2024/07/12追加:
★史跡由義寺跡 令和5年(2023)度の発掘調査・現地説明会
八尾市報道発表は次の通り(大意)である。
・令和4年度の発掘調査で「由義寺」の塔基壇の下層で確認した基壇が、今回の調査で東西辺が約17m(南北は未確認)であると確認される。おそらく塔基壇であろうと考えられる。
※発表では下層基壇も正方形で塔基壇と断定されている。 ※「由義寺」の塔基壇の下層の塔基壇は「弓削寺」の可能性が考えられる。
・由義寺の塔基壇の南端より約3m内側で、下層基壇の版築土と掘込地業を確認する。この位置から、基壇の南北幅が約17mであることが確認される。
・今回確認された下層基壇が塔基壇だとすれば、塔基壇(一辺約17m)を造り変えて、その上により大きな塔(一辺約21m)に変更した例は珍しく、由義寺の建立過程を考える上で大きな手掛かりとなる。
----------------------------------------------------------
○「大阪府八尾市 史跡由義寺跡 第5次発掘調査現地説明会資料」八尾市魅力創造部観光・文化財課 より
■調査成果について a.上層基壇(由義寺塔基壇) 調査区の中央北側で塔基壇の南側を確認する。
基壇上面に設置されていた礎石や基壇外装は失われるも、基壇構築の基盤となる地面から上に約0.6mが残る。基壇土は版築(シルトと粗砂の互層)で造られる。
残存する基壇の上面では、0.4m前後の石がほぼ同じ高さで置かれている。この石は、基壇土を強固にするために入れ込まれた可能性がある。
調査区の南側で凝灰岩の破片を含んだ溝を確認する。この溝は基壇四方で発見される。
溝の中心付近を結ぶと一辺21.6m(72尺)の正方形となり、基壇規模を復元する際の根拠となった遺構になる。
また、基壇規模や凝灰岩の出土から、塔基壇は「壇正積基壇」であったと考えらる。
さらに、基壇の西面階段にあたる部分で幅広となることがわかっており、今回、南北幅が広くなることを確認する。このことから、南面階段の位置や構造を復元する上で重要な成果を得ることができた。
塔基壇の構築時期は、基壇周辺から奈良時代後期の軒瓦が出土していることや、平成29年(2017)の調査で、基壇中央の基壇版築層から神功開寶(765年初鋳)が出土していること、さらに、『続日本紀』神護景雲四年(770年)に塔の建設に携わった者に位階を与えるとの記事から、奈良時代後期頃に塔は完成していたと考えられる。
b.下層基壇 調査区の中央西側で塔基壇の断割りを行い、下層基壇を確認する。
基壇土は高さ0.2mが残り、上層基壇同様に版築で造られていた。その下層で掘込地業の痕跡を確認する。旧地表にあたる褐色の粗砂層を約0.7m掘り込み、その中に0.2〜0.5mの花崗岩を入れ、丁寧な版築を施していた。最下層には0.5mを超える石を据えていた。これらは湧水の激しいこの場所において建物の地盤沈下を防ぐために行われた土木工事の痕跡とみられ、高度な技術が用いられたことがうかがえる。
掘込地業のはじまりの高さに近い場所に、平たい面を外側に向けた0.5mの石が設置されていた。
同じような石を下層基壇東面でも確認している。これらは基壇構築時に設置された石(見切石)と考えられ、基壇四方の辺に並べられていたとみら
れる。 平成30年(2018)、令和4年(2022)、今回の調査で、掘込地業の痕跡を四方で確認することができた。
各辺の内側を結ぶと東西約17m、南北約17mの正方形に復元でき、掘込地業の規模と基壇の規模が同一と考えた場合、下層に存在した建物は、一辺約17mの塔基壇と考えることができる。これは全国の国分寺と同規模で、近隣の古代寺院跡では柏原市の智識寺や河内国分寺に匹敵する大きさになる。
下層基壇の構築時期は、現在、出土遺物の分析を進めているところであるが、平成30年(2018)調査の下層基壇西面の掘込地業から一枚作りの平瓦が出土しており、奈良時代中頃以降と考えられる。
■まとめ 今回の調査で下層基壇が正方形で塔基壇であることがわかる。
下層基壇と由義寺塔は東の辺を合わせて造られ、下層基壇を活かしつつ、その上面に最大0.5mの整地を行い、約1.3倍の大きさの塔が構築されている。
下層基壇は、土層の堆積状況から由義寺の前身寺院である弓削寺の建物の可能性がある。
塔の規模が拡大された理由としては、称徳天皇による由義宮・西京(1)の造営に伴い、国家の寺院にふさわしい規模に造り替えたと考えることができる。
当初の塔を造り替えて、大きな塔に計画変更したという例は他になく、貴重な事例といえる。由義寺の建立過程を考えるうえで重要な成果を得ることができた。
西京(1):称徳天皇が弓削の地に造営をすすめた宮都 ■図版 令和5年度調査位置図 由義寺塔基壇と下層基壇の位置関係 塔基壇南側現況模式図
令和5年度調査区ほか
下層基壇堀込地業・見切石・下層基壇土・整地土・塔基壇土:南から:下図拡大図
2023/06/24撮影:
(仮)道鏡と称徳天皇との関係: ○骨子は「由義寺の塔の物語」八尾市観光・文化財課 より
弓削道鏡:八尾(河内若江郡)を本拠とする弓削氏出身、葛城山で修行し、法相宗義淵弟子と伝える。宝亀3年(775)下野で寂する。
称徳天皇:父は聖武、母は光明皇后、阿部内親王。天平勝寶元年(749)阿部内親王、孝謙天皇として即位、天平寶宇8年(764)孝謙上皇、称徳天皇として重祚。八尾・由義宮に3度行幸。
天平宝字5年(761)近江保良宮に孝謙太上天皇が行幸し、道鏡は看護禅師として孝謙上皇の病気を快癒させる。
※保良宮については「第三次近江国分寺」中に記事あり。
天平宝字6年(762)孝謙上皇出家(道鏡の影響か)
天平寶宇8年(764)孝謙上皇、藤原仲麻呂の乱を鎮圧、称徳天皇として重祚。佛教を政治の中心となし、西大寺・西隆寺を建立。
宝亀元年(770)藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の死者の供養と鎮護国家のため百萬塔(木製三重塔)を作成、6年かけての奉安が結願する。
※百万塔は天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるため称徳天皇によって発願され、宝亀元年(770)に完成した百万基の小塔である。百万塔は大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・西大寺・法隆寺・弘福寺(川原寺)・四天王寺・崇福寺の十官寺に十万基づつ安置される。現在は法隆寺に伝来した4万数千基が残るにすぎず、それらも多くが寺外に所蔵されている。
天平神護元年(765)弓削行宮に行幸、弓削寺に礼拝。道鏡は僧籍のまま太政大臣となり、翌年道鏡は僧位の最高位である法王に就位する。前後には皇族に対する粛清が行われる。
神護景雲3年(769)宇佐八幡宮神託事件が勃発。
※この事件には2つの神託がある。
道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が、「道鏡を皇位に就すべし」という旨の宇佐八幡宮の神託を奏上す。
称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣する。
和気清麻呂が宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣を受ける。
清麻呂が託宣・宣命を得るには奇怪な出来事が頻発するが、清麻呂は「・・・天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。・・・」との神託を持ち帰る。
称徳天皇は激怒、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに大隅国へ配流する。
称徳天皇は詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言し、事件は決着す。
※この事件は道鏡が皇位を望んだのか、称徳が道鏡を皇位に就けることを望んだことからなのか、あるいは反称徳である皇族や藤原氏などの反称徳への陰謀のかなどについては、全く闇の中で不明である。日本史を通じて一貫して見えるのは天皇家は決して聖なる存在でもなく、徳の源泉でもなく、世俗権力の臭い存在であるということあろう。
不思議なのは、その直後(同じく神護景雲3年)、称徳天皇第2回目の河内国への23日間の行幸を行う。これが由義宮の初見である、また龍華寺に遊び、由義宮を西京と称するという。
しかしながら、もし称徳が道鏡を皇位に望んでいたとしたら、別に不思議な話ではない。 →この点については、
【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】の項で、
時系列的に詳細を記述しているので参照を請う。 神護景雲3年(769)称徳天皇第3回目の39日間におよぶ由義宮に行幸。由義寺の建立が加速する。
宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御。群臣の評議があり、白壁王(後の光仁天皇)が立皇太子、道鏡は下野国薬師寺へ左遷(配流)される。
宝亀3年(775)道鏡下野で寂する。
★2017/02/09八尾市教育委員会報道発表
○報道発表内容概要:(2017/02/10各社報道):
奈良期に女帝称徳天皇と僧道鏡(不詳〜772年)が建立した由義寺(弓削寺)跡とされる大阪府八尾市の東弓削遺跡で、塔基壇が見つかり、基壇の規模から推定すると、七重塔だった可能性があるという。
遺跡では昨年(2016年)大量の奈良後期の瓦が出土し、近くに建物の遺構があるとみて調査が続けられていたが、ついに遺構が発見される。
基壇は「版築」で構築され、1辺約20mの方形で、高さ約70cmの層が確認される。
しかし高さは、実際には1.2〜1.5m程度あったとみられる。
今回の調査では、基壇の周りから凝灰岩の切石の破片が多数出土する。つまり、基壇を装飾する作業が施工されているということは、塔建築の最終工程ということであり、塔は竣工していたと判断できる。
基壇の規模は、高さ約100mともいわれる東大寺七重東塔の基壇(1辺24m)には及ばないが、大安寺七重塔の基壇(同20.4m)に匹敵する大きさである。また、大和東大寺や興福寺と同笵の瓦が多く出土しており、国家寺院と判断できる。塔は七重塔である可能性が高いと推定される。
木下正史東京学芸大名誉教授(考古学)は「基壇の大きさや、平城京の瓦、続日本紀の記述などを総合すると、由義寺の塔とみてまず間違いない」という。
廃絶は、基壇周辺から発見された瓦や壁土などは強い火を受けた痕跡がみられ、遅くとも鎌倉期より以前に焼失したと推定される。
※東弓削遺跡がある地域は、道鏡の生地が近く、出身の弓削氏がいたとされる。
「続日本紀」によれば、法王となった道鏡を信頼した称徳天皇は、この周辺に離宮として由義宮(ゆげのみや)を置き、行幸したという。
※「続日本紀」には、宝亀元年(770)「由義寺の塔の建設に伴い、その労に従って諸司、雑工ら95人に位階が与えられる」と記される。
そしてこの記録が由義寺に関する唯一の記録という。
「続日本紀」原文:
宝亀元年 四月
五日 丁酉。 詔造由義寺塔諸司人及雜工等九十五人。隨勞輕重。加賜位階。正六位上船連淨足。東人。虫麻呂三人。族中長老。率奉歌垣。並授外從五位下。以東人爲攝津大進。又授正六位上土師宿祢和麻呂外從五位下。
※由義寺は道鏡出自の弓削氏一族の氏寺「弓削寺」として、742年以前には建立されていたと思われる。
742年以前に建立という根拠は、天平14年(742)12月30日の「智識優婆塞等貢進文」に弓削寺の名・寺僧行聖の名が見えることを初見とするからである。
その後、称徳天皇の信頼を得た道鏡は法王となり、弓削氏一族がいた周辺には西京と位置づけられた「由義宮」が置かれ、弓削寺も由義寺として整備されたものと推測される。
河内由義寺塔跡発掘現場:東弓削遺跡で見つかった塔基壇(白線内)の発掘現場=1月(八尾市提供)
河内由義寺塔跡上空写真1:上が北方向、毎日新聞より転載
河内由義寺塔跡上空写真2:毎日新聞より転載
河内由義寺塔跡上空写真3:毎日新聞より転載 河内由義寺塔跡上空写真4:毎日新聞より転載
河内由義寺塔土壇版築:毎日新聞より転載
河内由義寺塔礎石1:毎日新聞より転載 河内由義寺塔礎石2:毎日新聞より転載
河内由義寺塔礎石3:産経新聞より転載
河内由義寺塔跡出土和同開珎:毎日新聞より転載
河内由義寺塔跡出土銅製品:伏鉢の断片か、径約90cmの伏鉢に復原出来るという。
毎日新聞より転載
河内由義寺塔跡出土佐波理椀:地鎮の為のものか、毎日新聞より転載
★2016/09/15八尾市文化財調査研究会報道発表
○報道発表内容概要:
東弓削遺跡で、奈良後期大量の瓦(3万点近くの点数)が発掘される。
周辺には称徳天皇のそばで権力を握った僧道鏡が関わった「由義寺」や、西京と位置づけられた「由義宮」が所在したと伝えられる。出土瓦には南都興福寺や東大寺と同笵のものが含まれるという。
遺跡がある地区は、道鏡の出自の弓削氏がいた地で、一族の氏寺「弓削寺」があったと伝えられる。称徳天皇の信頼を得た道鏡は法王となり、地区の周辺には由義宮がおかれ、弓削寺も由義寺として整備されたとされる。
しかし、称徳天皇の病没後、道鏡は失脚し、造下野薬師寺別当を命ぜられて下向、その地で没する。
「続日本紀」には、称徳天皇が由義宮を訪れ、宝亀元年(770)には由義寺に塔が建設されたと記されているが、遺構は確認されていない。今回の瓦は、弓削地区に由義寺があったことを示唆し、瓦の形態や量の多さから、平城京の大寺院に比肩する規模を有していたとも推測できる。
東弓削遺跡瓦出土状況 東弓削遺跡出土瓦
東弓削遺跡出土興福寺同笵瓦1:朝日新聞より転載 東弓削遺跡出土興福寺同笵瓦2:朝日新聞より転載
★2017/02/11八尾市教育委員会現地説明会
◇由義寺跡塔基壇平面図:現地説明会にて配布リーフレットより転載
|
出土した遺構が由義寺のものと推定される理由は
当地(弓削)が道鏡の出自した弓削氏の本貫地であるとの伝承地であること、
出土瓦が平城宮興福寺や東大寺の同笵瓦を含み、これは時の権力者の関わる造立でしか成し得ないことで、だとすればそれは称徳天皇及び法王道鏡の関わる寺院
しか考えられないこと、
出土遺構が塔であると判断され、しかもその平面規模が大安寺塔とほぼ同等であり、それは国家的大寺つまり当時の由義寺が最も相応しいこと
などである。
由義寺跡塔基壇平面図:左図拡大図
心礎や礎石が既に失われ、さらにその据付痕跡なども失われ、建物平面すら明らかにできない遺構ではあるが、本遺構が塔跡と判断された理由は
基壇の造作が版築で構築されていることからまず寺院遺構と判断されること、
南北東西の四辺及び北西隅の基壇端が発掘され平面が正方形と確定し、寺院建築で大規模な平面正方形の基壇は塔以外には有り得ないこと、
伏鉢(もしくは請花)の破片と推定される銅片が出土したこと、 などである。 |
◇由義寺塔跡遺構全容
2017/02/11現地説明会終了後「X」氏撮影画像
|
由義寺塔跡全容1:左図拡大図:東から撮影
由義寺塔跡全容2:すぐ上に掲載した部分図である。
画像上方の中央のトレンチにて塔基壇西端を検出、中央右端のトレンチにて塔基壇北端を検出、右端の下のトレンチにて塔基壇東端を検出、中央付近に推定礎石が写る、中央左端のトレンチにて塔基壇南端を検出する。
由義寺塔跡全容3:東やや北寄りから撮影
トレンチが縦横に走るが、画像の上方中央のトレンチは塔基壇西端を検出、次はトレンチを時計回りに見ていくことにして、次の独立したトレンチは塔北西隅基壇を検出、次のトレンチは塔基壇北端を検出、次のトレンチ(下方中央)は塔跡東端を検出、次のトレンチ(中央右)は塔跡南端を検出する。 |
昨年9月の奈良後期の瓦の大量出土を踏まえ、今般は一辺約20m(天平尺約68尺)の正方形基壇(つまり塔基壇)を発掘する。
塔の基壇規模は東大寺東塔の24m、同じく西塔の一辺23.8mに次ぎ、南都大安寺の約21mや諸国の(制式)国分寺塔
に匹敵する大きさであったことが確認される。
◇2017/02/11撮影:
◇塔基壇北辺遺構
由義寺跡塔基壇北端1 由義寺跡塔基壇北端2 由義寺跡塔基壇北端3 由義寺跡塔基壇北端4
由義寺跡塔基壇北端5 由義寺跡塔基壇北端6
塔基壇北辺「地業」割栗石
塔基壇「地業」割栗石とはよく分からない。この割栗石は版築の中に入れられているように見える。
もしそうであるならば、版築の中に割栗石をいれるのは版築の強度を下げるように思われるがどうであろうか。
塔基壇「地業」割栗石1 塔基壇「地業」割栗石2
◇塔基壇東辺遺構
由義寺跡塔基壇東端1 由義寺跡塔基壇東端2 由義寺跡塔基壇東端3 由義寺跡塔基壇東端4
由義寺跡塔基壇東端5 由義寺跡塔基壇東端6
鎮壇具出土及推定礎石
現説のリーフレットでは「基壇中央部では基壇を強固にするために30〜60cm大の石を入れた『堀込地業』を確認」という説明がある。
基壇中央部では「堀込地業」中に「割栗石」を入れ、その「割栗石」中に鎮壇具を埋納したものと思われる。
和同開珎(初鋳708年)16枚、萬年通寶(初鋳760年)1枚、神功開寶(初鋳765)1枚、、佐波理椀の断片が出土する。
鎮壇具出土地点及推定礎石1 鎮壇具出土地点及推定礎石2 鎮壇具出土地点3:推定礎石の南側
礎石などは全て失われているも、大きさ1.3m×1.0m×0.5mの石が唯一つ出土し、これは後世に土壙が掘られ、
土壙の中に落された礎石であろうと推定される。なおこの推定礎石は現状の底面に火を受けた形跡があるという。
おそらく礎石として柱を支えていた時に火を受けたものと推測され
、土壙に落されたとき、天地が逆転したのであろうと推測される。
由義寺塔推定礎石1 由義寺塔推定礎石2 由義寺塔推定礎石3
◇塔基壇南辺遺構
由義寺塔跡基壇南端1 由義寺塔跡基壇南端2 由義寺塔跡基壇南端3
◇塔基壇西辺遺構
由義寺塔跡基壇西端1 由義寺塔跡基壇西端2 由義寺塔跡基壇西端3 由義寺塔跡基壇西端4
由義寺塔跡基壇西端5
伏鉢(もしくは請花)の破片と推定される破片が出土した地点、上記に掲載した「由義寺塔跡基壇西端3」のさらに西の地点である。
推定伏鉢破片出土地点
基壇中央付近の版築1 基壇中央付近の版築2 基壇中央付近の版築3 基壇中央付近の版築4
◇塔基壇西辺遺構
由義寺塔跡基壇北西端:特に明瞭に基壇が残存している様子はなく、むしろ基壇は削平されているように見える。
しかし「凝灰岩細片を含む溝が直角に曲がることが確認され、塔跡の北西隅(北西端)と判断されたものと思われる。
◇出土遺物
出土瓦は興福寺式と東大寺式系が多数を占める。興福寺式は同笵の資料があるが、東大寺式系は同笵の資料はない。
また摂津四天王寺で使われた瓦や摂津金寺山廃寺(金寺廃寺)と同笵の瓦の出土も見る。
由義寺塔跡出土銅製破片1:伏鉢か請花の破片と推定
由義寺塔跡出土銅製破片2
由義寺塔跡凝灰岩切石1 由義寺塔跡凝灰岩切石2
由義寺塔跡出土貨幣:向かって右より「和同開珎」「萬年通寶」「神功開寶」
出土「神功開寶」
出土「佐波理椀」破片1 出土「佐波理椀」破片2
舎利容器ではあるが、佐波理の舎利容器が大和法隆寺五重塔や美濃山田寺にその例がある。
出土朱線付軒平瓦:建築部材が朱塗であったことが分かる瓦との解説がある。
出土平城京系鬼瓦 出土摂津系鬼瓦1 出土摂津系鬼瓦2
出土興福寺式軒丸瓦1 出土興福寺式軒丸瓦2 出土興福寺式軒平瓦
出土東大寺式系軒平瓦 出土東大寺系式軒丸瓦
2017/02/10作成:2024/07/12更新:ホームページ、日本の塔婆
|