『接吻』
監督 万田邦敏


 最後の場面での接吻は、事件を起こすまで一面識もなかった43歳の殺人犯と獄中結婚した28歳のOL遠藤京子(小池栄子)が、死刑判決の出た坂口秋生(豊川悦司)と初めて仕切りのない部屋で面会したことによって交わすものではなかった。その二人の接吻にすると、それまでの出色とも言える緊張感の持続に対して、余りにも凡庸な成就を意味するようになり、作品が台無しになってしまうと考えた作り手が、意表を突いて長谷川弁護士(仲村トオル)に振り替えたのではないかと思ったりしないでもないくらいに奇抜だったが、僕にとっては、そうなっていたことで「私たちは、いつだって周りからいいようにされてきた」と語っていた京子の台詞が抜群に利いてくる作品になったように思う。

 「一人くらい殺したって死刑にはならないんでしょ」と長谷川をも刺そうとした京子は、長谷川を刺殺できていれば、接吻はしなかったろうし、そもそも刺そうとした時点では彼への接吻を思ったりもしていなかった気がする。長谷川を刺そうとして失敗した彼女が、重なり合って倒れた態勢で腕を押さえられたまま、あの強引な濃厚キスをしたのは、彼女の側から彼を“いいようにする”行為として咄嗟に果たせるものが、その時それ以外には何もなかったからだろうと僕は受け止めている。そうしてまでも“いいようにする”行為を果たさずには置かないだけの熱情に彼女が囚われていたことを示していたような気がする。

 自分以外の総てに対して全て心を閉ざし、徹底した黙秘を続けるなかで、自らの死刑を望み、望みどおり死刑判決を受けるに至るまでは、そのしでかした無残極まりない一家惨殺をも含めて、京子が自身を投影し思い込んだとおりの男だったはずの坂口が、本来ならするわけもなかったであろう控訴を拒まなかったことに対し、彼女にとって完璧に自分を投影することのできる“ピュア”な坂口というものを彼に全うさせるためには、控訴審の場に彼を登場させる“不純”は許すわけにはいかないから、京子は坂口を刺殺したのだろう。それは、彼のピュアを守るための彼への愛などというものではなく、自身を投影できる坂口像をピュアに保持するがために坂口を“いいようにする”行為に他ならないわけだが、そこにはまだしも、彼への想い自体が皆無とは言えない。だが、長谷川の刺殺は、より純粋に自分の都合のために彼を“いいようにする”行為に他ならない。もっとも、それでもまだ、坂口と同じく自分も死刑判決を受けるためにという理があるのだが、接吻については、そのような理すら存しない純粋形の<自分の側から相手を“いいようにする”行為>だという気がする。そこのところが鮮やかに浮かび上がってきたように思うわけだ。

 殺人犯の坂口が逮捕時に浮かべた笑みに惹かれて接近し、彼との共同作業を自分のなかに思い込み遂行していく過程で、事件やメディア・弁護士を通じて世間や周りに対して、初めて自分が“いいようにする”充実感と喜びを昂揚とともに得ていたであろう京子が、如何にそのことに囚われるに至っていたかを示すうえで、彼女の長谷川への接吻は、この上なく強烈な場面になっていたように思う。だからこそ、作品タイトルが『接吻』になっているのだろう。

 しかし、この黒い充実感と喜びを以って、単純に彼女を非難し責める気持ちが起きないのは、そこに容疑者Xへの献身で、石神が雪山の頂上において「今ほど充実感を持って生きていることはなかった」と湯川に聞かせていた心の叫びに通じるものが宿っていたからだろう。人がその存在を認められず、ないがしろにされていると感じる状況ほどに自尊心が傷つけられることはなく、臨床心理の現場でも、虐待よりも深い傷を残すのはネグレクトであるとの研究結果が出ていると仄聞したことがある。その問題が厄介なのは、主観が全てと言えるほどに重きを持つ心の領域のことだからで、当人がネグレクトされていると感じてしまえば、事実の如何によらず当人の主観における真実となってしまうことにあるような気がする。

 坂口に自分の存在を伝える際にも自身についての説明は一切せず、長谷川弁護士の眼に映ったままを告げるよう依頼していた京子が、その後に長谷川から誘われて坂口の兄(篠田三郎)との面談に同伴した後の長谷川との対話のなかで、自分自身による自己像を語らずに、自分が人からどう見られているかの自己像を、相手に対して構えた堅固な殻を剥き出しにして語っていたとき、長谷川は「僕にはそうは見えないのに、どうして京子さんはそんなふうに思うのか」と話しながら、次第に自分に対して挑発的な言葉を繰り出し始める京子のなかに攻撃性を感じ取って痛ましさを受け止めつつ、その攻撃性について指摘する場面があったが、京子自身がそう思い込んでその殻に閉じこもっている以上、彼女にとってそれは変わることのない真実に他ならないわけだ。心の中の真実というものが更に厄介なのは、それが事実の如何によらないながらも、全く事実と無関係に思い込まれるものではなく、故なしとは言えないような事実が必ず存在し、そのことを当人がどう捉えるかといった<思いの“込み方”>によって決まってくるようなところがあるからだろう。事実、京子は職場にて、本来同僚が始末すべき残業を中途で押し付けられ、その出来栄えに対する評価は同僚によって奪われたうえに、終電に間に合わなくなることで発生するタクシー代の清算が同僚のほうから提示された条件であったにもかかわらず、1万円を超える金額の領収証を見せるとあっさり反故にされたりしているわけで、しかもそういった扱われ方が習い性になっていることが他の同僚同士の会話のなかでも窺えるのだから、『容疑者Xへの献身』で自殺を試みていた石神以上に、ネグレクトによる孤独の痛みが彼女の心を蝕んでいたような気がする。

 ある種の善良さと優しさ、おとなしさといった“人の良さ”に付け込み、都合のいいように利用することは、昔の人間関係のなかでも決して珍しくはないことだったとは思うが、嘗てならそれは、狡猾さや下品さといった侮蔑的なニュアンスを込めた「利口」であったり「要領のよさ」といった言葉で評されていたような気がする。率直に狡猾だとか下品だとかいった言辞を冠しないのは、そういう負の意味を有する言葉自体を口にする忌まわしさが忌み語としてのタブーに抵触して口にしにくいから、婉曲表現を取っていたに過ぎないように思う。だが、日本語から言霊思想が失われ、忌み語の感覚が失われるなかで、過度に建前を貶め本音を礼賛する風潮とも相まって“口にはできない言葉”が激減してくるとともに、流通する言語として使われていた「利口」や「要領のよさ」に対して単純に字義通りの意味しか受け取れない世代を生み出してきたことによって、実際にそういった行為をすることへの禁止令も驚くほどに緩やかになってきているような気がしている。ゼブラーマン』の映画日誌こまつ座『円生と志ん生』のライブ備忘録にも綴った「騙すよりも騙されるほうが悪い」という言葉が、僕のなかでは一つの典型として強く印象づけられているのだが、もちろん事はそれだけには留まっていないように感じている。

 呆れるほどに悪びれもせず些かの疚しさも窺わせないどころか、むしろ京子の在り様のほうを見下しているような同僚女性からのそんな仕打ちにも異議申し立てのできない彼女が、長谷川弁護士には挑発的に立ち向かうことができたのは、おそらく彼が京子の日常世界の側にはいない人物だったからだ。加えて、彼女が坂口という“自身を投影できる人物像”を得て、彼との共同作業として初めて自分の側が“いいようにする”充実感と喜びを、昂揚とともに得ている興奮のなかにあったからなのだろう。日常世界に対しては、ある種の善良さと優しさ、おとなしさといった“人の良さ”に留まらない“臆病さと自信のなさ”に囚われているのが、普段の彼女の姿だったのではないかという気がする。

 京子に対して秋生に似ている感じを受けると話していた坂口の兄が語っていた「自分と違って弟には冷酷さがなかった」という言葉は、そういうことを示していたように感じる。思えば、坂口が惨殺した一家は、彼とは全く縁もゆかりもない家族だった。諸外国に比べて、日本の殺人事件は、家族や親戚といった近親者に向けられたものが異様な割合で高いという報道を新聞かなんかで読んだ覚えがあるのだが、坂口や京子の攻撃性は、そういったところには向けることができないもののような気がする。

 そのように考えると、作り手は、坂口や坂口のような事件を起こす人々の心の背後にあるのは、京子のような囚われと強い思い込みだと意識しているのではないかという気がしてきた。彼女に鮮明に見えていたのは、外界にある事実ではなく、常に自身の思い込みのなかにある真実だったのだろう。外界に向けては、焦点の定まっていない遠くを見るような視線のまま、大きな瞳で目を見開いていた小池栄子の表情が非常に印象深い京子だった。

 そのことからすると、一般に坂口の犯したような殺人事件に関して、第三者的には、自分たちをネグレクトしてきた“社会への仕返しや腹いせ行為”のように受け取られがちな「動機」において、京子の意識がそうであったように、社会に対する意識はきわめて薄いと作り手は考えているようだ。確かに京子(≒坂口)は、社会からないがしろにされてきたことへの怒りと恨みは強いものの、さればこそ、社会や周囲のせいにはせずに、自分たちの“運の悪さ”という表現をしていた。社会に対する仕返しや腹いせとして殺人犯罪に駆り立てられたのだとすると、重ねて社会からそうするように仕向けられたことになってしまって、彼らの傷つけられた自尊心がますます痛めつけられることになるわけだから、いかに第三者的にはそのように映ろうとも、彼らにおける真実としては、断じて“社会への仕返しや腹いせ行為”ではないとの思いが強かろうという気は確かにする。社会に対する怒りや恨みが動機ならば、むしろ事件を契機に、取調べに際して声高に主張してもよさそうなのに、坂口が完全黙秘を通して一切語ろうとしないのも、そういうことだからなのであろう。

 だが、仮にそうだったにしても、自分たちがネグレクトされたことを京子が“運の悪さ”と評していたことを思うにつけ、それこそ坂口の犯行の犠牲者となった井上一家の親子三人を“運の悪さ”で片付けるわけにはいかないように、それは“運の悪さ”で済ませてはならないことだと思った。そして、井上一家が施錠していなかったことを以って咎められる筋合いではないように、京子たちのパーソナリティにおける幾許かの特徴で以って、その“運の悪さ”をやむなしとするようなことがあってはならないと思う。そのためには、今の世の中が、坂口の兄の語ったような意味での“冷酷さ”を皆人がより強固に身につける方向に進むのではなく、過度に建前を貶め本音を礼賛する風潮を改め、リアリストに居直ることは決して美しくないという美意識を共有する風潮を生み出す必要があると僕は感じている。そして、“夢”などというパーソナルな色合いの濃い物語ばかりを追うことの奨励をやめ、“理想”について語り合う気風を蘇らせることができれば、少しは世の中がましになっていくのではないかという気がした。

 映画を観た後、そんなことにまで思いを巡らせさせるだけの触発力を備えた“接吻”だったことに恐れ入るとともに、楽曲イメージと歌唱の不釣合いぶりが強く印象づけられているマリリン・モンローの「♪ハッピーバースデー」ばりに、楽曲に似合わないことこの上ない不気味なニュアンスを湛えた小池栄子の「♪ハッピーバースデー」の歌声が忘れられないでいる。遠藤京子の京子は、きっと強固からきているのだろう。坂口にだけ凶器を見せて無言のうちの了解を得てから、体ごとで刺していた確信力に凄みがあった。何とも恐く痛ましい女性だった。




参照テクスト:掲示板談義の編集採録


推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
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推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
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推薦テクスト:「ミノさんmixi」より
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推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0912_1.html
by ヤマ

'09. 1.17. 自由民権記念館民権ホール



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