『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』(Fly Me To The Moon)
監督 グレッグ・バーランティ

 字幕版での上映の最終日に慌てて駆け込んだら、同じく字幕版での上映が終わると知って観に来ていた先輩映友と遭遇した。奇しくも席も同じ列の一つ空けた隣り合わせだった。

 二ヶ月ほど前に観たばかりのNHKの「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」の『ディープフェイク リアルが揺らぐときでも取り上げていたように、フェイク動画の問題がかつてないほどに深刻な状況にあるなか、元祖フェイク動画疑惑とも言うべき都市伝説を抱えた“人類初の月面着陸”を題材にして、マリリン然としたケリー・ジョーンズことウィニーを演じたスカーレット・ヨハンソンと、ケリーと密約を交わすエージェントのモリーを演じたウディ・ハレルソンが印象深い、なかなかのエンタメ作だったように思う。二十年前に観た月のひつじなども思い出した。

 タイトルになっているフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンが印象深い作品は何と言ってもスペース・カウボーイなのだが、モーが軽妙なステップを踏んで見せる場面での少し外したようでいて、なかなか含蓄のある本作での使い方も悪くないなと思った。

 すると映友が何故に字幕版をこんなに早く終わらせる?と寄せてくれた。やはり観客動員に差があるからなのだろう。なにせ人々が字を読まなくなった。また、オリジナル尊重のような文化もなくなってきているものだから、早送りで観たり、吹替えで観ることに違和感がなくなってきている気がする。多分ろくでもない「市場の原理」とか「タイパ」などに毒されているのだろう。

 健全さの損なわれた市場で競争の原理を働かせたら荒廃を生むに決まっているし、本質を損ねる本末転倒のタイムパフォーマンスに囚われたら、却って時間の無駄遣いになるとも思うが、人々は世情に流されやすいとしたものだ。ケリーのフェイクにまんまと乗せられる連中が多かったように、人とはそうしたものだから、世の中にケリー的手管を弄する人間が溢れてきたら、このような状況になってしまうわけだ。

 だが、本作のケリーがまさにそうであったように、ケリーには功罪共にあって罪ばかりではないところが悩ましい。ましてやマリリン然とした彼女だったものだから、恵まれない境遇に育ち、已む無く踏み出した道にて思わぬ才を発揮したという事情にも、まんざら嘘とは思えないところがあった。それでも、ケリーはケリーであることを止めてウィニーに戻ることが人の原点に立ち返ることであり、幸いを得ることだというメッセージを孕んだ作品だったように思う。

 他方でデイヴィス(チャニング・テイタム)は、頑なまでの生真面目さを棄てて、ケリーから学んだ「嘘も方便」をここぞという場面で使って大事を成功に導くわけで、何事も一辺倒ではなく程の好さが大切だということも添えているところがいい。目的のためには手段を選ばない輩が正当化の口実として持ち出す「市場の原理」に対して、その無節操を咎めている感じもあって、気持ちがよかった。せめてモー程度の柔軟さを持てよということだ。

 また、吹替え問題については、両方とも観て吹替版のほうが内容が良く解ったと書いている人がいたと教えてくれる映友もいた。この件に関しては、三十年前に刊行してもらった拙著でも言及(P47~P48)しているのだが、そのなかで『明日に向って撃て!』…をすでに名のある作品として映画館で観て、思ったほど面白くないじゃないかと不満を覚えた後、ほどなくしてテレビで吹き替え版を観て、大層面白く、その会話の妙に感心したとも記しているように、字幕か吹替かというより翻訳の如何だと思っている。もっとも字幕だと字数制限が掛かるので(最近は昔と違ってかなり増やせるようになっているようだが)、吹替えよりも難度が高い。特に丁々発止の台詞劇だと尚更だ。

 だが、英語の方言など日本人には判らない人のほうが多いし、内容も字幕ではカバー出来ない部分も多かったのではないかという意見を映友が寄せてくれた、ケリーが巧みに南部方言を操って有力政治家の妻の歓心を買う場面では、スカーレットがかなり明瞭に口調を変えて巧みな表現をしていたので、そこをありがちな東北弁などにした吹替で見せられるのは、僕的には戴けないと思った。内容が解る解らないは、どういう部分を以て内容と受け取るかにかなりデリケートなところがあって吹替でも翻訳が下手だったり、意訳しすぎていると却って誤解しそうな気もする。

 そのようなデリケートな部分よりも、僕が不思議に思うのは、映画でナチスやローマ人、フランス人が英語を話しているのが気になるというような人が、日本語吹替えだと気にならなくなるという珍現象だ。僕は単純にアメリカ人が日本語で話している映画を観るのは、なんだかワインを茶碗で飲んでいるような座りの悪さというか、意味とか味とかいう以前に、妙に違和感があって仕方がない。これまで基本的に映画はスクリーン観賞で来ていて、大人になってからは吹替版のテレビ視聴など殆どしていないからなのかもしれない。


追記
 またあの生い立ちが本当の話だとすると、さもありなんやけど、やはり人は「性善」に帰るところが救いやね。でもみんなが月面着陸とその中継に懸命になり、全て上手くまとまるシーンはなかなかのものやった。最後に二人がキスし合う月面セットからグーンと引いて、カメラがこっちへこっちへ移動して、最後に発射台からロケットが発射するシーンがあったろ? あれは「フェイクかトゥルーはまだまた続くよ」的な示唆だろうか?とのコメントも寄せてもらった。そこであのロケット発射は、フェイクかトゥルーかというよりは、僕はデイヴィスとウィニーの発射の象徴イメージとして観たなぁ、ロケットやし(笑)。泥棒成金の連発花火みたいなもんよ(あは)。と返した。
by ヤマ

'24. 7.25. TOHOシネマズ8



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