『瞳をとじて』(Cerrar Los Ojos)
監督・脚本 ヴィクトル・エリセ

 二十二年前に失踪し今や高齢者施設暮らしになっているガルデルことフリオ・アナレス(ホセ・コロナド)が瞼を閉じて終える本作は、記憶と来し方を巡る物語だったから、あと数年で古希を迎える歳周りで、映画というものについて思うところの多い僕にはまた格別の作品だった。隣家の若者トニーからマイクと呼ばれていた映画監督ミゲル・ガライ(マイノ・ソロ)が求められてポニーをトニーに替えたりして歌っていたリオ・ブラボーからのライフルと愛馬の「マイ・ライフル、ポニー&ミー」が「カメラと映画、そして私」と聴こえてくるような映画だったような気がする。

 水兵だった時分からの親友が喪失している記憶を取り戻す契機になるかもしれないとの一縷の望みを託して、主演俳優の失踪により未完となった映画をスクリーン映写によって見せようと奮闘するミゲルに惜しみない協力をしつつもドライヤー亡き後、映画に奇跡は存在しないなどと斜に構えた言を発しながらも、ミゲルの真剣さに前言は撤回すると明言したうえで、記憶【フィルム】は重要だが、記憶以上に想いと魂の取り戻しが大切なのだと言っていたアーキビストのマックス(マリオ・パルド)の存在が効いていて、フィルム作品が姿を消しつつある現今の映画事情に対する積年の想いが託されているようにも感じられた。

 サイン入りの献本の舞い戻りだったり、幼時に別れたきりで声にしか覚えがないと言う娘のアナ(アナ・トレント)とフリオの邂逅や、フリオの住む東屋に残されていた古い写真やチェスのキングの駒といった未完映画『別れのまなざし』の館「トリステ・ル・ロイ(悲しみの王)」ゆかりの品々に混じって、何故か日本の三段峡ホテルのマッチ箱があったりする、来し方行く末を思わせる装置の数々が沁みてきた。

 フリオが記憶を喪失したのが高齢者施設の医師が診断した三年前なのか、失踪をした時点なのか、失踪後のいつかからなのか、劇中で明かされることはなかったが、それを中途半端には感じさせない作品世界の造形が見事だったように思う。

 三十九年前に観たミツバチのささやき['73]で鮮烈な印象を残していたアナ・トレントのその後の姿を観るのは『ブーリン家の姉妹』['08]以来、十六年ぶりだが、暫く映画出演がなかったのだろうか。彼女の演じるアナが劇場の椅子にフリオと並んで掛けて幻の映画を観る最後の場面に映画というものへの作り手の想いが満ちていて感慨深かった。
by ヤマ

'24. 8.28. あたご劇場



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