『男と女をめぐる断章』を読んで
文・吉行淳之介、え・米倉斉加年 著 <集英社文庫>

 あとがきによれば私の作品の中から、アフォリズム風の断片を拾い出して一冊にまとめたいと言い出した小林伸一(現・青泉社代表【'81年当時】)が、あまり乗り気ではなかった吉行の全作品を読んで一年がかりで抽出してきたもので章の分け方や断片の配置その他、すべて小林さんに委せたP189~P190)ものとのこと。第一章「恋愛と結婚をめぐって」、第二章「女というもの」、第三章「男というもの」、第四章「男と女のいる風景」、第五章「生きてゆく上で」からなる316ものアフォリズムが収められていた。

 目を惹いたものをさらに抽出すると第一章からは、No.9女性の愛というものは、相手に自分をささげることによって完成され、男性の愛は相手から奪うことによって完成される、と私はおもっている。 -ぼくふう人生ノート-、No.11恋愛というものは、対象にたいしての情熱が起らなければ、生まれることのできないものである。そういう情熱をどうしても見出し得ないという人たちが、とくに現代においては多くなっているのではないか。 -ぼくふう人生ノート-、No.22恋する男女は常にエゴイストである。恋する人間はしょっちゅう相手のことばかり考えているようで、じつは自己中心から離れられないのである。その人間の思い描く恋人の像というのは、きわめて自分勝手につくり上げたものであって、実際の相手との距離が大きい場合が多い。要するに、自分自身のつくり上げた像を、撫でたりさすったり悦に入っているわけだ。 -恋の十二ヵ月-、No.44子供の大学受験に母親が出てくる。母親が出てくることは、女の振舞いとしてあきらめても、それを拒否できない子供が沢山できてきたということは、一大事といえる。暇のできた母親が、幼稚園のころから子供をいじくりまわして、とうとう毀してしまったわけで、まったく家庭電化というのはドラキュラよりもおそろしい。 -女の歳時記-

 当代きっての人間通、とりわけ女性通として名を馳せていた覚えのある吉行なればこその企画だったのだろうが、読んでいて思わず吹き出すほどの昭和色を懐かしく楽しんだ。『ぼくふう人生ノート』は、'79年の著作だから、まだ昭和五十年代だ。半世紀も経ってはいないのだが、なにせ吉行自身が大正生まれなのだから、致し方あるまい。その彼からすると、'79年時分の若者には既にして情熱が欠けると映っているところが興味深かった。僕がまさにその時分の若者であり、年配者からそう観られることについて思い当たるところがなくもなかった覚えもある。

 第二章からは、No.56嘘をついた女の顔には、やましさは少しもない。表情で、ウソかマコトか見分けるなどは、女の嘘については不可能なことだ。なぜなら、そのときは嘘はその女性にとって、すでに嘘ではなく、動かしがたい真実になってしまっているのだから。 客観的には、嘘であることがレキゼンとしている。にもかかわらず、彼女の顔は、マコトに輝いている。 -わたくし論-、No.65男にくらべて女は日常性に密着していくことが、はるかに多いし、そこがまた女の生きてゆく上での強さ、したたかさの根本ともいえる。 -女のかたち-

 第三章からは、No.151他人のことについては一切口を出さないのは男性的と認めてよい。また、他人の振舞いの善悪についてはむしろ優柔不断であることは一見女性的のようだが、じつは男性的なことなのだ。その替り、自分自身のことについては、一切の責任をもって決断しなくてはいけない。その仕方も優柔不断ではいけない。 -ぼくふう人生ノート-

 第四章からは、No.225男というものはね、女に比べれば快感なんか少ないものですよ。仕方がないから、女性の喜ぶ有様を見て、そこから快感をぬすみ取るわけだ。だから、相手が喜べば喜ぶほど、それだけ男性の快感は大きくなってくるというものです。 -秘蔵の本-、No.231若い女性の同性愛的感情の対象、あこがれの偶像、となるものは、スポーツの選手とか抜群の秀才とかいう種類の女性が多い。そして、この種の能力は、男性の能力として考えられやすいものだ。スポーツとか学問の能力とかいうものは「男性に劣らぬ」という言葉がくっついて考えられやすい。こういう点から考えても、同性愛的感情の中には、相手を男性の代用品として考えている心持が潜んでいると見ることができそうだ。 -私の恋愛論-

 第五章からは、No.285エゴイストでない人間がいたら、お目にかかりたいね。たとえば犠牲的な行動をする人間を突き動かしているものも、結局は審美的な眼を持つと、他目にはエゴイストではないように見えてくる場合もあるが、それも結局はエゴイズムから出てきていることさ… -暗室-、No.296料理も、本格的になって芸術的といえるほどのものになると、これは男の領分といえる。感受性も感覚も、男のほうが上等である。神様がそう創っている。なぜなら、女は子供を産まなくてはならないからだ。男と同じ感受性、感覚を持っていたらそのときショックで死んでしまうかもしれない。 食べものが女の手に触れると、その瞬間にちょっと汚れる、下品になる。惣菜料理はそこのところがよい。ちょっと下品になるところで、独特の味わいが出る。 -軽薄派の発想-

 No.231やNo.296など、今どきなら炎上ネタ以外の何物でもないような気がして、大いに笑った。

by ヤマ

'24. 7. 8. 集英社文庫



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