コメ自由化への試案 
フェアトレードは 最貧国の自立を支援するか?


 コメ自由化への試案 フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?  アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill   30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?



コメ自由化への試案
フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(1) ココア豆から民芸品まで ( 2003年3月31日)
フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(2) 日本のODAは間違っていない ( 2002年4月7日 )
フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(3) 自助努力と過剰補償能力 ( 2003年4月14日 )
フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(4) 最大の支援は「コメ自由化」 ( 2003年4月21日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)
コメ自由化への試案 Index

フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(1)
ココア豆から民芸品まで
<カカオの安定取引> 前回に続き今週もテレビ番組にヒントを得たテーマを扱う。ヨーロッパでフェアトレードのチョコレートが話題になっている。チョコレートの原料、カカオ豆はコートジボアール(象牙海岸)、ガーナ、インドネシアが主要生産国。他の農産物と同じように気候や政治状況などの影響で生産量・価格が乱高下して生産者の収入が不安定。そこでヨーロッパのチョコレート・メーカーは生産者と協定を結び、市場価格の変動に関係なく前もって取引価格を決めておく。カカオ豆の市場価格が下がっても、市場価格より高い値段でカカオ豆を買う。このためフェアトレードのチョコレートはそれ以外の物より高い。消費者はそれを承知で買う。「フェアトレードのチョコレートを買う事によって、カカオ豆生産者の所得安定に貢献する」との考えで消費者は高いチョコレートを買う。
 番組ではチョコレートを買う女性へのインタビューを放映していた。その扱い方などの感じが一種の市民運動のように思えた。地産地消、地域通貨などと同じ様な感じだった。
 カカオ豆最大の輸出国コートジボアール(象牙海岸共和国)の輸出量は106万トン。ガーナは輸出量29万トン。日本の2001年の輸入量は約5万トン。ガーナからの約3万7千トンがトップ。別の資料による生産量はコートジボアールが120万トン、ガーナが35.5万トン。ヨーロッパの輸入量はドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・オーストリア・デンマークの7ヶ国で計81万トン。
<日本での取組> ネットで調べてみると日本でもフェアトレードの取組があるようだ。そのポイントは発展途上国から農産物、手工芸品などを輸入し、それを先進国の消費者が適正な価格で買うことによって、発展途上国を支援しようとの趣旨と考えられる。発展途上国側からの主張としては「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」となる。これは前回「農業は産業なのか?公共事業なのか?」でLDCの勇気ある指導者の発言として書いたものと同じ趣旨だ。
 国際フェアトレード組織連盟(IFAT: International Federation for Alternative Trade)のHPからその基準を引用しよう。
「フェアトレード」とは、国際的な貿易をより平等にするために行われる、対話と透明性、敬意に基づく貿易のパートナーシップである。特に「南」の弱い立場にある生産者や労働者の権利を保障し、よりよい条件で取引することで、持続可能な開発を支える。「フェアトレード組織」は、消費者の支援を受け、生産者の支援や意識啓発、従来の国際貿易の規則や慣習を変革するための活動に積極的に取り組んでいる。 IFATの加盟組織は、お互いの活動を評価し合うために、以下の基準を設定している。
 その中の一例、コーヒー・紅茶の取引基準は次の通り。
 コーヒーの取引は、国際市場価格に関わらず、最低買い入れ価格の保証、1ポンド/454gあたり126USセント●最高60%までの前払い●長期的売買関係。
 紅茶に関しては●1キロあたり約110円の奨励金●別会計で支払われた奨励金は、経営者と労働者の代表の管理委員会で使途を決定。が決められている。
 フェアトレードをどのように説明するか?いろいろなHPを見て適切な表現があったので引用しよう。
 寄付というお金だけの援助では、どうしても上下関係ができてしまいます。 お金だけを頼りに生活していると、もしお金がもらえなくなったら生活できなくなってしまいます。 第三世界の人達に対して依存心を持たせてしまう温床にもなりかねません。 第三世界の人達は交易で得たお金で、食べ物はもちろん子どもを学校に通わせることができるようになります。 また農作物の安定した収穫を促す灌漑施設を整える事が可能になるのです。 その国にしかない特産物、伝統工芸を生かした誰にでも喜ばれる”定番の商品”を作り出すお手伝いをし、自らのやる気で生産者として自立できるように後押しをさしあげるお手伝いをするのが、フェアトレードです。
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<輸入障害> フェアトレードを進める上での環境は「自由貿易」が保証されることだ。LDCからの農産物に高い関税がかけられたり、日本のコメのように輸入制限があったり、あるいは「農業は産業なのか?公共事業なのか?」で見てきたように、先進国が豊富な税金で生産者を保護すればLDCは価格競争で勝てない。特に先進国は農業補助をなくしLDCと対等な競争が出来る環境を作らないと、フェアトレードは伸びにくい。このように考えると、自由貿易が発展途上国の発展に必要条件だと分かる。「自由貿易こそ諸国民を豊かにする」が理解できる。ヨーロッパなどのごく一部の市民運動で「自由貿易は先進国だけを豊かにする」が間違っていることが分かる。嫌アメリカ感情が嫌自由貿易に変わる、非理性的な市民運動だということが分かる。
<目に見える援助・見えない援助> 発展途上国への援助で「目に見える援助」との表現がある。食糧・衣料品など直接そこの国民の手許に届く物の援助だ。それに比べて経済成長の基盤整備=道路・発電・学校などに投資するのは目に見えにくい。このため日本人でも「目に見える援助をすべきだ」との主張もあるようだが、これは 「第三世界の人達に対して依存心を持たせてしまう温床にもなりかねません」が適切な答えになっている。フェアトレードはこの点で従来の市民運動になかった視野の広い、視野狭窄になっていない市民運動と言える。
<「地産地消」はどうか?>ネットから「地産地消」「身土不二」の説明を探してみた。
 ●「地産地消」とは、「地元生産−地元消費」を略した言葉で、「地元で生産されたものを地元で消費する」という意味で特に農林水産業の分野で使われています。「地産地消」は、消費者の食に対する安全・安心志向の高まりを背景に、消費者と生産者の相互理解を深める取組みとして期待されています。
 ●「地産地消」とは「地場生産地場消費」を略した言葉で、「地域でとれた生産物をその地域で消費すること」を言います。これは中国に伝わる「身体と土は1つであるとし、身近なところ(三里四方、四里四方)で育った物を食べ、生活するのがいい」という「身土不二」と同じ意味の言葉です。
 ●身土不二とは、「人と土は一体である」「人の命と健康は食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる。故に、人の命と健康はその土と共にある。」という捉え方です。
 多くの自治体が「地産地消」「身土不二」を推進している。東南アジア、南米、アフリカの農産物には目が向かない。そこの百姓がどのような生活をしているのか?それよりも地元に目が向く。他府県にも目が向かない。EUがLLDCに目が向かないのと同じ感覚だ。目に見える援助に注目し、目に見えにくいインフラ整備の大切さに目が向かない。こうした運動に対してフェアトレードは健全な運動のようだ。
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<カカオ豆の安定取引> カカオ豆の安定取引とは、「市場価格が乱高下しても前もって決めた価格で取引しましょう」との取り決めだ。ということは「先物取引」に他ならない。ところでチョコレートのフェアトレード、ヨーロッパでの話、テレビで報道していたのは今年2003年2月のことだった。ココア豆のフェアトレードとは市場価格が下がっても約束した価格で先進国のチョコレート・メーカーが買い取る、との取引だ。ではこの時期ココア豆の価格は下がっていたのだろうか?ネットで検索すると次の情報が入手できた。
 カカオ豆の国際相場が乱高下しています。世界生産の40%を占めるアフリカ・コートジボワールの政情不安を受けたもので、ニューヨーク市場やロンドン市場では2002年10月14日に、一時約17年ぶりの高値まで急騰しました。その後は政府側と反政府勢力との停戦合意の報で反落していますが、合意の実効性をめぐる不透明感や輸出実行に対する懸念もあって大きな値動きを繰り返しています。

 この情報によると10月にはカカオ豆の価格は高かった。今年の2月に放送されたテレビ番組、このチョコレートの材料であるココア豆の仕入時期はいつだったのだろう。少なくとも上記の情報による、ココア豆の価格高騰の影響のある時期だったに違いない。従ってこの時期にココア豆のフェアトレードには少し説明が必要だったはずだ。番組制作者はそこまで調べて放送できれば、と思うがそれは無理な注文なのかな?
 さらにココア豆についてネットで検索すると次のような商品市場関係者の発言が目に入った。
 ただチョコレート好きにとってココアの急騰はさして脅威にはならない。チョコレートの値段はココアよりミルクと砂糖の価格に左右されるからだ。大手チョコレートメーカーは仮にココアがさらに値上がりすれば、値上げするより、より小さな板チョコに切り替えるはずだ。そうすることによってあなたの健康にも役立つだろう。
 この文から読みとれるのは、カカオ豆の輸入価格が変動してもチョコレート製品の価格には影響ない、フェアトレードで他社よりも高くカカオ豆を仕入れても製品価格には影響ない、とのことだ。そうならばヨーロッパで「フェアトレードで高くなったチョコレートを買った。これはコートジボアールやガーナのココア豆生産者を援助したことになる」とのインタビューに答えた市民の満足感はなんだったのだろう。番組制作者はそうしたチョコレート製品の価格メカニズムまでは考えていない。 「農業は産業なのか?公共事業なのか?」でNHKのEUの報道で、フランスのCTE(経営に関する国土契約)がCADに変わることには気づかずに報道していた。こうしたネタのテレビ番組製作では適当に手抜きが出来るのだろう。あるいは新人の習作なのかも知れない。
( 2003年3月31日 TANAKA1942b )
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フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(2)
日本のODAは間違っていない
<援助に対する考え方いろいろ> 発展途上国への援助はどうあるべきか、その考えはいろいろある。幾つか紹介しよう。先ずフェアトレードの考え方。 第三世界の人達に対して依存心を持たせてしまう温床にならないように、自らのやる気で生産者として自立できるように後押しをさしあげるお手伝いをするのが、フェアトレードです。
 同じ様なことをこういう表現もある。
飢えた者に一匹の魚を与えるよりも、魚を釣る方法を教えるほうがずっと効果的で価値があるのではないかな。飢えに苦しむ国の人々が、いつまでも他国の援助を求めず、自力で増産に取り組めるようになることが肝心だ。そのお手伝いをすることを、われわれの目的にすべきではないだろうか。(「よみがえれアフリカの大地」山本栄一著 ダイヤモンド社 1997.4.17 から笹川良一の言葉)。
 元ルワンダ中央銀行総裁・元世界銀行副総裁、故服部正也氏はその著「援助する国される国」で次のように指摘している。
 ある雑誌に曾野綾子氏のエチオピア飢饉の実情に関する感想が紹介されていたことがあるが、その中で曾野氏は「分からないことが多い」と当惑を述べていらした。
 たとえば、そばに牛がいるのに「飢えて」いる人達はそれを奪って食べようとしない。また信じ難いほど保守的な食事の習慣が残っていることも例に挙げられていた。これはおそらく救援物資の配給を待つほうが楽だからであろう。 救援物資が配給されるという期待がある限りこれを待つのが合理的行動だからである。アフリカ人も人間として環境に応じて合理的に行動するのであってそれを理解することが彼らを人間として認める第一歩なのである。
 そばにいる牛を奪って食べることは自分の行動を起こすという意味で自助努力の一形態であるが、援助物資の安易な供給で自助努力の必要がなくなっているのである。また保守的な食習慣に固執する贅沢を可能にしているのも援助の期待があるからであろう。これらの報告は「援助」問題に関する根本的な考え方の見直しを求めているものといえよう。
 度を超えた慈善は悪である。したがって慈善を施す場合、曾野氏の言葉を借りると「真心とか温かい心とかは案外困りもので、むしろ冷静な計算が必要」なのである。安直なセンチメンタリズムは豊かな国の人の思い上がりに過ぎず、人間の尊厳の軽視なのである。小遣いを千円出したら人が救えるなどと子供に思い込ませることは、この思い上がりを次の世代まで伝えるという意味で曾野氏の言われるように「真に怖いこと」なのである。(中略)
 経済援助が必要なら、問題の原因を除くため、それに続く経済援助を強化することを考えなければならない。その経済援助はまずその国の自助努力を支援するという立場で行われなければならない。現在豊かな国はその国の自立心、自助努力によって豊かになったのである、これをアフリカ諸国に期待することがこれら諸国を対等に遇する基本である。
(「援助する国 される国」服部正也著 中央公論新社 2001.1.30 から)
 「汗水流して働くよりも、社会保障や人々の善意や博愛心に頼った方が楽だ、と考える人が多くなる福祉国家」 「汗水流して経済を成長させるよりも、豊かな国の豊かな人の善意や、ジュビリー2000の主張するように重債務最貧国(HIPCs=Heavily Indebted Poorest Countries)の債務を帳消しに、とのキャンペーンに頼った方が楽だ、と考えるようになる」「第三世界の人たちに対して依存心を持たせてしまう温床になっているのです」
<ODA(Official Development Assistance=政府開発援助)をめぐる賛否両論> 発展途上国への援助を考え、識者の考えを紹介してきた。これらの考えに共通なキーワードは「自助努力」であり、日本のODAは「基本的に正しい」となるのだが、これと違った主張もある。そこで両者の主張を対比させてみよう。
 1994年11月9日、参議院国際問題調査会(沢田一精会長)の会議が開かれ、大木浩、上田耕一郎、木庭健太郎ら19人の理事・委員のほか、参考人として松井謙(東京国際大学)、鷲見一夫(新潟大学)両教授が出席した。ここではこれまでの日本のODA論争を集約するような論議が展開された。 「日本のODAのあり方は70〜80点」と合格点をつける松井氏と、「受益者の不透明な日本のODAはやめるべきだ」とする鷲見氏とのあいだで、見解は真っ二つに分かれた。両極端の意見を掲げる両教授と議員たちとのあいだで質疑応答が行われた。
 「プロジェクトの審査、資材・機材調達の入札問題、実施後の状況評価、この3つのステップをクリーンにしたうえで充実させる必要がある」とODAの必要性と存続を訴える松井氏に対し、鷲見氏は「途上国の底辺層の人々の生活を圧迫している世銀のやり方には”エコノミック・ジェノサイト(経済的殺戮)”という非難もある。日本はその加担者で、途上国の一部特権者と、これに結びつく日本企業を潤しているだけ。ODAはわが国の納税者に対する裏切り行為。巨額な資金を投じて無用なダムを建造し、多くの住民を強制移転させるなど、現行ODAは百害あって一利なしである」と力説する。
 現地の環境と先住民の権利をどう保全するかという問題については、「基本的には国際協力事業団(JICA)や海外経済協力基金(OECF)に環境・人権保護のためのガイドラインがあり、これを完全実施することで守ることができる」(松井氏)という意見と、「現地のことは現地人が一番よく知っている。若い研究者や現地人も加わり、直接、現地先住民のニーズを反映する新しい機関を設置すべきである」(鷲見氏)という意見で、両者は一致できない。
 世界銀行についての見解は、「世銀は世界の開発金融機関としてパイロット的な役目を果たしてきた。日本の東名高速道路も新幹線も世銀借款で誕生したもので、今後も多大な貢献をするだろう。日本もむしろ世銀への出資金、拠出金を増やし、その資金力をバックに発言力を強化すべきではないか」と述べる松井氏に対し、鷲見氏は「世銀に批判的な世界のNGOのフォーラムでは、世銀およびIMFの解体論まで飛び出している。それぞれのNGOは各国の議会に働きかけて、世銀とIMFへの資金拠出を止めさせようとしている。援助対象地の現状も知らず、知識もない世銀のスタッフに、本来あるべき援助などできるはずがない」と述べている。
 具体的に今後の日本のODAをめぐる施策についても、「社会の高齢化、円高による産業空洞化なでで、25年先には日本のトップドナーの地位はどうなるか。こうした時の負担の問題もからめ、国際貢献税などの創設、新設の財源の確保など積極的に検討すべきだはないか」とする松井氏と、「新しいODA基本法をつくって理念を明確にし、円借款は止める。無償主義にし、現地の人たちのニーズを基本に、その主体性と自主性を育て、貧困層を対象に援助のターゲットを絞る。援助のすべてを透明に公開する専門の機関を施設すべきである」とする鷲見氏のあいだで、意見はなかなかかみ合わない。
 両氏も認めているが、このように議論はまったく水と油である。どちらの説に分があるか、ここで判定を下すつもりはないし、読者のあいだでも見解は分かれるのではないかと思う。両氏の見解に典型的に見られるような対立は、ODAが抱える問題の難しさを物語っている。
(「よみがえれアフリカの大地」山本栄一著 ダイヤモンド社 1997.4.17から)
<ODAとは?=外務省のHPから> 外務省のHPからODAについての部分を引用しよう。
 ODAとは? Official Development Assistance(政府開発援助)の頭文字を取って略したものです。政府ないし、政府の実施機関によって供与されるもので、開発途上国の経済開発や福祉の向上に役立つことを主な目標としています。また、資金協力の場合、その供与条件が途上国にとって足かせとなるような重い負担とならないもの(グラント・エレメントが25%以上のもの)を指します。
*グラント・エレメント(GE:Grant Element) 援助条件(金利や返済条件)の緩やかさを計る指標となるもの。条件が緩やかになるほどGEの割合は高くなり、贈与の場合は100%となる。
<日本の援助理念は明確である> ODA批判の中に「日本のODAは理念がない」があるだろう。しかしTANAKA1942bに言わせてもらえば「理念がないのではなくて、それを知らないか、あるいは知っていても気に入らないかだ」と主張することになる。その根拠として草野厚教授に登場してもらいましょう。国民はメディアに操作されるか? 草野厚教授への異論 (2001年5月28日)では批判した草野厚先生、しかし先生にはその著書から多くのことを学ばせてもらいました。感謝しています。
 高まりつつある援助批判のもう1つの大きな流れは、日本の援助には理念がなく、無定見に大量の援助をばらまいているだけであり、そのために高い効果を期待できず、それゆえにまた受入れ国との友好関係を築くこともできない、というものである。援助の理念をどう設定するか、これも日本の援助史とともに古いテーマである。もっとも、日本経済のさしせまった課題が輸出の促進にあり、資源の確保にあった時代においては、援助がそうした課題になにがしかの貢献をなし、少なくとも援助は「得にならないまでも損にはなっていない」といった感じが底流にあったためであろう。援助の理念がそれほど表だって議論されることはなかった。しかし、日本の援助額が世界最大になり、それにともない最貧国や債務累積国への援助量も増加せざるをえず、さらにポスト冷戦期のロシア、東欧への支援や湾岸戦争後の中東支援までも求められる時代にいたって、みずからの援助行動を説明する理念が求められるようになってきたのであろう。 日本の援助が、国際社会で生起する多様にして複雑な課題に対処しなければならない時代に踏み込んで、なお理念が不安定では「身のおきどころがない」といった感覚が生まれてきたのにちがいない。無理からぬことではある。
 とはいえ、衆知を集めて「理念」を設定し、これを声高に主張することがいいとは私には思われない。理念は、日本の援助の具体的な展開のなかにおのずとあらわれる、というものでなければならないと思う。そう考えて日本の援助のこし方をみすえれば、確たる理念が存在してきたことがわかる。当たり前の話である。自国と開発途上国との長期的関係を見通して、みずからのもてる援助資源を最大限有効に用いようと長年努力を続けてきたのであれば、そこになんらかの理念を潜ませてこなかったはずはないではないか。アメリカやフランスの援助理念が明確であるのと同様、日本のそれも明確なのである。そしておいおい説明するように、これまで受け継がれてきたその理念の基本は、将来にわたって保持されねばならない、というのが私の考え方である。
 とにかく政府文書というのは、無味乾燥で、どうとでもとれる曖昧さをもってその特徴としているが、外務省経済協力局の編になる「我が国の政府開発援助」(1990年版、上巻)は、日本の援助理念について、めずらしくもずいぶんとはっきりものを言っている。「我が国は、援助に当たって途上国の自助努力を支援することを重視し、援助の内容においても、我が国自身の考え方を押しつけるのではなく、先方の要請をベースに我が国が取捨選択するという対応を基本とするとともに、原則として、援助に政治的な条件をつけることを内政不干渉の見地より差し控えてきた。このように我が国のいき方は、米国が自ら普遍的価値として唱導する自由と民主主義の普及を援助実施の1つの柱としたり、またフランスが仏語・仏文化の普及を援助実施の1つの柱としたりしているのとは相当異なっている。我が国は、援助に際し、政治的な価値や経済開発についての我が国の考え方の押しつけはこれを極力排しつつ、専ら開発のためには何が良いのかを相手国の要請を踏まえた話合いを通じて、考えてきたわけである」
 ここでのキーワードは「要請」主義であるが、これについて同書はつぎのような、これも明晰な考え方を披瀝している。
 「開発は、途上国の経済・社会・文化さらには政治に直接関わる変革のプロセスであり、途上国自身が主体的な責任を負うべきものである。また、途上国の国内において行われる開発案件は、その実施のために途上国の自主的な努力が不可欠である。我が国の援助は、円借款案件であれ、無償資金協力案件であれ、我が国が丸抱えするのではなく、途上国も案件実施のために必要な現地通貨、土地手当等を負担するといった自助努力を行うことを前提として、いわば共同事業として行っているのであって、途上国が積極的に案件の価値を認めない場合には、これを実施できないし、実施すべきだはない」
 この理念はたしかに日本のこれまでの援助の実態に根ざしたものであり、必要とされるべき理念は、これ以上でもこれ以下でもないと私は考える。要するに日本の援助の理念は、開発途上国の「自助努力」を、政治的な条件(「コンディショナリー」)をつけることなく、受入国の要請にもとづいて支援するというものである。明示的には書かれていないものの、 開発途上国の自助努力を引き出すには、援助の中核が返済を要する借款でなければならない。という考えがこれに付加される。 (「ODA 1兆2千億円のゆくえ」草野厚著 東洋経済新報社 1993.12.2 から)
<渡辺利夫「開発経済学入門」>無償援助ではなく有償援助であることが望ましい、との考えには反対意見もあるだろう。そこで「開発経済学」の第一人者に意見を聞いてみよう。
 ここでうたわれている「自助努力支援」ならびに「要請主義」の2つは、確かにこれまでの日本のODAにおいて実効性のある理念であった。日本のODAは、開発途上国の自助努力を、政治的な条件(コンディショナリティ)をつけることなしに開発途上国の要請にもとづいて支援することを基本としてきた。ここに書かれていないが、開発途上国の自助努力を引き出すには、元本・利子の返済を要する借款が中心となることが望ましい、という考え方が付加されよう。
 日本の借款は経済インフラの建設に向けられてきた。経済インフラとは、1国の経済活動をその基礎において支える巨大な構造物である。経済インフラは、その建設過程に多様な民間企業を招き入れることによって直接的に、完成後は民間企業活動の効率的展開を支援することによって間接的に、大きな経済効果を発生させる。
 借款であるがゆえに、元本・利子の返済が必要である。受入国はインフラ建設のもたらす経済的なベネフィットが元本・利子返済というコストを上回ると判断した場合に、日本政府に借款供与を要請する。日本政府は元本・利子返済の確実性を見通したうえで借款供与に踏み切る。受入国の自助努力がなければ借款は供与されないのであり、その意味で日本のODAは自助努力をそのコンディショナリティとしているとさえ言うことができよう。 (「開発経済学入門」渡辺利夫著 東洋経済新報社 2001.5.3 から)全く同じ事を言っています。
<債権放棄=破産宣告> ジュビリー2000の主張するように、重債務最貧国(HIPCs=Heavily Indebted Poorest Countries)の債務を帳消しにすると、民間金融機関はモラトリアム、デフォルト、不良債権化を恐れて融資しなくなる。それでも融資すれば、株主訴訟を起こされるか、もしかすると特別背任容疑で起訴されるかも知れない。そしてアマチュア歴史家は「歴史に学びなさい。松平定信の棄捐令(きえんれい)の結果がどうなったかを」と警告する。モラリストは言う「先進国に向かって重債務国の債務を帳消しにせよというのは、「重債務国に破産宣告せよ」と言うのに等しい。あまりにもHIPCsのプライドを傷つける発言だ」と。
 棄捐令(きえんれい)江戸時代、幕府や諸藩が家臣団の財政窮乏を救うため、高利貸商人の札差に一方的に命じた借金帳消し・軽減令。寛政改革の一環として1789(寛政1)年9月に発布された。(中略)松平定信ら当時の幕閣はこの改革で1784年以前の札差借財はすべて帳消し(棄捐)、89年夏までの残余は年6%の年賦返済とし、以後の新規借り入れは年利18%を12%と引き下げさした。棄捐となった札差債権は118万両余に達し、旗本らの債務は一挙に軽減されたが新規の金融を拒否され、かえって恐慌状態に陥るほどであった(平凡社 大百科事典から)。どなたか勇気ある人は日本の歴史を教えてあげてください。
( 2003年4月7日 TANAKA1942b )
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フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(3)
「自助努力」と「過剰補償能力」
<博愛主義的支援> 開発途上国への支援に関して「自助努力」をキーワードに話を進めてきた。同じ趣旨のことを少し違った方面から引用してみよう。
 博愛主義者や自由主義者(リベラリスト)は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買って出る傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の被保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということは、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金をもらっているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。労働者は自分がその労働に対して得ている以上に、社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だという感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという事態に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから1本脚で滑り続けるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。 そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえるという、子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よとか、過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示している、と言えよう。 (「マン・チャイルド」人間幼稚化の構造 ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン共著 竹内靖雄訳 竹内書房新社 1984.7.10 から)この本で生物学者の著者は「過剰補償」という言葉を使って、猿から人間への進化に関して興味深い仮説を立てている。
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<「共有地の悲劇」論の開発支援論> 「共有地の悲劇」で知られる生物学者=ガレット・ハーディンが「サバイバル・ストラテジー」(The Limits of Altruism An Ecologist's View of Survival)で言っている最貧国援助の考え方は「マンチャイルド」以上にクールだが、無視することのできない考えなので、ここに引用することした。
 共有地の悲劇を阻止すべきというなら、主権を主張する各単位──各国家──はフランクリン的責任を引き受け、その人口を国土の扶養能力に見合う水準に調整しなければならない。これはいかなる国もその必要とする原材料を自給自足する必要があるという意味ではない。工業国で、銅、クローム、ボーキサイト、石油、バナジウム等々の必要資源をことごとく自国内で調達できるような国はただ1つもない。しかし大過なくやっている国なら何かを余分に生産するであろうし、それを輸出して自国で足りないものを輸入することができる。つまりどの国も自力本願でやっていけるのである(完全に自給自足できる国は皆無に近いとしても)。一国が自立できる状態になっている場合は、その国は、国土の扶養能力の範囲内で生きていると言うことができる。こうして、人間の世界では扶養能力の概念が動物の場合とは重要な違いをもっていることがわかるであろう。
 貧しい国で何百万人もの人間が飢えている光景を見ると、同情深い人々は緊急事態のための食糧を送ろうとする気持ちになるかもしれない。しかし「緊急事態」というのは誤った呼び方で、本当は一時的な危機ではなくて恒常的な窮迫なのである。(もちろん、そのひどさ加減は時により変化する)。食糧を送る狙いは生命を救うことにある。この目標が見事に達成されればされるほど、思わぬ副作用の危険はますます大きくなる。つまりそのような援助がなければ、苦境に陥った人々に人口と扶養能力をバランスさせる行動をとらせたであろう。その行動のバネを弱めるのである。
 腹一杯食べている豊かな国民が、「貧しい国でも長期的には外からの食糧援助なしにもっとよい暮らしができるはずだ」と指摘すると、そういう忠告は「利己的だ」という非難を浴びることを免れない。なるほど利己的かもしれない。しかしわれわれはこの非難の裏を調べ、こう反問しなければならない。「食糧の援助を止めることは、長期的には貧窮者(ニーデイ)の必要(ニーズ)にもプラスになるのではないか」と。
 貧しい国が何よりも必要としているのは物質的なものではない──それを心理的、道徳的、精神的等々、どう呼ぶにせよ、である。このことを認識しないうちは、われわれは国際的な分野で碌なことはできないであろう。基本的な論点は、数年前南アメリカで明らかになった個人的はヒロイズムの物語の中にあからさまに示されている。ウルグァイのラグビー・チームを乗せた飛行機がアンデスの山中に墜落し、ほとんどの乗客が生存状態で残されたのである。聴こえるラジオを手にしてからは、彼らは来る日も来る日もチリの空軍が空から自分たちを捜索しているというニュースに耳を傾けていた。ついに、運命の日がやってきた。大破した飛行機の外でラジオを聴いていた少数のグループが「捜索は打ち切られた」というニュースを聴いたのである。チリ当局は、乗客が生きている可能性はもはやないと見なしたのであった。ウルグァイ人の大半は機体の中にいて、このニュースを聴いていなかった。「ほかの人たちにはどう言えばよいのだろうか」とラジオを聴いた一人が言った。
   「言っちゃいかん」とマルチェロが言った。「このまま希望だけはもたせておこう」
   「いや」とニコリッチが言った。「みんなに言わなくちゃ。最悪の事態を知る必要があるんだ」
   マルチェロはなおも顔をおおってすすり泣きながら、「おれには言えない。おれには」と言った。
   「おれは言うぞ」と言ってからニコリッチは飛行機の入り口の方へ戻っていった。
   ニコリッチはスーツケースとラグビー・シャツでつくった壁の穴から上がり、トンネルの入り口のところで身をかがめて、
   こちらを向いた大勢の悲壮な顔を眺めた。
   「おい、みんな」とニコリッチは叫んだ。「言い知らせがあるぞ。今ラジオで聴いたところだ。捜索は打ち切りになった」
   大勢が押し込まれたキャビンの内部では声もない。この苦境から逃れる見込みがないということがわかってくると、人々は泣いた。
   「そんなことがどうしてよい知らせなんだ」とパエスが怒ってニコリッチに食ってかかった。ニコリッチは言った。
   「どうしてかって?そうなるとおれたちは自力でここから脱出することになるだろうからさ」
 そして彼らは脱出したのである。全員ではない。だがもし彼らが悪いニュースを聴いていなかったとすれば、もし彼らがそこで坐してひたすら救援を待っていたとしたら、全員が死んでいたであろう。
 この実際にあった話は、私に言わせてもらえば、貧しい国の道徳的状況によく似ている。われわれが彼らに与えることのできる最大の贈り物は、「自力でやる」ということを知らしめることである。
 (「サバイバル・ストラテジー」ガレット・ハーディン著 竹内靖雄訳 思索社 1980.4.20 から)
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<農業は赤字産業──農業維持の社会的コスト> 日本の農業を維持するために、国民はどれだけ多くの代償を負担しているのであろうか。新聞が農業予算を、テレビがセーフガード発動などの貿易問題をとりあげるときなどに、ふとこんなことを考える人も多いだろう。長引く不況のなかで、農業に重点的に配分されている予算を、もっと生産性の高まる分野──たとえばITなど──に配分しなおす政策が議論されたりする。どうやら、国民は農業の維持に大きなコストがかかっていると認識しているらしい。
 それではいったい、どのくらい国民負担が農業に費やされているのであろうか。国民負担として代表的なものは、農業予算である。日本の農業を維持するうえで、農業予算がどれほどの役割を果たしているか、数字で確認してみよう。表は日本の農業が1年間に生み出した付加価値である農業総生産と、そこに投入された農業予算の推移を示している。参考までに日本の国内総生産と一般会計予算の数字も示しておいた。
  農業総生産と農業予算 (単位10億円)
      1970年 1980年 1990年 1995年 1998年
 @農業総生産 3,131 6,007 7,701 6,770 6,306
 A農業予算    885.1 3,108 2,518.8 3,423 3,375.6
 依存度 A/@  28%  52%  33%  51%  54%
 B国内総生産 75,299 245,547 438,816 497,739 515,835
 C一般会計予算  8,213.1  43,681.4  69,651.2  78,034  87,991.5
 依存度 C/B  11%  18%  16%  16%  17%
  出所)食糧・農業・農村白書参考統計表(平成12年)
 驚くべきことは、近年、農業予算の農業総生産に占める割合が5割近くに達しているのである。農業は大きく政府の資金、つまり政策的支出に依存しているのだ。この数字が驚くほど大きいことは、国全体の予算が国全体の付加価値に占める割合を比較してみることではっきりと理解できる。国全体の予算は一般会計予算、国全体の付加価値は国内総生産に相当する。後者に占める前者の割合を求めてみると、近年、たかだか20%弱にすぎないのだ。国全体の予算のなかには、社会保障費や国債費、地方交付税など、産業振興関係予算以外のものが含まれていることを考えると、国全体の産業が政策的支出に依存している割合は、実際この20%よりずっと小さいはずである。農業が、他の産業と比べて政策的支出に大きく依存していることが理解出来る。
 それではいったい、日本の農業が生み出す「真」の付加価値はどれほどであろうか。ここで「真」の付加価値と呼んだものは、農業総生産という国民経済計算上の付加価値から、国民負担で保護されている部分をのぞいた残りの部分にあたる、実質的な付加価値のことである。農業が国民負担で保護されながら、少ない付加価値しか生み出していないことを考えると、ひょっとしたら、この真の付加価値はほとんどないのかもしれない。
 実は、農業の場合、この真の付加価値がマイナスである──すなわち、まったく付加価値を生まない赤字産業である──という試算結果が出ているのである。平成3年当時、日本の農業が生み出す付加価値である農業総生産は7兆9060億円であった。それが生産されるために費やされた国民負担を、奥野正寛氏が推計している(奥野・本間[1998])。奥野氏の推計によると、農業予算に計上されている直接補助金や食糧管理制度の維持にかかる財政支出が4兆9336億円、農林業金融公庫や農業関連事業団への財政投融資から1兆1923億円、農業従事者に対する優遇税制から少なくとも4869億円、農産品輸入規制に伴う内外価格差により生じる消費者負担で2兆3436億円など、総額8兆9564億円以上の補助金が投入されていることがわかった。さらに、クロヨンと呼ばれるほどに農業所得者の所得が捕捉されにくいことを考慮すると、これによる徴税洩れが農業所得者全体で3164億5000万円と推定される。
 すなわち、農業所得100円を生み出すのに、およそ117円の国民負担が費やされていることになるのだ。農業から生み出される付加価値よりも、農業に投入されている国民負担の方が純粋に大きいことがわかる。農業は実質的に付加価値を生まない「赤字産業」になってしまっていたのである。 (「日本の食料問題を考える」──生産者と消費者の政治経済学 伊藤元重+伊藤研究室 NTT出版 2002年10月17日 から)この本はこの後農業予算、農業補助金について書いている。バランス感覚に優れた力作です。一読をお薦めします。
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<ODAと農業政策> 「自助努力」「過剰補償」等をキーワードに開発途上国支援を考えてきた。このことが日本の農業政策と同じ状況である事が分かる。
 農業補助という政策では、どうしても族議員との上下関係ができてしまいます。補助を頼りに生活していると、もし補助がなくなったら生活出来なくなってしまいます。 農業経営者の人たちに依頼心を持たせてしまう温床にもなりかねません。その土地・風土を活かした特産物を全国に販売できるように、お手伝いすること。それが日本の農業支援の基本だと考えます。
 度を超えた補助は悪である。したがって補助をする場合、「真心とか温かい心とかは案外困りもので、むしろ冷静な計算が必要」なのである。 安直なセンチメンタリズムは豊かな都会人の思い上がりに過ぎず、人間の尊厳の軽視なのである。 ウルグァイ・ラウンド対策で何兆円の予算を組んだら農業支援になる、などと人々に思い込ますことは、この思い上がりを次の世代まで伝えるという意味で「真に怖いこと」なのである。
 日本の農業政策は農業者とそれ以上に、その周りに集まる人たちの利権と思惑によって動かされてきた、と考える。 要するに農業政策の理念は、農業経営者の「自助努力」を、票や政治献金などの条件をつけることなく、支援することである。 農業経営者の自助努力を引き出すには、支援の中核が返済を要する融資でなければならない。そうした場合土地が担保になるとすれば、農地売買自由化によって農地の担保価値が上がると農業経営者にとって経営の選択肢が多くなる。また無限責任の個人よりも有限責任の株式会社の方がリスクが少なくていい。さらに株式会社ならば外部からの資金導入の可能性が高くなる。
 農業経営者の自助努力を引き出すには、援助の中核が返済を要する借款でなければならない。借款であるがゆえに、元本・利子の返済が必要である。受入農業経営者は借款のもたらす経済的なベネフィットが元本・利子返済というコストを上回ると判断した場合に、借款供与を要請する。 政府は元本・利子返済の確実性を見通したうえで借款供与に踏み切る。 農業経営者の自助努力がなければ借款は供与されないのであり、その意味でこの農業支援策は自助努力をそのコンディショナリティとしているとさえ言うことができよう。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう農業経営者から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。 そして現実に起こることはこうである。すなわち、援助したと思っている納税者と政府・農協・文化人関係者は、保護者である親の役割を引き受けることで、補助を受ける農家側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえるという、子供の態度を助長するだけのことである。
 ウルグアイ・ラウンド交渉でコメの自由化が決まるとどうなるだろうか?日本の農業経営者には未だ知らされていない。
   「言っちゃいかん」とマルチェロが言った。「このまま希望だけはもたせておこう」
   「いや」とニコリッチが言った。「みんなに言わなくちゃ。最悪の事態を知る必要があるんだ」
   マルチェロはなおも顔をおおってすすり泣きながら、「おれには言えない。おれには」と言った。
   「おれは言うぞ」と言ってからニコリッチはテレビ電話のある所へ戻っていった。
   ニコリッチはタオルで顔を拭い、ネクタイを締め直し、テレビ電話のカメラに向かい、こちらを向いた大勢の悲壮な顔を眺めた。
   「おい、みんな」とニコリッチは叫んだ。「いい知らせがあるぞ。今会議が終わったところだ。コメは自由化されることになった」
   大勢が押し込まれた日本の会議室では声もない。この苦境から逃れる見込みがないということがわかってくると、人々は泣いた。
   「そんなことがどうしてよい知らせなんだ」とパエスが怒ってニコリッチに食ってかかった。ニコリッチは言った。
   「どうしてかって?そうなるとおれたちは自力で消費者にコメを売り込むことになるだろうからさ」
 そして日本の農業経営者は消費者へのコメ売り込みに成功したのである。全員ではない。「農業の多面的機能」をスローガンに、政府や自治体の補助金に頼ってきた農家は去って行った。だがもし彼らが悪いニュースを聴いていなかったとすれば、もし彼らがいつまでも補助金に頼っていたとしたら、全員が農業から撤退していたであろう。
 この話は、私に言わせてもらえば、開発途上国の経済状況によく似ている。他産業の善意が農業経営者に与えることのできる最大の贈り物は、「補助金に頼らず、自力でやる」ということを知らしめることである。
 他産業の人たちが農業経営者に与えることのできる最大の贈り物は、「自力でやる」ということを知らしめることである。製造業の人たちはそうして現在の「物作り大国」を築き上げてきたのだった。
( 2003年4月14日 TANAKA1942b )
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フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?(4)
最大の支援は「コメ自由化」
<援助と開発支援> フェアトレードの基本は開発支援にある。「第三世界の人達に対して依存心を持たせてしまう温床にならないように、自らのやる気で生産者として自立できるように後押しをさしあげるお手伝いをするのが、フェアトレードです」。 ところでヨーロッパのチョコレート支援はコートジボアール支援に効果はあるのだろうか?日本で開発途上国の民芸品販売はどの程度の支援になっているのだろうか?もしかしたら「地産地消、身土不二、地域通貨やその他の環境保護や平和のための市民運動と同じように、豊かな国の豊かな人たちの外部社会に影響を与えない「社会正義ごっこ遊び」になっていないか?」との指摘もあるかも知れない。そうだとしてもその目指すところは正しい。
<先物取引という価格安定制度> 農産物は気候・天候政治情勢などにその収穫量が左右される。そこで先々の価格を予約する制度として商品市場での先物取引がある。先渡し取引(Forward)、先物取引(Futures)、オプション取引などの取引、18世紀大坂堂島での米取引では、正米商内、帳合米商内などが行われていた。カカオ豆はロンドン(ロンドン国際金融先物取引所=LIFFE=THE LONDON INTERNATIONAL FINANCIAL FUTURES AND OPTIONS EXCHANGE)とニューヨーク(コーヒー・砂糖・ココア取引所=CSCE=Coffee, Sugar and Cocoa Exchange)で取引されている。 先物取引の実際は「農家はプットを生かそう」で書いたので、そちらをどうぞ。 
 価格安定のためのフェアトレードは先物取引に他ならない。それも「相対取引」。「価格の透明性」と「リスクの分散」を考えれば「市場取引」の方がいいに決まっている。となるとカカオ豆もコーヒーも市場取引が行われているので、そちらの方がより安定的に取引出来る、となる。このように先物取引とかオプションなどが、豊かな国の豊かな人の善意よりも、サプライサイド、ディマンドサイド両者のリスクを軽減するのに役立つ。つまり市場参加者の利益追求心がシステムを円滑に運営させる。しかし、それは同時に「豊かな人々の、施しをする喜びの機会を失わせる」ことにもなる。
<経済成長と人口増>アフリカ、サブサハラでは経済成長が0%、人口増が2-3%。ということは毎年収入が2-3%ずつ減っていく、ということだ。従ってサブサハラが豊かになるには、@経済を成長させるか、あるいはA人口増を抑えるかだ。博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムの「顔の見える援助」(食料・医薬品)は、この人口増を助長することになる。日本のODAは自力で経済を成長させることを支援する。アジアにはその成功例がある。
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<農業ルネッサンス>日本の農業に関して悲観的な話が続いた。そこで今度は元気の出る本の話。叶芳和著「農業ルネッサンス」の「まえがき」から。
 農村が動きはじめた。後継者不足で農家戸数が劇的に減少する兆候が出てきた。一方、ビジネス感覚をもつ農家は、こんなにおもしろい時代はないという。アイデアと経営力さえあれば、いくらでも伸びられるからだ。そして、市場原理を導入した地域ほど農村は活性化している。パラダイムの転換が必要だ。
 高付加価値農業の展開が広がってきたことが、農村を一変させつつある。楽しみながらできる農業が出てきた。あるいは若い人たちはベンチャー型農業に参入し、高所得をあげている。そして、雇用型農業の時代になった。高付加価値作物は労働集約的作物が多いが、花卉園芸の場合、5人、10人雇うのが普通の姿だ。都市近郊では、工業と労働力を奪い合うくらい、農業の雇用創出は大きい。流れは変わりつつある。農業は21世紀、ハイテク・ハイタッチ時代の産業になるのではないだろうか。
 本書は、良い農家、良い農協のケース・スタディである。1990年代から21世紀にかけて、新しい農業革命を担うイノベーター(革新者)たちの経営スピリットを明らかにした。農業発展にとって、ヒューマン・キャピタル(人的資本)こそ最も重要な経営資源である。そこで、イノベーターに着目し、その哲学と行動様式を明らかにしようとしたのである。
 また、先進農業地域、先進農家は知恵がある。本書はそのアイデア集でもある。農家には可能性がある。やり方次第だ。これを示したかった。もちろん、ここに描いたのは、日本の農村の平均的な姿、あるいは全体像ではない。新しい芽がどこに出ているかを明らかにし、発展の方向性を示すことが目的である。
 いま、日本の農業は、国際化、自由化に直面している。何よりも新しいビジョンが求められている。先進農家の姿が、その導きの糸でなければならない。本書は、農政上の政策的含意もにらみながら書いた。先進農家地域の分析から明らかになったことは、「自由」と「ヒューマン・キャピタル」の重要性である。この2つがこれからの農政にどれだけ反映されるかが、自由化時代を迎えた日本農業の分かれ道となろう。 平成2年10月 (「農業ルネッサンス」21世紀産業のイノベーターたち 叶芳和著 講談社 1990.11.24 から)
 著者は本書で30の成功例を取り上げている。その多くはネットでも確認できる。
 叶芳和氏の主な著書は次の通り。
 「農業自立戦略の研究」日本農業生産構造近代化への新しい提言 総合研究開発機構 1981.8.1 (話題になったNIRA報告書)
 「農業・先進国型産業論」日本の農業革命を展望する 日本経済新聞社 1982.7
 「日本よ農業国家たれ」21世紀の産業 東洋経済新報社 1984.7
 「先進国農業事情」農業開眼への旅 日本経済新聞社 1985.2.25
 「コメをどうする」農政改革のこころ 緊急提言 日本経済新聞社 1987.6.4
 「農業ルネッサンス」21世紀産業のイノベーターたち 講談社 1990.11
 「赤い資本主義・中国」21世紀の超大国 東洋経済新報社 1993.6
 「実験国家・中国」法治国家への道筋 東洋経済新報社 1997.7 
 叶芳和氏はこの「農業ルネッサンス」を最後に、農業問題から離れてしまった。その後の中国問題も優れた力作であるだけに、日本の農業にとっては残念なことだ。惜しい人を失った、感がある。世の中には常に悲観的・自虐的な立場に立ち、社会を批判することにより、自分の努力しないことから目をそらそうとする人がいる。「自分がダメなのは社会がダメだからだ」との言い訳を言う。そう言う人にはお薦めできない本。少しでも前向きにいきたい人にお薦めです。私は「先進国型産業」という表現が好きです。
<「ビールかす」で甘いトマト> 2003年4月15日朝日新聞朝刊10面に次のような記事があった。
 アサヒビールは、「甘み」が売り物の高糖度トマトの販売に参入する。 「ビールかす」の大麦の殻を加工して栽培に用いたもので、甘みが増すことに加え、アミノ酸も多く含まれているという。年1億円の売上を見込む。
 アサヒビールは、ビールの製造過程で出る大麦の殻をリサイクルし、生花の栽培用の「培地」として販売。徳島県の「樫山農園」が高糖度トマトに応用したところ、品質が安定したという。高糖度トマトは、通常品の3〜4倍の価格で取引される人気商品だが、収穫は初冬から春先に限られがちだった。アサヒは子会社を通じて「樫山農園」に出資、温室への投資を後押しするとともに、「珊瑚樹」ブランドで発売する。店頭価格は1箱(18-24個)4千円程度。
 農業は「先進国型産業」なのであります。 そう、産業なのです。農業の世界もそろそろ“運動”や“政治”を卒業して、あたりまえの“商売”の世界にしようではありませんか。
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<タイ米を買うことは タイに迷惑か?> TANAKA1942bは▲このテーマで1994年10月25日号、毎日新聞社刊、週刊「エコノミスト」の「読者から」欄に書いた。この問題をもう一度振り返ってみよう。ここでは、コメ自由化反対の急先鋒に立つ辻井博氏の意見を聞いてみよう。
 日本のコメ緊急輸入のタイの諸米価にたいする影響──タイが世界のコメ輸出量の30〜40%を占め、タイの輸出米価は国際貿易米価の指標となるのですが、5%砕米入りうるち白米のそれは、1993年10月から急上昇を始め、9月の5900バーツから94年2月には1万2800バーツ強と2倍以上になりました。ただこの価格はタイの貿易会議(BOT)の公表価格で、アメリカ農務省によれば市場平均価格よりかなり高めになっています。
 しかし、市場平均価格のほうも同じ期間にほぼ倍増していて、日本の1993年10月からの緊急輸入が国際貿易米価を急速に引き上げたことは明らかです。バンコクでの卸売米価も同じ時期に2倍弱に急騰しています。これら米価の急騰によって、タイ政府の外貨収入が増え、コメ輸出・卸売業者の手数料・値上がり収入が増えました。(中略)
 前述のように日本のタイからの緊急輸入は75万トンで、タイの最近のコメ輸出量の400万トンほどと比べるとかなりの量です。前述のように国内米価が上昇したのは、日本の輸入によって、国内コメ需給がタイトになったことを示しています。ただ、日本の輸入は砕米なしの高質米に片寄っており、ゆえにタイ国内の高質米の供給を減らし、その価格を引き上げたと考えられます。タイの友人からの電話の情報などでも、砕米を含む低質米の価格はあまり上がっていないとのことでした。
 このことには、2つの意味があります。1つは、日本のコメ緊急輸入は高所得のタイ高品質米輸入国に迷惑をかけることです。しかし、タイは、アメリカやオーストラリアと比べ、低質米の輸出割合が非常に多く、低質米が得意なのです。低質米は貧困国が輸入するので、これら諸国への迷惑の評価は、輸出米の品質構造変化を考慮する必要があります。第2はタイ国内の高所得者層と低所得者層へ、外国への影響と同じような影響を与えることです。
 タイでは1970年代からコメは劣等財になり、輸出制約的政策から促進的政策への転換と生産増もあって、70年代後半からコメ輸出を急増させて、89年には600万トン強(世界貿易量の43%)を輸出する「コメ輸出大国」となりました。
 しかし、1990年代にはコメ過剰が問題となり、水不足もあって減反や転作が議論されてきました。だから日本の緊急輸入はタイにとって非常に望ましい事態であったのです。勿論日本のコメ輸入が継続することがタイにとって重要であり、日本の95年からのミニマム・アクセス輸入でタイができるだけ大きいシェアを確保することが狙いです。ただし、このことは、コメ輸出で戦後タイとライバルであったアメリカの対日シェア要求と衝突することになるでしょう。また、この目的を達成するには、緊急輸入でタイ米があまり需要されなかったことが関係します。筆者はこれは慣れの問題で、継続して食べれば日本人もタイ米を好むようになると考えています。 (「世界コメ連鎖」日本消費者連盟編 創森社 1994.10.28 第1章 日本のコメ輸入が連鎖的な歪みを引き起こす 辻井博 から)
 日本がタイからコメを緊急輸入した。この影響についてコメ自由化反対の急先鋒に立つ辻井博氏の見方をまとめると、ポイントは次の4点になるだろう。@タイ国内の高品質米が値上がりした。このためタイの高所得者層に迷惑をかけた。A砕米などの低品質米の小売価格にはあまり影響がなかった。従ってタイの低所得者層にはあまり影響はなかった。同じように貧困国にもあまり影響はなかった。Bタイ政府の外貨収入が増え、コメ輸出・卸売業者の手数料・値上がり収入が増えた。つまり国民経済にプラスであった。Cタイは、これからも日本へコメを輸出したいし、継続して食べれば日本人もタイ米を好むようになるだろう。
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<最大の支援は「コメ自由化」> 「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」こうした開発途上国の要請に応えて、「依存心を持たせてしまう温床にならないように、自らのやる気で生産者として自立できるように後押しをする」援助がフェアトレード。 日本のODAはこの趣旨に合っている。さらに日本に出来ることと言えば、「コメの自由化」だ。金額的にはそれほどでないにしても、「農産物の自由化」ということが大切だ。 EUなど先進諸国が自国の農産物保護政策をとっていて、開発途上国が農産物輸出などで自ら力をつけようとするのを阻害していて、それで「顔の見える援助」で「依存心を持たせてしまう温床」を作りながら「開発途上国を援助する」では矛盾している。日本がODAで示した開発途上国援助のあり方を、農産物の市場開放という形で世界に示したい。日本はそれだけ豊かな国になったし、アジアで十分な実績を作ったはずだ。もうそろそろ「ノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)」を意識してもいい頃だと思う。
( 2003年4月21日 TANAKA1942b )
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