猪子石神明社



 猪子石神明社     神月町602番地にある。 祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。

猪子石神明社入口にある由緒の石碑

猪子石神明社は、元々は旧猪子石村の農民の氏神であった。現在も、区画整理以前からの住民およそ300世帯から、3年任期で選出される13名の氏子総代と山田宮司によって管理運営されている。

昭和37年からの区画整理によって、山林や田畑が宅地造成され新興住宅地に様変わりしてからは、新住民を含めた猪子石地区の氏神として崇敬されているのだが、慣例として新住民は氏子総代になることはできない。

明治34年に神官の岸田蓬生氏が逝去されて以来、職業神官が不在であった。代々の村長・区長経験者などの村の重鎮(主に柴田憲二氏)が神官を務めてきたが、戦後、長久手村の山田宮司を、猪子石村が職業神官として招請し現在に至る。

※区長とは、明治39年、高社村と猪子石村が合併して猪高村ができてからの大字(旧6村=猪子石・猪子石原・藤森・高針・一社・上社)の長のこと。一色村と下社村は、明治11年に合併して一社(いちやしろ)村になっているので、大字になっていない。

今の社殿が改築された昭和39年の10月11日、「神明社遷宮祭」に馬の塔(おまんと)が奉納され、また、平成元年5月21日、「名古屋市制100周年」を記念した「名東区祭」に馬の塔が奉納された。

神明社社務所は、平成元年10月17日深夜、不審火によって焼失したが、平成3年4月に再建され、同年10月10日に「社務所竣工奉祝記念」の馬の塔が奉納された。だが、これ以後、馬の塔の奉納はない。


 神明社の由緒

『尾張徇行記』に、「此祠創建ノ年歴不知 再建ハ元和八戌年也」とあるように、猪子石神明社の創建年についてはよく分かっていない。この創建年については、境内にある二つの石碑も統一されていない。

神明社配布の「由緒書き」には以下の様にある。 
※写真右上の石碑と文面はほぼ同じ。( )内は、執筆者による。

当神明社は、正和年間[西暦一三〇〇年]以前に創建された御社とされ、花園天皇(在位1308〜1318)時代に猪子石字水汲坂に鎮座とされている。御所より奥三河猿投山中に御巡幸の途中にて香流川の清水を汲み御休憩された所とされている。

以後香流川の洪水に遭い御社殿が流れそうになり、後水尾天皇(ごみずのお/在位1611〜1629)時代に上八反田に鎮座、又は安永二年(1773)に村民の総意で現在地に鎮座ともいわれている。   
※「安永二年」説は、『猪高村誌』による。

当社は猪子石地内の氏神様として、昭和二十年頃では氏子数三百世帯部落数十二地区とある。又その後、昭和37年に整理組合の発足で山林田畑は宅地造成されて今やその頃の面影もない新興住宅地に変わり、地域の氏神様として敬神されている。

今の社殿は昭和39年に改築されたもので、その時末社であった「天王社(祭神・須佐之男命))」「洲原社(祭神・菊理姫命)」「八剱社(祭神・日本武尊命)」「鍬神社(祭神・豊受大神)」「山ノ神社(祭神・大山祇命)」が本殿内へと遷された。

現在境内地は約950坪、「英霊杜」「龍耳社」もあり、樹木4本(クスノキ1・アベマキ3)が「名古屋市保存樹」に指定されている。

神社等級九等級、旧社格村社である。 

 祭神

天照大御神(あまてらすおおみかみ/日の神)

豊受大神(とようけのおおかみ/食物をつかさどる神)

日本武尊命(やまとたけるのみこと/景行天皇の皇子)

須佐之男命(すさのおのみこと/天照大神の弟)

大山祇命(おおやまつみのみこと/山をつかさどる神)

菊理姫命(くくりひめのみこと/伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持つ)           (引用終わり)


 改築記念碑   境内西側にある。文面は以下の通り。 
※カタカナをひらがなにし句読点をつけた。( )内は、執筆者による。


改築記念碑   改築記念碑(碑文)

当神明社は、天照皇大神・豊受大神を祭神として、承和年間の創建にして、愛智郡猪子石村水汲坂に鎮座されしが、元和八年(1622)、現在の上八反田に奉遷し、この時より神明社と号す。

元禄十五年(1702)、旧来通り社殿改築し、文化十二年(1815)、八幡造を装繕し神明造りとす。

明治二十一年、神殿を新築され常に鄭重に営繕祭祀す。

昭和二十年、未曾有の国難、敗戦の惨に会うも神明の加護を得て、国民の精進に復興発展は速く、昭和三十年、名古屋市と合併し、同三十七年、猪子石区画整理に着手さる。

茲に至り神明社改築の機運来り、全氏子中より新築委員を選出し、協議研究を重ね、当字内に散在する共有地の一部を寄進し、新築を決議され、純神明造社殿を熱田神宮造営技官森恒保氏に其の設計監督を依頼、昭和三十八年起工し、神殿・拝殿・手水舎・社務所・渡殿、竝(ならび)に英霊社茲に竣工し、境内にありし末社・八剱社・御鍬社・須原社・津島社・山神社を合宮として新に合祀し、之を記念して経緯記す。

(裏面)          昭和三十九年十月十二日      宮司 山田重義



改築記念碑は、「承和年間(834〜848)の創建」としていて、神明社入口の「由緒の石碑」の「正和年間(西暦一三〇〇年)以前」と創建年代がかなり違っている。

「承和年間」だと、927年成立の「延喜式神名帳」より古いことになるが、猪子石神明社は式内社ではない。

「正和」と「承和(じょうわ/しょうわ)」は、発音が似ているので間違えたのだろうか。

『猪高村誌(大正7年版)』は、猪子石神明社を「式内社の和爾良神社」とし、「猪子石原の和示良神社はその分霊」としている。

明治の初めの頃から、このような「和爾良伝承社」としての説が一般に流布していたようだ。

「由緒の石碑」の方が正しいとするなら、「改築記念碑」の方は、単純ミスではなく「式内社であって欲しい」という願望が働いたことになる。


 棟札の記録

昭和39年、神明社は改築された。
新社殿に御遷宮の折、旧社殿にあった棟札15枚の写し(古老による書写/一部省略)。


@(表) 「時 嘉永元龍集戊申歳   奉修復当社拝殿一宇   秋九月重陽日   大工当村 孫蔵/太蔵」

 (裏) 「別当 蓬莱法師辨海     氏子総代庄屋 小三治    取持年行司 富右エ門 」

A(表) 「嘉永七年寅年   奉檜皮葺替当社屋祢   八月吉祥日      別当 蓬莱法師辨海」

 (裏) 「村方総代庄屋 東島 小三治    氏子総代庄屋 新屋鋪 宇兵衛    大工棟梁 引山 孫蔵」

B   「明治四辛未二月  柿葺替   当所産土神明社猪子石両皇太神 鳥居建替   神主 岸田蓬生基靖

C(表) 「維時 明治四辛未二月    猪子石神祠葺替取繕        神主 岸田蓬生基靖

 (裏) 「柿葺替    先前桧皮葺     大工棟梁 当村 横地甚三郎」

D(表) 「于時 明治廿一年四月成功  奉改造産土拝殿薄物造一棟    工匠 愛知郡猪子石村 横地直重」

 (裏) 「天長地久工匠補助        愛知郡猪子石村 横地徳三郎   春日井郡印場村 八木増五郎」

E   「明治二十七年   当社瑞籬新設   午九月一日           大字猪子石氏子」

F(表) 「鳥居前石段新設        猪子石村長 高木市太郎        社掌 岸田蓬生

 (裏) 「明治三十三年九月六日       石工 石屋国三郎    人夫 氏子中」

G   「明治三十六年五月十日   神明社 鳥居再建      愛知郡猪子石村 村長 高木市太郎」

H(表) 「八剱宮社改造     社掌 柴田通知     村長 高木市太郎     信徒総代 横地権三郎」

  (裏) 「明治参拾七年壱月廿三日     遷宮式執行     当村発起者 横地武三郎/岸田鈴太郎」

I(表) 「大正弐年壱月吉日     神明社社務所新築     区長 佐藤円次郎   総代 酒井金右エ門」

 (裏) 「天長地久千歳棟 永遠無窮萬歳棟 悉皆満足永久棟       組総代 新田 横地猶吉」

J(表) 「奉上棟拝殿       神職 柴田通知    区長 高木茂    氏子総代 横地徳次郎」

 (裏) 「大正五年四月十有七日     大匠棟梁 横地房次郎   各組新築係総代 横地為次郎」

K(表) 「猪子石村社神明社   祭文殿新設  昭和弐年十月壱日  社掌 柴田通知   区長 安達友次郎」

  (裏) 「昭和二年九月    大工棟梁 浅草屋光次郎 他五名」

L(表) 「昭和六年九月参拾日   八剱宮社改造     社掌 柴田憲二    区長 柴田輝吉」

  (裏) 「昭和六年九月参拾日   遷宮」

M(表) 「奉修 大東亜戦争為敵機の空襲度々あり其の都度当字に於ても被害有り依而防空壕を仮宮として安置せり

      昭和弐拾年五月拾五日        昭和弐拾年八月十五日令時  大東亜戦争終戦に奉遷座者也」

 (裏) 「昭和弐拾年八月十五日     宮司  柴田憲二代務者  山田重義    猪子石区長 安達秀義」

N   「昭和二十四年十一月一日 官有地境内無償払下記念        宮司 山田重義


 陶製の狛犬

  狛犬「寄進 高山かまノ彦六」  狛犬「元和二年八月吉日」

神明社に伝わる陶製の狛犬(こまいぬ)には、「寄進 高山かまノ彦六」「元和二年八月吉日」と記されており、神明社が現在地に遷座された「元和八年(1622)」頃のものである。


 八剱宮(八剣社/岸田蓬生と子ども相撲)

現在の蓬来(よもぎ)小学校の位置にあった「八剱宮(熱田神宮にある八剣宮の分社。熱田神宮の別名は、「蓬莱」)」と「観音寺(文献上は観音堂であるが、現在も月心寺に伝わる鐘に観音寺と彫られている)」を管理していた修験者・岸田蓬生は、修験道が弾圧された明治の初め頃から、猪子石神明社の神官もしている。


『尾張名所図会』には、以下のように書かれている。   ※ルビは原文のまま。句読点は、執筆者による。


蓬莱洞(よもぎだに)

同村の東に古き観音堂ありて修験(しゅげん)これを守り、よもぎ谷の観音と称し、慶長年中にかけし絵馬(ゑま)あり。又、八剱宮の社を鎮座す。熱田を蓬莱島と呼べるに准(じゅん)じ、ここも八剱宮の縁によりて名づけし物なるべし。

八剣社大祭の子ども相撲 (2012/09/22) 香流川旧河道痕跡

この八剱宮は、江戸時代から「子どもの神様」として深く信仰を集めていた。

古老によると、「岸田蓬生は、明治の神仏分離の影響で廃れゆく八剱宮(及び観音寺)を憂い、世間に八剱宮の名を広めんとして神明社で子ども相撲を始めた」という事だった。

他方『猪高村誌』は、「祭には子供相撲を奉納、これは今もつづいている。出征軍人家族など、参拝者は遠近より毎日あったのが、日露戦争後は、氏神様の境内に移転して今日に至った」として、子ども相撲は蓬莱(よもぎ)の時代から既にあったとしている。

これに対し古老は、「あんな山の中で、子ども相撲ができる訳がない」と強調されたが、定かではない。

いずれにせよ、明治初期から神明社で「子ども相撲」を始めたのは、岸田蓬生で間違いないだろう。神明社境内から香流川に飛び込む事ができた昭和30年以前(蛇行して神明社まで来ていた)、香流川の川べりの砂浜で子ども相撲は開催されていた。

さて、観音寺が月心寺境内に観音堂として移転した年は、明治18年とはっきり記録されている。「むかしよりよもぎのほらにこれまでも ときがじくしていまはげしんじ」という御詠歌も残っている。

では、八剱宮が蓬莱(よもぎ)から神明社へ移転した年月日はいつの事だろうか。

『猪高村誌』には「日露戦争(明治37〜38年)後」とあるだけで、明確な記述がない。

そこで、愛知県公文書館の『神社明細帳 愛知郡』を調べると、
「蓬莱洞ニ無格社トシテ存在ノ処明治四十年十二月廿五日許可ヲ得テ現地ニ移転合併」と記載されていた。

これは、明治39年12月の「神社合祀令(氏神は一町村につき一社に限るという神社の数を減らす政策)」の影響とみて良い。岸田蓬生死後(明治34年)の柴田通知氏の代の出来事である。

※厳密に言うと、明治40年は神明社境内に末社としての移転であり、本殿に合祀されたのは昭和39年になってからである。


 岸田蓬生(ほうせい/ほうえい)碑        神明社境内西側にある。  

明治3年、神職に転じたのを機に岸田蓬生基靖から岸田蓬生に改める。※古老は「ほうえい」と発音していた。

 岸田蓬生碑 
 岸田蓬生碑
(執筆者による
書き下し) 
        ※句読点と( )内は、執筆者による。

底清き香流川の辺(ほとり)に鎮座の産土大神(うぶすなおおかみ)に仕へ奉りし岸田蓬生翁は、漢籍を富永神墨大人(たいじん)に学びて深く言海(いみ)を探りあて、菅根(すがのね/枕詞)の懇(ねもころ/丁寧)に里童を教へ、及び村の為にも力を尽くし、別けて千早振(ちはやぶる/荒々しい/枕詞)神を敬ひ、天皇を尊び奉る心や上に篤(あつ)くて、明治三十四年、齢(よわい)八十二歳にて身罷(みまか)り給ふ。

斯(か)くも麗(うるわ)しく赤き心を慕ふように氏子の有志は議(はか)りて、伏猪(ふせい)の石とくに千代も朽ちせぬ亀鑑(きかん/模範)と、世に伝ふるになむ。

   大正八年十月     朝見正臣 撰    香南憲二 書


 ※ 「香南」というのは、地名ではなく、猪子石村・猪高村村長を歴任し、岸田蓬生氏亡き後、神職になった父柴田通知氏の後を受けて神明社の神官の役目を果たした柴田憲二氏の「号」である。



 柴田通知翁頌徳碑(しばたつうちおうしょうとくひ)
  柴田通知氏の写真   柴田通知翁頌徳碑  

 柴田通知翁頌徳碑(執筆者による書き下し)         ※句読点と( )内は、執筆者による。

  枢密顧問官   従三位勲一等坂本ソ之助(さんのすけ)篆額(篆書の額)

  大蔵参與官衆議院議員   正五位勲三等丹下茂十郎撰(文章)竝(ならびに)書

君諱(いみな)「通知」、又三郎と称し城東猪高町柴田又兵衛の長子なり。幼くして学を好み、夙(つと/早くから)に敬神崇祖の志有り。

神墨梅雪より皇漢(こうかん/日本と中国)学を修め、長じて大島宇吉・堀尾茂助等と交わりて公事(くじ)に奔走す。

明治七年、副戸長(町村に置かれた役職/町村の代表)と為る。爾来(じらい)二十余年、或いは村長、或いは郡会議員と為り、或いは所得税調査委員と為る。

此(この)間また、推されて恤兵(じゅっぺい/戦地の兵士を慰めること)教育衛生農事等各種委員と為り、其の地方自治及び治水事業等に於いて貢献多と為すや。

明治三十三年、県会議員に推薦され、君偶(たまたま)所感(思うところ)有りて之を辞す。爾後、復(ふたたび)自治公共の事に任ぜず。

同三十六年十二月、皇典(こうてん/日本の古典)講究(こうきゅう/研究)所に応じ、五等司業(しぎょう/神職の学階)を試授す。

翌年四月、郷社石作神社社司を補(たす)け、兼ねて村社神明社以下四社社掌(しゃしょう/社司の下に属した神職)に専心し、神事精励恪勤(かくごん/つつしみつとめること)す。

耋老(てつろう/非常に老いること)に及びても、未嘗(いまだかつて)懈(かい/気をゆるめること)少なし。

大正十二年三月、当路(とうろ/枢要な地位にあること)にて其の多年神社に奉仕し風教(ふうきょう/風俗と教化)改善に尽力の故、銀盃を贈り之(これ)を表彰す。

昭和十一年(1936)二月二十五日、病没す。君、嘉永六年(1853)二月に生まれ、齢八十有四。君、資性(しせい/生まれつきの性質)温良にして尤(もっとも)人情に厚く、郷党(きょうとう/同郷の人々)教慕す。

君慈父の如くして、頃者(けいしゃ/このごろ)村民胥(みな)建碑を謀(はか)りて其徳を頌(しょう/褒めたたえること)す。

図(はか)らずも不朽の請文(うけぶみ/文章の要請)を予予(かねがね/前々から)與(あずか)る。君旧眷(情け)有りて素欽(慎ましい)、其の徳業ゆえ敢えて辞さず、叙して(述べて)其の梗概(こうがい/あらまし)を云う。    
                                     昭和十一年九月



「猪子石遙拝所」碑と「子石霊神」碑

      猪子石遙拝所(神明社境内)      子石霊神碑(大石神社境内)

神明社境内西側に、「猪子石遙拝所」という小さな石碑がある。

その由来を古老に聞くと、
「酒井善十さんという人が、大正年間に寄付した石碑。昔、正月などは、神明社・猪子石神社・大石神社の3ヶ所を廻らなければならなかったが、ここを拝めば、猪子石神社と大石神社も廻ったことになる」ということであった。

ただ、遙拝(ようはい)とは「遠く離れた場所のその方角を拝む」という意味なので、方角はやや違うが「伊勢神宮遙拝所」ではないかと考えて、後日、再び古老に問うと、

「猪子石遙拝所は、元は旧社務所の南側に、天王社・洲原社・八剱社・鍬神社・山ノ神社・龍神社(龍耳社)・祖霊社(英霊社)の各末社と共に北向きに並んでいた。ワシは子どもの頃、籠もり堂で善十さん本人から直接聞いているから間違いない。伊勢神宮を拝むのなら、伊勢神宮遙拝所と彫られている筈」と強調された。

しばらくして、大石神社境内西側にある御嶽心願講の「子石霊神」碑の裏に、「川南講中  大正十四年八月八日建之  酒井善十」という文字を見つけた。

そこで、「猪子石遙拝所」の裏書きを再確認すると、「大正十四年十一月十九日建之   寄附人 酒井善十」であった。

つまり両石碑は、ほぼ同時期に建立されているのだ。

『名東区の歴史』に、

「今から百年ほど前、猪子石方面を天秤棒で小間物を行商する人があった。
御嶽宇兵衛と呼び、近郷を廻り親切と正直を旨とし、村々に病人または不幸がある家で、望まれるままに御嶽大権現を祈り神徳を授け法を行うので、次第に民衆の信仰がまし、遂に天保八年六月猪子石山手安左衛門宅にて、同志集まり木曽御嶽山を岩崎山に祀ることを相談し、小野村代官所に申請した。
また、これまで熱田に本部のある大先達儀覚行者の創立した丸山講(宮丸講)と合流し、新しく心願講をはじめた
その初回に参集した者を、猪子石十人御嶽衆という。
心願講は猪子石が発祥の地とも言えるので、先達は初代成瀬安左衛門・二代高木幸三郎・三代地重右衛門・四代酒井善十・・・(要約)」とある。

酒井善十氏は、御嶽心願講の先達だったのだ。「猪子石遙拝所」の由来は、本人から直接聞いたという古老の説が正しい可能性もあるが、「御嶽山猪子石遙拝所」ではないだろうか。

善十氏は、子ども(古老のこと)に分かりやすく説明したか、何らかの事情(氏神の神明社境内に置くことへの遠慮等)があって、その意図を隠した(「御嶽山」の文字を彫らなかった。「山丸三心」の御嶽心願講マークも無い)可能性がある。

石が小さくて「御嶽山」の文字まで彫れなかったからという単純な理由からかも知れないが、「猪子石」をやめれば「御嶽山遙拝所」とは彫れていた筈である。


御料地払下記念碑

 境内西側にある。以下、碑文。   ※カタカナはひらがなにし、句読点を付けた。( )内は執筆者による。

御料地払下記念碑  記 録

此郷(このごう)愛知郡猪高村大字猪子石地内御料地(皇室所有の土地)、字(あざ)八幡・宮根・栂廻間・八前・八畝町・濁池・高根・蓬来洞・亀鳥・地アミ・山ノ田・上菅廻間・下菅廻間・赤坂・姥ヶ谷・社口・鰻廻間の十七字、御料地段別総計二百九町九段一畝十八歩を黒松栽培用として貸下(かしさげ/政府・官公庁から民間に貸すこと)申請。

明治三十六年六月三十日付、帝室(ていしつ/皇室)林野管理局名古屋支庁より二十年期間の許可を受く。時の総代、高木市太郎・岡田太三郎・酒井兼次郎なり。

明治四十四年八月、総代を廃し、個人共有名に貸下権利を変更せり。

大正九年八月、不要存御料地処分令により、同年九月十日付、高木市太郎外二百四十六名払下申請書を提出せり。

大正十四年五月十八日付、払下許可の指令に接す。

此払下価格金六万六千百七十円也。

昭和二年五月四日、共有者協議の上、一部分売却の為、委員柴田憲二・山本悦心・横地春太郎・岡田悦太郎・高木市太郎の五名を挙げ、内百二十町余歩を中村慶吾に売却す。

残部分の山林は売却以外の共有者に分割譲渡せり。

爰(ここ)に至りたる沿革を記し、宮根山嶺に碑を樹(た)て聖恩(せいおん/天子の恩恵)に酬(むくい)る為、後世に記念す。
             香南 柴田憲二 書          (以上)



この「御料地払下記念碑」は、宮根山にあった(文中に「宮根山嶺に碑を樹て」とある)ものだが、区画整理で神明社境内に移設された。

古老によれば、

「坪10銭程度で払い下げられた(村人達が自己資金に応じて買い取った)広大な御料地(猪子石村の総面積の4分の1程度で、現在の平和公園辺りの山もそうだった)の半分以上を、10倍の坪一円程度で売却した。
売り上げ金(売らない家もあった)は、一戸に平均三千円ずつ入ったので、村人達は家を新築するなど一時大変裕福となり、銀行員・株屋・家具屋・呉服屋が村中に溢(あふ)れた」という。

「御料地払下記念碑」碑文には、そんな感謝が込められている。


まねき松

  2代目まねき松(宮根小中庭)  初代まねき松(『猪高村誌』大正7年版)

昭和22年に伐採されるまで、宮根山の山頂に、幹廻り2メートルもある大きな松の木があった。途中から南に曲がって伸び、遠くから見ると人が手で招く様に見えるので、「まねき松」と呼ばれていた。

「長久手の合戦」の時、殿様がこの松の下から「こっちだ。こっちだ」と部下を手招きしたから、という説が『猪高村誌』に紹介されているが、松の寿命を考えれば、後の世にできた「伝説」であろう。

この松の保存の為に、100平方メートルが村有地となっていて、この敷地内に上記の「御料地払下記念碑」が建てられていた。

初代「まねき松」は、朽ち果てたため伐採された。2代目「まねき松」は、現在宮根小学校の中庭に植樹されている。



末社(英霊社)

日清・日露戦争等の戦死者をまつった旧祖霊社は、太平洋戦争の戦死者を祀る英霊社となり、遺族会が中心となって、3月の春分の日に慰霊祭を行っている。

 龍耳社(左)と英霊社

末社(龍耳社)


耳のある蛇を祀った龍耳社は、5月第一日曜日が奉斎日。

古老によると、

《明治の初期に、猪子石字土久尻一番に祀られていた山ノ神が、神明社に移転された。
年代は不明だが(明治23年頃か)、その跡地に、猪子石引山の加藤氏の親類の畑市左衛門という人が、この龍神様を祀った。
畑氏は名古屋栄町で「中央バザー」という店を経営しておられた方で、「個人の管理では大変なので」と猪子石神明社に管理を委託された。
永代管理料として、大判一枚・小判一枚・二朱金四枚を渡された(大正10年頃か)
これらは現在も、氏子総代の管理のもとに、農協の貸金庫に預けてある。
昭和25年頃迄は、神明社のお祭りの日には来賓として加藤家に招待状を出し、欠席の折りには、お供えと料理を届けた。
土久尻に在る頃は一坪位の社であったが、整理組合の資金で現在の様な鉄筋コンクリート造りとなった》という。

                                   御墨附(大正10年8月28日)
神明社資料館に、「永代管理料」の内訳が書かれた資料が展示されている。それに、

御墨附
 拾両大判壱枚 四十一匁目
 壱両小判壱枚 二匁六分
 二朱  四枚   六分
 計 六枚 四十四匁二分
 右耳龍大神寶物
 永久保存スル者ナリ
  責任者 氏子総代
 大正拾年八月廿八日」とある。



拾両大判カタログ写真十両大判は、家臣への恩賞用、朝廷や公家などへの贈答用に鋳造された特別の貨幣である。

その鋳造は、天正年間、豊臣秀吉が室町将軍家の御用彫金師・後藤家に命じて造らせたことに始まる。

十両というのは貨幣の単位ではなく重さの単位で、44匁=165グラムと定められていた。

この大判様式は、徳川家康によって引き継がれ、江戸幕府は後藤宗家に独占的に鋳造を請け負わせた。

したがって、大判に書かれた「拾両 後藤(花押)」の筆跡をみれば、鋳造年代を知ることができる。

貸金庫で厳重に保管されているこの十両大判の現物を見たことはないが、写真でなら見たことがある。

日本貨幣商共同組合発行の『日本貨幣カタログ』(右写真)で調べると、筆跡から「慶長大判金(明暦判)」と同一と思われる。

※詳しくは、「鋳造期間 明暦4年〜(1658〜 )  第九代 後藤程乗墨書」となっている。

大判の評価は、まず墨書きの状態によって決まるので、鋳造当時の墨書きがそのまま残っているものは最も価値が高い。

写真で見る限り、この十両大判は極上品で、カタログにはこの一枚で中古マンションが一部屋買えそうな値段がついている。


龍耳社由来の書絵            ※2015年9月、原寸大で製作された。

  龍耳社書絵

新聞「新愛知」(以下、書き写し)    龍 耳 社(りゅうじしゃ)   例祭日 五月第一日曜日

●由緒

明治の初期、三河碧海郡(現在の碧南市)の弁天池にて珍しくも「耳のある蛇」が捕らえられた。
当時も話題になったようで地方新聞「新愛知」第435号明治二十三年二月五日付には「碧海郡堤村本村の杉浦喜兵衛と云人は先達て同村大字堤で乾固まった八尺許の蛇を見付けよく見ると六七分位の耳が付てゐるので持帰ったので見物人がぞろぞろ」と掲載されている。

その後、守山区小幡の畑一衛門(または市左衛門)という方が、これを「耳の祭神」のご神体としてお祀りをしていたが、畑氏の希望もあり、昭和初期からはこの猪子石神明社の末社としてお祀りすることとなった。
耳の健康や病気平癒を願う「耳の神様」として人々の信仰を集めています。

左の書絵は、「耳がある蛇」を生け捕りにする様子を描いたもの。明治初期に描かれたもので作者不詳。原寸大

※「碧海郡堤村」は、碧海郡高岡村から碧海郡高岡町へと変遷し、昭和40年から豊田市の一部(堤町・堤本町)になっている。


 龍耳社の起り ( 先々代の山田宮司の覚え書き) 

昭和二十年四月一日、神明社月並祭の場所に、守山区小幡住人畑一衛門と愛娘の二人来社が有り、龍耳の神様の経歴を話された。
「私も七十六歳に成りました。今後此の龍耳神様迄御祭り申し上げたるも、一人守山区小幡より来るも困難になるし、子孫代々来て御祭に申し上げるも粗末しつつと思い、猪子石の此の区の方辺に奉らせて頂戴度く」との話で持参せられ、当時龍耳神様(土久尻一ノ四番地)土地御社瓦葺一棟と宝物、大判、小判等を安達秀義区長、受取り時の区長に変る度に申し送り、区長宅に大切に保管せしが、此度神社改築(昭和39年)と共に宝物の箱を新調し納めると到る也。

      昭和三十九年十月十一日       神明社宮司  山田重義 書  (覚え書き終わり)

※神明社氏子総代相談役を長年務めた古老(高木文雄/大正3年生れ/享年99才)は「畑市左衛門」としていたが、山田宮司は「畑一衛門」としている。どちらが正しいか不明。



末社(痔塚神社)

痔塚神社1584年の「小牧・長久手の戦い」で焼かれるまで、猪子石神明社と西隣の月心寺にまたがって猪子石城があった。

当時、香流川は蛇行して神明社まで来ており、それを天然の水堀としていた。

「織田信長が、今川義元の尾張侵攻に備えて造った砦だった」という説もある。

猪子石城主は天白植田城主・横地秀政の弟の横地秀次で、秀吉側(池田恒興)に味方した。

運命の皮肉というべきか、兄秀政の次男・横地秀種は徳川軍に参陣していた。

4月9日の早朝5時頃、秀吉の甥の三好秀次隊(第四隊)は白山(はくさんばやし/現在の四軒家の北の丘陵)で朝食をとろうとしていた。

そこへ、徳川隊が林に隠れて接近し、鉄砲の一斉射撃を開始した。

不意を突かれた三好秀次隊は大混乱し、午前6時頃には総崩れとなって先行する堀秀政隊(第三隊)がいる南方に向かって敗走した。

事の次第を察知した堀隊は、徳川軍を待ち構え一斉射撃を浴びせた。

攻守ところをかえ、徳川軍の一部は猪子石方面に逃げた。

横地秀種は香流川沿いに西に敗走する徳川軍の殿(しんがり)をつとめて奮戦したが、香流川の辺(現在の中島橋辺り)で討死した。

彼を祀った「横地塚」が、縮まって「地塚」、そして「痔塚」になったと言われている。

また、「秀種は臀部を切られて戦死した」という説もある。

一方、叔父の猪子石城主・横地秀次は徳川軍に敗れ、城に帰らず曽木村(土岐市)へと逃げ、そこで帰農した。

痔塚神社は、2020年まで、神明社すぐ近くの猪子家の庭先に祀られていたが、縁あって神明社境内に祀られることになった。

神明社から直線距離で北150メートルの所に、「長久手の戦い」で戦死した兵士の塚と伝わる兜塚がある。

痔塚と同様に、村人は敵味方関係なく丁寧に葬ったという。

この痔塚(明治になって神社となり、神明社の末社になる)と兜塚は、「長久手の戦い」の戦火が、ここ猪子石にも及んだ事を現在に伝える貴重な歴史遺産である。


以下、看板に書かれた由緒を記す。

 痔 塚 神 社 

由緒 天正十二年長久手合戦の時、植田城主次男「横地秀種」は徳川方で参陣し腰から下に深手を負い香流川まで逃れたがそれが元で戦死したと伝えられる。

猪子石城(現在の月心寺あたり)の城主で叔父の「横地秀次」を頼ってこの地まで来たともいわれている。

戦後敵味方の死体が合葬された塚は「横地塚」と命名された。

その後、地形も変わり田に開墾されたが塚は残り、いつからか伝えられたことに何病によらず腰から下の病気と称して信心すれば不思議と霊験(ご利益)があるとされた。

明治、大正とお社の奉納や管理運営などの変遷を経て、令和二年五月にここ猪子石神明社境内にお社を移して現在に至る。

例祭日 三月第一日曜日 (旧大祭は三月七日、小祭は十二月七日)

御祭神  痔塚大神  じづかのおおかみ
       大物主神  おおものぬしのかみ
       湍津姫命  たぎつひめのみこと


「猪子石城址」看板

2023年3月初旬、氏子総代によって、猪子石神明社境内入り口に「猪子石城址」の看板が立てられた。

猪子石城址の看板以下、看板の文言を記す。
〈     猪子石城址            
神明社および月心寺の地域(旧猪子石村字八反田)は天正年代まで猪子石城であった。

立地は平城、城主は横地主水正秀次であり、隣村(現在の名古屋市天白区)の植田城主横地越後守秀重の弟で織田信長の次男織田信雄から知行二百九十貫を与えられた武将であった。

天正十二月四月(一五八四年)徳川家と羽柴家の小牧長久手の合戦で城は焼け落ち、廃城となる。

横地氏は、遠州(静岡県)横地城よりこの地に移り住んだ一族。この戦では、猪子石村で徳川方、羽柴方敵味方の将兵が多く戦士し、横地主水正秀次の甥横地秀種も字八反田で戦死。村人はそれらの戦死者を合葬し、その塚を横地塚と名付けた。現在神明社境内に痔塚神社(元横地塚)として祀られている〉。                                                

秀次の兄を秀重とするこの看板の文面は、『猪高村誌』に依拠している。しかし、『名東区の歴史』では、秀次の兄は秀政としており、秀重は秀政・秀次兄弟の父である。秀次の兄について、猪子石村の系図は秀重だが天白植田村の系図は秀政としており、どちらが正しいかは分かっていない。


猪子石土地区画整理事業「完成記念」碑

 名古屋市猪子石土地区画整理事業      完 成 記 念

      土地区画整理組合連合会会長  衆議院議員 江崎真澄 謹書


  区画整理「完成記念」碑

(裏面)    沿 革

この地域は、古く山田郡に属し、その後愛知郡となり、村名をとなえるようになった。

明治二十二年の市町村制実施にて猪子石村に、明治三十九年に猪高村となり、昭和三十年に名古屋市に合併し千種区に編入された。そして昭和五十年に一部を千種区に残し、名東区として独立した。

組合設立当時のこの地域は、起伏の多い丘陵地であり、北側約三分の一は農耕地で、その中央を東西に香流川が流れ、これを利用して田畑を耕作していた。

主な道路としては、県道岩作街道が東西に走り、昭和十八年に改修された現在の田籾名古屋線と、通称山手道があり、南北に通学路が通っている程度で、県道を通るバスが唯一の交通機関であった。人口に於いても千有余名の長閑な農村であった。

本事業は施行地区面積が極めて大きく、多岐多様な問題が山積みされていましたが、組合員各位の協力により困難な問題を克服し、道路・公園等の公共施設の整備はもとより、教育施設や公益施設等の用地確保に努め、健全で優良な市街地として、地域社会の発展に寄与する等、多大な成果をあげ完成に至った。

この功績に対し、昭和六十一年七月に全国優良組合として、建設大臣より、又同年同月に社団法人全国土地区画整理組合連合会より、それぞれ表彰の栄光に浴した。

ここに組合員の総力により、区画整理事業が完成するに当り、この地域の発展と各位の御協力に深甚の敬意を表し、この碑を建て後世に伝えるものである。

         昭和六十二年三月吉日            名古屋市猪子石土地区画整理組合

        事 業 概 要

 組合設立年月日       昭和三十七年四月十六日

 施行地区面積         四百二十三万七千五百四十一平方メートル

 総 事 業 費        百八十四億円

 換地処分公告年月日      昭和六十一年五月二日

 事業完工年月日        昭和六十二年三月吉日

 組 合 員 数         九千二百九十七名





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