『砂の上の植物群』['64]
『接吻』
監督 中平康
監督 万田邦敏

 原作小説の一節の朗読と思しきナレーションとパウル・クレーの画と思しき作品群を映し出して始まった映画をこれが『砂の上の植物群』かと思いながら観た。原作小説は未読で、映画化作品も未見だったが、二十代時分から気にはなっていた作品だ。

 若くして死んだ放蕩者の父親の享年を三年過ぎた三十七歳の伊木一郎(仲谷昇)は、十四歳の時に死んだ父親への対抗意識なのか、これぞ女たらしというような男だった。大学生の頃は随分と痴漢的行為をやったものだ。その行為が僕の青春だったとも言えるなどと回顧する親友の井村(小池朝雄)とは、彼の述べる“内気と野放図”が相通じるような人物だ。

 三十路半ばで急逝した友人の通夜で再会した旧友の妹(福田公子)への思慕にほだされて、思わずしでかした痴漢行為を強姦されたとして訴えられた井村の件にて二人が交わす痴漢談義の有様といい、画家だった亡父のモデルを務めたときの妻の歳と同い年である女子高生の明子(西尾三枝子)への伊木のたぶらかし方といい、当世ならずとも顰蹙もの間違いなしで、奇しくも先月読んだばかりの男と女をめぐる断章』の感想メモ当代きっての人間通、とりわけ女性通として名を馳せていた覚えのある吉行なればこその企画だったのだろうが、読んでいて思わず吹き出すほどの昭和色と記したものと通じるものがあったように思う。映画の仕立てとしては色褪せていないにもかかわらず、作品的には古臭い幼稚さが漂っている気がしてならなかった。原作による部分が大だと思われる人物造形のもたらすもののように感じた。

 性交時に興奮してくると縛ってとせがみ、乳飲み子がいるわけでもないのに、きつく絞られた乳から“白い涙”を流す稀有な体質のバーのホステス京子(稲野和子)にセーラー服を着せて挑んだり、縛って布団に横たわらせた裸身を妹の明子に見せつけて挑発するなどというロマポさながらの不埒を働く一方で、妻の江美子(島崎雪子)にはぐじぐじと亡父との間の肉体関係の有無を繰り返し問い質す伊木には、京子の店“酒場 鉄の槌”の名の通りの鉄槌が下って然るべきところながら、仄めかされた異母妹との近親姦はなく、姉妹丼と緊縛性愛への惑溺を描いて『道を迷っている二人と共に』として締めるまでに留めていた。オープニングのタイトルバックで題名を添えて最初に現れた赤色の雲が彩るボルの上空の雲々が、まるで「ポルノ上空の人々」として想起されるような趣の作品だったように思う。

 京子を演じていた稲野和子の二十代とは思えない臈長けた色香と艶技が目を惹き、明子を演じていた当時十代の西尾三枝子の無軌道で溌溂とした若さに魅せられた。姉の裸身を妹に見せつけた際に伊木がセーラー服の明子の緊縛姿を幻視する場面で流れた♪トッカータとフーガ♪には、思わず吹き出してしまったが、前半で頻出していたさまざまな女性の口の動きのクローズアップはなかなか妖しかったように思う。

 どうしてたの、あれから三日も会ってくれないなんて。どうしてあたしをほっといたの。あんな目に遭わせといて、あのあと女を一人にしておくなんて…酷い人。あんなときは次の日も会ってくれるものよと囁きながらしな垂れ掛かる京子の台詞を書いている吉行淳之介を合評会で女性メンバーがどう評するか、楽しみだ。若い時分に文芸部にいた僕の朧げな記憶では、吉行ファンは意外と女性に多かったような覚えがある。


 翌々日観た『接吻』は、腰ポケットにハンマーを差してコンクリート階段を上る男の後ろ姿で始まり、私のこと、どうにかしようなんて思わないで。放っといてと叫びながら拘置所職員に引き連れられて行く女のアップで終える映画だ。

 大変な触発力を持った作品で、十五年前に観た後、ラストカットの女性の姿同様に引き摺られ、反芻を繰り返して長大な映画日誌を綴ったのだった。

 その日誌に長谷川を刺そうとして失敗した彼女が、重なり合って倒れた態勢で腕を押さえられたまま、あの強引な濃厚キスをしたのは、彼女の側から彼を“いいようにする”行為として咄嗟に果たせるものが、その時それ以外には何もなかったからだろうと僕は受け止めている。と綴った部分は、再見すると彼女の腕は押さえられてはおらず、自らの顔を寄せたのではなくて長谷川の顔を引き寄せてのものだったが、刃先の折れたと思しきナイフを観直して取った行動だった。

 十五年前に一度スクリーン観賞したっきりだったけれども、細部はともかく場面的には、ほぼ全てのシーンに覚えがあった。当時よりも遥かに無慈悲な世の中になってきているような気がするだけに、いま観直すことに意味があるように感じた。やはり大した映画だと改めて思う。映友たちとの当時の談義を再読して楽しむことにしようと思った。



【追記】'24. 9.25.
 合評会では、開口一番、『接吻』は3回目の鑑賞だったのに、作品タイトルである接吻の場所と相手を間違えていて面会場面での坂口と京子が透明の仕切り越しに手を合わせる行為のことだと思っていたので、最後の場面に吃驚したと発言したメンバーの弁が馬鹿ウケだった。二度も観ていて最後の接吻場面が飛んでるとは驚異的だとの声に対し、でも、当時から力のある作品だと絶賛してたのよ。との応答が更にウケていた。

 手を合わせる行為を接吻と見立てることはあながち誤ってはいないと僕は思うけれども、本作を二度観ていて、最後の場面が坂口を刺し、引き摺られていく京子の姿だけで終わっていることには僕も吃驚した。つまりは記憶に残らないほど腑に落ちない“意味を持たないショット”だったということだろう。それだけの突拍子のなさが確かにあって、十五年前に観たときの日誌にも二人(京子と坂口)の接吻にすると、それまでの出色とも言える緊張感の持続に対して、余りにも凡庸な成就を意味するようになり、作品が台無しになってしまうと考えた作り手が、意表を突いて長谷川弁護士(仲村トオル)に振り替えたのではないかと思ったりしないでもないくらいに奇抜と記している。だが、だからこそ反芻を促されたのだった。

 このときの映画日誌については、程なく桃まつりpresents 真夜中の宴 & とさ・ピク展で来高した映画美学校卒業生の女性監督から、映画美学校の先生だった万田監督がネットで読んで、とても喜んでいたと教えてもらったことがあると話すと、監督が読んでいたことに感心された。

 今回のカップリング2作品に対する支持は全員が『接吻』のほうを挙げるという初めてと言ってもいいような事態となったのだが、配役に関しては、豊川悦司と小池栄子では華があり過ぎて役柄に合わないとする意見と適役だったとする意見が二対二に分かれた。とりわけ豊川悦司に違和感を覚えたというメンバーが例示として挙げたのが容疑者Xの献身での堤真一だったのだが、豊川悦司が適役だったと支持した二人が揃って石神を演じた堤真一も適役だったと支持したのが可笑しかった。

 僕が今回の合評会で楽しみにしていた、吉行淳之介を女性メンバーがどう評するかについては、吉行まるで形無しというのが可笑しかった。谷崎との差をつくづく感じるという元ファンを自認する彼女の意見が実に愉快だったのは、半世紀近く前の大学の文芸サークルにいた時分に僕が吉行の良さが分からないと言うと、サークルの先輩女性から「吉行の良さは大人にならないと分からないからなぁ」と宣われた覚えがあるせいかもしれない。合評会では、吉行のみならず映画作品としての『砂の上の植物群』もコテンパンだったが、パウル・クレーの画の使い方とか、カラーとモノクロの対照、とりわけ女優の演出など映画の仕立てとしては色褪せていないことが却って原作の古色蒼然を際立たせているのだと中平監督を擁護したところ、賛意も得られた。

 カップリング選定をした主宰者による「テーマは“捻れた男女の愛”」については、一斉にあれが愛か?との疑義が挙げられたが、それぞれの主観においては紛れもなく愛だったのではないかとのダメ押しに了とされることになった。選定者が京子と京子の狂態の競演だったとも言うので、いっそ「捻れた男女の愛」から「狂態を見せる二人の京子の競演」にするかえ? 主題にはならん惹句っぽいかな(笑)。「京子二人の狂態競演による女性の深淵」なら主題っぽくなる?(あは)と返したら、ほんまやね。「京子」でくくると「きょう」で韻が踏めるね❤ でも、仲谷昇も居たし、西野三枝子も居たし、片やトヨエツ、仲村トオルも存在示してたしねぇ☝️とのことだった。

 作品支持こそ四人全員一致ながら、今回の合評会も談論風発で実に愉しかった。十五年前の『接吻』をめぐる掲示板談義を編集採録したものも活発な意見交換がなかなか面白いので、ぜひ覗いてみるよう伝えた。
by ヤマ

'24. 8.26,28. DVD観賞



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