『乳首にピアスをした女』['83]
『濡れた週末』['79]
監督 西村昭五郎
監督 根岸吉太郎

 数多く観ているほうではないながらも贔屓のロマンポルノ女優はいるとのことで映友が挙げていた「1⃣スタイルでは片桐夕子、2️⃣ルックスでは泉じゅん、3️⃣演技では宮下順子」のうちの2️⃣と3️⃣を続けて観た。

 先に観たのは『乳首にピアスをした女』。四肢に嵌めた黒革の手足の首輪を繋いだ鎖の重い音を響かせながら這って男に擦り寄る裸女が闇に浮かぶ序章の後に赤い文字で映し出されたタイトルを観ながら、SM作品の主演を泉じゅんがやっていたとは思い掛けない気がしたら、案の定、劇中で権藤(南城竜也)がサツキ(泉じゅん)に施した、殊更に盛り立てたヘンな髪型同様に、およそ彼女に似つかわしくない作品だった。『天使のはらわた・赤い淫画』の泉じゅんを我が“女優銘撰”に挙げていたら、高校時分の映画部の部長がデビュー作の感じるんです、五年後の愛獣 襲る!に続いて託してくれたものだ。

 どこかO嬢の物語ソドムの市に材を得つつも、凡庸な想像力では取って付けたような妄想話にしかならないでいる作品だと思っていたら、エンドロールに脚本:スーザン・リーと出て来てにっかつ70周年記念応募シナリオ入選作とのことだった。ほかには脚本作もなさそうだ。SMポルノの台本としての道具立てはそれらしく、二度目に会ったときにサツキが求めていた「普通のやり方」ではない肛門性交や拘束プレイ、飲尿プレイ、薔薇の棘刺しセックスなど、いわゆるアブノーマルメニュー満載だったが、権藤にしろサツキにしろ人物造形に陰影がなく、どういう作品世界を造形しようとしているのかサッパリ不明というか、かなり御粗末だったように思う。

 タイトルは言うなれば、性の彼岸に渡った女を意味する象徴なのだろうが、その意味では、肝心の調教過程がプロセスとして描かれない羅列であったことが致命的で、引っ張った弾みで鎖が強く頬を打ったことに対して痛いのは嫌と言ったでしょと語気を強めて憤っていたサツキが、部屋いっぱいに広げた薔薇の上に寝て棘が背中に刺さるままに自慰に耽って悶えるばかりか、自ら乳首にピアスを施し、入れてください、あの人のボトルになりに来ましたと言って秘密クラブに来るようになることに、まるで納得感が持てないままだった。

 それにしても、檻に入れて重ね並べられていた秘密クラブの女体ボトルには唖然とした。もう逃げられないわねと言っていた涼子(松川ナミ)の女体ダーツの火の矢にも呆れたが、このあたりになると性的興趣とは離れた見世物でしかない気がした。こうなると、未見の小沼作品『箱の中の女』や、夢野久作に材を得た『瓶詰地獄』も観ておきたい気がしてくる。本作の女体ボトル並みに唖然とさせられるのだろうか。


 一週間後に観た『濡れた週末』は、町工場の後藤製作所に勤めて十年になるうちに社長の愛人になってしまっている、三十路を迎えた事務員の志麻子が抱えている“人生に草臥れた投げやり感”を宮下順子が演じて、確かに成程の存在感を発揮していたように思う。手当を貰ってないのだから、愛人ではなく不倫関係と言うべきかもしれない。

 十五年ほど前に読んだ十年不倫の男たち衿野未矢<新潮文庫>)に倫理観が薄く、既婚男性との恋愛に対して何のためらいも感じないタイプの女性が、目先の楽しさに心を奪われ、ずるずると不倫を続けているというケースももちろん存在するだろう。しかし、そうした女性たちの不倫は長続きしない。向上心があり、葛藤しながら溺れるからこそ、その不倫は十年以上も続くのである。…ギャンブルにはまる人は、本来、真面目で勤勉である。競馬ならば、サラブレッドの血統や騎手との相性などのデータを収集するし、パチンコにはまれば「必勝法」のたぐいの本を熟読し、朝早くから開店を待つ行列に加わるのだ。…そして…大損した人は、周囲に「もう手を引きなさい」と言われても、やめない。なぜか。もしやめたら、それまで蓄積した知識や経験、つぎこんだ時間とお金が、すべて無駄になるのである。…(十年不倫の場合)求めているリターンが、お金や将来の保障など数値化できるものであれば、傷の浅いうちに戻ってこられるだろう。しかし「向上心」や「生きがい」、「高揚感」、「相手に必要とされているという喜び」など主観的であれば、費用対効果は計算しづらい。周囲からの反対を押し切るというのが、「自分の意思で選択し、行動したという満足感」を生んでしまったりするから、なおやっかいである。P39~P41)と記されていたような類の根の“真面目さ”と“厄介さ”によって疲弊している感じを巧みに体現していたような気がする。しがない町工場勤めというよりも人生のほうに疲れている志麻子が、妙な縁で親しくなった若い倒産解雇の工員の治(安藤信康)にアレなら疲れっこないでしょと言いながら、好色な憂さ晴らしをしていた。

 自分に対しては二度も堕胎をさせながら奥さんとの浮気をしないという約束を反故にしていて、妻(中島葵)の妊娠には手放しで喜んで今度は男の子をなとど悦に入っていた社長(山下洵一郎)に対して以上に、ほとんど妻妾同居のような形で男との関係をずるずる続けてきた自分に対して情けなくなっている感じがよく表れていたような気がする。これやっといてくれと渡す紙が符牒になっていて、昼間のラブホテルで慌しく交わす気忙しさに不調を来す男に昼間は忙しなくって厭よ、今夜、帰りに寄ってちょうだいと誘っても、待ちぼうけを食わされて座椅子に凭れたまま眠り込んでいた。

 志麻子が社長の一人娘の明美に読み聞かせてやっていた『赤ずきんちゃん』やしょっちゅう口遊んでいた黒の舟唄が印象深い。別の男の元に走り、治との同棲を解消しながら舞い戻ってきている登紀子(亜湖)との奇妙な三人組の共同戦線の感じに、いかにも'70年代的な空気が漂っていたが、それには亜湖のキャラクターが大いに貢献しているような気がする。時代的には'70年代も末の作品だった。

 脚本を書いた神波史男は、小夏の映画会の今は亡き田辺浩三氏が、しばしば高知に招いていた脚本家だ。助監督に池田敏春の名がクレジットされていたことも目を惹いた。
by ヤマ

'24. 5.11. DVD観賞
'24. 5.18. DVD観賞



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