『O嬢の物語』(Histoire d'O)['75]
監督 ジュスト・ジャカン

 原作小説は、高校時分に文芸部の同窓生から文庫本で勧められ、授業中も密やかに読み耽っていたら、隣席の女子生徒から「何を熱心に読んでいるの?」と問われ、題を教えると知らないと言われ、若く美しい女性がロワッシーの館に向かう車のなかで恋人から下着を脱ぐよう求められた最初の場面から、一度も穿かないまま、作品全体の半分以上が来ている女性作家による小説だと答えて、てっきり顰蹙を買うかと思ったら、そんな小説があるの?と真顔で問い返された覚えのあるものだ。

 映画化作品は四十年近く前に第二章をあたご劇場で観ただけだったのだが、一世を風靡したエマニエル夫人['74]を今頃になってようやく観たこの機会に、同じジュスト・ジャカン監督による第一作を観てみた。O嬢を演じたコリンヌ・クレリーの名に覚えはあったが、恋人ルネを演じていたのが、『悪魔のいけにえ』['73]や処女の生血['74]のウド・キアとは知らず、驚いた。

 三十七年前に観たナイン・ハーフ』['86]の拙日誌にも綴っているように哲学的主題も孕んでいた観念性の高い原作小説のテイストからすると、えらく通俗的でファッショナブルなだけの映画になっているのは、『エマニエル夫人』からしても、察しの付くところだったが、唇に紅を点すように乳首に化粧を施す場面に小説でも読んだ覚えが甦ってきたし、画面の綺麗さには感心もした。と同時に、痛みに発する叫びも官能の喘ぎも音声を極端に絞り、ただただソフトにしてのんべんだらりと展開する運びに倦んできたりもした。

 劇中に、不思議の国のアリスを想起させる台詞があったが、原作小説に覚えがなく、確かめてみたい気がした。また、最後にO嬢が梟の仮面を被って夜会に向かう場面での、梟ではなく、鷹の気高さに言及する台詞についても同様に確認してみたい気がする。被った仮面のほかは全裸のO嬢が無毛の股間のラビアピアスにリングとチェーンを施していた夜会での姿というのは、原作小説でも圧倒的なイメージだった覚えがある。WOWOWプラス録画では暈しですっかり覆われていた部分は、どうなっていたのだろう。腰に施されたステファン卿(アンソニー・スティール)のイニシャルの焼印は、思いのほか生々しい刻印だったことからすれば、それなりの意匠が凝らされていたのだろうという気がする。

 公開時に観たという映画部同窓の映友からスクリーンで見て、なんや大人の性愛って深いもんやなぁと驚いた覚えがあるとの声を寄せてもらったが、確かに高校時分に観たらそうなのかもしれないと思いつつ、原作小説を読了済みでも深みを感じることのできた作品だったようには思えない気もする。もっとも、この歳になっての初見なので、高校時分の心境は測り難く、何とも言ないところではある。ただ、原作小説を読んだ当時は、ラビアピアスが実在するとは知らず、メタファーとして捉えていた気がする。後年、実際に施術して身体装飾している画像を観たときに、『O嬢の物語』のあれは比喩イメージではなかったんだと驚愕した記憶がある。

 気になった「不思議の国のアリス」と「鷹の気高さ」については、書棚にある金子国義の挿画のある澁澤龍彦の訳本【河出書房新社】をざっと眺め渡したところ、見当たらなかった。早々に読んだ覚えの甦った化粧の場面のほうは、眼瞼にはほんのりアイ・シャドウをつけ、唇には濃く紅をさし、乳首と乳暈には薔薇色をはき、下の唇の縁には紅色を塗り、脇の下と小丘の茂み、股間の溝、乳房の下の溝、手のひらの窪みなどには丹念に香水をふりかけ、かくして、すっかり身仕度がととのい、化粧がすむと、彼女は別の部屋に通された。P29 Ⅰロワッシーの恋人たち)となっていた。アンヌ・マリー(クリスティアーヌ・ミナッツオリ)がO嬢の尾骶骨辺りに施していた焼印についてはここの、こんなに丸々とした、すべすべしたところに、ステファン卿の頭文字が押されるのよ。腰の割れ目の両側にね。P217 Ⅲアンヌ・マリーと鉄環)とのアンヌ・マリーからの朝の宣告の後、ステファン卿の訪れた午後に行われ、アンヌ・マリーは押入れから皮紐を出してきて、Oの腰と膕にまわし、腹を円柱に押しつけるようにして、きりきりと彼女を円柱に縛りつけた。手と足も同じく縛られた。恐怖に気を失いそうになりながらも、Oはアンヌ・マリーの手が自分の尻にふれ、焼き鏝を押す場所を指示するのを感じ、水を打ったような静けさのなかで、炎の鳴る音や、窓をしめる音を聞いたと思った。首をめぐらせば見ることもできたろうが、彼女にはとてもそれだけの気力はなかった。一瞬、耐えがたい痛みが彼女を刺しつらぬき、彼女は縛められたまま、絶叫してのけぞり、身体を固くこわばらせた。彼女の尻の肉に赤くやけた二つの焼き鏝を同時に押しつけたのは誰であったか、ゆっくり五つまで数えたのは誰の声であったか、焼き鏝を引っこめるよう合図をしたのは誰であったか、――もう彼女にはわかりようもないのだった。P219~P220)と描出されているのだから、双臀に施されているわけだが、ヴィジュアル的には映画化作品のほうがいいように思った。

 だが、O嬢が恋人ルネから譲渡者ステファン卿に心を移すようになる両者の違いの最も重要な点の一つと思しきしかしあのころ【ロワッシーの館にいた頃=ルネの支配下にあった頃】は、彼女はいつも腕輪で両手を一緒に縛られ、無理無体に自由にされる以外は、何も要求されることのない幸福な囚人であった。それが今、彼女は自分の意志で、こんな半裸のままの姿でいるのである。それも、ほんのちょっと動くだけで、身体をかくすこともできるし、立ちあがることだってできるはずなのだ。皮の腕輪や鎖よりも、自分できめた約束のほうが、むしろ彼女をきつく縛っていた。でも、こんなふうに彼女をきつく縛っていたのは、ただ約束だけだったろうか。たとえ屈辱を受けたにしても、いや、むしろ屈辱を受けたからこそ、彼女は、従順に身をかがめ、すすんで自分の身体をひらくという、この屈辱そのものによって初めて感得される甘美な陶酔というものを知ったのではなかったろうか。P117~P118 Ⅱステファン卿)といった部分がきちんと描かれず、表層的な行為のみが画面を彩っていたように思う。O嬢をその承諾の元に調教の館に送り込みながらもロワッシーに連れて行かれる以前、彼女が初めて彼【ルネ】を知ったころの生活と、ロワッシーから帰って以来、今日までの生活との唯一の違いは何かといえば、彼が現在では彼女の腰と口とを、かつて下腹を用いたのと同じくらい(むろん、今でも下腹を用いないわけではないが)よく用いるということであった。P113)というルネと、身体のみならず心理・精神に強く働きかけていたステファン卿との差異が映画化作品では示されていなかった点は、大きな落ち度であるような気がした。
by ヤマ

'23. 7.16. WOWOWプラス録画



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