松嶽山月心寺



月心寺  名東区神月町604番地にある。本尊は阿弥陀如来像。脇仏は文殊菩薩と普賢菩薩。


 月心寺本堂  月心寺山門


『尾張志』に、「猪子石村にありて松嶽山といふ。春日井郡大永寺の末寺也。創建年月知りがたし。本堂阿弥陀如来を安置す。鎮守白山のやしろあり」とある。

本堂内の銘板月心寺の沿革については、本堂内の「銘板」に詳しく書かれているので、以下それを記す。

本文は、漢字とカタカナで書かれているので、カタカナをひらがなにし、句読点がほとんどないので適当に付けた。

漢字の旧字体は新字体に改め、漢数字を一部アラビア数字にした。

また、( )内のルビ及び説明も、執筆者のもの。










 沿革

月心寺本尊 阿弥陀如来座像当寺は、創建年月は不詳なるも、(猪子石村の)西脇にありて延命寺と称し、本尊は阿弥陀如来の座像である。

慶安二年(1649)四月、当時の地頭小笠原惣右エ門が中興の基(祖)となりて、如来道(にょらいどう)に移転、蔵福寺と改名し、天台宗に属する。

寛文二年(1662)に、東春日井郡守山大永寺の末寺となり、節桂忠(せっけいちゅう)大和尚を請して曹洞宗となり、村の中央である現在地に再移転し、伽藍(がらん)を建設し、松嶽山(しょうがくざん)月心寺と三度改名す。

開基は、猪子石地頭小笠原惣左エ門にて、法名月心宗江大居士と号し、知行八百石の旗本で、正法(保)二年(1645)入道し、子孫は岐阜に住す。

四世陽沢和尚が諸堂を改築して、中興となる。

後明治24年、濃尾の大震災に会い本堂全潰せるも、明治26年、古材等を使用して、53坪寄せ棟瓦葺造りとして再建成る。

山門は現在の姿にて木像であったが、口伝に依れば、東春の水野村定光寺の材を貰い受け建造したと伝えらる。

庫裡は、昭和3年、先住職奇石和尚(21世)の代改築、60余坪ある。


 観音堂  観音堂本尊 十一面観世音菩薩


観音堂の鐘観音堂(現蓬来小学校の位置に、八剱宮と供にあった)は、十一面観世音菩薩を本尊として、千手観世音、並びに西国三十三霊場の観世音を安置す。

明治18年、蓬莱山岸田家より移転・奉安され、大正12年、向拝(ごはい/参詣者の礼拝する所)を造り、15坪余に改築さる。

昭和31年、檀信徒各位の浄財に依り開山堂並びに位牌堂として、24坪を新築し、大本山永平寺不老閣猊下(げいか/管長)を拝請して落慶入仏供養を厳修す。

昭和40年、大字猪子石より共有地の寄付を受け、約800万円の経費を以て鉄筋コンクリート造りに山門を改築すると共に、鐘楼を新築して重量200貫(約750kg)の梵鐘を新鋳し、昭和41年10月16日、大本山永平寺不老閣猊下を再度拝請して入魂供養を厳修す。

爾来(じらい)、大字猪子石共有地処分の議あるを機会に、再度寄付を願える様に共有土地管理委員会に極力懇請すると共に、檀信徒各位の協力を得て本堂改築の条件の許に、寄付受諾の話まとまりしに依り、昭和43年2月、本堂改築準備に入り、各組々より建築委員を選出して本堂建築委員会を組織し、各担当役員を決定し、討議の結果、大字原檀家各位からも普通寄付以外に応分の寄進を拠出(きょしゅつ)。

寺有地の山林・野墓等の売却の外、檀信徒各位より浄財の寄付を仰ぐ事に議決して、各地の新築・改築されたる寺院を見学参考の上、7月設計書作成。

8月、建設業者4社を指定し、入札の結果、末広工業株式会社に落札、9月着工。

本堂二階建て、延べ190余坪。開山堂兼位牌堂二階建て90余坪。

観音堂15坪余。鉄筋コンクリート建て、瓦葺きとして改築。

弁財天堂尚、木造瓦葺き約5坪の弁財天堂も新築。

八事桃巌寺(とうがんじ)の東山弁財天分身を拝請の上安置。

旧開山堂兼位牌堂を移築して不老閣として改造。

各棟間に渡り廊下を新築して、昭和45年10月、全工事を完了。

11月3日、大本山永平寺不老閣猊下をまたまた拝請して落慶入仏供養並びに完工式挙行、引き続き5日間の授戒会を厳修す。

尚、境内整備も併せて施工。2827坪余の一区画を構えて、荘厳なる伽藍の整備を終了して、内外共に美観を整う。

因みに、総工費は、授戒会の支出を含めて、1億1100余万の巨額を費やす。

                     昭和四十八年十月吉祥日   当山二十二世 考学義寛 撰  (以上)



御留場標石




 御留場標石(おとめばひょうせき)

月心寺境内の鐘楼堂西に、「従是西南御留場(これよりせいなんおとめば)」と彫られた石柱がある。

香流川と矢田川の合流点の河原が、尾張藩の大砲(おおづつ)の演習場であった頃の「立ち入り禁止」の標石。

その後、石橋の材料として使われていたのを、区画整理の折りに現在地に移設された。











馬頭観音(墓地入口) 馬頭観音

月心寺墓地入口にある馬頭観音は、山口街道から持ってきたもので、横に「馬持一同安全」と彫られている。

『猪高村物語』に、
「以前引山の街道沿いにありました。あるとき激しい雷雨があり、引山で落雷のために馬が死にました。そこでこの石像を立てたのだそうです」とある。

馬頭観音は、もともとは馬が牧草を食い尽くすように、人間の煩悩を消し去って欲しいという信仰からきている。

それがいつのまにか馬の守護神として崇められ、交通安全のために街道に、あるいは馬が急死した路傍などに設置されたりするようになった。













 トップページにもどる     猪子石村に戻る       ページトップへ