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『山逢いのホテルで』(Laissez-moi)['23]
監督・脚本 マキシム・ラッパズ

 スイスではまだこういう映画表現がきちんとなされているんだなぁと感心した。山間のホテルではなく、山逢いのホテルだから、チラシの表に大きく映し出されているカットからも不倫の恋の物語かなんかだろうと思っていたので、大いに意表を突かれた。

 その肌の弛み具合からも四十路を既に過ぎていると思しき仕立て屋のクローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)は、いつから「山逢いのホテルで」週一の男漁りをしていたのだろう。前夜は、彼女にとってのアヴァンチュール・ユニフォームとも言えるような純白のワンピースをクローゼットから取り出し、大事そうに伸ばして掛けてから寝るのがルーティーンで、しっかりホテルのボーイを手懐けていて、どぎついルージュで男を誘ってはいても売春とは異なるその行状をよく弁えたうえでの男選びの手伝いまでさせていたと思しきことが印象深い。だが、それ以上に驚いたというか意表を突かれたのが、ポスター・チラシに大きく映し出されていた、後ろ抱きの形で男の肩に頭を凭せ掛け、男の髪に手を伸ばしている煽情的なカットの現れる場面だった。頭を凭せ掛けているというよりは、ダム湖の上で開けられた前面から上下半身をまさぐられて身を仰け反らせていたのだった。ベッドでの全裸の情事のあと、代わる代わる互いの体を慈しむように指でなぞるカットが好い。

 既に成人年齢をとうに越していると思しき障碍者の息子バティスト(ピエール=アントワーヌ・デュベ)と彼女を残して夫が去ったのは、息子が幾つのときだったのだろう。クローディーヌが自分で書いて郵送し読んでやる父親からの手紙を息子が楽しみにしている様子からは、バティストがまだ幼い時期からそうしていた気がする。

 原題はフランス語で「私にかまわないで」といった意味合いのようだが、さぞかしストレスフルだと思われる日々のなかで、彼女が自身を保つために取ってきていたのであろう習慣のなかで、これまでに経験したことはなかったと思しきミヒャエル(トーマス・サルバッハー)との出会いと別れを五十路になって経て、彼女が元のルーティーンに還ることができるのかどうか、バティストがまた、それを求めるのか否かも含めて、最後のクローディーヌの咆哮とも言えそうな叫びが痛切に響いてきた。生の哀しみが心に残る作品で、息子を施設に預けてアルゼンチンに旅立とうとした彼女が過呼吸に見舞われる場面が、とても印象深い映画だ。ダイアナ妃の亡くなった1997年、携帯電話もぼつぼつ普及し始めた頃だったように思うが、映画のなかで登場しなかったのは、当時だと電波の届かない高地だったからではないかという気もする。
by ヤマ

'25. 6.25. 美術館ホール



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