美術館特別上映会“パゾリーニ映画祭”「その詩と映像」


①『アッカトーネ』(Accattone)['61]
②『マンマ・ローマ』(Mamma Roma)['62] 未見
③『ロゴパグ』(RoGoPaG)['63] 未見
④『愛の集会』(Comizi D'Amore)['64]
⑤『奇跡の丘』(Il Vangelo Secondo Motteo)['64]
⑥『大きな鳥と小さな鳥』(Uccellaccie Uccellini)['65-66] 未見
⑦『アポロンの地獄』(Edipore)['67]
⑧『テオレマ』(Teorema)['68]
⑨『豚小屋』(Porcile)['69] 未見
⑩『王女メディア』(Medea)['70]
⑪『デカメロン』(Il Decameron)['71]
⑫『カンタベリー物語』(Iracconti Di Canterbury)['72]
⑬『アラビアンナイト』(Il Fiore Delle Mille E Una Notte)['74]
⑭『ソドムの市』(Salo,ole 120giornate di Sodoma)['75]
 全長編作品14本をニュープリントで一挙上映という壮大な企画だ。観るほうもなかなか体力と気力を要求される。スキャンダラスなイメージとともに名前だけはよく知っているが、作品はほとんど観ていなかった。スクリーンで僕が観ていた作品は、手帳の控えを紐解くと1980年に『カンタベリー物語』をビスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』との併映で、1981年に『ソドムの市』をベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』との併映で、ともに今はなき名画座で観たきりだ。もう二十年近く前になる。後は、それ以前の高校時分に『デカメロン』の予告篇を高知東宝で観た記憶とか、何年か前にETVで『奇跡の丘』を観た記憶があるくらいだ。

 今回いくつかの作品をまとめて観てみて気づいたのは、パゾリーニが欺瞞と抑圧ということに非常に敏感な人だったのだなということ。だからこそ、イエスと聖書を愛しながら反キリスト教的で教会制度を否定していたのだろうし、共産主義を信奉するからこそ反共産党的であったりしたのだろう。そういう意味では、原点とか本質に向ける眼差しというものが常にあった人なんだろうし、また、それに耐えるだけの知性を備えた人だったようだ。そういう眼で社会とか人間を見つめると、割り切れなさとか矛盾とかに満ちていて怪物と格闘しているような気になったであろうことが容易に推察され、そのことがそのまま彼の作品のイメージとなって浮かんでくる。「人間、お前はいったい何者なんだ」という叫びとして観ると、一見さまざまな振幅をみせる作品群の底流にあるものが窺えるような気がする。そういう面では、スキャンダラスというよりもむしろ真摯で率直だという印象のほうが強くなった。

 また、どの作品を観ても“砂塵”もしくは“土埃”のイメージないしは香りがするという通奏底音のようなものを感じたのも、今回まとめて作品を観たことの収穫だ。あるときはそれが、リアリズムの形をとって現れたり、ドキュメントな肌ざわりとして現れたり、あるいは原風景としてのイメージであったりする。土臭く感じても泥臭くない一番の違いは、水分である。ウエットなところがパゾリーニの映画にはどこにもない。だからこそ、少々汚くても匂ってきても耐えられるのだという気がする。



 個々の作品での発見や印象を鑑賞順に手短に記録すると、何とも救いのない閉塞感にやり切れなさが残った『アッカトーネ』のクレジットにベルトルッチの名前を見つけたのが興味を引いた。

 『奇跡の丘』では、遠藤周作の「イエスの生涯」や「私のイエス」を読んだ記憶を思い起こしつつ、リアリズムの手法でイエスの生涯を描くとまさしくこうなるのだろうと納得できるだけの説得力に満ちた作品に観入っていた。そして、イエス受難の場面で会場客席からすすり泣きを聞いたことの鮮烈さが忘れられない。

 『アポロンの地獄』では、音楽が能楽であったり、イオカステが眉を剃ったりしていて、えらく日本文化の影響が大きいのに驚いた。『王女メディア』にも三味線か琴のような音楽が鳴り響く。そして、両者ともに演劇的省略と誇張が顕著な作風だったように思う。学生時分に読んだ山室静の「ギリシャ神話」やB・エヴスリンの「ギリシア神話小事典」あるいは、十年くらい前に読んだ曽野綾子と田名部昭の共著「ギリシアの神々」などをめくってみようかと帰宅後に思ったりした。

 『テオレマ』では、ファロス崇拝が重要な意味を持った作品なので、当然と言えば当然なのだが、やたらとカメラ視線が男のズボンの股間に集中していたのが可笑しかった。類稀なファロスに貫かれることで、ある者は廃人と化し、ある者はニンフォマニアになり、男色家となる。そして、聖女と化する者もいるわけだ。恐るべしや、男根!というところかな。フランシス・ベーコンの絵が引用されてたことも眼を引いた。

 『愛の集会』では、ピエール・クロソウスキの名前に眼が留まった。また、パゾリーニには、もっとドキュメンタリー作品があってもいいと思われるのに、長編でこれ一本しかないのは何故なんだろうとか、短編作品にはあるのだろうかと思ったりした。

 『ソドムの市』は二十年近く前に観ているのだが、その記憶ではどうにも薄汚く、カラーも白黒っぽかったように思っていたのだが、今回見直してみると、かなり奇麗なカラー作品だったことに驚いた。前回観たときは、まだマルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」自体を読んでもいなかったし、正常と異常とか、変態性といったものについての知識や見聞も乏しかったが、今こうして見直してみても大した作品だとは思う。不快感や嫌悪感が薄くなったと同時に『愛の集会』に何度か字幕で登場した“自主規制”の文字にも通じる、ある種の限界を感じたりもした。もちろん当時としては、過激の極みであったのだろうが…。今や、変態性や倒錯性という点では、もっと露骨で凄まじい映像がアダルトビデオやインターネットに氾濫している。しかし、表現自体には限界や甘さを感じさせたとしても、表現者の凄みにはいささかも衰えを感じさせないところは流石だと思った。ラストの大統領、最高裁判事、司教、公爵の四人がダンスを踊っている場面が、むしろ狂気のピークと終末感を最も感じさせたところなどAVにできる芸当ではない。

 世界艶笑文学三部作の『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアン・ナイト』は、パゾリーニが欺瞞と抑圧に敏感だったからこそ、その帰結としての倒錯性や変態性に強い感心を寄せたように、逆に性への欺瞞と抑圧が少ない物語世界として彼の関心を惹いたのだと思う。ちょうどキリスト教をテーマにした際に『奇跡の丘』が占めた位置に相当するものを、性と笑いにおいて占めているのがこの三部作ではないのかという気がする。三作のなかでは、性には強い関心を寄せながら官能性にはほとんど関心を示さないパゾリーニのファロス崇拝が最も素直に表現されていて、彼自身が登場してこない『アラビアン・ナイト』が、構成にしてもエピソードにしても、最も出来がよかったように思う。




参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」
https://moak.jp/event/performing_arts/post_207.html
by ヤマ

'99. 4.30.~ 5. 5. 県立美術館ホール



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