの影響を受けなかった平成10年あたりを基準にすると、現在の海外旅行者は約1500万人。そのうち、観光旅行者に限ってみると、約1000万人。人口比でいうと、12,3人に1人の割合となる。ただ、旅に費やす日数に大きな差がある。ちなみに、現在の海外旅行の平均日数は7泊8日。 伊勢参宮でえどから伊勢を基準にすると、片道が約15日、往復で30日。それに、京都や大坂へのついでの遊山行を加えると50日も、それ以上もの旅程ろなる。実質的な人日数の消費で考えると、江戸期の伊勢参宮の方がはるかに大規模であった、と言えるのである。
 もちろん、これだけの推定数値をもって古今の比較をすることんにさほどの意味はないが、江戸中期における伊勢参宮のすさまじいまでの盛況を検討づけるはずだ。少なくとも、現在の海外ブームに勝るとも劣らない状況であったことに異論をはさむ余地はなかろう。 (『江戸の旅文化』から)
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<旅する前に>  江戸時代の庶民が長期間家を留守にすることは、よほどの理由がないと許されなかった。たいていの国では、領民が10里(約40キロメートル)以上遠くへ出かけるとき、あるいは隣村で1泊するときでさえも、名主に断らなければならないとされていた。 こんな決まりを作って、かならず戻ってこることを名主に確認させていたほど、領主は領民が居所を離れることを恐れていたのである。数ヶ月を要する旅に出るとなると、その理由がつぶさに調べられた。長期の旅は、故郷を出奔することに繋がりかねなかったからだ。
 武士は農・工・商人たちを支配していたが、武士の生活を支えていたのは、農・工・商の庶民が生産したものにかけた税(年貢)であった。農・工・商人たちが長期間留守にすると、その期間はそれぞれの仕事がおろそかになって、生産に差し支える。それが農民なら耕地が荒れ、元にもどすもに数倍の手数がかかってしまうし、 職人や商人も、旅の最中は仕事にならない。それに少なくない旅費が要るし、旅支度にも何やかやと金をかけ、みやげも買ったりするから、ついつい出費がかさなってしまう。そうなると、戻ってからの生活が苦しくなって、家をつぶしてしまう恐れもあった。旅の途中で事故にあえば、のもまま野垂れ死ぬ可能性も少なくない。どちらにしても年貢は納められなくなるのだ。
 言うまでもないが、江戸時代の旅は自分の足が頼りである。成人男子の1日の平均歩行距離は10里と言われていて、事実、当時の人びとは雨が降っても、雪が降っても、1日に10里近くは歩いている。 例えば江戸から京都までは126里6丁(「五駅便覧」による)。今ではこの距離を、新幹線「のぞみ」でたった2時間15分で行き着いてしまうが、江戸時代は、12泊13日でいくのが基準にされていた。武士ならもっと早足で、1日11里かか12里は歩く。
 これは川留のもあわず、足にマメもつくらず、何の事故にもあわずに行った場合で、現実はなにが起こるかわからないから、この日数以上かかることが多かった。そのまま戻ってきても、この2倍の日数がかかるし、また用事を済ませるまでの日数も加えなければならない。このように旅に出るとなると、長期間にわたってしまうのが江戸時代の旅だったのである。
 領民がこのような長期の旅に出ることを、苦々しく思わない領主はいなかっただろう。たいていの藩は財政のやりくりにあえいでいたから、領内の金が他国へ落とされてくるのが惜しくてたまらなかったはずだ。
 しかし、旅のすべてを禁止するわけにはいかなかった。商取引も規模が大きくなれば全国を股に掛けることになるし、職人や芸人は他国でも修行してこそ名人と言われるようになる。中世からこの方、はるか遠くまで巡礼に出る信心深い者はあとを絶たなかった。名医になるには、江戸か長崎で勉強してこなければならなかったし、宗教者は津々浦々まで布教のために出かけていた。 参勤する領主の人足として江戸を訪れた農民も大勢いる。他国へ嫁いだ女性も、他国から嫁いで来た女性もいる。
 こうして旅を体験してきた者の話は、生きた学問として人びとに伝えられた。中には他国の賑やかさをことさら吹聴する者もいただろう。華やかな渡海、荘厳な神社仏閣、歴史の舞台となった名所旧跡、そして珍しい風景、こうした所を巡り歩く旅の日々がどんなに楽しいものであったかを、人びとは胸をときめかせて聞き入ったに違いない。 旅というものが、汗みずくになって労働している日常とどんなにかけ離れたものかを聞いてからな、仕事がうわのそらになってしまった者も多かっただろうと思う。このうおうにどんな片田舎であっても、遠くを旅してきた人びとはかなり多かったし、また商人や宗教者などさまざまな旅人が村に入ってきて、遠い国の珍しい話を置きみやげにしていったのである。 こうしてもたらされた情報は、旅へのあこがれをますます強くさせたことだろう。
 人びとはいつかは自分も旅に出ることを願った。地道に旅費を貯えて神仏への参詣を果たした者もいるし、他国へ雇われる途中に旅を味わった者もいた。巡礼の中には、喜捨をあてにしてほとんど旅費も持たずに出かけた者もいる。 こうして実際に旅に出る者は着実に増えていったのである。無事に故郷に戻った者がほとんどであるが、途中で病に倒れて他国に葬られた者もいるし、現実に家をつぶしてしまった者もいる。領主から見れば、領民の旅はまったく無駄なものに思えたに違いないのだ。
 しかし領主たちは、旅をしたいという人びとの気持ちを全面的に抑え込むことはせず、風穴のような特例を認めていた。神社仏閣に参拝すること、病気治療の」ために湯治に行くこと、他国にいる親類縁者への病気見舞いや葬式などは、どこでも大目に見られていたのである。
 旅立ちたくてうずうずしている者が、この手を使わないなずがない。生活に余裕がでてくると、信心、あるいは病気治療を理由に、他国へと旅立つ者が増えてきた。表向きの理由は殊勝なものだったが、実際には目的地に行き着くまでに名所を見学するし、参拝が終われば精進落としろ称して派手な散在をし、ようやくここまで来たのだからと、かなり遠くの観光地まで足を伸ばしたりしている。 こうした名目として一番使われたのが伊勢詣でだった。特に江戸や東国では伊勢へ行くことが盛んで、各地に残る庶民の道中手控を見ても、その多くが「伊勢参宮日記」など、伊勢詣であることを表題にしている。
 伊勢詣は表向きの理由で、その実体は観光であることを領主は知っていたに違いない。伊勢神宮(内宮と呼ばれる皇大神宮と、外宮と呼ばれる豊受大神宮の総称)は天皇家が祭るところであり、全国の氏神の総本社のように考えられていた。こうした素朴な崇敬は規制できるものではなかったし、お伊勢様では自分たちの五穀豊穣・家内安全のほかに、御領主の武運長久もお願いしてくるとなれば、領主も禁止できなかった。 こうして伊勢詣を理由に、大手を振って旅に出かけて行った庶民は多かったのである。 (『伊勢詣と江戸の旅』道中日記に見る旅の値段 から)
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<手形なしでの伊勢参りもあった>  江戸時代を理解するためのキーワードは「本音と建前」「アバウト」が思い浮かぶ。幕府は関所を設けて庶民が諸国を旅することを制限していた。しかし現代人の海外旅行以上に旅を楽しんでいた。そのような見方は「自虐的な歴史観」や「貧農史観」あるいは「階級闘争史観」からは生まれてこないのだろう。 結構アバウトだった、という例を見つけたのでここに引用することにした。
 江戸時代のいろいろな日記を読んでみますと、旅の実態がよくわかります。 たとえば京都大学には、『日下村庄屋日記』という元禄の少しあとから、享保の終わり頃まで、毎日詳しく書いた日記がありまして、その日記を私は京都大学に、昭和21年でしたけれども、1年間内地留学というので行っておりましたときに詳しく読んだのでありますが、それを見ておりますと、村の庄屋ですから、村人たちが、善光寺参りとか、 金比羅参りとかに出かけるようなときには、その手形の許可をとってやらなければならない。それで、あるとき、伊勢参りに行くというので、15人は許可をとったけれども、3人は手形なしで出かけてしまった。困ったものだといって、大変心配している箇所がありました。 それも無事に行って帰ってきたらしくて、あとどうなったんだろうと思っていろいろ探しましたけれども、その後のことは全く書いてありませんでした。 (『江戸庶民の四季』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
( 2005年7月4日 TANAKA1942b )
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(30)旅にまつわる費用など
女性も旅を楽しんでい
江戸時代、伊勢参りをはじめ庶民は旅を楽しんでいた。史料を調べれば調べるほど多くの面に興味が涌いてくる。それだけに、それらをまとめるとなると、これが一仕事。伊勢参りも一本筋の通ったまとめ、となると苦労する。 という言い訳を書いて、伊勢参りについては史料を沢山提供し、読者の皆さんにの頭に中でまとめて頂こうと、ちょうどジクソー・パズルのように史料をランダムに掲載します。 ということで、先ずは民俗学者宮本常一の文から始めます。
<伊勢の御師>  伊勢神宮はもともと皇室の先祖をまつるものとして一般民衆はこの社に奉幣することを禁じられていた。したがって民衆で伊勢に参る者は平安末までは少なかったのであるが、外宮権禰宜(ごんねぎ)であった度会光親が源頼朝のために祈願したという記録があり、たぶんその前後から、民間の者で私幣を献ずるものがあったと考えられる。 すなわち源頼朝がそのはじめではなく、そういう風潮が東国全体に見られつつあったと考えるのである。
 というのは、平安末のころから関東地方に伊勢の神領や御厨が成立しはじめる。もともと伊勢神領は度会(わたらい)三郡があてられていたのであるが、この他の地方に神領のふえて来るのは、民間からの奉納者がふえて来たことを意味する。 つまり伊勢を信仰するものが多くなって来たのである。関東平野に多い神明社はいずれも伊勢神宮から勧請したものであった。
 しかも伊勢にはたくさんの祈祷師がおり、それらが神領へ下っていって宗教活動をするようになって、神領と神宮との間には単なる領有関係ではなくて信仰によって結ばれたつよい紐帯が見られるにいたった。 (『旅と民俗の歴史』から)
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<こんなに費用がかかった>  伊勢は天皇家が祭る神だから一般の人は参拝できない。しかし御師を通せばそれが可能である、と喧伝したのである。みやげを手渡されながら親しくこう話かけられれば、一般庶民の気持ちはくすぐられたことであろう。 さらに、神をなぐさめるために神楽を奉納すれば、信者家内安全、武運長久などさまざまな願文を読み上げて祈願をし、宿泊は御師の邸宅、伊勢の名所も案内すると言われれば、気持ちは大きく傾いたに違いない。
 行きたい気持ちはあっても、伊勢までの旅費をどうするか。これが問題であった。遠国であれば伊勢までの日数は相当にかかる。例えば江戸から伊勢山田までは114里(約456キロ)。1日10里で歩いても、往復するだけで最低1カ月はみなければならない。弥次・北のコンビも11泊12日で伊勢に到着している。
 文政12(1829)年に、江戸から上方へ切り詰めた旅をしなければならなくなった歌舞伎役者の中村仲蔵は、「京まで百二十里なれば、十二日の道中として、一日に一朱当てなれば」と、1日1朱の旅費を胸算用している。 また文政6(1823)年の越後国柏崎郡では、名主が効用で旅をする場合「一日雑用旅籠小遣共三百五十文宛」が出ることになっていた。 金1分は1両の4分の1、1朱は1分の4分の1である。1両が6貫500文(6500文)くらいの年であったから、1朱はその16文の1の406文ほどで、350文では1朱に満たないが、このくらいが目安とされたのだろう。1日1朱として計算すると、江戸から伊勢まで往復するだけで24日かかるから、1両2分が必要ということになる。
 名主の記録の4年前(文政2年)の同じ越後国柏崎の書上げには、大工・左官・木挽き・桶屋の日当は、1人が12日働いて金1分とある。それが徐々にあがって、23年後の天保13(1842)年には大工・屋根葺き・木挽き・畳刺し・桶屋が11日、左官・船大工・塗師は10日で金1分になっていたが、この年に諸色値段が下げられ、再び12日で金1分となった。 1分を稼ぐのに12日かかるのだから、1朱を稼ぐのに3日かかることになる。この年は1両が6830文ほどだったので、1朱はその16分の1の427文。1日の労働賃は1朱の3分の1で、約142文である(これに飯米料が別につくから実際はもう少し賃金は高くなる)。千葉県市原市周辺でも、寛政10(1798)年の大工・木挽き・桶屋の手間賃は9日働いて金1分で、これは天保13(1842)年になっても変わらなかった。 同じ天保13年上州沼田でも、天保13年の値下げ後の賃銭は、大工・木挽き・桶屋は10日働いて1分となっている。おそらく他の地方でもこの程度のところが多いのではなかろうか。
 江戸の伊勢の往復1両2分という旅費は、もちろん何事もなかった場合のことで、運悪く川留に引っかかれば無駄な宿泊を重ねなければならないし、病気や怪我をすれば旅籠屋の逗留代や医者、薬代で予算は大幅に狂ってしまうことになる。 旅費の他に予備費も計上しておくにこしたことはない。だから全体としては少なくない金額が必要になった。
 手間取りの職人でさえ、1泊の旅で労働3日分の旅費がかかった。村の住民の多くは農民で、現金を手に入れる機会はあまりない。しかし年貢を納めたあとの米は、自家用に消費する分をのぞき、できるだけ売るように心がけた。 野菜や藁・竹の細工物を市に持っていって売る者もいたし、行動沿いに茶店をだしてささやかな商売をやっている者もいた。耕作のあいまに野鍛冶や屋根葺きといった職人仕事をする者もいる。 農閑期には出稼ぎをするのが当たり前になっている地方もある。年貢は米の場合は現物納だが、その他は金納が普通で、金銭にまったく無縁ということはなかった。 こうして村人も貨幣経済の渦に巻き込まれていくのだが、村の中では自給自足が原則で、物と物、あるいは労働力と交換ということがまだ多く、貨幣の動きはそれほど活発とは言えなかった。だから遠い伊勢までの旅費を気軽に出せる者は、少数派だったと言わなければならない。
 しかし御師たちは、信者全員を伊勢に呼ぶ方法を知っていた。それは伊勢講を組織し、講員全員で毎月積み立てをして、ある金額が集まったところでクジなでで何人かを選び、その者たちが代表者として参拝に行くというものである。 代参(だいさん)という方式で、次は行かなかった者たちに旅の機会が与えられるから、これをくり返せばいつかは全員に順番が回ってくることになる。集めた金を利息を取って貸し付け、貯めているだけのところより早く目標金額を達成しているところさえあった。
 こうした代参とは別に、積み立てをした一同がこぞって伊勢参拝を果たしたとか、商用のついでや、奈良・京都の古寺巡りの途中に立ち寄ってた者も少なくなかった。農民以外は比較的季節に左右されずに出かけている。 抜参りの者たちも、性別・年齢、そして季節を問わなかった。また伊勢の神は法体の参拝をきらうといって、僧侶たちは神域間近に設けられた僧尼拝所から拝むことになっていたのだが、僧形の者も、黒い雨合羽の裁ち屑で付け髪を付ければ許されることになっていて、仏教者でも参拝する者は少なくなかった。
 西国巡礼の一番札所は那智勝浦の青岸渡寺(せいがんとじ)に設けられ、伊勢参りをしてから西国巡礼にでるようになっている。東国から四国八十八ヶ所巡りをする場合も、まず伊勢に参拝してからという者がほとんどである。 このように、伊勢は西国札所と四国八十八ヶ所の入口にもあたっていて、旅といえば伊勢を頭に浮かべるほどであった。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<庶民の旅を発達させた要因>  17世紀後半になると、庶民の旅は次第に盛況をみせだした。これ以前にも旅をする庶民はいたが、数が少なかった。
 江戸時代の庶民の旅の特徴は、仕事や信仰目的のほかに、物見・遊山が増加したことである。旅を通じて庶民はさまざまな異文化を体験し、情報を入手した。
 ただし庶民が安心して快適な旅をするには、克服されなければならない多くの問題があった。まず庶民にある程度の時間的・金銭的な余裕が必要である。治安が安定し、旅行施設が整備されていることも条件であった。全国で信用される統一貨幣の流通も、旅の発達には欠かせない。
 その点、江戸時代は兵農分離の貫徹により、前代に比して格段に治安がよくなった。幕藩領主の陸上交通政策により街道が整備され、休泊施設も整った。宿場には人足や馬が常備され、賃銭さえ払えば誰でも利用できた。17世紀後半以降になると生産力が発達して、庶民のなかには生活にある程度のゆとりをもつ人々も現れた。
 もっとも休泊施設や人馬を利用するには、全国で通用する貨幣が必要である。いわゆる慶長金銀は慶長6(1601)年以降に発行されたが、庶民が入手する機会はもとんどなかった。この時期、庶民の多くは絶対量が少なくてしかも信用度の薄い鐚銭(びたせん)や永楽銭を使用するか、あるいは実際に米や加工品を携行して旅をする以外になかった。これでは何かと不便である。
 しかし寛永13(1636)年から寛永通宝が大量に発行されて庶民に出回り、旅先ではもっぱら寛永通宝が使用されるようになった。これ以降、幕府は新貨幣を発行すると、宿場の助成金として配分したりして流通に努めた。もっとも寛永通宝は四分銭と一文銭という少額貨幣であったので、大量に持ち歩く必要があり、旅に携帯する貨幣としては十分でならった。
 旅との関連で言えば、貨幣問題を一挙に解決したのが、元禄8(1695)から鋳造がはじまった元禄金銀の発行である。元禄金銀は諸物価高騰の原因となり、また鋳造にからむ贈賄問題も発したが、大量に発行されたので庶民でも比較的容易に入手することができた。
 旅に発達には、こうした言わばハード面の整備とともに、旅心をかき立てるソフト面の充実も重要である。その意味では、各種の街道絵図や旅行案内書・道中記、あるいは地図類の出版が、さらに庶民の旅を促した。言わば、机上での「読む旅、見る旅」から旅心を誘い。実際の旅立ちに結び付いたのである。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<宿泊に食事付の旅籠屋>  旅籠屋は、宿場における本陣・脇本陣以外の宿泊施設をいう。公用以外の武士や一般旅行者が多く利用し、宿泊に食事付きの旅宿である。旅籠屋は厳密な意味では、近世の宿場において、食料を提供する旅宿を指し、木賃(薪代)を支払う安い木賃宿とは区別している。(中略)
 旅籠屋の成立や、何をもって旅籠屋とするかは難しい問題である。近世初期にすでに旅籠屋の存在を認める説と、近世前期から中期にかけて、木賃宿から天下したとする説がある。いずれにせよ、交通量の増大にともない、元禄・享保期頃までに各宿場に成立したものである。(中略)
 参勤交代の大名一行は、本陣・脇本陣のほかに、札宿・幕宿・駕籠宿・並宿・油紙宿に分宿するが、このうち、旅籠は札宿以下、並宿まで、油紙宿は木賃宿にあたる。
 文政2(1819)年、二本松藩主が家臣281名を連れて、7日間にわたる領内巡見を行っている。宿泊所として、郡山宿・本宮宿の本陣、家臣の宿泊所は下宿として旅籠屋12軒があてられている。旅籠屋が無い場合は、下宿はどのような家でもよい。本陣の近くに12軒を用意し、食事は一汁一菜、馳走がましきことは行わないと触れている。 郡山宿へは4泊したが、その間旅籠屋へは一般旅行者は宿泊できないため、上級役人の賄代1人150文、下級役人の賄代1人100文、巡見中に旅籠屋に残る下級役人の昼食は茶漬けとし、昼旅籠銭として1人150文を支払っている。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<宿泊に食事付の旅籠屋>  江戸時代女性の旅行者は少なかった。伊勢の御師宅に残された記録によると、参宮に訪れた旅人のうち、女性はわずか4〜5パーセント前後に過ぎなかったと言われる。 伊勢だけでなく、他の地方を行き来した女性の旅人もおそらくこの程度で、女性の旅姿は20人から25人に1人見られるくらいだったと言われる。
 そのような時代に、女性が主役で旅をして、その記録を残していた。それは今野於以登(こんのおいと)で羽州由利郡本庄(秋田県本荘市)から文久2(1862)年8月22日(陽暦9月15日)に旅立った。連れは女性1人と男2人。女性2人が主役で、男は下男と思われる。 道順は、越後高田から信州善光寺へ、冨山、金沢、福井から永平寺へ、それから大坂、丸亀から金比羅様へ、それから大坂、高野山、奈良から伊勢へ、それから桑名、鎌倉、江戸へ、それから日光を見物して故郷に着いたのは、12月24日(陽暦では翌年の2月12日)であった。 この間151日、滞在日を除く1日の平均移動距離は6.7里ほど。全行程は780里ほど。芭蕉の『奥の細道』の全行程がおよそ450里であるから、その長さが想像できよう。
 その記録をまとめたのが『関所抜け 江戸の女たちの冒険』。そこで、その中から旅費に関する部分を引用してみよう。
 元禄13(1700)年の公定相場は金1両が銭3貫900文(3,900文)以上に替えられることになっていた。しかし銭価は次第に下落し始めて、明和8(1771)年に金1両が銭5貫500文にもなり、寛政9(1797)年からは6貫文以上が普通となっていた。 幕府は天保13(1842)年に金1両を銅銭6貫500文に公定したが、銭価の下落は止まらず、物価は高騰していった。
 喜多川守貞は、安政6(1859)年に横浜を開港してから洋銀が大量に入って諸物価は高騰し、たちまちのうちに文化・文政頃の3倍、嘉永頃よりも2倍もするものが出てきたと記している(『守貞漫稿』)。また於以登が出発する前年の文久元年、『武江年表』には「春の頃より諸物価登揚せり」、 次年も「諸物の価、尚踊貴し」とあり、物価はうなぎ登りに上昇していた。さらに慶応3(1867)年には、8貫160文から8貫432文になるというありさまであった。
 於以登が151日貫の旅で記帳した日々の出費を合計すると、2両7分24朱と14万3972文になる。この年、江戸では金1両が銭6貫700文から6貫774文の相場であったから、仮にこの平均値である金1両が6貫737文とすると、於以登が使ったのは、26両1分と2貫495文。 ただし宿代と舟渡し賃などは銀蔵分がふ含まれているので、2人分になる。概算だが、1人1日594文ほどを出費していたことになる。このうち宿代は安いところで永平寺前の225文、高いところで武州越谷の450文、全行程の平均は290文であった。
 同じ年(文久2年)の他の者の例を見ると、東海道の旅籠は1泊300文から350文、中国路で250文から300文程度払っているから、於以登たちは普通かそれより少し高い旅籠に泊まっていたようである。
 時代は前のことになるが、文化4(1807)年に武蔵から伊勢に詣でた男性は1日の出費平均が478文(宿代平均169文)、弘化2(1845)年では1日404文(宿代平均170文)、安政4(1857)年では1日359文(宿代平均174文)という例がある。 また個人で行くより伊勢講などで行く場合のほうが旅費を安くあげる傾向にあり、個人で行き、さらに銀蔵の分も払っていた於以登の場合とはそのまま比較はできないが、諸色はかなり高くなっている。
 また於以登はこの日々の出費の他に、帯・白粉など自身の買い物を「調物大略控」に記帳していて、それが8両1分と2貫910文。これを加えた総合計は34両2分と5貫405文のものぼっている。ちなみにこの当時、紀州の江戸勤武士の1年間の総支出は28両程度であった。 江戸の藩邸への進物等に1分3朱をかけるなど他の旅人にない出費をしているが、まずは金銭の心配のない旅だったといえよう。
 道中では小銭が欠かせない。草鞋や茶店代、昼食、橋銭や舟渡し賃、旅籠代もみな銭貨で払わなければならなかったからだ。だが最初から銭を多く持って出るのも厄介なことであった。於以登が使ったおよそ35両分を全部銭で運んだとなると、その重さは800キログラムを超えるだろう。とても運んでいける重さではない。
 旅の第1の心得はいかに荷物を軽くするかであったから、最初から大量の銭を持ち歩くことはしなかった。金貨の1両や2分判(2分の1両)、1分判(4分の1両)、2朱金(16分の1両)などを持っていき、小銭がなくなりそうになると両替をしたのである。(中略)
 於以登が旅立った文久2年の本庄の物価がわかるものは見つからなかったが、天保9(1838)年の諸色値段のうち、旅に関係ありそうなものをあげておこう。
 白米1升は上で73文、中・下70文。ろうそくは7匁掛け1丁が18文、3匁5分掛けが9文。ちり紙1帖が7文。わらじ6文。扇子は上が36文、中・18文。3尺手拭い1筋117文。染め足袋270文。甲掛け1足117文であった。
 天保9年の銭相場は金1両=6貫650文〜6貫735文であったから、文久2年にはわずかだが物価は高くなっていたはずである。 (『関所抜け 江戸の女たちの冒険』から)
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<新稲種の普及>  参宮は農事上方の交流の場であった。伊勢多気郡朝柄村の岡山友清は、幕末に稲種を改良して多収穫の「伊勢錦」を生み出し、これを大和荻原(榛原)の人が文久3(1863)年松阪の湊町でこれを入手し、やがて老農で知られる心学講社の中村直三によって普及された。 友清は不二孝(不二道)の信仰をもち、その講グループを介して近江・紀州・信州までこれを広げたが、参宮の道が農事改良とその伝播に果たした役割を示す事例である。 (『街道の日本史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅と民俗の歴史 1 日本の宿                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 4.30
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
関所抜け 江戸の女たちの冒険                    金森敦子 晶文社       2001. 8.10
街道の日本史 30 東海道と伊勢湾             本多隆成・酒井一 吉川弘文館     2004. 1.20
( 2005年7月11日 TANAKA1942b )
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(31)夢のような伊勢参宮の旅
ハレの食事の極めつけ
今週は伊勢参宮を扱う。道中費用にはいろいろな資料があるが、その中から分かり易いものを引用した。伊勢参宮はその豪華な食事で知られる。その一部を紹介することにしよう。先ずは道中費用から。
<道中費用のこと>  寛政7(1795)年3月、河内の荒川村の直右衛門夫婦がおそらく、淀屋という家号の人たちであろう8人と連れだって合計10人で伊勢参宮をした時の記録が黒羽ね兵治郎氏によって報告されている。 この旅は3月6日に河内を出発し奈良から名張に出て、伊勢・二見をまわり帰りは松阪から関に出て東海道を京まで上り、京見物をして3月25日に帰着する20日の道中であった。 出発にあたっては村はずれまでは村人が見送り、さらに両家に関係深い人々は暗峠まで見送って、峠の茶屋で別れの盃を傾けた。この一行は男3人、女7人という構成で、女が多かったせいもあってか、かなり度々休んでいる。 初日の経費を見ると、茶代が峠までの間に高井田新田100文、松原100文、といら86文これは汁銭共となっている。峠の茶屋では茶代100文のほかに、酒汁代共に760文を支払っていることから、ここで別れの一献を傾けたことが知れる。 女のうち1人は奈良まで駕籠を使っている。駕籠賃は村から峠まで550文、峠から奈良まで920文、峠から奈良までは荷持人足を雇って472文、峠から先はまた3回休憩をしているが、これはほんの足休め程度であったらしく、茶代は僅か75文である。 榁ノ木峠では昼食をとっており234文、草鞋88文、奈良での泊まりは猿沢池のほとりの印判屋で1泊2食つき銀20匁(1人2匁)、そのほか茶代100文を置いている。 奈良から伊勢までの泊まりは初瀬・名張・二本木・新茶屋で、宿料は二本木が30匁のほかはいずれも20匁(10人分)に茶代は100文である。銀1匁がほぼ銭100文に替えられているので、1人当たりの宿代は200文ほどになり、この時代としては上等の宿と言うこのになるようである。
 伊勢では内宮の御師栗谷太夫が宿であった。ここでは2泊しているが、その宿料として1両2分、茶代100疋、計1両3分で銀換算は60匁7分で銀106匁2分4厘になっている。 これは14人割で1人前7匁5分9厘(1日が3匁6分になる)となっている。10人のところで14人になっているのは、女の多い淀屋の方で12人分の部屋を要求したのかと思われる。ほかでもこういった割合になっているところがある。 この宿泊料は道中のどこよりも高いものである。またそのほかに祈祷を頼んだ懇志として太夫以下、男衆下女にいたるまでおのおの包んでおり、その合計が金2両2分2朱と銀30匁9分5厘を納めている。 この懇志合計は銀換算で190匁2分7厘である。御師の経済がこういったもので成り立っていたことがよくわかる。 (『旅と民俗の歴史』から)
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<旅籠での食事メニュー>  江戸時代の観光旅行、ではその旅先での食事はどのようであったのか、旅籠での食事を紹介しよう。 
 天保3(1832)年1月、高野山遍照院に泊まった一行に出された夕食は、千切り大根の酢もみ、大汁(具は不明)、梅干し、豆腐、山芋、氷豆腐の煮付け、飯。二の膳の汁の具は氷蒟蒻と椎茸で酒のつゆ(酒粕か)が入っていた。 この他に焼き豆腐とキノコ、それに酒がたくさん出されている。翌日の朝食は「朝同断」とあり、夕食とまったく同じ物が出されたようである。食材の種類は少なく、調理法もいたって簡単なものであった。これにはいくらで泊まったかは記されていない。
 もう一つの例をあげる。天保12(1841)年閏正月に、金1分2朱を出して10人で高野山の桜池院に泊まった一行に出された夕食は、大根と人参の酢の物、汁は豆腐と菜、猪口に干し大根と菜、生揚げ。二の膳は、小皿に香の物と煎り豆、吸物は麩のすまし、煮物は氷豆腐・椎茸、これに酒がついていた。
 戸隠山での食事もあげよう。天保6(1835)年2月の記録である。同行者はいたようだが人数は不明。宿泊費も不明である。宿坊宝泉院に着くと、上等なお茶と菓子が出され、ひと休みした後に風呂に入っている。それから独活と椎茸の吸物、ゆばにたまり醤油をかけたもの、 酒、甘く煎った豆、せりやき(芹を焼いたものか)と百合根、そして蕎麦がむるまわれた。
 翌日の朝食は、慈姑=くわい・干し舞茸・人参・干瓢・山芋の煮物、汁は甘味噌仕立て、大根おろし、独活の和え物、油揚げ・干し椎茸・それに飯、お茶。
 この旅人は「殊之外(ことのほか)馳走」と記しているが、伊勢へ行ったことがあるなら、おそらく別の書き方になったことだろう。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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 江戸時代の庶民が一生に一度は行きたいと願っていたお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて夢を膨らましていた。夢のような旅での出来事、その一つが御師の館での饗応だった。 そうした旅での食事、それを中心に文献から引用してみよう。
<江戸時代の旅籠での食事>  忠兵衛らは、板鼻を11人で出発。中山道をたどり名古屋に到着すると、そこで江戸廻りで東海道を上ってきた別の仲間6人と合流する。そこから伊勢へ。一行は17人となる。伊勢神宮に参詣したあとは、また分散。17人のうち5人は、松阪で分かれて京都見物に向かった。 忠兵衛ら12人は、伊賀越えで奈良に入り、さらに吉野・高野山・和歌の浦へと足をのばす。和歌山からは、7人が四国へ渡るために分かれ、忠兵衛ら5人は大坂へ・大坂でさらに分散し、そこからは忠兵衛は1人となる。そして、山陽道、長崎道を通り長崎へ。帰りは、山陰道を通って出雲大社へ参り、さらに京都面物もしている。旅程3カ月半にもおよぶ大旅行であった。
 さて、その旅のなかで旅籠の食事をいくつか拾ってみると、たとえば中山道の馬籠・釜戸・内津では、次のような食事をとっている。
  馬籠 夕 皿(肴)、平(いも・にんじん・こんにゃく)
     朝 皿(さば)、平(とうふ・こんぶ)
  釜戸 夕 皿(さんまひもの)、平(とうふ・ねぎ)
     朝 皿(えび)、平(いも・大根・にんじん)
  内津 夕 皿(さんまひもの)、猪口(こんにゃくかき)、(とうふ・あぶらあげ)
     朝 皿(玉子)、平(いも・大根・とうふ)
 また、伊勢路の二つの宿、白子、松阪でのそれは、以下のとおり。  
  白子 夕 皿(ねぎ・ぬきみ)、平(あらさ・水な)、皿(えび)
     朝 皿(さわら)、平(白魚)、猪口(ざせん大豆)
  松阪 夕 皿(肴)、平(かまぼこ・青菜)、猪口(やきもの)
     朝 皿(やきもの)、平(すりみ・ふき・れんこん)、猪口(大根葉漬)
 であるから、ほとんど大差がない。夕食が「一汁二菜」か「一汁山菜」。あえて言えば、山間の宿場では「一汁二菜」、東海道や桑名からの伊勢路では、「一汁三菜」が標準になる。 そして、朝食が「一汁二菜」。ただし、夕食の一菜は魚であるが、朝食のそれは二菜とも惣菜である。
 そして、この標準的な紺誰は、明治以降も昭和前期のころまで、観光地での滞在型旅館を除くと全国的な旅館の献立として引き継がれていくのである。
御師の館での饗応  旅籠の食事は、一汁三菜(五器一膳)か一汁二菜(四器一膳)。むろん、それとてハレの食事であった。
 ところが、伊勢に入り御師(伊勢では「おんし」と言った)の館に泊まった一行を迎えた食事は、旅籠のそれよりもまた数段豪華なものであった。ハレの食事のなかの、また特別のハレ。伊勢神宮のハイライトはここにあった、と言っても良い。
 御師は、中世においては神職。近世では、旅行斡旋業に転じる。斡旋だけでなく、館での宿泊と祈祷(神楽)、みやげものの販売など、いうなれば総合旅行業であった。
 ちなみに、世界で旅行業の開祖のようにいわれるイギリスのトーマス・マックが始動するのは、19世紀のこと。それよりも100年も、それ以上も前から日本では伊勢の御師が大量の「講旅」、つまり団体旅行を取り扱って活躍していたのである。
 以下、御師の館での大仰なもてなしを、先の『伊勢参宮献立道中記』から引いてみよう。
 講中が、御師岡田太夫の館に滞在したのは、3月27日から29日までの3日間である。27日は、駕籠を何台か手配してもらい、手代の案内で二見が浦を見物、内宮へも回って館へ到着したのは夜五つ時ごろであった。
 一行は、玄関からすぐに大座敷に通される。そこでは、まず手代が裃姿で出迎えて挨拶。次ぎに岡田太夫が衣冠を正して東条し、一行に祝詞を述べ、丁寧な挨拶を行う。そして、手代によって夕食の案内。
 その献立は、以下の通りである。まずは、歓迎の宴、といってよいだろう。
  本 膳 皿(鱠=なます)、壺(木耳・いか・麩=ふすま)/飯・汁・香の物
  二の膳 猪口(葉のしたし)、椀盛(あいなめ・神馬草)、平(うど・たかんな・かまぼこ)、重引(鮑煮付・結び昆布)、同引(伊勢えび一色)、後吸物(鯛味噌煮)
  引 物 猪口(くづし身・浅草のり・酢の味)、椀(鯛・春菊・すまし)、引酒
 御師の館での夕食としては、これがけっして最上というわけではない。が、これほどに詳しく献立を記述した日記は少なく、同列のおけるのは先述もした『金井忠兵衛旅日記』である。ちなみに『金井忠兵衛旅日記』に記されている御師三日市太夫の館での夕食の献立(文政5=1822年1月17日)は次ぎのとおり。
  菓 子
  雑 煮
  吸もの
  硯 蓋 (あわび・たい・九年母・えび・いも・こぶ・かまぼこ)
  引きさかづき
  大 鉢 (大たい)
  本 膳 皿(なます)、壺(二品しれず)/飯・汁 
  二の膳 小皿(さしみ)、猪口(すみそ)、椀(九年母・魚)
  三の膳 平(あわび・青な・しみとうふ)、皿(焼魚)
 これをみると、前半が茶懐石の形式、後半が本膳料理の形式である。いかに豪華な食事であったかうかがえよう。
 翌朝の朝食も本膳形式であったが、昼食は、さらに目をみはるばかりの御馳走であった。
 まず、八はい豆腐(豆腐を具にしたすまし汁)と飯、それに小皿に大根漬けと奈良漬け。それがふるまわれた後、御師自らが烏帽子姿で現れ、ていねいは挨拶がなされる。 さらに、次のような料理が並ぶのである。
  三ツ組さかづき
  大 鉢 (大たい)
  大 皿 (弐ツ色々取り合わせ さんぱい漬け)
  重 箱 (梅丸煮・白さとう)
  本 膳 (なます)、壺(せんまい・にんじん)、/飯・汁
  二の膳 皿(ほうぼう)、平(生いか・にんじん・ふ)、猪口(な漬け)
 記述形式が異なるが、よくよく比べてみると、『伊勢参宮献立道中記』よりこちらの方が少々上等なまかないと言えるかもしれない。むろん、この例をもって標準的な御師の館での夕食を定めることは難しい。 が、いずれにしても、庶民にとっては一生のうち何度も味わうことのできない二の膳付きの食事であったことは間違いない。道中記のなかには、「大名気分を味わう」と記されたものもあるほどなのだ。
 さて、『伊勢参宮献立道中記』での志度ノ浦講中。翌28日は、手代の案内で外宮へ参拝、下駄は禁じられているため皆裸足で参る。館に戻ると、朝食の用意がなされていた。 献立は、「猪口(菜の漬物)、吸物(みそ・磯物・霰餅)、菓子椀(せり・青貝・麩)、皿引(目ばる煮付)/飯」。この朝食がちょうど、旅籠の夕食並なのである。
 朝食のあと、いよいよ館内の神楽殿で神楽奉納と相なる。
 一行は髪月代を整え、清めの風呂に入る。そして、着衣を改めいぇいるところに手代がやってきて、裃、あるいは裃の用意があるか、とたずねる。ない場合は、優良で貸してもらうことになるのである。
 神楽が始まるまでのあいだに昼食が用意されるが、これは、「平(油やき豆腐・浅草のり)、飯、香の物」といった簡単なものであった。
 神楽殿では、外の間左手に大太鼓が置かれている。舞姫老婆は6,7人。おさげ髪の童女2人が打掛け姿で左右の二畳の上に座す。大烏帽子を冠し黒の素袍姿で鼓を持って座す者が5,60人。折烏帽子を冠した者が4,5人。 もっとも、この規模は、御師の館ごとにさまざまである。『伊勢参宮名所図絵』によると、舞子も楽人も抱えず、必要に応じて他から応援を求めるところも多い、とある。 (『江戸の旅文化』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
旅と民俗の歴史 4 庶民の旅                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 8.31 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
( 2005年7月18日 TANAKA1942b )
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(32)お殿様以上の豪華な神楽と直会
御師の館での儀式と費用
この時代庶民の移動は、ヨーロッパとは比べものにならないほど活発であった。そのような話から、伊勢参宮での神楽、その費用に話を進めることにしよう。
<この時代、庶民の移動>  江戸時代に庶民の識字率が高く、知的好奇心が盛んだった原因の一つに、地理的な人口移動が、これまた同時代のヨーロッパ諸国大半の庶民に比べて大きかったことがあるように思われます。 例えば旅行がそうで、17世紀以降定期的に江戸に使者を送ったオランダ出島の関係者や、幕末に神奈川や江戸に済んだヨーロッパ人は、ほとんど異口同音に大量の庶民の自由な旅行ぶりに言及しています。 特に東海道の街道交通量の激しさは想像を絶したものがあったらしく、ヨーロッパの年の街路にまさるものがあると書き残したケンペルの例もあります(『えど参府紀行』東洋文庫 平凡社)。
 これが見てきたような講釈師風の誇張でないことは、革命前後のフランスをあちらこちら旅行したイギリス人「政治的算術家」、アーサー・ヤングの旅行記に記された、フランス都市間幹線道路の寂しさと比べれば納得いきやすいかも知れません。 道は広くて確かに立派に整備されていたものが多かったようですが、1日旅してもめったに人と会わない日々が少なくなかったと言ったくだりが、読む人の印象に残ります(『フランス紀行』法政大学出版局)。
 交通量についての具体的な数字は不案内ですが、これと比べて江戸の街道が格段の賑わいをみせていたことに、ほぼ疑問の余地はなさそうです。 たとえば、元禄15(1702)年東海道浜名湖の近辺で、1年間の通行者数が200万人あったと言われます。当時の人口が2500万人から3000万人位だったこと、東海道以外にも主要街道が発達していたことなどを考えれば、なかなかの旅行ブームだったと言えるのではないでしょうか。 しかもこれが困窮や圧迫に耐えかねた庶民の、絶望的流浪の旅でなかったらしいことは、江戸時代後期に伊勢神社など当時のリクリエーション名所となった神社仏閣だけで、年間100万から120万人の観光客を集めていたという事情からも知られます(新城常三『庶民と旅の歴史』NHKブックスから算出)。 (『江戸は夢か』から)
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<神楽と直会、饗宴と坂送り>  「一生に一度はお伊勢参りをしたい」。これが江戸庶民の夢であった。そのお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて皆行きたいと願った。どのような話をしたのか? なにも誇張することはなかった。伊勢神宮の御師の館での経験は正に夢の中の出来事であった。普通の武士はもちろん、お殿様でさえめったに経験できないほどの経験をした。どのようなことだったのか?それを参考文献から引用してみよう。
 はじめは、清めの御祈祷(湯祓い)。
 鼓と謡が奏されるなか、白衣を着た男が一人出て、五徳寵で火を焚き、舞姫が扇と鈴、竹に柳を結んだものを持って舞う。そして、白木台に置いた銚子の酒を釜にさし、水手桶の水をさす。舞姫は、次々とかわる。かわるごとに太鼓が打たれる。
 次に、長手の杉箸の先に細く刻んだ白紙を付けた幣(ぬさ)が講中に配られる。それを皆一人一人取りいただき、拝し、自分で振って身を清めるのである。なお、その幣は、そのあと寵で焚きあげられる。けがれをこの火に集めて除く、という意味があるのだ。
 謡の奏されるなか、岡田太夫と嫡子が衣冠を正して登場。正面に向かって三拝平伏する。講中の面々も皆平伏す。
 岡田太夫が願文を開き、講中の五穀豊穣、家内安全の趣旨を持ち舞う。そして、幣を講中の頭上で振る。座している舞姫一人が手に米を握り、2,3度盆に移す。さらに、投銭といって、舞姫の座するところ、楽人のいるところ、四方八方に銭を投げること2,3度。 面々の前に落ちたものは、それぞれが拾う。その後、扇舞、山の舞、連舞が舞われる。これも、講中によってかわる。奉納金によって、大神楽、中神楽、小神楽と分かれているにである。
 神楽がすむと、直会(なおらい)である。白木台にのせた瓶子と神酒が下され、三方にのせた外宮内宮の供えものの授与がある。講中がいただき、すめば神楽殿の襖が閉められる。
 以上、神楽から直会まで要した時間は、およそ二た時(4時間)。
 引き続いて、座敷をかえて饗宴。岡田太夫が衣冠を正し正座し、このたび代々御神楽が首尾よくすんで恐悦との段を述べる。三方にのせた金杯銀杯に長柄の銚子の酒。宴席での礼講である。一同が、うやうやしくいただく。その後、手代からも恐悦の挨拶があり、夕食の案内となる。
 饗応の献立は、次ぎのとおりである。ちなみに、本膳から四の膳にいたるまで、すべての白木膳であった。
  本 膳 皿(独活せん切り・とさかのり・かうたけ・さより糸作り・紅酢),壺(磯もの・銀杏),瓦器(粒さんせう・花しほ)/飯,汁
  二の膳 白木台(紅かんてん・肴・青磯草・ねりからし)、白木台籠(大根・かちぐり・干菓子)、椀盛(鯛すまし・さんせう)
  三の膳 白木台(伊勢海老)、白木台(鶴)、椀すまし(鯛真子・じゅんさい)
  四の膳 皿(鯛塩焼)、猪口(ウルカノシホカラ)
  第 五 重引(生)(生麩・すりしやうが)
  第 六 椀(尾ツキすまし)
  第 七 猪口(四の膳にあり)
  第 八 平(敷みそ・松だけ・伊勢えび・ゆば)
  第 九 皿(子鯛を巻。但し酢にて味とる。ばうふう)
  第 十 大鉢引(鎌倉海老一色)
  第十一 二見浦といへる箱入干菓子一箱づゝ引
  金銀の大盃二ツを出す
 こけおどしともとられる豪華さである。 
 むろん、御師は、古くは天皇や貴族、あるいは武士の祈願を仲介することが本務であった。そこでは、奉幣使(願主の代人)を手厚くもてなさなくてはならない。それがこのような馳走の原型だったのであろうことは、想像にたやすい。
 豪華な食事を前にした講中の驚きのようすは、ことに細々と記されていないが。が、本膳から四の膳まではていねいに図示されている。この『伊勢参宮献立道中記』のなかでも異例のこと。ということは、つまり、もっとも豪華なご馳走であり、もっとも印象に深い饗宴であったということになろう。
 饗宴のあとは、前夜と同じ絹の揃いの夜具が用意された。「熟睡に及び衆人前後を知らず伏す」と記されている。
 さて、翌日は出立の日。朝起きがけに、前朝と同じ焼き結びと梅干しひとつ・煎茶がふるまわれた。そして、朝食となるが、それも本膳に二の膳付きの形式であった。
  皿   (しそ・うど・ちさ) 
  汁
  本 膳 壺(ぜんまい・甲州梅・すまし)、薄板(紅つけ大根・わかめ・たひのつけやき)/飯
  二の膳 椀(たひ・すまし)猪口(したしもの)、平ラ引(薄雪・こち・すまし・貝焼引)、椀(引・蛤すまし)、茶碗(新豆・煎海鼠・ヒドリ(火取り永いも))、大鉢(たひの浜焼引)
 むろん、酒もすすめられた。
 朝食がすむと、手代の挨拶。本来であれば宮川まで送ってそこで一酒をさしあげるべきところ、講中にはここから別々になったり先を急いだりする者もあるので、と世話人からいわれたとして、弁当(結び)・組肴(五種献立)・生菓子(餅)・錫徳利酒(二ツ)を取り出す。つまろ、送別の小宴である。 この時代は、旅への出立と帰還時に村境や町境で近親者が集まって酒宴を催す慣行が広く行われていた。これを、「坂送り」「坂迎え」というが、文献によっては、「酒送り」「酒迎え」と記しているものもある。伊勢の御師も、講中を宮川で迎え、外宮あたりまで送るのを慣例としていたのである。
 いよいよ一行が出立。手代は外宮まで見送り、ここで断りをいって帰っていったのである。
 ところで、御師の館で費やした費用はいかほどであったのか。じつは、それも『伊勢参宮献立道中記』に記載されているのだ。
 それによると、「代々御神楽初穂料」が30両である。
 そのほか太夫の奥方や嫡子、助勤の太夫たちにそれぞれ祝儀として2,3歩ずつ。講中から御師岡田太夫に渡された額は、しめて36両余りとなっている。
 代参者は20人、その数からすると講員はおそらく300人以上、あるいは400人ぐらいか。講員が多い伊勢講としても相当な費用といわざるを得ない。例の『東海道中膝栗毛』には、講中での代々神楽の初穂料が15両とある。 これが標準的な中神楽の料金であるので、志度ノ浦講中のそれは、大神楽であった。ちなみに、小神楽の場合は、10両以下で、7両とか6両を支払った、という記録がある。
  しかし、それにしても相当な、というよりも法外な費用であった。江戸の後期、江戸の市中においてさえも、一家数人で年に5両もあれば暮らしがたった時代なのである。江戸時代の歴史、とくに庶民の生活の実態を見直さなければならないという根拠は、ひとえにこうした消費力にあるのである。 (『江戸の旅文化』から)
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<為替制度も発達した>  江戸時代の旅行案内書に持ち物として「印鑑」が書かれている。これは旅先で旅費が足りなくなったとき「為替制度」を利用して国元から資金を送ってもらうためであった。ごく一部の金持ちだけだったかもしれないが、この時代に「為替制度」ができていたのだった。  
 旅には大金がかかる。旅の費用を全額持参すれば荷物を重くしたし、第一危険であった。「金子の儀は大坂表、島屋佐左衛門まで送り着け置くべし。合印おし遣し置き、此印形引き合わせ、右金子御引き渡し下され候様申しおくり置き、道中は多く金子所持すべからず」とあるように、 幕末になると現金を飛脚屋に運ばせる旅人が多くなる。ここに出てくる島屋は、大手の飛脚問屋である。旅人が持っていく品々の中に、印鑑があげられているのは、現金を受け取る時に、あらかじめ捺印されていた印鑑と照合する必要があったからだった。 しかし、現金を持参する場合もまだ多く、小銭以外は胴巻きに入れて直接肌に巻いたり、肌着に縫い込んだりした。団体旅行ならば見張り番も大勢いるから心強かったが、少人数の場合はかなり緊張しなければならなかっただろう。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<日常を忘れリフレッシュするための旅>  伊勢参りの費用はどの位だったのか?それに関する文献からの引用を紹介しよう。
 伊勢参宮の旅には、いくつかの方法があった。ふつうは、伊勢講を組織して、講員がお金を積み立て、講員のなかから壮年男性と成人前後の青年男性を選んで代参させる方法がよくとられた。
 関西では、男女を含めた講員全員で総参りするのが見られる。
 関東の講は、外宮御師の縄張下にあたる1月から2月に出立することが多い。
 弘化2(1845)年の高木村の一行は、1月に、東海道から伊勢に向かい、途中、京都などの寺社をめぐり、復路は中山道を経由して善光寺に立ち寄ってから3月にもどっている。
 その間、およそ2カ月の旅は、日常生活からの離脱であり子どもから大人になるための、通過儀礼のひとつでもあった。
 その費用は次の通り。
 昼食・茶菓子代 1両2貫779文(平均約95文)
 祝儀・賽銭代  4貫916文(坊入金百疋、土産、参拝料を含む)
 交通関係    1両5貫16文(渡賃、駕籠、馬など)
 宿泊代     2両389文(平均約150文)
 ガイド・遊び  1貫932文(案内料、芝居、弓)
 その他     1貫764文(草鞋、髪結、身支度)
 合計      約金5両2分 世田谷から伊勢、大坂、金比羅、岩国に至り中山道経由で帰国。86日間
 喜多見(東京都世田谷区)の『伊勢参宮覚』弘化2(1845)年による伊勢参宮および上方・瀬戸内方面の旅日記から抽出。銭で合計を出し、金との両替率1両=6400文で換算。『伊勢道中記史料』より (『ビジュアルワイド 江戸時代館』から)
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<いろんな旅事情>  江戸時代いろんな人が旅をした。伊勢参りにこれほど費用がかかったのだが、旅人は金持ちだけではなかった。武士は自分勝手に旅をすることは許されていなかったが、庶民はいろんな人たちが旅をした。
 関所の通過は無料だが、待たされたり、ことに女性の場合いろいろうるさく調べられたりした。そこで関所役人にこっそり袖の下をつかませもした。通行手形を持たない旅人や、女人に厳しい関所なども、銭さえ積めばそれなりに抜ける方法はあった。 また寺社に詣でれば賽銭も必要だし、ついつい土産品なども買いたくなる。
 ともあれ、徒歩旅行とはいえ江戸時代の旅行は、かくもお金がかかったのだ。
 では、金持ちしか旅行ができなかったかというと、決してそんなことはない。ほとんど路銀を持たない人たちも、結構数多く旅をしていた。 聖や雲水などの行脚僧たち、門付けなどしてわずかにその日の糧を得ながら歩いていた旅芸人たち、本文の「村娘たちと西国巡礼の旅」に記したごとく、貧しい農家の娘たちがほとんど着の身着の儘で霊場巡りの旅をした例もあった。 御蔭参りなどの集団伊勢参宮も、大多数が下層民衆だ。飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す棄民たちもいた。
 そうした人たちが旅をできたのも、近世までの旅の特質といえよう。かつて日本人は、貧しい人々にたいして優しかった。何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。また宿場のなずれや村々には、たとえ納屋であれ、宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。 草鞋などもまだ履けるものはお堂やお地蔵さんなどに供えておいた。貧しい旅人が利用できるようにである。茶屋で休んでも水を飲むだけなら無料であった。いまでは考えられないことだ。見知らぬ貧しい身なりの旅人に一夜の宿を貸す家など、現代の日本にはどこを探してもないだろう。
 御蔭参りなどの場合は、富豪たちが金品の施行を行い、膨大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これには町々の治安を守る意味もあったという。明和期(1764〜1772)の御蔭参りに際して、大坂だけで鴻池善右衛門ほかの豪商たちが、合わせて7300貫文以上の銭を施行したという。 当時の相場で米8万4千石に相当する巨額だ。
 さしたる路銀を持たず旅をしていた者に、文人がいる。彼らは貧者ではない。そこそこに優雅な旅を楽しんだ。文化の伝播者である彼らは、地方の素封家や富商、有力な寺などに逗留した。そこで、その地の名所旧跡を見物したり、句会を開くなどの文学サロンを展開し、また書画を書きのこすなどして、 つぎなる目的地までの相応の路用を餞別に貰い、旅をつづけたものだ。もっとも、無銭旅行をする似非文人もいたであろう。「菅江真澄と民俗記録の旅」の稿で記したように、泊める側が、宿を貸すにふさわしい文人かどうか、さり気なく試したりもしたらしい。また「司馬江漢と畸人の旅」に記したごとく、「儒者、学者、虚名の者、ならびに物もらい不可入(はいるべからず)」という札を掲げた素封家があったりしたのはおもしろい。 (『江戸の旅人』から)
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<浪花講と東講>  庶民は「講」を利用してお伊勢参りをした。この「講」とは皆で金を積み立てて、順番にそれを旅費として使ってお伊勢参りをするための「講」であった。ところが同じ「講」と呼ばれる別の組織があった。先ほどの「講」は利用者のための組織で、こちらの「講」は旅館側の「講」だった。
 江戸時代も後半になり、庶民の旅が活発になると、宿場での様々な弊害も生じてきた。旅籠の強引な客引き、飯盛女の勧誘、旅籠での賭博、独り客の拒絶、宴会での大騒ぎなどは旅人にとっては不快なものである。
 大坂松屋の手代源助は、行商の経験から安心して泊まれる旅籠組合の結成を思いつく。
 そして主人松屋甚四郎と江戸の鍋屋甚八が講元となり、源助を発起人として「浪花組」を結成(後に「浪花講」と変更)した。文化元(1804)年には、江戸、京、大坂の三都に世話人を置いている。
 講元は、講に入った全国優良旅籠に看板を交付した。旅人たちは、この看板を目印に宿泊するというものである。加盟旅館では、飯盛女は置かない、賭博はしない、酒宴は騒がないという規定を守った。 女性や心ある旅人には喜ばれ、その加入範囲は五街道をはじめ全国に及んでいる。
 講を紹介した『浪花講定宿帳』も出版した。これは天保7(1836)年以降、数回にわたって改訂版が出されている。
 旅人は、講発行の道中記を見て指定旅籠を利用したが、自分も講員であることの証明に、講発行の木札を持ち歩いた。
 天保元(1830)年、「浪花講」と同じような組織、「三都講」が発足する・大坂の河内屋茂左衛門が講元で、京都・江戸に世話人を指定、三都の協力により結成された。浪花講と激しい競争をしたが、どうしても勝てない。「三都講」の成立後も、天保7(1836)年に松井講、弘化4(1847)年には永寿講と、似たような組織が出来ている。
 安政2(1855)年には、「東講」が創設された。江戸の大城屋良助が講元である。「東講」は一時「浪花講」「三都講」を凌駕するほどの勢いで隆盛している。
 「東講」が他と異なるところは、三都を結ぶ東海道や中山道が主ではなく、東日本、特に東北から関東地方の旅籠に普及させたことであろう。その特徴は、旅商人を主とした旅籠組合であった。「東講」でも『東講商人鑑』を出版して旅人の便宜を図っている。
 こうした「講」は一時隆盛したものの、月日が経つにつれて設立趣旨も薄れ、指定旅籠の待遇も悪化していったようである。規定は何度か改定されて明治維新を迎えた。明治以後は、こうした「講」はほとんど衰退してしまった。(菅井靖雄) (『図説江戸6 江戸の旅と交通』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
ビジュアルワイド 江戸時代館                         小学館       2002.12. 1
江戸の旅人                            高橋千劒破 時事通信社     2002. 5. 1
図説江戸6 江戸の旅と交通                     竹内誠監 学習研究社     2003. 9.12
( 2005年7月25日 TANAKA1942b )
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(33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか
その不思議なエネルギー
タイムトンネルをくぐって江戸時代に行けたら、そして江戸か京か大坂、又は街道沿いに住んだとしたら、この「抜け参り」とか「お陰参り」とか「ええじゃないか」はとてつもなく奇異なものに映っただろう。 人々が突然仕事を投げ出し、日常生活を棄てて、伊勢神宮へ伊勢神宮へと歩き出す。何の準備もなく、路銀もなく、伊勢神宮へと向かう。それでありながら、現実からの逃避行とも言い切れない。ほとんどの人は戻って来ることを前提としていたし、実際戻ってきている。 そして伊勢神宮から、ついでに京の寺社見学や、善光寺参りをしたりしている。沿道の人たちは食料や草鞋などボランティアで提供する。封建制度の重大なルール違反でありながら、幕府は黙認していた。 そのような「お陰参り」、多様な視点から見ないと視野狭窄になる。そこで、いくつかの文献から引用することにした。
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<お陰参り>
 いったいどれほどの人びとが伊勢へと出かけたのだろうか。
 伊勢への旅というと、お陰参りを抜きにしては考えられない。お陰参りは伊勢を信仰したために病気が治ったとか、思わぬ幸運に恵まれたといった人の、お礼の参拝からはじまった。 伊勢の利益はそれほど絶大だという噂がたちまち広まって、その利益にあやかろうという者たちが、一行に加わって伊勢へと向かう。多の地方にもそうした噂が飛んで、そこでまた伊勢へ向かう一団ができる。 こうした集団は道中を進たびに参加者を増やしながらふくれあがっていったという。
 突然参加すうる、彼らは着の身着のままの無一文。旅費はもちろん、往復手形の用意もないし、親や主人に、無断で出てきた者もいる。旅の支度はなにもしていない。こうした一団は熱に浮かされいて、足りないものがあると、沿道の物持ちの屋敷に土足で上がり込んで、必要なものを奪い取りかねないと思われていた。 だから前もって大量の炊き出しをして待ち受け、事なきを得た金持ちもいたし、素朴な好意から率先して喜捨をする沿道の人びとも少なくなかった。食べ物もわらじも、時には寝床さえも、こうして無料で提供された。厳しい取締で知られている関所でさえ、お蔭参りの一団が押し寄せると、門を開いて通すしかなかったという。 だからこうした一団に加われば、旅の用意など一切が不要だったのである。
 江戸時代には、このような大がかりなお蔭参りが数回あった。中でも大規模だったのは以下の4回である。
 最初のブームは慶安3(1650)年正月下旬のことで、江戸の商人たちからはじまった。白衣姿の一団が無数にでき、1組ごとに幟(のぼり)を立てて伊勢へと向かったという。箱根関所の記録では、初めのころは1日500〜600人だったのが、3月下旬から5月までは1日に2000人を超えてしまったとある。
 宝永2(1705)年のときは京都の宇治が震源地だった。西は安芸や阿波、東は江戸に及び、本居宣長の『玉勝間』によれば、4月上旬から1日に2000人から3000人が伊勢松阪を通ったという。それがたちまちのうちに日々10万人を超えるまでになり、5月29日までの50日間に362万人が伊勢に押し寄せ、最高そときは1日に22万から23万という、信じられないような数字があげられている。
 明和8(1771)年は山城の女や子供たちの抜参りにはじまり、徐々に東北を除く全国に広がっていった。このときに外宮から参拝者に出された剣先祓は、1日に37万体に達したとも、4月から8月9日までに伊勢の手前の宮川を渡った者は、207万7450人にのぼったともいう。
 文政13(1830)年のお蔭参りは最大級のものとなり、着の身着のままの者が多かったのがこの時。3月に阿波からはじまり、3月末から9月までに宮川の渡しを通った人数はおよそ486万人、1日の最高では14万8000人とある。19世紀中頃の全国の人口は2952万人ほどと推定されているから、6人に1人が出かけた計算になる。
 もちろんいずれも風聞を集めたもので公式な数字ではないのだが、割り引いて考えてみても大変は人数である。
 お陰参りは60年周期で流行するといわれた。実際に流行したのはきっちり60年ではなかったが、その時期にめぐりあえばごく簡単に長期の旅ができたのである。
 中には道中で施行(せぎょう)されたものを貯めて、無一文で行ったのに銭を持って帰ってきたというメデタイ話もある。反対に施行のある場所に行き着く前に、空腹にたえられず戻ってきたという者もいたし、遊女に売られた娘もいる。 野垂れ死にをしてしまったのか、戻ってこなかった者もいたようだ。しかし、お陰参りのエネルギーに巻き込まれて伊勢まで行って、また戻ってきた者がほとんどだった。 この体験は外の世界をしる機会が少ない人びとにとっては衝撃だったであろうし、また旅というものが案外簡単なことだと印象づけられたことだろう。旅は、こうしたお陰参りによってもずいぶんと庶民に身近なものになったのである。
 しかし、お陰参りはあくまで突発的なものであり、それがいつやってくるか、およその予想はつくものの、はっきりはわからなかった。
 それまで我慢できない者、あるいは女たちや商家の使用人などは、旅をする機会がなかなか与えられなかったので、親や主人の許しを得ずにこっそりと伊勢へ旅立った。これは「抜け参り」といって、明和8年以降に特に多くなった。こうした者の中には、まだ乳臭さのとれない、幼児といっていいほどの少年の姿さえ見られたという。
 『東海道中膝栗毛』にも、東海道神奈川宿のはずれで、「奥州信夫(しのぶ)郡幡山村」から抜参りで伊勢へ行こうとしていた12歳から15歳ほどの少年の一団をからかう場面がある。 信夫郡は現在の福島市に当たり、福島から伊勢までおよそ185里(約740キロメートル)。抜参りの常で、この少年たちもおそらく伊勢から信州の善光寺まで足を伸ばすのだろう。そうすると往復は400里(1600キロメートル)を優に超えるはずである。この距離をもちろん徒歩で、しかもほとんど無銭旅行に近い状態で歩き通すことになる。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<御陰参り>
 おかげでさ するりとな 抜けたとさ
 おかげでさ するりとな 抜けたとさ
 単調なリズムにあわせて、同じような菅笠をかぶり、藁で編んだ茣蓙(ござ)を小脇に、そして腰には柄杓をはさんだ一団が通り過ぎていった。と思うと、すぐそのあとから、10人ばかりの子供が草履をひきずりながら、それでも声だけは一だんとはりあげて、「おかげでさ」と唱和してゆく。
 子供の一行に続いて、野良着姿そのままの百姓が何十人か列をなしてゆく。かと思うと、これまた思いきり派手な恰好をした娘さんたちの一行がゆく。揃いの脚絆に、揃いの手甲、そして揃いの衣裳である。赤いしごきが眩いほど美しい。
 それを目当てに、後ろのほうから威勢のよい職人たちの冗談口が追っかけてゆく。これも、どこかの仕事場をそのままに抜けてきたような恰好である。その間の混じって、足弱な老人を乗せた駕籠が走り、馬に乗せられた女や子供の姿も見える。
 宝永2(1705)年閏4月、伊勢神宮参拝の抜参りは、京都方面から始まった。この行列は、伊勢へ伊勢へと続いて、最初のころは1日3,4千人にすぎなかったものが、やがて10日目を数えるころになると、1日に10万人をこえる群衆の更新となった。京都を中心として、それは一方では丹波・但馬・因幡のあたりまでその影響を伝えたのである。
 はじめのころは、「隣の長太は夕べ、抜けおった。去(さり)とても肝のよい奴じゃ」とか、「向かいの八兵衛は、けさ抜けおった。あいつはすっぱりした奴じゃ」などどいって、他人の抜参りをしきりにうらやましがっていた連中も、抜参りから帰ってきた人たちからその道中の話を聞いて、じっとしておられなくなった。 たしかに、初めて抜参りをする連中には、長太にも八兵衛にも勇気が必要であったろう。封建社会の掟は、そのようなかってな旅や行動を許してはいなかったのである。
 京都から伊勢の神宮への往復は、普通の足で7日かかるものとされていた。それが但馬や因幡となると、その倍もかかったであろう。百姓や職人たちが、その間まったく仕事から離れるのである。しかもかれらは、ふと思いたって、突然に姿を消してゆくのだ。 のちに、諸藩が法令を出して、これを欠落人と認めるといいだしたもの当然であろう。明らかに慶安の御触書や、郷中に出された諸法度の精神に背いているのだ。
 しかしながら、長太や八兵衛の話は、道中の限りない楽しさを物語っていた。このようにして町や村から抜けてきた連中は、すっかり解放された気分に浸っていた。因幡の者も近江の者も、その解放された空気のなかで、すぐ友人になることができた。おたがいに冗談口をたたいているうちに、まるで10年の知己を得たようになるのである。
 抑圧された性の解放もあった。旅に出た解放感が、男にも女にも、封建的な性の呪縛を解いて、かれらを原始の性に立ちかえらせるのである。本居宣長の養子大平が書いた『おかげまうての日記』には、そのような性のたわむれを口々に言いはやしながら、浮かれて通り過ぎてゆく年寄りや若者、それに当然恥じらうはずの娘たちも平気でそれに和してゆく姿が記されている。
 それにつれて、京や大坂の道中筋では、報謝ということがしきりに行われていたという。宿は無料で泊めてくれる。食物もただでくれる。銭まで持ってゆけと言う。草鞋が切れれば新しい草鞋をくれる人があり、足を痛めた人には駕籠や馬に乗せて無量で運んでもくれる。笠や茣蓙は、どこでも新しいのが用意され、報謝を受ける人を待っているというのだ。
 しかも、ひとたび堰を切った勢いは、もうどうすることもできない状態になっていた。京から近江にかけて過ぎてゆく行列は、約150万人にものぼったという。わずか1月に足らない間の数字であった。
 京からの行列が、しだいにその群衆の数を減じてゆくと、すぐそれを追うて大坂からの一団が殺到した。それは、最初5,6万人であったものが、やがて12,3万人になり、ついには1日23万人にものぼったという。23万人の大群衆に押しかけられては、もはや宮川の渡しは、船で往復することができなくなった。ついには、船を並べてその上に板を渡した船橋が生まれることにもなる。大坂方面からの群衆、計約220万人。
 宝永2(1705)年閏4月に始まった伊勢参宮の群衆は、本居宣長の『玉勝間』によると、5月29日で終わることになるが、その間、50日あまりのあいだに通ったものすべて362万人に及んだという。そして、これに参集した人々の国はすでに記した山城・近江・丹波・但馬・因幡のほかに、美濃・大和・河内・和泉・摂津・備前・安芸・阿波・伊賀・伊勢・志摩など16ヶ国にまたがっていた。
 宝永2(1705)年から数えて21年ののち、8代将軍徳川吉宗が初めて行った全国の人口調査によると、その数は約2655万人(武家人口を除く)ということになっている。以上にあげた16の国は、当時、わが国ではもっとも人口の集中した地方であったろう。 しかし、それにしても362万という数は、総人口の14パーセントに近く、おそらくそれらの地方に住む人々の半数か、あるいはそれ以上の者が参拝したことになるのではなかろうか。
 もちろん、伊勢への抜参りは、楽しいことばかりではない。おびただしい人間の群の前には、道中の設備はじゅうぶんではなく、茶屋や煮売屋などに食物がきれて、10里も20里ももあいだを空腹をかかえて歩かなければならないことがあり、また、それだけの群衆を泊める宿も家もなかった。かれらは野に伏し草に寝なければならないことも多かった。
 疲れた足を引きずりながらたどりついても、風呂にさえ入るもともできずに、長い道中を過ごさなければならなかった。しかも、旧暦の5月といえば、日差しはすでに初夏であった。ギラギラと光るその大要が単衣の着物を透して、身を焦がすのである。病気に倒れる者も少なくはない。それでもかれらは、ただ神の恵みを求めて、伊勢へ伊勢へとなびいていったのだった。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<抜け参りとお蔭参り>
 往来手形を持たない、すまわち主人や親等の許可を得ない参詣の旅を抜け参りと言った。抜け参りは、特殊な人の旅のように思うかも知れないが、実態として相当に日常化していた。『東海道中膝栗毛』をみると、弥次・喜多は各地でこの抜け参りの人々と出会っており、時に彼らにわずかな金銭を施している。
 今切関所のある新居宿の庄屋は、元文3(1738)年6月6日に町奉行へ対し、例年通り来る8日より抜け参りで22人が神宮へ旅立つと予告し、全対象者の名前を届けている。寛保元(1741)年」にも同様に届けているから、同宿では抜け参りが年中行事化していたのであろう。
 地域によっては、若者になると通過儀礼の一環として抜け参りを行うという例も多い。まったく資金を持たない子供や、一方で分別盛りの大人が抜け参りに参加する例もある。
 抜け参りの多くは、十分な旅費を持たず、旅先で旅人や沿道の人々から合力を受けながら旅を続けた。抜け参りへ合力することは、それにより自分にも参詣の功徳が分け与えられるという意識と、子供が一人前になる通過儀礼を支援するという社会通念があったからである。
 抜け参りは、制度的には違法行為であった。しかし旅の目的が、たとえ建前でも参詣という宗教行為であれば、帰ってから厳しくとがめられることは少なかった。抜け参りの理由を尋ねられた時、殿様の武運長久や主人の家内安全・健勝を祈願するためであったなどと答えれば、処罰もできないからである。
 抜け参りの行き先は、伊勢神宮が最も多いが、金比羅宮・高野山・善光寺や教徒の社寺、あるいは近隣の大社寺なども対象であった。神宮に加え、各地の旧跡などを周遊的に回ったりもした。社寺へ参詣をしない旅も考えられるが、旅先には必ずと言っていいほど有名な社寺があった。
 新居宿で年中行事化していた抜け参りは、西方の神宮であったので、同宿東端にある関所の検閲とは直接的な関係がない。ただし通常でも同関所では、往来手形や関所手形を所持しない他国からの抜け参りや巡礼、あるいは非人・乞食の通行を黙認していた。これらの社会的弱者に対しては、当時の政治・制度的な枠を超え、黙殺という建前的な方法により、特別な処遇をしていたのである。
 「抜け参り」の大規模なものを「お蔭参り」と言う。それは一般に江戸時代を通じて慶安3(1650)年春から翌年、宝永2(1705)年から翌々年、明和8(1771)年の夏、文政13(1830)年夏、この4回を言う。またそれは大体60年周年目であるので、人々は一生に一度はその恩恵にあずかることができたとも言われている。
 しかし慶安3(1867)年のものについては、江戸を中心に関東地方で流行したもので、東海以西ではさほどの現象が見られない。それでも箱根関所の調査によれば、慶安3年3月28〜29日の2日間だけで神宮に向かおうとした子供が1万2千人余、そのうち同関所を管理する小田原藩領の者が228人、ほかに女手形を持っていないために追い返され女性が18人もいた。(中略)
 集団による抜け参りは、神宮へのいわゆるお陰参りだけではなく、それ以外にもしばしばあった。領すの政策などにろち庶民が村内に縛られる毎日の生活からの一時的解放であり、また大勢で抜けてしまえば怖くないという群衆真理でもあった。
 例えば、寛永15(1638)年に江戸とのそ周辺で集団による参宮が流行している。えどや駿河国では、万治4(1661)年にも集団による参宮があった。これ以降にも全国各地で群参が流行し、それがいわゆる第1次東海道ブームの基盤となったのである。
 宝永2(1705)年の大規模な抜け参りの流行の後にも、やはり集団による参宮が流行している。特に享保3(1718)年と同8年には全国的に参宮が流行し、各地で施行が行われた。
 享保14年には神宮で式年遷宮があり、その影響で翌年には東海道筋の三河・遠江・駿河国で参宮に出掛ける人数が異常に多かった。遠江・三河国東部の人々の参宮では、三河国の吉田湊から出帆することが多く、享保15年の同湊の利用者は約8千人で、前年の2倍、翌年の3倍にも達している。
 寛延元(1748)年にも各地から大勢の参宮があり、宝暦8(1758)年にも伊勢路に米銭が降るという流言が広まって参宮が流行した。特に宝暦8年は、一部にそれをお陰参りと称した人もいたと伝えられている。
 このように地域的、あるいは全国規模での集団による抜け参りは、ほとんど不定期で発生した。その契機は、何らかの奇端現象の直後に、日常的には旅と縁が薄い女性や子供が旅立つのを見かけ、それに多くの庶民が付随して、集団による抜け参りに展開するのが一般的であった。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<伊勢をめざした民衆のエネルギー>
 いったい460万人もの人が、伊勢神宮へ参詣する光景を、どう想像できるだろうか。それは「お伊勢参り」というには、あまりにも型破りな参詣であった。
 江戸時代の慶安3(1650)年にはじまる伊勢神宮への集団参詣は「おかげまいり」の名で呼ばれ、幕末までの前後7回が記録にのぼっている。このうち天保元(1830)年の閏3月に、四国の阿波(現在の徳島県)にはじまった「おかげまいり」は、5センチほどの長さの「おふだ」が降ってきたことがきっかけだった。
 四国はもとより京都・大坂から、東は遠州、駿州、伊豆、相模、さらに美濃、越前等々にまでおよんだ「おふだふり」という奇異な現象は、はじめは子どもたちの集団を誘い、参宮熱ともういうべきそれは、あっという間に各地を襲い、普段は旅する機会もない人々を伊勢参宮へと駆りたてていったのである。
 「おかげまいり」と書いた笠をかぶり、一人ひとりが杓をもった群参。大坂からは若い50人余の女たちが男模様の衣裳を身にたうけ、緋縮緬のふんどしまでしめ、髪も男まげに結んで、道中「御蔭でさ、するちとな、抜けたろさ」とはやしたてて歩いた。さらに京都からの参宮者もまた鬼面をかぶったり、赤い衣裳をまとうなどして、華美をきわめたという。
 いったい伊勢神宮へ詣でるのに、時代の常識、倫理意識を破ることこそが目的であるようなこの出立ちは何を訴えていたのだろうか。
 最初の「おかげまいり」ともいうべき慶安3(1650)年、この年の正月下旬から群参が始まり、もっとも多かった3月中旬から5月にかけて、1日に2100人もの参詣者が箱根の関所を越えて行ったと記録されている。
 東海道沿いの群参については、元禄4(1691)年に江戸参府を行ったドイツ人医師ケンペルの記録にも見える。彼は大津から土山までの13里の道中で多くの旅人に出会い、その大部分が徒歩で伊勢神宮に向かう人であることに驚き、「春の東海道は参宮する人によって埋めつくされている」と記している。
 初期の群参でその衣裳が白衣で整えられていたのは、中世以来の熊野詣でなど、社寺巡礼に観念されていた”死に装束”を意味していた。心身の苦痛をともなう巡礼は、仮死から新たな生へと蘇る、非日常に横たわるタイム。トンネルのようなものだった。
 それが宝永2(1705)年、享保年間の「おかげまいり」をへて、参詣者の風俗はいっきに派手さを増し、異様な衣裳を身につけ、笛や太鼓、三味線までもち出し、宿々ではやしたてながら進んだというのである。
 南山城にはじまり、奈良、大阪、河内と、近畿全体から集まり、東は尾張、岐阜、大垣、江戸、伊豆、相模からの群参もあった明和8(1771)年の「おかでまいり」にいたって、集団参詣は日常から解放されたいという、精いっぱいの思いを反映してか、多分に娯楽的な要素を帯びていた。
 「おかげまいり」の象徴とも言える柄の長い杓(参詣者はこれに銭など施物を受けた)を餅、口々にはやしたてながら、東海道を四日市をへて伊勢まで、およそ500キロの道もりをひたすら歩き続ける群参を想像してみる、そこに、悲しいまでの庶民の純情としたたかな逞しさがない交ぜとなって、彼らを急ぎたてているものが見えてこないだろうか。
 「おふだふり」が、たとえ参詣を待ち望む伊勢神職団による民衆扇動に発端があったとしても、空から舞い落ちた1枚のお札を、まるで天啓のしりしにでも触れるようにしていただき、それを機に耐えていた日常の拘束がいっきに破られる。さらにそれを起爆剤として、誰もが非日常の時間空間へ突入して行くことが暗黙のうちに許されてしまう。 むろんここで「おふだふり」の噂はその都度増幅し、大神宮の髪のお陰によって旅が可能なのだという確信が、人々をいっそう駆りたてていく。
 親子、夫婦、兄弟、姉妹さらに雇い主と使用人という絆など、身のまわりのいっさいの拘束を振り捨て、奉公先を抜け出し、伊勢大神のお陰とばかり、勇んで人々を参宮に向かわせた力。 それは、時代の変化を鋭敏な感覚でキャッチしてきた庶民が、なお果敢に生きようとするエネルギーにちがいない。むろんここには鎌倉時代にはじまる、一般民衆の熊野詣でや観音霊場などへの聖地巡礼が伏線としてあったことはいうまでもない。
 そればかりではない。『日本書紀』が伝えるように、倭姫命(垂仁天皇の皇女)に託された天照大神が、常世の浪が打ち寄せる伊勢の地に祭神として鎮座されるまで、大神は倭の笠縫の邑から長い長い旅をされた神だったことを、いま一度思い出さなくてはならない。
 そして古くから日本人は、旅する人に神の巡幸を見てきたのだ。ほとんど着の身着のままで在所をとび出しながら「お陰でさ、するりとな、抜けたとさ」と囃したてながらの旅が可能だった理由も、日本人のこうした神に認識と無縁ではないだろう。 (『東海道人と文化の万華鏡』から)
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<主な参考文献・引用文献>
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
( 2005年8月1日 TANAKA1942b )
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(34)おかげまいりの経済効果
無銭旅行を支えた「施行」
「抜け参り」「お陰参り」「ええじゃないか」を単純に評価するのは難しい。いろんな面があり、いろんな人がいろんな評価をしている。視野狭窄にならないように多くの人の見方を紹介することにしよう。
<近世最初の「おかげまいり」>  近世に入って最初の「おかげまいり」として伝えられているものは、慶安3(1650)年のものである。これは松浦静山の『甲子夜話続篇』その他諸書にあげられているが、いずれもその典拠としているのは、『寛明日記』の短い記載だけであって、それ以外に詳細はわからない。 これによれば、この年江戸の商人たちが、大神宮へ「ぬけ参」ということをはやらせ、正月下旬から天下の人民が「悉く群参」し、その衣裳はみな「白衣」を用いていた。箱根山の関所で調べたところによると、1日の500〜600人から800〜900人ばかりにのぼり、3月中旬から5月までのあいだに、1日2100人に達した。 そして参宮人は1組ごとに印(しるし)を立てていたという。このときの参宮人が「白衣」を着ていたということは、中世以来の社寺巡礼者の風俗であって、これは「清浄」をたっとぶというところから用いられたのである。 この点から慶安の「おかげまいり」が、まだ中世的な伝統を継承したものであると指摘される。またひと組ごとに印を立てていたといいうことは、「おかげまいり」の参宮集団が、なんらかの組に組織されたことを示すものであり、それは多分、講を単位として参宮に動員されたものであろう、
「おかげまいり」と「ぬけまいり」  宝永2(1705)年の「おかげまいり」ぬいついては、本居宣長(1730〜1801)が『玉勝間』に、「伊勢のお蔭参」と題して書きしるしているのでよく知られている。しかし宣長の記述は、「あるものに、宝永2年伊勢の大神宮に、おかげ参りとて、国々の人どもおびただしくまうづる事のありし、その人数をつぎつぎしるしたるやう、 四月上旬より、京併に五機内の人、ぬけ参宮という事あり」とまえおきして、参宮者の人数の消長を記しているだけである。それによると、「凡閏四月九日より、五月廿九二日まで、五十日まで、五十日の間すべて三百六十二万人なり」とある。 国学者の宣長が、このような大規模の集団参宮の事実を書きとめながら、たんに人数をあげるだけで、国学者としてのなんの感想も意見も記してしないのは奇妙である。ましてかれ宣長は、生涯のうちにのちの明和の「おかげまいり」に出会っており、『玉勝間』はその後刊行されたのだから、このことについて記していないことも含めて、全く不可解といわなければならない。 ここに国学者の「おかげまいり」に対する、過小評価があらわれていると考えられるのである。
  このときの参宮者の人数については、『伊勢太神宮続神異記』に、閏4月9日から5月28日までの日々の人数を記しており、その総数は約330万ないし370万であって、『玉勝間』の362万とほぼ同数であり、両者は同一の資料によったものであろう(もっともこの資料はあまり正確なものとは言えないようである)。
「おかげまいり」による物価騰貴  おかげまいりでは大量の人びとが道中するのであるから、街道筋の物資はたちまち欠乏し、諸物価が値上がりするのは当然のことである。
 「かヽれば、此の伊勢詣の道ほど、宿々所々のちや屋、旅籠屋などといひて、物うり、人やどしなどする家々には、たくはへおきてうる物どもゝ、今はつきなんどぞいふめる。中にも酒もちひ(餅)などはいふもさらなり。 其外もすべて旅人にうる物つくる家々には、例よりも人やとひくはへ、、ながき日に夜をさへかけていかでおほくといそぎつくれど、かぎり有てさしもえつくりあへずなん。なかにもわらうづ(わらじ)は、いづこもいづこものこりなくうりはてゝ、ちかきわたりには今は一つもなきよしなどいひあへれば、 まれまれなほたくはへもたるものは、物の憐もしらぬ商人心に、いとかしこき事と思ひて、こよなう高くなんうるめる」(『おかげまうでの日記』)
 物価騰貴の状況が手にとるようにあざやかである。『御蔭之日記』はその注記に、その日の相場を記している。それによれば、「おかげまいり」の初期である4月18日、白米1升58文であったものが、1カ月後の5月19日には66文、6月16日には70文にはね上がっている。 当時の平常の米価は、大体1升50文前後であったようであるから、非常な高騰といわねばならない。また、草鞋も5月3日に8、9文であったものが、7日の13,14文から15文に、さらに9日には17,18文から24文まで暴騰したという。 旅籠賃も5月7日ごろには、「百文位のはたごは一向干魚などにて済」ませるという有様で、奉行所もほっておくことができず、山田では「はたご80文、木ちん24文に公儀より極」め、また「松阪両入口に馬かた駕かき吟味所出来、籠ちん壱里百に極」めて、暴利の取締りをしなければならなかった。 また一方、伊勢地方の物価が高騰すると、「尾州よりわらじ舟二艘、白米つみ参り候由」(5月9日)というように、他地方から物資が運び込まれた。
「おかげまいり」の経済効果  『翁草』にはこのときの参宮人を150万人として、「此路用上(のぼり)の分金三歩、下(くだり)の分銭三百宛にして、又小児無銭の者平均して、凡銀三万三千五百貫目と記す」とのべている。 これを当時の普通相場で米1石銀636匁とすれば、38万5000石余に当たり、米1石=1万円の計算で換算すると、およそ現今の金で38億5000万円余となる。このときの「おかげまいり」を経済的にみれば、これだけの金が動いたのであって、この点から見ても「おかげまいり」は、近世社会においては重要な社会現象であった、と言わなければならないのである。
 報謝の施行についても、明和の「おかげまいり」にはより大規模に行われたことを示す記録が残っている。大坂だけの施行について見ても『御蔭之日記』によれば 表「大坂施行」のとおりである。
 大 坂 施 行 
施 行 物  施 主備 考
銭 2,300貫文鴻池善右衛門金 460両
草鞋 250,000足安治川問屋中金 150両
餅米 100石中嶋や 
銭 1,000貫文辰巳や金 200両
銭 1,000貫文天王寺や金 200両
笠 120,000かい上町 
琉球竹杖数不知嶋の内 
銭 1,000貫文日野や金 240両
銭 2,000貫文平又金 400両
銭高不知かじまや 
白米1,000石堂島問屋中 
船 300艘天満市ノ側問屋中 
手拭新町茶屋中 
高挑灯 1,000本道頓堀茶や中水油 85樽
人足1日 300人北浜十二浜中 

 この金額は、銭だけでも、金額不明の加島屋の分を除いて7300貫文となり、現今の金にすれば、約1億5300万円ぐらいに当たる。この他にも、大津で三井八郎右衛門が笠と金600両の施行をしたということも伝えられており、 松阪魚町の長谷川次郎兵衛も、金500両と米500俵を施行したと風聞されている。これらを総合すれば、今回の施行の総額は莫大なものであったと考えられ、「おかげまいり」が、当時の京坂地方における商業の発展、豪商資本の蓄積と切り離すこののできないものであったこのがわかる。 (『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』から)
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<時代に向き合う庶民の意識>  近世に起こった7度におよぶ「おかげまいり」のうち、宝永2(1705)年、明和8(1771)年、天保元(1830)年、のそれを3大「おかげまいり」に数えるが、200万人から400万人台におよんだこれら「おかげまいり」の発生にはおよそ60年の周期があった。(中略)
 さらに明和8年の4月ごろにはじまる「おかげまいり」は、山城宇治郡の茶山に働く女、子ども2,30人のグループによって口火がきられ、近郊農村のあいだに広がっていった。
 実質200万人が参詣したと記録されるこの年の「おかげまいり」は東海道周辺の人々のみならず、九州の小倉あたりまでの人々をまき込んだが、京都・大坂の都市部からは、当時の家内工業に従事した奉公人たちの参宮が多かった。
 圧倒的多数を占めるこの庶民の参宮を、雇われ農民や奉公人層に秘められた信仰心や解放運動にだけつながる行動ととらえることはできないだろう。集団参詣は、そこに「抜け参り」を容認する状況があってはじめて可能なことは言うまでもない。 しかも着の身着のままに近い参詣者たちは、各地で食べ物、交通機関、わらじにおよぶ、組織的な施行をもって迎えられているのである。
 群参が通り過ぎる道中筋の、参詣にかかえあるあらゆる物資の欠乏と物価の高騰。しかもこうした状況に対応するかのような、豪商たちによる大がかりな施行。これがたとえ、こんにち見られるような巡礼者にたいする接待、ボランティア精神だけでなく、大資本による時代の動きに対する自己防衛的な判断によるものだとしても、ここには明らかな時代の変化が見てとれる。
 すでに18世紀の後期、米をはじめとする農産物は、広く商品経済の価値観のもとにあつかわれていた。農村にしても商工業者にしても、そこに働く人々の意識は、もはや一方的に雇われている籠の鳥のそれではない。 世の中のベースを支えた民衆の、時代に向き合った意識の変化がなければ、その後訪れる、幕末から明治におよぶ激動の時代を迎えることは不可能だったのではないか。
神の意向と新奇の風流
 もともと皇室の祖神を祀り、律令制のもとで国家祭祀の対象として、すべての神社の中で格別の位置づけあった伊勢神宮には、長いあいだ天皇以外の奉幣は厳しく禁じられていた。 それが平安時代末期にいたって、王朝の財政が衰える中で、伊勢神職団(御師・おんし)による大神宮への援護要請という積極的な活動があって、それまでになかった豪族、武士たちによる参詣がいっきに加速する。 そして室町時代にいたって神明講(伊勢講)が組織化され、江戸時代にそれは全国的規模で広がっていったのである。ここに村々の鎮守神とは別格の、日本人にとっての精神のよりどころ、親神さまにも位置づけられる伊勢信仰が庶民の心を捉えてゆくことになる。
 イエズス会の宣教師として日本に滞在していたルイス・フロイスは天正13(1585)年付けの書簡で日本人は「伊勢へ行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」とさえ報告している。
 伊勢詣では各地に拠点をもつ講を中心に行われてきたのだが「おかげまいり」や「抜け参り」は同じ伊勢参宮でありながら、その動機と道中そのものに意味があった。なぜなら「おふだふり」に触発された群参には、つねに内外宮参詣の喜びより、在所をとび出し、奉公先を抜け出し、あるいは華美をつくして道中の新奇の風流そのものを楽しむ様子ばかりが伝えられているからである。
 近世を通して、日本人の5人に1人は伊勢神宮へ向かったと言われるくらいに民衆を大量動員した「おかげまいり」は、少なくとも神話的な神詣でのそれではない。そこには伊勢参宮をキーワードとする「民衆の時代到来」という、ひそやかな宣言がこめられていたかも知れないのだ。
 はじめ庶民の伊勢参りには、天照大神を祭神とする内宮より、食物神を祭り、農耕的な祈願の対象ともなった外宮・豊受大神宮への比重があった。しかし一方で、鎌倉時代に東大寺勧進職だった重源や、最大時を中興した真言律宗の叡尊などによる伊勢参宮があってから、仏法守護の大神宮としての伊勢が重視され、天照大神は「一切衆生の父母」と言われるくらいに、その信仰が民衆化してゆくのである。 そして神仏習合の意識に促され伊勢に詣でる人は、内外宮とともに、奥の院としての金剛証寺に詣でることを忘れなかった。
 20数年前、寺宝を拝観した折、天照大神のすがたを墨絵にした軸に「日本国主天照大神宮也」と墨書されていたことを今も忘れない。「神は時代の顔を見せる」と直感したのもこのときだった。
 江戸時代という封建制社会にあって、その実、町人が力をつけていた時代、経済活動は年々勢いを増しながら、東海道をはじめ各地の道路、飛脚等々、インフラが整備されてゆく。その中で、伊勢神宮はいち早く、新しい時代の担い手となる民衆に向かって、神異を宣伝し始めたのである。
 「おかげまいり」は、その神異に踊らされながら、時宜を得たように神の意向を逆手にとって風流をさえ楽しむ、民衆の一代パフォーマンスだったかも知れない。 (『東海道人と文化の万華鏡』から)
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<お蔭参りのご利益>  旅が庶民レベルまで広がったのは、何度となく繰り返されたお蔭参りと、主人や家族に無断で伊勢へ出掛ける抜け参りが黙認されていたことの影響が大きかった。
 慶安3(1650)年に始まったお陰参りは、60年ごとに伊勢の神威があらわれると噂されたが、実際には宝永2(1705)年、享保3(1718)年、享保8(1723)年、明和8(1771)年、文政13(1830)年に、爆発的な流行を見ている。
 伊勢へお詣りしたら病気が治ったとか、伊勢のお祓いやお祓いやお札が降ったのが契機となって思わぬ利益にめぐまれたとか、幸運は口から口へと伝えられ、伊勢参宮をする者が増える。 そしてある日突然、着の身着のまま農民や商家の奉公人の大群衆が、どっと伊勢へと繰り出すのである。伊勢からはるか離れたところから来た群衆の中には、驚くことに、少女を含めた子供たち、乳飲み子を抱いた母親まで紛れ込んでいた。 普段ならば旅に出ることができない者ばかりである。もちろん親や主人も知らないうちの行動で、旅の準備らしいものはしていない。不意に飛び出してしまうのだから銭も持っていない。 しかしお陰参りの大集団が来ると聞くと、沿道の住民や富豪が、食べ物やわらじを山と積み上げて待ちかまえた。沿道の人びとも熱に浮かされたようになっていたのである。
 こうしてお陰参りの浪は、宝永2年には東は美濃・尾張・信濃・江戸、西は安芸・阿波のあたりまで広がり、京都方面から120万人、大坂方面から255万人が押しかけたという。 明和8年のお陰参りは山城あたりから始まったが、南九州と東北を除いた全国から人が押し寄せ、約120日間で伊勢の入口の宮川を渡った者は、207万7450人ともいわれている(いずれも『続後神異記』の数字)。 お陰参りが頂点に達した文政13年の数字もすさまじい。参宮者は457万9150人。閏3月26日の1日だけで、14万8000人という信じられないような数字が書き残されている。 明和8年には人口のおよそ1割が、文政13年には1割5分の者が伊勢へと繰り出したとみられている。
旅には貯えが必要  庶民はこうして旅の開放感を知ってしまった。締めつけられた日常から飛び出して、見知らぬところを行くことがどんなに素敵か、どんなに心が晴れ晴れとするか、それは戻ってきたものから熱っぽく伝えられたことだろう。話を聞いた者は今度は自分の番と張り切ったに違いない。
 しかし支配する側にとって、庶民の旅などは苦々しいものでしかなかった。農民が長旅に出れば作付けや収穫にも影響が出る。旅の途中で死亡したりすれば村の労働力が減るし、旅費を工面するために田畑を失う者もいて、年貢高が減ってしまう。 そのうえ旅にはカネがかかり、そのかねはみな他国に落とされるのだから、財政難にあえいでいた藩にとっては気がもめることだった。
 伊勢参宮も遠い土地から出るとなると日数も相当かかる。しかも、どうせここまで来たのだからと、伊勢だけでなく、周辺の観光地に足を伸ばしてたりする。その間は何人もの男たちが村を留守にすることになり、他国に落とされる金額も相当な額に達した。(中略)
 お陰参りの渦の中に入ってしまえば無一文でも伊勢まで行くことができた。しかしそんな機会はめったに巡ってこない。それ以外の時期に旅に出るとしたら、どうしても銭を持たなくてはならなかった。 寝るところも食事も、大河を越すときの舟賃、茶代、わらじ代、そしてささやかな賽銭も、すべてゼニが必要になる。貨幣の貯えがあって、はじめて庶民の旅は実現することになる。 (『江戸庶民の旅』から)
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<主な参考文献・引用文献>
「おかげまいり」と「ええじゃないか」                藤谷俊雄 岩波新書      1968. 5.20
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
江戸庶民の旅                            金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
( 2005年8月8日 TANAKA1942b )
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(35)「ええじゃないか」騒動の発端
お札の降下とその後の不思議
「抜け参り」「お陰参り」「ええじゃないか」それぞれ少しづつ違うのだが、ここでは幕末に起きた「ええじゃないか」騒動の発端について扱うことにした。幕末の社会的・政治的動乱の時期でもあり、その騒動の背景についてはいろいろの説があるがここでは事実関係を取り上げることにする。 想像を逞しくすれば小説の種としても考えられるだろうが、それはそうした才能のある人たちに任せて、その発端についての事実を扱う。今週は『ええじゃないか』からの引用を中心に話を進めることにする。
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<ええじゃないか 序>  慶応3(1867)年の初秋から翌年春にかけて、東海道・中山道・山陽道筋とその周辺や四国などでは大変な騒動がおきていた。各種の神社・仏閣のお札が降り、いわゆる「ええじゃないか」騒動の乱舞が展開されていたのである。 この間、政治面では大政奉還・王政復古・戊辰戦争などがあり、新たな局面を迎えた。
 この「ええじゃないか」騒動の歴史的意義については、戦前から多くの研究成果がある。戦後の代表的な研究として、昭和26(1951)に遠山茂樹氏は「ええじゃないか」を下からの革命の弱さを暴露したものと批判的に捉え、井上清氏は幕府権力をマヒさせたと積極的に評価した。 昭和40年代(1965〜1974)になると、藤谷俊雄氏が「ええじゃないか」の諸現象を庶民による社寺参詣やおかげ参りの伝統のなかに位置付け、それが新書本での出版であったこともあって長く読みつがれた。
 西垣晴次氏と高木俊輔氏は、各地に残る「ええじゃないか」騒動の関連資料によって実態に迫り、その研究成果は現在でもきわめて大きな意味をもつ。特に、西垣氏は日本人の伝統的精神生活との関連で「ええじゃないか」の発生要因を分析し、高木氏は各地の騒動の様子を紹介した上でその歴史的意義を論じた。
 近年では、田村貞雄氏が「ええじゃないか」騒動の発生地を紹介し、発生の要因を多方面から検討した。伊藤忠士氏は東海地方に焦点を当て、領主権力や女性を含む庶民の行動様式を分析した。 このほか田村氏の著書の巻末にまとめられているように、個別論文でも着目すべきものが多い。
 さて、田沼氏も紹介していることであるが、じつは「ええじゃないか」騒動の発生地は、現在の豊橋市域であったのである。それをはっきり示した資料は、旧牟呂村の牟呂八幡宮の神主である森田光尋が記録した『留記』で、これは関連資料とともに平成12年に豊橋市の文化財に指定されている。
 『留記』は、牟呂村でのお札降りとそれにともなう騒動の様子、および周辺からの伝聞をまとめたものである。騒動が一段落した直後の記録であるが、何か別のメモを参考にしながら記録したもののようで、日付をおって正確にその経過を記している。「ええじゃないか」騒動の発端だけでなく、その騒動の展開の仕方をみる上できわめて貴重な資料であるので、本書の巻末に全文を紹介した。
 本書は、この『留記』を主な資料として、まず現在の豊橋市とその周辺のお札降りから「ええじゃないか」騒動への転換過程を紹介し、その発生要因を再検討する。そして次ぎに先行研究に依拠しながら、騒動の全国的な展開の概要とその歴史的意義を考えてみたい。
 よく外国人から、日本人は宗教に節操がないと言われるが、それは宗教意識が低いということではない。現在でも裁判中の、あの忌まわしい宗教まがい集団の例をあげるまでもなく、しばしば新聞紙上でオカルトが問題視される。 「ええじゃないか」騒動中でもおきたことであるが、日本では歴史の転換期にさまざまな宗教活動が展開されてきた。今年、いみじくも新世紀を迎え、ここで「ええじゃないか」騒動を通じ、日本人が潜在的に有してきた宗教意識を探ることは有意義なことであると思う。
 なお、一般にこの騒動の名称となっている「ええじゃないか」は、関西以西での乱舞の際のはやし言葉である。美濃国(岐阜県)では「お札祭り」と言い、東日本では「お札降り」とか「おかげ」などど呼ぶことが多く、そのはやし言葉も山岳でで行者などが唱えた「六根清浄」という言葉が多かった。 この一連の騒動を一括して「ええじゃないか」と呼びだしたのは、土屋喬雄氏が昭和6年に発表した論文からで、それがいつの間にか教科書用語にまでなっている。それ以前は、各地でさまざまに呼ばれていた。
 しかし教科書をはじめ、多くの書物で「ええじゃないか」という名称を使用しているので、本書もこれにならうことにする。なお伊藤忠士氏によれば、共通語が浸透して以降の「ええじゃないか」という言葉には退廃的なイメージがあるが、関西弁での本来の言葉では積極的肯定の表現であるという。 (『ええじゃないか』から)
<牟呂村でお札が降る>  慶応3(1867)年7月14日の七つ(午前4時)ごろのことである。牟呂村(豊橋市)の大西というところの多治郎という人の屋敷の東竹垣の裏に、伊勢外宮のお祓いが降っていた。それをたまたま通り掛かった大海津(おおがいつ)の人が見つけた。しかしこの人は、このお祓いを無視して通り過ぎてしまった。
 日本人の多くは、ご神体やお札は空から降ってくると信じていて、お札もこれ以前に何度か降った。あるいは降っていたという例がある。そしてそれが、人々の社会・宗教活動に、さまざま影響を及ぼした歴史がある。しかしこのたびのお札の降下は、やがて「ええじゃないか」騒動に発展し、またその連鎖反応の仕方において特別の意味があった。 しかも結果的には、この騒動の期間中に、明治維新という大きな政治変革があったのである。(中略)
 「ええじゃないか」騒動の発端となった最初のお札の降下は、上牟呂に降っていた伊勢外宮のお祓いである。その発見日時は、慶応3(1867)年7月14日の早朝、というよりまだ薄暗い午前4時ごろのことであった。
 しかしこの第1発見者は、森田光尋の『留記』に記載によれば「少し下愚」であったため、このお祓いを見過ごしてしまった。続いて通った子供も、何気なく通り過ぎてしまった。次に、大西の源三郎の屋敷に住む富吉という人が見つけ、このお祓いを多治郎の隣家である組頭の富蔵の家へ届けた。 すると富蔵は、同役の源三郎は穢れ中であるので、同じ組頭の清治郎のところへ持ってゆくよう命じた。組頭の富蔵は、この問題にかかわりあいたくなかったので、たらい回しにしたのである。
 富蔵は命ぜられるままに、清治郎の家へ拾ったお祓いを持って行った。ところが清治郎も、それを届けた富吉も、このお祓いについて疑念を抱いた。その理由は、37年前の文政13(1830)年のおかげ参りのとき降ったお祓いには御師の名がなかったのに、このお祓いには「御師内山八郎太夫」と記してあったからである。 富吉と組頭の清治郎は、このお祓いはだれかが落としたものか、あるいはだれかの作為で放置されたものと思ったのである。しかしとりあえず、富吉はこのお祓いを組頭の清治郎へ預けて帰宅した。
 お祓いが、実際に降下したものか人為的に放置されたものかは別にして、日々平凡な生活をおくる村人のなかでは、こうした出来事のうわさはすぐに広まるものである。なかには、こうしたうわさを意図的に広めようとする人もいたであろう。
 その夜、拾ったお祓いに疑念を抱きながら組頭の清治郎へ届けた富吉の家では、8歳になる男の子が病気でもないのに急死した。しかしこのときには、だれもが、これを富吉がお祓いを疑ったことに対する「神罰」であるとは思っていなかった。
 同じ日の夕暮、大西の天王社の東に住む醜名(しこな)をトコナベと呼ばれた人が、友蔵という人に、やはりこのお祓いについての疑念を話した。トコナベは、伊勢のお祓いが降ったと言って村中で騒いでいるが、そのお祓いは煤が付いたものか、煤びたものであろうと言ったという。 煤が付いているというのは、だれかが自分の家に祀ってあったお祓いを落としたもの、つまり新しいお祓いの降下ではないという意味である。
 トコナベと呼ばれた人の妻は、前日からおこりを煩っていた。この14日は無事であったが、15日に震えながら精神に異常をきたし、夜半になって死亡してしまった。
 お祓いの降下を疑った富吉・トコナベと呼ばれた人の家族の死亡を目の当たりにし、村人は驚いた。これは神のなせる仕業である、2人はお祓いの降下を疑ったために「神罰」を被ったのだ、と言い始めた。 そこで、お祓いの降下を疑った2人の家族が被った「神罰」が、やがて村中に広がることを心配し、16日の夜、大西の総代が神主の森田光尋の家を訪れて、その「神罰」除去の神事を依頼したのである。
 光尋が思ったのか、それとも大西の総代が述べた言葉なのかわからないが、光尋は次のように記している。「此二人ハもとより信心のなきものにて、心よろしからぬものなり、おそるべし、つゝしむへし、かならすうたかうべからず」。
 光尋は、最初のお札の降下について、同じ村内のことであるから、当初から、ある程度は知っていたであろう。しかし詳しいことについては、この夜に来宅した大西の総代から聞いたのであろう。牟呂村でのお札の降下が特別な意味をもったのは、同村内の2人が偶然に死亡するという不幸が重なったからである。
お札納めの神事  牟呂村で2枚目のお札が見つかったのは、7月15日夕暮れのことである。それは、上牟呂の大西にある天王社の庚申の東の雑木の枝に、「世古長官」と記された志摩国(三重県)の伊雑宮のお祓いであった。伊雑宮の上位2人の禰宜を中長官と世古長官と称したので、その世古長官が領布した、あるいはそれに似せたお祓いである。
 この2枚目のお札の降下に関しては、その日のうちに牟呂村三組の庄屋・総代と神主の森田光尋が相談し、きたる18日より神事を行うことを決めた。後述するように牟呂村では当時、お鍬社の百年祭を検討中であり、その元宮である伊勢宮のお祓いの降下には特別の意味があった。
 続いて15日の晩、3枚目のお札が降っているのが見つかった。それは下牟呂の中村にある浄土宗普仙寺内の秋葉灯籠の垣の澄に降っている伊勢内宮のお祓いであった。
 3枚目のお札の降下の知らせを聞いた光尋は、文政13(1830)年のおかげ参りのときに、2枚重ねで降っていた伊勢外宮のお祓いを牟呂八幡宮の境内社の社宮神社(石神)に納めた、と父から聞いたことを思い出した。それを参考にして、17日七つ時(午後4時)、文政13年に使用したお祓い箱に納めて神事を行った。その祭、同社で神酒2樽をあけた。
 牟呂村では慶応3(1867)年のお札降りによる正式な神事は、この3枚目のそれが最初である。その際、文政13年のおかげ参りのときのお札降りによる神事が参考にされたわけである。「ええじゃないか」騒動の発生には、おかげ参りの伝統にも影響を受けていたことがわかる。
 16日になると、最初にお札の降下があった大西で、それを疑った人の家族2人が続けて死亡したことが話題となり、人々は口々に怪しがり、恐れはじめた。
 人々は、今度のお札降りはだれかの作為ではなく、まさに「神事」であると信じはじめた。近頃、近辺でお鍬社の百年祭が行われており、牟呂村でも行わなければならないと話合っていた。そこへお鍬社信仰に関係の深い伊勢宮のお祓いの降下である。人々は、牟呂村だけに「神のしるし」を見せているのだと言って騒ぎだした。 そこで16日夜、前述したように大西の総代が森田光尋の家を訪れ、大西での「神罰」除去の神事を依頼したのである。
 大西の総代から依頼を受けた森田光尋は、17日夕刻の社宮神社(石神)での神事が終わった後、その晩、息子の光文を連れて大西へ出かけた。そして同地の天王社の拝殿において、その最初に降ったお祓いを神殿に納めて神事を行い、その礼として金百疋を受け取った。
 大西では神事にあわせ、村人共用の費用で購入した神酒2樽を振る舞い、その夜は若者が宮籠もりをした。光尋は、翌朝も納めたお祓いに神酒を献じて拝礼をするなどの神事を行った。こうして大西では、17日の晩から19日まで、結果的にいわゆる二夜三日正月となり、祭りを続けたのである。
 すなわち、3枚目のお札の降下に対する17日夕刻の神事は、当該地域・神社だけによるもので、神酒2樽はあけたものの騒動にはならず、そのまま終わった。しかし最初のお札の降下にともなう17日夜からの二夜三日正月により、その様相が急変することになるわけである。
二夜三日正月  牟呂村で見つかった2枚目のお札は、前述したように7月15日夕暮れに見つかった伊雑宮のお祓いである。それを大西の人から聞いた森田光尋は、その地が自身の支配地であったので、直ちに牟呂三組の庄屋や総代へ召集をかけた。
 早速、集まった総代と相談し、次のようなことを決めた。それは、降ったお祓いを牟呂八幡宮へ遷座して神事を行い、そこで酒6樽をあけること、牟呂八幡宮へ幟(のぼり)を立てること、二夜三日正月の祭日として村の休日にすること、そして万事を文政13のおかげ参りに準じて行うことなどである。
 お鍬祭り百年祭りの検討をはじめようとしていたその前日に、その元宮である伊雑宮のお祓いが降ったので、祭礼の規模を拡大したのである。二夜三日正月は、37年前のおかげ参りの際にも行われており、それを参考にしたのである。
 二夜三日正月の意味は、文字通り二夜三日の間は正月並のハレの日・休日ということである。吉田の船町でもお札が降って二夜三日のあいだ燈明を献じており、大西での17日からの祭りも結果的に三日正月となった。7月22日にお札が降った隣村の羽田村でも、23〜5日を祭礼・休日にしている。この地域では、規模の大きな祭礼は三日間を休日にして行われてきた伝統がある。
 さて、牟呂村ではこの決定に基づき、18日七つ時(午後4時)、三日前に降った伊雑宮のお祓いを牟呂八幡宮へ遷座するための行列を出発させた。その行列では、杉の葉で作ったお祓箱にお祓いを入れて竹の先につけ、大西の人々を先頭に、下牟呂村の中村、中牟呂の公文・市場の人々が供奉した。途中、人々は村中で揃えた手拭・三尺帯を身につけ、後に紹介するような「三百年は大豊作」という古歌を歌って、手踊りをしながら行進した。
 その途中では、中村で餅なげがあり、市場では供奉(ぐぶ)の人たちが饅頭を投げながら歩いた。まさにハレ舞台の装置が完備したのである。森田光尋の観察では、我が身を忘れての見事な手踊りであったという。
 お祓いが牟呂八幡宮に到着すると、拝殿の西の間に高机を立てて仮勧請し、その後で神酒・洗米・燈明を献じて朝夕の神事を行った。遷座のための行列参加者のなかには、この行事を、検討中のお鍬祭りの百年祭と混同した人もいたであろう。
 19日の晩には、大西の子供らが手拭・褌などを打ちそろえ、見事な手踊りを踊った。20日には神酒が不足して、改めて2樽をあけた。こうして18日夕刻から続く二夜三日正月の祭りを通じて、人々のなかにはこの祭日が従来の祭りと異なり、それ以上のものであることを認識しはじめる人もいたであろう。
 この3日間の牟呂八幡宮での神事のために、燈明料と神供料としてそれぞれ金2分ずつを要した。その神供は、神酒が1日1升ずつに加えて最終の20日に牟呂八幡宮の境内社であるお鍬社へ1升を献じ、神饌が本社へ3膳、それにお鍬社へ降ったお祓いを納めた20日に神酒1升に加えて3膳を備えた。
騒動への転換  牟呂村内のお鍬社は、牟呂八幡宮の境内社のほかに、牟呂三組にもそれぞれ鎮座していた。それらのお鍬社は、明和4(1767)年に東海地方で流行したお鍬祭りり、あるいはそれに因んだ時期に勧請されたものが多い。明和4年以降、この地方では特にお鍬信仰が盛んであった。
 慶応3(1867)年7月18日からの二夜三日正月では、牟呂八幡宮の境内社であるお鍬社への神供について、神主の森田光尋と牟呂三組の指導者が相談して決めた。ただし中牟呂だけは若者らに「故障」があり、神供を持ってこなかった。
 中牟呂の「故障」とは、若者が、村内の指導者が決めた二夜三日正月に従わず、独自の祭礼を行ったことである。お札の降下にともなう祭礼が、ついに村の指導者の統制から離れてしまったのである。
 「ええじゃないか」騒動の特徴の一つが、支配・指導層による統制から離れ、支配秩序の外延部にある若者らを主体に展開したとするなら、この「故障」事件は画期的であった。お札の降下による粛々とした神事から、神事をともなわない騒動への転換を意味するものであったからである。
 この画期的な「故障」事件が発生するには、さまざまな伏線があった。まず降下した3枚目のお札納めの神事が7月17日だけ、2枚目のお札納めが18日からの二夜三日正月の神事、そして最初のお札の降下による祭日も18日から20日までの二夜三日正月であり、矛盾を含みながらの重複した祭日であったことである。 この日程の決定しは、村の指導者としての判断ミスがあったとみるべきであろう。牟呂村のなかでの若者組の存在形態も、重要な意味があった。さらにこの時期になると、牟呂村の周辺村々や城下町である吉田でもお札が降り、それにともなう騒動の様子が牟呂村の若者へ逆伝播していた。それに加えて、牟呂村ではこの二夜三日正月の間に、さらに大量のお札が降ったことも大きな意味をもった。
 すなわち19日の夜、中牟呂の板津と公文で一夜に秋葉山・大棟梁(大頭竜)・伊勢神宮・伊良胡のお札が、合わせて13枚も降った。そこで中牟呂では、独自に地区内の4つの小宮で祭礼を行い、同村の若者が宮籠もりをした。
 中牟呂から、7月18日からの二夜三日正月の神供が届けられたのは、それがとうに過ぎた24日のことで、しかも若者自らの持参ではなく、総代に持たせてきたのである。ここには、お札の降下にともなう祭礼・騒動が、村の指導者の手から離れていたことがうかがわれるのである。
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 『ええじゃないか』では、その後各地でお祓いの降下があったことが書かれているが、長くなるので省略して、話を進めよう。
「ええじゃないか」騒動の仕掛け人はだれか?  一般的に「ええじゃないか」騒動は、まず他所の情報が伝わり、次いで集落内でお札が降下し、それをきっかけに始まる。お札の種類は、伊勢神宮関係のものが圧倒的に多いが、そのほかにも地域的な特色のあるさまざまな社寺のお札も多く混じっていた。特に名古屋以東、なかでも天竜川水系の村々では、秋葉山のお札が多く降っている。それは秋葉信仰圏との関係である。
 もちろんお札は自然現象で降るわけがなく、何者かのしわざである。藤谷俊雄氏は、それを倒幕派による政治的な作為であると明言した。政治的作為説については、以前から多くの人々によって指摘され、また後に当時のことを述懐した政治家もいる。
 「ええじゃないか」の喧噪を利用し、そのなかで庶民の意識とは別なところで政権交代が行われたという指摘は、一定の説得力がある。たしかに京都やその周辺に限ってみれば、その形跡をまったく否定することはできない。しかしお札の降下について地域ごとに日知事を追ってみれば、必ずしも当時の政治日程で騒動が展開したわけではない。 逆に新たな政治権力が介入したことにより、騒動そのものが静まった礼の方が多い。
 お札の種類として伊勢神宮関係のものが多いので、神宮の御師や各地の神主、あるいは国学者が関与したという説もある。駿府・名古屋では、神社のお札を大量に持っていたために寺僧が謙虚された例もある。 神主にとっては、この騒動を通じて自らの宗教活動を有利にはこぶことができる可能性があり、僧侶にとってはこうした踊狂をともなう騒動を神社側の責任であると印象づけることができる。駿河国(静岡県)でのいくつかの事例は、浅間神社の神主による関わりを否定できない。
 しかし「ええじゃないか」騒動の発端となった牟呂村の神主である森田光尋による『留記』や、彼が当時京都の上級神主へ出した手紙からは、彼の関与が浮上してこない。 牟呂村の隣村の羽田村の神主である羽田野敬雄の場合には、騒動になった時点で、この事件に関し無視を決め込んでいる。この時期の神主をはじめとする宗教人は、相互に一定のネットワークをもっており、もし彼らが主体となった作為だとすれば、もっと同時多発的であったはずである。
 各地の小前・下層民は、嘉永7(1854)年とその翌年の大地震におののき、安政5(1858)年の開港による感覚的な外患危機を抱いていた。文久年間(1861〜1864)以降の慢性的な飢饉や諸物価の値上がりと並行して深化した政治的危機は、庶民にも充分浸透していた。
 その上で、休息にあらわになった幕藩権力の低下と、前年とはうって変わった慶応3(1867)年初夏になっての豊作のきざしは新しく発生した事態であった。従来の一揆・打ちこわしとは別の手段による「世均(よなら)し」運動に、改めて方針を変更する可能性があった。
着実な騒動の展開  江戸時代の情報手段は多様であり、全国各地の投機的商人はそれを敏速かつ正確に駆使していた。東西をゆきかった旅人の言動や各種の出版物なども、「ええじゃないか」騒動に関する情報の広まりに大きく作用した。
 こうした状況を考えた場合、お札の降下や「ええじゃないか」騒動の展開は、けっして同時多発であったとは言いがたい。むしろこうした情報を入手しながら、それぞれが抱える諸問題を踏まえ、街道筋の都市部を中核とする遠心運動が、東西へ着実に伝わったとみた方がよい。
 例えば、三河国藤川宿では、最初のお札の降下では大きな騒ぎになならず、1カ月後の降下で騒乱状態になっている。遠江国新居宿での最初の降下は8月9日であるが、伊勢神宮への「おかげ」騒動は8月11日以降である。 10月3日にお札を発見した相模国柳島村の廻船問屋も、15日のなってようやく施行をはじめている。すなわちお札の降下は、降った家が自ら人々に披露するか、あるいは他者(仕掛け人)によってそれを発見されることにより、はじめてそれが「ええじゃないか」騒動に展開するのである。
 お札降りの仕掛け人は、お札振りを騒動にまで展開させる必要があった。そのためには、この事態を過去におきた飢饉や騒動と対比させて危機感をあおり、騒動の拡大に暗躍した人々がいたことも事実であろう。
 近隣の町村でお札が降ったり、「ええじゃないか」騒動がおきると、村内の僧衣でお札の降下を期待する風習も発生した。それも騒動の拡大の暗躍した人々のしわざであろう。
 お札の降下にあずかった後の「おかげ」や「ええじゃないか」騒動への展開の仕方は、その時期や地域の事情によって多様である。しかし各地で共通的にみられる現象としては、お札降りの神事とあわせて祭礼・祝宴を行い。やがて抜け参りによる社寺への参詣や乱舞・騒動という経過をたどる。 その過程では、施金・施米などについては村落の人々全員への一律分と、一部の富める者への過重分があり、騒動が冬期に近づくとみかんなども施物として重宝された。参詣先の社寺については、伊勢神宮が多いが、地域を代表する大社寺の場合もあった。
 「ええじゃないか」騒動は、江戸時代の後期の諸現象を集約した形で表現された小前・貧弱・雇用労働者の一時的な解放であった。しかもこの騒動を通じ、一部にエロ・グロ的なものがないわけではないが、全体的にみれば騒動の大きさに比べて暴力・窃盗事件という現象が少ない。
 すなわち単なる宗教的熱狂ではなく、共同体による一定の規律にも作用された騒動であったとみることができる。しれは、この時代に人々が一生を通じて体現していた日常的秩序と、それとは裏腹なハレの空間、要するにハレとケの繰り返しのなかで会得した諸事象を、「ええじゃないか」騒動でみごとに表現したものであると言えよう。 (『ええじゃないか』から)
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<主な参考文献・引用文献>
ええじゃないか               渡辺和敏・愛知大学綜合郷土研究所 あるむ       2001. 3.31
( 2005年8月15日 TANAKA1942b )
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(36)いろいろな庶民の旅
富士講・大山講や富士塚など
江戸時代に庶民はいろいろな旅をした。代表的なスタイルは講をつくって寺社への参拝とそれに託けての物見遊山。これまで伊勢神宮を主に扱ってきたが、行き先は伊勢だけではなくて、その他にもいろいろあった。そうした建前=参詣、本音=観光旅行をいくつか取り上げてみよう。
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<江戸近隣への旅>  江戸時代の庶民は、吉原などに遊びに行くとか、浮世絵を購入して楽しむといったようなことだけではなく、江戸近郊の各方面、あるいは遠くお伊勢参りとか、西国三十三所巡礼とか、四国八十八ヶ所巡礼とか、金比羅参りとか、かなり遠いところへ参詣し出かけたり、遊びに行ったりするようになるのです。
 もちろん伊勢参りとか、三十三所巡礼、八十八ヶ所巡りといったものは非常に早くからありまして、特に熊野詣は、後白河法皇を始め、天皇、貴族たちが盛んに行いました。花園天皇なども、山辺路というたいへん難所の多い道を、時には胸まであるような熊野川の流れを渡って、本宮へ参詣するというようなことを実際に行いました。非常に古い時代からの伝統が熊野詣にはあるのです。
 ただし、そういう天皇や貴族たちの参詣は多くの家来たちを連れた旅行ですけれども、江戸時代の旅はそうではなくて、ごく普通に、歩いて行きました。
 今日はそのうち、大山、江ノ島、鎌倉、成田、こういうところへ出かけて行きました名所巡りということについてお話をしてみたいと思います。名所巡りと申しましても、これは今日のレクリエーション旅行と違いまして、江戸時代は自分の土地を離れるためには、そこの責任者の旅行証明書、すなわち往来手形というものが必要でした。 その往来手形をいただくためには、遊びに行くというようなことではなくて、善光寺にお参りするとか、三十三所の巡礼をするとか、金比羅さまにお参りするとか、あるいはお伊勢さまにお参りするとか、そういう参詣旅行ということが、非常に都合がよかったようです。(中略)
 いまも日本では各地に、東京集中で過疎の村や山村がいっぱいできておりますけれども、私はこれは第2の非常に大きな日本の変革期ではないかと思っています。
 江戸時代は、そういう村もありましたけれども、しかしそういう村はどんなに過疎化しても、やはりどこかから、たとえば茨城県ですと、長野県とか、新潟県とかから来てもらうというようなことで、村が再生産できるような形に建て直していくのであります。 そしてまたどういうところでも、江戸時代は、物が生産されるというようなところは人が住みました。島も、どんなに離れ島でもその島でアワビがよく取れるとか、あるいは特別な産物があって、それを生きたまま遠くへ運べるといったようなことができるところは、みんな人が住んだのです。 ですから、どんな山奥でも道がありました。したがって江戸時代後期という時代は、おそらく日本の自然がいちばん隅々まで開拓されて人が住んでいた時代であると私は思っているのです。
 そういう日本の隅々の人までが何らかの蓄えをして、そして伊勢講をつくったり、あるいは金比羅講をつくったり、善光寺講をつくったりしまして、順番で参詣に出かけていくというようなことが全国的に行われるようになりました。こういった参詣には字が読めなくても出かけていくことができましたし、その旅はその人たちにとっては、精神的にたいへん豊かな文化生活であったと同時に非常に新しい知見を、至るところで得ることもできたのです。 たとえば伊勢参りでは、自分が作った稲の穂をお供えして人の供えた新しい稲をもらって来るということがなされました。つまり新種を手に入れて来るといったようなこともいたしましたし、栽培法を新しく勉強してくるとか、いろいろな勉強をしてくることになったのです。
 そのようなことで、お寺参り、あるいは神社詣というものに日本人が驚くほどたくさん出かけて行きました。江戸時代の旅と申しますのは、今の新幹線などの旅とは全然違います。きょうは、鎌倉・江ノ島というのがどのように行われたのか、あるいはまた成田山参詣には、どういう道を通って、どんなふうに行ったものかというようなことなどを、資料をもとにお話してみようと思います。 (『江戸庶民の四季』から)
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<霊地詣の楽しみ>  多くの人が何らかの蓄え積み立てをして「講」をつくり、集めた金で順番にお伊勢参りや大山詣へと旅立った。伊勢講、金比羅講、善光寺講などで順番に参詣に出かけて行くことにより、字が読めないような人たちでも、その旅での多くの人と物との交流によって精神がたいへん豊かになることができた。 お伊勢参りでは、自分がつくった稲の穂をお供えして他国の人の供えた新しい稲穂をもらってくることにより品種の交流が行われ、栽培法にも新しい知識が導入された。行く先々で新しい知見を得て、文化生活への渇望を満たすことが可能となり、旅の魅力は増していったのだ。
 江戸に比較的近い大山詣は、江之嶋弁財天参りとセットになって、人気の旅ルートでもあった。大山は雨乞い・水神として武蔵・相模の農民たちから篤い信仰を集めていた。火防・厄除け招福の信仰としても、鳶・職人たちが講を組織して参拝したため、大山講の一行は、白装束の富士講の一団にくらべて派手で、威勢のよさが特徴だった。 盆山の時期(8月中旬)には、支払決算の時期と重なるため、借金を逃れて大山参拝に紛れ込むといったちゃっかりした旅人もいたという。
 大山の帰りの江之嶋、藤沢宿は人気スポットで、ここで”遊ぶ”ことが、15歳男子の”成人儀式”でもあったようだ。弁財天は音曲の神であったために、長唄や清元を習う女性たちの集団参拝も盛んで、大奥女中の忍びの遊び場でもあったようだ。揃いの笠、着物で江戸から大勢でくりだした音曲稽古事の集団の絵図が残っており、その賑わいが人々の晴れの姿として伝わっている。 (『江戸は躍る!』から)(T注 大山阿夫利神社とは「雨降り神社」からきている)
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<富士講と富士塚>  関八州はもちろん、11ヶ国以上にそびえた富士山が信仰の対象となり、江戸から富士登山に行く人々が組織された。これが富士講である。そして、6月1日が山開き=登山開始の日となっている。これが一般化したのは、宝永(1704〜1711)以降である。
 富士講は富士山を信仰の対象とする在俗の宗派だが、角行東覚(かくぎょうとうかく)によって始められた。戦国時代後期の永禄年間(1558〜1570)に初めて富士山へ登拝した角行は、元和年間(1615〜1624)には富士の人穴に籠もり千日行をしたと伝えられる。その修行法は四寸五分角(約13.6センチメートル)の木材を四角に積み上げ、その上に両足をそろえて立つ「立行」であった所から角行といわれるようになった。 巌冬に寒行などは、浅間神社の大鳥居の大石の上で上半身裸のまま立行をし、さらには48日間食断ちをも行なった。
 富士講の宗旨は、天地開闢と共に生まれた霊峰富士は国土の柱、万物の根本である、加えて山霊である仙元大日は神に中の神であるから、これを信ずれば、世の中のあらゆる困難を乗り越えることができる、というものである。そのためには身を以て登拝することが奨励され、それが神の恵みを受ける唯一の方法でもあった。 また登拝回数が多ければ多いほど信仰心が篤いとされ、講の人たちは競って登拝を繰り返した。中でも33回と拝を大願成就と定め、記念に石碑を建てるのが習わしであった。
 しかし、交通その他いろいろ制約の多かった当時にあって、大願成就は並大抵のことではなかった。中でも女性は不浄と考えられ、登拝自体が禁止されていた。そのくせ、仙元大菩薩変ずるところの浅間神社は女神である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)である。また、富士講隆盛の元となった食行身禄(じきぎょうみろく)の教えも、彼の末娘お花によって一層拡まるのであるから不思議である。
 が、いずれにしても希望しても登拝できない人たちがたくさんいたのである。そんな人たちのために築かれたのが富士塚である。
 角行が千日修行をした元和の時、江戸では「つきたおし」病が流行っており、昨今のSARS同様、次々と死者が出ていた。その噂は弟子を通じて、人穴の角行へも届いた。そこで修行を終えた角行は、弟子とともに江戸に向かい、「おふせぎ」という法力を使って病に苦しむ人々を助けた。
 目の前に奇跡を見せられた人々は競って信者となり、第1次富士講ブームを巻き起こした。
 しかし、富士講が江戸の町に定着するのは、食行身禄(1671〜1733)の出現によってである。角行から数えて6代目(あるいは5代目)講祖といわれる。
 この時は、享保の飢饉のさなかにあった。幕府も各藩に対し、1万石につき千両の割で貸し付け、各地の城付米(非常用備蓄米)を回送し、緊急援助をしたと伝える。しかし、それだけではまかなうことができず、各藩とも幕府に対し数倍の借金を要請した。このときの借金が、後々まで各藩の財政を苦しめた。
 この飢饉の影響は、翌年(享保18年)になると江戸にも出てきた。即ち、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛等による買い占めと売り惜しみである。その頃幕府は上方からの米の買い付け権限を高田伝兵衛ら7人に独占させていたから、米価は大暴騰し、2月には、江戸における最初の打ち壊しが行われた。追い打ちをかけるように、疫病の流行と死者の増加もあった。
 身禄が藤野人穴において入定を果たしたのは、そんなときである。当初の予定より5年早く入定したのは、庶民が苦しんでいる姿を目の当たりにしながら、私欲に走る幕府に対する抗議である。
 身禄入定が知れ渡るや江戸市民の間に富士講ブームを巻き起こした。信者の数も飛躍的に増加し、俗に「八百八講」といわれるほど流行った。
 身禄の教えを伝えたのは娘のお花と弟子の高田藤四郎(1706〜1782)である。とりわけ高田藤四郎は日行青山と称し、身禄が入定するまで忠実に仕えた直弟子である。
 青山は、宝永3(1706)年但馬国に生まれ、11歳のとき江戸へ下った。富士山へ初めて登ったのは16歳の時である。同時に身禄の弟子となった。身禄没後は身禄同行という講を構え法灯を守った。
 元文元(1736)年には身禄同行という講を組織し、身禄の教えを伝え広めた。さらに安永8(1779)年、高田村水稲荷神社境内に初めて富士塚を築いた。
 天明2(1782)年77歳で没。生前富士山へ73回登拝したと伝え、富士塚を築いたのは死の3年前ということになる。 (『江戸の助け合い』から)
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 庶民はお伊勢参りを始め、参詣に託けて物見遊山の旅を楽しんだ。そして「旅に行きたい。でも行けない」となると、富士塚へお参りして、旅の気分を味わった。武士はというと、同じように、旅の気分を味わおうとした。日本に「箱庭」というものがある。 ミニチュアで本物の気分を味わおうとする。それが「富士塚」であり、次に書く「箱根山」であった。そしてこの箱根山はとてつもなく大きなスケールであった。
<戸山公園の箱根山>
 今は箱根山という東京都区内で標高が最も高い新宿区戸山公園にある箱根山は、かつて尾張徳川の戸山屋敷に造営された巨大な池を造るために掘り上げた土を積み上げて築いた山で、今かつての池であったあたりから、この箱根山の山頂まで登っていくには、ずいぶん高くまで上っていかなければならない。 今は昔の池がまったくなくなっているが、この戸山屋敷の庭園は、尾張徳川家に今も伝わっている狩野養川の描いた「戸山屋敷八景図」谷文晁の描いた「戸山山荘図稾」をはじめ穴八幡、新宿歴史博物館、三井文庫、岩瀬文庫などに伝わっている「戸山屋敷絵巻」によって旧態を知ることができる。
 十三万坪余りにもおよぶ広大な屋敷に、尾張二代光友は寛文年間に戸山山荘を造営した。この庭園はたくさんの絵図が伝わっているだけでなく、文献記録も多く、それが『東京市史稿』の遊園篇に収載されている。 こういう文献や絵図を見ると広々と水をたたえていた池は広大なもので、橋が架かっており、規模の雄大なことは王朝貴族の小さな泉水とは比較にならないほどずば抜けている。 (『甦る江戸文化』から)
<高田の馬場の富士浅間神社>
 尾張藩徳川家が造成したのが戸山荘と呼ばれる回遊式庭園であった。尾張藩徳川家二代光友が、時の四代将軍徳川家綱から下賜(寛文11年 1671)された和田戸山の下屋敷の地に築いたものである。
 朱楽菅江(あけらかんこう)作の洒落本『大抵御覧(らいていぎょらん)』(安永8年 1779 刊)では、今戸の三橋亭、中州の殷賑に続いて戸山荘の高田の富士が築造されて遊山に賑わう様子が描かれている。
 原文は戯文でわかりにくい。そこで大略を現代文に改めて紹介してみよう。
 高田の馬場に長四郎(実名は藤四郎)という植木屋がいた。長四郎は若い時から富士浅間神社を信仰し、富士登山を毎年夏秋2回ずつする大先達であったが、70歳になった折りの安永8年、戸塚村(新宿区戸塚町)の宝善寺(宝泉寺)の境内に浅間大菩薩を勧請しようと思い立ち、諸人の頭髪を埋め、2月3日より山を新に築くべく、そのために砂を貴賤とわず老若男女が運んでこれを完成した。 ここに駿河の富士にそっくりな富士山ができあがり、石と黒木の鳥居、石壇、垢離場を造築、中腹には石尊大権現、麓には浅間大菩薩の社壇を造り、5月28日には開眼式を行った。人々はこぞって富士山詣と称してこの山に登る。見渡せば向こうに目白、早稲田村、井の頭から流れる上水が二手に分かれる関口の滝の響きの音か聞こえ、6月15日から18日まで、日夜を分かたず人々は群集する。 この富士詣には、ことに若い娘も加わりいちだんと華やかさが増し、水茶屋、田楽、団子の店も出て、こんな賑わいは唐土にもあろうかというほどである。
 当時は富士登山は難行で、女子供の登山は困難だったので、高田の模造富士は若い娘などの富士詣と称した遊山でおおいに賑わったものであろう。『江戸名所図会』には次のように記されている。
 高田富士
 稲荷の宮の後にあり、巌石を畳んで容(かたち)を模擬す。安永9年庚子に至り成就せしとなり。この地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者、これを企てたりといふ。毎歳6月15日より同18日まで、山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間の宮を勧請してあり。 (『江戸の道楽』から)
<尾張徳川家の下屋敷=小田原宿の箱根山>  東京の新宿区戸山町にある都の戸山公園の中に、まん円の小高い山がある。北側はグラウンドなどのある谷合に面していて、20メートルほどの高さだが、背後は高台となっていて、コンクリートのアパート群が迫っている。山の中腹には大きな石碑があって「箱根山」と刻まれている。 戦前、この地にあった陸軍戸山学校の関係者が、昭和42年に建てたものである。散歩に来ていた老夫婦にお尋ねしてみたら、古くから箱根山と呼び慣わしてきてはいるが、由来については知らないという返事がかえってきた。若い人々の間ではその名を知る人さえ少なくなっている。
 戦前の1万分の1の地形図を見ると、明治42年のものから昭和12年にいたるまで、この山には箱根山と明記されており、標高44.6メートルとなっている。100メートル以上の高層ビルの林立する現在の東京では実感が涌かないが、おそらく旧東京市内では最高峰なのである。 愛宕山は25.6メートル、神田明神の高台が約20メートル、王子の飛鳥山でも27.2メートルにすぎない。そしてこの東京最高峰の前身は、意外にも戸山荘と呼ばれた尾張藩徳川家下屋敷の広大な庭園内に造られた人工の筑山であったのである。
 ところで、尾張藩下屋敷内庭園のこの山がなぜ箱根山と呼ばれていたかを探っていくと意外な事実に行き当たる。その事実とは、現在、痕跡も留めていないが、この庭園内には宿場町は1つそっくり造られており、しかも「小田原宿」と俗称されていたことである。 「箱根山」の石碑に添えられた碑銘にも触れられているように、この庭園はもっぱら東海道五十三次の縮景で知られていたが、その実態は主としてこの宿場町であった。五十三次の景を写した庭園は、肥後細川家の水前寺成趣園(じょうしゅえん)をはじめ、江戸時代にはほかにもあったが、このような宿場町をそっくり造ったという例は尾張藩下屋敷以外には見当たらず、 ある意味では奇想ともいえるこの虚構の町の存在が、江戸時代における「戸山荘」の名を高らしめていたのである。箱根山という名称も、その登り口に当たる「小田原宿」の存在と無縁であったとは思われない。
 しかし、この山がいつから箱根山と呼ばれるようになったのか疑問が残る。江戸時代における正式な名称は「丸ヶ嶽」、あるいは「玉円峰」で、その形状から名付けられたものであるが、箱根山という俗称は今のところ記録には見当たらない。明治以後の命名ともみられるが、一方の「小田原宿」は明治初年にはすでに姿を消していたのである。 あるいは、このきわめて印象的な「小田原宿」への強烈な追憶が、唯一遺された筑山に箱根山という名称を与えたのかも知れない。現在市販されている国土地理院の1万分の1の地形図には、戦前にあった箱根山の名称がすでに省かれている。山腹に建てられた箱根山の石碑には、その名の消滅を惜しむ思いが込められているのであろう。(中略)
虚構の町「小田原宿」
 この町は庭の西部にあって南北に延びており、36軒の町屋が約140メートルの町並みを造っていた。町の両端には木戸が設けられており、北の入口の脇に高札が建てられ、次のような文言が記されてあった。
 一、この町中において喧嘩口論これなきとき、番人はもちろん、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所へ届けべからざること
 一、この町中に押し買いは了簡におよばざること
 一、竹木の枝、キリシタンかたく停止のこと
 一、落花狼藉、いかにも苦しきこと
 一、人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと
   年  月  日
            奉行
 この高札の戯言には、虚構の町である御町屋の性格がよく示されていると思われる。
 物理的に虚構であるだけではなく、ここでは現世の法秩序はむしろ逆転させられ、遊び心と風流のみが支配する、いわば桃源郷としての虚構が示唆されている。
 町の東には池と田園風景が拡がり、西側は山林となっていて、山間部にほど近い鄙びた宿場町といった風情を写したものであろうが、本陣、問屋、旅籠屋のほか、店の種類や内容はきわめて都会的で、米屋、酒屋、菓子屋、薬屋などが軒を連ね、さらに瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋などまで設けられており、また弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店も混じり、和田戸庵と称する医師の家もあった。 そのほか番屋や井戸などもあって、宿のなかほどの街道からやや奥まったところには、大日堂と人丸堂が建っていた。造園手法からみれば、いわば原寸大の宿景といえよう。
 将軍家の御成りなどの、いわば園遊会の当日には、これらの店は暖簾や看板・標識で飾り付けられ、「ものとして足らざるはなし」といわれたほどの多種多様な商品が並べられた。多くは実際の品物であったが、なかには木でこしらえて色を塗った菓子や田楽などもあり、虚と実が渾然一体となっていた。 そのうちで将軍家の目にとまったものは土産として献上した。本陣に当てられた家は、古駅楼と称し、御成りの際には紫と白の縮緬の幔幕が張り回らされ、御座所が設けられた。 (『尾張藩江戸下屋敷の謎』から)
子供の頃遊んだ箱根山
 TANAKAは、自分が子供の頃遊んでいたあの<箱根山>、名前は知っていたけれど、そのような由緒有る所だったなど、全く知らなかった。戦後の「すべての国民が飢えていた頃」から高度成長期になり、豊かさを実感し始めたころ、効率第1で東京の昔からの町名が変更されていった。
 「合理的な住居表示の制度及びその実施について必要な措置を定め、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」との「住居表示に関する法律」によって住居表示が変更され、東京で昔からあった町名がなくなっていったのだけれども、当時はあまり気にしていなかった。 しかし、最近江戸時代のことを調べ始めて、江戸時代からの町の名前は残しておくべきだ、と考えるようになった。そして、 あの「箱根山」のすぐ近くに住んでいながらその歴史を知らなかった、ということが恥ずかしいことだし、学校で教えるべきだったと思うようになった。小学校でも中学校でも教えてもらった記憶はない。残念。
鉄砲百人組
 それでも、すぐ近くの「百人町」は江戸時代に鉄砲組=同心百人が住んでいた、ということは聞いていた。
 この百人町で、江戸時代の鉄砲組を再現し、2005年9月25日(日)9:30から「鉄砲組百人隊行列」が行われます。皆中稲荷を出発し14:30までの予定です。お近くの人はどうぞ見に行ってください。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の助け合い                 芳賀登・光田憲男・谷田部隆博 つくばね舎     2004. 1.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20 
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10 
尾張藩江戸下屋敷の謎 虚構の町をもつ大名庭園            小寺武久 中公新書      1989.12.20
( 2005年8月22日 TANAKA1942b )
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(37)旅の普及を支えた経済制度
統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚
旅の普及に伴って多くの経済制度も発達した。それは旅の普及によって発達したものもあるし、またその発達によって庶民の旅が普及した面もあった。そうした「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」などを扱ってみた。 旅の普及は各地の総需要を増大させたし、また経済システムの発展にも大きな影響を与えたと考えられる。
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<庶民の旅を発達させた要因>  17世紀後半になると、庶民の旅は次第に盛況をみせだした。これ以前にも旅をする庶民はいたが、数が少なかった。 江戸時代の庶民の旅の特徴は、仕事や信仰目的のほかに、物見・遊山が増加したことである。旅を通じて庶民はさまざまな異文化を体験し、情報を入手した。 ただし庶民が安心して快適な旅をするには、克服されなければならない多くの問題があった。まず庶民にある程度の時間的・金銭的な余裕が必要である。治安が安定し、旅行施設が整備されていることも条件であった。全国で信用される統一貨幣の流通も、旅の発達には欠かせない。
 その点、江戸時代は兵農分離の貫徹により、前代に比して格段に治安がよくなった。幕藩領主の陸上交通政策により街道が整備され、休泊施設も整った。宿場には人足や馬が常備され、賃銭さえ払えば誰でも利用できた。17世紀後半以降になると生産力が発達して、庶民のなかには生活にある程度のゆとりをもつ人々も現れた。 もっとも休泊施設や人馬を利用するには、全国で通用する貨幣が必要である。いわゆる慶長金銀は慶長6(1601)年以降に発行されたが、庶民が入手する機会はほとんどなかった。この時期、庶民の多くは絶対量が少なくてしかも信用度の薄い鐚銭(びたせん)や永楽銭を使用するか、あるいは実際に米や加工品を携行して旅をする以外になかった。これでは何かと不便である。
 しかし寛永13(1636)年から寛永通宝が大量に発行されて庶民に出回り、旅先ではもっぱら寛永通宝が使用されるようになった。これ以降、幕府は新貨幣を発行すると、宿場の助成金として配分したりして流通に努めた。もっとも寛永通宝は四分銭と一文銭という少額貨幣であったので、大量に持ち歩く必要があり、旅に携帯する貨幣としては十分でなかった。 旅との関連で言えば、貨幣問題を一挙に解決したのが、元禄8(1695)から鋳造がはじまった元禄金銀の発行である。元禄金銀は諸物価高騰の原因となり、また鋳造にからむ贈賄問題も発したが、大量に発行されたので庶民でも比較的容易に入手することができた。
 旅に発達には、こうした言わばハード面の整備とともに、旅心をかき立てるソフト面の充実も重要である。その意味では、各種の街道絵図や旅行案内書・道中記、あるいは地図類の出版が、さらに庶民の旅を促した。言わば、机上での「読む旅、見る旅」から旅心を誘い。実際の旅立ちに結び付いたのである。 (『東海道の宿場と交通』から)
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 江戸時代統一通貨が普及し、これが貨幣経済を普及されることになり、庶民の旅を便利にした。こうした貨幣の普及とともに、貨幣改鋳も貨幣経済を普及させた。荻原重秀の貨幣改鋳に関しては、新井白石の考え方でもある、「貨幣改鋳によって物価が上昇した。悪政であった」との考え方が、現在でもある。TANAKAは「成長通貨を供給した。これによって経済は成長した」と評価する。 それでも、発想は「財政再建」であったと考える。しかしもっと積極的に、現代の考え方である「成長通貨」との見方もある。そのような見方を次に引用しよう。
<商品量の増大と貨幣改鋳>  通貨の運用は、一国の経済活動の中で重要な役割を果たす。徳川幕府も、慶長金銀を発行してから90年もたつと、財政の悪化に苦しむようになった。その理由としては、まず第1に、全国の鉱山からの金・銀の算出が急速に落ちたことを挙げることができる。
 次に、江戸市を構築するための費用や、全国に広がる五大街道の整備にかかる費用の助成金、その他、もろもろの支出などで、幕府の貯蓄が取りくずされ、五代将軍綱吉のころには、幕府財政がピンチに追い込まれてしまったからであった。なにしろ、将軍家恒例となった日光参詣も、財政難を理由に延期されたぐらいであった。 
 そのため幕府は、慶長金銀にかわって質の落ちる元禄金銀を発行し、その改鋳益金(出目という)をもって財政不足を補おうとした。またそれ以外に、この時代になると江戸をはじめ全国に城下町が建設され、そこに市場が発生し活躍するようになっていた。そして商品量が増大し、江戸・大坂・京都を中心に、全国的な物流ネットワークがつくられ、通貨の必要性が広範囲かつ絶対的なものになってきたのである。
 幕府成立当初は、支配階級たる幕府や各大名の城下町を造る建設工事費として貨幣を必要としていたのだが、それが形成される過程の中でさまざまな商品を生み出し、それが全国的な規模で動き出したため、通貨量が相対的に少なくなってきたのである。
 従来の評価では、幕府の貨幣改鋳は将軍家綱の華美な生活の結果によって財政が逼迫し、それを救済するめに品位の落ちる貨幣を発行し、幕府だけがもうけて庶民はインフレに悩まされたという悪評が定着していた。しかし最近では、むしろ商品量の増大に対し、通貨量が少なくなったために貨幣改鋳が行われたという見解が浮上してきた。これは、今後の歴史観を変えていくことになるだろう。 (『江戸の生活と経済』から)
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 江戸時代、江戸の庶民が伊勢参りをすると、4人家族が3年暮らせるほどの費用がかかったと言われる。そのような費用をどのように工面したのか?それは「頼母子講」とか「無尽」と言われる金融制度であった。
<頼母子講・無尽>  京坂では「たのもし」と言い、江戸では「むじん」と言い、無尽と書く。これを行う主催者を親と言う。催主と定めた者がなく各互のために行うのを「おやなし」と言う。その行いには大小がある。また、金貨をもってするのも、銭をもってするのもある。 京坂では銀をもって唱えるのもある。人数は定まりはないが、多くは20人から30人ばかりである。その初めは、たとえば銀1貫目掛の行で20人のものは、初回に各々銀1貫目を携えて会合し、おやなしならば20人のうち1人がこれを得る。 親がある場合には親は出さずの20貫目の銀を収める。次会からは終いに至るまで毎会合に各々1貫目の中から若干を減らして取るという牌を箱中に投じてこれを開き、多く減銀した者に19人の者からこれを与える。 親はまた他の人と同じく1貫目の中を牌のようにこれを減じてこれを与える。3回目の会のときもまた減銀牌を投げ入れることは前と同じで、これを開いて18人と親と会わせて19人は銀を減らして出し、2回目に合銀を収めた者は第3回以後はおわりに至るまで1貫目を出すのである。 第4回も前と同じ。2回、3回に合銀を得た者は1貫目を出し、まだ合銀を得ない者は銀を減らして出す。5回以後はおわりに至るまでこれに準ずる。
 これを入札の頼母子と言う。また振りくじと名付けて初回に1貫目を掛け、2回以後は利息に準じて減法を定めてこれを得る者を選んでくじをもってこれを取るのもある。また、初めからおわりに至るまで1貫目を合銀してくじをもってこれを取るのもある。多募および三貨幣の違いはあっても、みなこのようなやり方である。
 京坂では入札頼母子をもっぱらとし、江戸では初めから終わりまで減法なく、これを与えるのに振りくじをもってする者が多い。武家の万石以下、以上ともにこれを行う者もまた振りくじをもっぱらとする。 大規模なものは1回に各々金千両掛け、あるいは何百両銀とこれに準じ、小規模なものは金1,2分掛け、あるいは銭何貫文掛けである。極小には銭何百文掛けというのがある。婦女などが集まって行うこともある。 この小行を前垂無尽などと名付ける。大行は割烹店などに集まってこれを行う。また大行は3,4カ月に1回開き、1年に3,4回をもっぱらとする。小行の者は毎月行う。これまた金事の一助であり、経済の一挙だけ。また、取り除き無尽というのがあるが禁制である。また掛捨無尽などがあるが、わずらわしいのでこれを略する。 (『近世風俗事典』から)
頼母子講から第二地方銀行へ この頼母子講は現代の第二地方銀行へと変わっていく。 それについては 「19 信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ」▲で次のように書いた。
 この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。 明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。 1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀となっている。  宗教関係から発生したように、宗教とか地域とかの共通点を持つ者のためであった。当然農村部で、農家のための無尽もあったと思われる。無尽が相互銀行にに成長した要因は、相互銀行固有業務である相互掛け金の増加によるものではなく、普通銀行が行う預金と融資であった。相互銀行が地方銀行に変わる時点では、総資金に占める相互掛金の割合は約 2.5%と、ほとんど無視できるほどに減少した。
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<為替制度の発達>  江戸時代の旅のガイドブックで、所持品として印鑑が書かれている。これは旅の途中で旅費が不足した場合、為替制度を利用して国元から金を送ってもらうことが出来るとある。 つまり旅先で、現代風に言えば「ATMを利用して預金を下ろす事ができる」ような制度ができていた、ということだ。この為替制度については、「庶民が旅先でどのように利用できたのか?」についての詳しい資料が見つからなかったので、「大坂堂島米会所」を扱ったときの文章=大坂堂島での米商人と江戸とのやり取りに関する文章、をここで引用する。
<大坂ー江戸為替制度の発達> 大坂堂島米会所の発達が新たな経済分野に刺激を与え、江戸時代の市場経済がさらに一歩前進した。それは大坂ー江戸為替制度の発達だった。幕藩体制において、幕府も諸藩も年貢米を大坂堂島で現銀に替える。その現銀を江戸で使うために現金に替えて江戸へ送金する。その送金システムが堂島米会所の発達と平行して確立していく。この件に関しては「大阪府史」(大阪府史編集専門委員会編 大阪府発行 昭和62年)に詳しいので、これを参考に話を進めよう。
 江戸時代離れた地区へ金を送る方法として、公金為替・江戸為替・上方為替・京為替・地方為替などが次第に発達した。この中で、扱い量も多く当時の経済に重要な役割を果たしたのが、公金為替と江戸為替であった。公金為替は1691(元禄4)年に始められ、江戸・京・大坂に両替店を持つ三井両替店が中心になっていた。「公金為替」とは幕府の公金輸送を主な目的とし、これに対して「江戸為替」は大名諸侯の資金輸送を目的としていた。
 江戸為替は、元和・寛永期のころから行われたとの説もあるが、通説では、1723(享保8)年に大坂両替商米屋(殿村)平右衛門によって始められたとされている。この制度は、大名諸侯が年貢米や国元の物産を大坂で売却し、その代銀や、大名貸しから借りた資金などを江戸へ輸送する送金為替と、その反対に大坂問屋から江戸問屋に送付した商品代金取立の荷為替(逆為替)とが結合して、為替取組が可能となった。そしてこの制度運用には大坂の通貨(銀)と、江戸の通貨(金)を両替する、という面倒なことが行われていた。この面倒な銀と金とを両替する、ということを省くために、金を基準にして通貨を統合しようとしたのが田沼意次と勘定吟味役の川井久敬が試みた、1765(明和2)年の明和五匁銀の発行と、1772(安永元)年9月の明和南鐐二朱判の発行 であった。これに関しては、大江戸経済学(1)改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(2) 田沼意次と、その協力者たち▲ ( 2002年2月18日 ) に書いたのでここでは触れないことにする。
 この仕組みの流れは次のようになる。
大名がコメなどを大坂問屋に売る(江戸の屋敷で代金を使う場合は、この段階では代銀は受け取らない)⇒
大坂問屋は貸越勘定の相手方である江戸問屋を支払人とする為替手形を振り出す(同時に相当金額の商品を送るか、別勘定で帳尻を合わす)⇒
大坂両替商はこの為替手形を買い集めて、その代金(代銀)を大坂問屋に支払う⇒
大坂両替商はこれらの為替手形を江戸両替商に送り、それと同時に大坂問屋と取引関係のある大名(江戸藩邸)に対して送金為替を取組み、これを送付する⇒
江戸両替商は大坂両替商から受け取った為替手形によって、江戸問屋から代金を取り立てる⇒
この代金(通貨=金)を大名(江戸藩邸)に支払う。
 このようにして諸藩の大名は大坂でコメを売り、その代金を江戸藩邸で受け取る事ができた。この大坂と江戸の為替取組は現金を移動させない、という点で現代のコルレス契約に似ている。ここでも大坂商人の先見性に驚かされる。
 上記文章は、 こちらをクリック→
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<為替制度を支えた飛脚の存在>  為替制度が普及するには旅先と三都を結ぶ情報伝達制度が必要であった。江戸時代には飛脚制度がその役割を果たした。 その飛脚制度を扱うことにしよう。
<飛脚屋>  京坂から江戸に往来するのを第1とする。名づけて「三度飛脚」という。これもまた、京坂を元とし、江戸を末とする。
並便 京坂から江戸に往き、江戸から大坂に帰る日数に差がある。たいがい30日ばかりで1往復するを「並便り」という。これは肩銭が安いので駅馬の閑暇を待ってこれを用いる。だから日数の定めはない。
十日限 また、「十日限」と名づけ、あるいは一往、あるいは一来十日を限るものもある。しかし、出納の日があるので、およそ発日から12日で到着する。賃銭は並便より高い。
早便 六日限を「早便り」という。発日の時刻により七日に達するが、近年は十日限、六日限ともに2、3日、延期することが多いもので、とくに「正六日限」といって、天保初め以来これを行う。 六日限は七日限より賃が高く、正六は六日限よりさらに高い。正六日、出納の日ともに72時間で到達する。
宰領 上の並便以下、宰領といって一夫を馬4,5匹につけて途中これをつかさどって往来する。数匹のうち1匹は乗から尻といって荷を軽くし、宰領がその上に乗る。 並便は昼は往き、夜は必ず宿泊する。十日限は昼夜往って宿することはない。
四日限仕立飛脚 また、とくに火急を報らせる書簡には、「四日限仕立飛脚」というのがある。これは常にはなく、三都ともに需要に応じてこれを発する。 たいがい賃金は4両ばかりである。この仕立には宰領をつけず、放ち贈り、かねて駅ごとに得意の者があってこれをつかさどる。駅毎に夫を代え継いてこれを遣る。発日から必ず48時間で到達する。
差込 また差込というのがある。上の支度便がある時を幸いとして便につけることで、たいてい金2,3分である。
大坂三度飛脚屋 大坂の三度飛脚屋は、船越町尾張惣右衛門、江戸屋平右衛門、津の国十右衛門。この三度の他、大坂には西方諸国および北国、京都、堺、奈良など各別に飛脚屋があるといっても盛んではない。みな小規模である。
江戸三度飛脚屋 江戸の三度飛脚屋は佐内町和泉屋甚兵衛、瀬戸物町島屋佐右衛門、室町京屋弥兵衛、西川岸町大坂屋茂兵衛。 この大坂屋茂兵衛は天保中届金数千両を使い込み、入牢して死んだ。家ト閉所になり、その後呉服町に江戸屋仁三郎が開店した。 江戸でも関八州などおよび奥州の飛脚屋がある。東海道往来は三都ともに三度に付す。また、三都とも町飛脚というものがあり、各市中の使用を便する。けだし、書簡を運ぶを専門とする。 (『近世風俗事典』から)
江戸町飛脚については次の通り。
<便り屋>
 江戸の俗の方言で、「たよりや」という。元来町飛脚といい、昔から貧民の一助として諸業に兼業することにすて、三都ともにこれがあったが、嘉永以来江戸でその法を改め、ことに便り屋とする。その始めは中央には俗に葭町というところに男奉公人の口入に5,6戸あり、その一人がこれを行い、浅草馬道と、南方は芝とに同業を開いて、中央の諸用書通などは葭町に集め、品川妓家その他の分は芝に集め、吉原などの諸用も馬道に集めて、南北から葭町に集め、南から北に達する用事は馬道の者に託し、北から南に達する者はまた芝の人に託す。 それから頭分安政に至り、益々盛んとなり数戸が諸所にあって数人を出す。これがすなわち町飛脚である。
 また、古来の如く国民の兼行に近国近在代参町小便という看板を出し、肩銭をもってこれを為す者または並び行われるこの便り屋という者は横2尺、竪1尺高さ尺余の筥を背にして前に所名、屋号などを漆書し、挟筥の形に似せ、片長の棒をつけ筥を背にして前に出た棒端に風鈴を釣り歩行する。 用ある家は鈴音を聞いて彼が来たのを知り書簡などを託す。その便り屋の家に近い者はその店に持って行ってこれを託す。片銭は遠近によって定制あり、一用一人を雇う町小便は、町飛脚といわれるものよりは安い。
町飛脚 あるいは町小便といって従来は三都ともにあった。しかし、定額はなく小民はひそかに招牌を出し本業の間にこれをかねることとなったようである。
 江戸では嘉永年中以来常に桂庵と称して奉公人の口入れを業とするものが芳町に5,6軒あり、その1戸および花川戸、芝と3ヶ所のものが相議して行い、それより前はことに小規模であったので、一事をもって一往来した。故に庸銭はこれに準じ、今数事を集めて往来する。
 その扮装は筥形の張籠をもって渋墨に塗り町飛脚および所名、屋号などを朱塗に書いてこれを背にし棒の一端の前の方に一風鈴を垂らし、往来で呼ばずに衆人に知らせる。これをもって下にもいうごとく、ちりんちりんの町飛脚などと異名する。 また、江戸では先年より今に至り、市中辻番人で一事一往来そ便をする者が多い。 (『近世風俗事典』から)
<飛脚屋>  町飛脚というのは市中を専門にして、書簡をおもに扱う。また、京坂と江戸との間を往復するのは三度飛脚という。町飛脚については、『俗事百工起源』に「町飛脚始」として、「町飛脚のはじまりは文政六末年七月中」とあり、四つ時に毎朝発って江戸中に配達する「近江屋」の引札口上が載っている。 それによると、葺屋町を起点として芝金杉橋までが32文、吉原も32文、品川・千住・板橋・新宿・青山辺が50文、などと価格が表示されている。そして43年前にできたこの業が、今も繁昌していると述べている。
 寅の日を選んで飛脚聟を取り (虎は千里を走る)
 この町飛脚については、『守貞漫稿』に「便り屋」とあり、業体も描かれており、「便りや、江俗の方言にてたよりやと言う。元来町飛脚と唱え、昔より貧民の一助として諸業に兼行する事にて、三都ともに有之と雖も、嘉永以来江戸にて其法を改め立て、殊に便なりとす。(略) これ即ち町飛脚なれども、又古来の如く困民の兼行に近国近在参町小使という看板を出し、雇銭を以てこれをなす者、また並び行わる。この便り屋という者は、横二尺、縦一尺、高尺余の筥に所名家名等を漆書し、挟筥の形に似せ、片長の棒を付け、筥を背にして前に出たる棒端に風鈴を釣り歩行す。用ある家には鈴音を聞き手彼が来れるを知り、書簡等を託す。(略) 雇銭遠近によりて定制あり、一用一人を雇う。町小便、町飛脚とのいう者よりは廉なり」とある。
 うそ斗(ばかり)持って山谷を出る飛脚 (吉原の女郎の文)
 大江戸は広し吹矢の定飛脚 (葺屋町の飛脚屋から、吹き矢に掛ける) (『江戸の生業事典』から)
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<現代の町飛脚=自転車便>  飛脚を会社のシンボルにしているのは佐川急便だけども、都心部のオフィス街ではバイク便が現代の町飛脚として活躍している。目に付くのは、ティーサーブ、ソクハイ、DAT,BHCなどだ。 以前郵政が参入しようとして、ヤマト運輸に声をかけて下請けとして利用しようとしたが、ヤマト運輸は断った。別の企業が郵政の下請けとして参入したが、失敗した。その、バイク便、自転車便が都心部のオフィス街で活躍している。 各社共にうたい文句を用意し、競い合っている。民間に任せておけばどこからか需要を見つけだし、創り出し、供給体制を作り上げる。公社ではあまり期待出来ないだろう。
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<主な参考文献・引用文献>
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
江戸の生活と経済                          宮林義信 三一書房      1998. 8.31
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年8月29日 TANAKA1942b )
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(38)旅が第3次産業を育てた
江戸の出版文化と蔦屋重三郎
「江戸時代は農業中心で、農村部では自給自足が普通であった」と言えばあまり反対はなさそうだ。そこで当時の産業構造はどうだったのか?ピッタリの史料ではないかも知れないが、参考になりそうなものを引用してみよう。
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<江戸末期の産業構造>  明治7年『府県物産表』に記載された総生産額3億5474万円のなかでは、農産物が2億1188万円で60パーセントと最大の割合になっている。 まさに農業社会と呼ぶにふさわしい。これに水産物・畜産物・林産物を加えた第1次産業の合計は69パーセントと、7割近くが1次産品であった。農産物の中では穀類が大部分を占めていたから、生産物の半分は、直接・間接に口に入る食料品であった。 しかし1次産品のうち、繊維・染料・薪炭・木材・牛馬・羽毛皮革などのように、さまざまな加工品の原料として、あるいは燃料として利用された部分も少なくなかった。
 工産物と鉱業製品をあわせた加工生産物は、1億1070万円で31パーセントとなっている。その内容は、穀質・澱粉類・味噌・醤油・酒類・砂糖などの飲食加工品が4割近くを占めている。この時期の鉱工業は主に食品・繊維関連物からなっていた。 ほかには、金銀鉄などの金属(7%)、主に灯油と思われる油類(5%)、玉石鉱土類(5%)、そして紙類(5%)が目につく。鉱工業生産物といっても、その8割以上は加工度の低い軽工業品であった。
 鉱業生産物の比較的高い府県をみると、上から順に大阪府(工業の割合65%)・京都府(54%)・兵庫県(53%)と近畿圏が並び、続いて東京府(49%)がきていることからみて、工業は都市を中心に発展していたことがわかる。 とはいえ、そうした工業も内容は醸造・繊維といった農産加工が大部分であった。工業といっても都市の職人仕事が中心だったのである。 (『文明としての江戸システム』から)
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 この統計では第3次産業が出てこない。統計の取り方によってこうなったので、実際は第3次産業も盛んであったと思う。そこで違った面からの史料を引用してみよう。
<宿場町の職業構成>  新居宿の明治5(1872)年職業構成は、全756軒のうち第1次産業である専業農家は27軒に過ぎず、漁業を専業とする家が207軒、農・漁業の兼業が19軒で、残りは交通労働や商業・職人の専業者や兼業者であった。 それでも江戸時代の同宿は城下町ではないので、住民のほとんどが百姓身分である。
 大井川の渡しを控えた島田宿の延享2(1745)年の家数は1356軒、そのうち804軒が無高であった。無高層が多いということは、階層分解が深刻であると同時に、農業以外のさまざまな職業があったということでもある。 箱根山麓の三島宿でも同様の傾向にあり、宝暦9(1759)年には家数1910軒のうち、高持は588軒に過ぎなかった。
 総じて、宿場町には本陣・旅籠屋・茶屋などのほかに、商人や職人が多く住んでいた。商人の中には旅人相手のものもあるが、職人を含めて宿内や周辺村々の需要に応じたものが多い。
 宿場町は単なる交通の中継地だけではなく、周辺住民の在町としても機能していた。奉公・日雇い稼ぎの場であり、情報収集の場でもあった。
 見付け宿は、寛永18(1641)の入会裁許絵図によれば、すでに宿場の中心部に旅籠屋や諸商人・職人などの家が密集している。同宿は城下町ではないが、中世以来の宿であり、御殿・代官所の所在地として、一般の宿場より早く町場化していたのであろう。
 時代は下るが、同宿の天保13(1842)年の軒別職業絵図によれば、街道筋町並の家数は465軒。そのうち商人が269軒、職人が47軒、無職が4軒、医師が3軒、農業は119軒で全体の26パーセントに過ぎない。 なかでも宿場の中心部である馬場町では、全53軒のうちの約半数の24軒が本陣・旅籠屋などの宿泊施設で、そのほかに料理屋・居酒屋・蕎麦屋・魚屋・菓子屋・飴屋は合わせて12軒、それに小間物屋などがあり、農業は1軒であった。
 宿場町は周辺村々からみれば、助郷として人足や馬を提供させられる交通施設であると同時に、その課役を通じて現金収入の場でもあった。そして地域の在町として商品交換、すなわち貨幣経済の中心地であり、また高等技術を有した職人の集往する町でもあった。
 江戸時代の東海道には、さまざまは往還(おうかん)稼ぎがあった。旅籠屋・茶屋なども往還稼ぎであり、宿・助郷の馬士・人足も、駄賃・人足稼ぎという往還稼ぎであった。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<辻駕籠屋> 五街道における交通手段は、その大部分を人力だけに頼っていた。しかも早飛脚・早駕籠などの例外を除き、原則的に徒歩であった点が特徴である。
 人足には単に荷物を持ったり担いだりするだけの人足と、それに道具として乗物や駕籠を使用したり駄獣を使役する場合があった。人足1人の担当重は文禄元(1592)年の規定では10貫目であったが、その後は5貫目が標準となった。5貫目を超えれば目方に応じて賃銭を支払、10貫目になれば2人で運ぶことになる。
 乗物には腰興・打揚興・引戸網代乗物、そのほかに乗興者の身分に応じたさまざまな種類があり、それを担う興丁(陸尺)の人数も4〜8人とさまざまであった。ただしこの乗物に乗れる身分は「武家諸法度」によって公家・大名とその妻子や医師等の特権階級に限られていた。
 乗物と駕籠の違いはそれに引戸があるか否かである。しかし大名やその妻子が利用したお忍び駕籠、上級武士が利用した留守居駕籠、武士が利用した権門駕籠(引戸駕籠)などは4〜6人の駕籠かきが担ぐもので、体裁的には乗物と変わらなかった。庶民用の最上級の駕籠は、四方が板張りで屋根や板張りの一部に塗り物を施し、三方に窓があってすだれが掛けられる法(宝)仙寺駕籠で、これに乗るときには裃を着用した。
 江戸市中で庶民によく用いられたのが辻駕籠(町駕籠)で、正式には四手(よつで)駕籠と称し、関西では路駕籠と言った。幕府は延宝3(1675)年に江戸市中で辻駕籠を300丁に限るとしたが、やがて有名無実化し、元禄14(1701)には3612丁が登録されている。
 街道筋で旅人が利用する宿駕籠は2人の駕籠かきが担ぐ簡単なもので、俗に雲助駕籠とも言った。箱根などの山中でしようされる山駕籠は底が円形で竹の棒で担ぐもので、宿駕籠よりさらに簡単なものであった。それでも旅日記などを見るとこれらの宿駕籠・山駕籠は、旅人に多く利用されたようである。
 これらの乗物・駕籠は複数の人足によって担われる点では協業と言える。しかしこの協業形態は協業者相互の負担軽減をもやらすことだけが目的で、結果としてわずかの速力を増す可能性を内包するが、輸送量の拡大はほとんど見込めない。そこで、より多くの担重量に応えるものとして駄獣の利用があった。 交通手段としての駄獣には牛と馬があったが、牛については東北。北関東・中部山岳地帯での牛稼ぎと一部大都市での牛車に利用されただけで、五街道では基本的に馬に限られていた。
 馬一疋の担重量は元和2(1616)年に伝馬・駄賃馬とも40貫目と規定され、それがその後の基本となった。すなわち馬は人足の4〜8倍の担重量があったのである。もっともこの馬は、江戸時代を通じてその社会体制の性格を反映して、次第に減少しつつあった。宿場の最も重大な問題はこの馬数の確保であり、しかも実態としてそれを成し遂げていないのである。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<江戸文化を変えた蔦屋重三郎> 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がベストセラーになった。出版文化が栄えていたから『東海道中膝栗毛』がベストセラーになった、というのも本当だし、『東海道中膝栗毛』がベストセラーになっって、それが出版文化を反映させる力になった、というのも、本当と言えるだろう。 その出版文化、蔦屋重三郎の存在が大きい。田中優子著『江戸はネットワーク』から、蔦屋重三郎に関するサワリの部分を紹介しよう。
 蔦屋重三郎は無名ではない。そして天才だった。18世紀江戸という、人口130万をかかえた高度で複雑な情報都市に、彼は出現した。あふれるほどの購読者と、絵画や版画や道具類の多くの眼ききをかかえた知的大衆都市に、彼は出現した。 彼の出現は確かに、江戸文化を変えた。後の我々にだけわかることだが、彼の出現によって江戸文化は普遍的な生命を吹き込まれ、ヨーロッパ文化の中に流れ込むことになった。印象派画家たちを筆頭とするジャポニズムの流れの中にあえうのは、すべて蔦屋重三郎が世に送り出した絵師たちのものである。明治の近代文学者の基礎になっていた江戸文学のほとんどは、蔦屋重三郎が送り出した作家たちの手になるものである。彼のしたことはいったい何だったの」だろう。
 天才的編集者の超能力とは、まず第1に人(作者)を変えてしまうことである。しかしそれはその人間を別の人間にすることではない。より極端に彼じしんになるよう、仕向てしまうことである。簡単ことではない。人をし向けるには、その人の先回りそしなければならないからだ。天才編集者の超能力の第2は、それとまったく同時に、変えた者どうしを関わらせてしまうこと、つまり「連」を編集することである。 これは、仕事上での関わりであろうと、遊びや宴の関わりであろうとかまわない。変わりつつある者どうしの連なりは、エネルギーの火花を散らして、何を起こすかわからない。編集者はそこに賭けるのである。
 このとき、この「賭け」の精神が編集者には不可欠のものになる。であるから今日でも、大手出版社にお勤めのサラリーマン編集者に天才は少ない。「賭け」ができないからである。発想は無難な方へ、編集会議を通りそうな方へ、上役のおぼしめしがよさそうな方へ流れがちになる。その点、江戸期の編集者は即、出版人=経営者であるから、責任は自分ひとりでとればいい。
 蔦屋重三郎は以上のすべてを備えた人間だった。そのような編集者の実績としてすぐに思い浮かぶのは、「ヴィジュアル狂歌本の発明」「政治スキャンダル黄表紙の発明」「美人大首絵の発明」「写楽の発見」「洒落本作者としての山東京伝の発見」等々。これだけでもすでに多すぎるくらいだが、十返舎一九や曲亭馬琴の発掘も、ここに加えることができる。(中略)
 重三郎と京伝は、しばしば私の中で重なってしまう。もしかしたらそれは、江戸というマスメディア都市のもたらした感性なのかもしれない。その感性の中では、作者が現実を刻々と編集し続けているのが見える。そしてわが天才編集人、蔦屋重三郎は、そのような作者たちを正面から身すえ、みすからを際限なく解体しつつ、その際の解体エネルギーに、彼らを巻き込んで行くのである。重三郎のような人がいなければ、マスメディア世界の作者たちは、おのれを超えていくことができないかもしれない。 (『江戸はネットワーク』から)
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<大衆化を支えた貸本ネットワーク> 出版物の大衆化という点でもう一つ注目しなければならないのは、貸本屋のネットワークである。馬琴の読本は売るというよりも貸本屋のためにつくられたのではないかとみられている。 高価なうえに初版が1千部。江戸700,大坂300の貸本屋の数に合わせて作られたとの考え方だ。化政期(1804〜1830)には貸本屋がカバーする地域は江戸全域に及んであり、貸本を業とする人は800人前後で、小説本を風呂敷が笈箱(おいばこ)に入れて背負って得意先を回り、人工100万人の江戸で計10万軒の読者をもっていたといわれる。 彼らが背負った本のなかには、密かに摺られた発禁本もあったようで、隠密裡の出版ルート、いまでいうアングラ出版物も彼らの手によって流通していたようだ。
 この貸本屋は、いまのレンタルビデオの比ではない影響を江戸庶民に与え、江戸文化の重要な担い手にもなったのである。世界の出版事情からみても、この日本の貸本屋は、1842年にロンドンに店を構えた有名なC・E・ミューディーより2世紀も早く始まっており、いかに日本の出版界が進取の気象があったかがわかるだろう。
 当時の本は高価で、職人の日当の3倍から5倍もした。一方では、寺子屋の普及もあって庶民の識字率も高まっていたので、貸本の需要はかなりあったのだ。西鶴や馬琴そベストセラーもこの貸本ネットワークなしでは生まれなかった。また、寺子屋の教科書でもあった『江戸往来』なども、長期レンタルされたので、学問の普及にもひと役買っていたのであった。 戦後、本が少ないころに貸本屋ブームがあったが、いまはテレビなど映像の影響力に追われて、町なかではあまり見かけなくなった。 (『江戸は躍る!』から)
<貸本屋>
江戸の貸本屋は、前掛けをかけ、大風呂敷に包み込んだ本を自分の頭よりも高く背負い、3日に1度ぐらいの割で、屋敷の奥向きや妾宅、遊女屋を得意先として回って歩く。 『古契三娼』(天明7)では、「かし本やの風呂敷は方々へかしぎ……」と描写している。教養書や古典名作なども貸したが、主として実録物、戦記物、また草双紙、人情本などの版本であり、艶本なども所持していた。 『南柯の夢』(天保6)には、「此頃貸本屋の持歩く、吉原大鑑といえる本を見るに……」とあり、『春色梅児誉美』に吉原の番頭新造が禿に言う言葉として、「金曾木の柏屋は来たら、翁草の後編と、拾遺の玉川持て来なと、そういうのだヨ」とある。 
 言葉を拾って行くと、伊勢物語、万葉集、こぶ取り爺さん、源頼政の鶴退治、千手観音の千の矢、小野小町、羽衣、平家の悪七兵衛景清などの話が入り混じっている。
 江戸後期にはこの行商が盛んであり、明治10年代までの行商風俗であった。『明治世相百話』に、「双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで、古風な貸本屋が我々の家へも廻って来たのは、明治15,6年頃まで。 悠々と茶の間へ座り込んで面白おかしく、お家騒動や仇討ち物の荒筋を説明。お約束の封切りと称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読本を2,3種ずつ置いて行く」とあり、江戸末期の貸本屋の姿を伝える。料金は馬琴の『作者部類』によれば、「貸本屋等も其新板なるは1巻の見料24文、古板なるを16文」と記されている。 支払は月ごとであり、『守貞漫稿』に「此月銭を貸賃或は損料とも云ふ」とある。
 貸本の明智軍記も三日限り (光秀の三日天下と期日三日とを掛ける)
 貸本屋又御枕になさったの (昼寝の枕の代用)
 いわんぼう貸本屋程持って居る (誰にも貸さない蔵書家)
 婚礼をするとこうだと本屋見せ (娘に艶本の絵を)
 飯炊きによんで聞かせる貸本屋 (字を読めない飯炊きの下男や下女) (『江戸の生業事典』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
文明としての江戸システム 日本の歴史第19巻             鬼頭宏 講談社       2002. 6.10
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
江戸はネットワーク                         田中優子 平凡社       1993. 2.25 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年9月5日 TANAKA1942b )
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(39)旅が江戸社会に及ぼした影響
「貨幣数量説」と「情報数量説」
「趣味と贅沢と市場経済」の旅シリーズ、そろそろまとめの時期になってきた、ここで「旅」が江戸社会に与えた影響について考えてみよう。
<参勤交代や庶民の旅が情報化社会==江戸を発展させた>
 江戸時代人の移動はヨーロッパれは比べものにならないほど盛んであった。人の移動によって通過流通速度増し、貨幣が大都市から街道を通じて宿場町、農村部へと拡散した。この経済効果は大きい。
 江戸の消費需要を刺激し続けたのは天下普請だけではなかった。大名の日常生活を規制し、しかも大きな経済的負担を課すということで、参勤交代制度は天下普請とともに大名統制のための基本的な制度として定着した。江戸時代を通じて、江戸の消費活動は参勤交代制度によって刺激され続けた。また、大名統制や経済面の効果だけではなく、国元と江戸を往復する武士たちによって全国的な文化交流も盛んになった側面も大きい。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
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<経済の実力者は町人>  宝永2(1705)の御蔭参りがあってから66年後にまた、明和の御蔭参りがあった。このときは、4月から8月にかけて5カ月のあいだに270万余人が伊勢の参宮街道を通っていった。 『翁草』の著者神沢杜口(かんさわとこう)は、この参宮人を150万人と見積もり、その路用に費やされた金額を銀3万3500貫と計算している。
 3万3500貫は、当時米1石の相場56匁の検討で計算すれば、約60万石の費用となり、現在の高になおしてみると100億円くらいの額になろう。このときわずか5カ月間に、それだけの金が動いたのだ。しかし、宝永の場合は、それが2カ月で362万人なのである。当然200億円以上の金が動いたはずであった。
 これはたいへんなことだったのである。それだけ巨額の金を動かす力が、百姓や町人のなんでもない平凡な日常生活のなかに貯えられられていたということであろう。そして、それらの巨大な金を左右したのは者は、いうまでもなく流通過程をにぎる商人であり、都市に住む大町人であった。 荻生祖徠は、「又都も田舎も武家皆旅宿にて、金にて買調て用を弁ぜんとする故、商人の勢盛に成て、日本国中の商人通じて一枚と成。物の値段も遠国(おんごく)と御城下と釣合て居る故、数百万人の承認一枚となりたる勢には勝ぬ事にて、何程御城下にて御下知有りても、物の値段下らぬ筋も有……」(『政談』)と書いている。物の値段や商人の力が、もはや幕府や諸藩の力では、安全にとらえることができなくなったことを物語っている。
 そして現実に、諸藩の経済は、江戸・大坂・京都、それに長崎の町人から借銀することによってようやく維持せられていたのである。たとえば、阿仁(あに)鉱山などを持ち、東北諸藩の中では経済的に比較的恵まれていたと思われる秋田藩でも、延宝8(1644)年で、借銀4944貫余。 その内訳は、京都から440貫、江戸から2401貫、秋田城下の町人から1102貫余、別に藩内から1000貫ということになっている。
 また、西南の雄藩である長州藩を例にとれば、正保元(1644)年で、その総計は銀3682貫余、内訳をみると、京都・大坂で1398貫、江戸で1245貫余、長崎で932貫余、萩で100貫、その他6貫余、というような数字が出ている。 しかし、この負債は毎年雪だるまのようにふえてゆき、延宝4(1676)年には1万2000貫、それから5年後の天和元(1681)年には、すでに2万貫を突破していた。
 享保のころ、太宰春台は「今の世の諸侯は、大も小も、皆首をたれて町人に無心をいひ、江戸・京都・大坂・其他所々の富商にたのんで、其続け計にて世を渡る」(『経済禄』)といっているが、そのような状態は、すでに元禄以前において生じていたのであり、元禄に至って、いよいよきびしいものとなったことは改めて説くまでもないであろう。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<貨幣数量説=情報数量説>  経済学で「貨幣数量説」と言われる説がある。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=貨幣量 V=貨幣の流通速度 P=物価水準 Y=実質国民所得
 YをT(取引量)と置き換えて、MV=PTという恒等式も成り立つ。 ここで言えることは、「@貨幣量が多いと、あるいはA貨幣を使った取引が多いと、経済活動が活発になる」ということだ。 これを経済ではなくて、「文化」と置き換えて考えてみよう。つまり「貨幣数量説」を「情報数量説」として考えてみることにしよう。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=情報量 V=情報の流通速度 P=情報の質 Y=文化レベル
 こうしたTANAKAが得意とする「反証不可能な、非科学的こじつけ理論」で江戸時代の「旅」を考えると、江戸時代に「旅」が当時の文化水準向上に大きな影響を与えた事が証明できる。
参勤交代=情報の集中と拡散、その量の拡大と速度を早めた
 諸藩の武士が参勤交代で江戸に集まる。方言も習慣も異なった武士たちが江戸で生活し、1年後には国元に帰る。江戸に日本各地の情報が集中した。 その情報が1年後の諸藩に拡散した。文化水準の平準化に役立ったはずだ。当時のヨーロッパではどうであったのだろうか?フランス、イギリス、ドイツなどに比べれば日本での文化水準の拡散の少なさは想像できる。 参勤交代が全国の経済活動を刺激したのと同じように、日本の文化水準の向上に役だったことは容易に想像できる。
お伊勢参りは町人の参勤交代
 「江戸」を「伊勢」と置き換え、「武士」を「庶民」と置き換えると、お伊勢参りが参勤交代と同じように、江戸時代の文化レベル向上に役立ったことが理解できる。 お伊勢まいりが各地の経済活動を刺激したように、文化レベルの向上に役立ったことがわかる。さらに、これに「抜け参り」とか「お蔭参り」を加えればさらにイメージが鮮明になる。
江戸時代は「武士社会」と「町人社会」の2つの社会の結合体
 「情報数量説」を立てて、江戸時代に人の移動が文化レベルの平準化と向上に役立ったことを証明した。武士の参勤交代と庶民の旅、このように考えると、江戸時代とは<江戸時代は「武士社会」と「町人社会」の2つの社会の結合体>と考えると理解しやすいのではないか、と思えてくる。
 こうした考えは、経済生活から考えると容易に理解できる。江戸時代、時の流れと伴に、武士の生活は苦しくなり、町人の生活は豊かになっていった。支配する階級が貧しくなり、支配される階級が豊かになる。不思議な社会だった。 その原因は「四貨制度」にあった。通常「江戸時代は三貨制度」と言われている。金、銀、銭の三貨制度だ。これに米を加えて「四貨制度」と考えると武士階級の没落が理解できる。8代将軍徳川吉宗が「米将軍」と呼ばれるほど、米価安定に気を使ったのは、武士の給料が米であるという「四貨制度」であったためだった。
 こうした経済面の考え方が、文化面でも言える。武士社会と町人社会で、違ったことが結果として同じ様な影響を与えた。参勤交代と庶民の旅、これが情報数量説として江戸文化向上に大きな影響を与えたのだった。
定説への「やぶにらみ姿勢」の大切さ
 「封建時代」という言葉を使っても、ヨーロッパと日本では大きな違いがあった。それは「農民が土地に縛り付けられている」としても「土地の所有者がだれか?」が違っていた。 ヨーロッパの領主は土地の所有者であり、従って農民が領主に従属していた。江戸時代の領主=大名は土地の管理者ではあったが所有者ではなかった。従って藩主はその土地の行政責任者ではあったが、藩主と農民との関係はヨーロッパでの関係とは違っていた。 藩主は、現代でいえば地方自治体の知事と考えると分かり易い。藩主は油断していると任地替え、お国替えにあってしまう。例えば国元で農民が騒いだ、としよう。ヨーロッパの領主は自分の責任においてそれを鎮圧すればよかった。 江戸時代の藩主は、国元で騒ぎがあり、それが幕府に知られると、国元で騒ぎがあったということの責任を追及され、その始末の仕方が悪いと国替えにあってしまう。そこで、農民が騒ぐと、幕府に責任を追及されないように穏やかに騒ぎを収めよう、とのインセンティブが働く。 賢い農民はそこを突いてくる。「われわれの要求を受け入れないならば、幕府に訴える(追訴=おつそ)ぞ」と藩主を嚇す。藩主側、幕府側の責任が追求され思い責任を取らされた例とした、郡上一揆の例があり、これに関しては<郡上一揆に対する将軍家重のお裁き>▲を参照のこと。
 中世とか封建時代という言葉を使って、西欧の制度と同じように評価する歴史観は大きな過ちを犯すことになる。常識と思われている事柄がもしかしたら神話なのではないか?と疑う態度=やぶにらみ姿勢も大切だ。それには視野狭窄にならないこと。
識字率の高さが、情報の質の高さを支えた
 上に書いた「情報数量説」で「P=情報の質」は江戸時代の識字率の高さがそれを支えた。識字率が高かったから、情報の質も高かった。そして識字率の高さは出版物の普及の高さにもよっている。旅が盛んになって、旅のガイドブックが読まれ、それによって出版文化が栄え旅が盛んになり、情報量が多くなり情報の流通速度が早まった。 こうした情報量増大による文化レベルアップのスパイラルが進行していたと考えられる。
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<八百万の神が住む、柔らかな社会体制>  封建社会の江戸時代には関所が全国に53ヶ所あった。東海道には「箱根」と「今切(新居)」があり、これによって庶民の移動は制限されていた。そして関所破りは極刑に処せられた。 このことは間違っていない。けれども「抜け参り」「お蔭参り」はこれでは説明がつかない。建前は厳しいけれども実際の制度運用は結構アバウトであった。 こうした面に目を向けると、一神教と多神教の違いが頭に浮かぶ。日本は八百万の神が住む厳しい制度も柔らかく運用される社会であった。「本当は満足とは言えないけれど、この程度なら我慢しようか」という妥協点を見出すことが民主制度の特徴と考える、 デモクラシーとは日本の様な多神教の社会、柔らかな社会体制を受け入れる所にこそ適した社会制度であるように思えてくる。デモクラシーという面からでなくて、アナーキズムを追求していくうちに、日本の特徴として多神教であることに注目したのが、大澤正道であった。
<功利的な民主制度に適した、柔らかな社会体制>
 デモクラシーの要件としては、三権分立、代議員制度、多数決原理、平等な投票権などがあげられる。江戸時代はどれも当てはまらない。 民主制度とはかけ離れた制度であった。それにもかかわらず、江戸時代に気持ちの豊かさを感じるのは、こうした柔らかな社会体制であったことによるのではないだろうか?大澤正道もそうしたことでアナーキズム的な感覚と江戸時代とに共通点を感じたのだろう。
 フリードリッヒ・A・ハイエクがこんな風に言っている。「デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく,政治的・経済的な個人の自由を保証するための功利的な制度なのである」と。
 こうした捉え方は、一神教の「科学とは反証可能なものでなければならない」との姿勢からは生まれにくい。アナーキズムもデモクラシーも西欧で生まれた考え方にもかかわらず、日本の文化風土に適したものである、とは不思議なことだ。 そして日本のこうした文化風土は特別のイデオロギーから生まれたものではない。こうしたことを考えていくと、日本の文化風土は特別なイデオロギーによって生まれたものではないし、特別な人間に始動されたものではないことに気付く。 そうするとここで、進化論での適応論とか、ハイエクのいう自生的秩序 (spontaneous order)という言葉が頭に浮かぶ。 これについては<ハイエクの自生的秩序>▲に書いたので、そここでは別の文献から引用しよう。
<ハイエクの自生的秩序>
 ハイエクの思想のキーワードである「自生的秩序」(spontaneous order) であるが、その具体的な内容はどのようなものだろうか。
 ヨーロッパの伝統的な考え方の中には「自然法」とか「自然的秩序」といった概念がある。それはアリストテレスの段階では、人間を含む動物すべてに共通の法則をさしていたが、ローマ法を経てそれが万人共通、国際共通のルールと解釈され、さらに中世のキリスト教の下では、神が人間に与えた理性に対応する法と考えられるようになった。 いずれにしても、人為的に定められた法(実定法)ではなく、人間の理性の産物(あるいは神からの贈り物)として存在するルールが「自然法」であり、それは同時に人間の「自然権」の根拠にもなる。この「自然法」にもとづいて実現する秩序が「自然的秩序」であるが、実はフランソワ・ケネーやアダム・スミスにもこの「自然法」、「自然の秩序」といった考え方が残っている。 しかし神や理性ということを抜きにして考えてみると、ここで「自然」といわれているのは、「自然界」や「自然環境」の自然とは関係のないものである。そしてそれは人間の行動の結果として、人間の意図とは無関係に、という意味で「自然に」できあがってきたルールや秩序をさすものであることがわかる。(日本語では「おのずから」、「ひとりでに」という表現が使われる)。
 このように自然に形成された秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。市場という秩序がその典型的なものである。そして市場での行動を律するルールも、もともと「自生的に」成立したものにほかならない。そのルールの根底にあるのは「交換の正義」であり、これが市場で行われるゲームの基本原則である。それはまさに自生的に確立したもので、誰かが定めたものではないが、商法をはじめとする多くの実定法はこの「交換の正義」の上に築かれている。
 アダム・スミスもハイエクも、この市場という自生的秩序が(神や理性との関係はともかく)人間にとって不都合のないものであり、各人が市場で自分の判断にもとづいて自由に行動する状態に任せておけば悪い結果は出てこない、という立場をとっている。
 人間の自由な行動から「自然に」形成される秩序を肯定するスミスやハイエクの立場は、よく考えてみると、「神」というフィクションも「神が人間に与えた理性」というフィクションも不要の立場であって、そこでは神も理性も最終的に「消却」されていることを意味する。「人間が生まれながらにもっている理性」という近代以後の考え方も、実は中世以来のフィクションの焼き直しにすぎず、それは「人間は神に等しい」というフィクションなのである。
 ハイエクが強力に拒否するのはこうした「理性」のフィクションであると見ることができる。つまり、プラトン的賢人支配から、政府の計画、政府の「見える手」による介入、ケインズのようなエリートないしは「賢人」による経済のマクロ的コントロールにいたるまで、合理的な知識によって経済や社会をコントロールすることができるという仮定、そのための合理的な法体系や制度を設計することができるという仮定、これらは国家を理性そのもののように思いこむフィクションにほかならない。
 ハイエクがもっとも力を入れて反対してきたのは、このような「迷信」であり、ケインズも社会主義者も、ハイエクによれば、この「迷信」の代表的な信徒だったということになる。
 ところで、自生的に確立した原則や慣習的なルールだけで今日の市場のゲームがうまく行われるだろうか。理性の力で最適なルールを制定することができるかのように考えるのはハイエクの立場ではない。その点ではハイエクは正しいが、しかし、必要なら何らかのルールを制定し、試行錯誤を通じて改正していくほかないであろう。 できの悪い民主主義という方法によってでもそうしないわけにはいかない。長い目で見れば、そのような試行錯誤の仮定もまた、何らかの秩序が「自然に」形成されていく過程ではないか。
 たとえば、関係者が談合して利益を分配したり、価格を吊り上げたりする慣習は、それこそ「自然に」できあがってきた秩序で、それなりの合理性をもっているかもしれないが、これを「よくない」慣習と見て別のルールで置き換えることは、「自然に」任せておいたのではできない。 談合も接待も天下りも自然に確立した日本的慣行であり、伝統であり、文化でもあるから守らなければならない、という立場をとる人は保守主義者である。ハイエクは保守主義者ではなく、このようなケースでは、ラディカルな伝統破壊論者となる。
 なぜか。談合のような日本的秩序になぜ反対しなければならないのか。これを理解することはかなりの難度の経済倫理学の「演習問題」となる。答えはこうである。談合は、関係者同士の利益のやりとりや分配をうまく行う工夫であるが、外部の一般の人々に不利益を与え(たとえば公共事業の高い入札価格は納税者に損失を与える)、自由な競争という市場のゲームの基本原則を破壊することになる。 それは日本の文化であるかもしれないが、文化には手をつけず、つねに与件として尊重しなければならない、というのが保守主義だとすれば、それはただの思考停止症候群にすぎない。
 一見合理的で、関係者に利益をもたらす、こうした「自生的秩序」や伝統を排除するためには、それを禁止し、罰則を用意した人為的なルールが必要となる。ハイエクもおそらくこのことは賛成するであろう。 (『経済思想の巨人たち』から)
 著者竹内靖雄の考えは、「自生的秩序と言っても、レッセフェール(laissez-faire)とか無秩序が良いというのではない。商法・独禁法またそれらを執行する関連法が必要だ」ということだろう。つまり、「市場での自由な競争を保証するルールは必要だ」と言える。例えば、ロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で言うところの「最小国家」、怖いお兄さんたちが最小国家▲をつくると、これを取り締まる法律と権力がない。 自由に最小国家をつくるためには、それを邪魔する者を規制するルールと権力が必要になる。これと同じように、自生的秩序を保証するためには、ルールと権力も必要であることに注目。
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<主な参考文献・引用文献>
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
世界六大宗教の盛衰と謎 一神教から多神教復活の時代へ        大澤正道 日本文芸社     1993. 7.20
経済思想の巨人たち                         竹内靖雄 新潮社       1997. 2.25
( 2005年9月12日 TANAKA1942b )
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(40)江戸時代の旅を総括する
欧州にはない平和な近世
旅シリーズも今回が今回が最後です。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、話題がダッチ・ロールを続けたこのシリーズ、これぞTANAKA流「視野狭窄にならない思考法」の奥義。 士農工商というはっきりした身分制度があった封建時代、一握りの特権階級である武士によって押さえつけられていた庶民、しかし、そのような見方とはまるで違った面があった。「江戸時代の庶民は虐げられた階級であったのか?」に答えるには、視野狭窄にならないために多くの面から見なければならない。 ということで、最後は「旅や娯楽の精神安定効果」と「旅と平和の相乗効果」について少し引用して、参考文献・引用文献をあげておきます。
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<旅は経済効果と精神安定効果が大きい>  泰平の世として知られる江戸時代は、観光旅行が庶民にも身近になった最初の時代でる。お伊勢参りなどは、年間で100万人前後にも及んだと推定されている。 元禄3(1690)年から2年間、長崎出島のオランダ商館に滞在し、江戸も2度訪れたことがあるドイツ人医師ケンペルも、日本人が非常によく旅行していることに、たいへん驚いている(『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫、1977年)。
 従来、江戸時代の観光地と言うと、地方の名所旧跡がイメージされることが多い。そのため、江戸の町が観光都市として取り上げられることはあまりない。しかし、江戸は日本最大の観光都市(市場)として、特に地方の人々にとり、憧れの観光地であった。
 この時代、観光地の代表格と言えば神社仏閣である。そこは本来、人々が日常生活での悩みや苦しみから逃れるために訪れ、神仏に祈る場所なのだが、それだけではなかった。様々な娯楽に興じ、ストレスを発散させることも、悩みや苦しみを和らげる手段であることは、今も昔もそう大差はないはずだが、当時から、寺社はそうした娯楽のための使節を備えている場合が多く、行楽地としての性格も兼ねていた。 元来、寺社とは懐がたいへん深い施設なのであり、その特性を生かし、江戸観光文化の発信地として活発に機能するようになった。
 こうして、江戸の寺社は観光地の代表格となった。とりわけ縁日や普段は見られない秘仏・秘宝の開帳の時には、江戸や近郊から観光客が押し寄せ、寺社のみならず、その周辺もたいへんな活況を呈した。それに目を付け、全国各地から名立たる寺社が江戸に出張し、その秘仏・秘宝などを公開するようになった。 江戸に居ながらにして、地方の有名寺社の神仏を拝観できるため、期間中は多くの江戸市民が観光(参拝)に訪れている。
 お賽銭はもちろん、お守りやお札の購入など、観光客による多彩な消費行動は、寺社に多大な収益をもたらした。そのため、江戸という巨大な観光市場では、江戸の寺社のみならず、全国の寺社も参入して、観光客の熾烈な獲得合戦が繰り広げられた。その結果、当の寺社だけでなく、周辺にも莫大な経済効果を生みだし、江戸の消費経済を活性化させていった。(中略)
 江戸の観光市場に登場する人物は、たいへんバラエティに富んでいる。上は八代将軍徳川吉宗から、諸大名のお歴々。五代将軍綱吉の生母桂昌院をはじめ、江戸城大奥のセレブな女性たちや、諸大名の奥方。国元から単身赴任で江戸にやってきた大名家の勤番武士。また、「成田屋」こと人気歌舞伎役者市川團十郎から、コマ廻しの大道芸人松井源水まで、その演じる芸は観光客を楽しませ、観光地の賑わいを増した。
 観光市場が生みだす膨大な需要を目指して、商人も次々と参入してくる。一口に商人と言っても、観光客目当てに店を構える商人もいれば、観光地で自分の店をPRしたい商人もいる。笠森お仙、いちょう娘のお藤など、人気観光地からは、江戸市民に大人気のアイドルも生まれた。 主役は江戸100万の市民であるが、江戸観光を謳歌していた点では、男女の差はなかった。芝居見物など、むしろ女性が江戸観光市場を牽引している場面も随所に見られた。幕末には日本人だけでなく、欧米人も江戸の観光名所を訪れ、日本の文化を堪能している。
 その舞台は、将軍の住む江戸城。庶民は入れないはずの大名屋敷。神仏のデパート・浅草寺。江戸出開帳のメッカ・回向院。大相撲とも縁の深い深川の富岡八幡宮。江戸総鎮守の神田明神。赤穂浪士が眠る泉岳寺。江戸の寺社だけではない。関東地方の初詣の定番・成田山新勝寺、牛に牽かれて善光寺。金比羅参りの金比羅社、安産の神様・水天宮など名立たる寺社の数々。そのほか、江戸のウォーターフロント隅田川、桜の名所・飛鳥山。 さらに、両国・吉原を筆頭として、各所に広がる盛り場。團十郎演じる歌舞伎の舞台も、江戸観光の大舞台であった。
 そこで人々は、水と緑あふれる自然景観に心を癒され、霊験あらたかな神仏を拝んで信仰心が満たされた。さらにはキテレツな見世物、曲芸、講談、芝居など、あらゆる芸能を楽しむことができた。グルメやショッピングも楽しめた。華やかな江戸文化に出会える、日本で最もトレンディな場所であった。
 しかし、その裏では、多くの観光客を集めるために、現代のマーケティングも顔負けの営業戦略、まさに江戸の観光戦略が熾烈に展開されていた。相乗効果に期待した便乗商法も花盛りであり、大名までもが、柳の下のドジョウを狙って、江戸観光市場に新規参入している。 将軍吉宗も、新たな観光地を江戸に造り出し、トップセールスに乗り出している。派手なパフォーマンス、あるいは出版メディアや歌舞伎の舞台など、様々な宣伝広告媒体を駆使した活発なプロモーション活動が展開されていた。
 現在日本各地で展開されている観光地のサバイバル合戦とは、すでに江戸で展開されていたものに他ならなかった。観光という切り口で100万都市江戸を眺めることで、これなで知られていなかった江戸の世界に触れることができる。観光都市江戸が誕生し、大きく成長していく秘密も見えてくるだろう。
 以下、江戸を舞台に繰り広げられた観光客の獲得合戦を通して、江戸観光の泣き笑いを見ていこう。 (『観光都市江戸の誕生』から)
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<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動> この旅シリーズ「(37)旅の普及を支えた経済制度」で
 「旅の普及に伴って多くの経済制度も発達した。それは旅の普及によって発達したものもあるし、またその発達によって庶民の旅が普及した面もあった。そうした「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」などを扱ってみた。旅の普及は各地の総需要を増大させたし、また経済システムの発展にも大きな影響を与えたと考えられる」 このように書いた。
 同じことは、「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」だけではなく、「平和」ということについても言えると思う。江戸時代島原の乱を除けば大きな騒動はなかった。それは当時のヨーロッパと比べればハッキリする。人によっては「幕府の締めつけが強かったから、幕藩体制への批判も、反乱も起こせなかった」と言いたいかも知れないが、TANAKAは違う風に考える。平和だったから、伊達くらべや大江戸美少女噂話を楽しんだりの、衣装贅沢が行われ、庶民の旅が盛んに行われた。 そして、そのことがストレス解消、鬱憤晴らしになり、幕藩体制批判に向かなかった、とも考えられる。現代においてインターネットがストレス解消に役立っているように、江戸時代には趣味の贅沢がストレス解消に役立っていたのだと思う。 これについては縄暖簾の経済学▲を参照のこと。 ちなみに当時ヨーロッパではどうであったか、と言うと、各地で争い事が起きていた。
 これについては<百姓一揆は命がけの暴動なのか?>▲と<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動>で日本とヨーロッパの違いについて書いた。そこからの文をここで引用してみよう。
 1780(安永9)年6月ロンドンで大規模な騒乱事件が起こる。1778年カトリック教徒の身分上の差別がはじめて一部撤廃されたことに対して、ジョージ・ゴードン卿(1751-1793)の率いるプロテスタント教会が反対運動を起こし、1780年6月2日同協会の呼びかけによる請願行進が行われ、5万とも6万ともいわれる人々が議事堂を取り巻いたが、そのうちの一部が暴徒化し大規模な暴動事件を引き起こした。カトリック教会・政治家宅・銀行などが攻撃目標になり、監獄も襲われ、2000人近くの囚人が解放された。事件発生1週間後に鎮圧され、死者は285人、逮捕者は458人だった。
 1789年7月14日フランスでは民衆のバスティーユ襲撃事件が起き、これがフランス大革命の発端になった。以後フランスでは血で血を洗う革命劇が続く。ナポレオンが出て国内がまとまると、今度は周辺国へと戦火は広まる。フランスでは1814年ナポレオンの失脚により第一次帝政が崩壊して以来1世紀の間に、王政復古(1814-1831)、七月王政(1830-1848)、第二共和制(1848-1852)、第二帝政(1852-1870)、第三共和制(1870-1914)とめまぐるしくその政治体制を変えた。しかもその転換点には常に、七月革命(1830)、二月革命(1848)、六月蜂起(1848)、普仏戦争(1870-1871)の敗戦とパリ・コミューン(1871)という、劇的な事件が介在している。 ロシアでは1876年ナロードニキと名乗る革命結社が結成される。以後農村での革命運動が続き、1879年にはヴェーラ・ザスリッチなどによる皇帝狙撃事件も起き、以後弾圧と抵抗運動が続き、ロシア革命へと暗い時代がすすむ。
 これらに比べて「日本の百姓一揆は無責任な子供たちの散発的な癇癪のようなもの」にすぎないのかもしれない。
 江戸時代に庶民の旅がこれほどまでに盛んだったのは日本が平和だったからであり、「庶民の旅がこれほど盛んだったために反体制運動も起きずに、日本は平和であり続けた」と言っても良いと思う。
<経済活動を刺激し、情報流通量を多くし、民主制度の下地を作り、ストレス解消により平和な社会を作った「旅」>
 折角これだけの量の文章を書いたのだから、この程度の表現を使っても許されるでしょう。ではそのうちどれが一番重要か?となると、判断できない。どれもそれなりに重要だし、調べ始めれば、興味は尽きず、好奇心を充分満足させることになるだろう。と言う「余韻」を残してこの「旅」シリーズを終えることにします。
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<主な参考文献・引用文献> 「趣味と贅沢と市場経済」の”旅シリーズ”で参考にした文献を列挙しました。乱読につき順不同です。
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
国史大系39 徳川実記第2篇                   黒板勝美編 吉川弘文館     1964.10.31
参勤交代                              山本博文 講談社現代新書   1998. 3.20 
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
旅の民俗と歴史1 日本の宿                     宮本常一 八坂書房      1987. 4.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
旅の民俗と歴史2 大名の旅                     宮本常一 八坂書房      1987. 6.30
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女                 金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
東海道中膝栗毛(上)                十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店      2002. 8.20
東海道中膝栗毛 現代語訳           十返舎一九 伊馬春部・小谷恒訳 桜楓社       1976. 5.10
東海道中膝栗毛 現代訳                     平野日出雄訳 静岡出版      1994.12. 5
十返舎一九の江戸見物                        鶴岡節雄 千秋社       1982. 1.15
十返舎一九の甲州道中記                       鶴岡節雄 千秋社       1981. 7.10
十返舎一九の房総道中記                       鶴岡節雄 千秋社       1979. 3.10
十返舎一九の板東・秩父埼玉道中記                  鶴岡節雄 千秋社       1979. 3. 1
東海道名所記・東海道分間絵図  浅井了意・遠近道印作菱川師宣画 冨士昭雄校訂 国書刊行会     2002. 5.31
江戸温泉紀行                           板坂耀子編 平凡社       1987. 8.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
旅と民俗の歴史 1 日本の宿                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 4.30 
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19 
関所抜け 江戸の女たちの冒険                    金森敦子 晶文社       2001. 8.10 
街道の日本史 30 東海道と伊勢湾             本多隆成・酒井一 吉川弘文館     2004. 1.20 
旅と民俗の歴史 4 庶民の旅                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 8.31 
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸の旅人                            高橋千劒破 時事通信社     2002. 5. 1
図説江戸6 江戸の旅と交通                     竹内誠監 学習研究社     2003. 9.12
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
「おかげまいり」と「ええじゃないか」                藤谷俊雄 岩波新書      1968. 5.20
江戸庶民の旅                            金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
ええじゃないか               渡辺和敏・愛知大学綜合郷土研究所 あるむ       2001. 3.31
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の助け合い                 芳賀登・光田憲男・谷田部隆博 つくばね舎     2004. 1.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20 
江戸の生活と経済                          宮林義信 三一書房      1998. 8.31
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10 
尾張藩江戸下屋敷の謎 虚構の町をもつ大名庭園            小寺武久 中公新書      1989.12.20
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
江戸はネットワーク                         田中優子 平凡社       1993. 2.25 
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5 
世界六大宗教の盛衰と謎 一神教から多神教復活の時代へ        大澤正道 日本文芸社     1993. 7.20
現代日本の市場主義と設計主義                     小谷清 日本評論社     2004. 5.20
貧農史観を見直す                    佐藤常雄・大石慎三郎 講談社       1995. 8.20
経済思想の巨人たち                         竹内靖雄 新潮社       1997. 2.25
近世の村と生活文化 村落から生まれた智恵と報徳仕法          大藤修 吉川弘文館     2001. 2.20
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
江戸参府旅行日記                     ケンペル 斉藤信訳 平凡社東洋文庫   1997. 2.25
( 2005年9月19日 TANAKA1942b )