『接吻』をめぐって | |
(TAOさん) (シューテツさん) (ミノさん) 「映画通信」:(ケイケイさん) (イノセントさん) ヤマ(管理人) |
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No.7957より 2009年01月20日 07:14 -------鮮烈なる「獰猛でもの悲しい“接吻”」------- (TAOさん) ヤマさん、拝読しました。いやあー、充実の読み応えでした。 ヤマ(管理人) ようこそ、TAOさん。ありがとうございます。 (TAOさん) 今日は時間がないので、まずひと言だけ。 ヤマ(管理人) はい。お構いなければ、改めてゆっくり談義しましょう。 (TAOさん) 京子が他者を「いいようにする」快感にめざめていくとらえ方は、ミノさんの感想と似てますね! ニュアンスはぜんぜん違うんですけど。 ヤマ(管理人) え、そーなんですか? そのミノさんのニュアンスってのが気になりますね〜。 ところで、TAOさんのmixi日記。「磨き上げられた傑作にはない勢いと鋭さがある。『ノーカントリー』にはない感動がある。」とお書きでしたね。全く同感です。“磨き上げられた傑作”とは感じさせないから、僕も不埒にも拙日誌に「それまでの出色とも言える緊張感の持続に対して、余りにも凡庸な成就を意味するようになり、作品が台無しになってしまうと考えた作り手が、意表を突いて」などという書き方をしちゃったんですよねー(笑)。 「釈明を一切しない殺人犯の心理を、殺人犯に過剰な共感を寄せる彼女に代弁させていく手法が鮮やか。“心の闇”などという便利なマスコミ言葉の無意味さを実感させられる。」にも大いに共鳴。っていうか、そこんとこしか作品については綴ってないくらいですよね、拙日誌(あは)。 やられた!って思ったのは、「獰猛でもの悲しい“接吻”」とのフレーズ。拙日誌の「あの強引な濃厚キス」との修辞上の次元の格差に、ただいま打ちのめされ中(笑)。接吻シーンが象徴するものの受け止めは、若干違っていたように思いましたが、「アウトサイダーの魂の咆哮」という点では通底してますねー。 -------炙り出された現在社会------- (シューテツさん) 私も同じく読み応え十分の日誌に満腹致しました。 ヤマ(管理人) ようこそ、シューテツさん。ありがとうございます。 (シューテツさん) ヤマさんのこの作品評ってのは、もうそのまま現在社会の分析になっていますよね。 ヤマ(管理人) 恐れ入ります。作品の持つ触発力の賜物です。 (シューテツさん) 今回はかなり発見があり勉強になりました。 特に「単純に字義通りの意味しか受け取れない世代を生み出してきたことによって、実際にそういった行為をすることへの禁止令も驚くほどに緩やかになってきているような気がしている。」は同感で、現実の社会でも様々な場面でそれを感じる事が多いですもんね。 ヤマ(管理人) ですよねー。かつての不良程度じゃ、今やフツーで、不良じゃなくなってますし、堅気が堅気じゃなくなってますものねー(笑)。 (シューテツさん) それと、TAOさんも仰っている「いいようにする快感のめざめ」ってのは、特に女性に多いのかも知れませんね。 ヤマ(管理人) ふふふ。実は僕もそう思ってます(あは)。坂口より遥かに京子のほうが恐いですよね。 (シューテツさん) 直ぐに加害者にも被害者にもなり変われる要素が、男性以上に強いように思えます。 ヤマ(管理人) 情熱であれ受苦であれ、パッションは、やはり女性上位かと。 (シューテツさん) 男の場合は、加害者のままであったり、被害者のままのケースが多いように感じるのですよね。 ヤマ(管理人) あ、可変性というか豹変のことについておっしゃってたんですね。 (シューテツさん) この映画の場合も、その辺りの男女のギャップが描かれていたように思えます。 ヤマ(管理人) そういう面では、ギャップと同時に“擦れ違い”のようなとこに焦点を当ててましたね。 (シューテツさん) とっても、興味深い日誌でした。 ヤマ(管理人) 重ねて、どうもありがとうございました。かようなコメントをいただくと、とても嬉しいですね〜。 (シューテツさん) 是非『UNLOVED』もご覧になって下さいねf^_^;; ヤマ(管理人) 回顧上映でも企画されないと機会ないかも(とほ)。 そのためにも万田監督にはメジャーになっていただかないと(笑)。 -------ジェットコースタームービーとしての『接吻』------- (ミノさん) 呼ばれました?ミノです。出てきました。はい、拝読しました。 ヤマ(管理人) ようこそ、ミノさん。 (ミノさん) 『接吻』かなり前なので、感触的なことのみ記憶に残ってますが、面白いジェットコースタームービーとして楽しんでしまいました(爆)。 ヤマ(管理人) ジェットコースターですか(笑)。確かに恐くて緊張しちゃいますよね。 (ミノさん) で、ヤマさんが書かれていたことで、私が感じたのは、京子や秋生が、怒りを外に表明できずに生きてきた人間(いいようにされる、利用され続ける)であるというのは、つまり、怒りって、信頼関係のある相手にしかぶつけられない感情だなってことなんですよ。怒れる相手って、自分でも信頼関係のある相手だけだなって思うんです。 ヤマ(管理人) それって、誰にもには見せられない“我が儘”とも同じで、ある種の甘えの感情が背景にあるってことなんでしょうね。 (ミノさん) だから、秋生が、身内に向かうべき家族殺人を行わなかったのは、行えなかったからであって、家族とはそれほどの信頼関係がなかったんだろうなーと。。 ヤマ(管理人) 坂口は、確か家出した父親を亡くした後、兄にも家を出られ、母親も亡くしていましたから、もう既に家族のない状態で、身内に向かいようもなかったとは思いますが、諦めている相手に怒りの感情は湧かないものではありますね、確かに。 (ミノさん) 逆に、何もない、信頼もないし面識もない相手を何故殺せるかというと、それもまた不思議なんですが・・ ヤマ(管理人) 身近な人よりも、縁もゆかりもなく名も知らない他人のほうが打ち明け話をしやすい場合があるのと同じような形で、抑圧せずに己が心の露をぶつけた形が殺意だったということなのかもしれません。 (ミノさん) それで言えば、殺せるのって自分の一部だと思うからこそ、っていうのがあるんじゃないかと家族殺人のニュース見るたび思いますねえ。 ヤマ(管理人) なるほど。 (ミノさん) 京子は、途中から男に対して怒りを表していきますが、それって相手を所有するとか、信頼が芽生えるとか、とにかく関係性が築かれつつあるからこその感情の表明であって、… ヤマ(管理人) それはそうですね。全くの無関係だと、感情を寄せにくいですもんね。 (ミノさん) 着地点が殺すか、接吻かってのは、すごくなんかわかるような気がします。すごく感覚的なんですけどね。愛と殺しって裏表ってとこあるんじゃないかなー。 ヤマ(管理人) なるほどね。 mixi日記、拝見しましたが、「遠藤京子は、坂口の生き血を吸って、女として目覚めた、っていう風に見え」たミノさんの目に留まったのは“己のエロスの開花”だったようですから、さればこそ、表裏一体となった愛と殺しって見え方に繋がるんでしょうね。 (ミノさん) 人を憎むことを出来ない人って、愛することも出来ないような気がするんですよねー・・・ ヤマ(管理人) ドキ!(笑)。僕、人を恨んだ記憶残ってないですから、誰も愛していないってことになると、ヤバいな〜(たは)。 (ミノさん) て、ちゃんと呼応した感想になってるかなあ。 ヤマ(管理人) もちろんもちろん、とっても興味深いコメントをいただいて、思わずニンマリとしているところです。ありがとうございました。 (TAOさん) すみません、思わせぶりな発言を残したまま退場してしまって。ミノさんを深夜に呼び出しちゃいましたね。 そうそう、私の記憶によるとミノさんは、この映画を“悪女物”の娯楽作として満喫したというふうに書いてらして、私も記憶が曖昧で正確ではありませんが、「悪にめざめた女がしぶる男をバッサリ殺し、その勢いでもうひとりの男に熱烈キスで地獄に道連れ!」みたいにストーリーをズバッと要約していたので、そうだったのかーと眼からウロコだったんです。 ヤマ(管理人) そうそう。とても新鮮なイメージの提示を受けますよねー。そう観ると、確かに成る程ねーって思い当たるとこ、あれこれありますしね。 (TAOさん) なにしろ私はほら、「獰猛でもの悲しい“接吻”」だの、「魂の咆哮」だのと見てましたから、なんか私ってロマンチック? 魂病? とか反省したりして(笑)。 ヤマ(管理人) 別に反省などしなくてよろしいんじゃない? たまには、TAOパンチを繰り出さないことがあったって(笑) (TAOさん) で、同じく魂派のケイケイさんが、「ミノさん、お疲れやったんでは」とコメントしていたのもおかしくて、とっても印象に残っていたのでした。 ヤマ(管理人) そのコメント、確認しましたよ(笑)。何かユーモアありましたよねー。 (ミノさん) あはは、まさにTAOさまおっしゃる通り、“悪女モノ”として楽しんでしまいました(笑)。 ヤマ(管理人) 悪女って、ミノさんの憧れの一類型ですものね(笑)。 (ミノさん) 魂派の見え方がまっとうなんですが、小池さんのキャスティングのせいか、怪しいのなんのって。 ヤマ(管理人) これはもう、観た人、誰もが思うことですよねー。 (ミノさん) あのラストはそのまんま『女囚さそり』につながりそうな(笑)。 ヤマ(管理人) おや、そんなのもご覧になってるんですか? とすれば、『キル・ビル』のときに学習したんでしょ(笑)。 (ミノさん) どうして、ああもエンタメに見えたんでしょう。不思議。 ヤマ(管理人) 作り手もそれを望んでいる部分があったように思います。だからじゃないでしょうかね? -------救いを求めていた京子の愛の証------- (ケイケイさん) 出遅れちゃった! ヤマさん、皆さん、こんばんは。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん。 (ケイケイさん) 皆さん、何か冷めてますね〜(笑)。あの接吻、いいようにしたい接吻なんですか? ヤマ(管理人) それ言ってるのは僕だけで、TAOさんは、mixi日記に「“接吻”のシーンが象徴するのは、行動や言動とは裏腹に、本当は世間に受け入れて欲しいと願う、アウトサイダーの魂の咆哮」と書いておいでですから、ケイケイさんと同じですし、… (ケイケイさん) そうでしたね。TAOさんとは、拙掲示板で長くお話ししたんですよ。同じような感想でした。 ヤマ(管理人) 僕は、未見の作品のは、読まないから、その談義、逃しちゃってるんですけど、まだ残ってるんですか? 過去ログとか採ってあります?っていうのは、とりあえず置いといてさっきの続きですが(笑)、ミノさんは、「エロスの化身のようなキス」ですから、全然冷めてなんかないですよ。 (ケイケイさん) さっきミノさんの感想も拝読し直しました。私は、エロスという感覚は薄かったですね。 ヤマ(管理人) あれは、けっこう鮮烈でしたね、生き血吸うんですから(笑)。僕の「いいようにする」ってのと同様に、多数派ではなかろうと睨んでます。 (ケイケイさん) むしろ、昔からある「将来は良いお嫁さん」願望の強い人に、京子は感じました。 ヤマ(管理人) これは、僕もそんなふうに思いますね。観たときに感じてたわけではありませんが。 ケイケイさんは、映画日記に「京子は、いつかこの部屋で愛する人と暮らす自分を、心の底で切望してたのだと感じました。」とお書きでしたよね。で、そういうのほど恐いんですよ。「私って尽くすタイプなの」ってなこと、のたまう方と同様に(笑)。 (ケイケイさん) だから、この手の願望がマックスに募ると、本当は相当怖いんだとも感じました。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。可愛さ余って憎さ百倍とかもそうですよね。余すなよ〜って(笑)。 もっとも僕も、拙日誌に「そうしてまでも“いいようにする”行為を果たさずには置かないだけの熱情に彼女が囚われていたことを示していた」と綴っているので、“熱情”と書いてるってことは、冷めてるわけじゃないんですけどね。 ただ恋愛という観点から殆ど観てないっていう意味では、恋愛感情の部分に対して“冷めてる”とは言えますね(たは)。 (ケイケイさん) 私も一見恋愛を描いているように見えるけど、独りよがりの激情であって、恋愛の部分は冷めているというのは、理解できますね。恋愛というよりも、私は心の底からの“京子の救われたい思い”だったと取りましたよ。 ヤマ(管理人) 映画日記に「対する全ての人に頑なだった秋生の心が、京子に向いたのは、単に彼女が女性だったからだと感じます。京子の思い込むような、“世界で二人だけ”の気持ちではなかったように思うのです。」と書いておいでのところ、けっこう重要なポイントだと僕も思ってます。だからこそ、「京子と知り合ったことで、初めて自分のしでかした事を、反芻」し、「社会性を取り戻しつつ、人らしい感情も湧いてくるようになります」と書いておいでるような変化を秋生が果たす部分に深みがあるんですけどね、この作品。 ケイケイさんの映画日記に「つかの間、一人でない人生を味わった京子には、もう一人でいることは出来ないのです。“私のことは、放っておいて!”。この叫びは、私は彼女の心と相反するものだと感じます。それが長谷川に渡したプレゼントの、本当の意味」と書いておいでますものね。 (ケイケイさん) だから、遠藤への誕生日プレゼントだと言っていた、あのナイフを使ったんじゃないですかね? ヤマ(管理人) 遠藤? 誕生日プレゼントってことは、坂口ですね。あのナイフについて、そんなこと言ってましたっけ?(不覚) (ケイケイさん) 間違えました、長谷川です(詫)。私も仲間入りしたくて、急いでたから間違えました(^_^;)。 ヤマ(管理人) あら、坂口ではなく、長谷川だったんですか(たは)。それはともかく、かのナイフに僕はそこまでの意味は見出しておらず、自分だと持ち込めない凶器を拘置所に運ぶための手段として、長谷川に(なんか“お礼”のプレゼントだった気がしてますが)贈っただけだと受け止めてました。 (ケイケイさん) なるほど。私は全然理性的に観られなくて、一種興奮状態で観ていたので(笑)、これが不器用な京子の愛の証なんだと、これしか思い浮かびませんでした(笑)。 ヤマ(管理人) 京子は、長谷川への愛を自覚していたと解しておいでましたか!(意外) これは、ミノさん、喜ぶんじゃないかしら。ケイケイさんが映画日記に「長谷川に渡したプレゼントの、本当の意味」と書いてた部分は、そういう意味だったんですね。読み取れてませんでした。 (ケイケイさん) 京子は自己愛の変形の恋心ですが、秋生の京子への気持ちは、感謝という思いに包まれた「愛」だったと思います。 ヤマ(管理人) これは全く同感です。 拙日誌に「坂口にだけ凶器を見せて無言のうちの了解を得てから」と綴った場面での坂口の“了解を示した表情”には、ケイケイさんが映画日記に「京子の心を受け止めた、ラストの秋生の安らかな顔」とお書きのものと同じものを受け取っていましたよ。 (ケイケイさん) だって彼女によって、人間らしい感情を取り戻したんですから。慈悲深いあの死に顔が、全てを物語っていたと思います。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。不意打ちで刺されたんじゃないですものね。 (ケイケイさん) 京子がそうすること、坂口にはわかってたんでしょうね。 ヤマ(管理人) 僕は、そこまでは行ってなかったろうと思います。でも、京子が箱の中身を見せたときに即座に理解し、受け入れたのだと思います。あの仕切り板を隔てた面接のときに、せっかく来てるのに、「眠っていい?」と断って自分の腕を枕に頭を傾けて目を閉じた京子に目をやる秋生のまなざし、とてもよかったですよね。 (ケイケイさん) 京子が彼を理解する以上に、坂口は京子のこと、理解していたんだと思います。ここが独りよがりではない、愛というものの本質が描かれていたと思いますね。 ヤマ(管理人) 愛の本質って、やはり受容ですよね。 (ケイケイさん) 坂口も京子に殺されたかったんじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) 悔いはなかったでしょうし、喜びを覚えていた気がしますね。 それにしても、ケイケイさんが“交錯し擦れ違う恋愛譚”として、実にストレートに御覧になっている率直さや、ミノさんがmixi日記にお書きの「男と女は出会い、そして女は男を圧倒して、彼を倒して、己のエロスを開花させたわけで、遠藤京子は、坂口の生き血を吸って、女として目覚めた」との、エロス譚として御覧になっている眼差しの靭さに、僕は感じ入ってました。ミノさんとこに「京子は坂口には自分を投影して献身的(じつは自己満足)だけど、長谷川に関しては、こいつには何をしても平気という、もろオンナの残酷な優位性と赤ん坊がおかあさんを求めるような切実なものがあって、エロスはエロスでも口唇愛期的というか、幼児性とオンナが合体したようないびつさだったなあ。」と書き込んでおいでたTAOさんは、恋愛感情の部分に対しては“冷めてる”とも言えるように思いますので、そこんとこでは、僕と近い受け止め方をしておいでたような気がしているところなのですがね。 -------重要な意味を持つ秋生の兄の言葉------- ヤマ(管理人) それはそれとして、僕がケイケイさんの映画日記で最も嬉しく読んだのは、秋生の兄について言及してあった部分でした。 (ケイケイさん) ありがとうございます。 ヤマ(管理人) 僕もあの兄の存在は、この作品のなかでとても重要な役割を負っていると感じていたので、「温厚で誠実そうな篠田三郎が演じる事で、的確にこのキャラが浮かび上がった気がします」とお書きのくだりにとても共鳴したのです。 (ケイケイさん) 例え不肖の親兄弟でも、絶縁するのは身内には身を切られるようなことですよね。一口で非情とは言い切れないものを、そういう人は抱えていると思うんです。 ヤマ(管理人) 同感です。 (ケイケイさん) それを本当に誠実そうな篠田三郎に演じてもらうことで、そういう人の苦しみ哀しみを浮き上がらせたと痛感しました。 ヤマ(管理人) 拙日誌に僕が「京子に対して秋生に似ている感じを受けると話していた坂口の兄が語っていた“自分と違って弟には冷酷さがなかった”という言葉は、そういうことを示していたように感じる。」と綴ったのも、それゆえだったように思います。 (ケイケイさん) 痛々しく狂おしい話ではありますが、そこかしこに、社会から疎外された人への深い思いが感じられたのが、私がこの作品を好きな、一番の理由かもしれません。 ヤマ(管理人) 僕が日誌に「井上一家が施錠していなかったことを以って咎められる筋合いではないように、京子たちのパーソナリティにおける幾許かの特徴で以って、その“運の悪さ”をやむなしとするようなことがあってはならないと思う。」と綴ったのも、この作品にケイケイさんがおっしゃるようなことが宿っていたからでしょうね。 -------京子にとっての秋生、秋生にとっての京子------- (TAOさん) ヤマさんが「自分だと持ち込めない凶器を拘置所に運ぶための手段として長谷川に(なんか“お礼”のプレゼントだった気がしてますが)贈っただけだと受け止めてました」と書いておいでの件ですが、たしかに京子は長谷川にプレゼントだと言って渡して、長谷川はそれを真に受けてとっても喜んでいました。あ〜〜オンナって残酷だと思いましたよ。 ヤマ(管理人) 京子って、とならないところが的確ですな(笑)。ケイケイさんによれば、真に受けて誤りでもなさそうですが、僕は、やはりTAOさん同様、オンナの残酷さのほうを思いますね(笑)。 (TAOさん) ただ、京子の愛は独りよがりではあるんですけど、最初のうちはこの人に何かしてあげたいという母性愛のほうが大きかったんじゃないでしょうか。 ヤマ(管理人) 母性愛なのか同志愛なのかは留保して、「何かしてあげたい」との思いが強かったのは間違いないですね。差し入れ、バンバンしてましたし。少なくともあれは、近づいて最後には刺してやろうなどという魂胆ではありませんでしたからね。 (TAOさん) 途中から、超然たる殺人者になって、世間を見下したいという野望がふくれあがり、京子によって癒された坂口とは擦れ違ってしまうのですが。 ヤマ(管理人) 擦れ違って行っている過程を“共同作業”だと真逆に思い込んでたところが悲劇的ですよね〜。京子は、どんどん坂口に近づいて行ってるつもりだったんですからね。 (TAOさん) 誰からも愛を注がれなかった坂口にとって、京子は、母であり恋人であり姉であり妹であり娘であり、世界だったと思うのです。 ヤマ(管理人) 坂口にとっては、きっとそうだったでしょうね。 (TAOさん) 坂口兄は京子に会っただけでそのことを諒解したから、京子に感謝したんじゃないかな。 ヤマ(管理人) それが“余って”の殺意にまで至るとは想像してなかったでしょうからね。 (TAOさん) この件に関してはケイケイさんと同じく自称京子派のイノセントさんと長々と話しています。(イノセントさんのミクシィの08年10月6日の日記のコメント欄です)かなり長いですが、時間のあるときにご覧ください。 ヤマ(管理人) おー、それは、改めて訪ねなくては(礼)。 (ミノさん) 良いお嫁さん願望は、すごく感じましたね。あるいは世話女房願望。 ヤマ(管理人) 言われてみれば、確かにそのとおりですよね。 (ミノさん) 坂口が一人で控訴するって決めたことを「あたしに相談もなしで」と怒るシーン覚えてます? ヤマ(管理人) はい、はい。まだ日がそれほど経ってませんし、もちろん覚えてます。 (ミノさん) あれ、まさに女房気取りですよね。 ヤマ(管理人) いや、全く(笑)。実は女房であっても閉口する台詞なのにね。 (ミノさん) 坂口のほうは、距離感つかめてないからおどおど。京子はお前は私のものだと言わんばかり。 ヤマ(管理人) これって、ある種の基本形ですよね(笑)。僕には、とんと経験のない型ではありますが。 (ミノさん) 京子的女の子って一旦男を所有すると変わるタイプて言うか‥。怖いというより、痴話喧嘩みたいでおかしかったです。 ヤマ(管理人) mixi日記に「堂々たる娯楽作、と見えました。」とお書きでしたものね(笑)。なれば、そこは、恐がるのではなく、笑うとこでしょうね。 (ミノさん) 所有してるからこそ殺せたんでしょうかね。 ヤマ(管理人) ああ、確かに。そういう観方もありますね。僕が拙日誌に「自身を投影できる坂口像をピュアに保持するがため」と書いてあることも、ある種、同義なのかもしれません。 -------長谷川弁護士の存在が示していたもの------- ヤマ(管理人) さきほど、イノセントさんとTAOさんの談義、読んできました。お二人の談義では、長谷川弁護士に先ず焦点が当たっているところがとても興味深かったです。 イノセントさんのおっしゃってる正義感にしても、TAOさんのおっしゃる「恋というには淡すぎる感情」としての 「“常識”を越えた人物に無意識に惹かれる部分」にしても、なるほどなーと思いながら、僕は、もう少し意識的な好意を感じていました。TAOさんが「長谷川は京子にプレゼントをもらって嬉しそうだったでしょう?」とミノさんとこに書いておいでたように、恋までには及ばずとも、彼の中にある「“常識”を越えた人物に無意識に惹かれる部分」が作動して、京子への好意を自覚するには至っていたと御覧になっていたのでしょうが、僕は、それよりも更に強い好意を受け止めていたように思います。そういう意味では、むしろミノさんが書いておいでた「京子は潜在的に惹かれていて(この人なら自分を受け入れてくれる、自分を愛してくれるんではないかという感覚)」というものを彼女が嗅ぎ取るに足るだけの“好意の放射”をしていたように思います。階段での場面では、かなり直接的に表現もしていましたし、それが彼女を“危ういのめり込み”から引き戻し守るための職業的“正義感”や“常識”から出たものと受け止めるよりは、素直に“強い好意”を感じていました。 彼は、弁護士ですから、さまざまな局面で一般人以上に、人が己が利得や保身に汲々とする姿ばかりを目にしてきていたでしょうから、そういう意味での“常識を超えた京子”に対して、思い込みの強さと危うさを感じながらも、それ以上に、無私とか献身、一途さのようなものに打たれ、惹かれるところが強かったのではないかという気がします。もちろんミノさんの目が釘付けになっていたとの“でっかい胸”もあってのことのようにも思いますが(笑)。 ですから「彼こそがいちばん非人間的」との映り方には、かなり驚きました。それはともかく、僕が感じたような意味での“打たれ”からであれ、イノセントさんとの談義のなかで出ていた“焦り”からであれ、長谷川弁護士が京子と出会ったことで「今までの自分ではいられなくなった」動揺を来たしていたと観るのは、僕も同感のところで、そういう点では、本当は“強い好意”以上に、TAOさんがイノセントさんと得心するに至っておいでたように「恋に落ちていた」のかもしれませんね。 で、例の接吻については、 >最後の「接吻」は、常識人の弁護士に「これでも私が救えるの?」という威嚇と、 >「助けて!」の両方が入っていたんじゃないかなって。 >「あなたがほしいものは上げない」と拒絶してる風でもあるんですが、 >でも悲鳴を感じるので、完全な拒絶ではないなと思いました。 とお書きのような受け止めは、僕の及ばないところで、非常に鮮烈でした。とはいえ、“拒絶のキス”に感じられる弄び感には、僕の観た“いいようにする行為”に通じるところも感じて、とても興味深かったです。 (TAOさん) ええ、通じてますね。 私は逆に、ヤマさんやミノさんには、「こんな私をなんとかして!!」の要素がまるでないことが新鮮でしたよ。 ヤマ(管理人) TAOさんが最初に「ニュアンスはぜんぜん違うんですけど」とことわりながら、「ミノさんの感想と似てますね!」とお書きになったのは、まさしくこの部分だったわけですよね(笑)。 (TAOさん) そうですそうです(笑)。 ヤマ(管理人) やっぱりな〜(笑)。 イノセントさんとの談義にあった「最後のあの表情には京子への感謝と赦しが現れていたような気がします。」は、同感ですし、京子には長谷川に対する“甘え”があったとの観方も同感なのですが、その長谷川へのバキュームキスが、それもあっての「こんな私をなんとかして!!というような」「弁護士への引導」との受け止めは、やはり僕の及ばないところのように感じます。でもそれゆえに、とても興味深い解釈でした。 「過剰な防衛本能をどんどん捨てていくこと」が“解脱”とか、「殺人犯の兄は、理想の「悪人」(=罪を自覚する善人)かも」とかは、とても面白く読みました。共感するところ大です。 また、お二人の談義のなかでイノセントさんから出てきた「親切は自分が気持ちいいからという自覚、それが既にエゴであるという自覚。」これには、ドキリとさせられました。実はこれ、僕が十代の時分に、エリザベス・サンダースホームの澤田美喜さんに関して亡父と談義しているときに、僕が持ち出した視点と重なっているんです。もっとも僕はその時、エゴであるから偽善だとの立場ではなく、ただ献身なり自己犠牲を以って賞賛することへの疑問を提起し、むしろ応分に得るものがある形で成立してるほうがずっと美しいとの観点から、そういう形でエゴが満たされる“美しいエゴの在り様”をこそ賞賛すべきで、そこのところを見誤ると安っぽい“持ち上げ賞賛”になって、きちんとした“認め賞賛”にならなくなると主張した覚えがあります。 (TAOさん) ヤマさんは10代の頃からヤマさんだったんですねー(感心)。 ヤマ(管理人) そうですかね?(苦笑) もっとも亡父もタダじゃ引き下がらず、「そういう高みから見下ろすような視線は感心しない」という返しを打ってき、「ここは素直に感嘆し、賞賛するところだろうが」などとちょっと僕を凹ますようなことを忘れなかったんですけどね(苦笑)。それはともかく、ですから、TAOさんの「利他性はなにより自分がやすらかに生きていくため」との言には強い共感を覚えました。 (TAOさん) ヤマさん、長々とした書き込みを読んでいただいたうえに、丁寧な感想を述べていただき恐縮です。 ヤマ(管理人) とんでもありません。こちらこそ、とても刺激的で興味深い談義をご紹介いただき、ありがとうございました。 (TAOさん) そういえば、利他性に関して、私は子どもの頃にイジメの洗礼を受けているので、ひとりだけいい思いをするとろくなことがない、自分がやすらかに生きるためには周囲がしあわせであることが必須であると幼心に身をもって学んでいるのです。ずいぶん次元の低い悟りですが(笑)。 ヤマ(管理人) とんでもありません。身をもって学んでいることのほうが頭でっかちの理屈捏ねよりも遥かに値打ちがあるし、身についてますもの。身をもって学ぶ機会を得なければ知らずして放置していいというようなことでもないので、已む無く下手な考えを巡らせるわけで、上にも書いたような小言を食らわされたりするわけです(苦笑)。 (TAOさん) 長谷川弁護士の”好意の放射”とは、言い得て妙ですね。 ヤマ(管理人) 恐れ入ります。 (TAOさん) あのわかりやすい好意に気づかぬ女はいないでしょう。 ヤマ(管理人) ですよね(笑)。甘えたくもなるでしょうね。 (TAOさん) 私はあの素直さが不思議だったのです。弁護士を長年続けている人が、依頼人の関係者に、あんなに無防備に感情を表すものかと。とすれば、彼は自分の気持ちに気づいていない、もしくはそのような気持ちになったことがないので、隠す術を知らないのではと考えられます。 ヤマ(管理人) 僕は「あんなに無防備に感情を表すものか」について、それだけ彼の“常識”を越えた強烈なインパクトの人物だったとの受け止めで了解したのですが、そう運ばなければ、TAOさんがお感じになったように“気づいていない”のでは? となるのも分かるような気がします。 (TAOさん) また、京子に対してだけでなく、長谷川に対してもまるでなりたての弁護士のようなウブな建前論で臨んでいますよね。ふつうの弁護士であればとっくに身につけていそうな手練手管をもっていない。しかも本気で腰の入った人道派とも思えず、実在の人物としてのリアリティを感じない。それで彼を非人間的だと感じたのです。 ヤマ(管理人) 僕は、京子に対する長谷川の気持ちの向き方には、ある意味、自然な人間的なものを感じていましたが、長谷川の坂口への向かい方については、TAOさんがおっしゃるような“非人間的”に通じる感じも抱いていました。ですが、僕においては、それは“非人間的”ではなく、“職業的誠実”としてむしろ好意的に映っていました。 (TAOさん) なるほど職業的誠実ですか。私のような坂口シンパ(笑)にとって、そのような職業的誠実はもっとも心に響かない、どうでもいいものなんですよねえ。 ヤマ(管理人) ええ、坂口にとっても、それはそうでしょうし、だから、長谷川には心動かされませんよね。 (TAOさん) イノセントさんのいう「常識」を代表する人だからでしょうね。 ヤマ(管理人) あの談義を拝読すると、そんな感じでしたね。 (TAOさん) まあ、なまじの人道派はもっとわずらわしいと思いますが。 ヤマ(管理人) 長谷川がそういう弁護士だったら、京子に心動かした坂口でも、弁護士からの控訴請求の進言を最後まで断ったような気がします。坂口は、長谷川からは「いいようにされる」感じを受け取ってなかったから、翻意することができたのだろうと思いますから。 (TAOさん) つまり、常識とか良識にあたるものが、私には非人間的に見えたわけで、そこは自分でも発見でした。 ヤマ(管理人) そうですね。「常識的な人間=つまらない(非人間的とまで言わないにしても)」っていうのは、ある種の定式というか、常識的な気がして、ちょっとTAOさん的でない気がして、僕は意外な気がしたんですよ(笑)。確かに“発見”でしたでしょうね。 彼は、国選弁護士でしたから、勝訴敗訴で報酬が違ってくるわけではないでしょうし、『それでもボクはやってない』で教えられた日本の“刑事裁判の有罪率99.9%”からすれば、裁判に負けたからと言って失うものは何もなく、手練手管で策を弄してまでも、何とか勝訴に向かうとすれば、それこそ職業的倫理を越えた自己目的を感じさせるような気がするわけで、僕には、あのくらいが丁度よく、正義感にまで高揚しない程度の粛々たる“職業的倫理”として程よく映っていたのでした。 (TAOさん) ははあ。それで、気づきましたけど、その「程良さ」が京子をいらつかせるのですよ。 ヤマ(管理人) おー、これは鋭いご指摘ですね、流石TAOさんだ。僕は、むしろあれですら、大部分を彼の職業的倫理としながらも、いくぶん京子の存在を意識した“誠実な弁護士”でありたいとの思いが意識としてか無意識かはともかく、作用していた気がしているので、そういう意味でも、彼は、イノセントさんもおっしゃっていたように、とても人間的に僕の目には映っていました。それも少々揶揄したニュアンスの部分を一切除いて。 (TAOさん) 長谷川には「京子の存在を意識した“誠実な弁護士”でありたいとの思い」を私も感じました。そこは人間的なところでしたね。 でも、無防備な好意の放射にしても職業的誠実にしても、そんなので私をどうするわけ?と言いたくもなりますよ。だから「いいようにされる」んだと思うなあ。 ヤマ(管理人) 京子の目覚めは、坂口を同一視することからの触発だけでなく、長谷川の“好意の放射”や“職業的誠実”にも負うところ大だったというわけですね。なるほどなー、これは、面白い視点だなぁ。僕は“好意の放射”に対しては、“受容に対する甘え”までしか思い及んでいませんでしたが、同時に“苛立ちの触発”にも作用していたかもしれませんね、確かに。 (TAOさん) もしかしたら、女にいいようにされる男性って、特定の相手に向けての誠実ではなく、不特定多数に向けての誠実をふりかざしているのではないかな。 ヤマ(管理人) 来た〜、久々のTAOパーンチ!(笑) そういうところは、あるのかもしれません。このご指摘を伺い、拙日誌に「ある種の善良さと優しさ、おとなしさといった“人の良さ”に付け込み、都合のいいように利用することは、昔の人間関係のなかでも決して珍しくはないことだった」と綴った部分に通じてくるものがあるように感じました。京子にいらついていた同僚女性たちの心境もそれに近かったのかもしれません。 (TAOさん) ええ、そうですね。 京子自身にも一般的な女性をいらつかせるところがありました。女はみんなそうしたもの(笑)。 ヤマ(管理人) 拙日誌に「“臆病さと自信のなさ”に囚われているのが、普段の彼女の姿」と綴ったようなことを偲ばせる部分にいらつくのって、今や一般的な女性と言えるくらいに敷衍されているんですか?(コワ!) なればこそ、京子が初めてそちらの側に立ち得たことの証とも言えるかもしれませんね。 (TAOさん) そうなりますねー。京子がそちらに立ち得た大きな理由は、坂口に肉親のように甘えることができた体験だと思います。 ヤマ(管理人) なるほど。 僕は、“臆病さと自信のなさ”に身構え緊張することを要しない“心許せる安心感”と受け止めていたのですが、おそらくTAOさんがお書きの「肉親のように甘える」というのは、同じことを指しているんでしょうね。 (TAOさん) 坂口の面会時に京子が眠ってもいいですかと断って、小さな女の子のように安心した表情で眠る場面がありましたが、… ヤマ(管理人) あれは、いい場面でしたね。 (TAOさん) 女の子は、父親の愛情を確信し、父親に対して自分がもつ絶対的な権力を自覚したときに、すでに女としての媚びを獲得するわけで、京子にはその体験がなかったのでしょう。 ヤマ(管理人) このあたりは、ミノさんの感受したものとも通じていますね。相手の男が長谷川と坂口の違いがありますが。 (TAOさん) 京子の生い立ちはほとんど描かれていませんでしたが、たぶん父親がいなかったのではと思いました。 ヤマ(管理人) ん?「身寄りがないと言ってたけど、本当は岡山に」って… あ、それは昨日観た『秋深き』の一代(佐藤江梨子)だった(苦笑)。 (ケイケイさん) 私も基本的には、TAOさんと同じ意見ですけど、父親がいなかったというより、冷たい父親だったか、虐待されていたかと想像しました。だから、普通の男性ではダメだったのじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) なるほどね。 (ケイケイさん) 京子は自己愛が強いから、絶対自分の孤独を理解できる人じゃなきゃと、思っていたのでは? だから、坂口を選んだんだと感じました。 ヤマ(管理人) ケイケイさんは、映画日記に「差し入れをしても、秋生の心に入り込もうとしても、その心の中心は、いつも“自分”ではなかったでしょうか?」とお書きでしたものね。そこのところに京子の自己愛の強さをお感じになっていたんでしょうね。 (TAOさん) それにしても、坂口や京子に比べて、長谷川の造形は依然として私には謎ですよ。 ヤマ(管理人) そうなんですか(笑)。 (ケイケイさん) 私も「そうなんですか〜。」(笑)魅力的なのは坂口や京子ですが、私が一番好みなのは、長谷川だわ。個人的に魅力の薄い人のほうが好みなんで(笑)。 ヤマ(管理人) 捨てる神ではなく拾う神なんですね、ケイケイさんは(笑)。 (TAOさん) 長谷川は、つまらないというのではなく、つかみどころがないというか、この人の鈍感さはいったいなんだろうと思ってしまいます。 ヤマ(管理人) まぁねー。 長谷川には『レボリューショナリー・ロード』のフランクに通じるところがありますからねー(苦笑)。実は、次回更新日にアップする『レボリューショナリー・ロード』の拙日誌の書き出しは、「先ごろ『接吻』を観たばかりだからか、坂口と出会って“人生を意味あるものにすること”への思いに目覚めた京子が、あのあと落ち着いて、もし仮に長谷川弁護士と結婚してしまうことになると、ちょうどフランク(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)のウィーラー夫妻のようになるのではないかと思った。」なんですよね(あは)。 (TAOさん) 坂口や京子の過敏すぎる自意識と対極をなすものとしての鈍感さなんですかねえ。 ヤマ(管理人) 長谷川は、でも、フランクと比べれば、まだしもじゃありません? ダメ?(笑) (TAOさん) ヤマさんの長谷川=フランク説は酷薄さでは納得ですが、フランクには職業的誠意などないのでは?(笑) ヤマ(管理人) この場合の職業的誠意の職業って、エイプリルとの関係についてですから、夫としてのジョブを指してるわけですよね。僕は、その意味では、フランクはまさしく長谷川的に、よき夫を務めようとしてたと思うんですよ。器量不足でしょっちゅうブレますし、鈍感で有効な対処ができず、実に無力だったから、顛末があのとおりになってしまうわけですが、そこんとこも含めて、長谷川と京子が一緒になったら、ウィーラー夫妻の轍を踏む気がしたのです。 次回更新で『レボリューショナリー・ロード』の拙日誌をアップした際には、またその辺のところについて、御意見くださいね〜。 (TAOさん) いえいえ、私が職業的誠意といったのは文字通り仕事に対してです。 ヤマ(管理人) あらま、そうでしたか。 (TAOさん) 長谷川はフランクのように俺サマがなぜこんな退屈な仕事を? というタイプではないし、仕事に対してもおそろしくニュートラルで、フランクとは正反対でしょう? ヤマ(管理人) そうですね。文字通りの職業って意味からなら、長谷川は、自身の資格に基づく自営業(事務所勤めの雇われだったにしても)的な職で、フランクは、正真正銘、会社の歯車たるサラリーマンでしたから、前提自体が違っていますものね〜。 もっとも僕は、フランクにさほどの俺サマぶりは感じてませんでした、職場では。夫としては、拙日誌にも「'50年代半ばの男性ジェンダーに強く囚われている」と綴ったのですが(笑)。 (TAOさん) なるほど。夫としての誠意という点ではたしかに似ていそうですね。 ヤマ(管理人) ですよね。ご賛同ありがとうございます。 (TAOさん) 過敏すぎる自意識と対極をなすものとしての鈍感さということでの“つかみどころのなさ”ではないのであれば、作り手が、人を利用する側でも利用される側でもない“ニュートラルな存在”として位置づけしたから、現実にはありえない人間に見えるんでしょうか。 ヤマ(管理人) 利用する側でも利用される側でもない位置づけってのは、作り手の意図としてあったように思いますね、僕も。でも、それって“ありえない人間像”なんですか? なんか世知辛くなってきてるんですねー。勝ち組か負け組みか、みたいな(笑)。どっちでもないってのは現実にはありえないんでしょうか。 (ケイケイさん) ウチの夫は長谷川タイプですよ(爆)。 ヤマ(管理人) これに勝る実在はありませんね(笑)。 (ケイケイさん) 感受性の薄そうなところなんか、良く似てます(わはははは)。 ヤマ(管理人) あらあら(笑) (ケイケイさん) でも、この鈍感さって、善意に繋がりませんか? 職務に忠実であれというのは誠実さに繋がるし、京子に秘かに心惹かれるのも、危ない橋を渡ろうとしている女性を守りたいという、父性愛的なものに感じました。ありえないかなぁ? ヤマ(管理人) ケイケイさんの旦那さんは、善良で誠実で父性愛に富んでそうですね(笑)。 (ケイケイさん) 私は、長谷川を一般的な人だと感じました。私は父親とは良い関係じゃなかったので、TAOさんのご指摘のように、若い頃は男性に甘えるのは得意じゃ無かったです。落ち着かないし、なんか気を使ってしまうんですよ。 ヤマ(管理人) なるほどね。そういうパターンは、大いにありそうですね。 (ケイケイさん) 坂口は、甘えるのには不向きな人に思えました。抱えているものが大き過ぎるし。最初の二人の立場が、段々逆転していったため、あの結末だったのかなぁと、皆さんのレスを拝読して、今思っています。これが相手が長谷川なら、逆転していく方向でも、上手くいったと思います。 ヤマ(管理人) それがまさしく現在のケイケイさん御夫妻なんですね〜。 (TAOさん) 私の言う「父親がいなかった」も、象徴的な意味です。京子には潔癖性的なところや逆に自傷的淫蕩さもないので、虐待はおそらくないと思うのですが、父親は存在していたとしても父性を得られなかったのだと思います。 ところで、鈍感と善意はつながりますか? 私には坂口兄こそが善意の人に見えるのですよ。自分を客観視し、悪の自覚を持った善意の人という。 ヤマ(管理人) これは、僕もそう思ってます。ケイケイさんも映画日記に「温厚で誠実そうな篠田三郎が演じる事で、的確にこのキャラが浮かび上がった気がします」とお書きですから、同感でしょうね、きっと。 (TAOさん) 長谷川はむしろ他人に関心がなく酷薄な気がします。 ヤマ(管理人) 違いは、ここんとこになりますね。ミノさんも“受容”を観ていたようですし、今回珍しいですねー、いつもは僕と御三方という構図で、受け止めの違いが生じるところでの談義が盛り上がるのに(笑)。 -------観る側の常識と非常識への自省を促す『接吻』------- (イノセントさん) 遅くなりました。ヤマさんの日誌「接吻」拝見しました。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (イノセントさん) ヤマさんが日記に綴られたことは、僕もほぼ同感です。一番うなづいたのは、「その二人の接吻にすると、それまでの出色とも言える緊張感の持続に対して、余りにも凡庸な成就を意味するようになり、作品が台無しになってしまうと考えた作り手が、意表を突いて長谷川弁護士(仲村トオル)に振り替えたのではないかと思ったりしないでもないくらいに奇抜だった」ってところです。 ヤマ(管理人) 素直に、そう思いました。で、そこから僕なりの反芻が始まったわけです(笑)。そういう意味では、実に効いてましたね。 (イノセントさん) それぐらい京子の「接吻」の心理は僕の理解を超えたものでした。 ヤマ(管理人) はい。同感です。 (イノセントさん) TAOさんとの談義で一応理屈的には納得できたつもりなんですけどね。体感的にどうも・・・ ヤマ(管理人) 僕は、反芻の結果、自分なりに納得点に到達していましたが、体感的にってことを考えると、ちょっと自信ないです(あは)。 (イノセントさん) 「いいようにする」という感情が芽生える以前、ようやく自分の居場所を見出した時の京子の幸福感が、僕にはもう少し大きな比重で印象に残っています。何せ殺人者に共感を見出すわけですからね。 ヤマ(管理人) そして、“人生を意味あるものにすること”への思いに目覚めるんですもんね。 (イノセントさん) でも、映画を観終えた時点では、この映画の感動をうまく言葉に言いあらわせなかったのですが、TAOさんとのミクシーでの談義で、TAOさんに導かれる形で、いろんなものが見えてきたわけです。 ヤマ(管理人) 談義の醍醐味ですよねー、これ。ネット以前では、なかなかそこまでの同好の士に恵まれる機会が得られませんでしたが、今や隔世の感があります。僕も、この「間借り人の部屋」でお二人を含め、たくさんのそういう方々と出会うことができましたもの(礼)。 (イノセントさん) 遅ればせながら、ご訪問ありがとうございました。 ヤマ(管理人) こちらこそ、とても刺激的で興味深い談義に感謝です。 (イノセントさん) ところで、TAOさんとの談義のなかで、僕が気づかされたのは、世間一般が何となく抱いている「常識」と「非常識」について。 ヤマ(管理人) お二人の談義のメインテーマになってましたよね。 (イノセントさん) 監督の視線は、非常識の側から常識の世界を静観しているのではないかということ。 ヤマ(管理人) なるほど。それは、ありますね。 (イノセントさん) そして、「常識」という言葉に守られた「無神経」さは、坂口の惨殺に匹敵するほど残酷なものではないかということ。 ヤマ(管理人) ほほぅ。 でも、TAOさん説によれば、それも目覚めへの触媒として作用したようですから、必ずしも残酷とばかりは言えない気もしませんか? (イノセントさん) これって、どういう内容でしたっけ? 対談が長くなって探しあてられないんです(汗)。 ヤマ(管理人) TAOさんは、イノセントさんがご指摘の長谷川の“「常識」という言葉に守られた「無神経」さ”が、京子の“いらつき”を誘ったと観ておいでますよね。それを受けて僕は、いらつきというアグレッシヴなエネルギーを触発されたことが、目覚めの推進力にも作用していると受け止めたので、残酷とばかりは言えないのでは?、と記したのですが、彼女の目覚めに不幸なり墜落なりのイメージを持てば、不幸や墜落に追いやったのだから「残酷」ということになるかもしれません。でも、イノセントさんは、彼女の目覚めを不幸や墜落のイメージで御覧になってはいないように感じたので、さすれば、残酷とばかりは言えない気もしませんか?との問いかけになったのでした。 (イノセントさん) だからこそ、坂口に共感を抱く京子に、人は嫌悪感とは違うものを感じるのではないでしょうか。 ヤマ(管理人) 哀れと恐さは感じましたが、嫌悪感は湧きませんでしたね、確かに。 (イノセントさん) もっとも僕自身は、もっと積極的に彼女に共感したのですが・・・ ヤマ(管理人) TAOさんの一番の共感は、坂口だったようですが、僕は三人ともが少し遠いなかにあって、一番は坂口の兄かなぁ。 (イノセントさん) 後半、京子が掴んだ幸福が永遠ではないと思い知らされた絶望感。幸せを見出す以前の諦観と、自身の存在感を実感したあとの絶望感。幸と不幸の両極を体感した京子は、突然膨れ上がった感情を自覚することすらできず、当然コントロールすることは敵わなかった。 ヤマ(管理人) そうでしたね。 (イノセントさん) 彼女の傲慢というよりは、自身を見失ってしまった悲劇という印象が残りました。 ヤマ(管理人) 同感です。だから僕も“痛ましい”と感じたのだと思います。 -------目覚めの映画としての『接吻』------- (ミノさん) う〜む 長〜い談義ですね!素晴らしい。 ヤマ(管理人) うん。とても嬉しいです。久しぶりに談義がにぎわって。 (ミノさん) 映画が再形成されていきます。今思えば、京子という女、覚醒の映画に思えたりして(笑) ヤマ(管理人) 今思わなくても、ミノさんもmixi日記にちゃんと“目覚め”と書いておい出たじゃない、「女として目覚めた」「エロスの化身」って(笑)。 (ミノさん) 長谷川の愚直さは、やば京子には必要ですよ。殺人犯でも決して見捨てない愚直さ。 ヤマ(管理人) ミノさん説では、坂口によって目覚めた京子が辿り着くのは、坂口ではなく、むしろ長谷川なんですものね。坂口は、長谷川を必要とし辿り着くための回遊地点とまでお書きでしたものねー。 (ミノさん) 坂口は、一緒に転げ落ちていくけど、実は京子はそこまで破滅型の人間ではないような感じを受けたんですよね〜‥。あくまでグルーピイ止まりといいますか(笑)。 ヤマ(管理人) ほほぅ。 (ミノさん) お勤めを終えて、年をとり、長谷川のこども産んだりして(爆)。 ヤマ(管理人) これ、僕の妄想では、『レボリューショナリー・ロード』なんですよね(笑)。 (ミノさん) 男と違うのは女はどんなハチャメチャな生き方しても子供を産み育てるという技で社会と繋がれる可能性があるという点なんですよね。 ヤマ(管理人) エイプリルは、そうはなりませんでしたが(笑)。 (ミノさん) それだけでも京子と坂口はだいぶ違うと思うんですが‥。 ヤマ(管理人) しょせん女と男ですし。いくら同一視しても、ズレは避けがたいことでしょうな(笑)。 -------対照的な存在だった四人の人物------- (イノセントさん) 映画の細かいニュアンスが想い出せなくて、皆さんの談義に直接絡むことが出来なくて申し訳ないのですが… ヤマ(管理人) 十分絡んでくださってるように思いますよ。 (イノセントさん) 映画を観ている時の僕は、京子と坂口の心情の変化を追うことに終始していたのですが、TAOさんと話して改めて気づいたことがもう一つ。長谷川と坂口兄の存在がとても大きいということでした。 ヤマ(管理人) これは、本当にそう思いますね。僕なぞ、この作品で最も重要な台詞が何だったかと問われれば、迷うことなく、「自分と違って弟には冷酷さがなかった」という坂口の兄の台詞を挙げます。 (イノセントさん) そして、この四人は、皆対照的な生き方だったな〜と、今思い起こしているところです。「常識」と「非常識」、「善人」と「悪人」、4人には、こんな言葉が当て嵌まるのではないかと。 ・長谷川は「常識」の世界に住む「善人」 ・京子は「非常識」の世界に住む「善人」 ・坂口は「非常識」の世界に住む「悪人」 ・坂口兄は「常識」の世界に住む「悪人」 字義どうりに見ると乱暴な分類のようですが、 ヤマ(管理人) 確かに(笑)。 (イノセントさん) 「善人」と「悪人」は、TAOさんが提唱した「悪人正機説」に基づいて、「常識」と「非常識」は、僕はむしろ「多数派」と「少数派」という視点で考えてみたいのですが、かなり意味深な人間模様が見えてくると思うのです。 ヤマ(管理人) これは、とても面白い整理ですね。概ねそんなふうな対照を、僕も含めて皆さん感じておいでたでしょうが、改めてこういうふうに並べて対照していただくと、すっきりしますね。僕なりに置き換えると、「常識」のところは「逸脱なり適合」となり、「善人・悪人」のところは、坂口の兄の台詞にあるニュアンスでの“冷酷”の視点から「切捨なり希求」となって ・長谷川:適合している希求者 ・京 子:逸脱している希求者 ・坂 口:逸脱している切捨者 ・坂口兄:適合している切捨者 となるのですが、そのうえで希求者たる京子が希求のあまり切り捨てに向かい、切捨者たる坂口が切捨からの回帰に向かう交錯の物語だった気がしています。 (イノセントさん) 誰が最も自分のことを客観視できているのか? ヤマ(管理人) イノセントさんの分類では「悪人」ですよね。 (イノセントさん) 誰が最も他人の心情を察することができるのか? ヤマ(管理人) これも「悪人」でしょう。 (イノセントさん) 他者を受け入れることによって人はどう変わるのか? ヤマ(管理人) 「希」を持つようになると描かれていたように思います。 (イノセントさん) 多数派と少数派の数が逆転したらどうなるのか? ヤマ(管理人) 全てのものではなくとも、常識が非常識になり、非常識が常識になるでしょうね。 (イノセントさん) もちろん実際はもっと複雑なんですけど・・ ヤマ(管理人) はい。 (イノセントさん) 長谷川と京子は、住む世界が違うだけで、性格的には実は非常に近いのではないかと僕は思うのです。田道で二人が自分の世界の正当性を主張し、相手の愚かさを指摘する場面など、まさにそういうことなんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) 主張し、承認を希み求めるものがある熱意というか、生のエネルギーがあるということですよね。切捨てる断念を選んではいない点で「近い」と僕も思います。 (イノセントさん) あるいは坂口と兄の、これも住む世界は違えども、自分の愚かさを自覚している二人。彼らも互いに近いのではないかと思うのです。そして彼らは、自分の世界と相手の世界の境界が見えているのではないでしょうか。 ヤマ(管理人) 僕が置き直した分類でも、長谷川と京子が「希求者」で、坂口兄弟は共に「切捨者」としているわけですが、坂口兄は、境界の淵の深さが見えていればこそ、希求者から降りたということなのでしょう。 (TAOさん) イノセントさんの4分類は、とてもよくわかります! 長谷川と京子がじつは近いというのも。 ヤマ(管理人) ええ、僕もそう思いました。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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