『戦後史の正体 1945-2012』を読んで
孫崎 亨 著<創元社 「戦後再発見」双書①>


 近来まれに見る面白さと感心、納得にとても引用しきれないほどマーキングをしまくりながら読んだ。いくつか異論を唱えたいところや違和感を覚える箇所もあったが、僕がかねてから抱いている“自身の戦後観”を形成している断片としての事象や解釈のほぼ全てを繋ぐのみならず、具体的な資料や出典を示して裏付けているところに少なからず興奮した。

 先ごろ坂東眞砂子の小説やっちゃれ、やっちゃれ! [独立・土佐黒潮共和国]を読んで、改めて“戦後日本の独立”とは果たして何だったのだろうとの思いが湧いたと記したばかりだったので、ますます好タイミングだった。

 四半世紀ほど前に、友人から求められて寄稿した拙文に社会主義国が仮想敵国としての地位を低下させたのと連動して、日本がアメリカにとって最も気に入らない国の一つとして浮上してきていると記してあるように、ソビエト崩壊期に一気にヒートアップした日本叩き以降、日米構造協議に始まって今のTPPに至るアメリカの日本浸蝕が、まさに「茹でガエル」のように緩慢にして執拗な形で日本社会の変質をもたらしてきていると、僕自身は、同時代を生きて来た者として感じている。

 とりわけ小泉政権時に声高になった“構造改革”によって、アメリカンスタンダードをグローバルスタンダードなどと称して、急速なアメリカ型社会への転換が、まさに“茹でる”ようにして進められてきている気がする。アメリカの圧力による規制緩和や金融自由化の進展で、雇用が壊され、所得格差が拡大し、クレーム型社会になってきて、いいかげん茹であがったというかのぼせてきているのに、今またTPPで世界に冠たる医療保険制度も脅かされ、リバランス政策とともにまたぞろ「ショー・ザ・フラッグ」親爺が姿を現し、軍事化の進展を求めるなかで、政権がその気になってきている日本の有様に憤りを禁じ得ないでいる。

 だから、本書を読んでみて、「はじめに」に記しているように、著者が情報部門のトップである国際情報局長もつとめ(Pⅳ)た上級外務官僚OBであり、西側陣営から「悪の帝国」とよばれたソ連に五年、「悪の枢軸国」とよばれたイラクとイランにそれぞれ三年ずつ勤務した実務経験者である点に重みがあるように感じるとともに、思惑と思い込みだけで煽り立てる輩とは知見の根本が違っている著者の示した日本の戦後史を、この二つの路線(「自主」と「対米追随」)の戦いとして描い(Pⅴ)た論考は、傾聴に値するものだと思った。

 '58年生まれの僕が同時代を生きて来た者として、政権の「対米追随」に強い情けなさを覚えた最初のものは、僕が結婚し長男が生まれた二十四歳のときの年末に政権を発足させた中曽根首相の年明けの「不沈空母」発言(1983年)だった。政界の風見鶏と言われた彼が政権に就くと、尻尾を振る先は自ずとこうなるのはまだしも、自国民を全く眼中に置いていないような物言いの無神経さに呆れ果てた覚えがある。現政権は、その中曽根政権以上に、ちぎれんばかりに尻尾を振っていて、アメリカが注文を付ければ、互いに激しく鎬を削っていた日韓政府の間で慰安婦問題の合意決着を取り急ぎ交わしたり、沖縄県知事との間で揉めて国と県が裁判沙汰を起こすに至っていた辺野古への米軍基地移転に係る工事の中断を決めたりする豹変ぶりを臆面もなく晒す始末だ。どこかのコメントにも書いたような気がしているが、現政権の9条改正に対する執念と熱意も、結局のところ、米軍サイドからの要請に応えてのものではないかという気がするほどだ。

 著者自身が本書のキーワードとしている「自主」と「対米追随」については、たとえば普天間問題を例にとってみましょう。「普天間基地は住宅の密集地にあり、非常に危険である。もともと米軍基地はあまりにも沖縄に集中しすぎている。だから普天間基地を県外または国外へ移設しよう。そのことを米国にも理解してもらおう」とするのが、「自主」路線といわれる立場です。 一方、「米国は普天間基地を同じ沖縄県内の辺野古に移転するのが望ましいと考えている。米国の意向に反するような案を出せば、日米関係全体にマイナスになる。だからできるだけ米国のいうとおりにしよう」とするのが「対米追随」といわれる立場(Pⅳ)と非常に判りやすい形にして提示していた。このことからも分かるように、読んでいて実に明快な論考になっていた。その余りにもの判りやすさに却って二元化論に還元しすぎているような気もしたが、上述したように、具体的な資料や証言を出典を示して裏付けているから、思惑と思い込みだけでの推論ではなく説得力がある。

 著者が「はじめに」で示した二つの“外務省の思想の系譜”すなわち米国はわれわれよりも圧倒的に強いのだ。これに抵抗してもしようがない。できるだけ米国のいうとおりにしよう。そしてそのなかで、できるだけ多くの利益を得よう日本には日本独自の価値がある。それは米国とかならずしもいっしょではない。力の強い米国に対して、どこまで自分の価値をつらぬけるか、それが外交だのなかで、かつては日本の外務省の中心的な思想でもあったものがいまではすっかり失われてしまいました(Pⅷ)となったのが何故なのか、という最も肝心な点に具体的には踏み込み得ていなかったように感じられるのが少々残念だったが、そこに踏み込めば、著者自身が外務官僚だっただけに交渉術(佐藤優 著)のように生臭くなってしまうことを嫌って控えたのかもしれない。

 とはいえ、序章「なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか」で、イランのアザデガン油田開発に係る米国からの圧力による日本の開発権放棄と、結果的に油田開発権を中国が手に入れることになった顛末という、著者が駐イラン大使在任中('99-'02)の出来事から書き始めているのは、チェイニー副大統領(当時)自身が先頭に立ち、開発権の獲得に動いた日本人関係者をポストから排除(P9)したことに、余程おどろき憤慨したからなのだろう。少しでも歴史の勉強をすると、国際政治のかなりの部分が謀略によって動いていることがわかります。日本も戦前、中国大陸では数々の謀略をしかけていますし、米国もベトナム戦争でトンキン湾事件という謀略をしかけ、北爆[北ベトナムへの空爆]の口実としたことがあきらかになっています。 もっとひどい例としては、米国の軍部がケネディ政権時代、“自国の船”を撃沈するなど、偽のテロ活動を行なって、それを理由にキューバへ侵攻する計画を立てていたことがわかっています(「ノースウッド作戦」)。ケネディ政権はこの計画を却下したので実行はされませんでしたが、当時の参謀本部議長のサインが入った関連文書を、ジョージ・ワシントン大学公文書館のサイトで見ることができます(P11)としてURLまで記していた。

 そして、学者や評論家がそうした事実を知らないまま国際政治を語っているのは、おそらく世界で日本だけでしょう(P11)との憤慨は、僕も仄聞したことのある一九五〇年代から六〇年代にかけて、CIAが自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことは、“米国側の公文書によって”あきらかにされてい(P13)ることに対して、資料に当たることもなく、それを「陰謀論だ」などといって安易に否定する学者や評論家が多いことに向けられているように感じた。


☆第一章 「終戦」から占領へ

 十代の時分から夙に聞き覚えのある「終戦ではなく敗戦だ」との言質の意味するところを、これだけ詳細かつ具体的に述べているものを読んだのは初めてのように思うが、ポツダム宣言を受諾した旨の玉音放送を流した八月一五日よりも米国戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名をした九月二日のほうに着目して、 僕の知らなかったもうひとつの日本のいちばん長い日とも言うべき顛末について述べていることが目を惹いた。

 日本の占領政策は、①日本政府による間接管理ではなく、米軍による直接管理のもと、公用語は英語とする、②米軍に対する違反は軍事裁判で処分、③通貨は米軍の軍票という内容の三布告から始められようとしていたのを、降伏文書調印の日の午後四時の通告を鈴木九萬公使が受けてから、翌朝一〇時の布告予定までの十八時間の間に、重光葵外相がマッカーサーとの直接交渉により取りやめさせる運びに漕ぎ付けていたことを『劇的外交』(岡崎勝男終戦連絡事務局長官)や『日本外交史26 終戦から講和まで』(鈴木九萬公使)、『続 重光葵日記』『昭和の動乱』(重光葵外相)といった当時の直接関係者の残した記録や『トルーマン回顧録』からの引用による状況説明に基づき記してあった(P30~P35)

 そして、著者のいう「自主」路線を代表する外相たる重光葵の後任に就いた吉田茂外相がこうして米側にすり寄っていたのは占領初期だけではありません。その後の首相在任期間を通じて一貫した行動(P38)であったことを当時の新聞記事や重光、ウィロビーの著作などを引いて示し、吉田茂によって今日の「対米追随」路線の土台が作られたとの観点から、その吉田がとくに頼りにしていた…GHQ(連合国総司令部)では参謀第2部(G2)の部長として諜報・保安・検閲を担当し…た…ウィロビーのもとに首相が裏庭からこっそり通ってきて、組閣をした。ときには次期首相の人選までした。それが占領期の日本の本当の姿なのです。一般にイメージされている吉田首相の傲慢で人をくったような、占領軍とも対等にわたりあったという姿は、神話にすぎません。もう戦後七〇年近くたつのですから、そろそろ私たちはこうした真実にきちんと向きあわなければなりません。そして占領期だけでなく、占領後もそうした構造が温存されたのではないかという当然の疑惑にも、向き合う必要がある(P38~P40)と述べている。そして思えば吉田首相は、占領下の首相に実にふさわしい人物でした。ある意味で占領中の彼の「対米追随路線」は、仕方なかった面もあるでしょう。問題は彼が一九五一年の講和条約以降も首相の座に居すわりつづけたことです。その結果、占領中の対米追随路線が独立後も全く変わらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後六〇年以上もつづくことになってしまった。ここが日本の最大の悲劇なのです(P56)としていた。

 第一章において、もう一つ印象深かったのは、『昭和天皇独白録』(寺崎英成)を引いて示した“天皇が戦争継続を不可と判断した理由”と開戦時から敗戦時に至るまで徹頭徹尾“思い込みの精神論”だけで情勢判断の甘い軍部の姿を事象を挙げて簡潔に説明してある部分(P20~P25)だった。小見出しになっている太字ゴシック体の自分に都合のよい、しかしありえない分析をして、自分の望む政策を押しとおそうとする これが開戦時と終戦時に共通した日本の軍部の態度でしたの一文を読んで通称“アベノミクス”と言われる現政権の“トヨタを筆頭とする献金大企業と株式投機家のことしか視野にない経済政策”のことを想起しないではいられなかった。

 本章では、石橋湛山らの追放を始め、米国側が仕掛けたさまざまな工作について言及されているが、それらが功を奏するに至った根本は、要するに連合軍という名の米軍が、一九四五年九月二日の降伏文書においてすべての官庁、陸軍および海軍の職員…が…各自の地位にとどまり、引きつづき各自の非戦闘的任務を行なうことを命令(P375)する形で保証すると同時に、他方で戦犯として処分する権限も併せ持つなかで約六年半の占領期(P17)に飴と鞭で徹底的に手懐けることに成功したことなのだろう。

 そして、イラクでは十年以上の米軍駐留を続けながらも、著者が(日本の敗戦後)当時の雰囲気を、内務省で公職追放令を作る作業にあたっていた後藤田正晴(のちに警察庁長官、官房長官などを歴任)は、次のように書いています。「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。見るも無残だな。 えらい人が陳情にくるんだ。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと〔思ったものだ〕」(『情と理-後藤田正晴回顧録』講談社) こうした状況のなか、なんとか米国に追随しようとする動きが生まれてくるのは当然かも知れません(P43~P44)と記したような結果に結びつかなかったのは、何故なのだろうとも思わずにはいられなかった。そこに“宗教の問題”を見て取る人が多いような気がするし、それは間違いではないのだろうが、いちばんの違いは、やはり日本の戦後における特需景気に端を発する高度経済成長の有無だろうという気が僕はする。二十四年前にラ・マン/愛人』の映画日誌マルクスが「社会の上部構造を規定するのは下部構造である。」と看破したのと同じように、人の形而上を規定するのは形而下なのであるなどと記したことを思い出した。


☆第二章 冷戦の始まり

 東西冷戦について著者は、米国の政策文書である『降伏後における米国の初期対日方針』やロイヤル陸軍長官の演説を引いて、日本がふたたび米国の脅威にならないことを確実にすることが占領初期の政策で一番重要なことだったのが、占領経費が高くつきすぎるので、日本にある程度の経済的自立をあたえたほうがいいとの考え方から、日本経済を低水準にとどめておくという政策が変更されたことの延長線上において、ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用するという考え方になったことを米国のジョージ・ケナンやフォレスタル国防省初代長官、フーバー元大統領の弁を引いて説き、一九四八年…一〇月、米国の国家安全保障会議がつくった「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)という政策文書が承認され、ここで正式に日本の経済復興をめざすという方針が決まります。トルーマン大統領はデトロイト銀行頭取のドッジをワシントンによび、日本経済を復興させるよう依頼(P97)したとしている。そして、占領当初の米国の対日政策は、「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」というものでした。しかし…、一気に戦略を一八〇度転換させたのです。…当然、マッカーサーとトルーマン大統領および国防省との対立が始まります。結局、朝鮮戦争をめぐってその対立は激化し、マッカーサーは解任されることになるのです。米国が…方針…転換したことは、日本の占領政策を大きく変える結果となりました。政策だけでなく、人のあつかいも変わります。戦犯に問われた人も、ソ連との対抗上、必要とされるようになります。戦犯が釈放され、政界に復帰する動きがつづきます。まさに岸信介が獄中で予想したとおりになったのです。…一九五二年一〇月に行なわれた占領終結後、最初の国会議員選挙では、衆議院の議席の四二%を追放解除者が占めることになります(P98~P113)と記していた。

 このほか第二章で目を惹いたのは、イラクは朝鮮戦争のときの北朝鮮と同じように…判断ミスを犯し(P102)たとしたうえで言及していた湾岸戦争とイラク戦争から学んだイラク人の知恵と、イラン人の知恵(P102)だった。


☆第三章 講和条約と日米安保条約

 日米安保体制において最も問題視されている地位協定に関し、その前身である行政協定こそに真意があったことを元外務次官の『寺崎太郎外交自伝』から引いて日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約〔講和条約〕-安保条約-行政協定の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかった(P117)とし、それは「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、政府間の「協定」ではそれが必要ないため、都合の悪い取り決めは全部この行政協定のほうに入れてしまったから(P118)と述べていることが目を惹いた。本書が刊行された後の特定秘密保護法や安保法制に関しても、具体レベルの論議を俎上に載せることを避ける同様の手法が採られていたような気がする。

 これに対し、当時の外務省には米軍駐留に関する規定を安保条約の本分のなかに書き入れ、日本の国会や国民にきちんと判断してもらおう(P118)という考えがあって(1951年6月30日付米国宛極秘文書「日米安全保障協定の修正案に対するわが方意見」)このあと当たり前になってしまう「協定や合意文書という形で米国と密約を結び、国民の目の届かないところで運用してしまおう」という姑息な考えは、当時の外務官僚はもっていなかった(P118)けれども、米国がこの日本側の提案を受け入れずに米軍駐留に関するもっとも重要な部分は、国会での審議や批准を必要としない、政府どうしの合意だけで結べる行政協定によって結ぶことを求めた(P119)ことで、それに屈する形になったと著者は観ているようだ。そして、日本が米国との戦争に突入する直前のアメリカ局長で…孤立状態にありながら戦争回避に熱意と努力を傾注しつづけ(P119~P120 当時の陸軍参謀杉田一次(陸上幕僚長)の証言『情報なき戦争指導』)、戦後まもない1946年に外務次官になり、程なくして辞した寺崎太郎がけっして独立国の条約ではないと記し安保条約に対する第一の疑問は、これが平和条約のその日、わずか数時間後、吉田首相ひとりで調印されていることである。という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、まだ主権も一部制限され、制限下にある日本政府、言葉を変えていえば手足の自由をなかばしばられた日本政府を相手に、したがって当然きわめて秘密裡にすっかり決められている(P119)と指摘するようなものになったとのことだ。この寺崎太郎について、戦前、外務省にあって、もっとも米国を理解する人物でした。その彼が、安保条約と行政協定のあり方に激しい怒りをぶつけていたのです。…役人が天下りの人生を選ぶのが普通の生き方とされたなか、次官までした人物が「不偏不党、広告とらず」、世論の啓発にだけ全力をかたむけているのを知ったとき、そういう生き方もあるのかと感服しました(P120)と述べている。

 本書において僕が最も重要な着眼点だと再認識したのは、太字で小見出しのように記された占領期の日本人には、象徴的なふたつの道がありました ひとつは公職追放、もうひとつは占領軍による検閲への参加でした(P126)によって括られた段以下の記述だった。

 それに先立ち著者は、寺崎太郎の日本にあったのはただ混乱と虚脱、そして軍事法廷での宣告と処刑。その後は政府部内に卑屈な迎合の徒のなんと多かったことか…(P124)との弁を引くとともに、やはり外務省の次官経験者である大野克己(一九五七年次官)一九七八年に書いた『霞が関外交』から占領軍は日本に指令を出し、いっさいの外国との接触を禁止すると命じてきた。それからずいぶん長い時間が経過した。その結果、すべてのことが占領軍まかせになった。日本の政治家も官僚も、外交とは占領軍を相手とした渉外事務にすぎないという程度の認識しかもてなくなったのである日米安全保障体制を金科玉条として、万事アメリカにおうかがいをたてる、アメリカの顔色を見て態度を決めるという文字どおりの対米追随的態度は、日本人のなかにしっかりと定着したのであるその結果、外交に必要な外交感覚などということは影をひそめてしまった。要は占領軍当局への従属関係あるいは服従関係をいかにうまく進められるか、できるだけ占領軍のよい子になろうということが、すなわち外交だというように考えられるようになり、それが一般化してしまった。…日本は独立の地位を回復したが、急に外交感覚をとりもどせといったところで、長い惰性が働いているからそれもなかなか無理であって、あいもかわらず占領軍の中枢勢力であるアメリカまかせの姿勢がつづいたのである。ひとたび自主独立の精神を喪失すると、ふたたびとりもどすのがいかにむずかしいか思い知らされたものである(P125)との意見を引用して賛意を記している。

 “検閲への参加”に関しては、元駐タイ大使の岡崎久彦による『百年の遺産――日本の近代外交史話73』から占領軍の検閲は大作業でした。そのためには高度な教育のある日本人五千名を雇用しました。給与は当時、どんな日本人の金持ちでも預金は封鎖され、月に五百円しか出せなかったのに、九百円ないし千二百円の高給が支払われました。その経費はすべて終戦処理費だったのです(P127)を引き、つまりは日本人のお金で、日本人が日本人を検閲し、言論統制していた(P127)と述べ、この「高度な教育のある日本人五千名」とは、いったいだれだったのでしょう。そしてその後、どうなったのでしょう。これまでに、ほんのわずかな人たちが、自分が検閲官だったことをあきらかにしていますが、その人たちはいずれも大学教授や大新聞の記者になっています。ほかの人たちも当然、占領終結後は官界やジャーナリズム界、学界、経済界などでそれなりのポストをしめたはずです。 彼らは自分が「日本人検閲官」だったという前歴を「公表するぞ」といわれたら、非常に困ったと思います。つまり米国の諜報機関に利用されやすい条件をもつインテリ層が、戦後の日本には大量に存在した。その数、五千名もいたのです(P128)と記している。これは、僕も初めて認識した事柄であって、実に強烈だった。

 “財閥解体”に関しても、別の目的もありました。それは旧財閥を基盤とする戦前の経済人の力を弱め、代わりに米国に協力することにまったく抵抗のない人々を日本の経済界の中心に据えるということです(P129)と急所を突き、一九四六年四月、米国の青年会議所などをモデルとして(P129)設立されたとの経済同友会の設立時のメンバーが、このあと二〇年、三〇年と、日本の経済界の中心となり、政界にも強い影響力をもつようになります。戦前の経済人が数多く追放される一方、彼らの多くは親米路線を歩んでいきます(P129)と述べている。

 さらには“労働界”についても、マッカーサーからの幣原首相への指示を引き、日本の経済界やインテリ階級だけでなく、労働運動もまた占領軍のもとで育成されたことを記憶しておいていただきたいと思います(P131)と記していた。

 また、「寛大な占領」というとかならず出てくる…ガリオア・エロア資金(P133)についても、つまり日本が米軍駐留経費として支払ったほうがはるかに大きいのです。もちろんガリオア・エロア資金によって日本人が飢えからまぬがれたのも事実です。しかし、先に(P65)石橋(湛山)蔵相が米軍の駐留経費削減を要求したように、そこにはゴルフ場や特別列車の運転、さらには花や金魚の注文書までふくまれていました。その分がなければ、もちろん日本政府は食糧を購入することができたはずです。そう考えると「ガリオア・エロア資金で日本の国民が飢餓から救われた」というのは正確な表現ではありません(P134)と手厳しい。そして、日本の米国学界が、(占領時代に)米国に対して「批判的ないかなる言葉も許されない」状況でスタートして(以来)…米国研究学者が米国からの経済的支援に頼る構図(P136)が続いていることを指摘し、私はあるとき、「外務省の官僚が従米になるのはわかる。でも学者がなぜもっと自主的な発言ができないのですか」とのべたことがあります。するとある教授から、「われわれだって事情は同じです。留学したり、学界に出たり、米国大使館でのブリーフィングを聞いたり、米国に抵抗していいことはなにもありませんよ」といわれました(P136)との経験を記していた。

 そして、行政協定の条文を見ることがなぜ重要かというと、この協定は名前を日米地位協定と改め、今日まで継続しているからです(P147)と記した“行政協定”について、ダレス(国務省政策顧問、のちの国務長官)が日本との講和条約を結ぶにあたってもっとも重要な条件とした、日本国内に「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」という米国の方針(P141)が第二条に日本は合衆国に対し、(略)必要な施設および区域の使用を許すことに同意する(P147)という形で盛り込まれるにあたって、重光から吉田にのりかえ、外務次官、内閣官房長官、外務大臣とめざましく出世した岡崎の生き方は、その後の外務官僚のモデルとなっている(P151)と記している岡崎が担当した行政協定交渉について、宮沢喜一元首相がこう批判しています(P149)と『東京―ワシントンの密談』からの引用を記したうえで、米国の望んだ基地の自由使用について日米安保条約には、とても書き込めません。それでは宮沢のいうとおり、「独立する意味がないにひとしい」ことが、だれの目にもあきらかだからです。 そこで行政協定のほうに入れました。しかし、宮沢などの目にとまって具合が悪くなると、(具体的な部分は)さらに行政協定から削除し、ほとんどだれも見ない「岡崎・ラスク交換公文」に書き込んだのです。…宮沢喜一といえば、「親米派」の代表的な政治家です。その人がわざわざ「岡崎・ラスク交換公文」と名前まで明記して批判しているのですから、よほど腹に据えかねたのでしょう。…国民だけでなく、親米派の政治家に対しても、都合の悪いことは議論せずに隠す。これが講和条約と安保条約の締結時からの吉田外交の伝統なのです(P149~P150)と述べ、戦後の日本外交の極端な従米姿勢は、ほとんどこのふたりによって決められたもの(P151)として私は日本の最大の悲劇は、占領期の首相(吉田茂)が、独立後も居座り、占領期と同じ姿勢で米国に接したことにある(P145)とまで言っていることが強く印象に残った。

 さらに軍人だけでなく、軍の関係者やその家族がおかした罪についても、裁くのは米国。つまり実質的な治外法権を与えている(P151)ことからもっとも問題とされる行政協定の第十七条(P151)にも言及し、米軍はドイツやイタリアでは、基本的に相手国の法律を守って行動することになっています。それに対し日本の行政協定では、米軍は日本の法律を守る必要がなく、基地の運営上必要であれば、なにをしてもいいことになっています。外務官僚はなんとかそれをヨーロッパ並みにしたいと困難な交渉にのぞんでいました。 もしこのとき日本政府に強い政治的意志があれば、それは十分可能だったと思います。しかし、極端な対米従属路線をとる吉田首相と、ひたすらその指示にしたがい、「岡崎・ラスク交換公文」という事実上の密約まで結んだ岡崎国務大臣には、もちろんその意志がなかったのでしょう(P153)と非難していた。

 そのようにして長期化した吉田政権にしても“軍備をサボタージュする古狐”と見られるようになったことから長い首相の時代を終わっているとの記述を池田勇人が残していることに着目して戦後の歴史を見ると、一時期、米国に寵愛される人物がでます。しかし情勢が変化すると、米国にとって利用価値がなくなります。そのとき、かつて寵愛された人物は「米国にとって自分は大切なはずだ」と考えて、新たな流れに気づかず切られるケースがきわめて多い(P157)とし、イランのパーレビ国王や“アラブの春”で倒されたエジプトとチュニジアの独裁者、韓国の朴正熙大統領、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領、イラクのサダム・フセインらを挙げている(P157~P159)のを見て、米国の他国の政権工作に関し、小泉政権の誕生時にネットで目にした記事のことを思い出した。

 2001年の総裁選時の本命は、五年余り前の総裁選での一騎打ちで圧勝していた橋本龍太郎だと目されていたなかで、米国筋が小泉政権の誕生を望んでいるから番狂わせが起きると予測している記事を目にして半信半疑だったのに、そのとおりになって驚いたことがある。その三年前の“凡人・軍人・変人”で話題になった総裁選でも最下位で二桁の得票しかなく、その前の総裁選よりも得票数を落としていた“変人”を妙にメディアが面白がって囃し立てているようには感じていたが、よもや選出されるとは思ってもみなかった。そして、その後の小泉政権が市場開放の面でも海外派兵の面でも、従前にはなかった政策を“改革”と称して打ち出して米国の歓心を買い、佐藤政権以来となる五年を超える長期政権となったことも併せて思い出した。

 加えて本章では、この会談は日米関係史のなかでも、非常に重要な場面ですので、何人かの証言を見てみたいと思います(P165)として考察された鳩山政権下での一九五五年八月二九日から三一日までのダレス国務長官と重光外務大臣・副総理(随行 岸民主党幹事長、河野農林大臣)の会談に係る記述(P161~P168)が興味深く、重光葵の死に暗殺が仄めかされているのが目を惹いた。また、北方領土問題(P169~P174)については、前掲『交渉術』で読んだこととも重なるものが多々あることが面白く、原子力開発推進に係る事情と中曽根康弘の担った役割(P174~P178)に、放射線を浴びた[X年後]を三年前に観て抱いた憤慨が蘇った。


☆第四章 保守合同と安保改定

 ここでは何と言っても、著者の安保闘争に対する分析が興味深かった。いわゆる五五年体制を成立させた保守合同以来、一九六〇年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金が提供されつづけたことが、米国側の公文書であきらかになっています(P180)ということにも驚いたが、「安保条約は変えてもいい。しかし行政協定はそのままにしろ」という…米側の方針(P197)のもと、確証はないとしながらも①岸首相の自主独立路線に危惧をもった米軍およびCIA関係者が、工作を行なって岸政権を倒そうとした ②ところが岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった ③そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモの手法を使うことになった ④ところが六月一五日のデモで女子東大生(樺美智子)が死亡し、安保闘争が爆発的に盛りあがったため、岸首相の退陣の見通しが立ったこともあり、翌一六日からはデモを押さえこむ方向で動いた(P106)との分析を数々の傍証から引き出していることに恐れ入った。

 政権側については、客観的にみて、(当時の)自民党は圧倒的多数で安保条約の批准はできたはず(なのに)…安保騒動をまねいたのは、自民党内部の遅延策だった(P199)として池田勇人(国務大臣、副首相級)、河野一郎(総務会長)、三木武夫(経済企画庁長官)という実力者たちが、そろって「(条約・行政協定)同時大幅改訂」を主張した(P198)ことを挙げ、池田勇人らの思惑は、ひとつは安保条約改定が難航し、政権がつぶれるところにあった(P198)と述べている。

 全学連側については、『六〇年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』から東原吉伸・元全学連書記次長の話として『どのような色がついていようが金に変わりはない。(安保闘争を継続するために)必要な資金を調達すること』、これが方針であった(P203)などを引き、どう考えても全学連の資金はカンパだけではまかないきれなかったと思います(小島弘『60年安保 6人の証言』)というなかで、東原や島成郎(安保闘争時のブント系共産主義者同盟全学連書記長)は、田中清玄(右翼活動家)と接触し、資金の提供をうけます。田中清玄は電力業界のドン、松永安左衛門をはじめ、製鉄、製紙、新聞など多くの業界のドンを紹介します。 田中清玄は占領時代、米国の情報関係者が積極的に接触を求めていた人物です。…ここで重要なことは、金は田中清玄から出ていただけではなく、財界のトップから出ていたということです。…大規模なデモの場合、まずCIAの関与を疑ってみる必要があります。…私は、「岸じゃダメだ」といって全学連へ資金提供をした「財界の秘密グループ」の中心に、(経済同友会の創設当初からの中心メンバーの)中山素平と今里広記がいたことに注目しています。…日本の歴史や世界の歴史をみると、軍国化には必ず産業界の後押しがあります。産業界が自衛隊を強化することに反対していたとは考えにくいのです(P203~P205)と記している。

 そして、岸がダレス抜きでアイゼンハワーと会った時間(P193)のあと正式な会談でアイゼンハワーはダレスに対し、「岸首相はせっかく遠くから来たんだから、彼の立場も考えてやれよ」といっています。ダレスはわずか二年前に重光外相をきびしくやっつけた人物です。けれども岸がアイゼンハワーとゴルフをしてふたりだけの時間をもったおかげで、ダレスはふたりの関係がどれくらい親密なものかわからなくなり、岸に対してきびしく切りこめなくなったのです。現実の外交では、こういう非常に人間くさいファクターが、交渉の行方を大きく左右することがあるのです(P193)ということも述べていた。…もし米軍関係者が「岸首相は駐留米軍の大規模な撤退を求めてくるだろう」と判断していたとすると、どのような事態が予想されるでしょうか(P196)と記し、さまざまな想像を促していた。


☆第五章 自民党と経済成長の時代

 この章では、何といっても自衛隊の発足のときに、米国は朝鮮戦争に自衛隊を使おうとしました。ベトナム戦争のときも自衛隊を使おうとしました。しかしどちらのときも、憲法九条があるので海外に自衛隊を派遣するのは無理だと日本側が抵抗して実現しませんでした。基本的に対米追随をとった日本の「保守本流」路線ですが、自衛隊の海外派遣だけはながらく拒否しつづけていたのです(P288)との記述が、前掲『日本のいちばん長い日』の映画日誌に「いくらアメリカが「ショー・ザ・フラッグ」などと脅してきても、「それができない第9条を日本国憲法に置いたのは、連合国と言いながらも実はアメリカ単独だった占領軍司令部でしょう」と切り返し突き付けられる“世界中のどの国も持っていないワイルドカード”を、そんなことのために自ら棄ててしまうのは、どう考えても愚の骨頂としか思えない」と綴ったことと符合してきて心地よかった。

 米国の同盟国の多くはベトナムに自国軍を派遣していました。韓国はジョンソン大統領になってから、一九六四年に韓国軍の派遣を行なっています。一九六五年には陸軍首都師団(通称:猛虎部隊)一万数千を派兵します。タイやフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドもベトナムに派兵していました(P236)というなかで、日本が免れ得たのは、やはり九条効果に他ならない。このときジョンソン大統領が佐藤首相に旗幟を鮮明に(show the flag)と述べたとシャラーが『「日米関係」とは何だったのか』に書いているとの記述(P236)が目を惹いた。著者もジョンソン大統領の発言は興味深いものです。「旗幟を鮮明に(show the flag)」は、その後、一九九一年の湾岸戦争で「日本が積極的に参加すべきだ」と米国が圧力をかけたときと同じ言葉です(P237)と記しているが、僕はこれを湾岸戦争のときに出て来た言葉だと思っていたから、それに二十六年も先立つ言葉の“言葉通りの甦り”だと知って驚くとともに、湾岸戦争から二十五年を経て今また甦ってきていることに因業を感じた。

 シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』からの引用でもう一つ目を惹いたのは、尖閣諸島に対する米国の態度(P254)だった。ニクソンの訪中のあと、尖閣諸島について国務省は日本の主張に対する支持を修正し、あいまいな態度をとるようになった。佐藤の推測によれば、ニクソンと毛沢東のあいだでなにかが話しあわれたことを示すものだった(P254)と記されているとのことで驚いた。著者によれば、これはニクソン大統領と佐藤首相の間で交わされた繊維問題に関する密約を佐藤首相が反故にしたことへの報復の一つだということが、密約問題の詳述の後に示されていた。

 そのようななか、著者も2010年1月27日付の東京新聞のスクープによって初めて知ったという昭和44年9月25日 外交政策企画委員会のまとめた“わが国の外交政策大綱”に「在日米軍基地は逐次縮小・整理する」「米国の走狗にはならない」との文言があるとのこと(P256~P257)に驚いた。この文書はひとりの人間が書いたのではありません。外務省の要職にある人物が集まり、協議して作りあげたものです(P256)と記されているが、いま外務省の関係者でこの文書の存在を知っている人はほとんどいません(P257)とのことだ。アメリカで「旗幟を鮮明に(show the flag)」というキーワードが何十年にもわたってきちんと引き継がれていることに比べて、なんとお粗末なことなのかと情けなくなった。

 その後一九七〇年代末から一九八〇年代初めにかけて、米ソの戦いのなかで、米国が日本の自衛隊を使いたいと考える場面が出てき(て)、…日本に…P3C(対潜哨戒機)を大量に買わせ、オホーツク海にひそむソ連の潜水艦を見つける役割を日本にやらせようとし(て)…日本政府は…シーレーン防衛という名目のもと、P3Cの購入にふみきります。…その後、…百機以上購入します。しかしこの巨額の出費は日本の防衛には直接関係のないものです。ソ連が日本を攻撃するときには、潜水艦ではなく、ソ連の陸上に配備された大陸間弾道ミサイル(ICBM)で攻撃してくるからです。これに対して日本は無防備です。 一方、P3Cが発見すべき潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は、日本向けではありません。米国向けです。日本は米国の本土防衛のために巨額のお金を使っていたのです。(しかも)…P3Cを大量に購入することは、たんにお金の問題ではなく、日本がとてつもなく危険な道を選択したことを意味していたのです(P288~P292)と述べ、その米国戦略を進めるために鈴木首相は米国の真意がわかれば、この考えを受け入れないことが予想されました。そこで鈴木首相に対し、「総理の器でない」「暗愚の宰相」というキャンペーンがはられていったのでしょう。(そして)一九八二年一一月二七日、中曽根政権が発足し…「不沈空母」発言が注目され…レーガン大統領との個人的な親密さをアピールする(P290~P292)こととなったと解していた。

 対米外交を軸に戦後史を概観している著者の繰り返す「自主」は、対米追随に対する「反米」では決してないことが重要で、著者も本章で改めて「対米追随」がつねに米国との関係を良好にすることをめざすことに対し、「自主」は少々米国とのあいだに波風を立てても、日本の国益上守るべきものがあるときや、米国の言いなりになると国益上マイナスになるときは、はっきりと主張することだと、明記している(P293)

 また、ひとくちに米国と言っても、そのなかに種々の意図があるのは、占領下におけるG2(参謀第2部)とGS(民政局)との競り合いがあったように自明のことで、決して一筋縄ではいかないわけで、その意味からも、2010年、…かつてライシャワー駐日大使の補佐官をつとめたパッカード氏が来日し、「ライシャワー駐日大使はつねに、日米関係を決めるのは政治家であり、軍人ではないという立場をつらぬかれていました。残念ながら、今日の普天間問題では、海兵隊の論理が国防省の論理になり、国防省の論理がホワイトハウスの論理になっています。この状況は打破する必要があります」(P223)と述べていたと記されているような観点からの捉え方が重要だと思う。

 本章でもう一つ目を惹いたのが、一九八五年の中曽根政権下での竹下蔵相とベーカー財務長官による“プラザ合意”の持つ意味の重要性だった。宮澤喜一による『聞き書 宮沢喜一回顧録』から日本の不良債権の問題をたどっていくと、どうしてもきっと、プラザ合意のところへいくのだろうと思います。これに対して日本経済が対応をしたり、しそこなったりして、結局いまの姿は、どうもそのことの結果ではないかということを、いろいろな機会に思いますとの弁を引用(P298)し、本来はドルを切り下げすればいいだけの話でした。ところがレーガン大統領は「ドルを切り下げると国民の支持を失う」と考え、同じことですが、「主要非ドル通貨の上昇」を求めたのです。しかし「主要非ドル通貨」でないアジアの国の通貨はそのままだったため、このときから日本製品はアジア各国の製品に対して競争力を失います。中国、韓国が優位に立ち、日本の企業もどんどんASEAN諸国などに進出します。そのため日本の空洞化が始まったのです(P301)と述べ、プラザ合意の持つ意味の重要さとともに、ベーカーと会談した竹下蔵相について竹下氏は首相になるためには、米国の支持が必要であることをはっきりと意識していました(P300)と記していた。


☆第六章 冷戦終結と米国の変容

 ここでは、冷戦の開始によって…日本を共産主義からの防波堤として使うことを計画し、そのため日本の経済復興を認める方向に転換し(P310)大きく変化した日米関係が、一九九一年の冷戦終結によってどう変化したかを追っていたが、同年にシカゴ外交評議会が行なった世論調査の米国にとっての死活的脅威はなにかという問いに対し、一般人と指導者層で、ともに日本の経済力が、断トツで死活的脅威とされていた(P312)との結果を示しているのが目を惹いた。当時、求められて寄稿した拙文今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」に記していたことと符合する部分がかなりあった。そして(軍事ではなく)経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務(P323)とする論調が支配的になっていたことをさまざまな出典からの引用によって示していた。そのうえで日米構造協議や日米包括経済協議といった経済交渉に関して米国の目的は明確です。もはや交渉内容は貿易だけではありません。日本の国内市場のあり方そのものについて注文をつけてくるようになったのです。日本国内の金融、保険といったサービス分野の市場を開放することや、両国の貯蓄・投資パターンや、市場・産業構造問題が検討項目となりました。日本の社会システムそのものを変更させて、米国企業が利益を得られるようにする。これは現在のTPPとまったく同じ流れのなかにあるものです(P324)と述べ、一九九〇年代に入り、米国は「同盟国に公平さを求めれば、米国自体が繁栄する」という時代ではなくなりました。米国は露骨に自国の利益をゴリ押しするようになり、それを黙って受け入れる相手国の首相が必要になってきたのです。米国にとって理知的な首相はもう不要となり、ことの是非は判断せず、米国の言い分をそのまま受け入れる首相が必要になったのです(P325)と記していることが印象に残った。

 そしてソ連崩壊によって、具体的な脅威がなくなれば強大な軍事力を維持することが困難になると見込まれるようになるなかで、イラク・イラン・北朝鮮という「ならず者国家」の存在がクローズアップ(P114)され、日本をどう米国の軍事戦略に組みこみ、お金を使わせるかが重要な課題となり…「日米同盟の強化をはかる。そのために同盟国である日本の貢献を必要とする」という方針(P315)のもと、アマコスト駐日大使やアーミテージ対日政策担当者が強硬姿勢をとるようになり、日米同盟の重要性が、ソ連の脅威の存在した一九七六年より、冷戦が終結した現在のほうが、はるかに強調されることになったのです。この現象は、米国の日本への圧力が強まったことと、日本社会が米国の圧力への抵抗力を失ってしまったこと以外に説明ができません(P328~P329)と述べているが、全く同感だと思った。


☆第七章 9・11とイラク戦争後の世界

 歴代のどの首相よりも米国への追随姿勢を鮮明に打ち出していく(P343)小泉政権下で、日米の安全保障関係を根本的に変えることになったとの二〇〇五年の日米同盟 未來のための変革と再編(P344)という調印文書への言及以上に、本章の最後がTPP問題で締め括られていることが非常に印象的だった。

 著者も記している米国は冷戦の終結以降、自分たちこそが世界のリーダーであり、必要に応じて軍事力を利用しつつ米国の価値観を実現することが、世界に貢献する道だという認識をもっています(P345)ということがよく言われるが、僕は、今や米国は貢献相手としての世界という認識すら捨て去っているように感じている。著者が日本の指導者たちの変質・劣化を嘆いているのと同じようなことが米国にだって起こっている気がしてならない。

 本書をTPPへの危惧で終えるにあたって、米国が日本にTPPを執拗に迫る二つの理由としてひとつは日本が中国と接近することへの恐れです。この問題が米軍基地とならんで、米国の「虎の尾」であることは、すでに見てきました。ところが民主党政権になり、米国ぬきで「東アジア共同体」を作ろうとする動きが起こります。これをなんとか牽制したいのです。 もうひとつは米国経済の深刻な不振です。…米国の製造業にはいまやほとんど競争力がなく、のこされた道はサービス分野しかありません。ところがサービス分野というのはその国の生活と密接に関係したものですから、さまざまな規制があって、なかなか外部が参入するのは困難です。その壁を一気に崩そうというのがTPPなのです(P362)と著者が挙げているのを読みながら、改めてそう思った。

 そしてたとえ正論でも、群れから離れて論陣を張れば干される。大きくまちがっても群れのなかで論をのべていれば、つねに主流を歩める。そして群れのなかにいさえすれば、いくらまちがった発言をしても、あとで検証されることはない。これが日本の言論界です(P340)との恨み節が潜んでいたことも、妙に印象に残った。


 
『やっちゃれ、やっちゃれ! [独立・土佐黒潮共和国]を読んで
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/zatsu/97.htm
キネマ旬報増刊「戦後70年目の戦争映画特集」』を読んで
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/zatsu/95.htm
by ヤマ

'16. 4.20. 創元社「戦後再発見」双書①



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