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『ラ・マン/愛人』(L'amant) | |||||
監督 ジャン・ジャック・アノー | |||||
言うまでもなく、人は習慣の生き物である。そして、多くの場合、習慣を持つだけでなく、その習慣を身につけた状況に馴染み狎れてしまうものである。マルクスが「社会の上部構造を規定するのは下部構造である。」と看破したのと同じように、人の形而上を規定するのは形而下なのである。しかし、社会構造と違って人間の場合には、時として形而下に規定されきらない形而上を確立する自我を持つ存在が現われる。これは、原作者マルグリット・デュラスであろう少女が実にそういう人だったのだなということの良く分かる作品である。 彼女は、状況に自分の身は委ねても、自分そのものを安易に委ねてしまうことをけっして自身に許さない。それは、当面の状況に馴染みやすい感覚で自らを規定し、安易に納得してしまわないということである。彼女の言葉は、常に現実の自分が最も馴染める感覚から少しずらした形で自分を規定することによって、状況への狎れを拒むために使われる。男との関係で言えば、官能がまだ充分な位置を占めていないから、官能のためと記せるのだし、金が第一義的な意味を持つわけでもなくなっているからこそ、金のためと記せるのである。これは、ある意味で自己規定の留保でもあるが、そういう少女の態度は、規定しようとしている自己への厳格な潔癖さに支えられている。自身を語るうえで、一人称と三人称を混在併用しているのは、実に暗示的である。それは、紛れもなく自身を対象化しようとする態度なのである。それには、極めて強固な自我が必要である。そして、そのような自我に支えられた生き方は、極めて意志的な生き方となる。タイトルの『愛人』が「amant」 という男性形であって、女性形の「amante」や複数形による「恋人たち」とならないところにデュラスの明確な意志が表われている。 しかも、少女は十五歳半ばにして、三十男を官能に奉仕できることだけが取柄だと看破する透徹した眼差しを持っている。それは、幼くして人生の過酷さの淵を覗いた者ゆえに獲得したものなのであろう。しかし、その眼差しは、同じような事を経験すればそうなるといった類のものではない。彼女の強さがあって初めて得られるものなのである。現に同様の体験をして、長兄は荒み、次兄は意気地なしになっているのである。それが彼女固有の強さなのか、女性に普遍化できる部分を持った強さなのかは、一言では片付けられない。しかし、何れにしても、少女とは言え、そのような女を前にして拮抗できる男などいようはずもない。くだんの中国人男がだらしないのではない。彼は、どちらかと言えばよく健闘したというべきである。なぜなら、少女が自身のそういった部分をより確かなものに自己実現していけたのは、愛人である彼との関係を通してだったからである。十八歳にして既に年老いてしまったと言わせるまでの過程において、男は完全には脱落していかない。拮抗できなかったとしても、これを健闘と言わずして何というべきか。 それにしても、若くしてこれほどに特異で強烈な体験を経ながらも、それに流され崩れていかずに、作家になる夢と意志を育み続けたことに驚かされる。偉大なる魂と呼べるのかもしれない。それを可能ならしめたのは、自身をも含め、あらゆるものに対して向けられる透徹した対象化の眼差しである。男性・女性に限らず、そのような眼差しを備えた人は少なかろうが、概して男の場合は、それがニヒリズムへと繋りやすい気がする。この少女の場合、それがむしろ創造という産みのエネルギーへと繋っていくところに、女性性として普遍化できる部分による何かを感じる。 映画は、原作が持っていると思われるそれらのエッセンスを、恐らくは遥かに原作よりシンプルに分かりやすく描くことに成功している。無論それゆえに、デュラスが小説で描こうとした微妙で重要なディーテイルを損なっているであろうことは想像に難くない。しかもデュラス自身が映画作家でもあり、そのスタイルがアノー監督とは対極的なのである。前者は、創作動機の表現純度の高さによりこだわり、後者は、作品の伝達や観客との関係性をより意識していると思われる。どちらが良いという問題ではなく、それはスタイルの違いなのだが、デュラス的世界がアノー的レトリックによって味わえるというのは、どちらのスタイルに加担するわけでもない観客にとっては、なかなか刺激的な試みで大いに歓迎するところである。映画において、原作物が原作の持つ世界の忠実な再現にその使命があるとするならば、それは職人の製作過程であって、もはや作家の創作過程とは言えない。原作は言うまでもなく素材に過ぎず、結実した映画作品とはあくまでも別物なのである。むしろ別物になっているところにこそ存在価値がある。その観点からすれば、この作品は、単に存在価値だけではなく、充分に作品的価値を有している。 | |||||
by ヤマ | |||||
'92. 5.29. 東宝2 | |||||
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