猪子石城


明治(17年)の地籍図
「猪子石城」については、左の明治初期の地籍図の、神明社と月心寺(図の「寺院境内」/寺名がないのは、廃仏毀釈の影響かもしれない)の位置にあったと伝わる。

「城主」は、天白植田城の分家の横地主水正秀次で、小牧・長久手の戦いで秀吉方について敗れ、曾木村(土岐市曾木町)に逃れた。

曾木横地本家に伝わっていた「猪子石城」についての古文書類は、「火災によって焼失した」とされる。

ただ、明治になって子孫の方が書き残した『尾張古城志集記 附(つけたり)人物』があり、それ以降の「猪子石城」についての記述の元になっている。


以下、「猪子石城」記述の登場順に見ていく。


 『尾張古城志集記 附人物』  著者不明   明治初期

※この作者は、菊田ヌ盛(としもり)氏の祖父で漢籍自在の香流小学校教師であった菊田(旧姓横地)縫之丞氏と思われる。 

土岐市曾木町にある「城主」横地秀次の子孫宅に、以下の様な文書(原文ではなく、昭和31年に写されたもの)があった。

   『尾張古城志集記 附人物』     猪子石村城址    横地主水正秀次

「村の中央より北編、香流川の辺甘藍田(かんらんだ)と云う所あり。今是を八反田(はったんだ)と呼習(よびならわす)。中葉まで塹壘(ざんるい)の跡あり。東西六十間、南北五十間、二重濠。横地主水正秀次貫住の城址なり・・・」


 『猪子石城主と菊田先生之碑』  菊田ヌ盛著   昭和23年   ※自費出版   鶴舞図書館蔵

「猪子石城」は、「城主横地主水正源秀次の居城は、現在の愛知郡猪高村大字猪子石の中央、香流川の北の辺り(今の月心寺及氏神神明社の周辺)で、東西五十間、南北六十間の二重濠を構えた城郭」とある。


 『猪高村誌』 (昭和34年発行)

「猪子石城」は「尾張古城志に依ると、猪子石城は東西六十間、南北五十間二重堀にて城主源秀次は智仁勇の三徳備えたる良将也、以下略」とある。

※『猪高村誌』が、『尾張古城志』に「猪子石城」があるというのは、『尾張古城志集記 附人物』のことで、天野信景の『尾張古城志』のことではない。

『尾張古城志』は、天野信景(さだかげ/1661〜1733年)という尾張藩士によって記されたもので、この『尾張古城志』『尾張古城志補遺』を鶴舞図書館で確認したが、「猪子石城跡」の記載はなかった。         


 『香流川物語』  小林元著  昭和52年  (自費出版)

「猪子石城」は、「植田城主・横地秀重の弟秀次が、どのようないきさつかはわかりませんが、織田家の家臣としてはじめて猪子石城に拠ってこの地を支配しました」とある。


 『日本城郭体系 第9巻』  昭和54年発行

「猪子石城」は、「東西およそ90m、南北110mの平城で、・・・城址は、月心寺と神明社の境内になっている」と紹介されている。


 『名東区の歴史』   伊藤正甫(猪高中学校教師/『猪高村誌』編纂委員)著   平成18年

横地主水正秀次は、「信雄によって二百九十貫を頂戴し安堵されていた。

  (注)信雄分限帳によると(猪子石分のみ)

    二00貫           いのこし  政秀寺

    二00貫           いのこし  白坂寺

    二00貫(百貫の誤り)     いのこし  天王坊

    二九0貫中九0貫        いのこし  横地主水

他に(主水は落合に二00貫をもっている)  余り大きな給地武士ではない」とある。


 『史跡散策 愛知の城』   山田柾之著(マイタウン)   平成5年

愛知県にあった1000以上もの城館を紹介し、ネット上で愛知県に於ける「お城ブーム」が起こるが、城館の位置がすべて精査されている訳ではない。


 「猪子石城」の規模

上記書物では、六十間(108メートル)、五十間(90メートル)の数字の記述が東西、南北で逆さまになっている。このことは、客観的資料が存在しないことの逆証明でもある。

現在の神明社と月心寺の並びを見る限りにおいては、東西60間が正しいと思われる。

猪子石在住でなかった菊田ヌ盛氏は、資料を写し間違え、『日本城郭体系』は、『猪子石城主と菊田先生之碑』、あるいは上記地籍図を参考にしたと思われる。

※香流川が、現在のように東から西に流れていれば、「香流川を濠とした猪子石城は、東西60間が正しい」と言えるが、上記「地籍図」で分かるように、この場所だけに限っては、南西から北東に向かって流れていた。

地籍図の神明社と月心寺との境界線は110メートルぐらいなので、「東西60間が正しい」と言い切れない側面もある。ただ、初出文書『尾張古城志集記 附人物』が、「東西60間」としているのだから、そうするべきであろう。



津本陽氏は歴史小説『下天は夢か』で、桶狭間の決戦前夜、信長勢の動きとして「後方の竜泉寺城まで、中継点として岩作城、猪子石城に前野衆、蜂須賀党が少人数ながら詰めていた。翌朝の今川勢の動静に応じ、彼らは奇兵として北方から今川本陣へ斬りこむのである」と具体的に書き、「猪子石城」を登場させた。

津本氏が種本とした『武功夜話(江南市の旧家の土蔵が伊勢湾台風で倒壊し、そこから出てきた前野吉田家の家伝史料)』には、砦として猪子石の名が出てくるので、「今川義元を迎え撃つ為に砦が築かれ、その後、横地秀次が猪子石(砦)を拝領した」「横地秀次の屋敷を、対今川の砦として位置づけた」という仮説を立てることは可能である。

『名東区の歴史』によると、秀次の兄秀政は横地秀綱(1475年没)から数えて5代目らしいので、「猪子石城」の成立は、およそ1550年以降(桶狭間の戦いは、1560年)のことと推測される。


    横地秀次を祀った入身堂      入身堂(いりみどう)内部


結論的に言えば、「猪子石城」は、城と呼ぶだけの客観的資料が出てこないので、武将の館、あるいは豪族屋敷と表現したほうが実体に近いと思われる。

跡地とされる月心寺・神明社に城の遺構はないが、香流川を水堀とし、防御の観点から八反田の地を選定したとするなら、「猪子石城は存在した」と言えなくもない。




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