『国宝』['25]
監督 李相日

 部屋子の花井東一郎から三代目半二郎となる立花喜久雄を演じた吉沢亮にしても、血筋に縛られると同時に守られもする苦楽の両極を嘗め尽くし最後は血そのものの病に倒れた花井半弥の大垣俊介を演じた横浜流星にしても、共に演技巧者ゆえに見せがちな遣り過ぎ感が覗く役者だという気がしているが、こういう実に芝居がかった物語にはうってつけで、三時間近い長尺を一気に見せる力技の運びともども大いに感心した。

 だが、物語の筋立ては万端承知の観客に「場」を演じて見せる歌舞伎と、いわゆる劇映画とは建て付けが異なるとしたものだ。吉沢亮が『曽根崎心中』のお初を演じて圧巻だった場面まではいいものの、その後の展開に関しては、物語そのものが些か唐突感を免れない「場」の出現によって紡がれ、いささか面食らった。

 喜久雄ともども背に刺青を彫っていた春江(高畑充希)と俊介の出奔にしても、俊介の復帰後は、既に梨園での後ろ盾を失って冷遇を受け、遂には追われることになる喜久雄を兄さんと呼ぶ彰子(森七菜)との縁にしても、落ちぶれ果てた人間国宝の小野川万菊(田中泯)の声掛けで梨園復帰を果たす顛末や、当り芝居の『二人道成寺』で露わになる糖尿病による壊死にしても、因縁ある娘の綾乃(瀧内公美)との再会で提示された“景色”が数分後に現れて迎えることになる万菊ゆかりの『鷺娘』を舞うエンディングにしても、ほぼ前触れもなく現れ、妙に違和感が付きまとう感じが拭えなかった。

 ホステス勤めをしながら奥さんになる気はない、稼いで一番の贔屓になって、劇場も持たせてやるんだとまで言っていた春江との間に何があって俊介との出奔なのかと吃驚していたら、そのあと続々と唐突な見せ場が現われる歌舞伎仕立ては一つの意匠だったのかもしれないが、僕には効果的には働かなかった。なかでも彰子が三代目半二郎を兄さんなどと言いながら登場してきて、妹がいたのかと意表を突かれたと思いきや、そのまま濡れ場になったのには唖然とした。白虎(渡辺謙)の後ろ盾を失くして叔父筋に当たる吾妻千五郎(中村鴈治郎)を絡め捕ろうとしたのか、或いは彰子の熱情に応えることで束の間の逃げ場を得たのか、その発端がどこにあったのかもよく判らなかった。「場面」を見せる映画としての力があるから、オープニングの立花組長(永瀬正敏)が憤死するヤクザの出入り場面からして、まるで五社映画だと思っていたら、令和の五社映画には向わなかったようでいて、力ある画面と情念の深さでは通底している気がした。

 だから、もし鬼龍院花子の生涯['82]['85]薄化粧['85]陽炎['91]などの昭和の時代の五社英雄が撮っていたら、春江を演じた高畑充希も、彰子を演じた森七菜もどうなったことかと思ったりもした。また、名門の名跡を継いだ者が保養施設の座興舞台に立つ苦境やら、人間国宝だった者が送っている困窮生活の有様と釣り合わない梨園への影響力だとか、妙に腑に落ちないというか座りの悪い「場」が頻出していた気がする。

 だが、シーンの力には相当なものがあって、五社作品張りの豪勢さが見ものではあった。感動が湧いてこなかったのは、歌舞伎のように「場」を見せることに力を置いた設え以上に、興行会社の竹野(三浦貴大)がこんな生き方はできねぇと言っていたような生き様を師弟ともどもが重ねることをもって芸道の凄みとする描き方にあったように思う。僕は、歌舞伎の世界に明るいほうではないけれども、あまりに古色蒼然としていて、少々違うのではないかという違和感が物語の運びに対する唐突感と共に湧いていたように思う。
by ヤマ

'25. 6.22. TOHOシネマズ9



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