行者堂


行者堂  名東区香流2丁目(香流小学校と中島橋の中間付近、「香流消防団」の小屋の南隣)にある。


 行者堂全景  役行者像


現在にいたるも行者堂前で、大峰山(奈良の吉野山から和歌山の熊野まで、約50キロにわたって連なる山系の総称)の「山開き」「山閉じ」に呼応して、毎年5月第一日曜日と9月第一日曜日に、宮司さんの祝詞(のりと)と、氏子総代による般若心経の読経という、貴重な神仏習合の行事が続けられている。


 十六神仏


行者堂祭神

首出掛大明神/金剛蔵王権現/勝出大明神/子守大明神/金清大明神/愛染明王/利現大師/三条大権現

地蔵大菩薩/行者大菩薩/不動明王/八代龍王権現/天之川辨財天/熊野三社大権現/大師遍照金剛/伯耆大菩薩    


 修験道

「修験道」とは、山へ籠(こ)もって厳しい修行を行う事により、様々な「験(しるし)」を得る事を目的とした神仏が融合した宗教で、山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道(おんみょうどう)などが習合して奈良時代に成立した日本独特の宗教である。

開祖は役小角(えんのおづぬ)だが、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれることが多い。

修験道は、明治5年に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた修験先達(せんだつ)は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。


 『猪子石今昔』

千種区の香流橋地域センター設立五周年を記念して、同センターより昭和59年に刊行され、昭和62年までに1000部完売したという 『猪子石今昔』に以下のような「大峰山」についての記述がある。

《男は、若い衆にはいった年か、その翌年には、奈良の大峰山(女人禁制)に詣(もうで)ることが、掟になっていた。

他の希望者は、随意に、二度でも三度でも、一緒に参拝してよいことになっていた。

参拝する日は、四、五十歳の先達(せんだつ)という人によって決められた。

参詣(さんけい)の時、通る道は、行者道である。

新田部落の真ん中から上にあがり、招き松から、今のガンセンター前の道に出、これを西に行って姫ヶ池、日泰寺の北側を通って覚王山に出た。

覚王山から電車に乗った。先達二人、参詣者二十人位の一団であった。装束は、白はんてん、白ももひき、わらじである。

最初の宿泊所は、長谷の観音さまである。

翌日、「サンゲ、サンゲ、お山は快晴」と言いながら、大峰山の頂上に登る。初詣りの者は頂上の行場で「のぞき」をする。

切り立った崖の上から下を覗(のぞ)くのである。たすきをかけているから、先達が、そのたすきを後ろから持って、「もっと前に出ろ、前へ出てのぞけ。」と覗かせる。

こわくて震えあがる。そこへ追っかけるように「親孝行するかッ」と問う。思わず「ハイッ」。こうした光景がみられるのが、行の場である。

二か所の行場を終わると、下山する。

招き松まで帰ると、親が、米の粉のダンゴを被り笠の中に入れて、迎えに出る。そして、親はダンゴを持ってきて、出迎えにきた人にほどこしを行い、参詣帰りの一行は、招き松から「サンゲ、サンゲ」といいながら、下へ下りる。

出迎えのひとは土下座をして、一行にまたいでもらう。こうしてもらうと、魔除け、夏病みが防止できるといわれていた。

一行は、田んぼの中を行者堂(今の香流小学校裏)まで帰り、お祈りして、解散する。

行者詣りは、先達と希望者で、昭和十年位まで毎年、おこなわれた》               (引用終わり) 


菊田先生之碑


菊田先生之碑『猪高村誌』に以下のような菊田先生についての記述がある(要約)。

《菊田家は元横地氏と称していた。

3代嘉善に至り、両部(りょうぶ)神道である修験道を志し、山城国真言宗修験道醍醐三宝院に入門、名を徳浄と改めた。

後山城国鞍馬山・大和国大峯山に修行、神性呪術(じゅじゅつ)を極(きわ)めて下山、権大僧都となり、宝暦十一年猪子石村に田中山寿宝院と号する修験道を開き、初代住職となった。

翌年猪子石村中央香流川の橋の南に、ささやかな行者堂を建て、七月入峯の修業者を堂前に集めて祈祷のうえ大峯山に発足した。

その神道普及の傍(かたわ)ら手習所を開き、漢学・国学等を同村始め広く近郷の児童に教え、子弟訓育に尽すところが多かった。

之(こ)れが為、村人から大変敬慕せられたという。   

5代菊田縫之丞(ぬいのじょう)は横地栄善の三男で、天保5年7月2日、猪子石村字中島に生れた。

後世は王政復古となり、御維新となるや復帰を命ぜられ、神仏混淆(こんこう)の両部神道である田中寿宝院は神仏何(いず)れか一方に改める事となったので、熱田神宮の神官菊田家の後を享(う)けて禰宜(ねぎ)となり、茲(ここ)に姓を菊田と改め和示良(かにら)神社及び浅間神社等に奉仕した。

明治5年8月3日、学制が布(し)かれると共に、先祖より永く手習所としていた中島の屋敷は、ここに香流学校と改められることとなり、縫之丞は同校最初の教師となり、16歳から71歳まで、56年の久しきに亘(わた)って、教育に尽瘁(じんすい)した。

そして其の功績は村民のひとしく認める所であったが、正3年5月1日、縫之丞81歳の時、猪子石村有志に依って香流川の南、行者堂のほとりに、記念碑(菊田先生之碑)が建立せられた》         (引用終わり)      

 ※「菊田先生之碑」には、「大峰山 権大僧都 大越家(だいおっけ)」と刻印されている。これは、一般的大峰山奥駆け修行者の最高位である。

宝暦12年は、1762年であり、およそ250年も前に行者堂は、菊田家(その頃は横地姓)によって建てられたことになる。

行者堂内部には、頭に長頭巾(ながときん)を被り、両肩を藤衣でおおい、台座に腰をかけ、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に経巻を持ち、素足に高下駄を履いた真白き役行者像(写真最上部)が奉祀(ほうし)されている


 和行霊神(わこうれいじん)


和行霊神


猪子石村では昭和10年頃まで、村の掟として大峰山参りが続いたのは、菊田先生に対する尊崇の念と菊田先生に師事した大先達柴田和蔵(わぞう)氏の功績によるものである。

「和行霊神」碑は、和蔵氏の還暦を祝って、「菊田先生之碑」(菊田家は、大正年間に猪子石村を離れる)よりも早い大正元年9月に建立された。

柴田和蔵氏は大正12年4月、72才にて逝去された。戒名は、圓翁院和光泰禅居士。



















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