『旅の重さ』['72]
『櫂』['85]
監督 斎藤耕一
監督 五社英雄

 今回のカップリングは両作ともに初見作品だった。今ではとても撮れそうにない映画だと思った高知ロケ映画の二本は、共に女性作家による小説の映画化作品であり、おのずと“女性の生き難さ”が描き出されているように感じた。

 先に観た『旅の重さ』には、これがかの『旅の重さ』かとの感慨が湧いた。地元ロケ映画でありながら、長らく宿題映画のままで来ていた作品がようやく片付いたからだ。

 吉田拓郎の今日までそして明日からに始まって終わり、小柳ルミ子のわたしの城下町が流れるからだけではない'70年代感が、同時代を過ごしている者には特別な感興を呼び起こしてくれる作品だと思った。つくづく今だと撮れない映画だと感じる。

 おまけに実に初々しい秋吉久美子が漁村の文学少女として姿を見せてくれる作品でもあった。高橋洋子と秋吉久美子が共に持っているように感じる仄かな文学的香気というのは、そのキャリアが二人とも本作から始まったところに端を発しているのではないかという気がする。

 それにしても、旅の一座の座長を演じていた三國連太郎の佐藤浩市ぶりには吃驚した。最初は、こんな役?と訝しみつつも、声がそうだしなと思っていたら、造作のみならず雰囲気そのものが、現時点からすれば若き日となる息子の佐藤浩市そのものではないかという気がするショットが続けざまに現れたからだった。

 また、素泊まり三百円、入浴三十円増しという宿が出てきてその値段に隔世の感を覚え、そのような宿でも記帳を求められるのかと眺めていたら、それ線香か?というような“香取巻子”との記名に笑い、それがやりたかったのかと納得した。

 おそらく少女(高橋洋子)は、男を頼って生きるしか術のない母親(岸田今日子)の姿に“女性たる己が定め”を生々しく突き付けられ、それを間近に観るのが苦しくて家を出たのだろう。彼女が“考えること”をとても大事にしつつ、遭遇した旅の一座の人々から得た“食べることと寝ることと男女のことしかない旅芸人”の生き方に、ある種の真実を感じ取るイニシエーションを経たうえで、中年になる魚の行商人木村(高橋悦史)との生活を始め、旅を終えていた。

 それは、あくまで彼女が主体的に“選び取る”ことであって、年上の男を頼って生きるのとは正反対のものであるということを明示する形で終えていたところに感慨を覚えた。生き方に対するこの感覚が、極めて'70年代的だという気がした。現代の若者から共感を得るのは難しいのではなかろうか。宿代以上に隔世の感があるような気がする。

 そして、耐え難い“女性たる己が定め”に絶望した少女が旅に出ていなければ、ゲーテの『詩と眞實』を火にくべて自殺をした文学少女(秋吉久美子)と同じ道を辿ったということなのだろう。それほどに生き難い“女の道”というわけだ。


 翌日観た『櫂』のほうは、特に宿題映画として意識していた作品ではなかったのだけれども、思いのほか観応えがあって驚いた。鬼龍院花子の生涯['82]、『陽暉楼』['83]は何らかの形で観ていたが、三部作の最後となる本作は今回が初めてだった。魚の行商姿で締められた『旅の重さ』に対して、高知の県花というより県果とも言うべきヤマモモの行商から始まった本作は、まさに野趣の利いた酸味と甘みが癖になる傷みの速いデリケートな果実のような味わいの作品だった気がする。

 最後に菊(石原真理子)が、階段を上る養父の富田岩伍(緒形拳)の背に向けておなごを…と言って一呼吸置いた際に「わやにしなや」とくるだろうと思ったら、案の定わやにすなと続いてニンマリしたが、この決め台詞が夏目雅子の発した舐めたらイカンぜよほどに決まっていたら、本作の評価はもっと高くなっていたのではないかと残念な気もした。

 貧乏はいかん、貧乏は人の心まで腐らせる、儂ゃあ、おまんと子供らには絶対ひもじい思いはさせんきにゃと奮闘して、臓器売買の餌食になりかけていた少女のみならず、女たちに食っていける道を開きつつ、併せて次から次へと女たちを食ってもきていた富田岩伍(緒形拳)が、遂には大物実業家(島田正吾)から市議会議員候補に推されるほどに認められながら、おそらく最も自分を認めてもらいたかった二人の女性、菊と妻の喜和(十朱幸代)から見限られてしまったことに憤慨するように荒れる場面で終えていたのが印象深い。

 それにしても、前日観た『旅の重さ』に感じた「今だと撮れない映画」との思いは、幼女と胸の膨らみかけた少女を並べて裸で走り回らせる場面において更に強く感じた。ハイティーンどころではないと恐れ入った。そして『旅の重さ』に感じた'70年代らしさ同様に、バブリーな'80年代半ばに相応しい女優の濡れ場の大盤振る舞いに感心しつつ、130分超をぐいぐい引っ張っていく五社演出の牽引力に唸らされた。

 てんごのかぁにしよったら、しでまわるぞと静かに凄んで、嘗ての顔役たる多仁川組組長(成田三樹夫)の肝を抜くにまで至った岩伍に伍して頑と怯まず、意地を貫き通した喜和を演じた十朱幸代を観ながら、一番の代表作のように感じた。また、健気な少女から強かな芸妓の染勇になった豊美を演じた名取裕子が、これまでに観た彼女のなかで最も美しかったような気がした。売れっ子芸妓になって後にも喜和や岩伍に対しては健気な豊美のままでいることを覗かせる妙味のある人物造形を巧みに演じていた気がする。豊美については、敢えて濡れ場は見せずに岩伍の指を嚙ませていた。

 軍隊が行進する堀端の絵柄のロケ地が地元に思い当たらず、不思議な気がしていたら、エンドロールで判明した。熊本城だったようだ。生きづらかったのは女たちだけではない時代でもあったわけだ。日中戦争が始まったのは昭和十二年だったから、健太郎の出所してきた年なのだろう。軍隊の行進ショットは、繰り返し映し出され、なかなか決まっていたけれど、愛のコリーダの軍隊の行進には負けていたように思う。なまじ想起させるだけに破蛇だったかもしれない。

 だが、濡れ場の見せ方のほうは実に達者で、とりわけ感心したのは、喜和が奇しくも覗き見た楽屋での豊竹巴吉太夫(真行寺君枝)の場面だった。座して片膝を立てた巴吉の股間に寝そべったまま手を伸ばし弄りじゃれ合うようなことは、喜和の知らない睦事だったのだろう。そのなかに宿っていた昵懇は、自分が岩伍から得られていなかったもので、ある意味、交わりそのものを目の当たりにすることよりも耐え難かったのだろう。人一倍、子煩悩で菊を我が子のように育てることに迷いのなかった喜和が、巴吉の娘だけは嫌だと頑強に拒んだのは、それ故だったような気がする。

 喜和、菊、豊美、巴吉、照、五人の女性の見せる岩伍への想いの揺らめきと葛藤に味わい深いものを感じつつ、女の生の苦難が沁みてくるような作品だったように思う。




『旅の重さ』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4913063522126525/
by ヤマ

'22. 9. 5. DVD観賞
'22. 9. 6. DVD観賞



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