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『薄化粧』['85] 『復讐するは我にあり』['79] | |||||
監督 五社英雄 監督 今村昌平 | |||||
映画の最後に、昭和二十四年に実際に起こった事件だとの文字のみならず、事件現場となった長屋と思しき木造家屋が映し出された。どこまで実際の事件を忠実に再現しているかは少々怪しい気がしたものの、本当にろくでなしの連続殺人犯、坂根藤吉の不埒と愛嬌を体現していて、流石は緒形拳だとつくづく思った。あの冷酷と愛嬌は、余人を以ては醸し出せない気がする。よもや朝ドラ『らんまん』と同じ、土佐の佐川を舞台にして始まるとは思い掛けなかった『薄化粧』は初見作品だったが、やにわに、緒形拳がこれまた連続殺人犯を演じた『復讐するは我にあり』を再見してみたくなった。 映画作品は未見ながら、公開当時、女優を脱がせることで定評のあった五社監督の映画に浅野温子、藤真利子、松本伊代が出演しているということで話題になったグラビアを観たような覚えがあるが、坂根が手配犯であることを知ったうえでも芯から想いを寄せていた幸薄き女性ちえを演じていた藤真利子の、露出度も一番の熱演が印象深かった。ちえの抱いている寂しさ心許なさをまさに体現していて、代表作と言えるものにしていたような気がする。彼女の発する「えいと言うとおせ」は、『鬼龍院花子の生涯』での夏目雅子の「なめたらいかんぜよ!」に負けない土佐弁台詞の代表格だと思う。 それにしても鉱山会社の幹部たちが麻雀に興じながら、落盤事故で亡くなった鉱夫たちに向けて吐いていた酷薄な暴言「地位ない、カネない、運ない。三つ無いは、みっともない」の凄まじさには、前夜に『夜明けまでバス停で』を観たばかりということも作用してか、本当に呆れ果てた。坂根は、落盤事故で夫を亡くした後に自分に擦り寄ってきたテル子(浅野温子)が自分の人生を狂わせたなどと言っていたが、落盤事故に係る補償争議で一際声高く「人権、人権」と叫びながら鉱夫たちを統率していた姿を会社側から認められて、補償費用の大金を託されたことから、坂根の転落が始まっていた気がする。 カネと権力を手中にすると堕落するのは政治家に限らぬ人の習わしだとしても、貧する仙波すゑ(宮下順子)からカネの無心を受けつつ抱いた後で、次は娘の弘子(松本伊代)との母娘丼を要求する下衆っぷりには、ほとんど架空のパーティで資金集めに奔走する金権政治家にも匹敵する増長ぶりが窺えた。他方で、指名手配を受けながらの逃亡の身で、気弱な鉱夫の氏家(竹中直人)や鉱夫相手の呑み屋を営む内藤ちえに対して見せる心遣いからすれば、坂根は冷酷強欲だけの輩ではなかったわけで、やはりカネと権力が、カッとなりやすく増長しやすい男を狂わせたということなのだろう。 翌日観た『復讐するは我にあり』は、四十四年前に池袋文芸坐地下で『野生の証明』との二本立てで観て以来の再見だ。昭和二十四年に事件は始まったと最後に示されていた『薄化粧』の事件から十五年後となる昭和三十九年の逮捕場面から始まっていた。本作の六年前に坂根藤吉を演じて特異な冷酷と愛嬌の造形を果たしていた緒形拳が、本作で榎津巌を演じては、同じような連続殺人犯を演じても、愛嬌の欠片も見せず、首から外さなかった十字架【神】ないしは父親に挑むかのような、求道的悪行に駆られている人物像を達者に造形していて流石だった。 その一方で、『薄化粧』の内藤ちえと似た境遇の浅野ハル(小川真由美)が同様に、榎津巌が手配犯であることを知ったうえでも芯から想いを寄せていた姿が印象深い。ちえを殺害したりはしなかった坂根は、小学生の息子を殺してしまったことへの悔悛を滲ませていたが、ハルを絞め殺した榎津巌において、その殺害は己が所業を神に問う、ある種の挑戦であり、ある意味、早晩自分に訪れるであろう死刑を観念したうえでの、無理心中のようなものだったのかもしれないと思った。 人物像として最も不可解だったのが榎津巌ではなく、その妻加津子(倍賞美津子)だという配置の妙にも感心した。昭和十三年の夏、幼い巌にとって決定的だったとも言えそうな、軍からの漁船供出命令に対して父親(三国連太郎)の取った不甲斐ない行動すなわち、抗議しつつも貫徹できずに衆人環視の元で屈服する屈辱的な虚弱さの露呈を通じて巌が感じていたと思しき、父親の言行不一致の欺瞞性に対して同様に感じながら、「狡い」と言いつつ、そこが好きなんだと明言していた加津子だった。かなり早期から積極的に舅に心身を寄せて行っていた彼女の心境は、どこから生じたものだったのだろう。妻かよ(ミヤコ蝶々)が露わにしていた猜疑心と嫉妬は故なきものではない気がした。巌の逮捕後に面会に行った際に、息子から嫁との肉体関係を質されて否定していた姿に、肯定できないから否定している風情が見え隠れしつつ、その実、本当はしたいのに出来ずにいる不甲斐なさをも覗かせる“狡さ”が巌を苛立たせていた場面が印象深い。流石の三國連太郎の演技だったように思う。 神と信仰をまとうことでその欺瞞性と虚弱さへの“赦し”を自身で与えているように映ることが、思春期の巌をさぞかし苛んだのであろう。加えて、いい歳をした息子の無心に対して、言いなりどころか、先回りして準備し渡す母親の溺愛が映し出されていた。そこには、ある意味、『薄化粧』の坂根藤吉が壊れてしまった“カネと権力”の賦与以上に、罪深いところがあるようにも感じられた。図らずもハルの母親(清川虹子)が「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね、あんた」と看破していた台詞が重要で、数多の殺人犯を十五年に渡る刑務所暮らしで観てきただけのことはある、慧眼と言うか洞察力だったように思う。ただの覗き趣味では得られぬ観察眼であった。 思えば、榎津巌がそれまでのセコイ詐欺事件から一気に飛躍し、五人もの連続殺人に手を染め始めたのは、大分の鉄輪温泉で入湯・貸間の貧弱旅館「五島荘」を営む実家を離れた妻加津子を父親が連れ戻し、一緒に暮らしていることを知った時からだったような気がする。それにしても、父を破門に至らせた復讐の、“赦し”とは対極にある苛烈さが印象深い。 また、大学教授を装っていた榎津が東京に訪ねてきたハルと連れ立って観ていた映画が、ケネディ大統領の国葬を報じるニュース映画に続く『ヨーロッパの解放 第三部』だったことが目を惹いた。ケネディ暗殺は'63すなわち昭和三十八年だから整合しているが、『ヨーロッパの解放』は、'70年代になってからの映画だったはずで、どうしてここに敢えて持ってきていたのか腑に落ちない気がした。第三部だったから「大包囲撃滅作戦」ということかと思わぬでもないけれども、敢えてそうするまでの必然性には乏しい気がする。あくまで昭和三十八年であることを明示するニュース映画を添えてまで、'70年代作品を作中に登場させた意図は何だったのだろう。 そして、ハルの暮らす土地が浜松だとはいえ、やけに印象深くウナギを映し出していたことが目に留まった。後に『うなぎ』を撮って二度目のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞を果たしたことを知って観た再見では、何だかとても興味深く映って来た。 | |||||
by ヤマ '23.12.21. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 '23.12.22. BS松竹東急土曜ゴールデンシアター録画 | |||||
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