大石神社 名東区山の手1丁目707番地(猪子石公園西)にある。 祭神は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)。天岩戸に隠れた天照大神を呼び戻す為に裸踊りをした女神である。 神話の世界では、猪子石神社の祭神・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ/庚申塚の祭神でもある)と結婚したとされる。 大石神社は、区画整理で大石山山頂(ここを削ってできたのが、現在の猪子石公園)から現在地に移設された。 この牝石は別名「子持石」とも呼ばれ、安産の霊験があるとされる。 「大石神社をお詣りすれば難産にならない」というという言い伝えがあり、隠れた「安産のパワースポット」になっている。 大石神社の礫岩は『香流川物語』に、 「石作神社の南東の田の中に、ちょうど猪子石と同じくらいの大きさの石があって子守石と呼ばれ幼児の夜泣きに霊験があるとのことで、参拝する人がかなりありました。色金山や猪ノ鼻の川床には礫岩も見られますので、猪子石がここから運ばれた可能性が大きいと思われます」とある。 猪子石も洪積(こうせき)台地に位置しているので、このような大石はどこかから運ばれない限り存在しえない。 名古屋市教育委員会が大石神社に立てた説明文には、「亥の子信仰と大石が結びついて、地名になったといわれる」と記されている。 「亥の子」とは、「収穫祭の一種で、旧暦10月の亥の日に新しく取れた米で餅をついたり、子どもが藁束や先に石をつけた縄で地面を打つ行事」とされている。 しかし、このような行事について見たり聞いたりしたことがないので、猪子石では随分前に廃(すた)れているのではないかと思われる。 毎年9月1日の大祭は、大石神社を管理する前山組が中心となって、神明社の宮司さんの祝詞奏上、その後直会(なおらい/御神酒とつまみの簡素なもの)があり、今も続けられている。 『山手今昔物語』(私本/故猪子国雄氏の覚え書き)に、以下の記述がある。 ※( )内は、執筆者による。 「昭和十年亥の年に、名古屋新聞(現中日新聞)社主催にて、愛知県及び名古屋市内の亥生まれの知識人・文化人・財閥・実業家等、亥の日に一台の車に四名乗り、四四(いのしし)十六名を一団として名古屋新聞社旗を先導に参拝さる。 誠に見事なものであった。この山村に何事が起こりしやと、子供心に駆けつけて珍しげに見物して居た覚えがある。 本村出身の名古屋新聞社編集局長であった柴田義勝氏の提唱で行われたのであった。 大石神社の祭礼は旧暦の8月1日に行われていたが、昭和になり新暦の9月1日に変更された。 山頂には幾百もの提灯を松の梢に高々と掲げ、遠くから眺めた夜景の美しさは筆舌に尽くし難かった。 夜店も多く出た。鯛焼き・するめ焼きの匂いが漂い、果物の梨も皮を鉋(かんな)で削って売られていた。 互いに大声をあげて客を我が店に引きつけんとするので、浴衣着の子供がそれにつられて群がった。 晩夏の風物詩として、山村の情緒盛り上がる豊かな祭りであった。 昼から夜にかけて、他村からも親戚縁者等の多数の参拝客があり、地元の人は一家総出で参加した。 当時は海抜120〜30メートル程の小高い山であったが、昭和37年に宅地造成が開始されると、この景勝なる山も崩されて、今はその俤(おもかげ)もなくなり、さしも広大な神域も、平地に僅(わず)かな神域を留(とど)めるのみになった。 昭和45年9月1日、(現在の猪子石公園の位置から少し移動して)現在地に御遷宮(せんぐう)奉り、以後盛大に盆踊りが行われた。 境内面積は90坪である」。 御嶽心願講 大石神社境内西側に、御嶽心願講を猪子石で広めた先達の霊神碑がある。 写真(右)は、女性の先達(覚清女霊神/かくせいにょれいじん)の御嶽山参拝姿であるが、大石神社は安産のパワースポットなので、「妊婦と間違えて、お腹(実は笠)をさする人もいる」という。 『名東区の歴史』によると、 「今から百年ほど前、猪子石方面を天秤棒で小間物を行商する人があった。 御嶽宇兵衛と呼び名古屋出来町にて雑貨を商う主人で、近郷を廻り親切と正直を旨とし、村々に病人または不幸がある家で、望まれるままに御嶽大権現を祈り神徳を授け法を行うので、次第に民衆の信仰がまし、遂に天保八年六月猪子石山手安左衛門宅にて、同志集まり木曽御嶽山を岩崎山に祀ることを相談し、小野村代官所に申請した。 また、これまで熱田に本部のある大先達儀覚行者の創立した丸山講と合流し、新しく心願講をはじめた」とあり、 「心願講の発祥の地は猪子石」ということになっている。 しかしながら、猪子石での心願講はいつしか廃れ、今は大石神社と引山(駐車場の片隅)に霊神碑を残すのみとなった。 さて、岩崎御嶽社発行のパンフレットを要約すると、 岩崎御嶽山の開山縁起は、 「万延元年(1860年)明寛・明心両行者により開山された。 明寛行者は、文政五年(1822年)名古屋古出来町に生まれ、俗名は丹羽宇兵衛といい、16才の時に大先達・儀覚行者の指導によって木曽の御嶽山へ登山した。 明心行者は、天保七年(1836年)名古屋門前町に生まれ、俗名は倉知茂兵衛といい、15才の時に明寛行者と共に木曽の御嶽山に登山した。 二人は心願講社を設立。 両行者が西国三十三ヶ所観世音霊場を巡拝中、夢の中に現れた覚明行者より『愛知郡岩崎村の竹之山に御嶽山の大権現様の御分霊を勧請すべし』とのお告げを受け、木曽の御嶽山より御分霊を勧請した」となる。 「天保八年(1837)」では、御嶽宇兵衛(明寛行者)は15才にしかならないので、『名東区の歴史』の記述には無理がある。 また、「丸山講」も「宮丸講」の誤りと思われる。 トップページにもどる 猪子石村へ戻る |