『国宝』をめぐって | |
「ケイケイの映画日記」:(ケイケイさん) ヤマ(管理人) |
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2025年06月23日 21:35~2025年06月27日 07:40 ◎喜久雄ともども背に刺青を背負った春江と俊介の出奔について (ケイケイさん) 春江は、もう喜久雄が自分の手の届かない所に行ってしまったのを知っているでしょう? だから、結婚しようと言う喜久雄に、いっぱい稼いで一番のパトロンになると言う。俊介にしても、自分より喜久雄のほうが上だとは思っていたけど、「血」が守ってくれると思っていたのが、そうではなかった。二人とも、喜久雄の芸の力に翻弄されたと思いました。だから、お互いの「逃げ出したい」気持ちが通じたんじゃないなかぁ。私はここ、物凄くよく解りました。 ヤマ(管理人) 一番のパトロンになると言ってた春江は、喜久雄に劇場まで持たせてやるんだと言ってたよね。2号でも3号でもいいと言っていた藤駒は、ちゃんと綾乃をもうけていたけど、春江は何処で心変わりして「逃げ出したい」気持ちになったのか、そのあたりへの想像が僕には及ばなかったなぁ。俊介が逃げ出したくなったのは、判りやすいんだけど…。喜久雄の芸の力に翻弄されたというよりは、血筋の縛りのほうに傷ついたように感じた。俊介がもし部屋子だったら、あんなふうに逃げ出したりはしてないはずだもの。 (ケイケイさん) 春江の心変わりは、俊介と駆け落ちするまで、していなかったと思います。春江が刺青を一緒に入れたのは、喜久雄への愛の証しですよね。 今はカジュアルにタトゥーを入れますが、極道の家の子供でもない、それも女の子が刺青を入れるのは、相当の覚悟だったと思います。その時は、喜久雄が歌舞伎役者になるなんて想像もしていなかったはず。だから、喜久雄と一緒になって、自分も地獄の果てまで付いて行く気だったと思います。 それが喜久雄が歌舞伎役者として頭角どころか、新進気鋭の役者になってきて、自分が傍にいても遠い存在になってしまって、すごく孤独だったと思います。それが事後の後の様子で、良く解りましたよ。 藤駒との違いは、藤駒は歌舞伎役者のお手付きとして、暗黙の了解の舞子⇒芸者です。自分は長崎から出て来て、学も無いだろうホステス。おまけに背中に刺青です。同じ「結婚は出来ない愛人」でも、格差があるのは、春江は賢いから解っていたと思います。だから「逃げるんとちゃうで」と泣きながら言う俊介に、自分の孤独を重ねたんだと思います。 ヤマ(管理人) 春江の心変わりは俊介との駈け落ち後だというのは、喜久雄畢生のお初の舞台を見届けずに中座した心根を思うとき、少々不自然では? 俊介に心を移したのが駈け落ち後であったにしても、喜久雄に対する心変わりは既に訪れていたからこそ中座して俊介を追ったのだと思うな。 あの前に、俊介が春江のアパートを訪ねて来ながら、顔を合わせただけで帰って行く場面があったから、俊介が自分に対して想うところがあることは察知していた気がするけど、喜久雄から既に俊介に乗り換えていたわけでもないと僕も思う。でも、少なくとも喜久雄から心が離れてなければ、あの中座は解せないよね。 その理由が「喜久雄が自分の手の届かない所に行ってしまった」からというのは、え?っていう感じだなぁ。「同じ「結婚は出来ない愛人」でも、格差がある」共々。喜久雄は恐らく(筆を下ろしてくれたはずの)藤駒には結婚を申し出たことはなく、春江にしか言ってない気がする。 で、春江に去られたことが、例の悪魔との取引にも繋がっている気がするんよね。そういう作劇上の必要性から春江と喜久雄の別離を設え、しかも、よりによって相手は俊介としてあるところに何か厭らしさを感じた。作り手は、ちょっと春江を蔑ろにし過ぎてるんじゃないの?ってな感じの。 俊介が潰れかけたのは、血筋に関して一身に背負い、精進しながらも結果を出せなかった辛さによるとの観方は、同感。血筋に縛られると同時に守られもする苦楽の両極を嘗め尽くす境遇というのは僕の想像の及ぶところではないけれど、相当にキツイものだろうと思う。 (ケイケイさん) 多分ね、心変わりの意味の捉え方の違いの気がします。確かにヤマさんの仰るように、春江の心は変わったと思います。でも、私はまだ捨てきれぬ喜久雄への未練もあったと思っています。ヤマさんの言うところの心変わりなら、私が表現するなら、潮時かしら? そこに踏ん切りを付けさせたのが、俊介の涙だったんじゃないかなぁ。喜久雄を媒介にして、二人が手を取り合ったのは、私はすごく理解出来ましたよ。 愛人での格差、私はあると思うなぁ。刺青もんの春江は、堅気とはもう結婚出来ないと思いますよ。そういう辛い心根があったと思います。その事を俊介なら理解出来るでしょう? 俊介と結婚出来たのも、長きの出奔と子供が出来た事で、俊介の母親は許すしかなかったと思います。 「血筋に縛られると同時に守られもする苦楽の両極を嘗め尽くす境遇というのは…想像の及ぶところではない」というのは、全く同感です。 喜久雄が他の役者の子供なら、これ程追い詰められはしなかったと思います。喜久雄に対して、すごい劣等感だったと思います。でもね、私はここで喜久雄に憎しみが向かず、自分の弱さに向かった俊介が好きなの。跳ね返せりゃ、それに越した事はないけど、今はそうできないなら、あれしかなかったと思います。 ヤマ(管理人) 「喜久雄を媒介にして、二人が手を取り合った」事実に間違いはなく、きっと原作では、最も古くからの贔屓として喜久雄を支えていく“覚悟”だった春江の心変わりを促す出来事があったはずのものを映画では割愛しているような気がしてならないんよね、未読やけど(たは)。 「堅気とはもう結婚できない」って言うけど、芸道に生きる喜久雄は、堅気じゃないでしょ(笑)。しかも同じように刺青を背負ってるんだし。そこで男の刺青と女の刺青は違うってのも何だかなぁ。 でも「喜久雄に憎しみが向かず、自分の弱さに向かった俊介が好き」というのは好いなぁ。喜久雄と俊介の関係を噓臭いと観る向きもあろうかと思うけど、むろん反発や敵愾心もありながら、余人に替え難い唯一無二の戦友として造形しているところに値打ちのある物語やと思う。 (ケイケイさん) 「堅気とはもう結婚できない」と書いたところは私の言葉足らずでしたね。春江は喜久雄と別れたとて、堅気の生活、堅気の男との結婚は難しい、です。刺青の男女の差を言っているのではありません。あの当時の刺青は、今よりもっともっと重いですから。春江の心情は、行く事も戻る事も出来なかったと思います。春江的には、俊介に相憐れんだのは、私はすごく腑に落ちました。 「余人に替え難い唯一無二の戦友として造形しているところに値打ちのある物語」というのは、同感です。私がこの作品で一番好きなところも、ここですね。喜久雄と俊介の関係は、私は心から美しいと思いますよ。 ヤマ(管理人) 堅気の件、了解。あの当時の刺青の重さは、喜久雄のスキャンダルのほうでしか画面には出て来なかったけど、男でさえあれだったんだからね。 ◎落ちぶれ果てた人間国宝の声掛けで梨園復帰を果たす顛末について (ケイケイさん) 私は落ちぶれたんじゃなくて、万菊は自らあの境遇に飛び込んだと思いました。お金も手放し、美から遠く離れた場所で、やっと安息が来たんだと感じました。そうしないと、「万菊」の名が追いかけてきて、本来の自分に戻れなかったんじゃないかなぁ。万菊も「血」の無い人だと思います。自分の今の姿を見せて、その覚悟があるかと、喜久雄に問うたんじゃないですかね。 ヤマ(管理人) 万菊が自ら求めてあの境遇にあったという解釈には意表を突かれた。あそこまでの境遇に身を置くことによって安息が得られたと解するのは、相当に観念的な気がして僕にはピンと来ないけど、国宝となった万菊をそうまでして捨て去ったのなら、今更に喜久雄を呼び寄せるまでもなかろうに、という気がしてならない。部屋子同士の縁で末路を見せたという解釈は一興だとは思うけれど、そのとき問うのは果たして覚悟なのだろうか。 (ケイケイさん) 美しさの何もない場所で、やっと安息できるとの台詞があった気がします。私はその観念的なところに、同じように頼る血のない者の辛さが、滲み出ていたと感じました。お金は手放したのか、こうなる事が解っていて、「歌舞伎の美」を追求するために使ったのかと思いました。喜久雄との出会いの時、「今は顔の美しさだけだ」と、喜久雄に言いましたよね。それこそ、今の落ちぶれた喜久雄には、「歌舞伎の美」を渇望する気持ちがあるはずだと、万菊は思ったんじゃないかなぁ。精魂尽き果てるまで、「歌舞伎の美」を追求してきたから、今の喜久雄なら性根が座っていると、見込んだのかと思いました。 ヤマ(管理人) 「美しさの何もない場所で、やっと安息できるとの台詞」については、確かにそういったニュアンスのものがあったように思うけれども、僕は万菊が求めてそうしたというよりも、そうなってみて荷が下りるものを感じたかのように語る、ある意味、彼の「見得」のような形で設えられているような気がした。歌舞伎役者だしねぇ(笑)。 (ケイケイさん) 見得ですか(笑)なるほどね。それも有りですね。 ヤマ(管理人) 落ちぶれているのは、自分よりも喜久雄だと思い、その性根を見極めたくて呼び寄せたというのは、同感。ただ、彼の鶴の一声で梨園への復帰が叶ったかのような印象を与える描き方には疑問を感じるところが多々あるなぁ。 (ケイケイさん) なので私は、落ちぶれたのではなく、今の境遇は、自分自身で作ったのだと思ったんです。落ちぶれたのなら、自分の後継者を指名するような、そんな力はないでしょう? ヤマ(管理人) 「見得」については「見栄」を掛けて、女形ではやれない大見得を人間国宝の万菊が切った場面だったように思ったんよね。彼の鶴の一声で梨園への復帰が叶ったかのような印象を与える描き方に映った部分は、原作では“万菊の思い”までに留まっていて、実際に叶えたのは、喜久雄と俊介の再演舞台の二人を観ながら「こんな生き方はできねぇ」と言っていた竹野(三浦貴大)が俊介に働きかけて二人で叶えたことだったような気がしてならない。 (ケイケイさん) もちろん竹野の手腕でしょうね。でもその気にさせたのは、やっぱり万菊の偉大さですよ。三浦貴大、良かったですよね。こうやって、脇で着実に成果を出したら、味のある役者になると思います。熱演型でないのもいいです。 ヤマ(管理人) 竹野の件は、僕は逆に自分が言っても喜久雄を動かせやしないことの分かっている竹野が、万菊を使ってもしくは頼んで仕掛けたことだったような気がしているなぁ。原作ではどうなっているのか知らないけど。三浦貴大は、『愛にイナズマ』でも『夜明けまでバス停で』でも御見事やったね。 ◎因縁ある娘との再会で提示された“景色”について (ケイケイさん) ここ良かったじゃないですか~! 綾乃は今でも父としての喜久雄は憎んでいますよ。でも「花井半次郎」の素晴らしさを、滔々と語るのは、愛憎や恩讐を超えて、歌舞伎役者としての喜久雄を祝福しているんです。歌舞伎とは全く関係ない娘の言葉が、喜久雄の心を解放したから、観たかった景色が見えたんじゃないですかね。あれは「大向こう」だったでしょう?娘に「何とか屋!」って、声をかけて貰ったんですよ。 ヤマ(管理人) 綾乃から寄せられていた愛憎というのは、名前すら忘れているのではないかと娘の側が感じている程の疎遠のなかにあって「親子の血」+喜久雄の至芸でもって「お父ちゃんの舞台を観ると、お正月が来た時の、華やぐ気持ちになる」とするのは、僕には得心よりも「些か安い」んじゃないかという形で作用してきたけど、大向こうから娘に声を掛けてもらいたかったというのが、国宝となっても未だ見果てぬ景色だったとすると、悪魔と取引してまでも得たかったものとの落差が大き過ぎないかね? (ケイケイさん) 「藤駒の事を覚えていますか?」の問いに、返事は「覚えとるよ、綾乃」でしたよね。何十年も会っていなかった娘なのに、喜久雄は解っていた訳です。直ぐに解るというのは、心の底では忘れた事はなかったのだと思います。血筋という視点では、喜久雄には綾乃しかいないわけ。ここで私は、先代の半次郎が血を吐きながら、「俊ぼん」と言わせた意味が理解出来ました。芸事の血は、きちんと受け継がれる保証はないけど、親子としての血は、切れないんですよ。綾乃は父親としては、絶対に許せないはずですが、歌舞伎役者としての父親は、何年もかけて彼女の中で祝福する存在になったのだと思いました。 大向こうから、綾乃に声をかけて貰って、初めて観たかった景色が見えたのは、喜久雄自身、意外だったと思いますね。芸事の血を渇望し、抗ってきた半生だからこそ、今において親子の血には、素直になれたのだと思いました。悪魔と取引は、喜久雄に取っては、落差はないんじゃないですかね? 少なくとも、私は最後まで観て納得しましたし。 ヤマ(管理人) 綾乃の件について「直ぐに解ると言うのは、心の底では忘れた事はなかった」などというのは、あの律義な性質の喜久雄なら当然だろうという気がする。むしろ何十年も会ってないという設えのほうに違和感があって、表向きそうだったにしても、何もしていないはずがないという違和感があった。でもって、綾乃のほうは父親として絶対に許せないはずで、何年かけようが、歌舞伎役者としての父親を彼女の中で祝福する存在にはできなかった気がする。それどころか、歌舞伎そのものを拒絶するようになったろうと思うから、これもラストシーンに持って行くための作劇上必要な設えだという感じがして“作り手は、ちょっと綾乃を蔑ろにし過ぎてるんじゃないの?ってな感じの”違和感を覚えてしまったのよね~。しかも、その綾乃の赦しによって喜久雄は、人間国宝になっても見えなかった景色を大向こうに観る、目出度し目出度しだなんて…(たは)。女性たちの犠牲に乗っからねば、芸道は極められないってか?と何とも古色蒼然を覚えたわけよ。 (ケイケイさん) 律義な喜久雄なら当然ですか。私は普段は忘れていて、心の底に蓋をしながら生きていたと思いますよ。歌舞伎には血がたぎっているけれど、それ以外は基本的に冷酷な男だと思いますよ、お初を演じて以降の喜久雄は。そうしないと、身寄りもなく、たった一人で大人の中を生きてはいけなかったと思います。 藤駒に対して何もしていないはずがないのだったら、「藤駒という名前を憶えていますか?」は、変でしょう? お金でも渡しているのなら、そこは娘に言ったと思います。 作り手が綾乃を蔑ろにし過ぎているとの意見には「えぇぇぇ!私は何ていい役なんやと思っていたのに」と思いました(笑)。その役を、ご贔屓の瀧内公美がやっていたから、相乗効果爆上がりでしたけど(笑)。 女性たちの犠牲の上にある芸道という捉え方に古色蒼然を感じたということですが、そういう話なんですよ。女を踏み台にして、のし上がった歌舞伎役者の、古色蒼然としたお話しなんやって(笑)。私は、踏み台にされた女たちも、そのまま朽ち果てるのではなく、自分の意思で別の人生を切り開いていったので、文句はないです。 ヤマ(管理人) 「お金でも渡しているのなら、そこは娘に言ったと思」うというのも分からないではないけれど、喜久雄は綾乃に会うことを自ら封印していたはずで、藤駒に固く禁じていたろうと思うな。娘に教えたら送金は断つと言ってたはず。そうでなければ、悪魔との取引も上っ面でしかなくなるしね。むろん藤駒とも会ってなかったと思うんよね。もっとも綾乃が成人して独り立ちしてからは、もしかすると母親から聞いていて、仕事の巡り合わせで機会ができた際に会いに来たのかもしれないけれど、それであの芝居がかった赦しというのも、なんだか都合よく設えられたものに思えたところがあった。せっかくの瀧内公美なのに、僕は損な観方になったなぁ(たは)。 (ケイケイさん) ヤマさんは、どの辺で喜久雄が金銭的に藤駒母娘に援助していたと思いますか? 悪魔との契約は、日本一の歌舞伎役者になれるなら、他は何も要らない、でしたよね。悪魔に魂を売った男ですよ、喜久雄は。俊介との麗しい友情も、本心だとて歌舞伎絡みです。彰子を騙し、道づれにした男が、隠し子親子に金の援助をしますかね? 人間らしい感情は、日本一になるために、手放したのでは? 人力車で、幼い綾乃が「お父ちゃん!」と呼び掛けた時、氷のような目で綾乃を観たでしょう?(←ここ上手かった、吉沢亮)。 喜久雄が律儀と書いておられましたが、目上や男性にばっかりですよ。私は基本的に男尊女卑の男の気がします。書いているうちに解ってきたけど、俊介にはそれが無いですね。人間としては、断然俊介が善い人だと思うわ(笑)。でも善き人だと、日本一の歌舞伎役者になれないんでしょう。 ヤマ(管理人) 僕の喜久雄観は、前に「春江に去られたことが例の悪魔との取引にも繋がっている気がする。そういう作劇上の必要性から春江と喜久雄の別離を設え」ていると書いたように、俊介にとっての“半二郎襲名の喪失”と対になるものとして配されたものだと観ているんで、それだけ春江の存在は重いわけで、筋と義理(言うなれば律義)を重んじる建前の任侠の家に生まれ育ち、梨園で扱かれて磨きを掛けられた喜久雄の核心部分だと思ってるのね。 その律義の男が結婚を申し出た暗黙の許嫁を俊介に奪われたことが、半二郎の襲名を奪う結果になったことと並行する形で苛んだから“悪魔との取引”に繋がるというか、むしろ“悪魔との取引”に逃げたのだと観ているのよ。俊介の逃げ方とは違うけど、同じく「逃げ」なわけ。ということは、俊介が逃げ出した家と同様に、そうまでして逃げないといけないくらい囚われていたということだよね。 「悪魔に魂を売った男ですよ、喜久雄」と喜久雄の言葉通りに受け取るのか、“悪魔との取引”を敢えて自分に課さなければならないほどに悪魔的ではないのが喜久雄と観るかの違いということだと思う。でもって「喜久雄に憎しみが向かず、自分の弱さに向かった俊介が好き」という俊介と相通じるものがあるのが喜久雄だという喜久雄観が僕のなかにはあるのね。だから、藤駒母娘に援助をする律義さを失くしたりはしてないと思うわけ。むろん自ら課した「他には何も要らないという悪魔との取引」があるから、その援助による見返りなんかは求めてないし、だからこそ「喜久雄は綾乃に会うことを自ら封印していたはずで藤駒に固く禁じていたろうと思うな。娘に教えたら送金は断つと言ってたはず。そうでなければ、悪魔との取引も上っ面でしかなくなるしね。」と書いたんだよね。 だから「どの辺で」と問われれば、俊介との関係の継続の仕方ということになるかな。そこに「目上と男限定」みたいな捉え方よりは、立花権五郎の息子に生まれた血筋と花井半二郎に鍛え上げられた育ちを感じるようなところがあるよ。だから「氷のような目で綾乃を観た」のも、自ずとそうなっていたというよりは、自らに課している姿のように感じ、そうまでしないと断ち切れない自分を知っていることの証のように映った。 「彰子を騙し、道づれにした男」というのにしても、俊介があの噂は本当なのか?と訊ねていたように、喜久雄が騙したというよりは彰子の憧れにつけ込んでというのでさえなく、冷遇され落ち込んでいた弱みにむしろ彰子につけ入れらるような形でその熱情に応えてしまったことによって更なる厄災を招いたように感じていたなぁ。映画からは、白虎の後ろ盾を失くして叔父筋に当たる吾妻千五郎(中村鴈治郎)を絡め捕ろうとしたのか、或いは彰子の熱情に応えることで束の間の逃げ場を得たのか、その発端がどこにあったかもよく判らなかったけど、僕の受け取りは後者のほうにあるから、喜久雄が騙して道連れにしたとは思ってない。むしろ俊介と春江の逃避行と、喜久雄と彰子の逃避行をダブらせて二人道成寺のごとく設えた趣向のように感じるところがあるよ。 だから、人間としては、断然俊介が善い人とは思ってなくて、血筋に生まれたかそうでないかの違いだけで、殆ど双生児のような感じのほうを受取っている。その強さも弱さも、人の好さも含めて。先に「喜久雄と俊介の関係を噓臭いと観る向きもあろうかと思うけど、むろん反発や敵愾心もありながら、余人に替え難い唯一無二の戦友として造形しているところに値打ちのある物語やと思う」と書いたようにね。 (ケイケイさん) 喜久雄の件、了解です。多分私と同じ捉え方だけど、表現が違うのかと思いました。私は冷酷になったのは、悪くないと思っています。冷酷にならなければ、後ろ盾なく、厳しくて魑魅魍魎の舞伎の世界で、やっていけませんから。先代の勘三郎が、これも先代の中村芝翫の娘と結婚して、これで全ての歌舞伎役者は縁戚になったと読んだ時、どえらい世界だなと思いました。上方歌舞伎は省かれていたと思いますが。 でも、「だから、藤駒母娘に援助をする律義さを失くしたりはしてないと思うわけ」のだから以降が違う(笑)。だから、私は愛情や家族という逃げ道を断って、歌舞伎の道を生きるため、敢えて全く繋がりを絶ったと思います。それくらい厳しい世界に、感じました。その根拠は、大事な襲名披露の時、吐血しながら「俊ぼん」と絞り出した、先代の半次郎の姿だと思いました。落胆したと思いますよ、喜久雄は。自分ではなく、師匠が死の淵ながら、襲名披露なのに、出奔したままの俊介の名を呼んだのを。その心を理解してしまうと、師匠を超えられないと思ったんじゃないかなぁ。 私が一番好きなシーンは、「俺には頼る血がないねん。お前の血をごくごく飲みたい」と、泣きながら俊介に縋る喜久雄のシーンです。あの時の俊介の暖かな対応は、心に沁みました。この二人の関係性や本当の心根を、一番表したシーンだと思います。 彰子の件はねぇ、彼女を抱きながら、悪魔的な顔してましたよ、喜久雄。利用しようとしていると、観客にも解らす演出だったと思います。それを彰子の父親に見破られて、そのまま彰子を捨てる事も出来ず、ズルズルと、という感じに思いました。彰子を想うより、自分が一人になるのが、怖かったんじゃないですかね? 彰子とは、辛うじて歌舞伎で繋がったいましたし。あの時藤駒母子が傍なら、歌舞伎辞めちゃって、普通の親子関係になったかもです。 双生児のような感じとおっしゃる喜久雄と俊介の関係ですが、断然とは言いませんが、俊介のほうが優しい子だとは、思っています。人は悪いですよ、喜久雄は(笑)。そうね、悪党でも悪漢でもないけど、悪い人ですよ。それ以外は同感です。 ヤマ(管理人) そりゃ殆ど双生児のようだとはいえ、ぼんぼんの“俊ぼん”と彫りもんを背負い人も殺めた“喜久ちゃん”にはそれぞれの負っているものの違いが自ずとあるわけだけど、それは負っているものの違いであって人間性においては「その強さも弱さも、人の好さも含めて」同質のように感じてたから、そのように映ったのかもしれないね。 歌舞伎ではなく、面を付けて舞う能がまさにそうであるように、演じ手の表情に何を観るかは、演じ手以上に観る側次第というところがあるような気がするから、その映って来方は観る側それぞれでいいんだろうというか、そうならざるを得ないものだと思うよ。喜久雄の冷酷、悪魔との取引をどう捉えるかも同様で、当否正誤の問題じゃあないし、是非を問うような話でもない気がする。まさに「是非もないこと」なのだと思うなぁ。 先代半二郎の吐血しながらの叫びは、芸道の鬼で息子との血縁よりも「芸」を取った冷酷を見せながらも、彼が鬼ではなかったことを見せていた場面であって、俊介の血を喜久雄がごくごく飲みたいと縋った場面同様、まぁ『サブスタンス』['24]のモンストロ・エリサスーの血の叫びまではいかずとも、実に芝居がかった血の見せ場やったね。そこに「いよっ御見事!」と快哉は挙げても感動を呼び起こされるのとは違うといった感じが僕への映り方であったということに過ぎないわけやけど、『血と骨』['04]と違って、こっちの『血と芸』の物語のほうは、その捉え方に普遍的な視座ではない古色を感じたんよね。 つい駄洒落のようにして引いてきた『血と骨』のほうは、いかにも一世らしい古い人間を描きながら人間の捉え方そのものに古さはなく普遍的な視座があったけれど、本作は歌舞伎という古くからの芝居の世界を描くことにおいて、そこに生きる人間の捉え方そのものに過剰に芝居がかった古色を僕は感じた次第。そういう雑念が邪魔することなく、達者な見せ場の連続と劇的な人の生に素直に感動できたら、それはそのほうが得だし、作り手も喜ぶことだろうと思う。まさにそこを狙って丹精したんだろうからね。 まぁでも、どうせ観るなら感動を得られるほうが絶対お得だから、それに越したことはないと思うけれど、僕は今回ちと落ち零れたな。観応えは充分にあったと思うけど、感動が得られなかったのは、そういうわけ。 (ケイケイさん) 今回は私が得をしたという事ですね。 女性陣の気持ちは、寺島しのぶが一番よく描かれていたし、短時間だったけど、綾乃も出色でした。春江はまぁまぁ、藤駒は圧倒的に描き足りないし、彰子の気持ちも、もう少し掘り下げて欲しかったですね。 ◎古色蒼然としていて少々違うのではないかという違和感について (ケイケイさん) 原作者が三年でしたっけ、黒子として歌舞伎に携わったのは。今でも充分、古色蒼然なんですよ(梨園というのは)、きっと。 ヤマ(管理人) 黒子三年の話は知らなかったけど、たった三年と観るか、三年もと観るか、それによってかなり印象が違ってくる気がするね。 まぁ、それはともかく僕的には「古色蒼然としたお話」を歌舞伎ではないのに歌舞伎仕立ての建付けで見せられても、感動までは湧いて来ずに「場」の力に、ほほぅっと感心するばかりやった。喜久雄の父親が殺されたのは、確か1964年やったと思うから、僕が六歳のとき。だから、喜久雄・俊介と僕は十歳と離れてないわけで、ほぼ同時代を生きているものだから、その古色を知っているだけに、妙に興醒めるところがあったのかもしれないけどね。 にしても、ちょいとした『国宝』ブームが訪れているようで、むかしミノさんが最終的に50回近くも観に行ったという二十年前の『オペラ座の怪人』ブームを想起してしまった。女性の支持パワーって波及力が凄いから、選挙でもなんでも瞬間出力、まったく魂消るようなものがあるよなぁ。 (ケイケイさん) ワハハ、うちの団地の爺さんも、現会長以下女性ばかりで驀進中なので、いつ悪事が暴かれるか、ヒヤヒヤしているようです。最近めっちゃ腰が低いそうですわ(笑)。腰が低いくらいでは全然足らんので、這い蹲って貰います(キリ!)。 そうそう、この前も『ドールハウス』を観に行って、エレベーターで一緒になったカップルの男の子が「俺、吉沢亮の映画も見たいねん」と言って検索をし始めたから、思わず「『国宝』やわ」と、オバちゃん言ってしまいました(笑)。もちろん、良い映画なので観てね~も添えてね。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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