猪子石村





  猪子石神明社   神明社資料館   月心寺   猪子石神社 


 大石神社   行者堂   猪子石城   公会堂





 猪子石村絵図(史跡の会活字化)


 猪子石村絵図

安政7年申正月(3月18日より万延元年/1860)、水野代官所(御陣屋/瀬戸の水野にあった)に提出されたもので、川の氾濫や山からの土砂災害による「免税地一覧絵図(南向き)」でもある。

杉浦万三郎は、安政5年(1858)から元治元年(1864)まで水野代官を務めた。

この村絵図の下部に、「 (い)辰より酉迄三十年引 (ろ)辰より丑迄十年引 (は)子より酉迄十年引(に)巳より子まで八年引 ・・・ 」と記されている。

当時の猪子石村は、現在の「竹越」「汁谷」「千代田橋」まで含んでいた。


猪子石村北部 (出典『猪高村物語』)

猪子石村南部 (出典『猪高村物語』)


 主な字名

京命(きょうめい)・・・凶作故の免税地「凶免(きょうめん)」からの転化。
宮根(みやね)・・・八幡宮があった尾根。
八前(はちまえ)・・・「八幡宮の前」という説もあるが、距離があり過ぎる。現蓬来小学校の位置にあった「八剱宮の前」、または「八枚田」からの転化。
栂廻間(とがさま/とがはざま)・・・溜池の「栂廻間池」は、現「栂廻間公園」になっている。
蓬莱洞(よもぎほら)・・・八剱宮があり、それは熱田神宮=「蓬莱」の分社であったから。
深場(ふかば)・・・山深いところにある田。
亀鳥(かめとり)・・・「上通り」の転化。
地網(じあみ)・・・「崖」あるいは「急斜面」のこと。
赤松(あかまつ)・・・赤松林があり、赤松と共生する松茸の宝庫。
赤坂(あかさか)・・・長久手の戦いで、戦況を見るため山上に登り、夜が明けたからという「明け坂」からの転化。
姥ヶ谷(うばがた/うばがたに)・・・姥の懐のように深い山の中の谷間。
化者業(かしゃご)・・・鍛冶屋集団が住んで居た場所のこと。
菅廻間(すげのさま/すげはざま)・・・猪子石村第一の大池=「菅廻間池」は、現「廻間公園」になっている。
道地
(どうじ)・・・香流小学校は、長福寺の旧地であり、「堂地」の転化。
神ノ木(かみのき)・・・御鍬祭の御旅所(おたびしょ)だった。
水汲坂(みずくみざか)・・・香流川の水を汲んでいた。氏神神明社旧地。
中島(なかじま)・・・猪子石村の中心。猪子石村のルーツ。
如来道(にょらいと/にょらいどう)・・・月心寺の前身「蔵福寺」があり、「如来堂」からの転化。
八反田(はったんだ)・・・1反は、300坪で、「猪子石城址」という説もある。
引山(ひきやま)・・・「低き山」の転化。
延珠(えんじゅ)・・・槐(えんじゅ)の木が茂っていた。
九合田(くごた)・・・稲籾の収穫高が坪あたり1升とした場合、9合しかない生産性が少し低い田。
油田(あぶらた)・・・収穫は、神明社の燈明代になった。
交換(こうかん)・・・猪子石原村の土地であったが、猪子石村の「新引山」と交換した。



 沿革

『尾張名所図会』にも、「村の名此石より起る」と書かれているように、「猪子石」の由来は牡(おす)石・牝(めす)石からきていると思われる。

江戸時代後期の『尾張徇行記』に「猪子石原村」が「猪之越原村」と書いてあるので、「猪子石(少し前まで、イノコシと発音していた)」は「猪之越(イノコシ)」からの転化とする説もあるが、そうすると「猪子石村」の村名は、江戸後期にできたことになる。

しかし、『将軍足利義詮(よしあきら/足利尊氏の子で、室町幕府2代将軍)御判御教書(みきょうしょ)』の中に、

「尾張国山田庄内水田二町〈稲生郷にあり、地頭免田の内〉、蓬迫得分東荒野三分の一、猪子石郷内田二町二段大、炭焼迫開発田、秦江郷内塔田一町、狩越郷内荒野、太神宮供祭田一町等の事、当寺領として相違あるべからざるの状、件の如し。   貞治四年(1365)七月七日  長母寺長老  (花押) 」 (「名古屋市博物館所蔵文書」)

と「猪子石」の名が出てくることなどからも、この村の名は相当古くからあったといえる。

昭和37年から始まった区画整理は、134万坪という全国一の規模。ブルドーザーが野山を削り取り、当時は「猪子石砂漠」と呼ばれた。





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