はじめに(一九九六年十月)
高知の自主上映から-「映画と話す」回路を求めて-
(書籍コード:ISBN4-8459-9662-6 C0074)掲載
['96.11.30.発行:映画新聞、発売:フィルムアート社]


 映画との関わり方を表現する言葉は、通常、観るか、撮るか、上映するか、語るかのいずれかではないでしょうか。それらは、いずれも映画を目的語にした言葉ですが、私は、これまでの映画との関わりの中で、単に目的語としてしまうのとは微妙に違う感覚をいだくようになってきました。

 「映画と話す」というのは、あまり使われない言い方かもしれませんが、私は、その中に、観るよりももう少し積極的な関わりとコミュニケイションのニュアンスを感じています。それは、映画を観ながら考えることではありません。観終えたあと、心にとまった事々を思い起こし、自分に語りかけられていたものに、内なる言葉を返すことだと思っています。そのとき、いろいろなことを考えたり、思い出したりすることで、映画のもたらしてくれたものは、何倍もの豊かさに膨らむような気がします。また、自主上映というものも私にとっては、映画とそのようにコミュニケイトするうえでの回路と言いますか、観ることの延長にある映画との積極的な関わり方のチャンネルのひとつだというふうに思っています。各章は、そういった観点から設けたものですが、あまり知られてはいない高知という一地方都市での自主上映活動の状況を中心に、もっと一般的な映画の楽しみや映画状況の今後への期待と展望、あるいは映画が私に与えてくれたものや日頃つれづれに思っている事々などについて述べてみました。

 私は、専門的な映画研究を重ねているわけでもなく、興行的立場から映画産業の盛衰を見続けてきているわけでもありません。年に五、六回程度の自主上映をしている高知映画鑑賞会の運営に、十年ほど関わってきただけにすぎません。けれども、それゆえに愛好者としての立場から、ある意味では無責任に率直な発言ができるとも言えます。

 本書の第一部は、一九九四年八月二十八日から十月二十七日までの二カ月間、高知新聞学芸欄に連載した原稿をもとに、映画百年を過ぎた時点からの視点で、書き足し・書き直しを加えたものです。併せて第二部として、この十年くらいの間に書き綴ってきた自分の映画日誌から、本書の中で作品名を登場させた映画について書いてあったものを抜粋しました。

 映画が第二世紀を迎えた中で、今後どのように展開していくのか、その消滅も含めてさまざまなことが言われています。私は、映画そのものは、むしろ積極的に面白い展開を見せていくのではないかと思っているのですが、自主上映活動といったものには、きわめて悲観的な予想しか持てないのが現状だとも思っています。

 そのような中で、映画百年の節目の時期に高知の自主上映について振り返る機会が与えられたことは、とても幸運でした。高知新聞連載時には、学芸部副部長の片岡雅文記者に多大なるお世話になりましたし、本書にまとめるに際しては、映画新聞の景山理編集長や江利川憲さんから大変貴重なアドバイスをいただきました。また、本書の発売はフィルムアート社にお願いし、奈良義巳社長に快くお引き受けいただくことができました。そして、本書に登場している自主上映の仲間たちには、資料提供などでさまざまな協力をしていただきました。この場を借りて、お礼と感謝の意を表したいと思います。




参照テクスト:金城一紀 著 『映画篇』(集英社)読書感想
by ヤマ

'96.11.30. 『高知の自主上映から-「映画と話す」回路を求めて-』



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